歴史的有名人の紆余曲折な無名時代


 
 何かの分野で名を成して、有名になろう! などという野心のひとつやふたつは、誰でもいだくも
 のである。

 まぁ、多くの場合、そんな野心も一向に具体化せずに、いつしかいい歳になってしまって、しょ
 せんは「夢」とあきらめてしまうもの・・・・

 ある年齢で見切りをつけて、「野心的青年」から「平凡人」へと自画像を塗り替えてしまわねば
 ならない、そんな「人生のテキスト」が誰にもあるもの。

 しかし、ある年齢で成果が出なければ、それで可能性を手放さなければならないなんて、誰
 が決めたのか?



 今よりも、もっともっと平均寿命が短く、人生の結論を急がなければならなかった時代に生ま
 れた人々の中で、現代において知らぬ人のいないほどの「歴史的有名人」になった人々が、果
 たして、そんな早々と「わが道」を見出していたのかというと、それがまったく、そうではないとい
 う事実が、これから紹介する人々である。

 むしろ、彼ら「歴史的有名人」らは、とんでもなく紆余曲折した人生を長々とおくっており、私た
 ち現代人の信じる「人生のテキスト」に照らし合わせれば、「やっぱりあきらめざるを得ないな
 ぁ」なんて結論を出しているに違いない。

 あまりにも有名な人々なので、そのトンチンカンな人生のスタートには驚くことしきり。

 でも、史実なので・・・・・




Jean-Jacques Rousseau


 まず、啓蒙思想家として名高いジャン・ジャック・ルソー。

 この人物の人生のスタートは、「逃げ」から始まった。

 この18世紀啓蒙思想の大家は、当時、彫刻家の徒弟奉公の身分だった。徒弟奉公といえば
 上下の厳しい関係で成り立っている世界。なのに、彼は、禁を破って朝帰りするはめになっ
 た。当然、厳格な親方からの厳しい折檻(せっかん)がまっている。

 そこで、彼は彫刻家としての修行を続けることよりも、「逃げ」を選択。そのまま、フラリと旅に
 出ることにした。


  ...........baronne de Warens..............................................ヴァラン男爵夫人のシャルメットの邸

 その旅の途上、ルソー青年はヴァラン男爵夫人の邸に1735〜36年、長々とお世話になる。
 彼はその夫人の恩に報いようと、パリの都に出て一旗あげることを決意。

 何でもいいから、有名になって金持ちになってやる!!

 そんな簡単にして明瞭な計画を立てたわけだ。

 とりあえずこの彫刻家くずれの男ルソーは、「音楽家」になろうと決意。
 
 画期的な音譜法を考案し、花のパリでその筋の有力者たちにせっせと売り込みまわった。


当時のパリ


 従来の音符による表記方法をくつがえす革命的な発明であった、・・・はずだった。

 しかし、音符が現代でも使われているのは周知のとおりで、ルソーなどという有名な音楽家が
 いないことも周知のとおり。(余談1)


              ...・・・・・・.........................................................ルソーの音符表記についての手書原稿・・・

 誰からも相手にされないで、パリの街路にほっぽり出されたこのルソー氏、すでに三十路に
 なんなんとしていた......。


 ところが、のんきなもので、公園のベンチに寝そべりながら、詩句など暗記しながらあわてる
 風情もない。


確かに18世紀は将棋(チェス= les Echecs)は大人気ではあったが・・・

 ひまにまかせてカフェで将棋をさしたりする内に、少しばかり強いものだから、今度は、プロ
 の棋士になって名を売ろうなどと目論んだりもしたらしい。

 この頃、彼がよく口にしていた言葉に「神の摂理が働くまで」というのがあった。つまり、家宝
 は寝て待て・・・だ。



・・・・・・

 しかし、彼は彼なりに、大いにジタバタしており、彫刻家、音楽家、そしてプロの将棋さし、と
 次々とチャレンジしていたわけだ。そして、今度は、「外交官」ルソーの人生設計を立てて、新
 たなチャレンジに出る。

 ちょっとしたツテを頼って、彼はヴェネティア大使モンテギュ伯爵の秘書の仕事についた。

 当時は、それほどの専門教育も不要で、紹介者があれば外交官秘書のポストなど誰でもつ
 ける。


当時のヴェネツィア


 そんなわけで、この三十男、人生の紆余曲折、寄り道・回り道をひたすら突っ走り、大使秘書
 官としてヴェネツィア共和国へと赴任していくのであった・・・・

   
            Jean-Jacques Rousseau...................「社会契約論」


 あのすべての知識人を魅了し、全ヨーロッパにルソー信奉者をうみ、18世紀の思想界に革命
 的な新風を巻き起こしたルソー。我が国の中学校の教科書にも肖像画つきで紹介されている
 大思想家ジャン・ジャック・ルソー氏が、その後、いかにして、かくのごとくに名を馳せていった
 かは、彼の伝記を参照願いたい。



 ルソーがヴェネティアに赴任した頃、当地のある監獄の中にジャコモ・カサノヴァがいた。

Giacomo Girolamo Casanova 

 18世紀のドン・ファン、西洋の光源氏、ヨーロッパ中の社交界に顔を出し、女という女を魅了
 し、男という男をペテンにかけ、その恋と冒険に満ち溢れた人生を膨大な「回想録」につづり、
 ツヴァイクに「男である以上、ゲーテ、ミケランジェロ、バルザックなどよりも、むしろカサノヴァ
 になりたいと思うものだ」と言わしめた人物、ジャコモ・カサノヴァ。

 この男も人生のスタートは、大失敗からだった。

 こともあろうに、この天下の色事師、初めの一歩は「司祭見習い」であった! 聖職者なのだ。

 18世紀神父の肖像画 

 教会にとってはまことに幸運なことだったが、このカサノヴァ師、ある教会での初舞台、つまり
 信徒を前に初めて説教をする壇上、なんと一言も発することができず気絶してぶっ倒れてしま
 ったのである・・・・

 その後の人生であらゆる人々をペテンにかけていく図太い度胸の持ち主カサノヴァとは思え
 ない大失態だ。結局、彼は聖職者の道は放棄することになる。

 そして、ルソーがこの水の都ヴェネツィアに着任した頃は、牢屋に収監されていたということ
 からも分かるように、それからは、やや道をはずれた方向へと彼は歩いていた....

Casanova 18世紀のヴェネツィア軍将校

 偽のスペイン軍将校になりすまして肩で風切って歩いていたり、まぁ、すでに人をだます手練
 手管だけは磨いていたのだろう。

 ある知り合いの軍人にすすめられ、本物のヴェネツィア陸軍少尉に任官もする。聖職者の次
 は軍人カサノヴァの登場である。

 彼もまた、紆余曲折ってわけだ。

賭博に女に酒の遊び人たち 

 ともかく彼はこの軍人時代に、トランプ賭博の味をしめる。いかさま賭博で金を巻き上げるの
 は、当時のペテン師必須の事項でもあり、その後の彼の人生の展開を想定すれば、天性の才
 能が花開く数々のシーンを思い浮かべるが、それがそうではなかったらしい。

 彼はその回想録にこう記している。「私は一度として勝利の喜びを味わって帰ったためしがな
 かった」

 そう、彼は、ペテンにかけるどころか、逆に巻き上げられてばかりの「かも」だったのだ。

 常に礼儀正しくエレガントな社交界

 また、もうひとつ、この時期の面白い話がある。

 彼は赴任地で、とある大富豪のトルコ人の奥方と親しくなるチャンスがあり、あと一歩のとこ
 ろで落とせる段になった。ところが、興奮で冷静さを欠いたのか、まったく礼儀に反するせっか
 ちな真似をしでかしてしまう。そして、大騒ぎとなり、まんまと相手に逃げられてしまったのだ。

 これもまた、その後の彼の生涯を彩るめくるめく女性遍歴を思うと、まったく信じがたいてい
 たらくである。
  映画のカサノヴァ 

 まだ、ある。

 彼が雇っていた従卒がある日、もはや余命いくばくもない病状となった。すると、この従卒、い
 かにも、いまわの際の告白よろしく、実は自分はフランスの公爵家の者で、ゆえあって身分を
 隠していたと言い始めた。そして、なんだかもったいぶった証拠書類を取り出した。カサノヴァ
 はそれを一笑にふしたのだが、上官たちはそれを信用してしまった。

 この従卒、たちまち病状が回復。元気になる。上官らは彼を「公爵様」と呼んで上を下への大
 歓待。まったく信じないカサノヴァは逆に悪者あつかい。

 頭にきたカサノヴァは、「公爵様」に一発パンチを見舞ってやったが、おかげで、軍隊を追い
 出されたのは自分の方、という展開に......。

 ヨーロッパ中の王侯貴族をまんまとペテンにかけて爽快な人生を送っていく彼が、当時、こと
 もあろうにケチなペテン男にひっかかり、とんでもない被害をこうむっているのだ。

 カサノヴァ回想録挿絵より

 賭け事の名手、天下の色事師、世紀の山師ジャコモ・カサノヴァの、逆転時代。「賭け事では
 カモられて、女には逃げられ、ペテンにはひっかかる。まったくオレって・・・」って、普通なら、ト
 ラウマを一生かかえて生きるだろう。

  
1992仏映画「Le Retour de Casanova」 アラン・ドロン演じるカサノヴァ

 ともかく、カサノヴァ、軍隊をやめてどうしたかと言うと、ヴェネツィアに帰って、ヴァイオリン奏
 者となった。

 いやはや、またまた紆余曲折。

 サン・エムエーレ座のオーケストラ団員。ヴァイオリン奏者といっても、現代のヴァイオリニスト
 などを想像してはいけない。当時の演奏者なんて、従僕、召使と同列、まったく卑しい身分なの
 である。
「生きてゆかねばならぬ」と彼は回想録に記す。「その地位の凡庸さに至っては軽蔑を免
れ得ぬ」と嘆いているが無理もない。

 
カサノヴァのサイン           Giacomo Casanova

 まさしく、不遇時代の始まりだ。

 しかしこの人生謳歌の天才、根っからのエピキュリアンは、楽士仲間と馬鹿騒ぎしてはそれ
 なりに陽気にやっていたらしい。だが、派手好きで、スタイリストで、気取り屋の彼が、金のため
 に落とした身分に甘んじる姿は痛ましい。

 だが、当の本人は「日当は一スカンだった。それでも、そのうちまた良い日もくるさと思いなが
 ら、私はけっこう満足することができた」と、書いている。(余談2)

「そのうちまた良い日もくるさ」の発想は、前出のルソーの「神の摂理の働くまで」と同じである。


 ともかく、彼が黙々と暗い劇場の楽士席でヴァイオリンの弓を滑らす姿を最後にジャコモ・カ
 サノヴァの話を終えよう。

 当時の楽士

 その後の、まるで冒険小説まがいの素敵な彼の人生は「カサノヴァ回想録」で楽しんでいた
 だきたい。





 カサノヴァはその卑しいヴァイオリン弾きという身分を嘆いていたが、この頃、やはりヴァイオ
 リンを肩に、日々の生活の糧を得ていた男が一人いた。場所はウィーンに変わる。


当時のウイーン

 しばらく前までは、この青年、女帝陛下の御前でその美声を披露していた少年合唱団の一員
 であった。しかし悲しいかな変声期、退団となる。

 楽長はその美声を惜しんで、彼に去勢手術をほどこそうとする。だが、里から上京してきた父
 親は、息子が息子であることを望みこのとんでもない手術から彼を救った。おかげで、彼は、
 ただの男になって、ウィーンの路頭に迷う身分となった。

 文字どおりの一文無し。先述のルソーが1742年にパリの路頭に迷っていたのなら、こちらは
 1749年ウィーンの路頭である。

 彼は当時「ガサティム」とよばれていた一団、つはり早い話が巷流しの一団に加わって、市内
 の貴族のお屋敷や金持ちの邸宅の窓の下で、夜の調べを流して歩く。これとても、音楽家とし
 て立身出世するための下積みになるような性質の仕事ではなく、ヴェネツィアのカサノヴァたち
 同様、しがない楽士風情なのだ。

Franz Joseph Haydn
                                18世紀の巷流しの演奏家

 名を、ヨーゼフ・ハイドン、つまり「交響楽の父」と呼ばれるようになるあのハイドンであった。

 この頃、彼も、さすがに人生の方向変換を思案することもあったようで、親からの援助を何ら
 期待できない以上は修道僧になって僧院に入ってしまうという手段を考えたりしたそうな。しか
 し、彼は、やはり音楽への道にかじりついた。

 とりあえずは、貧しい生活。冬には「吐いた息がベッドの上掛けの上で凍る」ようなひどい屋根
 裏部屋に住む。まわりの部屋には従僕や料理人や職人たちといういずれもウィーンの下層の
 者たちが居住しており、このしがない流しの楽士ハイドンも、そんな身分の人々の仲間入りだ。

  ⇒  
ハイドンが住んでいたウィーンのミヒャエラープラッツ1220番地。但し、屋根裏部屋だから右画像の部分・・・
   当時は今のタワーマンションとは違い上階へ行けば行くほど貧しい身分が住む。彼は最上階6F屋根裏。

 車大工の伜に生まれ、巷流しを生業にする男としては相応の生活環境だったかも知れない。

 ある日、音楽稼業を志す者にとって必要欠くべからざるものとしてクラヴサン(ピアノに似た鍵
 盤楽器)を一台やっとの思いで手に入れた。むろん、古びて虫の食った中古だ。だが、彼は、カ
 サノヴァとは異なり、音楽というものに異様な喜びを見いだしている。自分の部屋と自分のクラ
 ヴサン、そして無限に飛翔する楽想、「まさに王侯の身分にも比すべき幸福」だったと述懐して
 いる。

クラヴサンを弾くハイドン 

 ウィーンのアパートの屋根裏部屋で、そんな幸福感にしたっていた人物がいたわけだ。

 ルソーにせよ、カサノヴァにせよ、このハイドンにせよ、将来に何らの期待もできそうにないよ
 うな不遇の紆余曲折時代、共通してかくのごとくに、それなりの幸福感をいだいて生きている。
 怠惰、運まかせ、呑気、状態としては幾通りも表現できるのだが、自身の心持ちとしては共通
 して根の明るさ、のんきさがある。

 ここが凡人とは異なる点なのか。少なくとも愚痴や悲観や自暴自棄の暗い迷路の中でつぶ
 れていく凡人たちとは決定的に異なる。

 ハイドンは、ある幸運で、高名な音楽家ポルポラの弟子入りができた。夢でも見ているかの
 ような気分でポルポラの弟子になれた彼ではあったが、何のことはない、彼を待っていたもの
 は、この先生の服にブラシをかけたり、靴を磨いたりする従僕まがいの仕事であった。「ロバ」と
 か「うすのろ」と怒鳴られる日々であったらしい。

Nicola (Antonio) Porpora 

 それでも、この大先生のもとで学ぶものは貪欲に吸収していき、彼のその後の飛躍に結びつ
 くところ大であったらしい。

 それにしても貧しい生活と屈辱の日々。

床屋のバイトまでして頑張るハイドン 

 まったくさえない修業時代に入るわけであるが、ともかく音楽という選択をした自分が、これか
 らどうなって、いつ頃になったらめどが立ち、何歳になったら独立して稼いでいけるものなのか、
 そんな決まった段階や軌道もない当時のこの業界で、迷いや不安は我々の想像をはるかに上
 回るほどであったろう。

 しかしハイドンはひたすらに学んだ。何が彼をそんなに一途にしたのかと言えば、音楽が好
 き、という単純な理由につきる。この単純にして明解な理由、それこそが初心貫徹の原動力に
 ほかならない。結果として、世界中の小学生でも知っている大音楽家としての道を歩いていった
 のである。

合奏を楽しむハイドン 

「青年諸君は私を規範として、無から有を生ぜしめることが可能であることを知るだろう」と彼
 は後に語る。

 とにもかくにも、モーツァルトのように恵まれた天才と教育熱心な父親ゆえに幼少の頃より世
 間からちやほやされたのとはまったく異なる人生のスタートであった。





 このヨーゼフ・ハイドンが長く幸福な人生をウィーンで終える頃、この都はナポレオンのフラン
 ス軍に包囲され、市内を砲撃されたあげく陥落、フランスの占領下におかれていた。

 ランヌ元帥  ナポレオン砲兵隊

 ランヌ元帥率いるフランス軍の入城が5月13日で、ハイドンの死去が31日未明である。フラン
 ス軍の砲弾がハイドンの家の庭に落ち、そのショックが彼の死を早めたなどとも言われるが、
 それが本当ならば、ナポレオンは偉大な音楽家の死に大きな責任を負うことになろう。

 そんなわけで、次はナポレオン・ボナパルトの紆余曲折時代の話に移りたい。

Napoleon Bonaparte 

 この英雄は軍隊とは切っても切れない存在であった。

 フランス大革命が勃発する以前から軍隊におり、革命後は革命軍の軍人として頭角を現し、
 クーデターにより政権を奪取、その後は強力な軍事力をもってヨーロッパを蹂躙し、自らも皇帝
 の座につく。

 まったくの硬派、生粋の軍人、そんなイメージである。

 革命の申し子、などと言われるが、彼のスタートは、革命で葬り去られたブルボン王家の恩
 恵に浴することから始まっているのだ。
若きナポレオン 

 彼の生まれ故郷はコルシカ島、この島は現在の日本円で二百億円でジェノヴァ共和国からフ
 ランス王国に売却されたもので、ナポレオンの生まれた頃は新しい支配者フランスへの独立戦
 争などやっていた。

 ともかくフランスの領土となった以上は、本土と同じ待遇を与えられるわけで、貧しい貴族の
 子弟を陸軍兵学校へ「国王の給費生」として入学させてやるという特典も許された。

 ナポレオンの父はさっそくこの特典にとびつく。まず、貧しいことの証明は嘘いつわりもなく立
 証できる。少し厄介な「貴族の証明」は、どこの家にもひとつやふたつある言い伝えの類いをも
 っともらしく書類にして、どうにかパスさせ、ナポレオンは晴れてフランス陸軍の幼年兵学校へ
 入学することになった。



ブリエンヌ陸軍幼年兵学校貧乏学生ナポレオン。仲間に笑われている・・・ (余談3)

 教室でも孤独・・・

 彼はここで、得意科目は抜群で、不得意、もしくは関心のない科目はほったらかしという生徒
 となる。卒業の際には五十八人中四十二番。しかしこれは、他の合格者が合格に至るまでの年
 数を考慮すれば、彼は非常に短期間で合格までこぎつけており、決して悪い成績などではな
 い。
 趣味:読書

 ともかく士官学校を経て少尉に任官したナポレオンは、いよいよ軍人としての道を歩き始め
 たわけなのであるが、この頃の彼が何に夢中になっていたかと言えば、なんと読書と執筆だ。



・・・・・

 安い俸給をきりつめて買い込んだルソーの著書を下宿でむさぼり読んだりしていたらしい。ス
 イスの本屋に本を注文したりもしている。そして駐屯地の静かな夜には小説や小論文をせっせ
 と書きまくっていた。

作家志望で軍務に関心のないナポレオン
専攻したのも花形の騎兵科ではなく砲兵科だし・・・

 彼はフランス人とはなっていたが、前述したように故郷はフランスからの独立戦争を展開して
 いたような島であり、血も肉も精神も他国人のままだった。そこで、どうにもフランス陸軍の仕
 事には身が入らない。

 休暇は下級将校は二年に一度半期休暇を許されていたが、彼はいつも休暇の延長願いを
 提出して、上官のひんしゅくを買っていた。

 休暇申請の常習者

 1787年4月21日付のナポレオン・ボナパルト少尉の申請書には、休暇延長理由に「健康の問
 題」が述べられており、財産もなく、治療に費用もかかるので、延長期間も有給休暇扱いにして
 ほしい旨つけ加えられている始末。

 まったくちゃっかりしたものである。

 おかげで、彼は愚痴愚痴言いながら隊に戻って現場に復帰しても、昇格もせず昇給もおあず
 けのままであった。

 今日も小脇に本をはさんで・・・

「私は十時に消灯し、午前四時に起床。食事は一日に一度で、三時に夕食をとるだけ」という
 日々で将校とは言え非常に貧しくつらい生活を送る。


 それもこれも休暇の取り過ぎで、昇給もストップ、金回りが悪いせいだ。

 彼は、故郷コルシカの独立と読書と執筆活動にしか関心がない軍人なのだった。

 大革命勃発と言えば、いよいよナポレオンの人生が幕開くような響きがあるが、その翌年、
 「幸福について」などという論文をリヨンのアカデミーの懸賞論文募集に応じて送っている。

大革命の動乱も無関心.....やる気ゼロ.....


 残念ながら懸賞のあては外れたが、軍隊には精が出ない、執筆活動も今ひとつぱっとしない、
 厳しい軍務と乏しい食生活でやつれ果てた貧乏将校、そんなナポレオンの姿が、誰の目をひく
 こともなくこの大革命にわきかえるフランスにあったのである。



・・・・・・

 そして彼は、革命の騒乱を傍観し、民衆に対する国王軍のていたらくを馬鹿にしつつ、また
 上官に「休暇願い」を提出するのであった。


 その後の彼が、いかにして、誰もが知るいわゆるナポレオンになっていったのかは、世に溢
 れている「ナポレオン伝」の一冊を参照願いたい。

           皇帝ナポレオン 
 




……人生は長いのです。長いはずだというふうに生きねばなりません。
けっして焦ってはなりません!
               
                              (ロマン・ロラン)






余談コーナー
(余談1)
 オペラ「村の占い師」第8場に使われた彼の曲が、色々な編曲を経て、讃美歌や唱歌や恋愛
 歌につながり、日本では軍歌などにも使われながら、今では手遊び歌の「むすんでひらいて」
 のルーツになっているという話は有名。

               
            Duc de Richelieu            Jean-Philippe Rameau

 ルソーは終生音楽には関心があり、色々な作品も残している。いっとき宮廷貴族のリシュリュ
 ー公爵の後押しにより、いい線までいくが、宮廷作曲家ラモーから酷評されて断念。すでに百
 科全書の執筆家になっていたルソーは全書の中でラモー批判を展開し、報復したりしている。
 いずれにしても、この道へ進むべきではなかったことは確かなことである。

(余談2)
 カサノヴァは劇場のヴァイオリン奏者を生活のため渋々と続けていたわけだが、晩年、彼は
 同じヴェネツィア出身で、同じく聖職者くずれで、同じく放蕩から追放されて諸国を渡り歩いてい
 た共通点多過ぎの天才劇作家ダ・ポンテに慕われていた。(これだけ共通点あれば当然か)
 ダ・ポンテはウィーンの宮廷に宮廷詩人として職を得ていたため、カサノヴァも彼に色々と手
 を貸している。彼をサリエリに紹介したりもしている。イタリアンのネットワークだ。

 Lorenzo Da Ponte  Mozart

 その中でも面白いのは、ダ・ポンテの「ドン・ジョヴァンニ」の台本だ。言わずと知れたモーツァ
 ルトのK527の名作オペラ(1787年)の台本なのであるが、それにもカサノヴァの筆が入っている
 らしい。「ドン・ジョヴァンニ」は伝説のスペインの女道楽の放蕩貴族ドン・ファンのイタリア読み
 だ。同じく女道楽の巨匠カサノヴァは「18世紀のドン・ファン」の異名もあり、なかなか接点多く
 面白い。

 しかも、あのモーツァルトにもカサノヴァが関係しているわけで、劇場の一介のヴァイオリン奏
 者だったことのある彼が、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のウィーン初演(1788年5月
 7日)をどんな思いで観劇していたのだろうか。(カサノヴァはウィーン初演に姿を見せている)


「ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い」(2009年伊・西合作)なんて映画にも。主人公はダ・ポンテ。

(余談3)

父Charles-Marie Bonaparte

 1781年4月5日ブリエンヌよりコルシカの父宛に下記のような悲痛な手紙を送っている。

「父上、あるいは、私の援助者たちが、現在私の間借りをしております部屋で、いま少しく人目
 によく暮らせる方途を講じて下さらないのならば、どうか私を即刻父上のお膝元に呼び戻して
 下さい。私は現在の貧乏暮らしを人目にさらすことにも、それを生意気な生徒たちから嘲笑さ
 れることにも、もう我慢しきれなくなりました。彼等は私より多く金をもっているという取り柄しか
 持たない生徒です。なぜなら、彼等は私の心に燃えている自負の念のかけらさえ持ち合わせ
 ていないのですから。外から受けている甘やかしを鼻にかけて、私の忍んでいる貧窮をせせら
 笑いで侮辱する、あんな下司どもの笑い種に、あなたの子はこれからも絶えずなることでしょ
 う。
 いやです、父上、いやです。私の今の境遇を改善して下さる余裕が絶対にないのでしたら、
 私をブリエンヌから引き取って下さい。是非もないのなら、このお願いを通じて私の希望のほど
 をお察し下さった上で、私を職人にして下さい。金にあかしての道楽に耽りたさがこの手紙を書
 かせているわけでは決してないことを、信じていただきたいものです。私はそのようなことには
 露ほども憧れておりません。ただ私の学友たちと同じように金で遊べば遊ぶだけの余裕が私
 にもあると、彼等に見せてやる必要があると感ずるだけなのです。

                              父を、尊い父を愛する子なる ボナパルト」

 ナポレオンは1779年ブリエンヌ幼年兵学校に入学しているから2年目の手紙である。8月の誕
 生日前だから11歳だ。多感な頃である。


ブリエンヌ幼年兵学校

 ただ2年後の1783年8月、数学で最優秀賞を獲得したナポレオンは、王族の年次訪問でブリ
 エンヌを訪問したオルレアン公爵(ルイ・フィリップ、ルイ14世弟より始まるオルレアン公4代目)
 とモンテッソン侯爵夫人(1773年にオルレアン公爵と結婚承認されたが、王族との結婚なので
 オルレアン公夫人を名乗れず元の侯爵夫人の肩書のまま。実質的には公夫人)により、優秀
 賞を授与されている。


Duc d'Orleans Louis Philippe. Marquise de Montesson

 モンテッソン侯爵夫人は若きナポレオンに直接、優秀賞を手渡しつつ「数学があなたに幸福
 をもたらしますように」と言ったとの事。

 ナポレオンは1784年10月ブリエンヌ幼年兵学校を卒業後、パリのシャン・ド・マルス士官学校
 へ進むのだが、ともかくこの辛かったブリエンヌ時代を後々まで述懐することが多かった。
 彼は皇帝になった翌年の1805年4月に、所用でブリエンヌを訪れた。もはや貧乏な一介の給
 費生ではない彼は、ブリエンヌ伯爵夫人により丁重に出迎えられ、ブリエンヌ城館(幼年兵学校
 は1790年、大革命で閉鎖)に宿をとった。感慨無量の一夜だったことだろう。

 彼はその後ブリエンヌに莫大な資金援助をして、この青春の「故郷」に錦を飾った。


(余談の余談) ルノートルの「ナポレオン秘話」より
 その(1805年4月の)滞在の翌日、彼は早朝から周辺を馬で早駆けし、兵学校時代の思い出
 の地を走り回った。お付きの武官たちをアラブ産の駿馬で引き離して、ついには部下らの必死
 の捜索も空しくナポレオン皇帝は姿を消してしまう。

 皇帝は一人になると、兵学校時代に世話になった「マルグリットおばさん」の粗末な田舎屋に
 向かう。前夜の歓迎レセプションの席で領主の伯爵夫人からおばさんの健在は確認済みだ。
いつも孤独な自分に優しくしてくれたおばさんとの再会に彼の胸は高鳴った。

   
............ブリエンヌでのマルグリットおばさんとの再会(1805)..........................1805年ナポレオン・ボナパルト

 彼は馬から下りると、ただ「こんにちは !」と声を掛けた。懐かしいマルグリットおばさんは、せ
 いぜい皇帝一行の騎兵のひとりが来たくらいにしか思っていないようだ。
「あんたは、フランス皇帝を見たくないのかい?」彼はきく。
「見たいに決まってるでしょ ! これから伯爵夫人のお城に新鮮な卵をお届けに行って、しばらく
 お城に居座って、なんとか一目でも皇帝陛下を見ようと思ってるんだよ。あのボナパルト生徒も
 昔はここでゆっくり遊んでいったもんだが、今じゃ忙しくてそれも無理だろうしね」マルグリットお
 ばさんが答えた。
「そうですか。では、その新鮮な卵をさっそく料理して下さいよ、おばさん。皇帝に食べさせるん
 でしょ? もう私は腹ペコなんですよ !」

 マルグリットおばさんは、慌てて彼の顔をのぞきこむと、一声発し、その場に倒れ込んでしま
 う。さもあろう、目の前にフランス皇帝がいたのだから。ついでに言えば、この旅の目的は、イ
 タリア国王に即位するためのもの。彼はフランス皇帝でありイタリア国王でもあった !

 ナポレオンに助け起こされたおばさんは、牛乳と玉子焼きを山ほど作り、かつての青白い無
 口なボナパルト生徒が喜んで食らいつく様子に涙を流したという。

 彼はこうしてマルグリットおばさんとの再会を楽しむと、金貨のつまった財布を渡して立ち去っ
 た。遠くに見えるブリエンヌ城館を目指して馬を走らせ、血眼になって皇帝を探していた部下ら
 と合流したのであった。
 
 
                            Henri-Benjamin Constant de Rebecque

 ・・・この逸話は、「帝国憲法付加条項」の起草者で「百日天下についての回想録」の編者
 Henri-Benjamin Constant de Rebecqueがナポレオン自身から聞いた話の記録なので、決して
 英雄にありがちな伝記作家の挿話・作話ではない。



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