救国の聖少女ジャンヌ・ダルクは王女様だった!?




 ジャンヌ・ダルクと言えば、百年戦争(1337〜1453)において、スロイスの海戦から始まってク
 レシー、ポワチエ、アジャンクールという主だった戦いのことごとくにイングランド軍に大敗し、国
 王が捕虜にされたり、発狂したり、内乱が起きたりで、面目丸潰れのフランス王国に、忽然と
 立ち現われて「神がお味方です」と一声、疲弊しきったフランス軍を陣頭指揮し、奇跡の大進撃
 を開始、あれよあれよと国内のイングランド勢を駆逐してしまった謎の少女のことである。
  

ドンレミの田舎景色(現在はドンレミ・ラ・ピュセル)...................ジャンヌの生家...............................野良仕事の日々

 彼女はロレーヌ地方のドンレミ村の農民の娘。しかし、ある日、聖女カトリーヌと聖女マルグリ
 ット、そして大天使ミカエルの声(「行ってフランスを救え」)を聞き、16歳のときに近くの守備隊長
 ド・ボードリクールのもとへ出向いた。それがすべての始まりである。


お告げを聴くジャンヌ

 確かに、彼女は、中世の農民の娘というものがどの程度の存在なのかという考証を踏まえる
 と、まさしく「奇跡の乙女」である。

 無学は当然だが、迷信じみた粗野な信仰心と野良仕事と出産・育児しか学ばぬ農家の娘(男
 も同じようなレベルだが)が、フランス騎士団の先頭に立って采配を振るい、戦略・軍事に加わ
 り、隊長や高官、諸侯らのみならず国王すらも動かして、フランスの歴史を短期間で一変させ
 てしまったのだから、これはどう割り引いて静観しても、やはり、「奇跡の乙女」である。



 イングリッド・バーグマン主演の映画「JOAN OF ARC」(1948・米)は有名だが、その他にも
 数多、ジャンヌ・ダルクものの劇映画、小説、研究書が世に溢れているのも、このような少女だ
 から当然ではある。

  

 さて、フランスには、このドンレミ村の農家の娘ジャンヌを、実は、当時のフランス国王シャル
 ル7世の妹君であると主張している一群の歴史家たちがいる。これらの人々を「バタルディザ
 ン」と呼ぶが、バタール batard とは「私生児」の意味で、ジャンヌはシャルル6世妃イザボーと
 王弟オルレアン公ルイの不義の子である、という仮説を唱えているので、こう呼ばれているわ
 けだ。


ジャンヌの誕生

 ま、多くの学者や研究者が口角沫を飛ばして議論している歴史の謎解きのひとつであるのだ
 が、事実がそうであろうとなかろうと、すべて大昔に終わってしまったことなのであり、DNA鑑定
 ができるわけでもなし、今さらどうであっても損も得もないわけだ。

 歴史の謎解きなどというものは、所詮、そんなのんきな分野なのである。ただ面白いだけの
 こと。
 
 しかし、ひとつの学問の、現実生活に何らの影響も与えぬ研究結果が、これほどに面白いと
 いうのも、他の学問分野ではあまり例がない。


 ともかく話を進めよう。

    
.................................................................Charles VI................................................Isabeau de Baviere

 フランス国王シャルル6世(1368 - 1422)は精神疾患があり、在位中から廃人同然の状態だ
 った。王妃のイザボー・ド・バヴィエールはいささか行状に問題多く、「淫乱王妃」などと呼ばれ
 ていたが、夫がそんな状態でもあり、大目に見たいところではある。

 しかし、この王妃の奔放な性質は、フランスの歴史的重大事件を数々巻き起こす原因となっ
 たので、寛大なる理解もなかなかできるものではない。

    
 Henry V.............................Catherine of Valois..........Louis Ier duc d'Orleans

 というのも、まず公然と関係した相手に王弟オルレアン公ルイがいた。このため、ブルゴーニ
 ュ公家の一派とアルマニャック伯家の一派との対立抗争にフランスを巻き込む。

 また、12人の子供(夭折も含め)の内、二人がイングランド国王に嫁いでいるが、王女カトリー
 ヌの夫ヘンリー5世にフランスの王位継承権を認めてしまう。

 イングランド王リチャード2世に嫁いだ姉のイザベルは、夫が廃位・暗殺されたり、幽閉された
 り、追放されたりしてフランスに出戻りしていたが、王女カトリーヌは確かにヘンリー5世から大
 変に愛されており、フランス王家も安心してはいた。しかし、王位継承権を認めるのはやり過ぎ
 だ。

 これなど英仏の長年の戦乱の火種そのものだ。


Duc de Bourgogne.Jean Ier

 また敵方だったブルゴーニュ公ジャンやアルマニャック伯ベルナールとも関係が噂されてい
 たり、フランスを混乱させるだけさせた女性である。後のシャルル7世など、公然と「夫との子で
 はない」と示唆されているのだから、ほどがある。

 これではイングランド国王もフランス王位を欲しがるわけである。

 廃人となっていた夫の国王との間に、なんと12人もの子をもうけたというのも、この「淫乱王
 妃」イザボーの実態を一考すると、果たしてその内の何人が正統な王子・王女だったのか、ま
 ったく解らなくなる。


 Charles VII

 ともかく、この12人の子たちの中で、30歳まで生きながられた者は4人だけである。男児な
 ど、シャルル7世としてジャンヌに助けられて王位につく11番目の王子だけが、20歳を超えてい
 る。

        
       オルレアン公とイザボー王妃・・・・               暗殺されるオルレアン公ルイ(1407)

 そして、生まれてすぐに死んでしまった12番目の子、フィリップ。この子だけは王家の慣例に
 背いて、王妃の別邸であるバルベット館で出産されている。この異例の処置。

 これこそ、義弟オルレアン公との不義の子を身ごもったことを知っていた王妃が、この子を隠
 密裏に処分すべく人目を避けた証拠だと、研究家たちは指摘しているのだ。(なお、父とされる
 オルレアン公ルイは、出産の二週間後に暗殺されている)

 
1824年のドンレミ ジャンヌの生家(左)

 そのイザボー王妃の12番目の子こそが、ジャンヌである、とジャンヌ・ダルク王女説の支持者
 らは語る。

 フィリップという男児名は、その後の隠匿行為を世に知られぬための手段で、産み落とされ
 た王女(王妃と王弟の子だから「王女」ではないが)は、一部の家臣の手によって遠く地方へ運
 ばれ、ある裕福なお百姓さんの養子にされた.....と、彼らは続ける。

    
    ドンレミでの少女期

 19世紀の初めに、すでにこの設定でピエール・カーズという人物が一篇の悲劇を世に出して
 いるが、1923年に評論家ジャン・ジャコビーが王女説の論文を公表し、ジャンヌ・ダルク王女説
 が世に広まった。

 論拠としては以下の点があげられる。

 ジャンヌは父母に親愛の情があまりなかったような節があり、父母もこの奇跡の娘、救国の
 乙女に対して、妙に淡々と接している。


ランスでのシャルル7世戴冠式

 たとえば、彼女の一番の晴れ舞台となったランスでのシャルル7世戴冠式に際しても、父親
 ジャックは娘が到着して4日もすると金をもらって帰郷してしまった。母親イザベルなどランスに
 来もしない。

 また娘が敵方に捕らわれた時も、この両親は、自分たちにまで敵方の追っ手が来まいか、た
 だそれだけを心配している。

 ジャンヌの生まれ故郷ドンレミの村人たちも、あまりジャンヌとの付き合いがあった様子もな
 く、むしろ敬遠している感すらある。これは、この村に密かに運ばれて以来、王妃かオルレアン
 公家の手の者から監視されており、村では父母も含めて、このわけありの娘を高貴な方のご
 落胤と見なしていた。それがために皆、よそよそしいのだ、と推察する。


馬上のジャンヌ

 また、お百姓の娘であるはずのジャンヌが、宮廷に現われたおり、その立居振舞がすでに洗
 練されていた点、また騎士たちと馬首を並べて軍馬を堂々と操るなど、とてもにわか仕立ての
 訓練で身につく芸当ではない点。

 これは、王家の血をひく娘として、貴い筋から16年間、それなりの教育をほどこされていた証
 拠である、と。

  
........................ヴォークリュールに到着したジャンヌ......................今も残る「フランス門」

 また、彼女が最初に行動に移した近くのヴォークリュールの守備隊長との接触も、初めは当
 然のこととして相手にもされなかったが、三回目の会見の後、隊長がにわかに態度を豹変、彼
 女を丁重にあつかい、護衛まで随伴させてくれた不思議。

 これは、神のお告げを聞いた、などという理由に隊長が聞く耳持たないのに業を煮やしたジ
 ャンヌ(もしくは彼女の近侍)が、彼女の身分の真実を告白したからこその結果だとする。

 
..............シャルル王とジャンヌ...........................................................1429年頃のシノン

 そしてシノン城で初めて国王に会った際、二人きりで広間の隅で何事か話を始めて、間もなく
 国王の目に涙が溢れ出したという事実は、ジャンヌが長年離れ離れになっていた妹であるとい
 う感動的な告白を聞いたからに違いないとする。


・・・・・と、一々、王女説の論者たちは自説の裏付けを行なっていく。

 御覧のとおり、歴史学者でなくても、以上のような論拠では、とても納得はいくまい。小説の設
 定ならば、実に面白そうだが....

        
   書記官が公文書の余白に描いたジャンヌの素描画         名声の高まるジャンヌ

 父母が妙に娘によそよそしくたって、そんな親子関係は様々な理由でどこにだってある話だ
 し、村人たちだって、ジャンヌがもしもちょっと変わった娘だったなら、あまり親しくなろうなんて
 気もなくなるだろう。守備隊長の件だって、また国王の件だって、従来どおり、神のお告げに従
 う乙女が、「聖女の証」として、その神秘な力を借りて何か本人しか解らぬ秘密を語り、びっくり
 仰天させたあげくの変化と見てもおかしくはない。


導かれるジャンヌ

 それにそもそも、もしも彼女が本物の王女だったとしても、彼女を使って絶望的なフランスの
 劣勢を挽回できると考えるか? 女武将など何の効力も期待できない。そんな妹と再会したっ
 て、国王が急に奮い立って戦いを始める理由にはならない。むしろ、大天使ミカエルがフランス
 のために自分を遣わした、と信じさせることに成功したから、という従来の流れの方が自然で
 ある。


 ところが、この王女論者の一人、ペームという人物が法王庁ヴァチカンに保管されているあ
 る報告文書に、ジャンヌの出生の秘密が明記してあると語った。

 これは、ジャンヌが国王と面会した後、大学や宗教関係者が彼女の身元をドンレミ村まで調
 査員を派遣して調べた当時の調書であり、彼らは彼女の出生の事実を知ると調査を打ち切っ
 たという。


Vatican

 この調書(ポワチエ調書)はその後、廃棄されたものと信じられていたが、現在もヴァチカンに
 保管されており、ある人物がそれを発見してしまったが、「ジャンヌ・ダルクの美しい伝説のた
 めに」口外をとめられ、文書もすでに保管場所が変えられて、今では誰も閲覧を許されなくなっ
 てしまった、とのことだ。



 法王庁からすれば、様々な難しい審査を経て、彼女を聖女に認定したわけだから、それが実
 は王妃とオルレアン公の不義密通の庶子で、その立場をうまく利用してフランスを救った娘だ
 った、なんて露見したら厄介だ。神聖な物語をそのままにしておくためにポワチエ調書を隠蔽
 するのも合点がいく。

 ペームはそれをほのめかしたいわけだが、存在すらあやしい調書、しかも実際に誰も見ても
 読んでもいない文書が、どうのこうの推理されても聞く方も困るわけで、とても信憑性が高いと
 は言えない。

 ジャンヌ・ダルク研究家のギィユマンは言う。「確実なことは、ヴァチカンには決して近づくこと
 のできない古文書が存在しているということで、この点については沈黙を守るのが礼儀である」
 と。

 
....................Charles Ier de Valois, duc d'Orleans............................Jean de Dunois

 ジャンヌと共に戦ったオルレアン公シャルルもルイ・ドルレアンの私生児デュノワ伯も彼女の
 兄たちということになるが・・・・


 ともかく、このジャンヌ・ダルクの出生の謎に関しては、あまりにも決め手がないと感じる。彼
 女が自らを「オルレアンの少女」と名乗っていた事実や、常にオルレアン家の郎党に囲まれて
 おり、自分も同家に対する親しみを隠さなかった点など、ふむふむと頷きたくもなる。しかし、ま
 だまだ「小説的」という領域から出るのは無理だろう。かなり手の込んだ「小説」にはなりそうだ
 が。


 ところで、出生もさることながら、ジャンヌに関しては、その最期も謎めいた逸話がある。

 
      ジャンヌに襲いかかる敵兵                     捕らわれのジャンヌ

 彼女は1430年、コンピエーニュでブルゴーニュ勢に捕らえられ、イングランド軍に引き渡され
 た。そして翌年、ルーアンにて火刑に処せられる。その際、民衆の前に引き出された彼女の顔
 がすっぽりと覆われていたという証言がある。

 
     ジャンヌが幽閉された塔                      ルーアン城全景

そこから、実はジャンヌはすでに秘密の地下道から脱出しており、かわりにルーアンで呪術を
 行なった罪で処刑されることになっていた別の女とすり換えられていたのだ、という「伝説」が生
 まれた。


様々に描かれるジャンヌ

 この話を裏付けるように、5年後、ロレーヌのメッスに自分はジャンヌだと名乗る女性が現わ
 れる。

 確認のためにジャンヌの弟たちがその女と面談するが、弟らは「確かに姉だ」と証言。

 この事件は当時の年代記にもちゃんと記載があるし、この女性のために支出したオルレアン
 市の会計記録も残っている。

 しかし、この女性、オルレアン市の参事官から市をイングランドから解放した功労金として210
 パリ・リーヴルもらうと、なんと忽然と姿を消してしまった。

 従って、この件は、まんまとしてやられた詐欺事件として片付けられてしまう。

           
..............................................Jeanne du Lys des Armoises..............Robert des Armoises

 しかし、ジャンヌ生存論者らは、この女がロレーヌ地方の貴族デ・ザルモワーズと結婚してい
 る事実から、ルーアンの処刑を免れたジャンヌが、ロレーヌの一貴族の奥方におさまって、そ
 の後をささやかな家庭的幸せの中に生きていった、というストーリーを組み立てる。

 そして、1929年、このザルモワーズ家につながるセルモワーズ家の子孫の者が、先祖にまつ
 わるこの故事の真偽を調べようと一念発起。ついに、ジャンヌを名乗った女性とその夫の五百
 年前の墓の位置を調べ出した。

  
.....................l'eglise de Pulligny.......................................................................Pulligny

 しかし、この五百年の歳月の間に行なわれた教会(ピュイニー教会)の修繕工事の末に、その
 墓は、教会の建物の下へ隠れてしまっていた。彼の調査は、その墓石の位置確認にとどまり、
 あとは甥で本家のピエール氏へ引き継がれる。

 
求める棺はただの無名の貴族なのか、ジャンヌなのか?

 ピエール氏は1968年、許可を得て、教会の床石を撤去しての墓石発掘工事を敢行。そして
 ついに、15世紀のザルモワーズ夫妻の墓を見つけ出す。

 しかし、墓全体の発掘はナンシー司教からの中止要請が入り断念。

 ともかく、生存論者たちは、「ジャンヌの墓、ついに発見 !」てな調子でセンセーショナルな発
 表をしたそうだ。

・・・・しかし、そもそも真偽不明、当時としては偽ジャンヌ詐欺事件として処理された出来事の
 当事者の墓を発見したに過ぎないわけで、なんとも浮いた話ではある。


 もちろん、フランスを救う聖女として無名の田舎娘が歴史の表舞台に現われ、数々の奇跡的
 な偉業を成し遂げ、最期は「魔女」として、悲劇的な火刑に果てた彼女が、実は間一髪、処刑
 を免れて脱出、余生を平穏の内に送った、なんて結末には魅力を覚えるし、それが事実であっ
 て欲しい。


              
 絶望と敗北感に満ちたフランス人にとって彼女はまさしく聖女だった。それは、もう、高貴な生
 まれとか王女様とかの問題ではなく、もっと遥か至高の存在だ。

 それが、最期は、哀れ「魔女」として聖職者から断罪され、屈辱の炎に焼かれてしまった少女
 ジャンヌの思いは察するに余りある。

 
         イングランド派の聖職者の尋問                 侮辱に耐えるジャンヌ

 当時からフランス側からはラ・ピュセル(la Pucelle)、つまり「乙女」と呼ばれていたが、敵側イ
 ングランド勢からは当然「魔女」呼ばわりだ。160年後のシェークスピアなども、まだその作品
 (「ヘンリー六世」)の中で魔女めいた描写をしているくらい。(余談1)

 確かに、裁判にかけられた時は「魔女」(当時は「魔女」の概念よりは「異端者」だが)として火
 刑を求刑された。


ルーアンでの宗教裁判

 イングランド領有地内での政治色の強い宗教裁判であったが、以下のような判決文が教会
 の名の下にジャンヌに向けられた。

「キリスト並びに正統なる信仰の名誉を保有する我等は、汝が次の点で重大な罪を犯したこと
 をここに宣告する。汝は迷信に類する予言を行い、神並びに諸聖女を侮辱した。汝は神の掟、
 聖書、教会の定めを裏切った。汝は秘蹟に際して神を侮辱し、謀反を唆した。汝は棄教し、分
 派の罪を犯し、カトリック信仰の多くの点において過誤を犯した....」

 そして、最後の判決文は・・・
「誤ることない判決によって、汝、俗称“ラ・ピュセル”(乙女)ことジャンヌは、分派、偶像崇拝、
 悪魔の祈祷、その他多くの悪業により、様々の過誤及び様々の罪に陥っていることを宣告し
 た。...ここに汝を教会から切り離し、見捨てる」

 

 聖女と大天使の導きに従い奇跡を成し遂げたジャンヌにとって、心が引き裂かれるような言
 葉の数々だったろう。

 そして、1431年5月30日、刑は執行された。


......................................................,..火刑台の準備.........................................................................処刑されるジャンヌ


 宗教裁判所は、この少女(その時、19歳)が聖女でもなんでもない証拠を群集に示さんがため
 に、彼女を焼く炎をいったん遠ざけて、その裸体をさらしものにした。(聖女でも何でもないただ
 の人間だと示そうとした説もある)

 ともかく、火刑後、彼女の灰が「聖遺物」とされて人々にもてはやされることを懸念したイング
 ランド側は、その灰のことごとくをセーヌ河に流してしまったらしい。

 復活の概念から当時のキリスト教者は肉体がなくなる火葬を恐れていたので、火刑は彼女
 の魂をも消滅させるに等しいものだった。


eveque de Beauvais ,Pierre Cauchon

 この1431年のイングランド占領下ルーアンでのジャンヌ・ダルク処刑裁判はボーヴェー司教コ
 ーション主導のもと60人の聖職者によって評決された。(裁判長ル・メイトルは異端審問専門の
 修道士だったが棄権した)

 この宗教裁判の名を借りた政治裁判によっての火刑執行後、「イエス様!」というジャンヌの最
 期の叫びをいつまでも耳に留めていたイングランド国王の秘書は、帰国の途上、思わず叫ん
 だという。
「もう駄目だ、我々は聖女を焼き殺してしまったんだ !」と。(余談2)

 
        フランス軍の大反撃は続く       le cardinal Guillaume d'Estouteville

 ジャンヌ処刑後もフランス軍は快進撃を続け、イングランド占領地区を次々と奪還していく。
そして1449年、ジャンヌが処刑されたルーアンにも30年ぶりの入城を果たした。国王シャルル7
世はルーアン大司教のもとに保管されているジャンヌ裁判記録をもとに、その名誉回復裁判の
準備を開始する。

 但し政治色の強い裁判とはいえ、「宗教裁判」であった以上、国王の権限では判決を覆すこ
とは出来ない。

 そこでノルマンディー地方の名門出身で法王特使のギョーム・デストゥートヴィル枢機卿(イン
グランド軍とノルマンディーで戦った闘将ルイ・デストゥートヴィルの弟でもある)と、同郷のフラン
ス王国異端検察総監ジャン・ブレアルがジャンヌ名誉回復裁判の開催をローマ法王に奏上す
る。丁度、フランス軍が彼ら二人の故郷をイングランド勢から解放したタイミングでもあり、フラ
ンス救国の乙女ジャンヌの名誉回復にも力が入る。

                
..........................................................Calixtus III..............................................l'archeveche de Reims,des Ursins

 そして、ついに、1455年、ローマ法王カリクトゥス3世によってルーアンの裁判のやり直しが命
 じられ、ルーアンでのジャンヌ宗教裁判の評決が全面的に否定された。

 翌1456年7月7日、異端検察総監ブレアルの立会いのもとランス大司教デ・ジュルサンが判
 決文を読み上げる。



「我等は前判決を棄却し、否認し、破棄されたものと宣言する。ジャンヌはいかなる汚辱をも被
 るべきではなかったし、今後も被るべきではない。いまここに汚辱は清められたことを明らかに
 する」


Benedetto XV

 そして、1919年、ローマ法王ベネディクトゥス15世は「列聖承認法王勅書」に署名、ジャンヌは
 列聖され、ここに本当の「聖女ジャンヌ・ダルク」が生まれた。



 もはや、彼女はドンレミ村の農家の娘でも、王家の血筋の王女様でもない。

 聖女ジャンヌ・ダルクなのである。






余談コーナー

(余談1)
 確かにフランス人にとっては神が遣わした救国の聖女であるが、神はフランス人だけのもの
 ではない。従ってイギリス人は当然に彼女を魔女扱いしたくもなる。
 こんな素朴な疑問が、やはりジャンヌがかけられた宗教裁判の席でも投げかけられている。
  1431年予備審査の3月17日土曜日コーション司教及び異端検察官代理ジャン・ル・メートル
 の委託を受けたジャン・ド・ラ・フォンテーヌ師による審問。
「聖女カトリーヌと聖女マルグリットがイギリス人を憎んでいることがどうして解るのか?」
ジャンヌ「聖女たちは神の愛し給うところを愛し、神の憎み給うところを憎みます」
「神はイギリス人を憎み給うのか?」
ジャンヌ「神がイギリス人を愛するのか憎悪しているのか、また彼等の霊魂に対して何を行っ
 たかは解らないが、フランスで戦死する者を除けば、彼等はすべてフランスの外に追い出され
 ること、ならびに神はフランス人に勝利をイギリス人に敗北を与えることは明らかです」
「イギリス人が優勢であった頃は、神はイギリス人に味方していたのか?」
ジャンヌ「神がフランス人を憎んでいたかどうかは解らないが、もしフランス人が罪の状態にあ
 ったなら、その罪のために敗れるままにしておくのを望まれたのだと思います」

 ・・・このような、フランス人ならば誰でも惚れ惚れするような愛国的な発言をしている。
 他日の審問においても、例えば郷里のドンレミ村にいた一人のイギリス側についていたブル
 ゴーニュ派の支持者に対しては「神の思し召しにかなうなら、その男の首が刎ねられてしまえ
 ばよいと思った」と答えているし、「イギリス人に捕えられるより神に魂を返した方がまし」(死ん
 だ方がまし)とも答えている。彼女はかなりな愛国者なのである。


(余談2)
 この火刑の時に、ジャンヌは両親からもらった大切な指輪の返還をコーション司教に申し出
 ていた。その指輪はすでにイギリスに加担していたブルゴー二ュ方により没収されていたから
 だ。結局処刑された彼女の没収財産として、その指輪はコーションから裁判に参加していたイ
 ギリスのボーフォート枢機卿に渡った・・・
 このような点からしても、異端裁判で火刑を申し渡された者の遺物、つまり魔女・異端者の持
 ち物などを、高位聖職者が所有するのだろうか? という疑問がわく。彼女を断罪した聖職者ら
 自身も、心の底ではこの裁判を政治裁判であると感じていたのだろう。・・・

 ところで、この件の指輪だが、2016年3月、とあるイギリスのオークションで出品された「ジャン
 ヌ・ダルクの指輪」を、フランスの財団が日本円で4700万円で落札、600年間、ジャンヌを処刑
 した憎きイギリスに渡っていた彼女の大切な遺品をフランスが取り戻したと大ニュースになった
 が、この指輪のことらしい。


 問題のジャンヌの指輪    Cardinal Henry Beaufort    Lady Ottoline Morrell

 オックスフォード研究所は、その金メッキを施された銀の指輪が15世紀のものであることは確
 認している。また、ジャンヌがコーション司教に説明した当該指輪の特徴、「イエス−マリア
 (Jesus-Maria)」を意味する「JHS-MAR」の文字の刻印など、裁判記録の内容とも合致しては
 いる。ただ、600年もの長い間の来歴を証明する資料はない。(しかも証言中の三つの十字架
 の刻印はない)

 そこでジャンヌ・ダルク博物館などはこのオークションに不参加だった。

 ただ、この指輪をオークションに出品したハッソン氏は、父親が1947年のサザビーズのオー
 クションで買い取った際に、元々の所有者の貴婦人オットリン・モレルの家系が当初の所有者
 ボーフォート枢機卿につながっている点などを証明していると話していた。・・・
 父親であったハッソン医師は、当時28000円程度で指輪を落札したらしい。・・・
 ともかくオークションで二番手の高値で競ってきた相手がイギリス古美術業のベルガンザ社
 であったこともあり、フランスではジャンヌの遺物をイギリスから奪還し、600年の時を経て彼女
 の無念を晴らしたような盛り上がりを見せていることは事実なようだ。




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