現代科学が解く「歴史の謎」数々



 今となっては真実は歴史の闇の中へ・・・なんて話をよく耳にする。ところが、科学技術の進
 歩がひょんなことから、その闇に光を注ぎ、「なぁーんだ」なんて気抜けするような「真実」が露
 呈しまうことも最近は多くなってきた。

 ここにそのいくつかをご紹介しよう。


     ルイ17世........................................................タンプル牢.........................タンプル牢内で虐待されるルイ

 まず、ルイ17世。言うまでもなく、フランス大革命でギロチン台の露と消えたフランス国王ルイ
 16世とマリー・アントワネット妃の息子である。

 彼は正式には王位についていないが、王政復古のときに、ルイ16世の弟が国王に即位した
 際、「ルイ18世」を名乗っているので、ルイ16世刑死の後は、正式な王位継承者なので、その
 間をつなぐ意味で「ルイ17世」として非公式に認定されているに過ぎない。


   タンプルのルイ                           ルイの死

 革命政府によって幽閉されていたタンプル牢で、牢番たちによって「ガキ」呼ばわりされつつ
 悲惨な日々を送る。政権が変わり待遇は改善されたが、すでに衰弱の極みであり、タンプル幽
 閉後4年の1795年、10歳で結核で亡くなり、共同墓地に葬られた。

 ところが、葬られた子供は替え玉で、実は王子は牢獄から解放され生き延びた、という説が
 あり、今でも、このロマンティックな「伝説」が囁かれている。

 当然、1796年頃から色々なペテン師や精神異常者が、アメリカやブラジルに至る各所で「我
 こそはルイ17世」だと名乗りをあげたが、その中でも、何といっても信憑性の高い人物がノンド
 ルフ(ナウンドルフ)だろう。


Karl-Wilhelm Naundorff

 彼は、タンプル牢から脱出させられた後フランスを離れ、様々な人々の争奪戦の末に、北ア
 メリカ経由でヨーロッパに舞い戻り、偽の身分証明のもと、ベルリンで時計商に勤めることにな
 り、1812年、シュパンダウに移住、市民権を得ていた。

 ただ贋金造りの罪で投獄されたり、その前歴はかなりうさん臭い。しかし、彼が名乗りをあげ
 てパリに来ると、たちまち彼の「信奉者」が形成された。なぜなら、当時の宮廷関係者らとの面
 接で、この男、あまりに「王子本人にしか解らぬはずの記憶」を持ち合わせていたのだ。

 20人に及ぶ王室の関係者らが、彼を「本物」と証言した。

 
               死せるノンドルフ     デルフトの彼の墓標には「ルイ17世」と明記

 そして、彼が1845年、オランダのデルフトにて死去するとき、オランダ政府はノンドルフの息
 子からの届出を認め、「ノルマンディー公にしてルイ17世シャルル・ルイ・ド・ブルボン。1785年3
 月27日ヴェルサイユ生まれ。享年60歳」として、彼を葬ったのだ。

 始末に悪いのは、それから百年後、当時としては先端技術だったのだろうが、「頭髪鑑定」と
 いう検査を行った結果、生前のルイ17世の毛髪とこの人物の毛髪が同一であるという鑑定結
 果が出ているのである。「髄管の中心転位」とかでの鑑定だ。

 内務省・警視庁・リヨン警察鑑識部の実験所で、法学士で医学博士エドモン・ロカールが1951
 年に鑑定結果を同一としている・・・。


ルイ17世のものと伝わる毛髪

 その後に、検体である毛髪の出所とかが問題視されたり色々とあったようだが、当時として
 はかなりセンセーショナルな事件だったろう。

 ルイ17世が不幸にも虐待の末にタンプル牢で10歳にして病死、という歴史の悲劇が払拭さ
 れ、牢を脱出、ドイツ国籍で生き延びていた! なんて劇的な展開だから。


 そして、2000年3月のDNA鑑定となる・・・

                  
ルイ17世の保存された心臓(写真もあるのでネットで探して下さい)      Philippe-Jean Pelletan

 まず、サン・ドニ聖堂に安置されいた王子(ルイ17世)の乾燥した心臓。

 これが、また色々な来歴を経ているので本物がどうかを確かめる必要があるわけだ。1795
 年、王子が牢内で死去した際に、解剖医として検死にあたったぺルタンが、フランス王家の
 人々が心臓を保存する伝統にのっとって、王家に対する敬意から、密かに王子の心臓を持ち
 帰り、保存していたのだ。

 それから、その心臓が王家に返還されるまで色々あったし、そもそも、そのタンプル牢内で死
 んだ少年の遺体、19世紀に王子の遺骸を調査した結果、10歳の少年のものではない! なんて
 疑念を持たれた代物だから、まずは鑑定にかける必要がある。


The Mitochondrial DNA Mitotype of Louis XVII

 ベルギーのル−バン大学法医遺伝学・分子考古学教室 のカシマン教授 と、ドイツのミュンス
 ター大学法医学教室 のブリンクマン教授の二つの研究室が平行して、確かとされる検体に基
 づいて、ミトコンドリアDNAの鑑定が行われた。

 ミトコンドリアDNAは、母から子へと受け継がれるもので、マリー・アントワネットの母親マリア・
 テレジア女帝のミトコンドリアDNAが、その女系の子孫には認められるはずである。いわゆる
 母系解析を行ったわけだ。

 
マリア・テレジア女帝と娘たち

 そこで、諸国の王家や貴族の家に保管されていた毛髪や、血筋にあたる諸国の王族の血液
 などのサンプルから解析が行われた。

 結果は、タンプルで悲運の死を遂げた少年のDNAは、確かに同一のミトコンドリアを有してお
 り、「本物」であると鑑定される・・・。

 つまり、あれこれと「伝説」が流布していたが、なんのことはない、普通に少年は歴史書の語
 る通り、タンプル牢で哀しい最期を遂げていたことが解明。


  遺体が埋められたサント・マルグリットの共同墓地(1804年閉鎖)

 そして問題の、ノンドルフのDNAは、何度検査しても4塩基も違いがあり、全くの別家系であ
 ることが判明。検体が古いと同一家系でも2塩基程度の差異が生じることがあるが、この4塩
 基の不符号は、明らかなる別人という鑑定結果とせざるを得ないそうだ。

 つまり、ノンドルフは、何故か色々と知識を有していたが、贋物、という結果に。

 彼の子孫はブルボン姓を名乗っているが、この結果を「陰謀だ」としているそう。

 しかし、こればかりは仕方がない。





   Napoleon Bonaparte     セント・ヘレナ島での最後の家ロングウッド・ハウス

 ナポレオン・ボナパルト。最期は、イギリス側の監視下におかれた絶海の孤島セント・ヘレナ
 島で1821年、51歳で病没。

 ところが、今も、彼の死因には激論がかわされている。

 ナポレオンの遺髪から「砒素」が検出されたことから、フランス側がイギリスによる毒殺説を
 唱えていた。これに対し、イギリスのケインズ博士は、フランス料理による胃ガンだと主張。問
 題の砒素は、当時の食欲増進剤に含まれていたものが検出されただけのこと、とフランス側の
 主張を退けた。

 2005年5月にも、スイスの病理学者が、胃ガン説を支持。体内の砒素は、当時のワインの貯
 蔵用樽に用いられていた消毒用のものが混入されたに過ぎないとした。また、アメリカ連邦捜
 査局、つまりFBIまでが、検出された砒素の量は、毒殺された人間のものとしては微量に過ぎ
 る、としてフランス側毒殺説を追撃してきた。

 これが本当なら、ナポレオンの三時間睡眠も結果が「胃ガン」じゃ、受験生に奨められなくな
 ってしまう。

 しかしフランス側も黙ってはいない。相手がFBIなら、こっちはフランスの裁判所嘱託鑑定官
 の第一人者パスカル・キンツ博士を引っ張り出す。

            
    Dr. Pascal Kintz        1836年に検出法が確立するまで砒素は中世から毒殺薬定番だった・・・

 この法医学者キンツ博士は、遺髪の内部まで検査を行い、ナポレオンの砒素の検出量は、
 通常の人の7〜38倍で優に致死量を超えるものだと認定。また、外部からの付着などではな
 く、明らかに口からの摂取によるものである、と断定する。

 しかも、消毒用砒素などという弱い成分ではなく、当時「ネズミ殺し」と呼ばれていた猛毒の砒
 素だと。

 最近では、2009年5月にデンマークの外科医が、ナポレオンの死因は慢性的な腎疾患による
 ものと発表している。当時の医師の診断書や解剖報告書、ナポレオン自身の症状の記録など
 を総合的に判断し、1796年頃からすでに腎臓と泌尿器の疾患にやられていたと。

 まぁ、中立的な見解だが、やはり、面白くはない。

 
 セント・ヘレナでのナポレオン                  死の床のナポレオン

 ナポレオンはステージVA の胃ガンで死んだとか、ピロリ菌による胃潰瘍からきた胃ガンだ
 とか、胃ガン説が有力視されてはいるが、本人は「イギリスによる毒殺」だと臨終時にもらして
 いる事実もある。

 ともかく、今だに続く英仏現代医学のナポレオン戦争、まだまだ先がありそうである。このナ
 ポレオン・ボナパルトの英雄伝の最終章、いつになったら完結することやら。





      Ludwig van Beethoven               彼の部屋

 ベートーヴェンの死因もこのほど解明された。従来は、アルコ−ルの大量摂取による肝硬変
 とされていたり、梅毒説とかもあったが、ご本人も、自分の病名を知ろうと、散々ドクター・ショッ
 ピングをしていたらしい。

 しかしついに自らの病名を知ることもなく、1827年56歳で病没。彼の病名が解明されたのは、
 160年以上も後、1994年、オ−クションでベ−ト−ヴェンの毛髪8束が競売に出されたのがキ
 ッカケだった。

 2000年10月、アメリカのW・ウォルシュ博士がその毛髪を最先端技術をもって分析した結果、
 なんと毛髪からは通常の人の100倍近くの鉛が検出され、頭蓋骨の検査からも、ベートーヴェ
 ンの死因が「鉛中毒」であったことが判明したのだ。

     
  ベートーヴェンは無類のワイン好きだった            19世紀のドナウ川

 では、なぜ彼が「鉛中毒」になるほど、鉛を摂取したかと言うと、当時、ドナウ川の水が工業
 排水で鉛汚染されており、そこの川魚を好んで食べていたベートーヴェンが、徐々にだが確実
 に鉛中毒になっていった、という説がある。(別にワイン好きの彼がワインの甘味料として当時
 配合されていた化合物が原因で鉛中毒になった、という説もある)



 また、2007年にウィーン医科大学法医学教室のクリスチャン・ライター教授は髪の毛を裁断し
 てレーザーアブレーション質量分析装置で毛髪各部位の鉛含有量を分析した結果、死期の
 111日前から急速に鉛含有量が増加していることが判明。

 彼がその頃、肺炎と腹水の治療のためにある医師から飲まされていた鉛を含む薬剤が、肝
 硬変だった彼の肉体を急速に悪化させた、と発表してもいる。

 ともかく、いずれにしても、これは、まさしく、公害による中毒症、食品被害による中毒症、あ
 るいは、医師による医療ミスであり、現代ならば深刻な社会問題として扱われるであろう事態
 がベートーヴェンには起きていた、ということになる。



 
      Wolfgang Amadeus Mozart          死の床のモーツァルト

 また、モーツァルトの死因。これは有名なサリエリの毒殺説からポーク・カツレツから感染した
 寄生虫の旋毛虫症説まで色々と議論されてきた。

 私などはモーツァルト埋葬の当日に妻(モーツァルトとデキていた)を切りつけ、自らは自殺し
 たフランツ・ホ-フデ-メルFranz Hofdemelによる毒殺説が一番信憑性が高い気がするのだが、
 医学の世界ではやはり病気説が有力なようだ。

 
ケルントナー通りの彼の最期の居所はなく、今はデパートの裏手に・・・

 アメリカの臨床病理学会で2000年2月、カリフォルニア州立大のフェイス・フィッツジェラルド教
 授は、モーツァルトの死因について「病死と断定できる」との研究結果を発表した。病名はリウ
 マチ熱。

 2001年6月に医学専門誌に米シアトルの感染症の専門家ハーシュマン医師が発表した上記
 のポークカツレツ説はさておき、最近では、2009年8月、米学術誌の内科年報にアムステルダ
 ム大学の眼科医リチャード・ジーガーズ氏らの研究チームが発表した説などがある。


 モーツァルトの死亡記録  


 ジーガーズ氏らは、1791年前後にウィーンで死亡した成人5000人の公式記録を調べ上げ、
 モーツァルトが連鎖球菌性咽頭炎に感染したものと推定した。

 当時、小規模ながらウィーンでこの病気が流行しており、モーツァルトの症状もそれに酷似し
 ている。死期の近い彼の様子を知る人々の証言とも、この病気の症状が合致しており、この感
 染症によって命を落としたという結論に至ったらしい。

 モーツァルトを取り巻く様々な人間模様から、まるで推理小説なみの「犯人探し」が学者の間
 では行われていた。

 サリエリ説は最も多くのドラマでも扱われているが、これは、サリエリ自身がまだ存命中から
 噂されていたことでもある。

 その噂に心を痛めた彼がある弟子に身の潔白を訴えたところ、かえって疑われ、「サリエリ
 が犯人に違いない」などと記録されてしまったりしている。1830年プーシキンまでが「モーツァル
 トとサリエリ」などという戯曲を書いている始末。

        
         Antonio Salieri     Franz Xaver Sussmayr   Constanze Mozart


 でも、彼にモーツァルトを毒殺するような動機が見当たらないのも事実。当時、サリエリは音
 楽界で成功した大家で、名誉も財産も充分に手に入れていたし、逆にモーツァルトは才能のみ
 で、貧しく、地位も低い。いくら、サリエリが彼の才能を評価していたとしても、嫉妬のあまり毒
 殺するなんて、到底考えられないことだ。

 となれば、モーツァルトを殺ったのは誰だ?

 弟子のジュスマイヤーか秘密結社フリーメーソンか、友人のホ-フデ-メルか、果ては妻のコ
 ンスタンツェか・・・?

 などと推論が状況証拠のみで様々に語られ、このモーツァルトの死因の闇は深まるばかりだ
 った。

 ところが、なんと、あっけなく、この咽頭炎説。

 ジーガーズ氏自身も語るように、「疫学調査の結果は平凡な死因だ」(余談1)

 


 
   ロシア皇帝ニコライ2世と第四皇女アナスターシャ

 死にまつわる歴史的謎で、やはり最も有名なのは、ロシア皇帝ニコライ2世の皇女アナスタ
 ーシャの物語だろう。

 ロシア革命の勃発で皇帝を退位させられたニコライ2世は、皇妃と皇太子アレクセイ、そして
 4人の皇女とシベリアのエカチェリンブルク、イパチェフ館に軟禁されていた。

 レーニンのボリシェヴィキ政権となって一段と過激性を増した革命政府は、チェコ軍団の反乱
 に乗じた英米日の軍隊の出兵、それに呼応した帝政時代の残党や対立分子による蜂起(白
 軍)を受けて混乱状態に陥っていた。

 皇帝一家が捕らわれていたエカチェリンブルクに皇室奪還を狙う白軍2個師団が接近したた
 め、ボリシェヴィキは一家の殺害を命ずる。1918年7月のことである。

 
 殺害される皇帝一家と弾痕の残るイパチェフ館の室内

 秘密警察警護隊長ユロフスキー、軍事委員エルマコフといった非情極まりない男たちは、当
 時ヨーロッパでも評判の美貌の皇太子と皇女たち、そしてその両親であるロシア皇帝・皇妃た
 ちを銃殺し、銃剣で刺し貫き、死体を隠蔽するために運び出し、16キロ離れた山里で手榴弾で
 粉々にしてから、再度、移送して、今度は硫酸で識別不明にしてから埋めた。

    
              Vasily Vasilyevich Yakovlev  Peter Ermakov

 皇妃と皇太子のものと思われる2遺体のみ別にして焚火で焼き払い改めて埋める。(皇妃の
 ものと判断した遺体は実はマリア皇女だったが)

 それは、ボリシェヴィキ政府がニコライ皇帝の処刑を正式発表した際、女子供まで殺害したと
 なれば国際世論を敵に回すと恐れたがための処置で、皇帝本人以外の一家の殺戮の事実は
 なんと、ソ連が崩壊するまで国際社会には公表されなかった。(最終的にすべての遺体が確認
 されるのは2007年8月)

 8日後、白軍がこの地に乗り込んだが、すべては後の祭り。皇室一家をすべて殺害したとい
 う前代未聞の殺戮劇は、こうして完遂されたのだ。

 あの恐怖政治下のフランス革命政府ですら、幼い王子と王女だけは処刑せずにいたのに、
 このロシアの革命政府、とくにレーニンのボリシェヴィキ政権の残虐性は凄まじいものがある。

    
     Vladimir Lenin           皇太子と皇女たち(右から二番目がアナスターシャ)

 ニコライ皇帝には4人の皇女がいた。オリガ、タチアナ、マリア、アナスターシャで、皆、美しく
 当時のヨーロッパでも評判で、盛んにポートレートが売られたりしていたほどだった。とくにブロ
 ンドの巻き髪に青灰色の大きな瞳のアナスターシャ第四皇女は、皆の人気者で、どんな気難し
 い人でも彼女の前では笑みをこぼすといった明るい少女だった。

 革命政府が皇室一家の殺害を世に隠蔽したために、1918年7月の事件後も、世間では、皇
 女たちがロシアのどこかで生きているものと信じられていた。


 1920年、ベルリンの精神病院で、自殺未遂で記憶喪失の女性が、「自分はロシアを脱出して
 きたアナスターシャ皇女」だと名乗りをあげた。この女性は、アナスターシャ皇女の身体的特徴
 を具え、また当時の皇室関係者でしか知らぬような知識も持ち合わせていた。

 そこで、たちまち、当時のロマノフ王家ゆかりの貴族を含む支持者が形成される。


 Anna Anderson 


 名をアンナ・アンダーソン。

 ロシア皇室の莫大な銀行預金の相続権を主張したが、容貌の違いやロシア語が話せないこ
 と、記憶が肝心なところで曖昧になる等、決定的な不信点があり認められず、確定不可能とさ
 れて却下。

 生存する祖母のマリア・フョードロヴナ皇太后も彼女に会おうとせず、皇室関係者も否定的だ
 ったから、無理もない。


Maria Fyodorovna(1847-1928)

 しかしそれでも根強い支持者に取り巻かれ、彼女がそんな支持者のひとりジャック・マナハン
 と結婚して、アメリカはノースカロライナ州に移住してからも、彼女は支持者らの支援金で生活
 できたほど。

 また、社交界でもこの推定アナスターシャ皇女は華となり、ハリウッドでも二度も映画化され、
 ニクソン大統領の就任式にも招待されるような著名人となっていく。

 そして、1984年に彼女は最期までアナスターシャであることを主張しながら他界。

   
 Anastasia   右は1918春、つまり最後の写真(6月で17歳)    こちらはアンダーソンの26歳の写真


 もしかしたら・・・? の思いが、あの残虐なロシア革命政府の非道な仕打ちから逃れた皇女の
 実在を信じたい思いと相まって、アナスターシャのロマンスを生んだわけである。


 ところが、DNA鑑定という現代技術のメスが、このロマンスに鋭く切りかかる。


 まずソ連崩壊の1991年、さっそく二人のアマチュア歴史家による調査によって、ウラル山麓
 のエカチェリンブルク近郊で皇室一家と従者・侍医たちの遺体が投げ込まれたと思しき穴が発
 見、同年、この報告に基づいて、ロシア法医学調査団が正式に調査に乗り出す。

 

 そして、かなり損傷のひどい9遺体を確認。頭蓋骨への銃創および銃剣創、とくに顔面骨の
 破壊が認められ、古典的な顔面識別法では鑑定が不可能と判断。

 そこで、同調査団によって、コンピューター支援による顔面再構築、歯科学、年齢推定および
 性別などについての広範囲な調査が行われることになる。

 結果、皇太子と4皇女のうち、皇太子と1皇女のものが含まれていないことが判明する。(上述
 した通り、ユロフスキー隊長は上層部の命令で、皇妃と皇太子の遺体を別に埋めたのだが、
 その際、皇妃だと判断したものが皇女だった)

 そして、ロシア政府は、英国法医学中央研究支援施設およびケンブリッジ大学生物学的人
 類学、ロシア科学アカデミーのエンゲルハルト分子生物学研究所に対して、DNA解析法による
 分析を依頼。

 
 明治24年(1891)滋賀県大津町での切りつけ事件       津田三蔵巡査     ニコライ帝の血染めのシャツ

 この9つの遺骸については、1992年および1994年の調査において骨格、頭蓋骨等につい
 ての人類学的、解剖学的、歯科学的調査、頭蓋骨や顔面骨のコンピュータ解析や合成写真、
 皇帝一家の生前の写真との比較、衣装や履物のサイズ、さらに遺骸の損傷状態やその原因
 の推定などが行われ、更にDNA鑑定(親子識別・性識別・ミトコンドリア解析による血筋識別)
 によってニコライ2世一家の遺骸であることが確実に立証されたと考えられる、という。

 ちなみに来日したニコライ2世が警備の津田巡査にサーベルで襲撃され、右頭部に9p負傷
 した大津事件の際の血痕から採取したDNA鑑定では、採取量が微小で、血液型しか判定でき
 なかった。

 4遺体は皇室一家とは無関係な者と識別されたが、これは共に殺害された侍医ボトキンおよ
 び従者のものと推定。

 5遺体が、ニコライ皇帝夫妻と3人の皇女であると判明されたわけだが、問題のアナスターシ
 ャ皇女がそれに含まれているかが問題だった。皇太子と1皇女の遺体が検査当時はまだ行方
 知れずだったわけだから。


 Maria Nikolaevna Romanov

 そこで、年齢、身長、頭蓋骨及び顔面骨断片についてコンピューター解析や写真分析、歯学
 的分析による比較が行われ、処刑当時、21歳だった第一皇女オルガ、20歳だった第二皇女タ
 チアナ、そして17歳だった第四皇女アナスターシャの3人が、これらの遺骸の正体であることが
 断定された。

 19歳だった第三皇女マリアのみ該当なし、となった。(上述の通り、2007年彼女の遺骸はアレ
 クセイ皇太子のものと共に発掘され、2008年6月、米国でのDNA鑑定により二人が識別された)


Prince Philip, Duke of Edinburgh(1994)

 当然のこと、件の「アナスターシャ」であるアンナ・アンダーソンのDNA鑑定も行われた。

 生前、腸ガンの疑いから採取された生体ホルマリン標本が残っていたので、彼女の死後10
 年たった1994年にDNA鑑定が行われる。

 なんとイギリス女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公(アナスターシャ皇女の伯母を祖母に
 もつから)と正式なロマノフ家の皇女との三者のミトコンドリアDNA解析比較というもので世界的
 にも評判になった。

 結果は、当然のごとくエジンバラ公とロマノフ家の皇女のものは一致する。そして、アンナ・ア
 ンダーソンの鑑定は・・・

 結果は、ニコライ皇帝一族とはまったく別物と判定。

 埋葬にあたって、政府主導の鑑定では不安とするロシア正教会の要請によって行われた
 2018年の再鑑定によっても、これらの遺骨がニコライ皇帝一家のものであることが再度証明さ
 れている。

 つまり、悲しい事実ではあるが、あの日、1918年7月17日、青い目の可憐な乙女アナスターシ
 ャ皇女は、秘密警察に銃殺されていたのである・・・・。



バーグマン演じるアナスターシャ

 と、なると、ハリウッド映画「追想」(1956年・原題「 Anastasia」)でイングリッド・バーグマンが演
 じていた「悲運の皇女アナスターシャ」は、一体全体、何者? ということになる。

 ほぼ確実視されている調査では、彼女の正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャン
 ツコフスカ(1896年12/16〜1920年3月失踪)らしい。

Franziska Schanzkowska(1913頃)

 出稼ぎ労働者としてベルリンの軍需工場で働いていたが、誤って手榴弾を落として負傷。そ
 の後、精神不安定となって失踪した女性で、直後に「私はアナスターシャ」と名乗るアンナ・アン
 ダーソンが現われた。事実、両者の写真は酷似しているし、兄弟も認めている。(その後、この
 兄弟は何故か突然、前言を撤回したが)

支持者で夫となったマナハン氏とアンダーソン

 こうして、また、まことに味気ない結果であるが、歴史の謎、つまりミステリーというよりは、
 我々にはロマンスとも感じる「謎」が、ここでもまた消えてしまったわけである。(余談2)



 謎を解く情熱は、その謎に期待する夢やロマンが原動力なのであるが、解かれた謎は「事
 実」と化し、多くの場合、そこには夢もロマンもない。ほっておいても良いものである

 ならば、「議論の余地は残るが・・・」程度の謎解きを楽しんでいたいものだと考えてしまう。






余談コーナー

(余談1)
 モーツァルトが共同墓地に埋葬され、後に墓地の整備等で骨も散逸してしまっていることは
 有名。従ってDNA鑑定も不可能なのだが、実は「モーツァルトの頭蓋骨」と言われている顎のな
 い頭骨が国際モーツァルテウム財団に保管されている。

 墓地の管理人がその頭骨を確保して、彼の関係者たちが代々保管、1902年に同財団に寄
 贈されたという代物で、真偽のほどは当然に不明。(但し1991年にウイーン自然史博物館の専
 門家は、頭骨の軟組織を復元し、肖像画と照合し、本物の可能性ありと結論を出している)

 ただ、2004年、関係者の了解を得て、父レオポルト・モーツァルトの墓(聖セバスティアン墓地)
 を開いて、そこに埋葬されている親族の骨から、これをDNA鑑定することになった。女系のミト
 コンドリアDNAの鑑定ということで、この墓より、2人の女性の骨を採取した。(モーツァルトの母
 はパリで亡くなり、聖ユスタシュ教会墓地に埋葬、1785年の墓地の撤去で散逸。また姉は夫の
 死後ザルツブルクに帰郷したが、モーツァルトの妻コンスタンツェが再婚相手の墓を父レオポ
 ルトの墓に併設したのに抗議し、自分は聖ペーター僧院教会の墓地に埋葬を希望、他者との
 骨の識別が不能になっている)

  
        母Anna Maria Walburga Pertl 姪で16歳で亡くなったJeannetteの墓碑

 この2人の親族とは、モーツァルトの母方祖母のエーファ・ロジーナ・バルバラ・ユーフロジー
 ナ・アルトマンEva Rosina Barbara Euphrosina Altmann(1688-1755)と、姉ナンネルの若くして
 亡くなった娘ヨハネッテ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾンネンブルクJeannette von Berchtold
 zu Sonnenburg(1789-1805)(ナンネルは1801年に夫ゾンネンブルク男爵が死去するとすぐにザ
 ンクト・ギルゲンからザルツブルクに転居している。弟の妻コンスタンツェが再婚相手のニッセ
 ンの墓を併設したのは1826年だから、この娘が亡くなった1805年には、まだナンネルの希望
 通り父レオポルトと同じ墓に入るつもりでいたので、ヨハネッテの墓だけがここにあるのだろう)

 そして、母方祖母ユーフロジーナと姪ヨハネッテと思われる2人の女性の大腿骨から抽出さ
 れたDNAとモーツァルトと伝えられる頭骨に残っていた2本の歯の遺伝物質のDNA鑑定がオー
 ストリアとアメリカの法医学者によって行われたわけである。

 しかし、結果だが、どうにも困ったものになってしまった。

 例の真贋不明の頭蓋骨は、この祖母や姪から採取されたDNAとの血縁関係が確認できなか
 った。つまり、財団に渡った経緯の中に、もしかしたら間違いがあったのかも知れないというこ
 とに。だが、頭骨の複雑な来歴から、それはそれとしてある程度は予想できたことでもある。

 .......................................................................................
.......真偽不明の「モーツァルトの頭骨」.................................................姪のヨハネッテと推定される若い女性の骨

しかし、問題は、この祖母ユーフロジーナ・アルトマン、つまりモーツァルトの母アンナ・マリア・
 ペルトルの母親と、姪ヨハネッテ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾンネンブルク、つまりモーツァル
 トの姉ナンネルの娘とのDNA型もが、親戚関係を示さなかったのである。若い骨は明らかに16
 歳で亡くなったヨハネッテのものとして符合するのであるが・・・
 埋葬の記録に何かの誤りがあるのか、記録にない第三者の骨が混入しているのか、それと
 も、2人の女性の人生に何か出生にまつわる秘密があるのか、もはや探る術はない。

(余談2)
 ジェームズ・B・ラヴェルというジャーナリストが、長年アンナ・アンダーソンに密着取材し、彼
 女を否定する人や国の利害、あるいはマスコミのセンセーショナリズムに偏った報道姿勢など
 と闘いつつ彼女の「アナスターシャ真贋論」を説いていく著書「ANASTASIA,The Lost Princess」
がある。「アナスターシャの謎はいつ解決するのか、という質問もよく受ける。私としては、現時
 点で望み得る最も包括的かつ正確な報告書であるこの本が、謎を解くものと信じている」と著
 者自らが書いている。ラヴェルは彼女との付き合いの中で本物説に傾倒しているのだ。
 但し、まだDNA鑑定の結果が出る以前の著書である。
 ラヴェルは「DNA検査が確信へ近づくためのもう一つの材料を提供してくれるだろう。ただ、
 DNAの研究は論争の渦中にあるため、どちらの結果が出ても検査結果に異議が申し立てられ
 ることは間違いない」と続けている。そして「たとえ将来、どのような証拠が出てこようとも、謎は
 永遠に生き続けるだろう」と予言している。




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