![]() この世に生を受けた無数の命のほとんどが、名を残すこともなく、塵埃のように何処へともな
く霧消してしまった。 そんな空しい人の命だが、歴史には大した偉業を成し遂げたわけでもないのに、かろうじて
名をとどめ得た者たちもいる。 ごくごく少数の、いわゆる英雄偉人の類いでもなく、凡庸な、あるいは無名な人間が、ともかく
その名を歴史の上に刻印し、何であれ、自分の存在だけは後世に伝えたという、ラッキーな、 あるいはアンラッキーな、小者たちを、ここで再び掲載し、その命の存在を再確認してあげよ う。 ![]() 人は死して名を残す、といわれるが、文字どおり、死んだことによって名を残したという例。ル
イ14世のフランス軍は、一挙にライン河を渡ってドイツ諸国に侵略作戦を展開したが、そのライ ン河の渡河作戦は中でも最も見事で、さしたる抵抗も受けず大軍が堂々と渡河を敢行する。 敵は銃を捨てて続々と降伏する有り様だ。 敵の銃撃にさらされることもなく、未曾有の華々しい渡河作戦。しかしその最中に、なんと、流
れにのまれて、溺死してしまった哀れな貴族がいた。ノジャン伯爵アルマン・ボートリュである。 ![]() しかしおかげで、少し詳しい戦記には、彼の名前は必ず登場することになった。
![]() ![]() .........1789年10月、ヴェルサイユ行進........................................1792年の8月10日事件・チュイルリー宮殿 時代は少し後になって、フランス革命の頃。暴徒がヴェルサイユ宮殿になだれこんだ際(ヴェ
ルサイユ行進)、話し合いで収拾しようとした国王は、近衛兵に発砲を禁じた。 ところが、17歳のジェローム・オノレ・レリティエという少年が、中庭の階段で足を滑らせて、打
ちどころが悪く死んでしまった。 不運ではあるが、名もない庶民の一少年がこうして名を記録されたというのも、彼が倒れた
のを見て、民衆は近衛兵の発砲によるものと思い込み、どっと近衛隊に襲いかかり、デモが襲 撃に変じた一因となったからだ。 ![]() ![]() 近衛兵は、発砲を避けて、素早く撤退したが、ここでもまた、不運にも、二人の近衛兵が逃げ
遅れ捕らわれた。デ・ユットとド・ヴァリクールの両名だ。この二人は虐殺され、首を切られてし まう。(余談1) 宮殿内に侵入した暴徒を王后の寝室の扉口で食い止めようとして、銃床で殴られ半殺しにさ
れた近衛兵のミオマンドル・ド・サント・マリーも、やはり不運だった。 また、このデモの前日、民衆の放った銃弾を腕に受けて、それが原因で死んでしまった近衛
竜騎兵中佐サボニエール侯爵も、ついてなかった。 しかしフランス革命では、これから先、多くの近衛兵の血が流されることになるのだが、少し
早く死んだとはいえ、まだ、暴動が激化していなかった頃の数少ない犠牲者となったおかげ で、彼らの名は、記録され、歴史に刻印されたわけだ。 ![]() ![]() ...近衛スイス連隊指揮官バッハマン中佐.......................................奮戦し倒れる近衛スイス連隊軍曹
1792年の「8月10日事件」での近衛スイス連隊の当日の指揮官バッハマン中佐もそうだ。
8月10日当日は上官のダフリー中将が病欠で、彼が指揮官代行をしていた。本来、守備隊の
副官など名の残らぬものだが、お蔭で、王宮守備隊の大殺戮という歴史的大事件に巻き込ま れ名を残した。(彼は翌月に処刑された)(余談2) ちなみに、「奮戦し倒れる近衛スイス連隊軍曹」は、Gaspard Xavier Stalder軍曹(ドイツ読み
でカスパル・クサヴァー・シュタルダー軍曹)。7人の敵を射殺し、弾薬が尽きるとサーベルで斬 り合い、右手が負傷すると左手で更に闘い、最期は20人もの敵の屍の上に倒れて果てた、と いう。攻撃側の証言にあり、「敵ながら天晴れ」と讃えられ、名が残った人物だ。 ![]() フランス革命では、おびただしい貴族の首がギロチンで切り落とされた。即席裁判は、いとも
簡単に罪状を述べ、右から左に貴族や反革命容疑者をギロチン送りにしていた。処刑者の名 簿は残っているが、まずは読み切れたものではない。容疑をかけられれば、もはやギロチンか ら逃れることは至難。裁判らしい裁判もなく、気付いてみればギロチン台の上だ。 しかし、そんな中でも、懐妊している女性の執行猶予は認められていた。子供を出産した後
に改めて処刑されるのである。ブラモン夫人も、ギロチンが確定した後、妊娠の事実が分か り、出産までの延期が承認された。しかし、幸運にも、その十月十日の間に、革命政府が転 覆、おぞましい恐怖政治が終わったのだ。無論、ギロチンもなくなる。ブラモン夫人の死刑も取 り消し、彼女は晴れて釈放された。腹の中の子供に命を救われたのだ。 そして、この一命をからくもとりとめた夫人は、何と、百歳近くまで長生きし、1864年まで生き
たのである。ギロチンの恐怖を知っている人間の最後の生き残りとなったわけだ。(余談3) ![]() また、革命裁判所の審議の無茶苦茶さを象徴する事例として引き合いに出される処刑者とし
て名を残した夫人二人。 二人共「国家に対する謀反」などという容疑のもとに処刑されたのであるが、一人のベリュー
ル子爵夫人は九十二歳、もう一人のモナルディー侯爵夫人は九十歳の老婆である。罪もない 老人であっても貴族であれば片っ端から死刑にしたということだが、この哀れな犠牲者は、同 じギロチン刑で死んだ多くの者たちの中でも、長生きしていたおかげで、名を残したのだ。 これは有名人と深く接触を持っていれば、その回想録や伝記や書簡の中に名を書かれるこ
とによって後世に名を伝えられるということであるが、名を残すからといって、必ずしも名誉とは 結びつくとは限らない。不名誉を永遠に後世に伝えてしまう場合もあるのだ。 ![]() ![]() ![]() ....................Mozart.......................Graf Franz Walsegg...................モーツァルトのレクイエム最後のページ
例えばフランツ・フォン・ワルゼック伯爵、彼はあまりにも有名なモーツァルトのレクイエムに
かかわって名を残した。 たまたま体調を崩して死の恐怖に脅えていたモーツァルトのもとに、使者を派遣し、依頼主を
不問としたままレクイエム(死者への鎮魂ミサ)の作曲依頼をしたのである。 当のモーツァルトはてっきりあの世からの使いが、そろそろ自分自身の死に備えてのレクイ
エムを書けと使いをよこしたと思い込み、すっかり死の観念にとりつかれてしまい、ラクリモー サの部分での絶筆となって彼は本当に死んでしまったのだ。 しかし真相は、この伯爵が、自分の死んだ妻アンナの追悼のために、プロの音楽家に金を
積んで作曲させたミサ曲を自分の作としてお披露目しようとしただけの話。ただの見栄っ張り の道楽者がモーツァルトの謎にかかわっていたとして有名になった。 ![]() また、モーツァルトといえば、若い頃、鼻っ柱が強く、彼を召し使い扱いしようとした大司教と
喧嘩し、仲裁に入った貴族も業を煮やして彼の尻を蹴飛ばして追い出した。モーツァルトは一 生この屈辱を忘れられなく、手紙にも散々書き立てた。おかげで、彼の尻を蹴飛ばしたアルコ 伯爵の名はあまりに有名になった。 ![]() また啓蒙思想家で名高いジャン・ジャック・ルソーは、人生の進路が定まるまで、色々な仕事
をしていたが、一時、外交官の下で海外勤務をしていたことがあった。名著「告白」の中で彼は 当時のことを詳しく語っているが、家柄だけで外交官の職を手にしていたモンテーギュ伯爵の 怠惰な仕事ぶりを激しく非難している。自分のフォローがなければフランスは危機に直面して いた筈だと豪語しているのだが、おかげで無能な外交官としてモンテーギュ伯爵は、「告白」の 中に永遠に名をとどめることになった。 ![]() ![]() 時代は幾分さかのぼるが、コンスタン・ドービニェという一人の無法者がいた。死刑判決まで
受けて諸国を逃げ回っていた貴族だが、歴史に名を残すほどの罪人ではなく、ただの始末に 悪い男だった。 ところが、この御仁の父親は、アンリ4世時代の軍人で詩人で有名な「自伝」の作者アグリッ
パ・ドービニェ、そして娘は、ルイ14世の公式愛妾として宮廷に君臨するマントノン夫人となる。 そこで、父と娘の伝記の中で、前者からは手に負えぬ不良息子、後者からは不名誉な父親 としてその悪評を轟かせ名を残すはめになった。 ![]() ![]() 書きて、書かれて有名になった者たちの例。本人たちはよもや後世これまでに有名になると は夢にも思っていなかった人々。 まず、文庫本で古典名作として書店にも並んでいるラ・ファイエット夫人作「クレーヴの奥方」
のクレーヴ。 ![]() 17世紀に16世紀のフランス宮廷を舞台に書かれた小説だが、作者が自由に操れる人物とし
て選んだのが、当時の宮廷貴族のクレーヴ公爵。 なぜかと言えば、この公爵は若死にし、何ら社交界に足跡もとどめていなかったからだ。そこ
で差し障りがないとして主人公の旦那にし、題名にも「クレーヴ」が使われた。 今では、この世を影のごとく通り過ぎていったクレーヴ公爵の名は、あまりに有名な古典作品
と共に世界的に名高い。(余談4) ![]() また、あの「三銃士」の主人公ダルタニャン。彼は実在しており、確かに近衛銃士隊々長まで
昇格した軍人だが、歴史に名の残るほどの人物ではなかった。 しかし、ある人物が「ダルタニャン氏回想録」という真偽不明の本を出版した。その本もベスト
セラーになるほどの本ではなく、田舎の図書館の奥に放り込まれたままだった。しかし長い年 月の末にたまたまデュマが、その本を手にして興味を覚え、それが「三銃士」のヒントとなった のだ。 ダルタニャン氏は、こうして世界的な有名人になったわけだ。
![]() ![]() Samuel Pepys.........................................................彼の日記
また、自分の書いていた日記が、たまたま後世に評判となり、名をとどめたケースもある。ま
ずサミュエル・ピープス、この人は、ジェームズ二世時代の海軍大臣だった人物だったが、まだ 小役人だった頃に、女房知人には話せない事柄、つまりエッチなことや不倫の話、上司同僚の 悪口等などを暗号で日記に書いていた。それが死後百年経って、暇な学生に解読されてしま い、ある貴族が出版。「世界の奇書」の一つとして有名になった。 お蔭で彼のプライベートの記録は、今では世界中の言葉に訳され、書店に並んでいるわけ
だ。海軍大国イギリスの名誉ある海軍大臣として名を残した筈のピープスは、大臣としてよりは るかに有名な男となった。 どんなに威厳をもった表情で肖像画を残しても、世界中の人たちがニヤニヤしてしまう・・・
![]() ![]() また、フランス革命期のパリに生きていたセレスタン・ギタール老人は、小まめに日記を綴
り、新聞からの抜粋や騒ぎの見聞録などを日々つけていた。それが今では貴重な歴史史料と なり、あらゆる研究書に引用されている。 同時に、史料としての価値のない部分、つまり若い女との不倫のことなども衆目の前にさらさ
れてしまったわけだが、ともかくこの何の地位もない一老人は、マリー・アントワネットなみに有 名になっているのだ。 ![]() ![]() サド侯爵、この人は南仏の名門貴族の生まれだったが、性的倒錯者としての奔放な私生活
が過ぎて投獄された。なんと後述のバスティーユ牢獄が民衆によって襲撃される10日前まで、 この有名な牢獄に監禁されていた。(余談5) ご乱行が過ぎた貴族が当局から身柄を拘束される、なんて話は別に珍しくもない。ただこの
侯爵、革命時代をからくも生き長らえ精神病院で老衰するまで、方々の牢獄、病院の中でリベ ラルな加虐的エロ小説の数々を匿名で発表しており、それが有名になり過ぎた。その性的傾 向からサディズムの語源となり、「あいつはSだ」なんて言うときの「S」は、このMarquis de Sade (サド侯爵)の「S」を指す。 「どM」などよく使われるが、被虐的性欲(マゾヒズム)の語源となった作家ザッヒェル・マゾッホ
Sacher Masochの向こうを張りつつ現代に生きる言葉である。 たまたま居合わせて歴史に名の残った例。 ![]() たとえばジュミアック伯爵とかダバディ氏とかベール氏とか知っている人がいるだろうか? し
かしローネー侯爵、あるいはローネー長官と言えば聞き知っている人もあろう。(余談6) フランス革命記念日をパリ祭というのは日本人だけで、フランスでは革命の火蓋が切られた
日が7月14日なので、そのままル・カトルズ・ジュイエという。またイギリスでは「Bastille day」(バ スティーユ・デイ)だ。なぜかと言えば、7月14日にバスティーユ牢が民衆に襲撃され落とされた からである。「バスティーユ」の名は大革命を象徴する言葉になっている。 で、このローネー長官はバスティーユ牢が襲撃されて、首をはねられた牢獄の長官である。
バスティーユの長官なんて軍の閑職だ。先述の人たちも歴代のバスティーユ長官なのであるが 誰も知らない。ローネー侯爵はたまたまこの不運な時期に長官をやっていたので名を残した。 ![]() ![]() また、この牢獄が民衆の手で解放された際に、投獄されていた少数の罪人の姓名は何かと
引き合いに出されるが、ソラージュ伯爵という人物が目を引く。何のことはない放蕩者で家族 の依頼で身柄を拘束されていただけの男だ。 しかし、色々な本に名があがっていることは確かだ。「語るに足りない男」として。(余談7)
また、パリの廃兵院(アンヴァリッドというと分かりやすいが)の長官のソンブルイユ侯爵も同
様だろう。ここは当時、傷病兵を収容する軍病院施設だったが、バスティーユ牢獄が襲撃され る前に、実は民衆に襲われていた。大砲が置いてあったので、武器庫だと勘違いされたのだ。 ![]() ![]() Les Invalides(18世紀) Charles Francois de Virot,marquis de Sombreuil
長官のソンブルイユ侯爵は無条件に施設を明け渡したので、ここでは戦闘は発生しなかっ
た。だから、抵抗して戦闘になったバスティーユのようには特筆されない事件になっている。 しかし、その後、長官のソンブルイユ侯爵は別件で捕らわれて、処刑が確定した。その時、
侯爵の令嬢が、父親が革命の支持者であることを主張して抗議。 革命党員らが、処刑された王党派たちの鮮血を飲めば信じようとソンブルイユ嬢に告げる
と、彼女は躊躇なく血の入ったコップを飲み干す。 ![]() 侯爵令嬢のこの姿にはさすがの革命党員らも感服し、見事、父親は処刑を免れた。
この美談はたちまちに広まり、革命派すら賛美、「L'heroine au verre de sang」(血のグラスの
ヒロイン)として詩や散文で末永く讃えられ、大輪のロゼット咲きのクライミング種の白バラに「ソ ンブルイユ」の名が正式に付けられているほど有名に。そのバラの名から社名をつけたレスト ランも日本にはある。 陸軍施設の名もない責任者の「ソンブルイユ」がこれほどまでに有名になるとは・・・・
![]() 文字通りの一発屋で名を残す
![]() ![]() 一発屋的な名の残し方。まず、アンリ二世の近衛スコットランド衛兵隊長モンゴメリー伯爵の
槍の一突き。1559年、王室主催の馬上槍試合で、国王アンリ二世の相手を仰せつかり、槍を 交えたところ先端が折れて、王の顔面を突き刺してしまう。 王は十一日後に死去。この王の死を機に、フランスは内乱の時代に入っていく。事故とは言
え、深刻な結果を招いた人物として名を残す。 伯爵はフランス王室の近衛部隊の一介の隊長として歴史に埋もれるはずが、こうして名を残
してしまう。彼は宮廷の不遇を買い、イギリスに亡命し、フランスの敵将となり、15年後に捕虜と して処刑され果てるという数奇な運命を背負った。 但し、360年後、彼の子孫がイギリス陸軍司令官として第二次大戦で活躍し、フランスをドイツ
から解放するバーナード・モンゴメリー元帥なのであるから、不思議な巡り合わせだ。・・・ ![]() ![]() 次は、サン・ペルヌ侯爵の口笛一吹き。1787年2月17日、オペラ座でマリー・アントワネット王
妃に口笛を鳴らし、不敬罪として捕らわれたこの侯爵は、以後半世紀に渡り世間から隔離され た生活を余儀なくする。革命で一族が亡命してしまうと、彼は施設の中に取り残され、革命、ナ ポレオン、王政復古と時代の激動を知らぬまま歳月を送り、そして釈放された。 彼の時代錯誤的な名誉回復裁判は評判を呼んだ。その写本がサンクトペテルブルクの旧帝
国図書館に保存されていたフランス裁判所の秘密通信にある話だが、当時20歳だったこの若 者の軽率な口笛は、王妃にひどいショックを与えたらしい。 2年後の1789年に大革命が勃発すれば、民衆は公然と王妃を野次るのであるが、1787年で
は早過ぎた。しかも民衆ではなく「le marquis de Saint-Perne 」、つまり貴族が、最初の「野次」 を飛ばしたわけだ。 ![]() ![]() .......マリー・アントワネット王妃.................................................................................オペラ座
1837年、すでに70歳になっていたサン・ぺルヌ侯爵にセーヌ民事裁判所リガル議長は言う。
「さて、侯爵、あの不幸な王妃に対する口笛は、若者特有のいたずらだったのですか? あるい は飲んだ勢いの冗談だったのですか?」 そして「若さゆえの軽率な行為」として50年前の王妃不敬罪から、老侯爵を名誉回復させる
のであった・・・。 ![]() ![]() フランス革命で恐怖政治の名のもとに独裁的になっていたロベスピエールを、いよいよクー
デターで倒そうと発起した一派が、彼のもとになだれ込んだ。 憲兵隊長のメルダはこの誰もが恐れた独裁者に向けて銃をぶっぱなす。銃弾はロベスピエ
ールの顎を砕いた。 ![]() ![]() 署名半ばで筆が絶え、血痕が散らばっているロベスピエール最後の命令書は有名だが、そ
れはメルダ隊長が引き金を引いたときにサインしていた書類である。「Ro」と書いた途中で血 痕がついている。 多くの者を反革命罪としてギロチンに送ったフランス史上最も恐れられた独裁者を撃ち倒し
た男としてシャルル・アンドレ・メルダは有名になった。 次は、「一発」ができなくて有名になった哀れな男。
ランジェ侯爵ルネ・ド・コルドゥアン(Rene de Cordouan , Marquis de Langey)という貴族は、マ
リー・ド・サン・シモン・ド・クールトメール嬢と結婚していたが、奥方から離婚訴訟を起こされた。 理由は夫の性的不能。そこで評定会が裁判官の前で開かれることになり、皆の前でこの侯爵 は男である証しを示そうしたのだが、不発のまま。そして1659年、離婚は承認されてしまった。 ![]() 以後、「ランジェ様」とは、不能男をさす言葉となった。ちなみにこの侯爵、再婚相手(ディアー
ヌ・ド・モントー・ナヴァイユ)との間に六人の子を作った。しかし遅かれし、有名になり過ぎた。 ファミリーツリーを見ると、ご本人は1712年死去するときは84歳、再婚相手は1717年に90歳で
亡くなっている。当時としては珍しいご長寿夫婦で、子だくさんで、幸せな人生。 ・・・でも、「ランジェ様」の汚名は長い人生につきまとったことだろう。
![]() ![]() ![]() 4thEarl of Sandwich prince de Soubise Etienne de Silhouette あと、ひょんなことで名の残った人々もいる。悪天候に着るポケットと小さな襟つき外套ロシュ
ロールの考案者だったロシュロール公爵、寝食忘れるほどの賭博好きでゲームをしながらパ ンにハムをはさんで食らっていたことからその食べ方が有名になったサンドイッチ伯爵、バター でいためた玉ネギとクリームを加えたソース、つまりスービーズ・ソースの発明者スービーズ大 公、残虐な刑罰ばかり課したおかげで、私的制裁(リンチ)の語源となってしまったヴァージニア 州治安判事ウィリアム・リンチ、影絵の発明者、もしくは財政節減のために地味な服ばかり着 込んでいたのであだ名にされた財務総監のシルエット氏、などなど。 世に名を残す方法は色々ある。何も英雄偉人ばかりが歴史のヒーローではない。ちょっとで
も自分の生きた痕跡を後世に伝えることさえできればしめたものだ。時の流れの溝に、自分の 名前をかすかでも刻みこむことができれば、いつかきっと後の世の誰かが振り返ってくれるこ とだろう。 (余談1)
この大革命初期の頃の民衆による犠牲者については、その後の多くの犠牲者とは違い、しっ
かりと身元が研究されて該当する個人が割り出されている。 ![]() ![]() ..........1786年のgardes du corps......................................Chateau des Huttes
デ・ユット、もしくはデシュットは ジャン・フランソワ・パージュ・デ・ユットJean-Francois Pages
des Huttes(1753-89)である。地方貴族出身だが、兄弟4人が近衛隊(gardes du corps、親衛騎 兵とも訳される、本来は騎兵だが、歩兵として勤務することも多い)にいる。スイス衛兵隊と共に 宮殿建物内の警護に当たる部隊だ。兄弟間でそれぞれ領地を振り分けられているので、この 人はド・ネイレスタンde Neyrestangと呼ばれていたようだ。他の兄弟は同じ近衛でも革命の犠 牲にはならず、長兄のジェロームは71歳、次兄フランソワ・フィリップは84歳、弟ジャック・フィリ ップは73歳と長寿を全うしているが、この人は1789年10月5日のヴェルサイユ行進と呼ばれる 事件で36歳の時に虐殺されて果てる。結婚の記録はない。 ![]() ![]() 同じ王宮の鉄柵のところで暴徒に囲まれて虐殺されたもう一人の近衛隊員ド・ヴァリクール
は、フランソワ・ルーフ・ド・ヴァリクールFrancois Rouph de Varicourt(1760-89)である。1779年 近衛隊員(gardes du corps)となる。祖父ダニエル・セザールもケルシー連隊士官で、父エティエ ンヌは、同じgardes du corpsの軍曹をしていた。(gardes du corpsは国王の身辺警護隊なので 隊員=陸軍少尉相当)三男だが、長兄、次兄共に聖職者となっており、ヴァリクール家代々の 軍職を継いでいるのは、この三男のフランソワから下の弟たちで、弟のクロード・ガブリエルも マリー・ルイも近衛隊(gardes du corps)となっている。普通の貴族家系では逆だが。 ともかく「貴族だが、子沢山の貧しい家柄」とある。
![]() ![]() Reine-Philiberte Rouph de Varicourt......................Voltaire(Francois-Marie Arouet)
彼フランソワにはレーネ・フィリベルト Reine Philiberte という3つ上の姉がいるが、この人は
あの高名な啓蒙主義哲学者ヴォルテールに"Belle et Bonne"と讃えられ、修道院に入るところ を救われ、彼の養子となり、ヴィレット侯爵Marquis de Villette,Charles Michel と1777年に結婚 しているちょっとした有名人だ。 また、フランソワ隊士が最期に仲間に呼びかけた≪ Sauvez la Reine ! ≫(王妃を救え!)の言
葉は有名となり、姉レーネ・フィリベルトの子が継承したピカルディ―の領地ポン・サント・マクサ ンスの建物(現在、「アラミスのオランジュリー」というレストランになっている建物)にしっかりと 刻まれて残されている。 まさしく「歴史に名を刻んだ」のである。
![]() ![]() 尚、ミオマンドル・ド・サント・マリーは、Francois Annet de Miomandre de Sainte-Marie、サボ
ニエール侯爵はMarquis de Savonnieres,Timoleon Magdelon Francois. (余談2)
では肝心な日に病欠だった上官のダフリー中将(Louis-Auguste-Augustin d'Affry)は、その
後、どうなったのか? この人は1713年生まれで1793年6月10日死去である。 93年6月死去なんて書いてあると「あ、結局はギロチンかぁ」と誰もが思うだろう。93年と言え
ば、1月に国王ルイ16世がギロチン、革命議会では比較的穏健だったジロンド派が追放、あの 急進的なジャコバン派の独裁が始まったのが6月だ。王妃マリー・アントワネットも10月にはギ ロチンである。王室近衛スイス連隊の司令官であるこの人が、そんな93年6月死去となれば誰 もがギロチン台を思い浮かべるのも無理はない。 ![]() しかし、なんとこの人はスイスの故郷、サン・バルテルミーの自分の領地で、普通に亡くなって
いる。79歳だ。 ダフリー中将は同じく近衛スイス連隊中将だった父親フランソワ・ダフリー(Francois Pierre
Joseph d'Affry)の子で、士官候補生として自らもスイス近衛連隊に入隊したのは1725年であ る。戦歴はかなり長い。92年8月10日の襲撃事件の時はすでに79歳の高齢だ。病欠も無理も ない。襲撃事件の後、やはりコンシェルジュリー牢獄に投獄されたが、この人は10月には無罪 となり、その後、母国スイスに帰国し、80歳の誕生日の2ヶ月前に天寿を全うした。 (余談3)
このブラモン夫人とは、サン・ジュニアン男爵エティエンヌ・アンヌ・ド・シャンボラン・ド・ヴィルヴ
ェールBaron de Saint-Junien,Etienne Anne de Chamborant de Villevert(1746-81)の娘である
ルイーズ・シルヴィーヌ Louise Sylvine(1773-1864)のこと。12世紀ポワトゥーの騎士の一族に始
まるシャンボラン家のヴィルヴェール分家の出身である。
![]() 近衛リュクサンブール中隊隊員ジャック・フィリベール・バルビエ・ド・ブラモンJacques Philibert
Barbier de Blamontと結婚し、数週間で夫婦共に革命政府に逮捕される。夫も元近衛兵だし、彼
女の兄弟は亡命軍に加わっていたから、かなり不利な状況だ。
特に彼女の立場は、国外に亡命した貴族らが組織した反革命軍に兄弟が加わっているわけだ
から、資金援助や通謀の罪で起訴、極刑(ギロチン刑)は確実。従って彼女はパリの刑務所にすぐ
に移送された。そして94年3月18日に死刑執行を言い渡される。
しかし、ここで、彼女は懐妊の申告をする。保健官による検査の結果、それは確認された。
同じく収監されていた母親の末妹で修道女のMarcelle Aimee de James de Longuevilleは、
予定通りギロチン刑となり、3月18日革命広場で39歳の生涯を終えている。
妊婦はこの場合、出産の後に、改めて処刑されることになる。
目の前のギロチンを出産により「延期」された彼女に、94年7月27日のテルミドールのクーデタと
いう幸運が訪れる。つまりロベスピエールの革命政府が倒され、「恐怖政治」が終わったのだ。
8月24日に出産。出産後、彼女は釈放された。もし出産が1ヶ月前の7月24日だったら、
サン・テニャン公やヴェルジェンヌ侯、モンバゾン大公等々の貴族たち同様にギロチンに処され
たことは火を見るよりも明らかだった。
こうして辛くもギロチンを逃れた彼女は故郷で、やはり地元の刑務所から解放されていた夫と
再会。夫は郷里ベラック (Bellac)の市長となり、当地で彼女は平和で穏やかな生活をようやく手
に入れることが叶った。しかし彼女の記録はそこで途絶える。分かっていることは、彼女が91歳
でべラックで没したということだけである。
(余談4)
この人はJean-Jacques de Cleves。父親が1562年に死去し、公位は長男フランソワが継ぐ
が翌年の63年に長男は戦死。弟のこの人が公位を継承したが、翌1564年にこの人も死去。つ いに男系断絶。公位はこの人の姉のアンリエットが継ぐことに。ちなみに10月生まれのこの人 は9月に死去したので、厳密には19歳だった・・・。確かに影のごとく通り過ぎていった若公爵で ある。 ![]() ![]() (余談5)
確かに南仏古くからの名門で父はロシア大使、イギリス大使、地方中将だったサド伯爵で、
ブルボン・コンデ大公妃の女官だった名門のマイエ家の令嬢と結婚している。 ![]() ![]() 父comte de Sade,Jean-Baptiste-Francois-Joseph 母Marie Eleonore de Maille de Carman
しかし、このマルキ・ド・サドで知られる息子は、数々の虐待、性的倒錯の放蕩の限りを尽く
し、反宗教的で肉体欲求を第一義的に求めていく行動に身を捧げ、また著書として作品化した りした。度が過ぎて死刑判決まで下った人物。またこともあろうに治安判事の娘と結婚していた ので、一族の「厄介者」として、名門ではあるが、刑務所・精神病院に度々監禁される。 ![]() ![]() Francesco Petrarca(1304-74)...............................................Laure de Novis(1307-48)
このように、「サド」の家名を汚すだけ汚したわけだが、実は、サド家は、その昔、あの詩人ペ
トラルカが恋焦がれて美しい詩歌を捧げた美女ロール・ド・ノヴィスを先祖にもつ一族で(彼女は Hugues II de Sadeに嫁いでいる)、それを四世紀にわたり誉れとしていたのだ。この恋愛詩の 美しくも高尚なる世界と、サディストの倒錯の性の欲望の世界が、ひとつの一族に象徴されて いる。「文学史は、あたかも残酷な洒落ででもあるかのように、同一の家系において、ほとんど 神の如き愛の顕示と、好色的放蕩と性的錯乱とを結合して、そこに極めて鮮やかな対照を創 り出しているのだ」(E・デューレン) ![]() ![]() Donatien Alphonse Francois de Sade 映画の中のサド侯爵(2000年米映画「クイルズ」)
![]() ![]() Renee-Pelagie de Montreuil Anne-Prospere de Montreuil
何故か夫の放蕩を従順に見守ったサド侯夫人。 この美しい義妹に手を出したことでサドは
三島由紀夫の戯曲「サド侯爵夫人」などある。 義母の怒りを買い、長年投獄されるはめに。
また、義母による逮捕状で収監されていたサド侯爵は1784年バスティーユ監獄に移送され
た。89年7月の大革命勃発も近い頃、水差し用の器具をメガホンにして、往来の民衆に向かっ て「ここの囚人らはローネー長官に殺される。速やかに助け出してくれ」と大声で呼びかけたり し、長官を怒らせた。そこで彼はシャラントン牢に移される。7月4日のことだ。あと10日間、サド がそのままバスティーユ牢にいて、7月14日の大革命勃発のバスティーユ襲撃事件の当日まで 収容されていたら、きっと彼は「大革命を呼び起こした英雄の一人」になっていただろう。もちろ ん、彼は自分個人の自由のことしか関心のない男である・・・ 結局、14日にバスティーユ牢が民衆に襲われ、彼が独房にまだ残していた蔵書600冊や大量
の作品原稿の4分の3がすべて焼き払われて、「ふざけんな !」と怒っただけの革命記念日にな った。 ![]() (余談6)
![]() Bernard Rene Jourdan、Marquis de Launay(1740-89)。父親ルネ・ジュールダン・ド・ローネ
ーRene Jourdan de Launayもバスティーユ牢の長官だったが、その子としてバスティーユで生 まれている。謎の囚人「鉄仮面」担当として同牢の長官になったサンマール(「鉄仮面の顔に期 待するもの」余談参照)から数えて6代目の後任者となる。近衛銃士隊、フランス衛兵隊から 1776年バスティーユ長官に就任。 前任長官のジュミアック伯爵アントワーヌ・ジョゼフcomte Antoine-Joseph de Jumilhacの息
子と自分の娘アドリエンヌ・ルネ・ユルシュルを結婚させている。 長官はこの娘アドリエンヌの母親である初婚の妻ユルシュル・フィリップを21歳で亡くしてい
る。(1764) (父親はロレーヌ公の国庫首席会計官、母親はダルジャンソン法務大臣の第一秘 書の娘)4年後にカトリーヌ・テレーズ・ル・ブールシエと再婚。ここでまた娘ばかり2人を得てい る。カトリーヌ・ジュヌヴィエーヴとシャルロット・ガブリエル・ユルシュルである。長女のカトリーヌ はフランシュ・コンテ高等法院次席検事の息子ダゲイ伯爵Comte d'Agay,Philippe Charles Bruno d'Agay de Mutigneyに嫁いだ。 ![]() ![]() Simon-Nicholas Henri Linguet Alessandro di Cagliostro
1780〜82年、バスティーユに投獄されていた弁護士で著作家のランゲは、ローネー長官が襲
職権を買い取ったり、相続人である娘を政略結婚させたりする貪欲な人柄を痛烈に批判して いる。(「バスティーユ回想」中) また、1785年の「王妃の首飾り事件」に連座したとしてバスティーユに投獄された有名なカリ
オストロ伯爵にも、「ローネー長官に財産を没収された」と噂を流布され、宮廷の悪評を買って いる。(長官夫人はその火消しに東奔西走している始末。長官夫人は謎の人物カリオストロの 正体を教えるので協力して欲しいと、王弟女官のコエトロゴン侯爵夫人に反論文書の配布を依 頼したりしている) ともあれ着任2年後の1778年12月19日、国王ルイ16世の娘マリー・テレーズ・シャルロット姫誕
生に際しての祝砲を撃ち損じたという事件以外には、ローネー長官のバスティーユの日々は大 方は平穏なものではあった。 ![]() .............................................................ローネー長官が生まれた頃の平和なバスティーユ(La Bastille en 1740)
![]() ![]() ........................................攻撃されるバスティーユ(1789).................................................................Louis de Flue
そして1789年がくる。襲撃の一週間前、バスティーユ守備の応援に派遣されたサリス・サマド
連隊のドフリュー(ド・フリュー)中尉はローネー長官の不決断と経験不足と精神的不安定と小 心について批判的であり、またここでも不評を買っている。 長官は先に襲われた廃兵院の司令官ソンブルイユ侯のように、守備兵や近くの駐屯部隊の
戦闘意欲のなさから、早々に武器庫の解放を決断してしまうでもなく、中途半端にバスティーユ の防御態勢を強化、取り巻く民衆の不安感をいたずらに増長させるだけだった。 仕舞には群衆が、守備兵の「下がれ!」の声掛けを「入れ!」と勘違いしてバスティーユの中に
進入したところ、守備兵が発砲、「騙しやがった!」という怒りが群衆を一気に駆り立てて、もは やバスティーユは「攻囲戦」となってしまう。 本来は国王の警護、首都の治安にあたる軍事力であるフランス衛兵隊が、一部、貴族出身
の将校の命令下より離反し群衆側に寝返っていたが、その兵士らがバスティーユ攻撃に向か うや、勢いづいた群衆が廃兵院から奪った大砲や臼砲を牽いて後に続く。(ベルばらのオスカ ルはこの時に撃たれて死ぬ設定だ) フランス衛兵隊は正規軍だから、それが味方となれば群 衆らも奮い立つ。否応もなく攻撃は本格化した。 ![]() ![]() 連行されるローネー長官.....................................................フレッセル市長とローネー長官の首
そもそも戦意などない守備隊は早々にバスティーユを明け渡す。それでも100名近くの「戦死
者」が民衆側には出ていた。開城後に捕らわれたローネー長官は、議会の派遣した代表に市 役所へと連行される途中、怒りに猛る民衆によって襲われて殺害される。49歳。やはり裏切り 者と目され撃ち殺されたパリ市長フレッセルと2人の首は槍の上に高く掲げられ見世物にされ た。フランス革命で何度も晒される生首第一号だ。 ![]() ともかくあまりいいことを言われないローネー長官であるが、遺された3人の娘たちからはど
のような父親であったのか、そのような記録を知る術はまったくない。 このように旧体制の悪の象徴、民衆の敵と忌み嫌われた一個人を、囚人や革命派の人々に
よる証言でイメージづけるのは公平さに欠く。 しかし、それほどの有名人ではない個人には、プライベートの記録がなさ過ぎるのだ。
ローネー長官は24歳の時に、初婚のユルシュル・フィリップを亡くした。彼女との間の一人娘
に「ユルシュル」の名を付けている。そして、再婚相手から生まれた二人目の娘にもユルシュル の名を付けた。ユルシュルは聖女の名だから、マリーだのマルグリットだの聖人の名を付ける 当時としては名付けてもおかしくはないが、イギリス起源の聖女のせいかフランスでは極めて 少数派の女性名だ。再婚相手との子にもこの名を付けているのが目をひく。21歳で亡くなった 薄幸の若妻ユルシュル・フィリップへの何らかの思いが、そこにはあったのかも知れない。 またドロネー三角形分割で有名なロシアの数学者ボリス・ドローネー(1890-1980)や子の物理
学者ニコライ・ドローネー(1926-2008)、詩人で孫のヴァディム・ニコラエビッチ・ドローネー(1947 -83)などの家系は、遠くローネー長官に繋がると言われている。長官の甥がナポレオン軍の将 校としてロシア遠征に参加、ロシア軍に捕らわれたが、ロシア貴族婦人と結婚しロシアに定住、 この家系の先祖になったと伝えられる。 ![]() ![]() そのナポレオン軍の将校はピエール・シャルル・マリー・ド・ローネー(1793-1853ou55)らしい。
結婚したロシア貴族婦人はElisabeth Tukhachevskaya(1791-1869)。この二人の曾孫が数学者 のボリス・ドローネーということだ。で、「ローネー長官の甥」という出自だが、このロシアに帰化 したピエール・シャルル・マリーの父親シャルル・クロード・ド・ローネー(生没年不詳)がローネー 長官の兄弟とある。兄弟の息子だから確かに「甥」というわけだが、そもそもこのシャルル・ク ロードなんて兄弟は長官にはいない。 しかもシャルル・クロードの父親は「××de Launay1752-1830」なんてなっている。シャルル・
クロードの父親ということは、長官の父親なのだからバスティーユ長官でもあったルネ・ジュー ルダン・ド・ローネー(1673-1749)のことだ。にもかかわらず名前不詳になっているし、唯一はっ きりしている生没年も一世代もズレている。つまり、ロシアに帰化した謎のフランス人将校「ピエ ール・シャルル・マリー」の出自はなんかおかしい。 ![]() ![]() ローネー長官には、同年生まれのルネ・アレクサンドル(双子?)の記録が一部の系図に残っ
ているが、多分、夭折している。確かなのは、42年生まれの弟アドリアン・ジャン・シャルル(ロ ーネー士爵)の存在だが、没年は不詳、姓氏不明の相手と結婚して、一人娘ジャンヌ・エレーヌ のみ出生、彼女がムーリニエ家に嫁いで家は絶えている。つまり、ローネー長官の「甥」は確 認できない。父親ルネは長官たちの母親と結婚する前にカンシー侯爵Marquis de Quincyの娘 カトリーヌ・シャルロットCatherine Charlotte Sevin de Quincyという女性との結婚歴があるが、 1736年に死別、子の記録はない。つまり、腹違いの兄弟もなく、当然「甥」もいない。 補足だが、ローネー長官と姓氏不詳の女性との娘オクタヴィア・ド・ローネーOctavia de
Launayがメキシコで生まれ、Jose Maria Gaja Bayonaというスペイン人と1801年結婚したという グローバルな記録があるが、それには触れないでおく。 またこのローネー長官の母方の祖母が、「ダルタニャン物語」中のラウル・ド・ブラジュロンヌ
子爵のモデルとなったド・ブラジュロンニュ家の血筋であることは、「素敵で史的な三銃士」余談 3を参照のこと。 (余談7)
このソラージュ伯爵はGabriel-Charles-Joseph-Paulin-Hubert, comte de Solages (1746-
1824)。タルヌ県カルモーの石炭採掘とガラス工場の創業者ソラージュ家は、この人の父方叔 父ソラージュ子爵から始まる一族。むしろ本家筋はこの伯爵だったが、姉のフランソワ・シャル ロット・ポーリーヌと共に1765年逮捕。(父と姉の夫からの訴え。姉の救済のため、自らの不品 行のため、姉との近親相姦のため等と罪状は不明確) 収監先を転々とし84年からバスティー ユ牢に。牢内ではヴァイオリンを弾いたり、読書をしたりして過ごす。89年革命で解放後は地方 に隠棲、78歳没。 ![]() ![]() ![]() 牢内でヴァイオリンを弾く伯爵 叔父Gabriel, vicomte de Solages その妻Marie de Julliot de Longchamps
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