本邦初訳 フランス革命ギロチンリストB1794年7月〜テルミドール反動


1794年7月1日

1833. ピエール・アレール ALLAIRE (Pierre), 41歳。農家。ロージュLoges生。

1834. 二コラ・パスカル・アンドルジー ANDREGY (Nicolas-Pascal), 38歳。宿主。フォルメリーFormery生。

1835. ガブリエル・ブナール BENARD (Gabriel), 47歳。農家。ロージュ生。

1836. ジョゼフ・グス GUTH (Joseph), 43歳。教師。ミエルサンMilhersan生。

1837. 二コラ・ユレル HUREL (Nicolas), 50歳。生地製造。ロージュ生。

1838. シャルル・ジョバン JOBIN (Charles), 43歳。製粉業。オルジュラOrgera生。

1839. シャルル・フォルテュネ・モラン MORIN (Charles-Fortune), 45歳。フォルメリー生。

1840. フランソワ・ヌー NE (Francois), 36歳。税関検査官。パリ生。

1841. リゴベール・キネ QUINET (Rigobert), 50歳。店員。アンジュクールAngecourt生。

1842. シャルル・ラブールダン RABOURDIN (Charles), 31歳。ブランシュフォッスPlanchefosse生。

1843. シャルル・ティファール・ラブールダン RABOURDIN (Charles-Tiphard), 30歳。農家。セルモワーズ
Sermoise生。

1844. 二コラ・リシュー RICHOUX (Nicolas), 36歳。代理人。ジョンシエールJonchere生。

1845. ジャック・ヴァンサン・ルーヴィエール ROUVIERES (Jacques-Vincent), 27歳。織工。マリージョル
Marriegeollene生。

1846. アンリ・ヴァリューズ VALEUSE (Henry), 39歳。兵士。ルーヴァンLouvain生。

1794年7月2日

1847. ジャン・二コラ・アペル APERT (Jean-Nicolas), 30歳。ジヴリーGivry生。

1848. フィリップ・ベルトルディ BERTHOLDY (Philippe), 30歳。鉄商人。ヴィサンブールWissembourg生。

1849. マリー・ブロットフィエール BLOTTEFIERRE (Marie), デュソーゼーDusauzay未亡人。56歳。パリ生。
(ソーゼー侯爵夫人マルグリット・ド・ブロットフィエール Marquise du Sauzay,Marguerite de BLOTTEFIERE
と思われる。1755年フランス衛兵隊指揮官のMarquis du Sauzay,Jean Baptiste du SAUZAYと結婚。1858
は恐らく娘。父親はMarquis de Vauchelles,Nicolas de BLOTTEFIERE。母親はLe GENDRE某。兄のヴォー
シェル侯爵シャルル・ド・ブロットフィエールもフランス衛兵隊に在籍していたが1756年に他界している)

1850. ジャン・ケッソ CAISSO (Jean), 49歳。弁護士。ロデーヴLodeve生。

1851. グザヴィエ・シャイエ・ドヴェルジュ CHAILLET-DEVERGES (Xavier), 30歳。准将。ロン・ル・ソールニエ
Lons-le-Saulnier生。
(ピエール・フランソワ・グザヴィエ・シャイエ・ド・ヴェルジュ Pierre Francois Xavier Chaillet de Verges 1763-94
 1780年 8月1日に砲兵学校に入隊し、その後グルノーブル砲兵連隊の中尉。1792年トゥール砲兵連隊を指揮
する大尉。1793年 10月11日に准将 、 東ピレネー軍の参謀本部補佐官 、1793年12月2日に公安委員会に逮
捕され、投獄。裏切り者として死刑判決を受け、同日処刑された。シャイエ家はメーヌ地方の領主階級)

1852. ルイ・ジャック・トメー・クレテル CRETEL (Louis-Jacques-Thomee), 27歳。法律家。サンリス生。

1853. ルイ・ジョゼフ・ダムール DAMOUR (Louis-Joseph), 20歳。宿屋経営。ポン・サン・マクサンス生。

1854. ユスターシュ・ダウー D'AOUST (Eustache), 31歳。軍将。ドゥエDouai生。
(ユスターシュ・シャルル・ジョゼフ・ダウー Eustache Charles Joseph d'Aoust 1763-94 1789年から91年まで国
民議会議員で国王の死刑に賛成投票したダウー侯爵ユスターシュ・ジャン・マリー 1741-1805の息子。王室歩
兵連隊から軍歴開始し、78年15歳で少尉。89年中尉。90年野戦総監のロシャンボーの副官。92年大尉から大
佐まで昇進。93年東ピレネー軍の暫定の将軍となる。前任も前々任者も相手のスペイン軍の有能なアントニオ・
リカルドス司令官により敗北し投獄{二人とも94年処刑}されている状況下だった。最初はいくつかの勝利に恵ま
れたが、徐々に運が尽き、リガルドスに敗北する。そして逮捕。政敵からも非難され投獄。そして処刑された。
母親はMarie Bernardine Adolphine Amelie de JAMBLINNES。3人の男兄弟あり)

 Eustache Charles Joseph d'Aoust

1855. ルイ・ピエール・フランソワ・ドラトル DELATRE (Louis-Pierre-Francois), 29歳。少将。ヴァルリーVallery生。
(ルイ・ピエール・フランソワ・ドラットル Louis Pierre Francois Delattre 1770-94 23歳で処刑とある。1781年海軍中尉。
88年工兵隊少尉。92年ダンピエール将軍副官としてリール戦参加。93年准将。そして東ピレネー軍に配属され、少将。
しかしスペイン軍のリカルドス司令官に敗走させられ、前者ら同様に逮捕。そして処刑)

 Louis Pierre Francois Delattre

1856. トゥーサン・デザングルメール DESENGREMELLE (Toussaint), 36歳。商人。モルランクールMorlencourt生。

1857. ピエール・デュメー DUMAY (Pierre), 39歳。トロワ生。

1858. マドレーヌ・ベルナルディーヌ・デュソーゼー DUSAUZAY (Madeleine-Bernardine),ラニーLagny妻。26歳。パリ生。
(ダロワニー侯爵夫人マドレーヌ・ベルナルディーヌ・デュ・ソーゼー Marquis d'Aloigny,Madeleine Bernardine du
SAUZAY 父親はフランス衛兵隊指揮官Marquis du Sauzay,Jean Baptiste du SAUZAY、母親は1755年結婚した
Marguerite de BLOTTEFIERE{恐らく1849}。1786年Marquis d'Aloigny, Baron de Saint PardouxのThomas Marie
 d'ALOIGNY 1757生と結婚し、1788年、89年と男児をもうけた。但し、「1807年以前に死亡」とあり、処刑の明記はな
い。また1807年以前に死亡という推定も、夫ダロワニー侯がヴェルヌイユ侯の娘と再婚した年が1807年であり、それ
以前には死亡しているはずということが根拠に過ぎない。裁判記録の夫名ラニーLagnyとダロワニーd'Aloignyもやや
似ている。当時の革命裁判所の記録精度を考えると充分に同一の可能性はある。また1849が母親とすれば関係者
の同日処刑として話が合う)

1859. ジャン・パティスト・フーケ FOUQUET (Jean-Baptiste), 41歳。元税理士。ポニーPonny生。

1860. ジャン・ギヨーム・ハイデンライヒ HEIDENREICH (Jean-Guillaume), 32歳。商人。ヴィサンブール生。

1861. レオポール・ラバイユ LABAYE (Leopold), 39歳。軍事補佐官。ナンシー生。

1862. ジュリアン・ルネ・ルモニエ LEMONNIER (Julien-Rene), 36歳。軍事委員。ヴァローニュValognes生。

1863. ジョゼフ・マルトー MARTEAU (Joseph), 33歳。馭者。セ・シュル・ソーヌSey-sur-Saone生。

1864. ジュルジュ・ムザンリュ MUSENLUS (Georges), 42歳。 ヴィサンブール生。

1863. ピエール・オルリー OLLERY (Pierre), 37歳。時計職人。 ヴィサンブール生。

1866. アルマン・フランソワ・ルイ・ピエドボールペール PIETDEBEAUREPAIRE (Armand-Francois-Louis), 40歳。
 小売商。シェレイCheyrey生。
(アルマン・フランソワ・ルイ・ピエ・ド・ボールペールArmand Francois Louis PIET de BEAUREPAIRE 1754-94 父親は
Pierre Charles Marc PIET de BEAUREPAIRE 1731-1770 母親はRenee Marie Denise BASCHER 1731-1770。ルーヴ
ォワのもとでヴェルサイユやシャンボールの建築監督をしていた国王顧問で主席建築官Charles Hilaire PIET de
BEAUREPAIREは曾祖父にあたる。兄 Pierre 1750-93はボールペール士爵でその息子は同伯爵で、娘はリュジニャン
家に嫁いでいる。この人も別資料では「元貴族」とある)

1867. ヴォルカール VOLKART 38歳。小間物商人。シュリーアバッハSchierbach(オーストリア)生。

1794年7月3日

1868. レオナール・フランソワ・べラルド BELHARDE (Leonard-Francois), 23歳。騎兵。サン・プリヴァSaint-Privas生。

1869. ジル・ドミニク・ジャン・マリー・ボワジュラン BOISGELIN (Gilles-Dominique-Jean-Marie), 40歳。野戦総監。
バランBalin生。
(ボワジュラン・ド・ケルデュ子爵ジル・ドミニク・ジャン・マリー・ド・ボワジュラン・ド・ケルデュ Vicomte de Boisgelin de
Kerdu,Gilles-Dominique Jean Marie de Boisgelin de Kerdu 1753-94{49年生とも} ブルターニュのプレロPlelo郡
la Ville-balin領生。1766年近衛ロレーヌ連隊少尉、王室ピエモン騎兵連隊大尉、78年フォレス連隊大佐。84年
サン・ルイ騎士。88年ベアルン連隊司令官。革命時、最高の規律を誇った。91年野戦総監。92年リュクネールの配下
になることを拒否、逮捕、処刑。父親はComte de Boisgelin de KerduClaude Jean Marie de BOISGELIN de KERDU
1720-1800。母親はJeanne Renee Emanuelle du HALLAY。妻は1774年結婚したMarguerite Henriette Adelaide de
LAURENS de PEYROLLES 1756-1813。弟Thomas Pierre Antoine de BOISGELIN de KERDU 1754-92は司教総代理
だったが、92年9月虐殺で死亡。この司教総代理、メイイ・クーロンジュ男爵夫人アンヌ・クーピエ・ド・ロマンBaronne de
Meilly-Coulonge,Anne COUPPIER de ROMANS 1737-1808と1781年関係をもっていた。この女性はブルジョワの娘だっ
たが、恋人のカザノヴァの指示で1760年国王ルイ15世に接近し、愛人となる。そしてLouis Aime de BOURBON 1762-
1787をもうけた人。その後、72年Marquis de cavanacと結婚。その後に、このかなり若い聖職者の愛人をつくったわけで
ある。彼は宣誓拒否をしてサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に収監され、そこで虐殺されたが、聖職者としての経歴の唯
一の汚点となった。またこの人の母方祖母 Marie Renee de SEVIGNE de MONTMORON 1661-1735はセヴィニエ一族で
セヴィニエ侯夫人の夫と曾祖父同士が兄弟。但し、セヴィニエ夫人の相続人は1978ボワジュラン伯の妹Marie de
BOISGELIN。1978ボワジュラン伯はキュセ系で、この人はケルデュ系ボワジュラン)

 Gilles-Dominique Jean Marie de Boisgelin de Kerdu

1870. ジャック・ジャン・カルド CARDOT (Jacques-Jean), 28歳。従業員。プティトサントPetitesainte生。

1871. ポール・クロード・クペル CUPER (Paul-Claude), 26歳。手袋屋。ブロワ生。

1872. ルイ・デプレ DESPREZ (Louis), 29歳。鍵屋。リュエルRuelle生。

1873. フランソワ・マキシミリアン・ドワイアン DOYEN (Francois-Maximilien), 44。猟師。ナンシー生。

1874. フランソワ・デュフォー DUFAUT (Francois), 27歳。織工。ブルーイユBreuil生。

1875. ジャン・パティスト・フリアン FRIANT (Jean-Baptiste), 28歳。鍵屋。ヴェルサイユ生。

1876. マテュー・ジャン・ピエール・ジロー、通称ドヴァレンヌ GIRAUD, dit Devarenne (Mathieu-Jean-Pierre), 43歳。
スイス百人隊除隊者。リヨンCommune affranchie生。
(元貴族、元スイス百人隊大尉ともあり、通称はヴァレンヌVarenneと)

1877. ギー・ゴノー、通称バール GONEAU, dit Barre (Guy), 50歳。軽騎兵。リベラックRiberac生。

1878. 二コラ・アントワーヌ・ラブルッス LABROUSSE (Nicolas-Antoine), 63歳。元会計士。ヴィーVie生。

1879. エティエンヌ・ルクッソン LECUSSON (Etienne), 36歳。代理人。トゥール生。

1880. ピエール・ルフェーブル LEFEBURE (Pierre), 44歳。元市長。モンタルジ生。

1881. フランソワ・フレデリク・セシル・マルマンド、通称トゥールヴィル MARMANDE, dit Tourville (Francois-Frederic-Cecile)
41歳。フレグFregu生。

1882. ルイ・ムノン MENON (Louis), 19歳。元騎銃兵将校。パリ生。

1883. ポンス・ミヤール MILLARD (Ponce), 42歳。屋根葺き職人。ランス生。

1884. ジャック・フランソワ・ポワリエ POIRIER (Jacques-Francois), 47歳。ワイン商。ヴィルムーティエVillemoutier生。

1885. アンヌ・テレーズ・ラッフェ RAFFE (Anne-Therese), コケCoquet未亡人。45歳。ヌーヴィルNeuville.生。

1886. ジャン・ユペール・トールニエ TOURNIER (Jean-Hubert), 60歳。農家。リル・ルーモン・ジェランl'isle-Rousmont-Gerein生。 .

1794年7月4日

1887. オーギュスタン・エロー AIRAULT (Augustin), 聖職者。サン・メサンSaint-Messant生。

1888. ジャン・ピエール・バジュー BAJOU (Jean-Pierre), 44歳。料理人。ノジャン・ル・ロトルーNogent-le-Rotrou生。

1889. ジャン・パティスト・ブギネ BEGUINET (Jean-Baptiste), 42歳。地区長。エタンEtain生。
(1752-94 エタン地区長で弁護士。父親はエタン村強制執行法廷の弁護士でスパンクールSpincourt侯領警察署長のJoseph BEGUINET 1724-82。母親
はAnne COLLIBERT 1725-1810。1774年Eve Catherine PERRIER、78年Elisabeth LAURENTと結婚。最初の結婚で1男児を、二番目の結婚で一男三女を
もうけている。最初の男児は不明だが、三女の内二女は結婚後二十歳代で死去、一女も41歳で死去。一男は94年出生年に死去している。後者は名が
異なるが弟であろう)

1890. ピエール・フランソワ・ブギネ BEGUINET (Pierre-Francois), 36歳。行政官。エタン生。
(ピエール・フェリクス・ブギネ Pierre-Felix BEGUINET 1758-94 前者の弟。91年〜93年モークールMaucourtの憲法上の司祭。行政官)

1891. 二コラ・ベルトラン BERTRAND (Nicolas), 40歳。宿屋経営。ジャルニーJarny生。

1892. ジャン・ルイ・ビヨン、通称バルべ BILLON (Jean-Louis), dit Barbet. 26歳。木靴製造。ジャンJain生。

1893. ボネ・ド・ラファック・デュラック BONNET-DE-RAFFAC-DULAC, 58歳。農家。アングレーム生。

1894. オーギュスタン・ブートコワ BOUTEQUOI (Augustin), 37歳。織工。ルージュモンRougemont生。
(後者の兄。1896の息子)

1895. マリー・ジャンヌ・ブートコワ BOUTEQUOI (Marie-Jeanne), 33歳。ルージュモン生。
(前者の妹。後者の娘)

1896. マテュー・ブートコワ BOUTEQUOI (Mathieu), 63歳。織工。ルージュモン生。
(前二者らの父親)

1897. ジャン・ショーヴァン CHAUVIN (Jean), 56歳。鬘師。モントーバン生。

1898. 二コラ・ドーブ DAUBE (Nicolas), 45歳。油売り。テュルTulle生。

1899. マリー・アンヌ・ドラマール DELAMARRE (Marie-Anne), サン・トゥーアンSaint-Ouen妻。55歳。パリ生。
(Marie de La Marre 1739-94 1901の妻。ドーフィネのヴァランスに住む商家の出身だがパリ生まれ。1901と結婚後はパリのラ・ブーシュリー街に新居。
四男三女をもうける。詳しくは1901内容参照)

1900. クロード・ドロルム DELORME (Claude), 40歳。農家。ブリイーBrilly生。

1901. ジャン・バルテレミー・アレクサンドル・マリー・ド・サン・トゥーアン DE SAINT-OUEN (Jean-Barthelemy-Alexandre-Marie),61歳。ルーアン生。
(ジャン・バルテレミー・アレクサンドル・マリー・ド・サン・トゥーアン・デルヌモン Jean ‘Barthelemy’ Alexandre Marie de SAINT-OUEN D'ERNEMONT
1733-94 父親はBarthelemy de SAINT-OUEN、母親は Marie Louise Gabrielle de BONIFACE。長男。1736年パリで父親は殺害された。58年ルーアン
での妹の結婚式参加記録に登場するまでの青年期の記録はない。その58年の妹結婚式の際には、すでに近衛銃士隊第一中隊{灰色毛}に入っていた。
1899と結婚後はパリに住み、69年から80年にかけて四男三女の子供をつくった。経済的には困窮しており、銃士隊退役後、少なくとも81年〜87年、騎馬
憲兵隊の士官{Marechaussee 様々な犯罪行為に対処すべく78年編成} 81年〜83年は妻の郷里のヴァランスで騎馬憲兵隊少尉、そして85年モントーバ
ンのロデス騎馬憲兵隊の中尉となった。そして88年引退。すでに55歳だった。すでに89年には騎馬憲兵隊はフランスの治安維持もしくは専制君主制の象
徴として賛否両論なるも4000人規模になっていたが地方では滅多にこの青色制服を見掛けることはなかった。91年、夫妻は貴族亡命者として国を離れ
たが、93年に帰国、パリに住む。しかし容疑者法によって逮捕、コンシェルジュリー牢に収監。息子らが8月10日事件に王党派に加わっていたこと、また、
彼らが亡命貴族軍に加わっていたこと等は致命的だった。そして処刑。シャルル・アンリ・サンソンは同じルーアン出身で、この人とは既知の仲だったらしい
 サン・トゥーアン家はオート・ノルマンディーに12世紀より確認できる貴族一族。この人はエルヌモン系の分家。ノルマンディー連隊大尉として活躍した軍
人Jacques de SAINT-OUENは1636年Oberkenheim攻囲戦でガゼットに載り、少佐、Douayの副官となり、この分家を成立させた。18世紀前半のBarthelemy
de SAINT-OUEN, chevalier, seigneur d’Ernemont{祖父}はルーアン会計院長、国務顧問官。「その子孫らは重要な者がいない」とある・・・。妹の Marie
Barthelemyeは1758年デッセー子爵シャルル・ド・ロンレー・ド・ラ・ブロッス Vicomte d'Essay,Charles de LONLAY de la BROSSE 1711-93と結婚し、一女
 Marie Charlotte de LONLAY 1759-1830をもうけている)

1902. ピエール・ジャン・パティスト・デプレオー DESPREAUX (Pierre-Jean-Baptiste), 27歳。行商人。アミアン生。

1903. ジャン・フルーリー FLEURY (Jean), 40歳。日雇人夫。トロワ生。

1904. アレクシ・ガノ GANOT (Alexis), 55歳。地区収入役。エタン生。

1905. ジャン・ガノ GENOT (Jean), 37歳。石工。ジャルニーJarny生。

1906. ディディエ・エルビヨン HERBILLON (Didier), 45歳。織工。ラシェップLacheppe生。

1907. ジャック・ジェルマン・オレー HORAIST (Jacoues-Germain), 33歳。銀細工師。フールクーFourqueux生。

1908. フィリップ・ジャケ JACQUET (Philippe), 39歳。アムリーHammery生。

1909. アンリ・ラモット LAMOTTE (Henry), 34歳。地区長官。エタン生。

1910. アントワーヌ・ジュリアン・ル・ブラン LE BLANC (Antoine-Julien), 47歳。画家でガラス屋。ブレスト・シュル・セーヌBrest-sur-Seine生。

1911. マリー・エリザベト・メルモン MERMONT (Marie-Elisabeth), ラスールディエールLasourdiere妻。35歳。マーシュMache生。

1912. 二コラ・フランソワ・ぺリエール PERRIERES (Nicolas-Francois), 36歳。治安判事。エタン生。

1913. ジャン・パティスト・クロード・ラゴン RAGON (Jean-Baptiste-Claude), 20歳。元貴族でサン・ルイ騎士。リプルヴァルLibreval生。

1914. アントワーヌ・ティエノ THIENOT (Antoine), 39歳。薬剤師。ヴェルダン生。

1794年7月5日

1915. ジュヌヴィエーヴ・アミエ AMIET (Genevieve), ゴーヴァンGauvain妻。 26歳。ヴァンドーヴルVandoeuvre生。
(Genevieve AMIET 1768-94 1926のLouis Emery GAUVAINと85年に結婚。子の記録はない。処刑の経緯は1926参照)

1916. ジョゼフ・ギョーム・バンデュ BANDUS (Joseph-Guillaume), 69歳。カオール生。

1917. ガスパール・ブッス BESSE (Gaspard), 59歳。元貴族でマルトMaltheの執行官。モンペザMontpezat生。(Aurillaoとも)
(Gaspard de Besseという同時代に有名なプロヴァンスの盗賊がいるが別人)

1918. ジャン・パティスト・ケクス CAIX (Jean-Baptiste), 66歳。元司祭。マルレMarlet生。

1919. ジャン・ルネ・アンリ・シャテイニエ CHASTEIGNER (Jean-Rene-Henry), 48歳。元貴族。サン・ルイ騎士。憲兵隊中尉。ルーヴルRouvre生。
(ジャン・ルネ・アンリ・ド・シャテイニエ Jean-Rene Henri de CHASTEIGNER 1747-94 伯爵。父親はMarquis de Rouvre,Jean-Henri de
CHASTEIGNER 1718-1793。母親はMarie Eleonore Armande de CHASTEIGNER 1720頃生。三男五女の兄弟姉妹がいる。1774年
Marie Louise Madeleine Gabrielle JOUVENEL de HARVILLE des URSINS 1754-1793 と結婚し、三男二女をもうけ、次男・三男がシャ
テイニエ侯位、同伯位を継承している。革命期、大変な危険な行動を続けていた人物で、パリのラ・クロワ・ルージュ地区の一員として
「愛国心」を強調し、地区代表とコンサートを楽しんでいる間に、元王室家具保管係ティエリー・ド・ヴィル・ダヴレー等と共に自分の収集
した情報を残らず国王に伝えていたり、92年8月10日事件でもチュイルリーの防戦者の中に身をおきつつも、同日の午後には攻撃側民
衆の中に槍を手に紛れ込んでいたり。しかし所城トゥーフー城の管理人だった人物の息子シャルル・ブリソネに告発されてしまい、つい
に運も尽きた。妻の兄Comte d'Harville,Louis Auguste Jouvenel des Ursins 1749-1815は将軍・政治家としてナポレオン時代まで活躍した。
また2410 Isabelle-Louise JOUVENEL des URSINS d'HARVILLEは妻の叔母)

      
................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................妹・Marquise d'Airvault,Gabrielle-Henriette
..........................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................義弟(妹の夫)・Marquis d'Airvault,Rene de Richeteau
義兄(妻の兄)・Comte d'Harville,Louis-Auguste Juvenal des Ursins d'Harville

1920. フェリクス・ショーヴォー CHAUVEAU (Felix), 24歳。法律家。ポワティエ生。

1921. ジャン・クレルゴー CLERGEAU (Jean), 26歳。農家。ポワティエ生。

1922. ルイ・フランソワ・コシャール COCHARD (Louis-Francois), 26歳。歩兵大尉。バフルBaffre生。

1923. アンリ・カミーユ・コルモン・ドヴォーグルナン COLMONT-DEVAUGRENANT (Henry-Camille), 59歳。元貴族。パリ生。
(ヴォーグルナン伯爵アンリ・カミーユ・ド・コルモン Comte de Vaugrenand,Henri Camille de Colmont 1735-94。サン・ルイ 騎士、
ベリー騎兵連隊大尉。50年、近衛銃士のモンボワジエの中隊に入る。1767年に騎兵隊を購入した後、パリに住み、1769年から
1772年までイングランド、ブリュッセル、アムステルダムへの旅に出た。ダルジャンソンに近い啓蒙主義者でアカデミー会員。
79年にAnne Jacquet de La Coilonge 1761-94{1929}と結婚。一子Francois Camille Gabriel de COLMONT VAUGRENANT
1782-1852がいる。父親はJean Chrysostome de COLMONT VAUGRENANT 1698-1766。母親はMarie Antoinette JOLY de
FUSSELLET 1711-85。妹Jeanne Antoinette 1737-73は同じベリー連隊中佐のMaurice Antoine de GONDRECOURT 1713-
82に嫁いだが、61年に生まれた長男で近衛中尉になったMarc Reneは2121。革命裁判所によって反革命的として非難され逮捕、
妻と共に処刑)

1924. セレスタン・コノー・デフォンテーヌ CONNAU-DESFONTAINES (Celestin), 51歳。法律家。ポワティエ生。

1925. アルマン・ファブールナン FABOURNIN (Armand), 24歳。校長。トゥーアンThouan生。

1926. ルイ・エメリー・ゴーヴァン GAUVAIN (Louis-Hemery), 43歳。公証人。ブースヌイユBoussenouil生。
(Louis Emery GAUVAIN 1751-94 Vouneuil-sur-Vienne生まれ。77年から父同様に公証人であったが商人・農業もしていた。
父親は公証人のCharles GAUVIN 1708-87。母親はAnne BASSET 1713-60。43年生まれの妹 Catherine GAUVIN{71年Vincent
BRIAULTと結婚}がいた。85年Genevieve AMIET 1768-94{⇒1915}と結婚した。子の記録はない。
90年の行政機構の改革により、彼はVouneuil-sur-Vienneの最初の市長に選出される。彼の社会的立場からしてそれは当然の
選出だった。彼はある日、1930のラ・ロシュ・デュ・メーヌ侯も招いての夜宴で大変に酔い "Vive le Roi !"と叫んだりしてしまう。
2人の男性{一人は1930だろう}とこの人の妻と共に、反革命の共謀罪で処刑されてしまった)

1927. マルティアル・ジアック GlAC (Martial), 57歳。元代訴人。元貴族。ボルドー生。

1928. ジャン・フランソワ・ジルカン GILLEQUINT (Jean-Francois), 45歳。屋根職人。タヴェルニーTaverny生。

1929. アンヌ・ジャケ・ラコロンジュ JACQUET-LACOLONGE (Anne), ヴォーグルナンVaugrenant妻。32歳。ヴィルフランシュ生。
(ヴォーグルナン伯爵夫人アンヌ・ジャケ・ド・ラ・コワロンジュ Comtesse de Vaugrenand,Anne Jacquet de La Coilonge 1761-94
1779年結婚した夫は1923。82年に生まれた一子Francois Camille Gabriel 1782-1852がいる)

1930. シャルル・ガブリエル・ルネ・アペル・ヴォワザン・ラロシュ・デュメーヌ LAROCHE-DUMAINE (Charles-Gabriel-Rene-Appelle-
Voisin), 51歳。ポワティエ生。
( ラ・ロシュ・デュ・メーヌ侯爵シャルル・ガブリエル・ルネ・テルスラン・ダペルヴォワザン Marquis de la Roche-du-Maine,Charles-
Gabriel-Rene Tiercelin d'Appellevoisin 1743-94 中将。89年三部会議員。父親Charles Auguste TIERCELIN d'APPELVOISIN 1710生。
母親はMarie Susanne de BOURDEILLES 1717生。Adelaide Louise Felicite CHASPOUX de VERNEUIL 1744-91と結婚し、夭折の一
男と成人し結婚する二女をもうける。1926のVouneuil-sur-Vienne市長Louis Emery GAUVAINが一緒の宴会の席で"Vive le Roi !"と酔って
叫び、彼と彼の妻ともう一人の男性と共に反革命の共謀罪で逮捕・処刑された。この侯爵の代理人だった公証人Jean Jacques Charles
Vezienは90年から治安判事だったものの共犯容疑に問われたが、辛くも免れて1926の逮捕後95年にVouneuil-sur-Vienne市長となり1815
年まで在職。そして1838年まで生き延びた。このVezienの後に同地市長に就任した Louis Jacques Balard もこの侯爵に仕えていた医者
で1828年まで在職している。
母親の兄の子、つまり従弟は2529のVicomte de Bourdeilles,Henri Joseph de BOURDEILLES)

1931. ルネ・ジャン・ジャック・ラサール LASALLE (Rene-Jean-Jacques), 25歳。森番。ラ・モンターニュ・デュ・ボン・エール
La Montagne-du-Bon-air生。

1932. アルマン・イレール・ローベスパン LAUBESPIN (Armand-Hilaire), 70歳。ロン・ル・ソールニエLons-le-Saulnier生。
(アルマン・イレール・ムーシェ・ド・バットフォール・ド・ローベスパン Armand Hilaire MOUCHET de BATTEFORT de LAUBESPIN 1724-94
1525年来のフランシュ・コンテの貴族家系。一族の一部はベルギーに属する。1588年スペイン王フェリペ2世により騎士身分に。1659年
同フェリペ4世により更に取り立てられている。父親はロレーヌ公の小姓だった3代目Marquis de Laubespin, Charles Claude Joseph
MOUCHET de BATTEFORT 1690-1762。母親は1719年結婚した Francoise Helene du TARTRE。なぜか爵位を弟Gabriel Francoisが
継承しているが、「教区の福利厚生および聖職者に関する行為を含むサン・クロード司教区の記録」の1746年8月6日の記載にローべス
パン城に設立されたSaint-Garadoz教会にAntoine Francois de Mouchet de Laubepinの世俗的地位の低下により空席ができ、その後任
としてComte de Laubepin,Charles Francois Josephによる推薦でこの人が着任したとある。 また1751年8月11日の記載にサン・クロード
大聖堂の教会参事会員をしていた聖職者であるこの人が辞任により空席になっていたそのポストをClaude Joseph Paul de Mouchet de
 Battefort de Laubepinに与えた旨が書かれている。革命時はパリ近郊の Vihiers-le-Belの義勇擲弾兵をしていた)

1933. ポール・ローネー LAUNAY (Paul), 18歳。義勇兵。ドゥールダンDourdan生。

1934. クロード・ルフォル LEFOL (Claude), 28歳。蹄鉄工。ランデルノーLanderneau生。

1935. ジャン・ルナン LENAIN(Jean), 50歳。執達吏。ベルタンクールBertancourt生。

1936. ジャン・フランソワ・ミルヴィル MIRVILLE (Jean-Francois), 57歳。ムラングMerangues生。

1937. トゥーサン・ジャック・ジェザール・ノルマン NORMAND (Toussaint-Jacques-Gesard), 31歳。船乗り。レンヌ生。

1938. ルイ・ピエール・サヴァリー SAVARY (Louis-Pierre), 48歳。従業員。ルネヴィルLuneville生。

1939. クロード・アンリ・タバル・マリエール TABARD-MARIERES (Claude-Henry), 26歳。ベネディクト修道士。ローダンLoudun生。

1940. ピエール・ルイ・ルネ・ティエリー THIERY (Pierre-Louis-Rene), 60歳。治安判事補。パリ生。

1941. ピエール・ヴィジュリ VIGERIE (Pierre), 36歳。大工。ヴェルネーVernay生。

1942. 二コラ・イヤサント・ワルムジャンヴィル WARMEJANVILLE (Nicolas-Hyacinthe), 35歳。歩兵大尉。アランシーArrancy生。
(ダンケルク駐屯第16連隊大尉)

1794年7月6日

1943. ジャック・バルディー BARDY (Jacques), 85歳。モンペリエ生。
(Jean-Jacques-Catherine-Gaston de Bardy トゥールーズ高等法院評定官 在職1767-90{但し78-82年は離職}。
父親はPierre Bardy 1679-1742。母親はAntoinette Magnol。 1743年Louise-Catherine de Campistron 1716生 と結婚。法院長
カンピストロン・ド・マニバンの一族と思われる。子はいなかった。トゥールーズ高等法院は革命政府の議決事項を拒否した為、大量に
評定官が処刑されている。以下、トゥールーズ高等法院関係者の罪状は全て同じ)

1944. フランソワ・バレスBARRES (Francois), 80歳。プージョルPoujolle生。
(フランソワ・ド・バレス Francois de Barres トゥールーズ高等法院評定官 在職1750-88。つまり革命政府の90年の高等法院廃止法案
の時にはすでに辞任しているのに処刑されている)

1943, アントワーヌ・テレーズ・ベロック BELLOC (Antoine-Therese), 56歳。ランブルLambes生。
(Antoine-Therese de BELLOC 1739-94 トゥールーズ高等法院部長評定官 在職1759-90。父親はPierre de BELLOC。母親は
Madeleine Therese d'ASPE。1772年Anne-Claire AUDEARD de PREIGNES 1782没 と結婚し、一男一女をもうける。この二子の子孫は
それぞれ現在まで続いている)

曾孫・Baron de Belloc et Marquis de Chamborant,Marie-Elzeard-Andre1854-1923 

1946. シャルル・ブランケ BLANQUET 通称ルーヴィル (Charles), dit Rouville, 37歳。マルヴェジョルMarvejols生。
(ルーヴィル男爵ルネ・シャルル・ド・ブランケ・アマンゼ Baron de ROUVILLE,Rene-Charles de BLANQUET-AMANZE 1758-94
トゥールーズ高等法院評定官 在職1782-90。トレボン子爵Vicomte deTrebonsでもある。父親はやはり同法院評定官の
Baron d'ALTES,Francois de BLANQUET-AMANZE 1717生。母親はMarie-Marguerite de BADON d'ESPECHIERS 1778没。
78年Emilie de PRATZ de VIEUX 1760生と結婚し、二男四女。長女は六男九女を生み内一人は20世紀に至っている。1789年
ジェヴォーダンの貴族議員に選出されている。弟 Antoine-Rene 1759-1835はイル・ド・フランス歩兵連隊将校。結婚して四男三女
を得、こちらもその後も子沢山家系で曾孫の一人は103歳まで生きて1980年代に至っている。元近衛銃士隊{灰色馬}第二中隊士官
だった叔父でルーヴィル士爵と呼ばれたDominique de BLANQUET-AMANZE 1728-1806もテルール時期に収監されていたが、テ
ルミドールで救われ解放された。この叔父の長男、つまりこの人の従弟Armand Simon Marie BLANQUET du CHAYLA 1759-1826
はアメリカ独立戦争、革命戦争、ナポレオン戦争で活躍し海軍中将になった。また四男{同様にこの人の従弟}Etienne Blanquet de 
Rouville 1768-1838は1828年にランス司教補となる人物)

 叔父・Dominique de BLANQUET-AMANZE  
...............................................................................................................................................................................................................................................................................
............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................従弟・Armand Simon Marie BLANQUET du CHAYLA
...................................................................................................................................................................................................................................................................................従弟・Etienne Blanquet de Rouville

1947. エクトル・クロード・アレクサンドル・ブルノー・ドゥーサグネル・ラボルド BRUNEAU-DOUSSAGNEL-LASBORDES (Hector-Claude-Alexandre),
57歳。トゥールーズ生。
(エクトル・アレクサンドル・ベルトラン・ブルノ・ドーサゲル・ド・ラボルド Hector Alexandre Bertrand Bruno d'AUSSAGUEL de LASBORDES 1736-94 
トゥールーズ高等法院評定官 在職1760-90。父親は同じく同法院評定官だったBalthazar d'AUSSAGUEL de LASBORDES 1703-75。母親は
Helene du MAYNIAL。フランス衛兵隊将校Marquis de Mailhocの娘Calixte Jacquette Jacobe Elisabeth d'AIRE 1746-1830 と1774年結婚し、二男一女
をもうける)

曾孫娘・Louise Raymonde Caroline d'AUSSAGUEL de LASBORDES 1882-1975  

1948. ピエール・ルイ・カルボン CARBON (Pierre-Louis), 60歳。ミリヨMilliot生。
(ピエール・ルイ・ド・カルボン Pierre-Louis de Carbon トゥールーズ高等法院評定官 在職1758-90)

1949. ピエール・カルボネ CARBONNET (Pierre), 66歳。大尉。トゥールーズ生。
(ピエール・ド・カルボネ Pierre de Carbonnet 元貴族。ノワイヨンの第41歩兵連隊の大尉。トゥールーズ市参事の息子)

1950. ジャン・パティスト・カルティエ CARTIER (Jean-Baptiste), 50歳。肉屋。ボナンBonain生。

1951. フランソワ・コンベット・ラブールリエ COMBETTES-LABOURELIE (Francois), 29歳。ガイヤックGaillac生。
(フランソワ・ルイ・ド・コンベット・ラブールリー Francois-Louis de COMBETTES-LABOURELIE 1764-94 トゥールーズ高等法院評定官
在職1784-90 父親はJean-Paul de COMBETTES-LABOURELIE 1723-1767 10月4日ラブールリー城Chateau de Labourelieの狩猟事故で死亡した。母親はMarie
 Claire Francoise de ROLLAND 1740生。1788年Jeanne Raymonde de JOULIA 1763-1816と結婚、一男一女をもうける。LABOURELIEはアクサン付きで
「ラブルーリエ」「ラブーレリー」ともある。1784年に18歳で評定官に就任したこの人は最若年の就任事例である。コンベット家は17世紀初頭すでに司法系貴族として
台頭しガイヤックに個人邸を建設し、すぐにラブールリー城り小さな城館を建設。1790年頃よりこの人がこの城館の再建を開始、処刑により頓挫したが、妻が1810年
これを完成させた。コンベット家は19世紀前半よりワイン生産により財政的に成功した)

 Francois-Louis de COMBETTES-LABOURELIE

1952. ピエール・クノ CUNOT (Pierre), 35歳。ガラス売り。ジョルジュGeorges生。

1953. オーギュスタン・ジャン・シャルル・ルイ・ダスプ DASPE (Augustin-Jean-Charles-Louis), 42歳。オシュHoche生。
(オーギュスタン・ジャン・シャルル・ルイ・ダスプ・ド・メイヤン Augustin Jean Charles Louis d’Aspe de Meilhan 1752-94
トゥールーズ高等法院大審部部長評定官 在職 1776-90。父親は同職だったJean Francois d'ASPE。母親はJeanne-
Marie d'AUXION。Marquis de Grammontの娘Adelaide de Caulet de Grammontと結婚し、92年生まれの娘Agathe d'ASPE
を残す。この娘はトゥールーズ市長Guillaume-Isidore BARON de MONTBEL 1787-1861に嫁ぎ4人の子と22人の孫に
恵まれた。ダスプ家はブルジョワ一族でオシュに定住し貴族に列せられた。1700年より代々大審部部長評定官。革命後は、
91年3月に「サン・バルテルミー軍団」と綽名された治安維持のダプス軍団を編成したりした。デュ・バリー夫人を国王に斡旋
したデュ・バリー・セリス伯の中隊の衛兵指揮官でもあった。しかし革命政府によりこの民兵組織は解散され、王室主義者で
ある彼は領民からの非難もあり、トゥールーズ高等法院の問題もあり、逮捕そして処刑され、悲嘆に暮れる上記妻と幼娘を
残した)

1954. 二コラ・フランソワ FRANCOIS (Nicolas), 54歳。農夫。ドマルタンDommartin生。

1955. マリー・ジョゼフ・ギレルマン GUILLERMAIN (Marie-Joseph), 60歳。トゥールーズ生。
( ジョゼフ・マリー・ガブリエル・エティエンヌ・ルイ・ド・ギレルマン Joseph Marie Gabriel Etienne Louis de Guillermin トゥールーズ
高等法院評定官 在職1758-90。トゥールーズの法官らはいずれも現金資産には事欠いていた。その中でも例外的なものとして、
この人の革命期の資産目録に23万986リーヴルの金貨とエキュ銀貨、3万325リーヴルのアッシニア紙幣がしまい込まれていた)

1956. ピエール・ギランゴー GUIRINGAUD (Pierre), 42歳。カステル・サラザンCastel-Sarrazin生。
(ピエール・ド・ギランゴー Pierre de Guiringaud 1751-94 トゥールーズ高等法院評定官 在職1785-90。トゥールーズの司法官
はほとんどが貴族身分を取得しているが、この人は唯一の第三身分。検事局の下僚からキャリアを積み、83年官職を購入したが、
なかなか承認が得られず、法院での評決にかけられて2年後の85年にようやく辞令交付となった。父親はJoseph de Guiringaud、母
親はMarie Charron。1780年Marie Anne Duthil 1752-1808と結婚し、一男二女を残し、皆成人し子を残している。子孫の中には1966
年から1972年迄日本大使、国連安保理議長、外務大臣にまでなり、翻訳家・村上香住子の恋人だったLouis de Guiringaud
1911-82 などもいる)

子孫・Louis de Guiringaud 

1957. ミシェル・クレマン・ギー GUY (Michel-Clement), 36歳。ワイン商。マコMacot生。

1958. ジャン・アントワーヌ・ヴァランタン・ジュグヌー JUGENOUS (Jean-Antoine-Valentin), 45歳。ポンシャルモンPontcharmont生。
(ジャン・アントワーヌ・ヴァランタン・ド・ジュグヌー・ド・プーシャラメ Jean Antoine Valentin de Jugonous de Poucharramet 1748-94
トゥールーズ高等法院評定官 在職1770-94。プーシャラメ城にて生まれる。De Saint Leonard嬢と結婚した。93年の最初の逮捕リスト
にあったものの体調不良により免れたが、手術を受ける前にパリに連行され処刑された。プーシャラメはトゥールーズの南西36 kmの自治体。
1793年人口調査では452人の町で革命中はEgalite-de-la-Bureと呼ばれていた)

1959. フランソワ・ラクロワ LACROIX (Francois), 28歳。著作家。マレーMaray生。

1960. マリー・ベルト・フランソワ・ラフルムスティエ LAFLUMESTIER (Marie-Berthe-Francois), 48歳。ムーリジョMourigeot生。
(マルク・ベルトラン・フランソワ・ド・ラッス・ド・ネスティエ Marc Bertrand Francois de Lassus de Nestier 1745-94 トゥールーズ高等法院評定官
在職1765-90{但し89年か90年に名誉評定官になった模様} 甚だしい裁判所記録の誤記載だが、この人のこと。父親はトゥールーズ市参事官
で治安判事、国王顧問、モンテスパン侯領裁判官だったPierre de LASSUS 1717-79。母親はDominique de DUFFO de TUZAGUET。1773年、
Marie-Gabrielle de Lacaze de CAZES 1806没 と結婚し二男をもうけ、長男のBaron de Lassus Camon,Marc Bertrand Francois Guillaume 
1774-1847は大隊長でモントレジョー Montrejeau市長となる。ラッス家はオートピレネーのAzet村から16世紀の終わりから17世紀初頭にオート
ガロンヌのモントレジョーに移り定住した一族。1751年生まれの弟Epiphane de LASSUSの曾孫には登山家で狩猟家で名高いピレニストの
Bertrand de LASSUS 1868-1909などがいる)

弟の曾孫・Bertrand de LASSUS 

1961. マリー・ジョゼフ・ラモット LAMOTHE (Marie-Joseph), 43歳。トゥールーズ生。
(マリー・ジョゼフ・ド・ラモット Marie Joseph de Lamothe トゥールーズ高等法院評定官 在職1785-90。トゥールーズの司法官の中には
古い帯剣貴族家系も多いが、ラモット家もそのひとつで、1211年にシモン・ド・モンフォールがトゥールーズを包囲した時にはすでに名が記録
されている貴族家系。この人のサロンには帯剣貴族が多く集まり、法院と貴族らの橋渡しの役をしていた。サン・フェリクス・ド・カラマン城館
所有。父親は同じく評定官だったChristophe Suzanne de Lamothe 1784没。この人は7人兄弟姉妹の長男。ヴィヴァレー連隊の大尉をした後
に評定官となった。貴族Bernard de Boutonnetの娘Elisabeth Bernardと結婚し、三男をもうける。長男は夭折。次男は1786年生まれでBaron
 de Lamothe,Etienne Leon。三男はChevalier de Lamothe,Jean Gabriel Etienne Achilleで87年生まれ)

1962. ギョーム・フランソワ・ジョゼフ・カトリーヌ・レスピナス LESPINASSE (Guillaume-Francois-Joseph-Catherine),33歳。トゥールーズ生。
(ギョーム・ジャン・ジョゼフ・ド・レスピナス・ド・フロランタン Guillaume Jean Joseph Catherine Lespinasse de Florentin 1761-94
トゥールーズ高等法院評定官 在職1782-90 後者の息子。Guillaume-Francois-Joseph-Catherineという評定官が同時代にいるが、処刑
されたレスピナスの名はGuillaume Jean Josephで、別々の記述になっている)

1963. ピエール・アントワーヌ・レスピナス LESPINASSE (Pierre-Antoine), 60歳。トゥールーズ生。
(ピエール・アントワーヌ・ド・レスピナス・ド・シャンポー Pierre Antoine de Lespinasse de Champeaux トゥールーズ高等法院評定官 在職
1749-90。前者の父。1759年Francoise-Madeleine de Nupcesと結婚。フロランタンを所有していた一族の一人娘だったので、フロランタンを
有し、そこにレスピナスの名を付けたくLespinassse-Florentinとかにした。レスピナス家は帯剣貴族だが市参事職を経て授爵された一族。この
人は侯爵位をもっていた)

1964. フェリクス・マルタン MARTIN (Felix), 29歳。兵士。アブヴィルAbbeville生。

1965. ジャン・ピエール・ムールリウ MOURLIUS (Jean-Pierre), 70歳。ラフィットLafitte生。
(ジャン・ピエール・ド・ラバ・ド・ムールラン 1725-94  トゥールーズ高等法院評定官 在職1760-82 辞職して90年まで在職していない。
トゥールーズのラングドック通り34番地のオテル・ラバ・ド・ムールラン{ピュイモーランホテルでも知られる}は、1770年にこの人が再建した。
革命精神に同調し、祖国へ3000リーヴルも貢献し、良民証の交付を受けており、この人は処刑を免除されるものと期待していた)

1966. ドミニク・アントワーヌ・ペレー PERREY (Dominique-Antoine), 60歳。トゥールーズ高等法院副検察官。タルブTarbes生。
(タルブで1770年生まれたMarie-Denise-Agnes Perreyという娘がいた)

1967. ジャン・フランソワ・ペロ PEYROT (Jean-Francois), 59歳。ミリヨMilliot生。
(ジャン・フランソワ・ペロ・ド・ヴェロージー Jean-Francois Peyrot de Vailhaussy 1742頃-94 トゥールーズ高等法院評定官 在職1762-90。
1784年Marie Gabrielle de Barbeyrac de Saint-Mauriceと結婚。父親が1740年ヴェロージー城chateau de Vailhauzyをカルモー侯爵アントワーヌ
・ポーラン・ド・ソラージュより購入。この侯爵は、バスティーユ陥落で解放されたソラージュ伯の父親。{「歴史に名を刻んだ人々」余談6参照} 
城は1700年から大変に荒廃しており、19世紀になって再建された。{娘Caroline de Peyrotがこの城を相続したが、夫Joseph Delauro 1778-1846
は自治体に1839年城を売却した}この人はBaron de Brousseでもある。但しChateau de Brousseをこの人が購入したのは1785年。尚、1973の
ジャン・フランソワ・ペロット・ヴェロージーとは綴字と年齢が少し異なるが同一で、革命裁判所の記録ミス)

1968. ジョルジュ・ポル POLS (Georges), 40歳。大工。ヴォルムスVorms生。

1969. クレマン・ジャン・オーギュスタン・レイ・サン・ジェリー REY-SAINT-GERY (Clement-Jean-Augustin), 64歳。トゥールーズ生。
(クレマン・ジャン・オーギュスタン・ド・レイ・ド・サン・ジェリー Clement-Jean-Augustin de Rey de Saint-Gery 1730-94 トゥールーズ高等法院評
定官 在職1749-90。父親はJean Jacques de REY 1686頃-1744。母親はBaronne de Noailles,Marie Anne de FOUCAUD 1703-71。1767年Mary
O'KELLY FARREL 1752頃-1841と結婚した。この妻の母親はディロン家出身 Mary DILLON 1725-1753だが、586ディロン伯との親戚関係は分か
らない。この妻はディロン伯と同世代。いずれにしてもアイルランド貴族家系の妻である。父親Denis III O'KELLY FARREL 1714-1761が渡仏した、
いわゆるジャコバイト移民だが、取得した土地の運営に成功していた。
Baron de Loupiac et de Noailles, Marquis de Milhars,Comte de Saint-Geryの肩書あり。祖父・父ともに評定官。一男二女をもうけたが、皆成人する。
次女Anne-Marie 1776-1868はComtesse de Castelbajacとなる。 Jean Jacques Augustin 1771-1847は国務評議員になり、侯爵となっている)

1970. ジャン・ジャック・スロー SERAUD (Jean-Jacques), 33歳。元司祭。ヴィルVire生。

1971. ラファエル・フランソワ・オーギュスト・エレオノール・トールニエ TOURNIER (Raphael-Fraincois-Auguste-Eleonore), 26歳。トゥールーズ生。
(ラファエル・フランソワ・オーギュスト・エレオノール・ド・トールニエ・ド・ヴァイヤック  Raphael-Fraincois-Auguste-Eleonore de TOURNIER de VAILLAC
トゥールーズ高等法院評定官 在職1786-90。comte de Vaillac。祖父はJean-Francois TOURNIER de VAILLAC 1690-1748で同高等法院法官帽部
長。祖父の当時、大審部聖職評定官に叔父、次席検事に弟が就任していたようにトゥールーズ司法一族。祖父の時代にトゥールーズ市内に家作と
思しき8軒の家屋を所有していた。1718年当時のある覚書では、休暇・欠勤が司法官の間に横行していた様子が批判されており、この祖父は「ここ
4年来、パリで生活している」と書かれている。数年来、トゥールーズに現れていない司法官はざらだった。この祖父は前出「覚書」で「あらゆる点で
くだらない男。仕事の才覚なし。司法官たちからの信頼もなし。世間から知られていないし、態度は独特、要するに何の役にも立たない」と酷評されて
いる。トールニエ家の出身地は不明だが、16世紀前半期にはトゥールーズに居住していた。貴族身分は市参事職によって得たものと思われる。
法院司法官としては一族から大審部部長評定官1人、他部門部長評定官1人、評定官7人を輩出している。同家の姻戚関係は司法官・市参事・帯剣
貴族。父親はComte de Vaillac,Pons-Jean-Francois de TOURNIER de VAILLAC。65年結婚した母親はラ・クーロンヌ連隊大尉 Jean-Francois de 
BOISSETの美しい娘Claudine Adelaide de BOISSET 1746-1782。亡命した弟Pons marie Claude de TOURNIER-SOUCIRAC 1770-1832がいたが、
トゥールーズで死去している。もう一人の弟Charles 1772-1848は1943部長評定官ド・ベロックの娘 Rosalie de BELLOC 1779-1836と96年に結婚し、
二男四女を残し皆、成人している。この人には結婚記録がない。
chateau de Larraを所有。この城は1743-46年に建設されたが、元々はルイ13世様式の建物があった。トールニエ家がいつ取得したかは不明だが1642
年にはすでに所有していた。城は上記シャルル(この人の末弟)の娘Bathilde de TOURNIER de VAILLAC 1806-75の死去後姪の Louise d'ANTIN 1841-
1925{バティルドの姉でBaron d'ANTINに嫁いだAdelaide de TOURNIER de VAILLAC 1804-74の次女}に渡り、このルイーズの嫁ぎ先de CARRIERE家が
その後現在に至るまで四代にわたり居住している)

 ........................................................................................................................................................
Raphael-Fraincois-Auguste-Eleonore de TOURNIER de VAILLAC.......................................................................................................................................................祖父・Jean-Francois TOURNIER de VAILLAC

1972. ジャン・ピエール・トランク・コスト TRINQUE-COSTE (Jean-Pierre), 51歳。元トゥールーズ高等法院書記官。トゥールーズ生。

1973. ジャン・フランソワ・ペロット・ヴェロージー VAILHAUSY (Jean-Francois-Perrotte), 52歳。ミリヨMilliot生。
(1967のJean-Francois Peyrot de Vailhaussyと同一。革命裁判所の記録ミス。他資料にはド・ヴェロージーとド・ペロが別人の如く別記されている
とこの記録ミスを指摘しているが、この記録では苗字の綴字と年齢が若干違っている。しかし明らかに同一人物ではある)

1794年7月7日

1974. フランソワ・エーグロス AIGLOZ (Francois), 45歳。農夫。ブールジェBourget生。
(Francois Aigloz ドミニクとベルトラン・マリーの息子で1749年3月17日生まれとある。通称ラングレーL'anglaisともラングロワLangloisともある。
またBourg生まれとも)

1975. フルーリー・ルイ・エクトル・バッセ・ラマレル BASSET-LAMARELLE (Fleury-Louis-Hector), 18歳。パリ生。
フルーリー・リュシアン・エクトル・バッセ・ド・ラ・マレル Fleury Lucien Hector BASSET de LA MARELLE 後者と2045の息子。2043は叔母。
2066は従姉)

1976. ルイ・バッセ・ラマレル BASSET-LAMARELLE (Louis), 53歳。元大評定院部長評定官。リヨン生。 ans, ex-president du ci-
(ルイ・バッセ・ド・ラ・マレル Louis BASSET de LA MARELLE 1741-94 70年ドンブ高等法院法官帽部長で国務評議員。パリの
モープーの下で訴願審査院第二部長。父親は貨幣法院検事でドンブ高等法院次席検事・評定官Philippe BASSET de LA MARELLE。
母親はCatherine Le BLANC。妻は2045。息子は前者。妹は2043。姪は2066。妹の孫娘はメゾン・ルージュの騎士で名高いルージュ
ヴィル士爵の息子ルージュヴィル侯と結婚する)

1977. パスカル・ベルトラン BERTRAND (Pascal), 47歳。ポン・シュル・ローヌPont-sur-Rhone生。

1978. ルイ・ボワジュラン BOISGELIN (Louis), 61歳。元貴族。レンヌ生。
(ボワジュラン伯爵、キュセ侯爵ルイ・ブルーノ・ド・ボワジュラン・ド・キュセ Comte DE BOISGELIN, Marquis DE CUCE,Louis Bruno DE
BOISGELIN DE CUCE 1734-94 国王衣装掛侍従。野戦総監。父親はMarquis DE CUCE,Renaud Gabriel 1691-1774、母親はJeanne
Francoise M DU ROSCOET 1743没。兄のJean-de-Dieu Raymond De Boisgelin de Cuce 1732-1804はエクス{後にトゥール}大司教で枢
機卿、憲法制定会議議長でアカデミー会員でナポレオンの国務評定官だが、革命中はイギリスへ亡命。この人はこの兄から出生権を譲
渡され家督を継いだが亡命を拒み、逮捕・処刑となる。妻は1981のMarie Stanislas Catherine de Boufflers。共に処刑され、家系は絶えた。
1869のボワジュラン・ド・ケルデュ子爵はケルデュ系で、この人はキュセ系。別の系図によれば長兄にComte de BOISGELIN,Rene-Louis
de BOISGELIN 1728-58がいて、近衛銃士第一中隊少尉としてサン・カストの戦に参加、負傷がもとで戦死したとある。この長兄戦死後
聖職者となっていた次兄がこの三男に出生権を譲渡したとなると話が合う。またMarie Josephine de BOISGELIN de CUCEという妹がおり、
中将のComte de KERGORLAY, Alain Marie de KERGORLAY 1715-1787に1766年に嫁いでおり、その息子が2190カニシ侯爵の娘と結婚
している。また一番下の妹Marie de BOISGELIN 1793没 はルミルモンの女子教会参事会員だが、セヴィニエ夫人の相続人)

兄・Jean-de-Dieu Raymond De Boisgelin de Cuce   
..........................................................................................................................................................................................................................................................
..........................................................................................................................................................................................................................................................義弟・Comte de KERGORLAY, Alain Marie de KERGORLAY

1979. マリー・アントワネット・ボルディエ BORDIER (Marie-Antoinette) , 38歳。裁縫師。オルレアン生。

1980. エティエンヌ・ミシェル・ブーシェ・デュクロ BOUCHER-DUCLOS (Etienne-Michel), 32歳。従業員。リール生。

1981. マリー・カトリーヌ・スタニスラス・ブフレール BOUFFLERS (Marie-Catherine-Stanislas), ボワジュラン妻。50歳。リュネヴィルLuneville生。
(マリー・スタニスラス・カトリーヌ・ド・ブフレール Marie Stanislas Catherine de Boufflers 1741-1794 ヴィクトワール王女の女官だった。
父親はLouis Francois DE BOUFFLERS 1714-1752。母親はMarie Francoise Catherine de Beauvau-Craon 1711-86。この母親は教養ある
美しい婦人で社交界でも評判で、ポーランド王で王妃マリー・レクザンスカの父スタニスラスや詩人サン・ランベールの愛人でもあった。また
兄のStanislas-Jean de BOUFFLERS 1738-1815も詩人として高名。亡命を拒否した夫1978と共に処刑された。子はいない)

    
................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................母・Marie Francoise Catherine de Beauvau-Craon
兄・Stanislas-Jean de BOUFFLERS

1982. アルマン・ブールレーコルブロン BOURREE-CORBERON (Armand), 16歳。パリ生。
(アルマン・プールレー・ド・コルブロン Armand Bourree de Corberon 1778-94  651は祖父。
 1003は父。この少年は裁判の時に身を護ろうと「ともかく私は16歳です!」と叫んだ。すると裁判
 官は少し考えてから書記に命じた。「確かに死刑執行には少し年齢が不足だ。まぁ、書面には
 18歳の所にマークを入れれば良い」と)

父・Marquis de Corberon,Pierre Philbert BOURREE de CORBERON 1746-94  
                ..................................................................................................................................................................................
                                      ..................................................................................................................................................母・Anne-Marie de Laborde de Nogue 1751-1786

1983. フランソワーズ・ブリディエ BRIDIER (Francoise), ロランLoren未亡人。72歳。サテュルナンSaturnin生。

1984. シャルル・ブロシェ・サン・プレスト BROCHET-SAINT-PREST (Charles), 59歳。パリ生。
(シャルル・ブロシェ・ド・サン・プレスト Charles BROCHET de SAINT PREST 1736-94 訴願審査官。 
次女Anne Flore 1763-1801の夫Marc Rene de GONDRECOURTは2121。長男Antoine BROCHET
de SAINT PRESTは539。この長男の娘と次女Anne Floreの息子は1808年従兄妹同士で結婚した)

1985. フランソワ・シャテイニエ CHATEIGNER (Francois), 54歳。元貴族。ラ・グーリエールLa Gourriere生。
(シャテイニエ家はバスポワトゥーとヴァンデの一族で貴族としての身分は1318年まで遡れる家系だが、この人については不詳。
また1919のJean-Rene Henri de CHASTEIGNER 1747-94との関係も分からない)

1986. ジルダ・クルティアン CHRETIEN (Gildas), 40歳。元弁護士。オーレーAuray生。

1987. アルフォンス・コントゥリー CONTOULY (Alphonse), 37歳。文筆家。リュソンLucon生。
(アルフォンス・アンドレ・フェリクス・コントゥリー Alphonse-Andre-Felix Contouly)

1988. シャルル・アレクサンドル・マルク・マルスラン・ルイ・ダルザス・ドブッソン・デナン DALSACE-DEBOUSSON-DHENAIN
(Charles-Alexandre-Marie-Marcellin-Louis), 50歳。ブリュッセル生。
(デナン・リエタール大公シャルル・アレクサンドル・マルク・マルスラン・ダルザス・デナン・リエタールPrince d'Henin-Lietard,
Charles Alexandre Marc Marcellin d'ALSACE d'HENIN-LIETARD{Charles Alexandre Marc Marcellin d'Alsace de Bossu de
 Chimayとも} 1744-94。父親はPrince de Chimay,Alexandre Gabriel Joseph d'ALSACE d'HENIN LIETARD 1681-1745。
母親はGabrielle de BEAUVAU-CRAON 1708-1758。この母親は1981のボワジュラン伯夫人の母親の姉である。フランドル
の町の名に由来するエナン・リエタール家はベルギーの重要な貴族家系でスペイン貴族との血縁もあり、13世紀に3つの分
家が成立していた。最も重要な支流のひとつがこのエナン・リエタール家。しかし兄のPrince de Chimay,Thomas Alexandre 
Marc de HENIN-LIETARD 1732-59は26歳でミンデンの戦で戦死{妻で7月26日にギロチンにかけられるMadeleine Charlotte 
Le PELETIER de SAINT-FARGEAUは2594}、次兄で長兄のあとを継いだPrince de Chimay,Philippe-Gabriel-Maurice-Joseph
1736-1804もDuc de FitzJamesの娘Laure Auguste FitzJames 1744-1804と結婚していたが、後継者なし。この人も1766年
Adelaide Felicite Henriette GUINOT de MONCONSEIL 1750-1823と結婚しているが子はなく家系は絶えてしまう。しかし色々な
女性との関係は盛んで1770年オペラ座のソプラノ歌手Sophie ARNOULD 1740-1802と関係をもち、80年コメディフランセーズ
女優Mlle Raucourt,Marie Antoinette Joseph SAUCEROTTE 1756-1815とも関係している。
この人は小柄だったので「小人大公」などと呼ばれていた。アルトワ伯の近衛隊長をしていた。父親の兄{伯父}には枢機卿の
Thomas-Philippe d'Alsace de Henin-Lietard 1679-1759がいる。また父親の長兄Prince de Chimay,Charles-Louis-Antoine de 
Henin-Lietard 1675-1740は二度結婚するも後継なく死去したが、二度目の妻Anne-Charlotte de Rouvroy de Saint-Simon 1696
-1763はあの回想録作者のサン・シモン公の娘である)

 .....................................................兄・Prince de Chimay,Thomas Alexandre Marc d'Henin-Lietard .... 
1766年コンティ公のイギリス風茶会の画に描きこまれたPrince d'Henin-Lietard。................................................................................................................伯父・Cardinal,Thomas-Philippe 義理伯母・Anne-Charlotte de Rouvroy de Saint-Simon
少年モーツァルトがクラヴサンを弾いているので全体画は有名。.
.関係・Sophie ARNOULD............ 関係・Mlle Raucourt......................
義姉・Laure Auguste FitzJames  

1989. ジャン・アントワーヌ・オーギュスト・ダマ DAMAS (Jean-Antoine-Auguste), 20歳。少尉。パリ生。
(ジョゼフ・アントワーヌ・オーギュスト・ド・ダマ Joseph-Antoine-Auguste de Damas 1774-94 アングールヴァン竜騎兵連隊少尉。
ブリサックの将官付副官。父親は1783年マルティニク総督になるVicomte de Damas de Marillac,Claude Charles de DAMAS de
MARILLAC 1731-1805。母親はMarie Antoinette Macrine de MONTCALM-GOZON 1740-1773頃。この母親は、あのモンカルム
中将の娘である。姉にMarquis de Sainte-Maure-Montausierと97年に結婚するAntoinette Josephine Gilberte de DAMAS de
MARILLAC 1773頃-1839がいる。但しこの母は恐らくは出産により死亡しており、父親は73年Lazarette Claude Philberte DU HAMEL
1750頃-82頃 と再婚し、この息子をもうけたので、腹違いの姉弟かも。但し、この再婚の記載がない資料もあり、グアドループ、
マルティニク総督、イル・スー・ル・ヴァン総督で野戦総監で回想録も書いた父親のWikipediaにも、再婚の記載はない。
ダマ家は9世紀以来の由緒があるブルゴーニュ、ニヴェルネ、ブレス地方の家柄。マルシイー系、アンティニー系、
コルメイヨン系が主な流れで接合点が分からないほど古い。この人の家系はマルシイー系から派生したルーセ系である)

祖父・Marquis de Saint-Veran,Louis-joseph de Montcalm-Gozon1712-59  

1990. フランソワ・アントワーヌ・アンリ・ダンヌヴィル・シフルヴォー DANNEVILLE-CHIFFREVEAU (Francois-Antoine-Henry) 41歳。
タメルヴィルTamerville生。
(フランソワ・アントワーヌ・アンリ・ダンヌヴィル・シフルヴァ Francois Antoine Henri d'ANNEVILLE de CHIFFREVAST 1752-94
1769年ベルサンス連隊の竜騎兵将校。父親はピカルディ連隊{コロネル・ジェネラル連隊}の竜騎兵中隊長だった通称Marquis de
Chifrevast d'ANNEVILLEと呼ばれていたBaron du Saint-Empire,Guillaume Rene 1712-1790。母親はDame de Tamerville,Catherine
Genevieve d'HERICY 1733-1817。弟と妹2人がいた。 1775年Jeanne Marie de Teurtheville SIMON 1756-85と結婚したが子の記録は
なし。1787年フリーメーソンのノルマンディーでの支部のヴァローニュ支部{ロッジ名はl'Union Militaire。貴族の加入者は29名いた}の
創立者の一人。祖父Jean Francois Danneville 1685-1770は士爵、1702年大厩舎付の国王小姓、1705年近衛銃士)

          
母・Catherine Genevieve d'Hericy 祖父・Jean Francois d'ANNEVILLE

1991. フランソワ・クロード・デズーシュ DESOUCHES (Francois-Claude), 54歳。元貴族で司祭。パリ生。
(du BOUCHET de SOURCHESの一族も含めて見ても、該当する者が見当たらない)

1992. クロード・ディディエ・デイユー DEYEUX (Claude-Didier), 48歳。公証人。パリ生。

1993. アブラン・フレデリク・ドートフォール DHAUTEFORT (Abram-Frederic), 46歳。パリ生。
(ドートフォール子爵アブラン・フレデリク・ドートフォール  Vicomte d'Hautefort,Abraham Frederic d'HAUTEFORT 1748-94
フランドル連隊第二大佐、1788年野戦総監。父親は大佐でウイーン大使だったMarquis de Hautefort,Emmanuel de HAUTEFORT 1700-77。
母親はFrancoise-Claire d'HARCOURT 1718-51。1773年Marie Jeanne de HAUTEFORT{後者}と結婚。一女二男を残す。次男Alphonseは
99歳まで生きて1877年にcomte de Hautefortとして亡くなっている。また孫娘{長男の一人娘} Sigismonde-Charlotte-Laureは1818年、ダマ男爵
Baron de Damas,Ange Hyacinthe Maxence de DAMAS d'ANLEZY 1785-1862と結婚するが、彼は後に陸軍大臣、外務大臣となる。このダマは
コルメイヨン系の出身で1989とは別の分家。父親のコルメイヨン伯シャルルはキブロンで95年戦死)

 ..........................................................................孫娘の夫・Baron de Damas,Ange Hyacinthe Maxence de DAMAS d'ANLEZY  
1753年描かれたVicomte d'Hautefort,Abraham Frederic。
当時の少年が女装させられるのは一般的だった。

1994. ジャン・マリー・ドートフォール DHAUTEFORT (Jean-Marie), 42歳。(⇒46歳) パリ生。
(ドートフォール子爵夫人ジャンヌ・マリー・ドートフォール Vicomtesse d'Hautefort,Jeanne-Marie d'HAUTEFORT 1747-94 前者の妻。
父親はComte de Vaudre de HAUTEFORT,Antoine 1724没。母親はJeanne de HAUTEFORT。二人の姉と二人の弟がいた。73年前者
と結婚し、一女二男を残す。次男Alphonseは99歳まで生きて1877年にcomte de Hautefortとして亡くなっている。また甥と姪(弟Jean
 Louis Anne Marieの息子と娘) Comte d'Hautefort,Jean Louis Gustaveと 妹Thais de HAUTEFORT 1784-1845は、兄がMarquis de Maille
{2521の兄}の娘Adelaide de MAILLE de La TOUR-LANDRY 1787-1873と結婚、妹はその兄のCharles Theodore Belisaire de MAILLE de La
 TOUR-LANDRY 1785-1850と、同じ1805年5月28日に同日に結婚している)

.甥のComte d'Hautefort,Jean Louis Gustaveと姪のThais   
 ......................................................................................................................................................................................................................................................
甥の妻・Adelaide de MAILLE de La TOUR-LANDRY

1995. シャルル・アントワーヌ・デュグライユ・ラヴィレット DUGRAIL-LAVILLETTE (Charles-Antoine), 34歳・ブザンソン生。
(シャルル・アントワーヌ・ド・ベルナール・ド・タロード・デュ・グライユ・ド・ラ・ヴィレットCharles-Antoine de Bernard de Talode du Grail de la Villette
1760-94 国王親衛騎兵。父親は騎兵中佐でサン・ルイ騎士Claude de BERNARD de TALODE du GRAIL de LA VILLETTE 1720生。母親は
Therese RANFIN。結婚の記録はない。恐らく兄のPierre Josephは1797年にClaude Marie de GROSSETと結婚し、二男をもうけている。長男は
Pierre Charles Auguste 1798生、そして次男は作家でバルザックの友人Pierre-Marie-Charles de Bernard du Grail de La Villette 1804-50。
グライユの荘園はタロードの領主ゴドフロワ・ド・ベルナールの息子が1621年グライユの女相続人ガブリエルと結婚してベルナール家の所有となる。
1794年Claude de Bernard de Talode du Grailという非宣誓司祭が2月16日にル・ピュイ・アン・ヴレーのMartouret広場でギロチンに処されている。
この広場では1793年3月30日から1795年1月まで設置されたギロチンで18人の司祭を含む41人が処刑されている。クロードは Saint-Agreveの司祭
だった。彼は1760年カトリック教徒の貴族の一員としてSaint-Agreveで生まれた。大学で学んだ後、91年宣誓をしたヴィヴィエの司教Mgr de Savines
により司祭に任じられた。しかし妥協することを良しとせず、家を出て、アルデーシュに接するオートロワールの高地を旅し、商人に変装し、聖職を
行使する。 1794年1月中旬、歩行と悪天候に披露し彼は、孤立した農場での休憩を求めた。 彼は疲労から回復するために数日間そこに滞在したが、
1月23日の夜、官憲によりそこで逮捕され、ル・ピュイに連行されてしまった。このクロード司祭はこの人と同じ60年生まれで4ヶ月早く生まれた同年輩。
そして同じ94年の5ヶ月早くに処刑された。同じ家系で同年輩でもあり、知古の仲だったろう。しかしどのような姻戚関係だったかは不詳)

甥・Pierre-Marie-Charles de Bernard du Grail de La Villette 

1996. ギョーム・ジョゼフ・デュプレクス・バランクール DUPLEIX-BACANCOURT (Guillaume-Joseph), 68歳。元国務評定官。ボルドー生。
(ギョーム・ジョゼフ・デュプレクス・ド・バカンクールGuillaume Joseph DUPLEIX de BACQUENCOURT 1727-94 国務評議員。ラ・ロシェル
知事、ブルターニュ、ピカルディ知事。父親は徴税請負人Charles Claude Ange DUPLEIX de BACQUENCOURT 1696-1750。母親は
Jeanne-Henriette de LALEU 1709-36。1771年Jeanne de NOGUES 1751-85と結婚し三女一男をもうける。死別後 DEREINS某と再婚。
二人の弟がいるが、一人は司法官、もう一人は軍人。父親の1歳下の弟{この人の叔父}はあのインド総督Joseph Francois Dupleix 1697-
1763である)

.父・Charles Claude Ange DUPLEIX de BACQUENCOURT  
........................................................................................................................................................................... 
 .........................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................母・Jeanne-Henriette de LALEU 
..............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................叔父・Joseph Francois Dupleix

1997. フランソワ・ガブリエル・フェヌロン FENELON (Francois-Gabriel), 57歳。中佐。ハーグLa Haye生。
(フェヌロン子爵フランソワ・ガブリエル・ド・サリニャック・ド・ラ・モット・フェヌロン Vicomte de Fenelon, Francois Gabriel DE SALIGNAC
DE LA MOTHE-FENELON 1737-94。海軍中佐。ラ・マルティニク島の親衛騎兵大佐。
父親はオランダ大使Marquis de la Mothe-Fenelon,Gabriel Jacques de SALIGNAC de la MOTHE-FENELON 1688-1746。
母親はFrancoise Louise Le PELLETIER de MONTMELIAND 1782没。1764年Marie Marthe de BOISFERME 1805没 と結婚、四男五女を得る。
神学者で作家のカンプレー大司教Francois de Salignac de La Mothe-Fenelon 1651-1715は曾祖父の腹違いの弟。
この人は三男五女の三男で、姉が4人、兄が2人いた。長兄Baron de Loubert,Francois Louis de SALIGNAC de La MOTHE-FENELONがラ・
マルティニク島の総督をしていたので、この人も同島の親衛騎兵大佐だったのだろう。その兄の次男、つまりこの人の甥に当たるBaron de
Loubert,Jean Louis Augustin de SALIGNAC de La MOTHE-FENELON 1753-94も、この日に処刑されているとあるが、この記録にはない。
この甥は南西部シャラント県Manotの市長を91-92年務めていた)

曾祖父弟・Francois de Salignac de La Mothe-Fenelon 

番外. ルーベール男爵ジャン・ルイ・オーギュスタン・ド・サリニャック・ド・ラ・モット・フェヌロン
  Baron de Loubert,Jean Louis Augustin de SALIGNAC de La MOTHE-FENELON 1753-94
  前者の甥(前者の長兄の次男)この日に処刑されているが、記録にない。1791-92年Manotの市長。叔父と同日に処刑と明記されている。
  尚、この人の兄Marquis de Fenelon, Louis Francois Charles de SALIGNAC de La MOTHE-FENELON 1750-1803の孫娘 Marieでこの家名は
  終わった。{ちなみにこのMarieは2098のMarquis de Maleissye,Antoine Charlesの孫と1875年に結婚した}

1998. クロード・ミシェル・フォンティニー FONTIGNY (Claude-Michel), 64歳。イル・デュ・ヴァン(西インド・ ウィンドワード諸島)行政官。パリ生。
(元貴族ともある)

1999. ジョゼフ・フーコー FOUCAUD (Joseph), 42歳。士官。クレルモン・フェラン生。

2000. トゥーサン・フランソワ・シャルル・ジヴェルヴィル・サン・マクルー GIVERVILLE SAINT-MACLOUD (Toussaint-Francois-Charles), 67歳。
サン・マクルーSaint-Macloud生。
( トゥーサン・フランソワ・ド・ジヴェルヴィル・ド・サン・マクルー Toussaint-Francois de Giverville de Saint-Maclou
15世紀にはルーアン裁判所の顧問、16世紀には国王顧問とノルマンディーの司法官貴族の家系。1609年Chateau de Saint MaclouはMarc-Aurele
 de Givervilleにより建てられた。1661年息子のMarc-Antoine de Givervilleが豪華に改装。ロシアのエカテリーナ2世の来訪を希望してこの人は様々に
城館を飾り立てたが、それは無駄に終わった)

2001. ミシェル・グーサンヴィル GOUSSAINVILLE (Michel), 29歳。息子。サン・ジュストSaint-Just生。
(フランソワ・ミシェル・ド・グーサンヴィル Francois MICHEL de GOUSSAINVILLE 1775-94 父親は後者)

2002. ミシェル・グーサンヴィル GOUSSAINVILLE (Michel), 49歳。父親。元貴族。製造業。サン・ジュスト生。
(フランソワ・ロベール・ミシェル・ド・グーサンヴィルFrancois Robert MICHEL de GOUSSAINVILLE 1745-94 父親はFrancois Madeleine MICHEL de
GOUSSAINVILLE 1779没。母親はMarie Gilberte JOURDAIN。弟にオワーズ評議会員でサン・ジュスト・デ・マレ市長でサン・ピエール・ド・ボーヴェ大聖堂
の教会理事、レジョン・ドヌール勲章受章者Jean Baptiste MICHEL de MAZIERES 1755-1830がいる。他に妹二人。結婚相手は不詳だが、前者の父)

2003. シャルル・グー(通称ロンプレ) GOUST, dit Longpre (Charles), 39歳。ミュゼオム・セクシオンの元警察署長。レーグルLaigle生。

2004. 二コラ・アンリオン HENRION (Nicolas), 60歳。農夫。ボー・ド・リヴィエールBau de Riviere生。

2005. ドニ・アンヌ・フェルディナン・オダンジェ HODANGER (Denis-Anne-Ferdinand), 33歳。管理官。エクヴィリエEquevilliers(Squivillerとも)生。
(Denis Anne Ferdinand HODANGER 1760-94 Ecquevilly{Yvelinesの}生まれとある。没年は不詳になっているが、この人だろう。父親はLouis
HODANGER 1730-1825。母親はAlix Catherine FLEURY 1739-1806。兄Louis Jean Francois HODANGER 1759生 弟Charles Alexis HODANGER
 1763-63(夭折)、妹Anne Charles HODANGER 1764-64(夭折)、末弟Charles Claude HODANGER 1771生 がいた)

2006. エティエンヌ・ティモレオン・イザボー・モンヴァル ISABEAU-MONVAL (Etienne-Thimoleon), 57歳。元審問書記官。パリ生。
(エティエンヌ・ティモレオン・イザボー・ド・モンヴァルEtienne Timoleon Isabeau de Montval パリ高等法院審問書記官。1767年から71年迄、パリ高等法院
の公証人・秘書官。パリ高等法院弁護士のNicolas-Felix Van Dievoet dit Vandiveに1774年、王国及び秘書室公証人顧問の職を売却した)

2007. アントワーヌ・ジャン・パティスト・アレクサンドル・ジュリアン JULIEN (Antoine-Jean-Baptiste-Alexandre), 80歳。元アランソン地区知事。パリ生。
(Antoine Jean-Baptiste Alexandre Jullien 1715-94 79歳で処刑。父親は国王秘書官で砲兵管理官 Jean Baptiste Jullien。母親はCatherine Artault。
48年 Elisabeth Boudonと結婚。
1744年林野省の主席検事。52年高等法院評定官。65年訴願審査官。66年アランソン地域長官。ブルターニュからの旅行者がパリに最短で来れるよう
アランソン街道{パリ・カーン・ルート}を開く。捨てられた子供たちを病院に入れ、地方在住の看護師に託す等、慈善事業にも積極的だった。92年議会は
多額の年金を授与したが、その後、不明の理由で逮捕、そして処刑されてしまった。勤勉で明朗で活動的な人柄だったという。
 ジュリアン家はブルゴーニュで14世紀にはフロロワ男爵位を有していた高貴な家柄。564のJean-Francois Jullienとは同じ家系だが、5世代前に分岐
した同族で「遠い親戚」)

2008. ピエール・ラリガン LALIGAND (Pierre), 35歳。材木商。オータン生。
(ピエール・ベニーニュ・ラリガン(通称モリヨン) Pierre -Benigne Lalligand {ou Laligant }, dit Morillon 1759-94 父親は医師Louis, Henry, Alexandre Laligant。
始め78年頃、親衛騎兵隊に入るも為替詐欺で除隊。82年ナントで結婚したMarie-Anne Laisantの父親の材木商を手伝うも、妻の財産を使い尽くすと妻
を捨てパレー・ル・モニアルに住みつく。そして彫刻を学び、今度は偽造品の製造を始め、オータンで投獄。しかし看守を買収して91年海外逃亡。コブレン
ツで亡命軍に加わるがすぐに帰国し、革命派になる。王弟アルトワ伯の子供を誘拐する作戦を提案する。支持はされなかったが革命的情熱を評価され、
グルノーブルに派遣されて王党派の逮捕に従事。首領のMonnier de La Carreの逮捕に成功する。次はラ・ルエリーの陰謀の調査を命じられ、庭師ペラン
からの証言により、城内のラ・ルエリー侯の遺体の発掘に成功。城の捜索も行い、陰謀加担者12人をギロチンへ送ることに成功した。彼は称賛され、過去
の訴訟の全てを許され、革命政府から5万リーヴルが報奨金として与えられた。その後もブルゴーニュで逮捕した容疑者を金銭で釈放する方法で私服を肥
やしていた。ダントン派の処刑で彼の保護者はいなくなり、パリに召喚され逮捕、処刑され果てた)

 Pierre -Benigne Lalligand (ou Laligant ), dit Morillon

2009. LALLEMAND (Jean-Nepomucene), 56 ans, ne a Sarreguemines.
(ジャン・ネポミュセーヌ・ラルマン Jean-Nepomucene Lallemand バイイ裁判所の弁護士。父親はLixheimの主席検事Pierre-Adolphe Lallemand。
母親はAnne-Marguerite Knoepffler。1763年Anne-Lucie Richardと結婚している)

2010. ルイ・マリー・フランソワ・ラロシュ・ブーソ LAROCHE-BOUSSOT (Louis-Marie-Francois), 69歳。アンジューAnjoux生。
(ラ・ロシュ・ブーソー侯爵ルイ・マリー・ジョゼフ・ド・フェスク・ド・ラ・ロシュ・ブーソー Marquis de La Roche Bousseau, Louis Marie Joseph de FESQUES
 de La ROCHE BOUSSEAU 1725-94 フランス衛兵、サン・ルイ騎士、野戦総監。父親はLouis Joseph de FESQUES 1685-1743。母親はBaronne de 
Bailleau Le Pin et Sandarville,Marie Madeleine Ombeline de VASSE 1695-1786。兄にCharles Louis Joseph Marie de FESQUES 1720-45がおり、34年
小厩舎付小姓だったが、1745年7月31日Scolastique Marthe Francoise Henriette de GOYET de VILLESEPTIERと結婚し、同年11月2日に25歳で亡くな
っている。1764年Gabrielle Elisabeth Le COIGNEUX 1739-76と結婚。二男二女を残す)

2011. ジャン・アレクサンドル・ラロシュ・ランベール LAROCHE-LAMBERT (Jean-Alexandre), 58歳。教会参事会員。カオール生。
(ジャン・アレクサンドル・ド・ラロシュ・ランベール Jean Alexandre de Laroche-Lambert 1735-94 カオール生まれ。1756年ボーヴェ司教総代理。系図では没
年不詳になっているが、この人だろう。父親はモントーバン租税法院の国王評定官Jean Joseph de Laroche-Lambert 1689生。母親はToinette de 
Pouzargues。姉と兄がいる。兄Gaspardは士爵。この人も「元貴族」とある)

2012. アンドレ・ラトゥール LATOUR (Andre), 58歳。ストラスブール生。

2013. ルネ・シャルル・フランソワ・ラトゥール・デュパン・シャンブリー LATOUR-DUPIN CHAMBLY (Rene-Charles-Francois), 48歳。ボモンBomont生。
(ラ・トゥール・デュ・パン・シャンブリー伯爵 ラ・シャルス侯爵ルネ・シャルル・フランソワ・ド・ラ・トゥール・デュ・パン・シャンブリー・ド・ラ・シャルス Comte de La
Tour-du-Pin-Chambly Marquis de La Charce,Rene Charles Francois de la TOUR-du-PIN-CHAMBLY de la CHARCE 1746-94  Bosmont-sur-Serre生。
8月10日のチュイルリーの防衛戦に参加し93年逮捕された。父親はVicomte de La Charce Comte de La Tour-du-Pin,Rene Francois Andre de La
TOUR-du-PIN de La CHARCE 1715-78。母親はJacqueline Louise Charlotte de CHAMBLY 1716-91。1773年Agathe-Louise de SAINT-ANTOINE de
SAINT-ANDRE 1754-74と結婚、翌年死別の後、1779年Angelique Louise Nicole de BERULLE 1753-1826と再婚し、二男を残す。この妻の弟は2501のMarquis
 de Berulle。曾孫{長男の孫}には、Marquis de La Charce,Francois-Rene{系図にはComte de La Tour du Pin Chably de La Charce,Rene Charles Humbertとある。
また別資料ではComte de La Tour du Pin Chambly , Marquis de La Charce,Charles Humbert "Francois-Rene" de La TOUR du PIN-CHAMBLY de La CHARCE
とあるから、何か理由があるのだろう}1834-1924は、軍人・政治家・社会改革者として名高い。従妹Marie Seraphine de La Tour du Pin Montaubanと結婚していたが、
共に90歳まで生きるも子はなかった。ドーフィネの名門で12世紀頃より確認できる。783のJean-Frederic de La Tour-du-Pin Gouvernet 1727-94等の
La Tour du Pin Gouvernet家もこの支流。La Tour du Pin Montaubanも同じ。この人のLa Tour du Pin Chambly家は両親の苗字からも分かるように、この人
から。{家系のWiKiではこの人は4月4日処刑になっている}この人の祖父の代はde La Tour du Pin Gouvernetである。
⇒2445と重複している。系図の記録からして2013の順が正しい。但しド・ラ・トゥール・デュ・パン家のこと、あるいは783、784との系図上の繋がりについては2445の方が
詳しいので参照。次男Vicomte de La Tour-du-Pin Chambly de La Charce,Henry de La Tour du Pin Chambly de La Charce 1783-1866は192の孫娘Elisabeth Marie
Modeste 1783頃-1855と結婚している)

曾孫・Francois-Rene de La Tour du Pin Chambly  

2014. マリー・フェリシテ・ローネー LAUNAY (Marie-Felicite), ブニックBnicke妻。(Burckeとも) 25歳。パリ生。
(罪状には法律を無視して貴族の紋章と名前を保持していたとある)

2015. アレクサンドル・ルモワーヌ・クレシー LEMOINE-CRECY (Alexandre), 59歳。家具担当近侍。クレルモン生。
(Alexandre Lemoine de Crecy 1735-94 1784年5月12より92年まで、王室家具担当近侍長官 garde general des meubles de la Couronne 父親は国王付従者
Henry Etienne LEMOINE de CRECY 1703-56。母親はLouise Cecile TAVERNIER de BOULLONGNE 1702生。1760年Anne Madeleine Louise PARMENTIER
 de La MOTTE 1742生 と結婚、子の記録はない)

2016. ジョルジュ・シャルル・リュリエンヌ LURIENNE (Georges-Charles), 62歳。ルーアン生。
(Georges-Charles de Lurienne 1732-94 ルーアン大聖堂教会参事会員で司祭)

2017. リシャール・ミク MIQUE (Richard), 65歳。ナンシー生。
(Richard MIQUE 1728-94 王妃お気に入りの建築家。救出計画に父・息子と加担し処刑。息
 子シモン・ミクは後者。父親はやはり建築家のSimon MIQUE 1684-1761。母親はBarbe MICHEL 1700-61。1753年Marie-Catherine HURTEVIN 1735-1803と
結婚。二男二女が成人。。長女Catherine MIQUE 1757-1818は結婚し、准将Charles-Louis THEREMIN d'HAME 1806-70の祖母になる。次女Marguerite MIQUE
1758-1800は85年徴税請負人Nicolas Perruchot de Longevilleと結婚しているが、すでに6月20日処刑されている。⇒1562.義父であるこの人は逃亡して1562の管
轄地区であるドル司教区Chateau des Ormesにて逮捕されている。長男は後者。次男Francois Eustache Mique de Blemont 1764-92は中尉だったが、ナンシーで
28歳にて没している)

 Richard Mique(1728-94)   ..............................................................................................................................曾孫・Charles-Louis THEREMIN d'HAME 

2018. シモン・ミク MIQUE (Simon), 39歳。法律家。リュネヴィル生。
(シモン・ミク・デイユクール Simon MIQUE d'HEILLECOURT 1755-1794。76年パリ高等法院弁護士となる。前者の子。共に王妃救出作戦に加担し処刑。
1785年Francoise Jeanne du RIEUXと結婚し、一女一男あり。息子Marie Louis Richard MIQUE d'HEILLECOURT 1787-1811は皇帝軍の士官。士官学校から
第93歩兵連隊少尉となり、1808年からスペインの作戦に参加し負傷、レリダの病院にて23歳で亡くなった)

2019. ジャン・ドミニク・モラン MORIN (Jean-Dominique), 47歳。簿記係。バルスロンネットBarcelonnette生。

2020. エマール・シャルル・マリー・ニコレー NICOLAY (Aymard-Charles-Marie), 47歳。パリ生。
エマール・シャルル・マリー・ド・ニコレー Aimar-Charles-Marie de Nicolai 1747-94 会計院院長{68年}。治安判事。アカデミー会員{88年}。子のLeon de
NICOLAY 1770-1794は7/10パリでギロチン⇒2090。789は兄。父親はやはり会計院院長だったMarquis de Goussainville,Aimar Jean de NICOLAI
1709-85。 68年パリ高等法院法官帽部長Marquis de Novionの娘Philippine Leontine Potier de Novionと結婚。ルイ16世を称賛し、国民の敵と見なされた。
ニコレー家はヴィヴァレーの古い家柄で15世紀にはパリ会計租税院評定官をしている。次男はナポレオンの侍従で全権大臣となるAymard-Francois-Marie
-Christian de Nicolai 1777-1839。三男も政治家になるMarquis de Nicolay,Aymard-Charles-Marie-Theodore1782-1871。尚、妻のPhilippine Leontine
Potier de Novionはジェーヴル公{2026で断絶}等のポティエ家のNovion系の出身。この妻もブリサック伯に嫁いだ姉 Anne-Marie Gabrielleしかおらず、Novion
系は父でパリ高等法院評定官Marquis de Novion et de Grignon,Andre IV Potier de Novionの1769年の死で絶えた。ポティエ家には Blanc-MesnilとNovionと
Tresmes et Gesvresの家系があり、Novion系は1611年ブルターニュ高等法院法官帽部長になったAndre PotierがBlanc-Mesnil系から分離して出来た支流。
2026らTresmes et Gesvres系はアンリ3世の国務卿でジェーヴル男爵でトレーム伯爵Louis Potier 1630没 からの家系。Blanc-Mesnil系も高等法院評定官
で士爵Augustin Potierの1704年の死ですでに絶えており、2026の処刑で全て断絶)

 Aimar-Charles-Marie de Nicolai.............................................................妻・Philippine Potier de Novion 1748-1820  
.........................................................................................................................................................................................................................................................................................................................三男・Comte Nicolai,Aymard-Francois-Marie-Christian

2021. トマ・ノルティ NORTHY (Thomas), 25歳。イギリス生。
(クリスティアン・トマ・ノルティ Christian Thomas Northey 1764頃-94。Roswick生。ベルギー軍大尉。父親はThomas Northey 1734-89。母親は65年死亡の
Elizabeth某。弟にイギリス海軍士官のJames Murray Northey 1768頃生 あり、1801年頃は海軍中佐、1806年勅任艦長に任命されている。異母弟にイギリス
軍副司令官・大佐のLewis Augustus Northey 1775頃-1857がいる。伯父にイギリス南部ウィルトシャー議員のWilliam Northey 1721-70がいる)

祖母・Abigail Webster 1697-1777 
伯父・William Northey

2022. ドニ・ジャン・ピエール・パピヨン(通称ラフェルテ) PAPILLON (Denis-Jean-Pierre), dit Laferte, 67歳。シャロン生。
( ドニ・ジャン・ピエール・パピヨン・ド・ラ・フェルテ Denis Pierre Jean Papillon de La Ferte 1727-94 王室催事担当部長官{1756-92}。父親はシャロンの
首席財務官で知事補佐官Pierre Papillon de La Ferte 1682頃-1753。母親はJeanne VERDIER ca 1691-1754。1749年Marie Anne Victoire GUICHARD 1752没
と結婚後、Catherine Louise Henriette de VILLERS 1791没 と再婚し、一男一女を得る。長男 Louis Victor Xavier 1784-1847は1814年王室催事長官に
任命されており、長女Deniseは1803年、皇帝宮廷長官.Jean-Baptiste-Francois-Devin de Gravilleと結婚した。
元々は内気な性格で旅に出て外交的になろうと努め、その後パリに移り、弁護士の下で法律を学んで、主任審査官の官職を買おうとした。しかし芸術好きな性格
をどうにも抑えられず、徴税請負人の娘だった最初の妻の財産で思う存分に芸術を楽しんだ。三人生まれた子も夭折し、妻も52年出産がもとで亡くなる。続けて
亡くなった両親からの遺産も目減りしたところで、彼はべ・ド・キュリスという王室催事担当部長官の後任として26万1000リーヴルで官職を購入した。上司となるくせ
者揃いの主席侍従官たち{リシュリュー公、ジェーヴル公、ドーモン公、フルーリー公等}と彼はうまく付き合い、宮廷での地位を確立していく。絵画、地理、天文学、
数学に精通しており、著作も残している。革命後はサン・ドニの別荘に引きこもり、公民の誓いも立てて、国民衛兵の登録もし、地域の衛兵司令官もし、多額の寄
付もした。しかし90年に家宅捜索を受けて、そのショックで妻は亡くなる。長くリュクサンブールに収監された後に処刑された。902は弟で、その娘{この人の姪}Jeanne
Charlotte Felicite Papillon d'Auteroche1769-1842 が2154の長男と結婚している)

 Denis Pierre Jean Papillon de La Ferte  .............................................................................................................................................................................................姪・Jeanne Charlotte Felicite Papillon d'Auteroche

2023. アンジェリク・ピエール・ペロ PERROT (Angelique-Pierre), 56歳。パリ生。
(アンジェリク・ピエール・ペロ・デュ・ベルネ Angelique Pierre Perrot du Vernay 1738-94 会計院部長評定官。アンジェリク・ピエール・ペロ・ド・サン・タンジュ
Angelique-Pierre PERROT de SAINT-ANGEとも。後者の弟。父母は後者参照。Marie-Antoinette de HEMANTと結婚し、ペロ伯爵や国王侍従官なる三人の
息子を得る)

2024. アントワーヌ・二コラ・ペロ PERROT (Antoine-Nicolas), 57歳。パリ生。
(アントワーヌ・二コラ・ペロ・デュ・ベルネ Antoine-Nicolas PERROT DU VERNAY 1736-94 租税法院部長評定官。前者の兄。Adelaide D'AUBIGNYと結婚後、
 Augustine DOMILIERSと再婚している。父親は会計院評定会計官Pierre-Thomas PERROT DU VERNAY 1775没。母親はCatherine-Marie-Gilbert Freteau。

2025. オーギュスタン・ジャン・パティスト・ペロ PERROT (Augustin-Jean-Baptiste), 23歳。パリ生。
(前二者らとは姻戚関係であると思われるが、2023の子には該当なく、前者には子の記録がなく、また前二者らの父親の兄弟でパリ高等法院弁護士のNicolas
-Pierre Perrotにも子の記録はないので、関係は未詳)

2026. ルイ・ジョワシャン・パリ・ポティエ・ド・ジェーヴル POTHIERS DE GEVRES (Louis-Joachlm-Paris), 62歳。パリ生。
(ジェーヴル公爵 トレーム公爵ルイ・ジョワシャン・パリ・ポティエ Duc de Gesvres,Duc de Tresmes,Louis-Joachim-Paris POTIER de GESVRES 1733-94 イル・ド・
フランス総督。ポティエ家は15世紀から商人、貨幣法院、パリ市議から貴族化した一族で18世紀に3つの家系が絶滅した。 Comte de Gandelus,Louis-Leon Potier
と Prince de Tingryの娘Eleonore-Marie de Montmorency-Luxembourgの息子。オルレアン公主席侍従Marquis du Guesclinの娘 Francoise-Marie du Guesclinと
1758年結婚。子孫なく処刑された。百年戦争の英雄デュ・ゲクランの家系もここに同時に絶滅した。2022パピヨン・ド・ラ・フェルテが仕えた首席侍従のジェーヴル公
は伯父のFrancois-Joachim Bernard Potier de Gesvres 1692-1757だろう。この叔父は訴願審査官の一人娘と結婚したが子はなかった。{このジェーヴル公の後任
の首席侍従はデュラ公}。叔父はボーヴェ司教で枢機卿のEtienne-Rene Potier de Gesvres 1697-1774。叔母にComtesse de Bethune,Marie Francoise Potier 1697
-1764あり。ポティエ家はこの人の祖父の妹が嫁いだブロイ・ルベル家と、ソー・タヴァンヌ家が唯一の子孫になったとあるが、確かにソー・タヴァンヌ家とはこの人の
曾祖父の妹Margueriteにより結ばれているが、子孫なしとある。この叔母が嫁いだベテューヌ家は代が続いているが、その辺りは未詳。ポティエ家には Blanc-Mesnil
とNovionとTresmes et Gesvresの家系があり、この人たちはTresmes et Gesvres系。2020の妻Philippine Potier de Novionなどは1611年ブルターニュ高等法院法官帽
部長になったAndre PotierがBlanc-Mesnil系から分離して出来た支流。このTresmes et Gesvres系はアンリ3世の国務卿でジェーヴル男爵でトレーム伯爵Louis Potier
1630没 から始まりこの人で絶えた。Novion系は2020の妻の父でパリ高等法院評定官Marquis de Novion et de Grignon,Andre IV Potier de Novionの1769年の死で絶
えた。また Blanc-Mesnil系も高等法院評定官で士爵Augustin Potierの1704年の死ですでに絶えており、ここに全て断絶した)

伯父・Francois Joachim Bernard Potier de Gesvres   
 ..................................................................................................................................................................................................................................
 ...............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................叔父・Etienne-Rene Potier de Gesvres
叔母・Comtesse de Bethune,Marie Francoise Potier de Gesvres 

2027. ルイ・プーラ POURA (Louis), 60歳。元貿易商。ニムNimes生。
(Louis POURRAとも。寄稿家ともある)

2028. ジェルメーヌ・クティエ QUETIER (Germaine), シャルポニエCharbonnier妻。40歳。オルニーOrny生。
(王がいなければ秩序もないと発言したために処刑。94年6月25日と27日に夫へ送った手紙が革命裁判所のファイルにある)

2029. セバスティアン・ラバティアリー RABATIALY (Sebastien), 35歳。従業員。リヨンCommune affranchie生。

2030. マリー・アントワーヌ・フランソワ・マリー・ランドン・ラトゥール RANDON LATOUR (Marie-Antoine-Francois-Marie), 58歳。農夫。ラオンLaon生。
(マルク・アントワーヌ・フランソワ・マリー・ランドン・ド・ラ・トゥールMarc-Antoine-Francois-Marie Randon de La Tour 1736-94 王室と王妃の総財務官。
父親はLouis RANDON de CORNEIL。母親はSophie RANDON。{Marie Madeleine Barbe HUGEとも}弟Marie Louis Antoine RANDON de LA SAUSSAYEがいて結婚し子
もいる。Marie Francoise Madeleine de Lassone 1753生 と1774年結婚。{マリー・アントワネット王妃の主治医Joseph-Marie-Francois de Lassone1717-88の娘}1785
年4月1日付のマリー・アントワネット王妃のこの人への支払い書が残されている。またマリー・アントワネット王妃が、衣装箪笥係近侍二人の一年分の支払いと食事代
723リーヴルの支給を王室財務局のこの人に依頼する書類も Pierre Jean Baptiste Beaugeard 1764-1832の副署名付きで残っている)

義父・Joseph-Marie-Francois de Lassone  

2031. ドミニク・ジャン・パティスト・ルニャック REGNAC (Dominique-Jean-Baptiste), 42歳。バルスロンネットBarcelonnette生。
(Dominique-Jean-Baptiste Rognacともある。  元王太子連隊大尉で元貴族)

2032. ジャン・ポール・ロベール(通称デザルディエール) ROBERT (Jean-Paul), dit Desardieres, 32歳。シャロン生。
(元貴族で海軍大尉とある。後者の兄か? Jean Paul Robert de Sardieresでも該当なし)

2033. シルヴェストル・ジョアシャン・ロベール ROBERT (Silvestre-Joachim), 27歳。シャロン生。
(元貴族で海軍士官候補生とある。前者の弟か?)

2034. オノレ・ジョゼフ・ロジェ ROGER (Honore-Joseph), 55歳。アルル生。

2035. イヤサント・ロッジ ROSSY (Hyacinthe), 50歳。旅団長。アジャクシオ(コルシカ)Ajaccio(Corse)生。
(イヤサント・ド・ロッジ Hyacinthe de Rossi 第4騎兵連隊。フランスに仕えたコルシカ貴族で野戦総監や中将だったROSSY兄弟の一人。長兄はアントワーヌ・
フランソワ・ド・ロッシ1726-1800 で、1745年王室コルシカ連隊の旗手、47年中尉 、59年大尉。63年サン・ルイ騎士。72年中佐、同年に大佐。88年野戦総監。90年
ビロン不在下でコルシカ司令官。92年中将。93年アルプスでパロセロンネットの防衛中に逃亡し、除名。95年退役が認められて死去。次兄カミーユ・ド・ロッジ
1727-94は兄と同じく43年王室コルシカ連隊旗手、46年中尉、56年大尉。63年サン・ルイ騎士。{ここまでは兄よりも早い}91年第91歩兵連隊大佐。92年アルプス方面
軍の野戦総監。93年少将。93年恐らくは上記の兄と共にだろう、パルセロンネットで逮捕。{兄は逃亡}94年1月29日に処刑されている。{⇒333。但しこの記録では処刑
日は1月28日となっている}この人は長兄・次兄とはかなり年齢差のある弟ということになる)

2036. フランソワ・セザール・ロワイエ ROYER (Francois-Cesar), 42歳。食料品店。シュザンヌSuzanne生。

2037. パスカル・ロワイエ ROYER (Paschal), 51歳。文筆家。タラスコン生。

2038. ジャン・パティスト・オーギュスト・サリニャック・フェヌロン SALIGNAC FENELON (Jean-Baptiste-Auguste), 80歳。ジャン・デスティサックJean d'Estissac生。
(ジャン・パティスト・オーギュスト・ド・サリニャック・フェヌロン Jean-Baptiste-Augustin de Salignac-Fenelon 1714-94。ペリゴールの サン=ジャン=デスティサック
Saint-Jean d'Estissacの La Poncie城館生まれ。フェネロンの従兄弟子ペリグーで学んだ後に38年司祭。その後にパリに出る。44年ルイ15世妃の専属神父になる。
45年サン・セルナン修道院を与えられる。そして煙突掃除人夫である貧しいサボワヤールの少年らへの慈善活動を展開。しかし革命後、宣誓拒否にて逮捕。パリの
全サボワヤールが嘆願活動を行うが叶わなかった。ある少年は叫んだ。「あなたは殺される。あなたが何を犯したというのですか? ただ善を行っただけなのに!」と。
この人は応えた。「決して死によって善が行えなくなることは悪ではないのです。さようなら、我が友よ」
19世紀に貧しい子供らを救済したヴォージュールの慈善事業所には彼の名が付されている)

 Jean-Baptiste-Augustin de Salignac-Fenelon

2039. シャルル・ローラン・ソーヴァージュ SAUVAGE (Charles-Laurent), 26歳。海軍少尉か中尉(enseigne de vaisseau) トリクトットTriquetote生。
( トリクトール・ロヌヴァル Triguetole-Loneval生まれ。トゥーロンでイギリス軍に味方したため処刑)

2040. ジャック・アデライド・セルヴィル SERVILLE (Jacques-Adelaide), 39歳。大尉。パリ生。
(元貴族。ボワプローBoipreau未亡人とあるので女性? 貴族の称号と狂信的な著作物のため処刑。「大尉」とない資料あり)

2041. シャルル・ヴェルディエール・ダン VERDIERE DHEM (Charles), 65歳。ブルボン島生。
(シャルル・フランソワ・マリー・ド・ヴェルディエール・ダン 1729-94 Charles Francois Marie de Verdiere d'Hem{ダン侯爵
シャルル・ヴェルディエールMarquis de Hem,Charles Verdiereとも}1762年大佐。69年-70年インドのショワズール公の秘密代理官。
70年野戦総監。74年サン・ルイ騎士。92年中将。ヴェルディエール家は、フランドルのエノーのd'Aigremon家の支流。
父親は同名の歩兵将校Charles Francois Marie de Verdiere 1700-42。母親はTherese Gernette L'Olivier de Tronjoly{あるいはTherese 
Guenelle L'OLIVIER DUPLESSIS 1707頃-34}。長女にHenriette Marie Perrineはブルターニュのノートルダム・ド・ジョワ修道院院長。
{Notre-Dame-de-Joye修道院長在任は1766-76。彼女は同修道院長として
「マリー4世」。次の代のMadeline Clotilde de La Bourdonnaye de Blossacが最後で92年革命で修道女は追放、採石場と化す} 長男
のシャルル・オーギュストはインド洋のフランス島で21歳で没。次女マリー・フランソワーズ 1722頃-47 は38年にブルボン島総督で
総管理官Comte de O'Hegerty,Pierre-Andre 1702-47 と結婚している。次男がこの人。Morgan嬢と結婚しているが子は不明。父親
の再婚相手アントワネット・ド・ジャン 1719-59 との間の異母妹フランソワーズ・ガブリエル 1740生 はブルボン島で生まれComte
de Chef du Boisと結婚している。従兄弟の Philippe Joseph Xavier de VERDIEREはレンヌ地方連隊大尉でサン・ルイ騎士、サント・ドミ
ンゴの高官)

              
姉・Henriette Marie Perrine de VERDIERE 従兄弟・Philippe Joseph Xavier de VERDIERE

1794年7月9日

2042. アントワーヌ・バロン BARON (Antoine), 46歳。時計職人。ディジョン生。

2043. カトリーヌ・バッセ BASSET (Catherine), フラザンFrasans妻。50歳。サン・モーリスSaint-Maurice生。
(カトリーヌ・バッセ・ド・ラ・マレル Catherine BASSET de LA MARELLE 1976の妹。2066は娘。2045は義姉。父親は
貨幣法院検事でドンブ高等法院次席検事・評定官Philippe BASSET de LA MARELLE。母親はCatherine Le BLANC。
63年戦争参事官でサン・ルイ騎士のPhilibert Claude Joseph de FRASANSと結婚。息子Anne Claude Joseph Hippolyte
Louis de FRASANS 1768-1838はPointe-a-Pitreの民事裁判所判事になるが、娘Catherine Antoinette Louise Victorine
 de FRASANS 1808頃-78 は1836年、メゾン・ルージュの騎士で名高いAlexandre GONSSE de ROUGEVILLE 1761-
1814の息子Marquis de Rougeville,Charles Francois Alexandre GONSSE de ROUGEVILLE 1809-45と結婚している)


娘婿の父・Alexandre Gonsse de Rougeville 

2044. フランソワ・ベロイユ BELLOEIL (Francois), 58歳。元司祭。レルミタージュL'Hermitage生。

2045. マリー・ボルドー BORDEAU (Marie), バッセ・ラマレルBasset-Lamarelle妻。38歳。リュルシーLurcie生。
(マリー・ボルドー・ド・リュルシー Marie BORDEAUX de LURCY 1976の妻。1975の母、2043は義妹。父親はリヨンの
フランス財務官Fleury BORDEAUX de LURCY。母親はJeanne Francoise GUILLET)

2046. ガブリエル・エゼリーズ・ヴィクトル・ポルヌ BORNE (Gabriel-Hezerisse-Victor), 20歳。パリ生。
(ガブリエル・エルキュール・ヴィクトル・ダルティエ・ド・ポルヌ Gabriel-Hercule-Victor d' Altier de Borne{de BUDOS}1773-94
後者の次男。コンティ連隊少尉。1770年生まれの兄Charles Michel Elisabeth 1770-1815がおり、93年に亡命している。兄は
亡命先からの帰国後も健康状態が悪く結婚せずに亡くなり、叔父のFelix-Jean-Baptiste-Basileが残るだけとなる。その叔父も
亡命軍に参加し海外を転戦、ミュンヘンで子孫なく1828年に他界するのであった)

2047. シャルル・ジャン・パティスト・ヴィクトル・ポルヌ・ダルティエ BORNE DALTIER (Charles-Jean-Baptiste-Victor), 49歳。
ナンテールNanterre生。
(ダルティエ伯爵、シャン侯爵シャルル・ジャン・パティスト・ヴィクトル・ダルティエ・ド・ポルヌComte d' Altier, Marquis du Champ,
Charles-Jean-Baptiste-Victor d' Altier de Borne{de BUDOS} 1745-94 Nante生まれとある。父親はComte du Champ et
 d'Altier, Marquis de Serres,Jean-Antoine-Hercule d'Altier de Borne 1703-62。母親はMarie-Therese de Malbosc de Miral。
弟Felix-Jean-Baptiste-Basile d'Altier de Borne, 1752-1828あり。{弟はVicomte de Borne d' Altierで、68年、小厩舎小姓。
71年コンティ連隊少尉。72年大尉。88年コンティ竜騎兵少佐。91年に亡命し92年コンデ軍騎兵中佐。そのままロシア軍旗下で
アンギャン竜騎兵隊に留まり、1801年野戦総監。ミュンヘンに定住し当地で後継者なく没} 1768年Anne Elisabeth Francoise
de Saint-Georges 1748生 と結婚し、二男を得る。前者は次男。この人は1760年小厩舎小姓。71年国王の馬車に同乗する特権。
83年サン・ルイ騎士。コンティ竜騎兵大佐。89年ジェヴォーダン三部会の貴族議員。使用人の密告により息子と共に逮捕された。
ジェヴォーダンの最も古い家柄の一つであるアルティエ家と11世紀に遡れるポルヌ家は14世紀の婚姻により結ばれ、ダルティエ
伯爵位とシャン侯爵位を掲げた。この人の父親もシャン城館生まれである。海外にいた弟{1828没}ではなく、この人の長男である
Comte d' Altier, Marquis du Champ,Charles Elisabeth Michel de Borne d'Altier 1770-1815{1793年亡命。後に帰国}が病弱につき
未婚のまま1815年にシャン城館にて他界して、この一族は絶えたという形になっている)

2048. マテュー・ジャン・ブリシェ BRICHET (Mathieu-Jean), 47歳。陸軍書記官。アンジョーAnjau生。

2049. マリー・アンヌ・ルイーズ・ブルック BRUCKE (Marie-Anne-Louise), 67歳。ルエルRuelle生。
(Marie Anne Louise BRUKEとも)

2050. ジルベール・アレクサンドル・カルボニエ CARBONNIERS (Gilbert-Alexandre), 57歳。ブーサックBoussac生。
(ジルベール・アレクサンドル・ド・カルボニエール Gilbert-Alexandre de CARBONNIERESサン・クロード教会参事会員で
司教総代理。パリにて逮捕された。詳細は後者説明参照。
父・Marquis de Carbonnieres , Comte de Saint-Brice, Baron de Boussac,Jean Baptiste Carbonnieresと不明女性との子。
後者は異母兄となる。{カルボニエール侯の正式な妻はFrancoise Armande de Rilhac})

2051. ジャン・シャルル・カルボニエ CARBONNIERS (Jean-Charles), 58歳。ブーサック生。
(カルボニエール子爵ジャン・ド・カルボニエール Vicomte de Carbonnieres,Jean de CARBONNIERES。1736-94。ノルマンディ
ー連隊大尉。
父親はMarquis de Carbonnieres , Comte de Saint-Brice, Baron de Boussac,Jean Baptiste Carbonnieres。母親はFrancoise
Armande de Rilhac。前者は異母弟。長兄Charles Henri{Comte de Carbonnieres,Baron de Boussac。近衛銃士第二中隊。騎兵
大尉。1768年Marie-Anne DU CARTERON de LA PEROUSE 1807没 と結婚。夫婦共に逮捕されているが、革命は生き延びた}、
弟Rene-Henri{前者と同じくサン・クロードの教会参事会員で司教総代理。プロヴァンス伯付の神父で宣誓拒否で逮捕、獄死して
いる}、Henri Auguste{リヨノワ歩兵連隊士官でマルタ騎士。1792没}がいた。妹Louise Melchiorは1761年Marquis de Ranes, Charles
 Louis d'ARGOUGESと結婚。この人と前者と共にパリで逮捕。但し処刑名簿にはない。妹Louise Francoiseはパリのサン・ジャック
通りのヴィジタシオン女子修道院の修道女。 妹Madelene Pauleは未婚でMademoiselle de Saint-Briceと呼ばれていたが、逮捕さ
れている。妹Anne-Francoiseはモンリュソンのベルナルディーヌ修道女となっている。
1793年監督委員会はブーサック地区委員会のカルボニエール家に対する対応が甘過ぎると批判。一族の逮捕を命じた。すでに
三男のルネ・アンリは王弟の専属神父であったし宣誓拒否でもあり拘留されていた。{後に拘留中に死} 長男のシャルル・アンリ、
その妻マリー・アンヌ、その息子と娘、シャルル・アンリの妹でラーヌ侯爵夫人のルイーズ・メルシオール、サン・ブリース嬢マドレーヌ・
ポール、そして弟二人{つまりこの人と前者}が逮捕された。但しシャルル・アンリの20歳の息子と19歳の娘{息子Claude Armand
Joseph de CARBONNIERES 1773生  Agathe de RIBEREYSと後に結婚。娘Claire Pauline de CARBONNIERES 1774-1841 Armand
 de RIBEREYSと後に結婚}は、94年3月20日ブーサック代表団の副代表Vernereyの介入で解放された。のたシャルル・アンリとその
妻は生き延びており、そして二人の妹ルイーズ・メルシオール、マドレーヌ・ポールも処刑された形跡がない)

2052. ガスパール・ルイ・シャンボン・ダルブーヴィル CHAMBON D'HARBOUVILLE (Gaspard-Louis), 59歳。パリ生。
(ダルブーヴィル侯爵ガスパール・ルイ・ド・シャンボン・ダルブーヴィル Marquis d'Arbouville,Gaspard Louis de CHAMBON
d'ARBOUVILLE 1735{26とも}-94 騎兵大佐。妻は2069。父親はオート・アルザスのCellestatの総督で野戦総監Marquis
d'Arbouville,Pierre de CHAMBON d'ARBOUVILLE 1753没。母親はMarie Anne Francoise de MONTMORIN de SAINT HEREM
 1697-1753。4人の姉と1人の兄あり。姉Marie Adelaide 1724-53は52年Marquis de Pangeと結婚しているが、貴族文筆家
でシェニエの友人としても名高いMarie-Francois-Denis Thoma 1764-96は、結婚1年で娘を残して他界したMarie Adelaideと
死別後にパンジュ侯が再婚した相手との息子である。また32年生まれの兄Pierre Nicolasは早世した模様。 1766年Felicite
Francoise Sophie FRETEAU de PENY 1747-94と結婚しているが夫婦共に処刑されている。⇒2069。長男Louis Henri Castor
1767-92はアルトワ伯の亡命軍に参加、ドイツで25歳で死去。次男Jean Baptiste Louis Pollux 1771-91は海軍少尉で、フリゲート
艦La Thelis{恐らく1788年造船された40門艦}に乗り組み、インドで19歳で亡くなる。長女Adelaide, Henrietteは1780年12歳で死去。
次女 Alexandrine 1770-1828がいるが結婚記録はない。Adelaide Henriette Alexandrine 1828没と二人が一人のように記録
されている系図もある。また妻の兄Emmanuel Marie Michel Philippe FRETEAU 1745-94は貴族政治家だったが、6月14日すでに
処刑されている)

義兄・Emmanuel Marie Michel Philippe FRETEAU  

2053. アントワーヌ・ドニ・シャルボニエ・サント・クロワ CHARBONNIER SAINTE-CROIX (Antoine-Denis), 37歳。トゥーロン生。
(Antoine-Denis CHARBONNIER de SAINTE-CROIX 元貴族。定番のリュクサンブール牢での陰謀への加担、という情報しかない)

2054. シモン・フランソワ・コゥールダシエ COEURDACIER (Simon-Francois), 40歳。金箔師。フランシアードFranciade生。
(Simon-Francois COEUR-D'ACIER 憲兵ともあり)

2055. フランソワ・ルネ・ダミアン DAMIENS (Francois-Rene), 49歳。パリ生。

2056. アンリ・ルイ・ドラポルト DELAPORTE (Henry-Louis), 60歳。貿易商。パリ生。
(Henry Louis DELAPORTE 1734-94 サン・トノレ街の手袋製造・調香商。1778年銀行業。父親は34年同じくサン・トノレ街で同業
を営んでいたLouis Rene DELAPORTE。母親はCatherine Charlotte FRANCOEUR。62年Antoinette Eustochie BANDIERI de LAVAL
と結婚し二男一女。 Louise Dorothee DUPRE 1746-1804と再婚して一男一女をもうける。後妻との長男Jacques Denis 1777-1861
は東洋言語通訳者でナポレオンのエジプト遠征に随行、1815年シリア・トリポリ領事などしている)

2057. ジャン・フランソワ・ディディエ DIDIER (Jean-Francois), 65歳。グルノーブル生。

2058. シャルル・ドルデコプ DOLDECOP (Charles), 40歳。ベルリン生。
(サルム大公の侍従貴族。男爵ともある。2454のPrince de Salm-Kyrbourg,Fredericの侍従だろう)

2059. ノエル・ドルーアン DROUIN (Noel), 43歳。古着屋。ヴィルロワVilleloi生。

2060. ジャン・パティスト・デュオー DUHAU (Jean-Baptiste), 41歳。杭打ち人。ヴェルノンVernon生。

2061. ルイ・ジョゼフ・デュプラン DUPLAIN (Louis-Joseph), 46歳。日雇人夫。リヨン生。

2062. マリー・ジャン・パティスト・デュヴァル・ボーモン DUVAL BEAUMONT (Marie-Jean-Baptiste), 63歳。
サン・レオナールSaint-Leonard生。
(St Leonard-de-Beaumont-le-Roger生まれ。元貴族。du Val de Beaumontでも見つからず。1764年2月14日、パリで死亡した
Jacques-Philippe Duval de Beaumontというブルジョワのみいる。{シャトレ係官の記録})

2063. ジャン・ファケ FAQUET (Jean-Charles), 59歳。オークールAucourt生。
(元暴君の叔母の従者とある。叔母ヴィクトワール王女の従者にJean Charles Facquetがいる)

2064. ジャン・ピエール・フレ FERRET (Jean-Pierre), 31歳。馭者。サンリス生。

2065. ジャック・フランカール FRANKART (Jacques), 28歳。パリ生。

2066. アレクサンドリーヌ・フランソワーズ・カトリーヌ・ジュリー・フラザン FRASANS (Alexandrine-Francoise-Catherine-Julie) .ドヴィラール
Devillars未亡人。31歳。リヨン生。
(マリー・アレクサンドリーヌ・フランワーズ・カトリーヌ・ジュリー・ド・フラザン Marie Alexandrine Francoise Catherine Julie 
de FRASANS 父親は戦争参事官・サン・ルイ騎士のPhilibert Claude Joseph de FRASANS。母親は2043。パリで騎兵大尉
N DEVILLARDと結婚。子は記録なし。弟のAnne Claude Joseph Hippolyte Louis de FRASANS 1768-1838はPointe-a-Pitre
の民事裁判所判事になるが、娘Catherine Antoinette Louise Victorine de FRASANS 1808頃-78は1836年、メゾン・ルージュ
の騎士で名高いAlexandre GONSSE de ROUGEVILLE 1761-1814の息子Marquis de Rougeville,Charles Francois Alexandre
 GONSSE de ROUGEVILLE 1809-45と結婚している。子の記録なし。1975は従弟)

2067. ルイ・フルモン FREMONT (Louis), 50歳。パン屋。ガルシュGarches生。

2068. リシャール・フレデリク・フルレット FRERETTE (Richard-Frederic), 64歳。ジェルネーGernay生。
(元貴族のA. F. FRERETともあるが、原文もFRERETTEになっているが、元貴族で元男爵ともある)

2069. フェリシテ・フランソワーズ・ソフィー・フレトー FRETEAU (Felicite-Francoise-Sophie), シャンボン・ダルブーヴィルChambon 
d'Harbouville妻。47歳。パリ生。
(ダルブーヴィル侯爵夫人フェリシテ・フランソワーズ・ソフィー・フレトー・ド・ペニー Marquise d'Arbouville,Felicite Francoise Sophie FRETEAU
de PENY 1747-94 2052の妻。父親は国王評定官で会計院審査官、王国総検査官のMichel-Louis FRETEAU de PENY 1771没。母親はMarie-
Helene Sophie LAMBERT 1763没。1375は貴族政治家だった兄のEmmanuel Marie Michel Philippe FRETEAU 1745-94。ダルブーヴィル侯
との子供らについては2052の夫の内容参照。尚、妹のAdelaide FRETEAU de PENY 1751{49とも}-1826は1769年Charles-Marguerite-Jean-
Baptiste MERCIER DU PATY 1746-1788 と結婚しているが、その曾孫にドレフュス事件でドレフュス大尉を不当に糾弾し、エミール・ゾラに批判
された少佐Armand-Auguste Charles "Ferdinand" Marie MERCIER DU PATY de CLAM 1853-1916がいる)

兄・Emmanuel Marie Michel Philippe FRETEAU  

2070. ジャン・クロード・ジョフロワ・ダシー GEOFFROY D'ASSY (Jean-Claude), 64歳。パリ生。
(Jean Claude GEOFFROY d'ASSY 1729-94 一般収入出納官後に財務官。父親は同じく出納官で父の跡を継いで国王秘書官
だったClaude GEOFFROY 1690-1770。母親はMadeleine PAIGNON 1775没。 兄Claude Gilbert 1725-1815と二人の姉妹がいた。
恐らく妹であるAnne Madelaineの孫 Theodore Gaspard Louis de RONCHEROLLESは1806年、1096のComte de Mirepoix,Charles-
Philibert-Marie-Gaston de Levis 1753-94の娘Adelaide Celestine Delphine de LEVIS-MIREPOIX 1783-1838と結婚している。
1761年、会計審査官の娘Genevieve Elisabeth LELONG 1741-1826 と結婚し、一男Alexandre Louis 1763-1847をもうけた。
この息子は弁護士・行政官となった。祖父まではBarcyのブルジョワ商人だった。
2336のルイ・ジャン・シャルル・ダシーは聖職者だが、この人との関係は系図上では確認できない。この人には兄と妹二人がいて、兄は
Claude Gilbert 1718生 であるが結婚し子ももうけている)

ジョフロワ・ダシーの肖像(18世紀)Portraits de Geoffroy d'Assy (XVIIIe s)とあるだけの画  

2071. ジャン・バティスト・ゴナン GONIN (Jean-Baptiste), 59歳。大工。リニーRigny生。

2072. グレゴワール・ゲラン GUERIN (Gregoire), 義勇兵。ムノンMenon生。

2073. フランソワ・ギレルマン GUILLERMIN (Francois), 50歳。奉公人。グールゾンGourzon生。

2074. オーギュスト・ユアール HUARD (Auguste), 24歳。元司祭。アンジェ生。

2075. ジャン・ジュド JUDDE (Jean), 35歳。美容師。コルビニーCorbigny生。

2076. アレクサンドル・ラグリーヴ・マルシャン LAGRIVE-MARCHAND (Alexandre), 46歳。リヨン生。
(marchandは職業名「商人」であり、それが名前に連続してしまったのかも知れない。Alexandre LAGRIVE,リヨン生まれ、MARCHAND
と記録されている資料もある)

2077. ジョルジュ・ラルダン LARDIN (Georges), 24歳。義勇兵。ショーモンChaumont生。

2078. ルイ・ピエール・ラリヴィエール LARIVIERE (Louis-Pierre), 39歳。サン・ロSaint-Lo生。
(Saint-Lot生まれとも。憲兵将校)

2079. アンリエット・フランソワーズ・レヴィ LEVYS (Henriette-Francoise), 27歳。パリ生。
(ベランジェ伯爵夫人アンリエット・フランソワーズ・ド・レヴィ Comtesse DE BERENGER,Henriette Francoise de Levis 1767-94
父親はDuc DE LEVIS 1720-1787。母親はabrielle Augustine Michel de Tharon 1744-94{2085}。後者の妹。1785年Comte DE
BERENGER,Baron DE SASSENAGE, Marquis DE PONT-EN-ROYANS,Raymond Ismidon DE BERENGER-SASSENAGE 1762生
と結婚、Comte DE BERANGER-SASSENAGE DU GUA,Raymond Gabriel 1786-1813を生む。夫の妹 Francoise Camille DE
BERENGER 1765-1827の夫は2492のDuc de SAINT-AIGNAN 1766-1794。この妹も2493としてこの記録には載ってしまっているが、
処刑されていない。1827年7月28日にパリで62歳で亡くなっている)
父・ Duc de Levis,Francois Gaston de Levis-Leran 1719-87  
.義父・Marquis DE BERENGER,Raymond Pierre DE BERENGER 1733頃-1806

2080. マリー・ガブリエル・アルトワ・レヴィ LEVYS (Marie-Gabrielle-Artois), 50歳。(⇒29歳) ラングルLangres生。
(Marie Gabrielle Artois de Levis 1765-94 死亡時29歳。2085の娘。前者の姉。夫ヴァンティミーユ・デュ・リュック伯comte de Vintimille du
Luc,Charles Felix Rene de VINTIMILLE 1765-1806は亡命軍で戦った後にナポレオンの兄ジョゼフのもとイタリアで軍務に服し、旅団長として
亡くなり、この家は絶えた。他には娘3人のみ。また夫の父Marquis du Luc,Charles de VINTIMILLE 1741-1814はルイ15世とマイイ・ネール嬢
ポーリーヌの息子。"Demi-Louis" と呼ばれた。

父・ Duc de Levis,Francois Gaston de Levis-Leran 1719-87  
............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................夫・Charles Felix Rene de VINTIMILLE 義父・Charles de VINTIMILLE 
義祖母・Comtesse de Vintimille,Felicite de Mailly-Nesle 1712-41(そして義祖父は国王ルイ15世である)


2081. シモン・ジュド・マッス MASSE (Simon-Jude), 48歳。小間物商人。ノートル・ダムNotre-Dame生。

2082. ブノワ・マティアス MATHIAS (Benoist), 34歳。ワイン商。マコンMacon生。

2083. アンリ・モーヴォワザン MAUVOISIN (Henri), 40歳。印刷業者。アヴノAvenot生。

2084. アントワーヌ・ジャン・ムラン MELIN (Antoine-Jean), 69歳。店員。スレーヌSuresnes生。

2085. ガブリエル・オーギュスティーヌ・ミシェル MICHELLE (Garrielle-Augustine), レヴィLevys未亡人。50歳。ラングルLangres生。
(レヴィ公爵夫人ガブリエル・オーギュスティーヌ・ミシェル・ド・タロン Duchesse de Levis,Gabrielle Augustine Michel de Tharon 1744-94
 2079、2080は娘。また359は姉。父親は砲兵総財務官でインド会社重役Gabriel MICHEL de THARON 1702-65。母親はDame de
Villiers,Anne Marie BERNIER 1704頃生。1762年Duc de Levis,Francois Gaston de LEVIS-LERAN 1720-87と結婚し、一男三女を残す。
長男はDuc de Levis,Pierre-Marc-Gaston de Levis 1764-1830でプロヴァンス伯親衛隊大尉等の末、プロイセンで軍事訓練を受け、
ロシア、ポーランドも旅し、革命中は夫人と共にイギリスに行き来し、94年からは亡命、キブロン遠征にも参加、辛うじてイギリスに逃げ
帰り、革命後は宮廷に復帰、市長等もし、アカデミー・フランセーズ会員となった。長女Augustine Gabrielle Marguerite Francoise 1762生
は1780年Marquis de Spinolaと結婚。しかし次女、三女は2079、2080で同日処刑されている。
姉の Anne Henriette Francoise MICHEL de THARON 1738-94はMarquis de Marbeufの夫人だったが、2月6日に処刑されている。
子供はこの人とAnne Henriette Francoiseの娘二人のみだった)

夫・ Duc de Levis,Francois Gaston de Levis-Leran 1719-87  
息子・Duc de Levis,Pierre-Marc-Gaston de Levis

2086. フェルディナン・ミルネー MILNER (Ferdinand), 43歳。画商。ブリュッセル生。

2087. アナトール・モンティニー MONTIGNY (Anatole), 51歳。ラディスの代理人。モンモランMontmolin生。
(ラディスは2095)

2088. ルイ・モロー MOREAU (Louis), 68歳。パリ生。
(ピエール・ルイ・モロー・デプルー Pierre-Louis Moreau-Desproux 1727-94 建築家。62年王立建築アカデ
ミー会員。63-87年パリの建築総監督官。63年火災後のオペラ座の再建やサン・トノレ街のパレ・ロワイヤル
を担当。パリの再開発のみならず公開式典も監督。父親はRomain MOREAU 1695頃生。母親はCatherine
Angelique BEAUSIRE 1698-1774。石工の息子からルイ14世と15世の治世にパリの建築総指揮者に栄達した
Jean Beausire 1651-1743の孫。また叔父らも建築業界幹部。個人顧客はオルレアン公関係者やパリ総督
シュヴルーズ公、ゴントー・ビロン公、パリ市関係とあった。革命時、甥のジャン・パティスト・トゥーサン・ド・ボ
ージールにより告発されてサント・ペラジーに投獄。そして処刑された。妹Marie Madeleine MOREAU 1736-
1815は高名な劇作家Jean-Francois Ducis 1733-1816と結婚し、この義弟は逮捕時に政府に釈放介入して
くれた)

義弟・Jean-Francois Ducis  

カルナヴァレ博物館にPierre-Louis Moreau-Desprouxの肖像画〜建築家の肖像〜(1896年取得)という鉛筆画が所蔵されているが、
どう見ても19世紀の服飾であり、掲載はしない。

2089. ピエール・モリコー MORICAUD (Pierre), 38歳。食料雑貨商人。ヴェルサイユ生。

2090. エマール・マリー・レオン・ニコレー NICOLAY (Aymar-Marie-Leon), 24歳。パリ生。
(エマール・マリー・レオン・ド・ニコレー Aimar-Marie-Leon de NICOLAY 1770-94 父親は会計院院長でアカデミー会員の
Aimar-Charles-Marie de Nicolai 1747-94{⇒2020}。母親はPhilippine Potier de Novion 1748-1820。789は伯父。ニコレー家
はヴィヴァレーの古い家柄で15世紀にはパリ会計租税院評定官をしている。父親はルイ16世を称賛し、国民の敵と見なされた。
この人は長男。結婚記録なし。弟はナポレオンの侍従で全権大臣となるAymard-Francois-Marie-Christian de Nicolai 1777-
1839。もう一人の弟も政治家になるMarquis de Nicolay,Aymard-Charles-Marie-Theodore1782-1871。 妹のAymardine Marie
Leontine1772-1808もナポレオン侍従官Bernard Charles Louis Victor de LOSTANGES-BEDUER 1773-1812と結婚、もう一人
の妹Aymardine Aglae1773-1852は Marquis de Villeneuve 1767-1824と結婚している。兄弟姉妹すべてがAimar系の名だ)

 父・Aimar-Charles-Marie de Nicolai 
         母・Philippine Potier de Novion 弟・Aymard-Francois-Marie-Christian

2091. ジェルマン・ノラン NOLIN (Germain), 54歳。吏員。ロク・タンボーRoque-Timbaut生。
(Larogue-Trubatの生まれで、画商ともある)

2092. フェリクス・プロスペル・ノナン NONANT (Felix-Prosper), 69歳。カルトジオ会修道士。ノジャン・ル・ロトルーNogent-le-Rotrou生。
(フェリクス・プロスペル・ル・コント・ド・ノナン・ド・ブレトンセル Felix Prosper Le Conte de Nonant de Bretoncelles 1725-94 ル・コント・
ド・ノナン家はノルマンディーのかなり古い由緒ある家系で13世紀まで遡れる貴族。いくつもの分家に枝分かれしており、この人は
Brucourt とVillersの領主系でmarquis de Fontaines, de Bretoncelles, de Nery, de Raray, de Pierrecourtを名乗る一族に属す。この一族
も3つに分かれており、嫡男が「marquis de Bretoncelles」を名乗る系。小厩舎小姓、1744年中尉、48年に大尉、54年オーストリア継承戦争
と七年戦争に参加。その後57年に退役し60年カルトジオ会の僧籍に戻り、63年副助祭、助祭、そして革命前には司祭となっている。89年
聖職者の意見を代表する35人の委員となり、92年修道院を追われ、モン・ヴァレリアンに避難。貴族身分と非宣誓聖職者として逮捕、パリ
で最も不健康なサント・ペラジー牢に投獄。そして処刑される。父親はMarquis de Bretoncelles,Jacques Pierre Charles Le CONTE de
NONANT de BRETONCELLES 生没年不詳 Bretoncellesは発音記号付で「ブレトンセル」。母親は不詳。Felix Le Conte de Nonantと
 Elisabeth Vipar de Sillyの息子として1683年にFontaine-La-Louvetで生まれたMarie Felix Le CONTE de NONANT de BRETONCELLES
はAnne de Lanoyと結婚し、1719年、27年、28年に借金とか婚姻立会人とかで公的記録が散見されるのみで、1756年1月9日に63歳で
Fontaine-La-Louvetでの埋葬記録となる。子らについての記録はないらしい。42年の年齢差異があるこの人とMarie Felixの関係の詳細
は確認出来ないが、いずれにしても近しい親族だろう。父親Jacques Pierre CharlesはMarquis de Bretoncellesである以上は適長であり、
王軍大尉でElisabeth Francoise Gilliers{不詳の母親はこの女性か?}と結婚、少なくとも二人の子がおり、Genevieve Marieは1730年
Conde-sur-Huisneで死去。もう一人は1725年に生まれたこの人。この人は直系男子の一人であることは分かる。この人はこの家系の
確認できる最後の人物との事。2603のVicomtesse de Narbonne-Pelet-Fritzlar,Adelaide Marie Therese Le CONTE de NONANT de
PIERRECOURTなどもBrucourt とVillersの領主系なので遠縁になる)

2093. フランソワ・マリー・オルナノ ORNANO (Francois-Marie), 68歳。コルシカ生。
(フランソワ・マリー・ドルナノ Francois Marie d'ORNANO 1726-94 王室コルシカ連隊大佐。1780年野戦総監。バイヨンヌ総督。
10月生まれなので67歳。
 1739年、12歳で王室コルシカ連隊士官候補生として兵役に入り、1742年少尉、44年中尉、フランドルの作戦に参加し、ロクーRaucoux、
とフォントノワFontenoyを戦い1747大尉。同じ年にコルシカに戻り、52年に少佐、55年中佐、58年大佐、サン・ルイ騎士。そして59年に
引退したが、60年サント・ドミンゴ島に送られ、そこで4年間活動。1764年にデスタン提督伯爵に代わって地元の守備隊の編成に従事。
1780年コルシカ島に戻る。84年にスペイン国境で従軍。1790年バイヨンヌの総督。1792年国民議会により、彼は51年間8か月の軍役及び
5つの軍事作戦参加の功績で10,000フランの年金を授与。 1793年、王室主義を公言し逮捕、パリに連行。 1794年7月9日処刑。
オルナノ家は南コルシカのオルナノ発祥の一族。ガストン・ドルレアン公の陰謀に連座してリシュリューにより投獄、獄死したJean-Baptiste
 d'Ornano元帥 1581-1626 の同族。{元帥に子はなし}。父親は1736年のコルシカ王を宣言したテオドール1世のもと南コルシカ中将をした
Luca d'ORNANO 1704-1779。母親は不詳。Baron de Bonnut de CAUPENNE d'AMOUの娘 Marie Charlotte 1746生 と結婚し、一女
Victoire d'ORNANO 1775頃-96 をもうける。この娘は93年ヴァンデーでラ・ロシュジャクランの王党義勇軍隊長をして、革命後はボルドー
市長などに就くVicomte du Hamel,Victor du HAMEL 1776-1838 と結婚するが、この夫は96年にVictoire d'ORNANOと死別後、Octavie
FRETEAU de PENY 1780-1875と結婚する。この妻は1375 Emmanuel FRETEAU 1745-94の娘である。2069のMarquise d'Arbouville,
Felicite Francoise Sophie FRETEAU de PENY 1747-94は叔母となる。この家系は絶えたが、ボナパルト家とも血縁のこの一族は現代にも
続いている)

2094. エリザベト・マリー・ぺリニョン PERIGNON (Elisabeth-Marie), タルデュー・マレジーTardieu-Malezy妻。56歳。パリ生。
(マレージー侯爵夫人エリザベト・マリー・ド・ペニョン Marquise de Maleissye,Elisabeth-Marie de PAIGNON 1738-94 夫名はタルデュー・
マレージーTARDIEU de MALEISSYE。夫は中将Marquis de Maleissye,Antoine Charles de TARDIEU de MALEISSYE 1729-94{⇒2098}。
2099、2100は娘。夫や娘、あるいはこの人自身について93年1月{もしくは7月}9日没とある資料あるも、錯誤か。結婚は1759年。家族の
詳細は夫2098を参照。カルモンテルの1770年描画の"Mme la comtesse de Maleissye"があるが、該当するかは不明)

カルモンテルの1770年描画の"Mme la comtesse de Maleissye"  息子・Marquis de Maleissye,Antoine Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE  

2095. ジャック・ルイ・ラディス RADIX (Jacques-Louis), 57歳。パリ生。
(ラ・プレ師Abbe de La Pree。パリ教会参事会評定官 Conseiller au Parlement Chanoine de l'Eglise de Paris。2087の
アナトール・モンティニーは代理人)

 abbe de La Pree,Jacques-Louis Radix

2096. フランソワ・グザヴィエ・リヴリー RIVERY(Francois-Xavier), 36歳。アミアン生。
(アミアンバイイ裁判所特別代理官。名前は F. J.とある資料もあり)

2097. ルイ・セザール・サント・マリー SAINTE-MARIE (Louis-Cesar), 17歳。パリ生。
(セザール・ルイ・ド・サント・マリー・ダニョー Cesar Louis de SAINTE-MARIE d'AGNEAUX 1776-94 マルト騎士。
父親はオルレアン公小姓、オルレアン連隊歩兵大尉・サン・ルイ騎士のMarquis de Sainte-Marie,Jean Jacques Rene
 de SAINTE-MARIE d'AGNEAUX 1730-87。母親はLouise Francoise de PESTALOZZY。兄はMarquis de Sainte-Marie
 d'Agneaux,Hippolyte Jean-Jacques Rene de SAINTE-MARIE 1775-1843。1803年Louise Aglae de LAURIS 1771-1835
と結婚。革命中は92年に亡命。コンデ軍の騎兵隊長。99年帰国。1817年にサン・ルイ騎士、Pontaudemerの副知事。
1830年辞職後はchateau d'Agneauxに引退しアングロ・フランスの研究家に。ノルマンディーのいくつもの学会会員になる。
弟はComte de Sainte-Marie d'Agneaux,Auguste Francois de SAINTE-MARIE 1779-1860。 Louise CORNETTE de SAINT
-CYR 1781頃-1836と結婚している。兄・弟共に子を残している。
ダニョー家は11世紀から知られるノルマンディーの一族。ウイリアム征服王の従臣にも名がある)

2098. アントワーヌ・シャルル・タルデュー・マレジー TARDIEU-MALEZY (Antoine-Charles), 64歳。パリ生。
(マレージー侯爵アントワーヌ・シャルル・タラデュー・ド・マレージー Marquis de Maleissye,Antoine Charles TARDIEU de
MALEISSYE 1729-94 サン・ルイ騎士。中将。父親はMarquis de Maleissye,Charles Gabriel TARDIEU de MALEISSYE
1687-1756。母親はパリ高等法院訴願審査官、ルーシヨン、後にポーの知事の娘Anne Philiberte de BARILLON
d'AMONCOURT。1759年Elisabeth-Marie de PAIGNON 1738-94{⇒2094}と結婚。後二者らの父親。長男のMarquis de 
Maleissye,Antoine Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE 1764-1851は野戦総監で、「フランス衛兵隊将校の
回顧録1789-93」の著者。長女Marie Anne Charlotte TARDIEU de MALEISSYE 1760-1837は1781年Charles Emmanuel 
de GOULAINEと結婚しているが、この夫は95年キブロンで亡くなっている。 海軍左官で「勇者中の勇者」と名付けられた
Arnaud Louis Charles de LOSTANGES de SAINT-ALVERE 1759-1806と再婚。{この再婚した夫の兄Marquis de 
Lostanges et de Montpeza,Henri de Lostanges 1755-1807の夫人は Adelaide de VINTIMILLE 1767-1827 で、2080の
夫の妹に当たる。つまりルイ15世孫}次女は後者。次男Comte de Maleissye,Aristarque Marie de TARDIEU de MALEISSYE
 1773-1847は1803年Charlotte Eulalie des NOS 1780-1851と結婚、三男を残す。三男のVicomte de TARDIEU de 
MALEISSYE,Charle-Francoisは1810年Henriette des CHAMPS de RAFFETOTと結婚しているが、息子Antoine Charles 
1812-92は、1997の甥で下に番外として記入したBaron de Loubert,Jean Louis Augustin de SALIGNAC de La MOTHE-
FENELON 1753-94の兄Marquis de Fenelon,Louis Francois Charles de SALIGNAC de La MOTHE-FENELON 1750-1803
の孫娘Marie1829-90と結婚し、名家La MOTHE-FENELON家は絶えている。三女は多くの系図に記載がないが、2100。
尚、このTARDIEU de MALEISSYE家はジャンヌ・ダルクの家系に繋がっている家柄。Francoise du Lysが租税法院評定官
Louis Quatrehommesと結婚し生まれた娘Marie Quatrehommes 1717没 は、1654年パリ高等法院評定官Achille de Barentin
1698没 と結婚し、その娘Anne de Barentin 1728没 が、1684年この人の祖父と結婚したもの)

息子・Marquis de Maleissye,Antoine Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE     
.....................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................娘婿・Arnaud Louis Charles de LOSTANGES de SAINT-ALVERE 
娘婿の兄・Marquis de Lostanges et de Montpeza,Henri de Lostanges

2099. シャルロット・イアサント・タルデュー・マレジー TARDIEU-MALEZY (Charlotte-Hyacinthe), デュボワ・ベランジェDubois-
Berangerの離婚した妻。27歳。パリ生。
(シャルロット・イアサント・タルデュー・マレージー Charlotte Hyacinthe TARDIEU de MALEISSYE 1765-94 前者と2094の娘で
後者の姉。「男爵夫人」とだけある。93年5月8日に北西部エルネErneeで亡命した夫と離婚。この離婚記録をもってこの人も
「1793年5月8日以降に死去」とされている資料もある。革命裁判所の処刑リストとの照合が未了なのだろう。離婚した夫名は
DUBOIS DE BERENGERともあるが、1785年結婚のGilbert Gabriel Jean Baptiste du BOISBERRANGER 1748頃-1807以降
死去 が離婚した夫。妹の娘の1807年7月の結婚式に84歳の母親Louise Gabrielle Charlotte Therese des NOSと一緒に出席
した記録が最後のよう。この夫については代々の詳細な記録はなく、高祖父の Pierre du BOISBERRANGER 1648-96が
Boismarie領主で近衛銃士隊員だったことくらいである。
モルレ回顧録によると、この人は夫の財産保護のために国内に留まったが、亡命者の身内であることが危険となると離婚を
成立させた。しかし効果なく、家族共々逮捕、リュクサンブール牢に父母、妹と投獄。消沈した父を慰め、独房の母に食料を
分け与え献身的に家族に尽くしていたらしい。
兄のMarquis de Maleissye,Antoine,Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE 1764-1851は野戦総監で、「フランス
衛兵隊将校の回顧録1789-93」の著者)
兄・Marquis de Maleissye,Antoine Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE  

2100. クレール・フェリシテ・タルデュー・マレジーTARDIEU-MALEZY (Claire-Felicite), 23歳。パリ生。
(クレール・フェリシテ・タルデュー・マレージー Claire Felicite TARDIEU de MALEISSYE 1770-94 2098と2094の娘で前者の妹。
この人の記載のない系図もあり、記載ある系図では前者の姉は1767-1793となっている。この人の没年月日に1793年1月9日
処刑とある資料も、両親・姉妹らとギロチン刑に処さる、と書かれている。兄のMarquis de Maleissye,Antoine Charles Marie Anne
 de TARDIEU de MALEISSYE 1764-1851は野戦総監で、「フランス衛兵隊将校の回顧録1789-93」の著者)

兄・Marquis de Maleissye,Antoine Charles Marie Anne de TARDIEU de MALEISSYE  

2101. シャルル・ヴォワルミエ VOILLEMIER (Charles), 18歳。兵士。ヌフシャトーNeufchateau生。
(Charles VOILLEMIER 1775-94 父親は元ヌフシャトーの役人のJean Baptiste Nicolas Benjamin VOILLEMIER 1749-87。母親は
Elisabeth LEFRANC 1754-80。兄と姉が一人ずつおり、兄はCharles Francois VOILLEMIER 1773-1834で1805年Anne Clemence
GODINET 1777-1845と結婚。姉はCatherine Charlotte VOILLEMIER 1774-1813。結婚記録はない。この兄の次男Leon Clement
VOILLEMIER 1809-78 は1832年Anne Josephine Rose Michelle ORLIACと結婚したが、翌年死別、1863年54歳の時に、ロシアの
サンクト・ペテルスブルグにて Princesse Volkonski,Nadejda Petrovna VOLKONSKI 1841-1905と結婚している。花嫁は22歳だ。一男
二女ももうけている。彼の職業はオテル・デューの外科医である。 1905年1月25日のフィガロ誌の死亡欄にも「レオン・ヴォワルミエ
医師の未亡人であるヴォルコンスキー大公女が64歳で急死。Hazen-Chase夫人、Pierre Viollemier、Lamb夫人の3人の子らがいる。
明日1月26日木曜日にロシア教会{rue Daruの}で執り行われる」との記事がある。長女Leonie Ernestine MarieはArthur HAZEN-CHASE
と結婚しているし、長男はJean Pierre Hippolyteであるし、次女 Jeanne Marie FrancoiseはCharles Estus LAMBと結婚しているから、
子らの名も符号する。系図には1905年1月26日パリで死亡とあるが、葬儀の教会記録をもとにしているのかも知れない。いずれにしても
この驚くべき貴賤結婚についての真偽・詳細は未詳である)

1794年7月10日

2102. ジャン・バティスト・フランソワ・アティレ ATTIRET (Jean-Baptiste-Francois), 47歳。建築家。ドールDole生。
(Jean Baptiste Francois ATTIRET 1747-94 司祭で建築家。父親は議会弁護士で建築家Antoine Louis ATTIRET 1713-83。母親は
Anne Therese SAILLARD 1719生。高名な彫刻家Claude-Francois Attiret 1728-1804やイエズス会使節の随行画家として中国に渡り
中国皇帝等の多くの肖像画、絵画を残し北京で亡くなったJean-Denis Attiret 1702-68は従叔父、従伯父にあたる。{この人の祖父アンドレ
の兄ジャン・クロードの子がジャン・ドニ。祖父アンドレの弟アントワーヌ・ジョゼフの子がクロード・フランソワ} 父アントワーヌ・ルイは15歳
年下の従弟である彫刻家クロード・フランソワの早期教育に貢献している。この人は非宣誓司教として逮捕・処刑された)

  従叔父・Claude-Francois Attiret 

2103. ピエール・バルドゥー BARDOU (Pierre), 68歳。種馬飼育所検査官。ヴェルサイユ生。
(Pierre BARDOU 1726-94 1758年モールパ伯の主馬係、1765年王太子妃テーブル係porte-table ordinaire、1788年ヴィクトワール王女
取次係,huissier du cabinet。1789年小厩舎{国王種馬飼育所}の猟犬係、そして種馬飼育所検査官。結婚記録等はなし。公的記録として、
1788年 Honore Leonard BIJU DIT DUVAL 1763-1814とAnne GAUDIN 1763生 の結婚の証人として名が記録されている)

2104. ジャック・ミシェル・ブリエール BENIERE (Jacques-Michel), 57歳。ルーアン生。
(ジャック・ミシェル・ギョーム・ブリエール Jacques Michel Guillaume Beniere 1737-94 パリ教区サン・ピエール・シャイヨの司祭。1789年
聖職者代理となるが、議席はなかった。1790年7月29日付でアメリカのジョージ・ワシントンとその議会に対するフランクリン追悼の手紙が
残されている。その手紙の署名には「ソルボンヌの神学博士、ルーアンのメトロポリタン教会の名誉参事会員、シャイヨのサン・ピエール
教区神父、パリの国民議会の議長への副代表」)

2105. ジャン・ルネ・アントワーヌ・ブールノー・フルーリー BOURNEAU-FLEURY (Jean-Rene-Antoine), 54歳。ムードン生。
(国家財産売却委員)

2106. ジャン・ポール・カラドゥー(通称ラ・シャロテー) CARADEUX (Jean-Paul), dit La Chalotais, 64歳。レンヌ生。
(ラ・シャロテー侯爵アンヌ・ジャック・ラウル・カラデューク Marquis de La Chalotais,Anne Jacques Raoul Caradeuc 1728-94
Anneが欠落し、RaoulがPaulになってしまったのだろう。ブルターニュ高等法院主席検事職を父より継承。父親はブルターニュ
高等法院主席検事Marquis de Caradeuc,Louis Rene CARADEUC de La CHALOTAIS 1701-85。母親はDame de La Fresnaye,
Anne Paule RAHIER 1698-1748。女三人男三人の兄弟姉妹の長男。祖父Anne Nicolas CARADEUC de La CHALOTAIS 1667-
1752も同高等法院評定官だった。カラデューク家はブルターニュの貴族家系。La CHALOTAISの名称は母方祖母に由来。
Caradeuc de La Chalotaisの名は1859年に絶えたが、Chateau de Caradeucには今も子孫が住む。
父親はブルターニュ総督デギヨン公とイエズス会と激しき争い、バスティーユにも投獄され世間を騒がせた気骨ある司法官。
この人は 1759年にMarie de COETMEN 1734-71と結婚、死別後の79年Rosalie Celeste Germaine de MONTBOURCHER
1760-1848と再婚し、一男一女をもうけた。息子Raoul Victor de CARADEUC 1788-1859は子が早世しており、自身の死亡に
より1859年家名が絶えたのだろう)

  .................................................  
父・Louis Rene CARADEUC de La CHALOTAIS 祖父・Anne Nicolas CARADEUC de La CHALOTAIS

2107. アレクサンドル・カール・バルタザール CART BALTHAZARD (Alexandre), 47歳。代理人。ムートMouthe生。
(市民モルサンの代理人homme de confiance de la citoyenne Morsanとある。このモルサンなる人物は恐らく
フランシュ・コンテ財務長官{1756}、ポーランド王スタニスラスの内閣秘書官{1757}のJoseph-Marie Durey de Morsan
1717-95のことで、歴史家として高名だった人で、「市民モルサンは無実の証明が必要で亡命していなかったことの証明
も必要だった」ともあるから、この人は亡命者の代理人をしていたのだろう)

2108. ルイ・ルネ・シャンパーニュ CHAMPAGNE (Louis-Rene), 51歳。スウェーデン生。
( ルイ・ルネ・シャンパーニェ Louis-Rene Champagne とアクサン付き。ロレーヌ連隊の中佐で元貴族。サンスSens生ま
れとも。ルネを通字としているド・シャンパーニェ家もあるが、該当者が見当たらない)

2109. ジャン・ジャック・ショプレ CHOPPLET (Jean-Jacques), 32歳。ベリューBerieux生。
(ジャン・ジャック・ショプレ・ド・ショーモン Jean-Charles CHOPLET de CHAUMONT 1761-94 誕生月3月なので33歳。
中佐。パリ第5大隊指揮官。処刑される直前の妻への手紙が残されている。系図には結婚記録はなく妻の姓氏は不詳。
父親はJerome CHOPLET de CHAUMONT 1731頃生。母親はLouise Fortunee LAUREAU 1730頃生。
兄にMarc Antoine CHOPLET de CHAUMONT 1753頃-1807 がいる。食料品店を営み、 Milly-La-Foretでレモネード
販売をしていた。この兄は78年Marguerite COLLIN 1754-97 と結婚し、一女二男をもうけた後、N MICHAUD de
GRANVILLE 1835没 と再婚している。後妻との子は記録なし。長女の娘Henrietteは国王親衛騎兵大尉Charles 
SEYDOUX 1796-1875と結婚している。次男の娘Henrietteは海軍士官Pierre RICHARD-FOY 1810生 と結婚している)


又姪の夫・Charles SEYDOUX 

2110. ルイ・ジョゼフ・ダイイ DAILLY (Louis-Joseph), 58歳。パリ生。
(ダイイ伯爵、セヌセ侯爵、ブランジュ侯爵、レーヴ男爵ルイ・ジョゼフ・ダイイ Comte d'Ailly, Marquis de Sennecey et de
Branges, Baron de Laives,Louis Joseph d'AILLY 1735-94 
父親は国王歩兵連隊擲弾兵大尉Comte d'AILLY, Marquis de Sennecey (Bourgogne), Baron de Laives,Pierre Louis d'AILLY
1741没。母親はMarquis de Montgauguier et de Beauvauの娘Madeleine de BEAUVAU 1703-63。
1774年フランス衛兵隊大尉で後に野戦総監となる Marquis de Branges et de Blignyの一人娘Anne Bonne Genevieve Le CAMUS
 1756-87 と結婚しているが子の記録はない。結婚は1月だが、2月にブランカ侯爵夫人によって宮廷に紹介された。1795年生まれ
のAndre Francois d'Aillyはパリ出身の別の家系で、この人の家はこの人の死で絶えたとある。ダイイ家はピカルディー、ポンテュー
発祥の10世紀より確認できる名門で、この人は14世紀に分家したLa Mairie系の出身。この人は1756年マオン{メノルカ島の?}のボー
ヴォー大公{母親の関係}のもとで将官補佐。57年国王連隊で少尉。59年ロレーヌ近衛隊で中尉。60年王室ノルマンディー騎兵連隊
大尉、70年擲弾兵大佐、71-76年ジョワニー地方連隊司令官、77-78サント・ドミング島のカンプレー歩兵連隊第二大佐、78年オクソ
ンヌ地方連隊大佐、81年歩兵大佐、87年野戦総監。この人はポンテューのダイイ家の子孫として1399年までの先祖の証明に失敗し、
国王の馬車に同乗する権利の証明に1754年に2回にわたり無駄骨をした、とある)

2111. ルイ・フェリクス・ドコルネット・ルミニエール DECORNETTE-LUMINIERE (Louis-Felix), 62歳。モンモリオンMontmorillon生。
(職業も含めて全く情報なし。de Cornetteにしても記載されていないリストも多い。de CORMETTEでも該当者は見当たらない。
⇒ フェリクス・ルイ・ド・コルネット・ド・ラ・ミニエール Felix-Louis de Cornette de La Miniere 1733-94 コワニー公の秘書官{1772頃}、
ショワジー王室図書室管理官{前任者は Pierre-Joseph Bernard}、竜騎兵将官秘書官、tresorier de la capitainerie royale de la varenne
 du Louvre{?}。
 Louis-Dominique de Cornette de la Miniereと Marguerite de La Forestの息子。 王室奉公人でショワジー城家具保管管理官の Thomas
 Filleul 1703-70 の娘Magdeleine-Victoire Filleul 1745生 と72年に結婚。 娘Adelaide-Louise-Magdeleine 1776生 がいた。この娘はショ
ワジーで生まれ、1796年王政復古期にフォンテヌブロー城の管理官となるMathieu Joseph Lamyと結婚している。また妻Magdeleine-Victoire
 Filleulの兄Louis Filleul de Bene 1732-88が77年に再婚した妻は、ヴィジェ・ルブランの友人で王妃からも画の依頼を受けた女流画家Anne-
Rosalie Boquet 1753-94{2494}であるが、夫に替わり管理していたラ・ミュエット城の家具を転売した罪で7月24日に処刑されている)

義兄の妻・Anne-Rosalie Boquet  

2112. シャルル・アントワーヌ・ドセール DESELLE (Charles-Antoine), 44歳。元貴族で軍人。パリ生。
(元貴族で王室連隊大尉。1785年セール伯爵comte de Selles,Charles AntoineによるLouise Duparcへの馬車の売却、という公証人Francois
 SEMILLIARDの公文書が残っている。またchateau de Sellesの城館は1727年セール伯爵位が新設されて城内にレバノン杉を植えたとの記録
がある)

2113. ジャン・バティスト・ドリヴァル DORIVAL (Jean-Baptiste), 66歳。元警視。パリ生。
(元シャトレ警視。伯父か叔父にJean-Baptiste Dorival 1766没 という検察官がいる。この伯父{叔父}はAnne-Madeleine Viel と結婚し、二男
四女あった)

2114. フランソワ・ルイ・ローラン・デュピニョン DUBIGNON (Francois-Louis-Laurent), 74歳。パリ生。
(フランソワ・ルイ・デュラン・デュ・ピニョン Francois Louis Durand du Bignon  元スイス百人隊の大佐。詳細は不明。1751年Francois Louis 
DURAND DU BIGNON がMarechal des logis du roiとして出仕とあり、sieur DU BIGNONとして1757年にスイス百人隊に旗手、63年に副官
Aide-Majorとして同じくsieur DU BIGNONとして登録記録がある。69年にはFrancois-Louis DU BIGNONとしてスイス百人隊中尉とある)

2115. マリー・スタニスラス・ルイ・アレクサンドル・デュモラル DUMOLARD (Marie-Stanislas-Louis-Alexandre), 21歳。兵士。ストラスブール生。
(ポール・マリー・スタニスラス・ルイ・アレクシ・デュモラル Paul Marie Stanislas Louis Alexis DUMOLARD 元貴族でヴァランス在住の兵士)

2116. ジル・フランソワ・アンヌ・デュルフォール DURFORT (Gilles-Francois-Anne), 35歳。トゥールーズ生。
(デュルフォール・レオバール侯爵ジル・フランソワ・.ルイ・アンヌ・ド・デュルフォール Marquis de Durfort Leobard,Gilles Francois Louis Anne
de Durfort 1758-94 近衛隊少尉で士爵。父親はアキテーヌ連隊大尉Comte de Durfort Leobard,Louis de DURFORT-LEOBARD 1721-99。
母親は歩兵大佐Marquis de Soransの娘Anne Suzanne Claire Madeleine Frederique de MONTREAL de SORANS ou de MOREAL。
1775年Baron de Molondinに嫁いだ長姉Marie Jeanne NicoleとLEMAIRE某に嫁いだ次姉 Marie Anne Louise Gabrielleがいた。
Claire Josephine Guyon de Fremontと結婚し、長女 Louise Josephine Philippine Marie 1861没 は 89年の立憲議会の副議長Marquis de
Coligny, Comte de Faucigny-Lucinge,Louis Charles Amedee 1755-1801の次男Gaspard Rene Francois de Faucigny-Lucinge 1792-1866 
に嫁いだ。この夫の兄Ferdinand Victoire Amedee 1829-66の妻は イギリスに亡命していた王弟アルトワ伯の息子ベリー公と愛人Amy Brown
との間の娘Charlotte Marie Augustine de Bourbon 1808-86であり、ジスカール・デスタン大統領の夫人の母方高祖母になる。
{長男Etienne Joseph de Durfortは生没年不詳})

 .......................................................................................................................... 
父・Comte de Durfort Leobard,Louis de DURFORT-LEOBARD 娘婿の父・Marquis de Coligny, Comte de Faucigny-Lucinge,Louis Charles Amedee

2117. ローラン・デュヴェルネー DUVERNAY (Laurent), 27歳。マコンMacon生。
(マリー・ローラン・デュヴェルネ Marie Laurent DUVERNAY 1768-94 Maconのブルジョワ一族の者とあるが、但し死亡年月日は6月30日となって
いる。年齢は27歳で合致。ブルジョワ一族とあるが平貴族とある。父親はDUVERNAY Jean Baptiste。母親はPATISSIER Marie Catherine。この
母親は息子と同様に1794年6月30日死亡とある。{父親に関しては生没年不詳} Antoine Marie DUVERNAY 1764-1856という兄。生没年不詳の姉
か妹のFrancoise DUVERNAYはJean Jacques POURTIER DE LARNAUDという生没年不詳の男性と結婚。やはり生没年不詳の姉か妹のMarie
 Louise DUVERNAYはやはり生没年不詳のGuyet {DE} SAVY と結婚している。過去の同地の一族らしき者たちには、親衛騎兵や国王秘書官等
がいる)

2118. アントワーヌ・イジドール・ファロン・ボッス FARON-BOSSUT (Antoine-Isidore) 45歳。測量委員。ムールMouru生。
(Mouroux生まれ。元測量委員で、古記録にはl'Etangの市長ともl'Etang生まれともあり)

2119. ジョゼフ・フージュラ FOUGERAT (Joseph), 67歳。農夫。ショードルサックChaudresac生。

2120. ジャック・フルレ FRERET (Jacques), 67歳。サン・トーバンSaint-Aubin生。
(元司祭とあり。St Aubin-Guste-Boulau生まれ)

2121. マリー・ルネ・ゴンドルクール GONDRECOURT (Marie-Rene), 33歳。シャロン生。
(マルク・ルネ・ド・ゴンドルクール Marc Rene de GONDRECOURT 1761-94
近衛中尉。父親はベリー連隊中佐でサン・ルイ騎士のMaurice Antoine de GONDRECOURT
1713-82。母親はJeanne Antoinette de COLMONT VAUGRENANT 1737-73。この母親の兄、
つまり伯父は1923。85年Anne Flore BROCHET de SAINT PREST 1763-1801と結婚。一男一女
をもうける。86年生まれの息子Amedee Nicolas Francoisは、1808年義弟{妻の弟}Antoine BROCHET
 de SAINT PREST {539}の遺児である Anne Francoise Zoeと従兄妹同士で結婚した。また娘の
Olympe Marie Charlotte 1790-1857は、 Marquis de la Bedoyereと1809年結婚したが、この夫は
エルバ島脱出後のナポレオンを最初に出迎えた人物で、ワーテルローでも副官を務め、銃殺刑を
セント・ヘレナで聞いたナポレオンが遺児らに10万フランの寄贈を遺言した忠臣で名高いラ・ベドワ
イエール帝国伯の又従兄弟に当たる。この人の兄弟が資料により不明確で、兄弟の孫あたりに
作家で軍人{少将}のHenri Ange Aristide de Gondrecourt 1815-76 がいる)

又甥・Henri Ange Aristide de Gondrecourt  

2122. クロード・ノエル・ゴンソー GONSAULT (Claude-Noel), 53歳。福引管理官。パリ生。
( Claude Noel GONSAULT 1745-94 49歳で死去となる。ブルターニュ徴税請負人。92年に福引管理官となる。
父親はショワジーに配置されたイル・ド・フランス管区警邏隊騎兵{1755}で68年ヴィルジュイフ {Villejuif}旅団に
入隊したClaude GONSAULT 1719-68。母親はJeanne PONTON 1720頃生。Alexandrine Marguerite Charlotte
 GONSAULT 1770頃生 と結婚。子の記録はない。兄弟は兄2人、弟3人、そして妹1人がいた。長兄の Jean
Jacques 1743-1808 は王弟の酒杯係長Chef du gobeleだったが、1808年にトゥーロンのオテル・マリティーム
 l'Hotel Maritimeの監視人となった。末弟Jacques Louis GONSAULT-PLAINVILLE 1755生 は革命前はポンデ
ィシェリ等の植民地で歩兵将校をしており、92年に第13歩兵連隊中佐となっている)

2123. フランソワ・クリストフ・ゲルペル GUERPEL (Francois-Christophe), 40歳。軽騎兵大尉。ヌーアンNouant生。
(フランソワ・クリストフ・ド・ゲルペル Francois Christophe de GUERPEL 1753-94 Nonant-le-Pin生まれ。父親は
Pierre Christophe de GUERPEL。母親はDame du Plessis,Marguerite de MAUREY 1730-1802。夭折した者も含め
て三男二女の次男だった。この人自身の結婚記録はない。祖父Jean Christophe I de GUERPEL 1679-1735が国
務評定官で、vicomtes d'Exmes, Argentan,Trunのシャトレ特別代理官、Exmesのバイイ裁判所陪席判事をしていた)

2124. ギョーム・ジルベール・フィルマン・ラロー LALAU (Guillaume-Gilbert-Firmin), 42歳。福引受理官。アミアン生。
父親はアミアン造幣局監視員で貿易商、アミアン市役人・執政官のFirmin LALAU 1716-81。母親はアミアン市役人・
執政官の娘Dorothee MITIFFEU。1781年Marie Agnes Louise DEPREALと結婚。3人子供がいたらしい。恐らく兄2人、
姉3人の末子だったが生没年不詳で、職業も明記なし。)

2123. シャルル・ルブレ LEBRET (Charles), 56歳。ブズ・ルロンBezu-Lelon生。
( Bouillon生まれとあり。ソークールSaucoursの元司祭)

2126. ルイ・マリー・ルクレール・ビュフォン LECLERC-BUFFON (Louis-Marie), 30歳。モンバールMontbarre生。
(ジョルジュ・ルイ・マリー・ルクレール・ド・ビュフォン Georges Louis Marie Leclerc de Buffon 1764-94 第58歩兵連隊
大佐。
父親は有名な植物学者Comte de Buffon,Georges-Louis Leclerc 1707-88。母親はMarie Francoise de SAINT-BELIN
1732-69。父親もブルゴーニュ高等法院評定官の息子であるし、母親も“Marquis de Saint-Belin”の娘である。
幼少期から父親より自然科学の教育ではなく、息子が好む「貴族らしい」教育のみを与えた。この人は自然科学への才能
よりも、乗馬や狩猟を好む人物で、晩婚でようやく得た跡取り息子に対して父親もそれを見抜き、且つそれを尊重した。と
は言え、この人は父親に従順だったし、また思慮も深かった。父の奨めで周遊旅行で各国を巡り、ロシアのエカテリーナ2世
からの招待に対しても父の代理としてペテルスブルクに赴いたりした。 1784年セポワ侯Marquis de Cepoyの一人娘Marguerite
BOUVIER de LAMOTTE de CEPOY 1768-1808 と莫大な持参金付きで結婚。大変な美女。オルレアン公旗下のシャルトル
連隊の大尉として任官したが、義母はオルレアン公に親しいし、父の女友達ジャンリス夫人も公家に近いし、後ろ盾は完璧で
すぐに大佐の階位についた。しかしその実、連隊が北方の国境地帯に駐屯している間、若妻はオルレアン公の愛人として
関係していた。義父であるビュフォン伯が「可愛いブルゴーニュ娘」と呼んでこの嫁を大事にしていても、オルレアン公は馬車
の馭者等に変装したりして愛人の元に通っていた。二人の関係は深く、世間の評判を気にした父ビュフォンの奨めと、この人
本人の希望もあり、離婚の申し入れとなる。と同時に連隊からも退くことになった。{離婚成立は93年。またこの人は少佐の
資格で革命前に他連隊へ復帰している} 革命であのランバル大公妃の首がオルレアン公の元に運ばれた時、共に会食し
ていたのはこの夫人で「いつか私の首もあのように町を練り歩くんだわ!」と夫人は叫んだという。しかし、実際に首を切り
落とされたのは、この愛人と夫で、夫人は難なく革命を生き延びた。88年父ビュフォンは亡くなるが、その前に自分の王立植物
園総監職を息子に世襲させる申請を宮廷に出したが、この人は自分にその才能がないこと、そしてより適した人物が後任と
して待機していることを理由に辞退している。革命で逮捕されたのは、やはり父親が王室や権力者らの庇護下にいた学者であり、
それで得た莫大な財産を遺産相続している人物であるということと、父親の領地運営でのトラブルによる領民らからの訴訟等
が理由と思われる。処刑台でこの人は「市民諸君、私はあのビュフォンの息子だ」と声掛けしたが、何の反応もなかったという。
それは、父ビュフォンの名が一般的に高名になるには、もう少し時間が必要だったからである。前年の93年、Elisabeth-
Georgette Daubenton、通称Betzy Daubenton 1775-1852 と再婚したばかりだった)

     ................................................................................................................................................................................   
Georges Louis Marie Leclerc de Buffon      .......................................................................................................................................................妻・Marguerite Francoise Bouvier de la Mothe de Cepoyはオルレアン公愛人
.....................................................................................................................父・Comte de Buffon,Georges-Louis Leclerc

2127. ジャン・ベルナール・ルメール LEMAIRE (Jean-Bernard), 40歳。代訴人(avoue)。グラン・ヴェルヌイユGrand- Verneuil生。
(ジャン・パティスト・ルメール Jean Baptiste LEMAIRE  Grand-Verneuil生まれの代訴人{avoue}ではなく元弁護士{ex avoca}と
なっている資料もあり)

2128. ジャン・ジュヌヴィエーヴ・アダン・ルマラン LEMARIN (Jean-Genevieve-Adam), 41歳。元インド会社の海軍大佐。パリ生。
(Jean-Genevieve ADAM LE MARIN  1753-94 le marinは通称のようだ。情報なし。Jean-Genevieve ADAMでも同様。墓碑の写真はあり
1786年10月14日にMarie Jeanne Emilie Guillaume GOSSELINと結婚{?}しているのか。Capitaine de vaisseaux de la compagnie des Indes
のJean-Genevieve ADAMのこの人がMarie Jeanne Emilie Guillaume GOSSELINとの間に文書による契約{Dispense de domicile}のような
ことをパリでしている文書が保管されている)

2129. ジャン・パティスト・ルーヴァティエール LOUVATIERE (Jean-Baptiste), 34歳。元徴税人請負人。パリ生。
(Jean-Baptiste Louvatiere 元徴税請負人の清算人、とある)

2130. ピエール・シャルル・マシェ・ヴェリュ MACHET-VELYE (Pierre-Charles), 59歳。ロワジーLoisy生。
(ピエール・シャルル・マシェ・ド・ヴェリュ Pierre Charles Machet de Velye 1735-94 元王弟の建物監督官。父親はJean Machet de Velye。
母親はCatherine Grasset。Adelaide Julie Sansonと結婚。子の記録はない。夫と死別後、この妻は96年Bonaventure Charles Marie Margerin
という人物と結婚している。83年Le Poitevinの浴場・温泉・蒸気浴場の権利を半分得て、加熱浴場としてかなりの利益を得た。93年、訴えられ
て逮捕され、かつての前歴も加わり処刑された。王弟はプロヴァンス伯。)

2131. ジャック・クロード・マラン・マリヴォー MARIVAUX (Jacques-Claude-Marin), 52歳。法律家。ポトワーズPontoise生。
( ジャック・クロード・マルタン・ド・マリヴォー Jacques Claude MARTIN de MARIVAUX 1743-94 高等法院弁護士。父親はJacques MARTIN。
母親はMarguerite MASSE。1775年「法の友」"L'ami des lois"という書物を発行したが、破壊的内容により議会に禁書処分された。国王の秘密
警察の指揮者だったとある)

2132. ルイ・クレール・モーラン MAURIN (Louis-Clair), 63歳。パリ生。
(プロイセン王子の宮廷顧問官とある)

2133. エティエンヌ・フランソワ・メニル MESNIL (Etienne-Francois), 32歳。料理人。コードベックCaudebec生。
(コードベック生まれの農夫Jean Baptiste Adrien Marin MESNIL 1757-1812がいる。また同じくコードベック生まれの一世代上だが、Pierre Francois
 MESNIL 1736生 は王立砲兵隊を廃兵院で引退しルイ16世から年金を受けていた)

2134. ジャン・ジャック・ジョゼフ・ムーニエ MOUSNIER (Jean-Jacques-Joseph), 28歳。法律家。サン・ジャン・ダンジェリーSaint-Jean-d’Angely生。
(Jean-Jacques-Joseph Mousnier 1765-94 両親も他の情報もない。サン・ジャン・ダンジェリーにはムーニエ姓が多い。ラ・シャラント・マリティーム
学会より「 le destin tragique d'un jeune Angerien」{若きアンジェリアンの悲劇的運命}という伝記がこの人を扱っている)

2135. アンドレ・パリ PARIS (Andre), 47歳。馬丁。トロワ生。
(ブリサック公の馬丁。オーブ県出身でパリ在住。公とデュバリー夫人との通信役をしていたとして逮捕。TroyesのParis一族に多くの同世代が見受けら
れるが、この人は見当たらない。
2399の説明中で、ラ・ファイエット夫人とその妹モンタギュ夫人が祖母や母や姉の埋葬場所を調査した時、フォーブールのある建物の4階の屋根裏部屋
に住むMlle Parisというレース女工に出会い、この女性の父親が30年ブリサック家に仕えたが、ブリサック家の処刑で年金も失われた際に「国民衛兵隊
の職員事務所の使用人」だった弟が生計を立ててくれたが、ある日、父弟が逮捕され処刑、その死体の搬送車を追ってピクピュスに放り込んだのを確
認したという話を聞けた。そして、ピクピュス周辺地と建物を共同で購入し記念碑建立に至ったわけだが、そのMlle Parisの弟とは2241のオーブAube第
二大隊司令部の使用人フランソワ・パリではないか? またこの人は47歳{「年老いた父」とは言えないが}で、ブリサック公の馬丁でオーブ県出身でパリ在
住でMlle Parisの話の内容と合致する。この記録では父のこの人は7/10、息子{Mlle Parisの弟}は7/15の処刑となる)

2136. ピエール・ジェルマン・パリゾ PARISOT (Pierre-Germain), 41歳。文筆家。パリ生。
(ピエール・ジェルマン・パリゾー Pierre Germain Parisau{Pariseauとも呼ばれる} 1752-94 劇作家、俳優、起業家、批評家。貧しい俳優だった。
スペクタクル・オペラを企画し、投資家を募り、その監督となる。劇場の踊り子プティト・ベルナールを愛人としており、債権者や劇場の俳優らへの
支払い資金を二人に生活に充てて、何度も借金の取り立てから逃れるべく窓や屋根から逃走した。それでもまた資金を提供してくれる人が現れる
と、彼はその半分だけを債権者らに渡し、残りの半分はプティト・ベルナールとの甘い生活に注ぎ込んだ。1780年9月治安判事は彼のスペクタクル・
オペラを閉鎖する。彼はコメディー・フランセーズとコメディー・イタリエンヌの為に演劇作品を書いて提供した。革命期、彼は la Feuille du matin誌で
熱心に君主制を擁護する記事を書き、結局は捕らわれて処刑された。
18世紀から19世紀にかけてのフランス・オペラの歌手で踊り子で、その過激で挑発的な衣装により、ロンドン公演では規制が入り当時大きな評判と
なったMademoiselle Parisot 1775頃-1837以降 の父親は、ヴィクトリア・アルバート博物館はこの人であると特定している。しかし劇場歴史家ルイ・
ペリコーは、彼女の本名は Eugenieで父親は彫刻家だと主張している)

娘とされるMademoiselle Parisot  

2137. フランソワ・ピエール・ペリニョン PERIGNON (Francois-Pierre), 33歳。サント・ムヌーSainte-Menehould生。
(St Rochの助任司祭で元聖職者)

2138. 二コラ・アンリ・ペルノ PERNOT (Nicolas-Henry), 80歳。パリ生。
(二コラ・レミ・ド・ペルノ Nicolas-Remi de Pernot 1715-94 元貴族で野戦総監。野戦総監になったのは1780年。軽騎兵連隊の大佐だった。1789年7月
にパリでブロイ元帥が終結させた部隊にも加わっていた。名前のイニシャルがN.Jになっている資料もあり)

2139. ジェルマン・クードヴィル QUEUDEVILLE (Germain), 62歳。カーン生。
(Germain Queudeville 1733-94 Jean QueudevilleとJeanne Heronの息子。ノルマンディーの15世紀には確認できる古い一族の出。地元の大学で学んだ
後、1752年バイユーで聖職者になる。55年にかけて副助祭、助祭。オラトリオ会に入りパリに出てThomas de La Valetteに神学を学ぶ。ナント、ボーヌで学
び、60年パリで司教神学校で講師をし後にリヨンで活躍する。ルマンにてクーランCoulansの司祭となる。91年革命で憲法による司祭であるMonrocqが教区
を占有し、彼はパリに逃げ出す。しかし93年の法律で更に状況は厳しくなり、93年11月逮捕。そして処刑)

2140. フランソワ・ガスパール・フィリップ・ロシュモール ROCHEMORE (Francois-Gaspard-Philippe), 43歳。ロシュフォール生。
(Francois Gaspard Philippe de ROCHEMORE 1751-94 王室騎兵連隊士官、後にラングドック竜騎兵大尉。父親はロシュフォール海軍監督将官 Vincent
Gaspard Pierre de ROCHEMORE 1757没{1726-63ともある}。母親はMarie Madeleine de GASTON。弟はLouis Pierre Gaston de ROCHEMORE 1755-78
で、シュフラン船団の軍艦長として戦死。伯父はロシュモール侯爵やロシュモール子爵を名乗っているが、父親は五男。この人も弟も結婚の記録はない。
ロシュモール家はRochemaurとも綴られ、11世紀に遡れるラングドックの貴族家系。伯父{父親の次兄}のロシュモール子爵アンリ 1702-78頃 は最後に
デスタン旗下で74門艦「Tonnant」{1743年造船}を指揮して海軍中将で引退した人物。父親は五男として肩書も財産もなく軍隊に入ったが、1758年ニューオ
リンズに向かい、ルイジアナ植民地の海兵隊司令となり商業、司法、警察の管理者となる。そしてルイジアナ植民地総督Chevalier de Kerlerecを汚職起訴
したが、逆に投獄され本国に召還された。しかし本国での縁故による味方の支援を得て、逆に総督を解任・追放に追い込んだ人物)

2141. ミシェル・フランソワ・ルーシエル ROUSSIALE (Michel-Francois), 60歳。福引受理官。マルゼルブMalesherbes生。

2142. ヴィクトル・シャルル・フランソワ・ルー・ピュイヴェール ROUX-PUIVERT (Victor-Charles-Francois), 31歳。海軍大尉。トゥールーズ生。
(ヴィクトル・シャルル・フランソワ・ド・ルー・ド・ピュイヴェール Victor Charles Francois de ROUX de PUIVERT 1763-94 1780年マルト騎士。
父親はトゥールーズ高等法院法官帽部長、後に同法院院長となるMarquis de Puivert,Sylvestre Jean Francois de ROUX de PUIVERT 1714-81。
母親はMarie Therese de ROUX D'ALZONNE。兄が二人いて、長兄は王軍野戦総監で王政復古期に重臣となるMarquis de Puivert,Bernard
Emmanuel Jacques de ROUX de PUIVERT 1755-1832。次兄はトゥールーズ高等法院次席検事だったが21歳で逝去したMarie Claude Charles
Joseph de ROUX de PUIVERT 1759-80。長兄は革命期は亡命しコンデ軍に従軍、アルトワ伯の軍補佐官などし、1804年フーシェの警察に逮捕、
タンプル、ヴァンセンヌ等の投獄。しかし逆に王政復古で釈放されヴァンセンヌ総督となる。1784年Comte de Langeronの娘と結婚していたが、
95年死別して、1806年の再婚により後継者を得た。ピュイヴェール家はカルカソンヌの裁判官一族で1680年にピュイヴェール侯位授爵、1918年に
家名は絶えた)

長兄・Marquis de Puivert,Bernard Emmanuel Jacques de ROUX de PUIVERT  
父・Marquis de Puivert,Sylvestre Jean Francois de ROUX de PUIVERT

2143. ジャック・シナトー・ヴェルデュル SINATEAU-VERDURE (Jacques), 27歳。時計職人。ベルヴィルBerville生。
(Jacques SINATEAU-VERDURE 1767-94  G. H. Baillie著「Watchmakers and Clockmakers of the World」{1929初版}の中にも名がある)

2144. ジャック・トムレ THOMERET (Jacques), 39歳。元司教。シャン・スグレChamp-Segre生。
(Jacques Thommeret 1754-94 Champsecret{Orne}生まれとあり。Noizy-le-Secの司祭。マイエンヌのプラセPlaceとアレクセンAlexainで神父をし、12年
間を過ごす。Noizy-le-Secの司祭の時に市民憲法の誓いを立てた。91年のパリ選挙区議会での宣誓演説の記録がある。彼は賭博場でも宿屋でもジロ
ンド派であることを公言していた。94年2月一度逮捕されたが、その時は翌日釈放される。同年また数人の市民と旅館でテーブルを囲み、マラーやロベ
スピエールを人食いだと非難し、ジロンド議員の逮捕を盛んに嘆いているところを再逮捕。彼を弁護できる証人も彼の所有する家屋をもらえるとなると沈
黙し、他の証人らも脅迫により発言できなかった)

2145. アントワーヌ・トゥールノン TOURNON (Antoine), 40歳。批評家。リヨン生。
(Antoine Tournon 1754-94 政治活動家 リヨンの大工の息子として生まれる。1786年Journal de la langguefrancaisedeで筆をとる。革命後は愛国的広報
活動を行い、言論についての重要性をうったえ続け、同時に革命を称賛、その波及について多くの著作を出版する。啓蒙主義的な政治を科学するという
アプローチを可能にした思想家でもあった。しかしジャコバン派の一般的な論理を受け入れることが出来ず、逮捕され処刑される)

2146. アンドレ・クロード・ヴァルティエ VALTIER (Andre-Claude), 51歳。郵便事業所長。シャラントンCharenton生。

1794年7月11日

2147. ルイ・アンスラン(通称ラガルド) ANCELIN, dit Lagarde (Louis), 51歳。海軍大尉。ベルヌゾーBerneseau生。
(ルイ・アンスラン・ド・ラ・ガルド Louis Ancelin de La Garde 1744-94 ゲモザックGemozac生まれ。13歳から海軍大尉になるまで軍歴を積んでいた。1781年
健康上の理由で37歳で24年間のキャリアに終止符をうって退役した。80年4月にAlexandrine-Victoire-Helene de Morantと結婚している。年金を受けながら
若妻とChateau de Bernessartで政治とは無関係で生活していたので、革命期に亡命する必要もないと判断した。91年に共和国の崩壊を示唆する発言をした
として94年4月ゲモザック監視委員会により逮捕。共に逮捕されていた妻は夫の死刑判決の6日前に Louise-Emilieという娘を出産していた。従って処刑出来
るのだが、刑執行人は敢えて裁判の再開を要請せず、妻は生き延びた。Chateau de Bernessartは95年に国有財産として売りに出たが、この未亡人はそれを
買い取った。
Louis Ancelin de Gemozac 1695没 はルイ14世治世に植民地で活動した将校。 Joel AncelinとJudith de Montgaillardの息子。1669年海洋技術者としてアン
ティル諸島に向かい、マルティニク島に定住。70年から71年、ギアナ沿岸を探索。西インド諸島に戻ると再びマルティニク島の要塞で勤務し、75年5月代官と
なり、90年5月にはグレナダ総督となって、当地にて死去した)

2148. ジャン・ジャック・ルイ・グレーズ GLEIZE (Jean-Jacques-Louis), 30歳。プリエBryer生。
(Brien生まれともある。Baucluseの助任司祭)

2149. エマニュエル・ゴイエ GOHIER (Emmanuel), 34歳。地区管理官。パリ生。
(エマニュエル・ゴイエ・ダルムノン Emmanuel GOHIER d'ARMENON 1760頃-94 ポントワーズの地区管理官。一族はパリのブルジョワ階級で治安判事やパリ
高等法院議員、アカデミー会員等を輩出している。父親はJacques GOHIER d'ARMENON DESGRAVIERES。母親はMarie Anne Cecile JAMBU 1763没。1755
年生まれの兄 Denis Jacquesがいる。両親は早くに死に、母親の従兄弟が後見人となる。しかし彼は逃亡して、借金や軽い窃盗等で道を外れてサン・ラザール
牢に数回投獄された。それでも脱獄を繰り返し、売春宿に隠れ住んだり、リュクサンブール公の軍隊にしばらく入ったりしていた。1785年9月親族は彼の浪費を
防ぐため、シャトレ裁判所の管理をやめて財産管理者の管理下に彼を置いた。1788年裁判所の証人の元、彼はVirginie MARTIN 1769-1826 と結婚して二子を
もうけた。
革命後は彼は国民衛兵大尉となり、郷里の自治体の治安判事にもなり、公安委員会委員にもなった。彼は熱心に活動し l’Isle Adam教会を「理性の神殿」に変
えた。しかし彼は王室主義者だと非難され、自己の正当性を主張して争ったが逮捕。パリに連行されて処刑、同日に全ての財産を没収された。
1793年3月〜94年4月まで司法大臣をし後に総裁となるLouis-Jerome Gohier 1746-1830 はアンドル・エ・ロワール県のサンブランセの生まれで、この人との
関係はないと思われる)

2150. ジョゼフ・ミルロング MILLELONGUE (Joseph), 33歳。書記官。サン・ジョームSaint-Jaume生。
(保健衛生官、書記官、Saint-Marcellinの治安判事)

2151. ジョゼフ・ロワイエ ROYER (Joseph), 29歳。ベジエBeziers生。
(通称がベジエBeziersとも。石鹸製造業。元カペーの第83近衛連隊の兵士でもあったとあるが、元カペーの近衛隊隊員、とだけある資料も多い)

1794年7月12日

2152. テオドール・バンドリ BANDRI (Theodore), 52歳。アンジェ生。
(トマ・ボードリー Thomas Baudryのことか? 革命前は技術者。革命後に外務委員)

2153. シャルル・グザヴィエ・ブールリエ BOURRELIER (Charles-Xavier), 49歳。サランSalins生。
(Charles Xavier BOURRELIER 1745-94 父親はComte de Mantry,Francois Joseph BOURRELIER de MALPAS 1683-1759。母親は1739年結
婚したJeanne Claudine de SAINT-MAURIS d'AUGERANS。兄Henry Joseph BOURRELIER 1742-79 がいる。この兄は1756年王太子妃小姓
となっており、74年にLudivine DARESTE 1818没 と結婚している。この人の結婚記録はない。革命期はマントリーの国民衛兵隊司令官をしていた。
15世紀ブルゴーニュ公に、16世紀はスペイン国王に仕えている先祖がいる。フランス王家には18世紀初頭からか)

2154. マリー・アントワネット・ブーレ BOURRET (Marie-Antoinette), グリマルディGrimaldyの妻。 50歳。シャンピニーChampigny生。
(グリマルディ男爵夫人マリー・アントワネット・ブーレ Baronne de Grimaldi, Marie-Antoinette Bouret 1736頃-94 父親は1738年王室総財務官
になり、43年徴税請負人、郵便事業管理官だったEtienne-Michel Bouret 1709-77。母親はMarie Telles d'Acosta 1718-81。1752年Philippe-
Charles Le Gendre 1717-89と結婚し、長男Comte de Lucay,Jean-Baptiste-Charles Le Gendre 1754-1836は2022パピヨン・ド・ラ・フェルテの弟
902の娘でナポレオン宮廷で重要な女性となるJeanne Charlotte Papillon d'Auteroche 1769-1842 と結婚している。長女 Marie-Therese Le 
Gendre 1755生 は73年にCharles de Berenger 1737生 と結婚。この夫シャルル・ド・ベランジェは2079の夫ベランジェ伯爵や2493の叔父で、
2486の妻で2524の母で94年3月25日に獄死しているマリー・シルヴィー・ド・ベランジェの兄である。89年死別後の91年Baron de Grimaldi,Ignace
 生没年不詳 と55歳前後で再婚している。891のEtienne Marie de La Haye 1757-94は妹Marie-Adelaide-Victoire 1737生 の息子。つまりこの
人の甥。
また父親のEtienne-Michel Bouretはルイ15世の愛人でIrene Buisson de Longpre 1767没 とも関係をもっていたとあり、Julieと Adelaideは両者
の娘であるという説も強い。Julieは一般的には国王との子となっており、それゆえポンパドール侯夫人の弟マリニー侯と結婚したのであるが) 
父・Etienne-Michel Bouret   
母・このナティエ画「Portrait of Madame Bouret as Diana 1745」は1735年にEtienne-Michel Bouretと結婚したMarie Telles d'Acosta夫人であると思われる。
長男の嫁・Jeanne Charlotte Felicite Papillon d'Auteroche

2155. クロード・イニャース・ジョワシャン・クレルモン CLERMONT (Claude-Ignace-Joachim), 62歳。サランSalins生。
(クロード・ジョワシャン・イニャース・クレルモン Claude Joachim Ignace Clermont 1732-94 Salins-les-Bainsの弁護士で市長。国民衛兵隊司令官
で、元立法者)

2156. マリー・アンヌ・コワルノー COIRNAUT (Marie-Anne), メルカンデMercandetの妻。 31歳。パリ生。
(マリー・アンヌ・コンカルノー Marie Anne CONCARNAU{CoirnotともConcarneauともgoirnotとも} 1763-94 夫は2168のRoch Charles MARCANDIER
1767-94。夫はカミーユ・デムーランの秘書で友。この妻も夫の補佐として"Veritable Ami du Peuple"の配布等を手伝っていたので共に処刑された)

2157. ピエール・フィエヴァル FIELVAL (Pierre), 40歳。公社使用人。フロラックFlorac生。

2158. ピエール・クロード・ゴーティエ GAUTHIER (Pierre-Claude), 34歳。フランク・アムールFranc-Amour(⇒ Saint-Amour)生。
(Pierre Claude GAUTIERとも。公証人の息子。Franc-Amour自治体の検事、後に行政官)

2159. ジャン・フランソワ・グラン GRAND (Jean-Francois), 63歳。医師。オルジュレOrgelet生。
(医師でジュラのLaurent市議会管理職。後に公安委員会委員)

2160. フランソワ・ミシェル・ギラン GUIRAND (Francois-Michel), 52歳。医師。コンデ生。
(フランソワ・ミシェル・ギロー Francois-Michel Guiraudとも。医師で元市議会管理職、元地区管理官)

2161. クロード・エティエンヌ・ギュイヨン GUYON (Claude-Etienne), 52歳。農夫。ポリニーPoligny生。
(元 Polignyのバイイ裁判所裁判官。後にPolignyの県議会議員)

2162. フランソワ・アンベール IMBERT (Francois), 33歳。農夫。モンペリエ生。
(農夫だったが、騎馬警邏隊士官をしている)

2163. フランソワ・テオドール・ラクロワ LACROIX (Francois-Theodore), 33歳。パリ生。
(フランソワ・テオドール・ラ・クロワ Francois Theodore LA CROIX 1760-94 法律家。Brioude自治体の監視委員会の委員。父親は国王収税
監督官Directeur des fermes du RoiだったTheodore LACROIX 1707-77。母親はAnne Marie ALLOTTE de CHANCELE{CHANCELAY} 1732-1820。
双子の妹Suzanne Felicite LACROIX 1760生 がいた。弟には作家のJean Louis LACROIX de NIRE 1766-1813 がいる。Henriette GRANDNOM
と結婚し娘 Adele Marie-Anne Felicite 1793生 がいた。文学系一族で母親Anne Marie ALLOTTEは1803年Constantine, ou le danger des
preventions maternellesという3巻からなる小説を発表している。弟は詩人・作家で、その長男ポールは劇作家、小説家、歴史家。次男ジュールも
詩人、作家になった)

父・Francois Theodore LA CROIX  
母・Anne Marie ALLOTTE de CHANCELE(後ろは妹・Suzanne Felicite 1775画)
弟・Jean Louis LACROIX de NIRE

2164. ジル・ミシェル・ルコント LECONTE (Gille-Michel), 44歳。代訴人。ロンシジRoncissi生。
(Gilles Michel LECOMTE。Voressey-Fontaine生まれとある。中央慈善委員会委員)

2165. フランソワ・ピエール・ルフェーヴル LEFEVRE (Francois-Pierre), 23歳。騎馬隊下士官。プロヴァンProvins生。

2166. シャルル・エドアール・フレデリク・アンリ・マクドナルド MACDONALD (Charles-Edouard-Frederic-Henry), 49歳。スコットランド生。
(Charles Edouard Frederic Henri MACDONALD 1745頃-94 元歩兵大佐。共同墓地の記録にはフランスに仕えた中佐とあり。やはりスコットランド
からフランスに渡り仕官したEtienne Jacques Joseph Alexandre MacDonald{1765-1840 後年の元帥、タラント公}などの来歴は、父親がジャコバイト
としてチャールズ皇太子のために1745年Ogilvie連隊に所属し母国で戦い、フランスに渡るとフランス娘と結婚し、ジャコバイトの多くが亡命していた
サンセールに居住、そのような環境下で生まれている。自身はディロンのアイルランド連隊に入隊後はフランス軍に出仕、革命後も軍務に就き、こ
の人とは対照的に94年は亡命を奨められるも拒否し多くの作戦に参加、少将に昇格している)

2167. アレクシ・マシェ MACHET (Alexis), 41歳。フランク・アムール生。
(フランク・アムール自治体の秘書官で検察官。Orgeletのバイイ裁判所は、Orgelet地区に置き換えられ、弁護士である8人の委員会と管理委員会に
よって管理された。 聖職者の財産は売りに出され、Franc-Amour{⇒ Saint-Amour}では、国産品の販売は、地元のブルジョアジー、公証人、憲法上
の司祭{Barbier}、市民のGergondeyに利益をもたらした。 Moise司教が、亡命したロアン・シャボ司教に交代した。最後のComte de Saint-Amour, de
Choiseul-La Baumeは、パリに連行され革命裁判所に出頭し、国民の利益のために財産の売却を命じられ死刑を宣告、処刑された。⇒833
この人に対するオルジュレ管理区の令状が残っている)

2168. ロシュ・マルカンディエ MARCANDIER (Roch), 27歳。批評家。ラ・リュニオンLa Reunion(⇒Guise)生。
(ロシュ・シャルル・マルカンディエ Roch Charles MARCANDIER 1767-94 印刷所監督、 "Veritable Ami du Peuple"の記者、カミーユ・デムーランの
秘書で友人。父親はギーズの首席カントールだったJerome MARCANDIER 1731-1805。母親は製糸女工Marie Marguerite Joseph CARPENTIER 1736
-1829。長兄は夭折、次兄Jean Nicolas Jerome 1765生 はパリのルイ・ル・グラン学院の助教員となった。妹二人は成人し結婚している。
Marie Anne CONCARNAU{CoirnotともConcarneauともgoirnotとも} 1763-94 と結婚。妻は夫の秘書役で"Veritable Ami du Peuple"の配布などをして
いたので、共に処刑された。⇒2156。彼はジャコバンクラブの閉鎖、9月虐殺の首謀者の処罰を要求したが、潜伏して活動することになる。それに疲れ
ある日、保安委員ルジャンドルに取材を申し入れた。妻を差し向けて潜伏先を知らせたが、ルジャンドルはこれを通報し、夫妻は捕らわれた。そして
手に手を取り合って若い夫婦は共に処刑台にのぼった)

2169. エルネスト・ルイ・モンタルリー MONTARLY (Ernest-Louis), 64歳。元大尉。ラングルLangres生。
(エティエンヌ・ルイ・ド・モンタルビー・ド・ダンピエール Etienne Louis de MONTARBY de DAMPIERRE 1730-94 モンモラン連隊大尉。 フォントノワの戦い
{1745年Fontenoy}、ロクールの戦い{1746年Raucoux}、ラウフフェルト{1747年Lawfeldt}等18の戦闘に参加。ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦 (1747年
Berg-op-Zoom)では負傷もしているがフランス勝利のオーストリア継承戦争緒戦に参加。父親はJean Baptiste de MONTARBY 1696-1722。母親は
Marguerite MILLET de MARCILLY。歴代の士爵。弟はラングル教会参事会員、妹もラングルのウルスラ会修道女になっている。
1763年Marquis de Rose-Dammartinの娘であるGabrielle Josephe de ROSE-DAMMARTIN 1743頃-1794と結婚。妻は2172であり、共に処刑されている。
三男三女がいたが、詳細については2172の項を参照)

孫・Oswald Benigne de MONTARBY  

2170. ローズ・ピエドルカン PIEDREQUINT (Rose), トレストゥーダTrestoudas未亡人。44歳。ラングルLangres生。
(スイスに亡命した女性の共謀者として衣服を提供した罪、とある。「フランス革命中に犯された誤り、過失、犯罪の一般的かつ公平な歴史」1797年刊の
書物の中にも、Trestoudasの妻Piedrequinとして記載されている。ラングルの人なので、前者の家族{息子らは亡命している}と関係ありか。ピエドレカン
 Piedrequin{発音記号付き}で貴族とある資料もあり)

2171. ジャン・パティスト・ロブラン ROBELIN (Jean-Baptiste), 37歳。執達吏。コローヌColonne生。
(農民、 Coulonneの生まれともあり)

2172. ジョゼフ・ガブリエル・ローズ ROZE (Josephe-Gabrielle), モンタルリーMontarly妻。51歳。ダマルタンDammartin生。
(ガブリエル・ジョゼフ・ド・ローズ・ダマルタン Gabrielle Josephe de ROSE-DAMMARTIN 1743頃-1794  2169と1763年に結婚した妻。Marquis de
Rose-Dammartin,Francois Nicolas de ROSEとComte de Sonesの娘 Gabrielle Antoinette de POUTHIER。ロレーヌ歩兵連隊大尉の恐らくは弟のCharles
 Joseph de ROSEがいた。夫との間には三男三女がおり、長男 Nicolas Laurentは亡命しコンデ軍に入っている。大佐となり1817年マルティニク島の司令官
となっている。次男も士官で亡命、その後はChateauvillain公爵領の森林検査官、狩猟長官。三男Jean Antoineは亡命は不明だが竜騎兵大隊長となり、
1817年から1846年Dampierre市長をしている。長女Gabrielle Josephe Euphrasiは1859年86歳で亡くなっているが、結婚記録はない。他の娘は生没年も不明
で夭折か。三男Jean Antoineの息子Oswald Benigne de MONTARBY 1828-65 は大隊長としてメキシコで戦死)

孫・Oswald Benigne de MONTARBY  

2173. デジレ・リュフェイ RUFFEY (Desire), 58歳。店員。 ロン・ル・ソールニエLons-le-Saulnier生。
(ドニ・リュフェイ Denys RUFFEYとも。 Montmarat製塩所の所員)

2174. アドルフ・ソルラン SORLIN (Adolphe), 48歳。元検察官。オルジュレOrgelet生。
(クリストフ・ソルラン Christophe SORLINともある。クリストフが正しい。1743-94 靴屋の息子だったが、バイイ裁判所の判事補の事務所に入る。
革命で書記長になり、92年地方会議の評議員、後に地区裁判所の裁判官となった。{オルジュレ市HP}
1793年6月2日パリの革命政府はジロンド派議員の逮捕命を出し、オルジュレも含めてジュラ地区はそれに抵抗する。そんな勢力の主要メンバーの
一人だった。ロン・ル・ソールニエ市の管理が外れ、ドールの管理官に交代、中央政府の圧力が強まり粛清が始まるとこの人はスイスへの逃亡を
画策したが、国境で捕縛されてしまった。ブザンソンへ連行されパリに移送、処刑となった)

2175. ルイ・スザン SUZAN (Louis), 46歳。憲兵隊。パリ生。
(元騎馬夜警隊少佐。1788年サン・マルタン通りで人々を切り倒したとある)

2176. ジャン・フランソワ・トワラ THOIRAR (Jean-Francois), 22歳。砲兵大尉。モントーバン生。
(ジャン・フランソワ・ド・ラパン・トワラ Jean Francois de RAPIN-THOIRAS 1771-94 sieur de Boisvilleとある。アルデンヌ軍の軍将Rene-Joseph de
La Noueの旗下にあり、「裏切者ラヌーの部下で、この部隊を非難した市民らを虐待した罪。2年前に裏切った者は、今が良くても、再び我々を裏切る
だろう」として処刑。張本人のラ・ヌーは確かに何度も逮捕されているが、94年4月には釈放されて同年後半期に退役を認められているのだが。
父親はBaron de Mauvers,Jacques Anne de RAPIN-THOIRAS 1730-1801。母親は1764年に結婚したボルドー高等法院弁護士の娘Marie Therese
de MALEPRADE{Mademoisell de Maleprade de Clairac} 1746生。二人の兄、一人の姉、早世した弟、独身だった妹一人がいた。
長兄Francoisは90年28歳で早世したが次兄Jean-Baptisteはヴザン連隊士官をしていたが1859年91歳まで生きている。しかし独身。68年生まれの姉
{父と祖父が1717年から1801年まで続けた記録ノートによると、Marie Judyと名付けられた1768年11月1日に生まれた少女、とある}はBaron de Lacour,
M. de Vicose{その記録ノートにはBaron de Lacour,M. de Vigoseとある}と結婚し3子を得るも夭折したとある。
ラパン・トワラ家はフランソワ1世のサヴォワ占領の時よりフランスに仕えた古い家柄。祖母Cecile de Rapin de Thoyrasの弟{つまり曾祖叔父}Paul de
Rapin de Thoyras 1661-1725はナント勅令廃止と軍職に進むことを反対していた父親の逝去を機にイギリスに移住し、従兄ダニエルの下で軍務につき、
オランダのオランニェ公の下で大佐となる。ボインの戦いにも参加。後に軍務を退きハーグに引退し、歴史家として「イギリス史」8巻等の著書を残してい
る人物。トワラ元帥1585-1636はseigneur de ToirasでCaylar de Saint-Bonnet家)


曾祖叔父・Paul de Rapin de Thoyras  

2177. クロード・フランソワ・バイヤン VAILLANT (Claude-Francois), 56歳。ペロンヌPeronne生。
(元ロン・ル・ソールニエ地区の財務官)

2178. バルテレミー・ヴィニョー VIGNAUT (Barthelemy), 30歳。サン・ソージュSaint-Sauge生。
(検察官見習い)

2179. ジャン・パティスト・ヴィヴィアン VIVIAN (Jean-Baptiste), 52歳。医師。グーリエージュGouliege生。
(医師で、ジュラ県議会議員)

1794年7月13日

2180. シャルル・フランソワ・アレクサンドル・バルビエ BARBIER (Charles-Francois-Alexandre), 53歳。元登記所登記官。ピュイBuy生。
(シャルル・フランソワ・アレクサンドル・バルビエ・ド・カリニョン Charles Francois Alexandre BARBIER DE CALIGNON 1750以前-83以降のことか?
Buisのバイイ裁判所管轄地の副代表{経理部副管理者?}に1783年になった。そこで、この人の死亡は「1783年以降」となっているのだが、もしかしたら、
こうして94年に処刑死していたのかも知れない。生年も死亡年齢から推定し1741年頃だから、1750年以前ではある。父親はMartin BARBIER DE
CALIGNONだが、祖父はBuisのバイイ裁判所の国王評定官をしていた。母親はMadeleine DE MEYNIER DE MOYDANS。妻はMarie Louise Therese
DE MARTINELで二男一女を残す。長男 Esprit Alexandre Martinはシャルトル連隊士官で、1816年から28年迄Valreas {Vaucluse}の市長をした。次男
 Laurent Gaspard Casimirは生没年不詳だがコンデ連隊少尉。娘Marie Catherine Julieは年月日不詳だが大隊長のComte de Flotteと結婚している。
記録にある生地BuyはBuisの誤記と思われる)

2181. ジョス・フランソワ・ジョゼフ・ブノー BENAUT (Josse-Francois-Joseph), 51歳。カリジェーヌCaligene生。
(Josse-Francois-Joseph Benaut 1743頃-1794 ベルギーの作曲家、オルガニスト、チェンバロ奏者。 父シャルル・ブノーはフランドルのオルガニスト。
パリでチェンバロの家庭教師として自立し、1771年にフランドルの商人の娘と結婚。72年から84年にかけて作曲、編曲の驚異的な活動をした。83年
スービーズ大公の保護下に入り、スービーズ邸に住む。1790年に聖職者の市民憲法を宣誓した後、サン・シール教区の司祭となる。宣誓したことで
安心していたが、サン・シールの監視委員会に目をつけられ、ヴァンデの乱との通謀などを理由に93年11月逮捕そして処刑。親しみやすい多くの作品
が残されている。娘Marie-Therese-Louise Benaut 1778頃-95 は名付け親のところで匿われたが、95年に17歳で病死した。
裁判所処刑者記録にはヴェルサイユ小郡サン・シールSt Cyr教区の元司祭、とだけしかない)

2182. ブノワ・ブラゴ BRAGOT (Benoit), 47歳。執達吏。ムースティエMoustier生。
(サン・ジョルジュの執達吏。フランス南東部のオーヴェルニュ・ローヌ・アルプのAvanchersの助任司祭に同姓同名の者がいると「1789年から1801年ま
でのTalmay:田舎の教区の簡単な歴史」の中にあるが、地域的には100キロ以上離れている。やはり同時代で同姓同名のBenoit Bragotが年月日不詳
で Peyronne Merigotと結婚、息子Jean Bragotが1785年に結婚しているので、大体同時代。しかし地域情報がない)

2183. ルイ・ジョゼフ・サンソン・ブリコーニュ BRICOGNE (Louis-Joseph-Samson), 62歳。リヤンクールLiancourt生。
(ヴェルサイユ小郡マルリー在住の同地の元司祭)

2184. マリー・アンヌ・ブリドー BRIDAUT (Marie-Anne), トリカールTricard未亡人。60歳。サン・レオナールSaint-Leonard生。
(マリー・アンヌ・ビドー Marie-Anne BIDAULT  無職 TRICARDの未亡人、とある。別資料では Francois Tucardの未亡人 Marie BIDAULTとある。{生地
や年齢は同じ})

2185. シャルル・アントワーヌ・クレマン CLEMENT (Charles-Antoine), 72歳。医師。バイBays生。

2186. ブノワ・クーデル COUDERT (Benoist), 36歳。農夫。マルランMarlin生。

2187. ジョゼフ・エリザベト・バルテルミー・クーザン COUSIN (Joseph-Elisabeth-Barthelemy), 43歳。農夫。モンディディエ生。
(ブルゴーニュ第三身分の元出納官)

2188. デルピ(通称ゴンデル) DELPY, dit Gondelle, 45歳。スグーSugues生。
(Jugues生まれとも。仕立屋とも農業とも。 Jean Delpy,dit HoudelleともJ. DELPY,dit Goudelともある)

2189. ジャン・ノエル・デリュシュ・ラクローズ DELUCHE-LACROSE (Jean-Noel), 34歳。ボルドー生。
(Jean Huel DELUCHE,通称La Rosseとも。Etagny市長で元司祭)

2190. オーギュスタン・アンリ・フォードア FAUDOAS (Augustin-Henri), 57歳。バイユー生。
(カニシ侯爵オーギュスタン・エルヴェ・ド・フォードア・カニシ Marquis de CANISY,Augustin Herve de FAUDOAS CANISY 1736-94
騎兵大佐。親衛騎兵中尉。父親はMarquis de CANISY,Marie Charles Antoine。母親はMarie-Therese de BORAN。Isabelle Jeanne
de BERNIERES de LOUVIGNYと結婚し、Marie-Elisabeth Justine de FAUDOAS CANISY 1771-1832と2192のEleonore de FAUDOAS
CANISY 1776-1794をもうけた。長女は 1787年Comte de KERGORLAY,Gabriel-Louis Marie de KERGORLAY 1765-1830{弟の
Florian de KERGORLAYはトクヴィルの友人}と結婚したが、この人の母親はMarie Josephine de BOISGELIN de CUCEで1978ボワジュ
ラン伯の妹。長女夫妻は1789年4月からイタリア旅行しており、世情が悪くなったので父は旅行を延長させ、1803年まで夫妻は帰国
しなかった。この人は94年6月15日にカニシ城館で逮捕される)

  ................................................................................................................................ ..
Marquis de CANISY,Augustin Herve de FAUDOAS CANISY ........................................................................長女・Marie-Elisabeth Justine de FAUDOAS CANISY 
............................................................................................................................................................................................................................娘婿・Comte de KERGORLAY,Gabriel-Louis Marie de KERGORLAY

2191. カトリーヌ・ミシェル・フォードア FAUDOAS (Catherine-Michelle) , ボールペールBeaurepaire未亡人。49歳。バイユー生。
(カトリーヌ・ミシェル・ド・フォードア Catherine Michelle De Faudoas 1745頃-94 前者の妹。後者の叔母。
1776年 Louis Narcisse Marc Antoine de Beaurepaire 1734-85と結婚。夫は再婚で、68年に死別した前妻Charlotte Gabrielle
 Camille d'OILLIAMSONの間に息子が一人いた)

2192. エレオノール・フォードア FAUDOAS (Eleonore), 18歳。カーン生。
(マリー・ルイーズ・エレオノール・ド・フォードア・カニシ Marie-Louise Eleonore de Faudoas Canisy 1776-94 2190の娘。シャルロ
ット・コンデーの親友だった。共にカーンの社交界で知り合った。意見の相違にもかかわらず二人は仲良しとなった。そして定期的
に連絡を取り合っていた。
父と共に94年6月15日カニシ城館で逮捕される。
処刑日、彼女は自分の運命を知らなかった。死刑執行人が彼女に近づいて彼女をつかんだとき、彼女は彼の腕の中でもがいた。
「あなたが私を殺したいのは本当ですか?しかし、私はあなたに何もしませんでした。ああ、殺さないで!」と声を上げたという。
カニシの町にはEleonore de Faudoas通りがある)

 Marie-Louise Eleonore de Faudoas Canisy

2193. 二コラ・フレデリク FREDERIC (Nicolas), 51歳。クルーアンジュClouanges生。
(もしくは FREDERICQ。国王の小姓の仕立屋)

2194. メルシオール・グランジョー GRANDJEAX (Melchior), 60歳。クーティーCouty生。
(メルシオール・グランジャン Melchior Grandjeanとも。元Beussauville司祭{Goussonville?}。Nanterre生まれとも。
1789年5月発刊の「Place de Justice, Police, et Finance」という書籍の著者にGRAND-JEAN {Cure de Goussonville}とある。Beussauville
はGoussonvilleの誤記か。また1782年1月7日シャルトル司教de Lubersacがシャルトル教区のSaint-Denis de Goussonvilleの司祭に
Melchior Grandjeanを任ずる手紙が残っている。シャルトル教会参事会員abbe de Moreilles,Francois de FontangesのMelchior Grandjean
の司祭就任承認の1782年1月7日付の手紙。1782年2月11日にこの人は当地の司祭位を取得したとされる)

2195. マテュラン・ランベール LAMBERT (Mathurin), 80歳。ジャルゴーJeargeau生。
(1714-94 JargeauともGergeau生まれとも。元Sidy司祭ともあるが、恐らくはオルレアン教区のGidyの元司祭)

2196. ジャン・マリー・ジュリアン・ラグデック LAGUEDEC (Jean-Marie-Julien), 22歳。係員。ポンティヴィPontivy生。
(ノール軍の三師団支払担当官)

2197. ジャン・フランソワ・ランテーニュ LANTEIGNE (Jean-Francois), 26歳。カーン生。
(Jean-Francois Lantaigne 1768-94 商人。後者を扶養する兄。父親は竜騎兵中尉だったカーンブルジョワ義勇軍士官で執政判事Pierre
Francois LENTAIGNE 1725-1802。母親はAnne Marguerite PAISANT-DUCLOS 1740-1806。履歴・没年不詳の姉と妹、そして後者を含む
弟3人がいた。アイルランドで恐らくアイルランド娘のMary Theresa O'NEILLと結婚し、1813年40歳で同国ダブリンで死亡したBenjaminと、
Falaise地区税務署長となるSimeonがいた。アイルランドに渡ったBenjaminの記録によると、王室主義者として92年にイギリスに亡命、当地
で医学資格取得し、イギリス軍に入隊、ダブリンの兵舎で医療に従事し、98年アイルランドの反乱の首謀者でアイルランド共和主義の父と
言われたTheobald Wolfe Toneの最期の治療を担当した。その後も彼は医療に従事したが、彼の息子はも医学者としてアイルランド枢密顧
問となったSir John LENTAIGNE 1803-86。そして医療関係者として高名な者を多く輩出する中で、アイルランドの外科医であり、アイルラン
ドのロイヤル・カレッジ・オブ・サー・ジョンズの学長Sir John Vincent O'Neill Lentaigne 1855-1915、その孫{つまりBenjaminの玄孫}で今年
{2020年}100歳となるMary Evelyn Lentaigne 1920生 は外科手術図面作製者として名を残し、また他の曾孫にはインド陸軍の育成に功績
を残したイギリス軍人で中将の Walter David Alexander Lentaigne 1899-1955 がいる)

又甥・Sir John Vincent O'Neill Lentaigne    
..............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................曾姪孫・Walter David Alexander Lentaigne
玄姪孫・Mary Evelyn Lentaigne

2198. ジョゼフ・ランテーニュ LANTEIGNE (Joseph), 23歳。カーン生。
(Joseph Lantaigne  1770-94 兄である前者の収入による生活者。父親は竜騎兵中尉だったカーンブルジョワ義勇軍士官で執政判事Pierre
Francois LENTAIGNE 1725-1802。母親はAnne Marguerite PAISANT-DUCLOS 1740-1806。家族、弟Benjaminの子孫らについては前者参
照。尚、この人の名はG. Lenotreのリストには載っていないそうである)

又甥・Sir John Vincent O'Neill Lentaigne    
..............................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................曾姪孫・Walter David Alexander Lentaigne
玄姪孫・Mary Evelyn Lentaigne

2199. マリー・アンヌ・ラスドリー LASUDERIE (Marie-Anne), ラスドリー・ガモリーLasuderie-Gamory、もしくはガモリーGamory未亡人。41歳。
シャンボンChambon生。
(元貴族。Gavoryとも。または LASUDERIE de GAMORIE、LASUDERIE de GAMAURIE、de La SUDERIE-GAMORYとも。
夫Jacques de La Suderieは亡命し、亡命軍に入っていた。Gamaury館は La Sudery家の居館で、1540年のJunien de La Suderie以来のもの、
と「ポワトゥー・シャラント地方の文化遺産」に記載されている。夫人の94年の処刑により、館の所有はRene Martinに移ったとある。
⇒マリー・アンヌ・ド・ラ・スドリー Marie Anne de La SUDERIE 1753-94  父親はPuyrichard領主Martial de La SUDERIE。母親はリモージュの
財務部長の娘Therese de La SUDERIE de GAMORY。1770年リヨネ連隊中尉Jacques de La SUDERIE-GAMORY 1749-1831と結婚。この夫
は従兄である。息子3人をもうけ、3人共に成人し革命後結婚している。夫と息子らは93年亡命。夫は記録では1831年没なので、「未亡人」では
ない。この人の逮捕日は不詳であるが、保健官が94年5月7日付で発熱と全身のリウマチの記録を当局へ提出している)

2200. ジャン・ジョゼフ・ラヴィル LAVILLE (Jean-Joseph), 43歳。外務部委員。サン・マルクSaint-Marc生。
(Ste. Marie生まれとも)

2201. ジャン・バティスト・ルグアン LEGUAIN (Jean-Baptiste), 18歳。学生。 ブラバンのZenapin生。
(ジャン・バティスト・ル・グアン Jean-Baptiste Le Guain フランスに逃げてきた学生)

2202. ノワヤ・モーモン MAUMONT (Noillas), 42歳。モンタニャMontagna(⇒ Mortagne ⇒Montagnac?)生。
( Montagnacの農夫。Pierre Nolas MAUMONT とも)

2203. アンリ・エーメ・ムクナン MECUENEM (Henri-Aime), 75歳。元貴族の騎兵大尉。アルテーズArtaise生。
(アンリ・アンヌ・ムクナン・ダルテーズ Henri-Anne Mecquenem d'Artaize 1720-94 父親はGeorges de MECQUENEM 1679-1743。母親は
Jeanne-Marie Le PELLETIER 1688-1762。1757年Versaillesでポーランド国王狩猟騎馬隊長の娘Genevieve Felicite Constance d'OPPEN 
1736-1810 と結婚、一男 Charles-Maurice 1758-1821 を残した。de Meckenheim d' Artaizeの綴もあり。画像は、玄孫でde BREM男爵と
結婚する Elisabeth-Henriette-Marie de Meckenheim d'Artaize 1880-1914 と孫娘Amicie de Meckenheim d'Artaizeの夫で准将のSimon
Marie de Wacquant 1798-1857)

玄孫・Elisabeth-Henriette-Marie de Meckenheim d'Artaize      
孫娘の夫・Simon Marie de Wacquant

2204. ルネ・ジョゼフ・ニコレイ NICOLAIS (Rene-Joseph), 22歳。元市吏。エムEmu(⇒エルネーErnee)生。
(マイエンヌのエルネー市役所職員。自分が委員会によって市吏に任命された時、それを辞退する勇気がなかったことを悔いているという
手紙を市民宛に書き残している。「 Vive la Republique」という時、良心の呵責に耐えかねた、神を否定する共和国を認めるわけにはいかない、
道を誤らずに進む勇気ある人たちは、信仰心で自らを支えて下さい。と書き、最後に「 Vive la religion !」と。  NICOLASともある)

2205. ジャン・クロード・ペルシェ PELCHET (Jean-Claude), 47歳。建築業。ポンタルリエPontarlier生。
(Jean-Claude Pellechet 1747-94 元国王の建物検査官。父親はポンタルリエのフリブール小郡の橋梁、道、車道の検査官Jean-Antoine
Pellechet 1721-58。母親はAnne-Denise Guyon 1767没。1776年Reine-Marguerite Evetteと結婚し、長男Antoine-Joseph Pellechet 1777-1836
は軍の主計補佐官、帝国軍学校病院管理官となり、次男Auguste Joseph Pellechet 1789-1874 は建築家となった。このオーギュストの家系は
以後3代にわたり高名な建築家を輩出する。娘{この人にとっては孫娘}Marie Leontine Catherine Pellechet 1940-1900 は書誌学者として有名)

孫娘・Marie Leontine Catherine Pellechet 
「建築家ペルシェの自画像」という製作年不詳のデッサン画。年代的に孫のジュール 1829-1903くらいか 

2206. ペリエ PERRIER, 55歳。クレルモン・フェラン生。
(別資料にイレールHilaire未亡人のペリエPERRIER、62歳、Clermont生まれが94年7月13日に処刑されたとある。「私たちは忌々しい連中に支配され、
滅茶苦茶にされている」と発言したためとある。また Hilaire未亡人Francoise Perier、無職、ともあり。クレルモン・フェランのFrancoise Saint-Hilaire? )

2207. ピエール・レイノー RAYNAULD (Pierre), 32歳。農家。ヴィーVie生。
(Pierre Raynauld、息子の方、農家ともある)

2208. ジャン・エヴァンジェリスト・ローズ ROSE (Jean-Evangeliste), 53歳。農夫。シャトー・ポルシアンChateau-Porcien生。
(ジャン・エヴァンジェリク・ローズ Jean Evangelique ROSEとも。ラ・マルヌ県の元主席検事)

2209. ジャン・ピエール・ロゼー ROSEE (Jean-Pierre), 47歳。馬丁。リール・アダンL'Isle-Adam生。
(通称ラ・ロゼイLaroseiもしくはLarosee、とある。暴君の小姓の馬丁とあり)

2210. ヴァンサン・ロシニャック ROSSIGNAC (Vincent), 32歳。 ans, employe,ルーサックRoussac生。
(元聖職者で元貴族、出生・結婚・死亡登録登記官とあり、生地はBoussacとも。またROSSIGNATともある)

2211. オーギュスタン・ベルナール・ルイ・ジョゼフ・ルソー ROUSSEAU (Augustin-Bernard-Louis-Joseph), 45歳。 ans, maitre d'armes, ne a Versailles.
(Augustin Bernard Louis Joseph ROUSSEAU 1748-94 王室王太子らの武術師範。父の稼業を継いでおり父親はルイ15世王太子の武術師範のJean 
ROUSSEAU 1705-67。母親はMarie Marguerite DRAPPIER DESFUGERAIS 1774没。外務書記官の娘 Julie Francoise GENET 1753-1828 と1771年
に結婚、五男三女をえた。三男Cesar Auguste Henriは97年ドイツのケルンで17歳で亡くなっているが、亡命軍に加わっての戦死かは不明。五男Amedee
 Louis Joseph ROUSSEAU de BEAUPLAN 1790-1853 は著名な音楽家となった。その子{つまり孫}Victor Arthur Rousseau de Beauplan 1823-90 もパ
リ音楽院帝国委員で高名な劇作家。その後も子々孫々と著名人を輩出する家系となる。また妻は、王室の子供らの世話係侍女として出仕。第一王子ル
イ・ジョゼフは大変にルソー夫人を慕っており、89年6月4日に亡くなる少し前に≪ Je t'aime tant, Rousseau,que je t'aimerai encore apres ma mort. ≫
「あなたをとても愛しています、ルソー、私は死後もあなたを愛しています」と言葉を掛けたとヴィジェ・ル・ブランが記している。
下記の夫人画{マダム・ルソーと娘}はヴィジェ・ル・ブランによるもの。また彼女の姉は有名なカンパン夫人アンリエット 1752-1822 で、妹のアデライドは
革命政府による逮捕から逃れるため、パリのオテル・ド・ボルドーに身を潜め、1794年7月26日、急な恐怖心から6階より身を投げて死亡したMme Auguie
1758-94 である。あと24時間でテルールが終焉する矢先の出来事だった。尚、Mme Auguieは窓から身を投げる前に娘三人を姉のカンパン夫人に託して
いたが、その中の次女Aglae Louise 1782-1854 は後年ネイ元帥と結婚しPrincesse de La Moskowaとなり、ナポレオン宮廷の皇后女官となっていく。また
三女のAdelaide Henriette Josephine  1784-1813 も姉Aglae Louiseの親友だったオルスタンス・ボーアルネがオランダ王妃となった宮廷の女官となる)

妻・Julie Francoise Genet  
五男・Amedee Louis Joseph Rousseau de Beauplan
孫・Victor Arthur Rousseau de Beauplan 

 義姉・Madame Campan, Jeanne-Louise-Henriette Henriette Genet  
 ..................................................................................................................................................................................................................................................................義妹・Mme Auguie,Adelaide-Henriette-Genet........義姪・Aglae Louise .........................義姪・Adelaide Henriette Josephine.........

2212. ジュリー・アガト・サン・プリースト・ダシエ SAINT PRIEST-DACIER (Julie-Agathe), デプロッスDesbrossesの離婚した妻。42歳。リモージュ生。
(プロッス侯爵夫人ジュリー・アガト・ガラ・ド・サン・プリースト Marquise des Brosses,Julie Agathe GARAT de SAINT-PRIEST 1752-94 リモージュの
フォンテーヌ・デ・バール広場place Fontaine des Barresのオテル・ド・サン・プリーストにて生まれる。父親は弁護士でフランス財務官Francois Joseph
 GARAT de SAINT-PRIEST 1706生。母親はMarie Anne BENOIST de LOSTENDE 1707生。1775年Marquis des Brosses,Joachim Jacques d'ASSIER
 des BROSSES 1747-96{1761年大厩舎の小姓}と結婚。いずれも成人する一女一男を得る。夫は亡命しコンデ軍に参加、96年マーストリヒトにて死去し
た。離婚は92年だが、片方の財産を守るための計画的離婚。亡命者との文通容疑{証拠もなく彼女も否定}、その他の罪状。2199、2210と死刑判決を
受け数時間後には処刑された。叔父Paul d'Assierもその城館で虐殺されている{⇒ アキテーヌ歩兵連隊中尉だったPaul d'ASSIER de SAINT-SIMEUX 
1794頃没 のことであろう。Chateauneufで殺害され死体は井戸に投げ込まれた。姪のMarguerite d Assier des Brosses嬢の口頭・書面での抗議はなん
らの効果もなかったとある}夫はフリーメイソンだったが、1789年アングレームの貴族として会議に参加。89年から90年にかけて市の初代治安判事を務
めた。その後は亡命軍に入り、負傷がもとでマーストリヒトで死去。夫の伯父は1708年生まれの近衛銃士隊員Marquis des Brosses, Louis Jean Armand
 d'ASSIER des BROSSES{下記}。ダシエ家は14世紀から確認のとれる騎士の一族。プロッス分家も14世紀から。侯位は18世紀初頭からか。夫の父
{ジャン・フランソワ1711-88}は銃士隊にいた兄{上記}の死より侯位継承。この銃士隊にいた兄は、重婚で起訴され警視らに抵抗した為に幽閉されたりし
た人物で、子がなく他界した。帯剣貴族らしい経歴がほとんど。この夫も戦傷がもとで死亡しているし、息子のルイ・フレデリクもナポレオンのロシア遠征
の従軍時の負傷がもとで帰郷後に亡くなっている。また長男フランソワ・ガブリエルの次男ポール・アレクシ1812-78は、Sidonie de VILLELUME 1816-1900
と結婚しているが、この妻の大叔父Charles de VILLELUME 1757-1837の妻は、あのソンブルイユのバラで名高いソンブルイユ伯爵令嬢Jeanne Jacques
Marianne Francoiseである)

2213. オクタヴィアン・スーシェ・ダルヴィマール SOUCHET DALVIMART (Octavien), 63歳。パリ生。
(オクタヴィアン・スーシェ・ダルヴィマール Octavian Souchet d'Alvimare 国王の小姓監督官。1769年高等法院弁護士で国王秘書官の長女Josephine
Genevieve DUPONT 1750生 と結婚。Octavian Pierre Louis Souchet d'Alvimartにルイ18世が1821年1月10日子爵位を授与した書面が残っているが、
子供か? その他には、Souchet d'Alvimare家への1656年、1692年、1728年、1762年、1769年、1770年、1773年、1774年、1790年の特許や手数料や書類、
18世紀の sieur d'Alvimarへの軍隊の任命状等が残っている。この一族から放出されたものかも知れない。上記以外の情報はない)

2214. ルイ・アントワーヌ・ブノワ・シュザンヌ SUZANNE (Louis-Antoine-Benoit), 54歳。シャルトル生。
(Boissy {Seine-et-Oise}の役人管理職で元司祭。ボワシー司祭だったよう)

2215. ジャック・テュヌ THUNE (Jacques), 41歳。裁判所判事。ポール・レ・フォンテーヌPaul-les-Fontaines生。
( Nyons {Drome}の裁判所判事)

2216. シャルル・ヴァンホーフ VANHOOF (Charles), 19歳。時計職人。アントワープAnvers生。
( Charles van HoofともVanhofとも。フランス領に入った謀反人としてシャルルロワ近くのモンスニで逮捕、処刑。但しパリ住まいとあるので国外に出ようとし
たのか?)

1794年7月15日

2217. ジャン・ベルニオー BERNIAUD (Jean), 51歳。石工。ブリオンBrion生。
(石工で大工とある)

2218. マリー・エドメ・ビネ BINET (Marie-Edmee), 50歳。フールセルFourcel生。
( クーラルCoural生まれとも。filleとあるが、独身? 雇女? 修道女?)

2219. クロード・アンリ・ボワメーグル BOISMAIGRE (Claude-Henry), 42歳。ヴェルサイユ生。
(クロード・アンリ・ボワメーグル・ラ・ロシュ Claude Henry BOISMAIGRE LA ROCHE 1752-94 Chatou{Yvelines}司祭。父親は国王の主猟職官吏で猟犬係
だったHenri BOISMAIGRE LA ROCHE 1710生。母親は Marie Anne VATINE。祖父も主猟職ブラッドバウンド犬係従者。司祭をしていたChatouにて死去とあるが、
パリで処刑されていたようだ。三女四男の末子)

2220. アンドレ・ドミニク・ブールドンヌ BOURDONNE (Andre-Dominique), 52歳。サンス生。
(アンドレ・ドミニク・ブールボンヌ Andre Dominique BOURBONNE 1742-94 パリ騎馬警邏隊marechaussee中尉、国民憲兵隊中佐。父親も騎馬警邏隊中尉
だったJean Dominique BOURBONNE 1710頃生。母親は1720年頃に生まれた不詳女性。1785年M Colombe LEGRIS 1760頃生 と結婚し、Jules BOURBONNE
 1793-1865 をもうけ、この息子は砲兵中尉となる。
⇒妻は同日処刑の2237でMarie-Colombe Legris 1763-94 2236の娘。系図には詳細記載なく、没年もない。夫の名についてはAndre Dominique Bourbonneとある
ので間違いない。ある記録では、この人と妻Marie-Colombe Legris、及びその息子のBourbonne氏と並記され、その息子の個所に「画家の三人の親族すべて」が
処刑されたとある。しかし息子Jules BOURBONNE 1793-1865 は前記の通り砲兵中尉となっている。もう一人画家の息子がいたのかは不明)

2221. クレール・テレーズ・ブールドロワ BOURDELOIS (Claire-Therese), ドービニーDaubigny未亡人。51歳。モワイユールMoyeure生。
(Claire-Therese BOURDELOIS Jean Baptiste Felix Jean BOURDELOIS 1689生 の娘 Claire Therese BOURDELOIS 1737生 という記述があるが、年齢が
少し合わない。夫はJean-Marie de Clinchant d'Aubigny。1760年メッスで生まれた娘Claire-Jeanne-Scholastique de Clinchant d'Aubignyがいた。別資料では
Jean Marie Le Clinchant Aubigny {chevalier d’} 1713-88 メッス生まれのロレーヌの要塞の管理官で軍事技術者で、18世紀の多くの戦いに従軍したとある。自署
には1779年Daubignyと書いている。この人物はメッス工兵学校の管理官で野戦総監Jean Marie de CLINCHANT d'AUBIGNY 1713-88 でロアン連隊隊長Jacques
 de CLINCHANT d'AUBIGNYとJeanne Denise CORNILLEの息子である。この人物と1756年に結婚したのが Marie Claire de Bourdeloisで生年不詳・94年没のこの
人で父親は1739年にメッス財務省フランス部長財務官になったJean BOURDELOISで母親は Claire GUILLAUMEである。この人には生没年不詳の姉Jeanneが
おり、1748年メッスの司法官Nicolas de MUZACと結婚している。また弟Noel Dominiqueがいたが、生没年・詳細不詳。この人と夫d'Aubignyには二女一男がいた。
長女は上記にある1760年生まれのClaire-Jeanne-Scholastiqueが確かにいた。Claire de CLINCHANT d'AUBIGNY 1760-94 である。しかしこの母親と共に処刑
されてしまっている。⇒2223。次女Charlotte 1762-1846 は結婚し一男をもうけている。末子で長男のPaulは生没年・詳細共に不詳)

2222. ジョゼフ・シャブラン CHABRAN (Joseph), 32歳。実業家homme de confiance。ブリニョンBrignon生。
(同姓同名のJoseph Chabran 1727-94 はVaucluseのMonteuxで9月26日、67歳で死去した農夫であり、1763年VaucluseのCavaillonで生まれたやはり同姓同名の
Joseph Chabranは年齢が近いが1843年に死んだ有名な将軍である。この人の生地Brignonも前者らの生地Monteux、Cavaillonも近接地なので、何らかの関係
はあるだろうが、未詳である)

2223. ジャンヌ・スコラティック・ドービニー DAUBIGNY (Jeanne-Scholastique) , Dupontの離婚した妻。30歳。メッス生。
(クレール・ジャンヌ・スコラティック・ド・クランシャン・ドービニー Claire-Jeanne-Scholastique de Clinchant d'Aubigny 1760-94 2221の長女。系図には
離婚した夫Dupont{もしくはPont。ロレーヌ森林長官}については記されていない。父親はJean-Marie de Clinchant d'Aubigny 1713-88 で野戦総監で
メッス工兵学校管理官。クランシャン家は、モーゼルのオービニーを1728年には領有していた。チュイルリー宮殿の鍵管理官、あるいはタラール元帥
旗下の竜騎兵少将、王妃竜騎兵連隊やショワズール騎兵連隊大尉等、軍人としても活躍した者を出した家系。Jean Baptiste Pierre II de Clinchant 
d'Aubigny {Metz 1710 - 94}がいるが、この人や父親との関係は不明)

2224. フランソワ・ルイ・デロー DESREAUX (Francois-Louis), 58歳。パリ生。
(農民と主張している人物とあるが、別資料ではFrancois-Louis Desreaux、元貴族、とある。レオー侯爵フランソワ・ルイ Marquis des Reaux,Francois-
Louisは、Avant , Ortillon, Brillecourt, Vericourt , La Roche等の領主で士爵。1771年にトロワ地方連隊大佐、72年サン・ルイ騎士、近衛銃士、そしてラヴァル公の副官、
76年ラヴァル侯の指揮するブルボノワ連隊大佐。1753年にVicomt de Troyes,Comte de Villebertinの娘であるAnne-Francoise de Mesgrignyと結婚し、二男一女を得て
いる。長男Anne-Louis-Maximilien des REAULXは1766年小厩舎小姓を経て、68年フランス衛兵隊旗手となり、娘のArmande Helene Louise Marie des REAULXは1775
年Comte de de FLEURIGNYと結婚している。これらの父子について記述{ Francois Alexandre Aubert de La Chenaye Desbois著「Dictionnaire de la noblesse」}には経歴
しかなく、生没年が全てない。著者自身が1784年没なので仕方ないが。レオー侯爵フランソワ・ルイの年代がこの人物に適合はするが、同一かは不明である。
⇒Francois Louis des REAULX 1736-94 で確定。経歴は上記のレオー侯爵フランソワ・ルイと同じ。侯爵位の確認はとれないが、娘の嫁ぎ先のLe Clerc de Fleurigny家
の系図にはMarquis des Reaulx, Marquis de Cocloisと明記してある。また別資料ではComte de Brantigny, Baron de Lireyの爵位も加わる。Louis des REAULX 1779没と
インド会社役員の娘Marie Jeanne de MEUVES{あるいはMarie de Meuves La Tremouille}の息子。1753年結婚した妻Anne Francoise Louise de MESGRIGNYの生没年は
1738-1825。 娘Armande Helene Louise Marieは結婚で一女をもうけ、その娘はMarquis de Leusse 1766-1829{父親の高等法院評定官Marquis de Leusse,Louis Marieは
94年1月14日にリヨンでギロチンになっている}に嫁いでいる。弟のAnne Louis Maximilienの生没年は1754-1806。サント・ドミングとマルティニクの大地主の娘Armande
Victoire de Laguarigue de Rocourt 1758-1853 {母親はサント・ドミングの大佐の娘であるMarie-Victoire de La Ville 1736生}と1757年結婚し、一男一女をもうけた。この
姉弟共に子孫は現在に至っている。この長女Armande Heleneの夫のLe Clerc de Fleurigny家は、ヴォードルイユ伯{マリー・アントワネット妃の取り巻きヴォードルイユ伯
の伯父}の妻Louise Therese Le Clerc de Fleurigny{カルモンテルが1760年頃に夫人像を描いている}の家柄だが、ヴォードルイユ伯夫人Louise Thereseは五代前に枝分
かれしたラ・フォレ・ル・ロワ男爵系のLe Clerc de Fleurigny家。長女Armande Heleneの夫は同家の本家になる。なんであれ、このヴォードルイユ伯がフランス衛兵隊指揮
官をしていたので、その関係で弟が同衛兵隊へ入隊したとも考えられる。またこの人の祖父はMarquis des Reaulx,Baron de Lirey , Comte de Brantigny, Francois Des
Reaulx 1742没で、その父親、つまり曾祖父はMarquis des Reaulx,Louis Rene Des Reaulxで野戦総監だった。
別資料によると、母親はEtienne de Meuvesの娘Marie Jeanne de Meuves 1711-94で、1735年Louis des Reaulx伯爵と結婚、79年未亡人となり、Noisyに父親からの相続
財産を所有していた。長男であるFrancois-Louis{この人}は1792年3月と7月に亡命者財産の没収が採択された為に、ロンドンに亡命していた家族を連れ戻すべく渡英。
しかし帰国後に逮捕されたとある。そしてパリに連行されて1794年7月15日に処刑されたとある。上記母親Comtesse des Reaulxは、1793年9月17日の容疑者法の公布後
Noisy-le-Grandの自宅で亡命者親族として逮捕{1794年1月1日}。83歳だったが、パリのPlessis刑務所内で1794年8月30日天然痘で亡くなった。その財産は1803年、孫娘
であるArmande Louise Helene des Reaulx等に戻された、とある。またこの人の渡英中の居住証明書を偽造したとして、246のNoisy-le-Grand宣誓司教で町議会委員の
Jean Baptiste Peyreは告発され処刑されている)

祖父・Marquis des Reaulx, Baron de Lirey , Comte de Brantigny, Francois Des Reaulx   
 息子の義母・Marie-Victoire de La Ville

2225. ジャン・パティスト・ファイゾー FAISEAU (Jean-Baptiste), 39歳。ラ・セルLa Selle生。
(ニヴェルネ公の代理人。 Loselle生まれとも。 Faisseauとも。Duc de Nivernais,Louis-Jules Mancini-Mazarini 1716-98は亡命ではなく、国内にとどまり、93年以来、全財産を失い投獄されていた。
マザラン枢機卿の甥で美貌のマンシーニ姉妹らの弟だったニヴェルネ、ヌヴェール公の孫にあたるこの公爵は、ローマ、ベルリン、ロンドン等の大使を歴任した国務大臣
でアカデミー会員の詩人だったが、テルミドールで解放されている)

2226. ジャンヌ・ファルディ FARDY (Jeanne), ラパンRapin妻。ボルドー生。
(50歳。ジャンヌ・ファルディエ Jeanne FARDYR、無職とも。93年の人口調査で2100人を記録しているドンジーDonzy市では、最後のニヴェルネ公の代理人だった前者とこの人とが
ギロチンの犠牲となったと記録されている。そこにはJeanne FARDYRとある)

2227. 二コラ・アントワーヌ・ファリオ FARIOT (Nicolas-Antoine), 25歳。使用人。パリ生。
(通称Martinとも。郵便事業の使用人とある)

2228. アンドレ・フランソワ・フォルタン FORTIN (Andre-Francois), 60歳。共和国年金受給者。パリ生。
(パリ裁判所の憲兵隊長。1793年8月10日、この人の命令で憲兵らに" vive le roi "と叫ばせた)

2229. ジャンヌ・フージェール FOUGERE (Jeanne), シモン・シャドゥートーSimon Chadouteau妻。36歳。元貴族。ヴォルVors生。
(夫シモン・シャドゥートーはd'Albignac司教の元管理人。これはPhilippe-Francois d'Albignac de Castelnau 1742-1814 であり、アングレーム司教に1784年任命された人。
後に宣誓拒否し、91年以来イギリスに亡命しており、1814年にロンドンで死亡するまで当地にいた司教でカステルノー侯爵の息子である。この人の管理人だったということ
だろう。この人自身の詳細確認は、シャドゥートーの妻ということ以外、何もわからない)

2230. オーギュスタン・エドム・フラッピエ FRAPPIER (Augustin-Edme), 38歳。ドンジーDonzy生。
(オーギュスタン・エドメ・フラッピエAugustin Edme FRAPPIER 1755-94 ドンジー市長。ドンジー市の元会計審査官ともある。
父親は高等法院弁護士で裁判所次席官Edme Jean FRAPPIER 1718-56。母親はMarie Catherine LEBLANC de LESPINASSE 1730-98。妹にJean Louis FRAPPIER de SAINT-MARTIN
1757-1834がいてHelene Henriette VEE 1765-1839と結婚している。カトリック教会への執着が甚だしく、カトリック教会の存続の請願を繰り返し、鐘の取り外しや信徒の規制に対して、当局が
暴動と認定するほどの抗議を行った中心人物。93年4月1日にドンジー人民協会により逮捕されだ、逃亡し再逮捕されたりしている。この人は貴族と見なされ、宗教感情は革命を遠ざけるもの
と判断され処刑。先述のドンジー市のギロチン犠牲者の中には入っていなかった)

2231. ジョシュ・二コラ・グラッス GRASSE (Joche-Nicolas), 36歳。荷車車夫。ザールブリュッケンSarrebruck生。
(イオシュ・二コラ・グラッス Ioche Nicolas GRASSEとも)

2232. アンジェリク・フランソワ・ユエ・ダンブリュン HUET DAMBRUN (Angelique-Francois), 61歳。訴願審査官。パリ生。
(アンジェリク・フランソワ・ユエ・ダンブリュン・ド・モンタレ Angelique Francois HUET DAMBRUN{d'Ambrun} DE MONTALET 1733-94 父親はAntoine Huet d'Ambrun 1674-1737。
父は1690年Tournaiの貴族連隊候補生となり、91年マルサン連隊のアストロン中隊入隊、92年同連隊クランシャン中隊中尉、1702年王妃連隊中尉からシャトレ連隊大尉に。1708年
ブラーグ騎兵騎兵連隊隊長、1709年マランMallan騎兵連隊中佐、14年サン・ルイ騎士、同年サン・テニャン騎兵連隊大佐、37年オーヴェルニュ総督府の国王代官となった。1725年
にMarie-Angelique Pecquot de Saint-Maurice 1703-41と再婚。{1719年に一度結婚しているが24年子ないまま死別} この父はChateau de La Ferte-Vidameで亡くなっている。
ノルマンディーのブルジョワ商人の家系。オルレアンのバイイ裁判所評定官から1758年5月30日ルーアン高等法院評定官となり、1775年10月19日革命まで訴願審査官となる。
革命後はフォーブール・サン・タントワーヌのガラス工場監督官。93年10月26日逮捕されコンシェルジュリー牢へ。そして処刑。未婚だった。
別系図では、父親Antoine Huet d'AmbrunとMarie Angelique PECQUOTの子として、娘Angelique Claude HUET d'AMBRUN 1726生 と Antoine Pierre HUET d'AMBRUN 1728生 のみ記載し
この人の記述がないものもある。この二人は姉・兄と思われるが、姉はロワイヤル・クラヴァット連隊大尉の息子Nicolas Zacharie HUET d'ARLONと1756年結婚して一男一女を残している。兄
に関しては生年と「ecuyer」の記載しかない。尚、母親Marie-Angelique Pecquotは高等法院評定官の娘である。また2238. ピエール・ジャン・リヨンは使用人)

2233. シャルル・ジルベール・ラシャペル LACHAPELLE (Charles-Gilbert), 39歳。リヨン生。
(シャルル・ジルベール・ド・ラ・シャペル Charles-Gilbert de La Chapelle 1755-94 Charles Gilbert de LA CHAPELLE de MAUBUISSONともCharles Gilbert de LA CHAPELLE d'UXELLES
とも名乗っていた。騎兵大尉、マドリード大使館付武官、王室直轄官僚長commissaire general、王太子と王家の子供らの指導秘書官secretaire des commandements。ルイ16世からサント・
シャペルの遺物を保護するよう依頼され、これを1791年3月12日にサン・ドニの大聖堂に移した。父親はCharles Joseph de La CHAPELLE d'UXELLES 1713-72。母親はMadelaine BLANCHET。
1780年Marie Emilie LESCHEVIN 1762-1816 と結婚する。この妻は曾祖父Antoine LESCHEVINがルイ14世王室の官職者で、祖父Claude Antoine LESCHEVIN 1697-1766がルイ15世王室
書記官長secretaire general、父親 Louis Francois LESCHEVIN 1730-83 がルイ16世王室書記官長という歴代国王のお側仕えをしてきた家系の出身。二女二男をもうけた。皆、成人し結婚し
曾孫に至っては33人いる。長男 Vicomte de La CHAPELLE,Charles Hippolyte 1784-1829 も王宮宮内府奉行 gardes de la prevote de l'hotel du roiの中将となっている。次男Baron de La 
Chapelle,Charles-Ernest 1791-1874 は1820年にルイ18世の宮内府長官Maitre d'Hotel du roiとなっており、一族は忠実に歴代国王の側仕えを継承していった。
もともと18世紀初頭にSiotと姓でエヴルーからリヨンに移住し、結婚により財産を築いたLaurent Siot{通称La Chapelle}が祖となる一族で、彼は理髪師の親方だったという)

 Charles-Gilbert de La Chapelle.............................................................................................妻・Marie Emilie LESCHEVIN 
長男・Vicomte de La CHAPELLE,Charles Hippolyte ....次男・Baron de La Chapelle,Charles-Ernest
 
義父・Louis Francois LESCHEVIN 義祖父・Claude Antoine LESCHEVIN

2234. ジャック・ランブリケ LAMBRIQUET (Jacques), 53歳。アルキーヌAllequine生。
(Jacques LAMBRIQUET 1741-94 王弟プロヴァンス伯の従者。革命裁判所の記録には「暴君の妹の部屋付き従者」ともある。1775年ヴェルサイユ宮の使用人を母に持つMarie Philippine
NOIROT 1756-88{本人がマリー・テレーズ王女の侍女ともあり} と結婚。三女一男を得るが、一女一男が成人している。 Marie Philippine LAMBRIQUET 1778-1813 とAuguste Etienne
LAMBRIQUET 1781-1838 であるが、この姉のMarie PhilippineはErnestineとして国王夫妻の養子となり、多額の年金のもと養育された。養子になったのは母親が亡くなった88年だが、
父親は存命中であるのに、そうなった点について多くの伝説が生まれている。
先ず、ルイ16世が包茎手術後に、生殖能力が回復したかを診断すべく、「愛人」だったマリー・フィリピーヌ・ノワロ(この人の妻)でそれを試し、そして懐妊した娘がこのエルネスティーヌ
だったという説。この娘が王女マリー・テレーズに酷似していたという当時の証言と、父親存命中に養女として王室が引き取った点が、それらの根拠となった。
他にも8人の養子がいた。貧しい孤児"Armand" Francois-Michel Gagne 1771頃-1792 は76年3人の兄と一緒に養子に。 Chevalier de Boufflersが87年に王室に提供したセネガルの
少年Jean Amilcar 1781頃-1793。 "Zoe" Jeanne Louise Victoire 1787生 は二人の姉と1790年に養子。"Armand"と"Zoe" とエルネスティーヌだけが王室と寝起きを共にした。
"Armand"は革命で宮廷を去り、"Zoe"は王太子の、エルネスティーヌは王女マリー・テレーズの遊び相手になる。
エルネスティーヌはヴェルサイユからチュイルリーに王室が移った時も同行したが、ヴァレンヌ逃亡中は父親の元へ返されたが、帰還後はまた王室の元へ戻った。92年8月10日事件の
際は、王室副監督女官 Renee Suzanne de Soucyに王妃はエルネスティーヌを守るよう命じた。彼女がエルネスティーヌを連れてカルーゼル広場{当時はクール・デュ・カルーゼル}を通った
時、目を離したすきに、群衆はエルネスティーヌをマリー・テレーズ王女と間違えて、スイス衛兵の死体を足元に投げ込んだりしたらしい。居合わせた店主が彼女を王女と信じ、守ってくれた
そうだ。テルール中はRenee Suzanne de Soucyの生家であるMackau家にエルネスティーヌは保護された。1810年Jean Charles Germain PREMPAINと結婚。子はなく死去。死亡証明書には
正式な両親の名が記されていた。
このエルネスティーヌとマリー・テレーズ王女のすり替え説というのがある。
王女がフランス兵捕虜との引き換えにドイツへ向かう際に、両親や弟の死亡に大きなトラウマを抱えた王女ではなく、容姿が似ていて、成長後の王女を見知らぬドイツ宮廷を誤魔化すならば
可能と、身代わりにエルネスティーヌが出向いたという説。確かに、王女の出国の供回りには、存在しないRenee Suzanne de Soucyの息子 Pierre de Soucyが含まれていたり不可解な点は
あった。しかしそれは王女の釈放に反対する一派の奪還作戦から身を守る為のカモフラージュという説もある。だが、パリでMackau家に匿われていたエルネスティーヌが、解放されるや、
なぜかパスポートの申請をしている。どうして一介のパリ女性が出国手続をしたのか? という疑問もある。
すり替え説によれば、エルネスティーヌに成りすましてパリにいたマリー・テレーズ王女は、世情が安定したところでフランスを出国、以後 Sophia Bottaと呼ばれたDark伯爵夫人としてドイツの
 Hildburghausenに夫と共に外出時には顔をベールで隠す不可思議な貴婦人として生きた、とする。{ Dunkelgrafinは地元民からの綽名。なぜかと言うと Eishausen城に住むVersay伯爵が、1807
年連れてきたこの女性について、妻でも愛人でもないと正体を隠しており、外出時にベールで顔を隠している事実や死亡時にすぐに埋葬された事実からこのような綽名が生まれた}
しかし、2013年、この伯爵夫人の遺骸を掘り起こしてのDNA鑑定が行われた。ミトコンドリアDNA鑑定でマリー・アントワネット妃の姉Maria Carolina de Austriaの子孫Alexandre de Saxe-Gessaphe
が協力して検証。結果としてAlexandre氏の配列は、この伯爵夫人とは一致せずだった。ちなみに、ルイ17世の遺骸との配列はAlexandre氏のものと当然だが合致。伝説は断たれた。
尚、この元従者は、革命後も8日毎にヴェルサイユからパリに行き、王妃に出来事や事件の報告をしていたので、8月10日事件の共謀者とするのは充分な容疑があった、とされた)

 Armand, Ernestine,Zoeを連れ歩くマリー・アントワネット妃と国王。この中に娘・Marie Philippineがいる  

2235. ジャン・ピエール・ローラン LAURENT (Jean-Pierre), 58歳。ドンジーDonzy生。
(Laselle市長ともあり司祭ともある)

2236. エドム・アントワーヌ・ルグリ LEGRIS (Edme-Antoine), 71歳。元公証人。サンス生。
(Edme-Antoine Legris 1723-94 リュイーヌ枢機卿の家令。1755-1767の間、ローマ法王の公証人。聖職者秘書官secretaire du Clerge。父親は同じくローマ法王の公証人、聖職者秘書官
だったSulpice Legris 1683-1755。母親はClaude Leriche 1700-64。1761年Marie-Anne Hardy 1730-82と結婚し、一女Marie-Colombe 1763生 をもうける。この娘について詳細はないが、
この記録の後者にあり、共に処刑されている。
1711年生まれの姓名不明の兄と13年生まれの兄 Etienne-Sulpiceがいた。 Etienne-Sulpiceはバイイ裁判所検事で宗教会議の書記官をしていた)

2237. マリー・コロンブ・ルグリ LEGRIS (Marie-Colombe), ブールボンヌBourbonne妻。31歳。サンス生。
(Marie-Colombe Legris 1763-94 前者の娘。系図には詳細記載なく、没年もない。夫の名についてはAndre Dominique Bourbonneとある記録あり、同日処刑の2220のAndre Dominique
BOURBONNE 1742-94 であると思われる。ある記録では、母親のこの人と夫のAndre Dominique Bourbonne、及びその息子のBourbonne氏と並記され、その息子の個所に「画家の
三人の親族すべて」が処刑されたとある。しかし、2220の説明にあるように夫婦の息子Jules BOURBONNE 1793-1865 は砲兵中尉となっている。もう一人画家の息子がいたのかは不明)

2238. ピエール・ジャン・リヨン LYON (Pierre-Jean), 42歳。代理人。シャムージーChamousy生。
( Dambrunの奉公人とある。2232の訴願審査官Angelique Francois HUET DAMBRUNの使用人か代理人だったのだろう)

2239. フランソワ・ドニ・ミレ MILLET (Francois-Denis), 45歳。トゥーロンPort-la-Montagne生。
(1749-94 トゥーロンの教会参事会員で聖職者。91年の宣誓を守らずに演説や行動でカトリック教徒を維持しようと努めた)

2240. クロード・パラ PARAT (Claude), 35歳。サン・ジュリアン・シャプトゥイユSaint-Julien-Chapteuil生。
(オート・ロワールのロジエール小郡の助任司祭。Aurieil生まれとも。42歳とも。「狂信により市民に反革命的な不和をもたらした」として処刑)

2241. フランソワ・パリ PARIS (Francois), 28歳(22歳とも)。使用人。コロンブ・ラ・フォッスColombe-la-Fosse(Aube)生。
(オーブAube第二大隊司令部の使用人。マンダを指示した亡命者らに共鳴したとして処刑。2399の説明中で、ラ・ファイエット夫人とその妹モンタギュ夫人が祖母や母や姉の埋葬場所を調査
した時、フォーブールのある建物の4階の屋根裏部屋に住むMlle Parisというレース女工に出会い、この女性の父親が30年ブリサック家に仕えたが、ブリサック家の処刑で年金も失われた際に
「国民衛兵隊の職員事務所の使用人」だった弟が生計を立ててくれたが、ある日、父弟が逮捕され処刑、その死体の搬送車を追ってピクピュスに放り込んだのを確認したという話を聞けた。そ
して、ピクピュス周辺地と建物を共同で購入し記念碑建立に至ったわけだが、そのMlle Parisの弟とはこの人か? 2135にもAndre PARISがいるが47歳{「年老いた父」とは言えないが}で、ブリサック
公の馬丁でオーブ県出身でパリ在住、公爵とデュバリー夫人の通信役をしたとして処刑されている。Mlle Parisの話の内容と合致する。この記録では父は7/10、弟は7/15の処刑となる)

2242. 二コラ・ルニエ RENYE (Nicolas), 35歳。石切り工。生地はYSとのみ。
(マラー、ルペルティエの業績を馬鹿にして、革命政府を批判したとして処刑)

2243. ジャン・ロラ ROLLAT (Jean), 42歳。農夫。オーズイユAuzeuil生。
(ジャン・セバスティアンJean-Sebastien。Anreuil生まれとも。元貴族、農業とも。亡命者に資金を渡し、自分の馬や犬を飾り立て、トリコロールの着用を拒んだため処刑。
645はロラ伯爵ルネ・セバスティアン・ド・ロラ Comte de Rollat,Rene-Sebastien de ROLLAT, 1762-94で91年に亡命していた貴族、646はその息子でロラ男爵セバスティアン・ド・ロラ Baron de
 Rollat,Sebastien II de ROLLAT 1740-94だが、父親はパリ生まれで息子はBreyac{詳細不明の地名}生まれであり、関係性は不明。後者は兄)

2244. イヴ・ルイ・ロラ ROLLAT (Yves-Louis), 51歳。オーズイユAuzeuil生。
(Anreuil生まれとも。元貴族。Vensatのchateau du Chancelに住んでいた。国王秘書官でモンパンシェのバイイ裁判所警察代官だった。前者は弟。上記の645、646のロラ伯爵や同男爵らとの関
係は不明。 Aigueperseのバイイ裁判所判事、後にCannat管理区長。貴族であることは名誉であり、亡命者への資金援助の為ならば喜んで財産を売却すると言い放ち、そして「市民」とは呼ばれ
たくないと公言していた為に処刑)

2245. ジャン・パティスト・サルヌーヴ SALNEUVE (Jean-Baptiste), 44歳。農家。エグペルスAigueperse生。
(Jean-Baptiste SALNEUVE 1750-94 タルブ出身でボルドー在住の布商人とか農家とかあるが、 Bussieres生まれで弁護士で旧インド会社の元清算委員で、Aigueperseの国民衛兵指揮官。
父親は公領{モンパンシェ公領?}の徴税請負人でモンパンシェのバイイ裁判所主席検事Francois SALNEUVE 1722-92。母親はAnne MALLET 1722-82。姉が一人、妹が四人、弟が三人いた。
1790年Adelaide CHARPENTIER 1772-1809 と結婚した。二男をもうけた。この妻の父親がインド会社の管理者だったので、彼はパリに定住し、インド会社の清算弁護士を務めたのだろう。
仕事がなくなると、彼はAigueperseに引退。すでに彼が属するジロンド派は劣勢になっていた。地元で彼は国民衛兵隊指揮官をさせられた。彼は建物や果樹園の所有者でもある。
彼は職務としての逮捕命令に抗議し、相手を逃がしたりした穏健な人物だった。93年11月5日優良市民者証を発行されてはいるが、彼の立場はジャコバンによって危うくなっていく。
そして逮捕される。妻も夫を救う為にパリに行くが、フーキエ・タンヴィルとの面会も無駄だった。
妻は死別後の98年、息子アントワーヌの家庭教師だった夫の従弟Georges Salneuveと再婚した。またこのアントワーヌの長男Mathieu Salneuve 1792-1869 は法律家、判事から国会議員となる)

孫・Mathieu Salneuve  

2246. マリー・セシル・タラン TARRIN (Marie-Cecile), ブリュネルBrunelle妻。49歳。ヴィルヌーヴ・サン・モーリスVilleneuve-Saint-Maurice生。
(マリー・セシル・タラン Marie Cecile Tarin 1745-94 父親は国王評定官Nicolas Tarin 1703-75以降。母親は Agathe Mousse 1709以前-48。夭折・早世含め9人の兄と3人の姉、2人の妹、
異母妹1人がいた。1769年モンモランシー伯連隊士官の息子Chevalier de Serbonnes,Louis Francois de Brunel de Serbonnes 1743-1802 と結婚、二男一女をもうけ皆成人している。夫は
1757年王妃竜騎兵連隊ブリュネル・ド・セルボンヌ中隊入隊、1790年国民衛兵隊司令官、セルボンヌ市長だった。長男 Francois Maximilien de BRUNEL de SERBONNES 1770-1828 はラ・ク
ーロンヌ連隊士官からSergines小郡の治安判事となり、1799年Alexandrine-Therese BERTHELIN 1777-1851と結婚し、一男四女をもうけ、皆成人し結婚している。その長男のLouis Henri Marie 
de BRUNEL de SERBONNES 1803-92はサンス国民衛兵隊司令となり、後にレジオン・ドヌール勲章を授かる)

 Marie Cecile Tarin(少し老いて見えるが)..............................................長男・Francois Maximilien de BRUNEL de SERBONNES    
長男嫁・Alexandrine-Therese BERTHELIN  孫・Louis Henri Marie de BRUNEL de SERBONNES

2247. ルイ・ルネ・ヴォーコワ VAUQUOIS (Louis-Rene), 34歳。小作人。パリ生。

1794年7月16日

2248. ルイ・アドネ ADNET (Louis), 33歳。フルノワ・ラ・モンターニュFrenoy-la-montagne生。
(フルノワ市の秘書、蹄鉄工)

2249. シモン・オーディジエ AUDIGIER (Simon), 42歳。シャラCharras生。
(サン・ローラン・ド・プレSaint-Laurent-de-Peres{du Pre}の元司祭。Charrais{Poitou}の生まれとある)

2250. ミシェル・ベイズリエ BEISSERIET (Michel), 50歳。ジュヌイヤックGenouillac生。
(BEISSERIEZとも。また 通称ルヴェイユ l'Eveilleとも。またはBeisseriet、通称Leveille。ジュヌイヤック・ブラコニエGenouillac-Braconnier自治体の役人。
ジュヌイヤックには、土着の農民らの間にも色々な利害対立があった。それらを支配していたのが L'Eveille{発音記号付きでレヴェイエ}と呼ばれたミシェル・
ビズリエ Michel Bisserierだった。少し教養があり、遠慮なく意見を言う男で89年に地区の役人に選出されていた。彼は酒を飲むと騒ぐ性質でもあり、日頃
恨みをもっていた農民仲間からその欠点を利用されてしまう。1794年1月29日に一席もうけられ、飲まされ、ついに彼は上機嫌で暴言を吐いた。ブランシャ
ールという男がla Peruze小郡の警察責任者で治安判事のJacques-Etienne Matheyのもとへ行き、この人の暴言と証人を報告、議事録を作成した。3月2日
この人は妻子にキスすることもなく普通に家を出て、そして逮捕、廃れた修道院のRicolletsに収監される。そしてパリに連行された。この人が妻に送った手紙
はそのままフーキエ・タンヴィルに保管されているが、キスすることもなく家を出たことを後悔しているという感動的な手紙だった。そして処刑された)

2251. ジャック・ブーシェ BOUCHET (Jacques), 65歳。サン・バルSaint-Bal生。
(オート・ロワールのイサンジョーYssingeaux裁判所判事。Joseph BOUCHERとも)

2232. ジョゼフ・ブルビオン・ラエイ BREBION LAHAYE (Joseph), 49歳。医師。ラロシュフコーLarochefoucault(⇒ La Rochefoucauld)生。
 (ジョゼフ・ブレビオン・ラエイ Joseph Brebion-LahayeもしくはLahayeまたBrebion de Lahayeとも)

2233. マリー・ローズ・シャンボラン CHAMBORAN (Marie-Rose), デュプレッシDuplessis未亡人。43歳。コンフランConflans生。
(マリー・ローズ・ド・シャンボラン・ド・ペリッサ Marie Rose de CHAMBORANT de PERISSAT 1741-94 父親はAntoine de CHAMBORANT de PERISSAT
 1701-1766。母親はCatherine LEGOUST。兄一人、姉一人、弟二人と妹一人がいたが、全員成人している。姉は520のカルメル会修道女のMarie Catherine
Gabrielで3月27日にすでに処刑されている。2236の義姉。2236の兄Louis Francois du PLESSIS de La MERLIERE 1760-94{ロワイヤル・コントワ連隊中尉}と
89年結婚。この夫は94年7月3日に34歳で亡くなっている。妻であるこの人がこうして同年7月16日処刑なので、夫も処刑だと思われるがこの記録にはなく、
「Deuxieme registre du livre d'or de la noblesse de France」(1845出版)によれば、亡命先で亡くなったようである。この人は実は78年に近衛騎兵大尉Francois
du PLESSIS de La MERLIERE 1706-88 と結婚しているが、この前夫は後夫の伯父に当たり、PLESSIS de La MERLIERE家の適長だった。子はなかった。
後夫Louis Francoisも適長なので、何か必要があってのことだろうが、19歳も年上のこの人を娶った意味は不明だ。この人の弟Philippe de CHAMBORANT de
PERISSAT 1751生 は法学博士で76年クレルモン司教区司教総代理の聖職者だが、91年に亡命している。
この人と義妹2236は亡命者との通信と資金提供の罪で告発され、また夫の馬が没収されることを拒否した罪状もあった)

2254. エドム・クロード・ダルロ DARLOT (Edme-Claude), 58歳。管理人。パリ生。
 (行政委員。元モーブール侯爵Marquis de Maubourgの管理人。 Marquis de La Tour-Maubourgのことか?)

2233. マルグリット・ドローラドゥール DELAURADOUR (Marguerite), ペリエPerrier妻。50歳。リル・ジュールダンLille-Jourdain生。
(夫名はPoirierともある。Marguerite de LOURADOURは1718-86で系図にある。 L'Isle-Jourdain出身でもある。86年10月5日に亡くなっている。死亡の場所は記さ
れていない。1804年以前に死亡したRene de LOURADOUR de BELISLEという人物と結婚し、 L'Isle-Jourdain生まれのLouis de LOURADOUR de BELISLE 1740生
をもうけている。このMarguerite de LOURADOURには10人の兄弟姉妹がいて末弟にRene de LOURADOUR de BOISBLANC 1740-96 がおり、Saint Paixant自治
体の代理人をしているが、この妻にまた同名のMarguerite de LOURADOUR 1727-93 が出てくる。上のMargueriteとは従姉妹だ。そのどちらも同時代だが、該当
しない。但し、最初のMarguerite de LOURADOUR 1718-86 の沢山の兄弟姉妹{成人した弟らは治安判事や弁護士}の長男Louis de LOURADOUR 1716-94 は、
聖職者となっており、94年3月18日に処刑されている。「Victimes de la Revolution Francaise」と明記されている。処刑地は未記載でパリかは分からないが、この記録
には載っていない。このLouisは1745年6月からPayrouxの司祭だった。また署名に「Payrouxの聖職者 Delauradour」と書いたとあるが、この家族は皆「LOURADOUR」
または「de Louradour」と署名しているともある。 フランス南西部のジェール県のコミューンであるL'Isle-Jourdainは1793年の人口調査で4,146人の都市だ。
⇒ マリー・ド・ローラドゥール・ド・ベリル Marie de LAURADOUR de BESLILE 1744-94 であると思う。夫は1767年結婚のPierre POIRIER de VILLEVERT 1739-94。
Poirierという記載がされている資料もあるので合致する。2274が夫だろう。 L'Isle-Jourdain出身。父親はRene de LOURADOUR de BELISLE。母親はMarguerite AUGRY
de LAUDONNIERE。つまり、上記の二番目に登場するMarguerite de LOURADOURの17歳年下の妹だ。最初のMargueriteの従妹。こちらの系図には当人と法律家に
なった弟Jeanしか載っていない。また上記Margueriteの系図にはMarie de LOURADOURはあるが、77年{10年違うが}Pierre POIRIER de VILLEVERTと結婚したことのみ
で、生没年も処刑の事実も記載されていない。また、父親の詳細がなく、兄弟名もなく、最初に登場する従姉Margueriteの家系とは繋がらない。尚、夫はSaint-Laurent
-de-Cognac市長である。処刑された司祭のLouis de LOURADOURは従兄ということになる)

2236. カトリーヌ・デュプレシ・ラメルリエール DUPLESSIS-LAMERLIERE (Catherine), 29歳。メルリエールMerliere生。
(カトリーヌ・ヴィクトワール・デュ・プレシ・ド・ラ・メルリエール Catherine Victoire du PLESSIS de La MERLIERE 1763-94 30歳とあり、9月25日生まれなのでこちらが正
しい。1783年にサン・シールを出ている。父親はJean du PLESSIS de La MERLIERE 1709生。母親はElisabeth REGNAULD de La COURRIERE。姉が二人、兄が一人、
妹が一人いた。長姉 Catherine Justineは51年生まれで、サン・シールを出ると72年ブーローニュ・シュル・メールのアノンシアードAnnonciades修道院の修練女になった。
次姉 Marie Henrietteは54年生まれで、姉と同じくサン・シールを出て同修道院修練女に76年になった。妹 Catherineは生没年不詳だが、Louis TALEBRONという人と結婚し
ている。兄 Louis Francois 1760-94 はロワイヤル・コントワ連隊中尉だったが、94年7月3日に34歳で亡くなっている。妻が2233で同年7月16日処刑なので、夫も処刑だと
思われるがこの記録にはない。「Deuxieme registre du livre d'or de la noblesse de France」(1845出版)では、亡命先で亡くなったようである。この人は2233の義妹となる)

2237. アントワーヌ・デュトルイユ DUTREUIL (Antoine), 41歳。宿主。モニストルMonistrol生。
 (宿主でオート・ロワールのモニストル地区行政官)

2258. ヴァンサン・エスブレイヨ ESBRAYOT (Vincent), 56歳。モンテイユMonteil生。
(ヴァンサン・エスブレイヤ Vincent ESBRAYAT 通称ラブラッシュ、LABLACHE{Lahlacheとも}。オート・ロワールのサン・フロンSaint-Frontの元市長)

2259. マリー・アントワーヌ・フーイヤック FEUILHAC (Marie-Antoine), 26歳。ピュイPuy生。
(マリー・アントナン・スーイヤック、セニヤック、フーイヤックともいわれる。Marie-Antonin Seuilhac Senilhac Feuilhac。
元貴族で教会参事会員{元修道士、とも}。同じ時期にMarie-Antoine Gaillard de Senilhacがいる。給料を守るために自由と平等の誓いを立てたとあり、 彼は、まだ聖職者
ではないのに、サン・ブノワの誓いを公言した若者とかあるので、26歳のこの人と合う。
⇒ Marie-Antoine Gaillard de Senilhac 1766-94 ベネディクト修道士とある。処刑時の年齢は少し違うが、別資料{ピュイのガイヤール家の資料}に革命で7月16日処刑と明記
されている。この一族の者の内3人がオート・ロワールからの亡命者リストに載っている、とある。1751年に結婚した生没年不詳の女性Marie Madeleine GAILLARD de SENILHAC
の父親はBaron de Ceyssacである。また1795年に結婚したSophie Marie-Madeleine de GAILLARD de SENILHAC 1850没 の父親はGeorges de GAILLARD de SENILHAC)

2260. シャルル・ガボリオー GABORIAU (Charles), 56歳。ジャルナックJarnac生。
(公証人でジャルナック自治体の役人。Jarnac-Charente生まれ)

2261. アレクサンドル・カジミール・ジョフロワ GEOFFROY (Alexandre-Casimir), 38歳。騎兵中尉。モーブージュMaubeuge生。
(第11猟騎兵連隊中尉。元馬商人)

2262. ベルトラン・ジベール GIBERT (Bertrand), 28歳。ジュムJesme生。
(Sally-les-Lanoisの元司祭)

2263. ジャン・グルレ GRELLE (Jean), 35歳。モンタンMontant生。
( ジャン・ジュレ Jean Gelleとも。 Villejoubert {Charente}の元司祭。モントーMontaut生まれとも)

2264. ルイ・ラブ LABBE (Louis), 35歳。宿主。オールネイAulnay生。
(ルイ・ラべ Louis LABBEとも。宿主で農業)

2265. クロード・エティエンヌ・ルヴァッスール LEVASSEUR (Claude-Etienne), 37歳。粉屋で農業。サン・タルノーSaint-Arnoud生。

2266. クロード・ロ二ヨ LONYOT (Claude), 48歳。人夫。サニーSagny生。
(クロード・ルイヨー Claude Louyauとも)

2267. ジョゼフ・ジュリアン・マラヴァル MARAVAL (Joseph-Julien), 54歳。法律家。ピュイPuy生。
(ピュイの調停委員会委員。サイヤン伯爵のジャレス平野の反乱に参加した)

2268. ジャン・モレ MORET (Jean), 71歳。公証人。モニストロルMonistrol生。

2269. ヴィタル・オリエ OLLIER (Vital), 57歳。クラポンヌCraponne生。
(ピュイ教区の元司祭。94年春、弾圧された教区民らを励まし続けた司祭)

2270. ダミアン・パイエ PAILLET (Damien), 32歳。医師。ユッソンHusson生。
(粉商人で、オート・ロワールのモニストロルMonistrol地区管理者)

2271. 二コラ・パパ PAPA (Nicolas), 44歳。義勇兵。メリエMelliers生。
(Nulliere生まれとも。 Doubsの第8大隊義勇兵)

2272. ピエール・ペラン PERRIN (Pierre), 49歳。フルノワ・ラ・モンターニュFrenoy-la-Montagne生。
(Fremoyともあるが、生地からして Fresnoyが正しいとして、フルノワの検察官。元鉱山採掘師。名は Perinとも)

2273. ピエール・ピネ PINET (Pierre), 51歳。ブーシャージュBouchage生。
(Bouchaye生まれとも。 亡命者de Ferrariの代理人。de Ferrariは中将Comte de Romans-Ferrari, Guillaume Cesar 1750-1836 のことだろう。この伯爵は93年には
亡命者リストに載っており、94年には城館を荒らされている。ドンブのRomansの領主だから、この人の出身地はBouchageが正しかろう。近くである。Bouchayeでは
タルブになってしまう。{このロマン・フェラーリ伯爵のフェラーリ名は、この一族が元々はイタリア・ミラノの金満家出身だからである})

主・Comte de Romans-Ferrari, Guillaume Cesar   

2274. ピエール・ポワリエ POIRIER (Pierre), 55歳。コニャックCognac生。
( ピエール・ポワリエ・ド・ヴィルヴェール Pierre POIRIER de VILLEVERT 1739-94 Cognac生まれ。2233と1767年結婚した夫と思われる。2233内容参照。サン・ローラン・ド・
コニャックSaint-Laurent-de-Cognac市長。父親はコニャック市長で恩給受給者Jean Nicolas POIRIER de VILLEVERT。母親はMarguerite DESMIER de La GROIX。
この人の処刑日が16 June 1794とあるのは間違いだろう。妻が革命議会の話で、あんな悪党たちよりも私たちに従うべきだと暴言を吐いたという)

2273. アントワーヌ・クイロン QUEYRON (Antoine), 42歳。法律家。エスコブラックEsquoblac生。

2276. ピエール・シゴ・レスタン SIGOT-LESTANG (Pierre). 61歳。アンカジネリAncagineri生。
(ピエール・ルイ・ド・サンゼル・ド・シゴー・ド・レスタン Pierre Louis de Sinzelles de SIGAUD de LESTANG 1738-94 オーラギエールAulaguiere生まれとも。SIAGAUD de LESTANGとも。
ジャレス平原の謀反に関与。オート・ロワールの県議会評定官でピュイ裁判所裁判官だったとある。
父親はPierre Louis de Sinzelles de SIGAUD。母親はFrancoise du FAURE。{祖母はピュイのバイイ裁判官の娘Beatrice GERANTES}1767年Colombe des Crozes de CHALENDARと結婚し、
Jean-Francois Mathieu de SIGAUD de LESTANG 生没年不詳 を得ている。この息子はJeanne Marie du MILLET de LA BORIE 1771生 と結婚し、 Pierre Augustin de SIGAUD
de LESTANG 1804生 を得ていて、子孫は現代まで続いている。夫人と同じ姓名のJeanne Marie de CHALENDAR des CROZES 1749-1824 が野戦総監でサント・リュシー Sainte-Lucie
総督のBaron de La Borie, Jean Andre VERON de La BORIE 1733-88 と結婚しているが、息子の妻の Jeanne du MILLET de LA BORIE と姻戚か? 全ての親名が不明で不詳。
de SIGAUD家は15世紀終末頃にブルボン公に仕えた武人ベルナールにより確認できるドーフィネの貴族)

2277. ジャン・ピエール・スーシュ SOUCHES (Jean-Pierre), 45歳。保健官。モラMoras生。
(ジャン・ピエール・スーシュ・デュプレ Jean-Pierre SOUCHES-DUPRE又はSOUCHE-DUPRE。保健官。 出生地も Moranとも)

2278. ジャン・アントワーヌ・テルム THERME (Jean-Antoine), 45歳。宿主。サン・ディディエSaint-Didier生。
(オート・ロワールの Monistrol地区管理官)

2279. ジャック・ルイ・ヴェルジュジュス VERGEGESSE (Jacques-Louis), 42歳。治安判事。ソーギュSaugues生。
( ヴェルジュズVergezesとかヴェルジェスVergezとも。元オート・ロワールのソーギュSauguesの治安判事。Sanguesともあるが、これは間違い)

1794年7月17日

2280. クレマン・ボレル BOREL (Clement), 34歳。農夫。サン・ジャン・ド・スーダンSaint-Jean-de-Soudin生。
(農夫。元元帥法廷の書記官)

2281. マリー・クロード・シピリエンヌ・ブラール BRARD (Marie-Claudee-Cyprienne), 38歳⇒58歳。コンピエーニュの元修道女。エヴルーEvreux生。
(Marie-Claude Cyprienne Brard 1736-94 オート・ノルマンディの l'Eure生まれとも。58歳となる。恐らく5と3のスキャン相違。
この日は16名{11人の解散したカルメル会修道女、3人の修練女、2人の外国籍の修道女}が処刑された。コンピエーニュ革命委員会の記録では、彼女たちが相変わらず狂信的な戒律
に基づいた生活をし、亡命者の家族や宣誓拒否の聖職者あるいはパリの狂信者たちと反革命的な文面に満ちた手紙通信を交わしていた、とされている。実際は、革命家たちの魂の
救済や、このような狂った世情の中では殉教もやむなしとか、そんな普通の手紙であった。ラ・マルセイエーズの旋律で賛美歌を歌ったりもしていた。処刑当日、彼女らは「聖霊よ、
来たり給え」を歌いながら、一人一人、静かに、歌声が最後の一人の独唱になるまで処刑されていったという。1906年5月法王ピウス10世によって彼女らは列福された。尚、コンピエー
ニュの有力市民で国王秘書官の息子2306のClaude Louis-Denis Mulot de La Menardiereは従兄弟で、カルメル修道女らを支援したとして同日処刑されている)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2282. マリー・アンヌ・ブリドー BRIDEAU (Marie-Anne), 38歳。コンピエーニュの元修道女。プルーストBroust生。
(マリー・アンヌ・フランソワーズ・ブリドー Marie-Anne-Francoise Brideau 1752-94 副院長とある。フランシュ・コンテのBelfort生まれとも。前者説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2283. ジャン・パティスト・ブロリアール BROLIARD (Jean-Baptiste), 41歳。シジモンSizimon生。
(Jean-Baptiste BroliartまたはBrolliart  ドルドーニュのマルシヤックMarsillacの元司祭)

2284. アントワーヌ・ルイ・イザック・カルメル CALMER (Antoine-Louis-Isaac), 48歳。元貿易商人。ハーグLa Haye生。

2285. ピエール・フランソワ・シャッスルー CHASSELOUP (Pierre-Francois), 43歳。兵器商。コルビルCorbeil生。
(第9軽騎兵連隊付武器商人)

2286. ローズ・クレティアン CHRETIEN (Rose), 32歳。コンピエーニュの元修道女。エヴルー生。
(ローズ・クレティアン・ド・ラ・ヌーヴィル Rose-Chretien de La Neuville 1741-94 若くして結婚したが未亡人となる。1777年修道院に入った。1746年生まれの弟 Pierre-Francois Cretien
 de La Neuvilleは、陸軍士官でサン・ルイ騎士、エヴルーの市議会議員となり暫定市長から県議会議員となっている。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2287. フランソワーズ・クロワシー CROISY (Francoise), 49歳。コンピエーニュの元修道女。パリ生。
(マリー・フランソワーズ・ガブリエル・コルベール・ド・クロワシー Marie Francoise Gabrielle Colbert de Croissy 1745-94 修練女指導員。2281説明参照。
コルベール・クロワシー家は、あのコルベールの弟Marquis de Croissy,Charles COLBERT 1629-96 が1664年Dame de Croissy et de Torcy,Francoise Marguerite BERAUD de CROISSY
1642-1719 と結婚することにより、その長男がTorcy系、次男らがCroissy系となり、それが絶えるとTorcy系が継いだ。この人の記録がどこの系図にも見当たらず関係は未詳。2382の
Marquise de Nonantの母親や94年3月25日処刑者の番外に記されているマイイ元帥の初婚相手など、近い家系だ。
またこの人が修道女になる儀式{1764年}の時、王妃マリー・レクザンスカが立ち会っており、王妃はこの人に「あなたが受け取った外衣は、あなたの祖父コルベールのもののように輝いて
はおりませんが、あなたが父なる預言者エリヤの精神と外衣を纏い続けることで、大臣がそうしたように無数の人々に多くを与えることが出来るでしょう」と言葉を掛けた。「祖父」とは例えで
あろう。正式にはPetite niece、つまり甥{姪}の子とある)

 Marie-Francoise Gabrielle de Croissy

2288. ジャン・アンドレ・ドラメ・ブールネ DELAMET-BOURNET (Jean-Andre), 22歳。無職。ジョワイユーズJoyeuse生。
( Jean Dalamet-BournetもしくはBournet。d'ALLAMEL de BOURNETという国王に仕えたJoyeuse Ardecheの裁判所裁判官がいる。また1794年没のJean Louis d'ALLAMEL BOURNET
という人物は3月16日にリヨンでギロチン刑に処せられている。高等法院弁護士でジョワイユーズの裁判官。生年は不詳。父親はLouis d'ALLAMEL de BOURNET 1709-73で母親は
Therese BARTHELEMY de LAFOREST。父親の年齢からすると、このJean Louis d'ALLAMEL BOURNETは世代が違う。しかしその息子も同じ運命だったとあるが系図では確認できない。
Dalamel de Bournet家はもともとはヴィヴァレー発祥の一族で、結婚によりジョワイユーズに移った一族がいて、その一族で著名なのが上記のJean Louisらしい。ジョワイユーズ近辺で
検察官等、政治的な役割を果たした一家だった。革命期准将だったAntoine Francois Barthelemi de Bournet 1741-1812 等も遠い姻戚)

2289. マリー・デュフール DUFOUR (Marie), 32歳。コンピエーニュの元修道女。ボンヌBonne(⇒ Bannes)生。
( Marie Dufour 1741-94 正確には修道女ではなくsoeur converse。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2290. フレデリク・エデルマン EDELMANN (Frederic), 43歳。音楽家。ストラスブール生。
(ジャン・フレデリク・エデルマン Jean Frederic Edelmann 1749-94 アルザスの古典派音楽の作曲家。アルザス語でヨハン・フリードリヒ・エーデルマン(Johann Friedrich Edelmann)ともいう。
法学と音楽を修めた後、1774年から1789年までクラヴィーアの演奏家および教師としてパリに過ごす。1789年にバ=ラン県の行政官に任命されるが、1794年にパリでジャコバン派であるとの
嫌疑をかけられギロチンで処刑された。 2つの歌劇と1つのオラトリオのほか、クラヴサンやフォルテピアノのために、独奏ソナタやオブリガート・パートつきのソナタを数多く作曲した。
{日本語WiKiより。但し没年が7月14日となっている。原語版WiKiは正しく7月17日となっている} モーツァルトは面識こそないし、手紙でも一度だけの言及だったようだが、モーツァルトがアウグス
ブルクの鍵盤楽器製作業者の家でクラヴィアを試し演奏する際に、そこいらの楽譜の曲を適当に弾いた時に、この人の曲があり、「大変に綺麗な曲」と評価していた。
後者は弟。父親は大工のCaspar Samuel EDELMANN。母親はMarie Salome STORR。1748年生まれの姉Marguerite Salome EDELMANNは、Joseph SCHUMANNという人物と結婚している。
93年にStrasbourgでClaudine Marceline CAIRE 1766生 と結婚したばかりだった。Marcelin 1794生とJean Frederic 1795生{処刑後の翌年2月17日の誕生}の二男が残された。この父親処刑時
に、母親が妊娠中だった次男Jean Fredericはその後、ピアニストとなり、キューバに渡り出版社を設立したJuan Federico Edelmann 1795-1848となる)

 ...........................................................................................................................................................................................................................息子・Juan Federico Edelmann... 

2291. ルイ・エデルマン EDELMANN (Louis), 31歳。楽器製造。ストラスブール生。
(ルイ・ジョフロワ・エデルマン Louis Geoffroy EDELMANN 1753-94 前者の弟。ピアノ・フォルテ製作業。1793年頃にMarie Anne HELLFRICHと結婚しており、Sophie 1791生とJonathan 1793生
の一女一男がいた。また 1748年生まれの姉Marguerite Salome EDELMANNは、Joseph SCHUMANNという人物と結婚している。父親は大工のCaspar Samuel EDELMANN。母親はMarie Salome
STORR)

2292. マリー・アンヌ・アニッセ HANNISSET (Marie-Anne), 42歳。コンピエーニュの元修道女。パリ生。
(1742-94 ランスReims生まれであるといわれる。父親は Jean-Baptiste Hannisset、母親はJeanne Audryとランスの Saint-Symphorien教区の洗礼記録から推定され、またランスの死亡記録
により兄弟と思しきPierre Jean-Baptiste Hannissetの1808年3月13日の死が確認できる。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2293. ルイ・エロ HELLOT (Louis), 39歳。大尉。ルーアン生。
(共和国輸送部隊大尉)

2294. ミシェル・ユペール HUBERT (Michel), 36歳。 ans, instituteur, ne a Arblay.
(ラ・フェルテの義勇兵教官)

2293. テオフィール・ケプレル KEPPLER (Theophile). 77歳 。Hekenghem(? Hekenheneとも)生。
(Andlau僧院の管理者。名誉ある宗教的一族とある)

2296. ジャン・ラブルース・デュボルフラン LABROUSSE-DUBOLFRAN (Jean), 40歳。農業。
( ジャン・ラブルース・デュ・ボフラン Jean Labrousse du Boffrand 国王の近衛兵で、le 29 Messidor 1794(17/07/1794)にギロチン刑に処せられた、と下の肖像画の説明にある。
「非常に慣習的な姿勢で、17世紀のスタイルの肖像画、かつらのタイプによって示されるように、1775-85年頃の騎兵隊の将校を表す。彼は鎧で表され、サンルイの騎士章をつけている」
と画の説明にはある。肖像画のモデルとしてこの人の名と説明が推定されている。85年に描かれたものとしても、31歳の時の姿となる・・・
ジャン・ド・ラブルース・ド・ボフラン Jean de Labrousse de Boffrand 生没年不詳になっている人物が系図にはあるが、ボフラン領主で法廷弁護士、 Nontronの代官、ボルドー長官補佐官。
{他の資料には、 Bourdeix侯爵領裁判権管轄所判事、とある} 父親はFrancois de LABROUSSE 1718没。母親はMarie CHOLET。少し処刑年齢からして無理がある。この人の処刑年齢が
合っているとすると、54年前後生まれなので、下記の息子の子供くらいの世代になってしまう。
 Bertrande de Pastureauと結婚し、士爵で法廷弁護士で父同様にボルドー長官補佐官となる息子 Pierre de Labrousse de Boffrandをもうけ、息子は1750年Francoise Dereix des
Fosses 1730{22とも}-90 と結婚している。
他の系図に弁護士でNontronの判事Pierre de LABROUSSE du BOFFRANDとFrancoise DEREIX DEFFOSSESの娘Marie de LABROUSSE du BOFFRANDが、Pierre FILHIOUD LAVERGNE
と結婚し一女 Anne Therese FILHIOUD LAVERGNE 1785-1877を生み、孫らは20世紀に至っているとあるが、Jean de Labrousse de Boffrandの孫娘であろう。
この一族のピエールの子あたりに、あるいは別の分家筋に、系図は欠落しているがこの人が入ると思われる。
ラブルース家はペリゴールの4番目の都市であるノントロンの中世の貴族家から由来している。一族の中には、市の2人の市長、州の2人の長官、長官補佐、国王の顧問秘書、ルイ14世の将軍、
スイス百人隊のキャプテン中尉、高等法官、ギュイエンヌ高等法院、王の衛兵と革命の犠牲者が出ている。この最後の事例が該当。分家はこの人たちのLe Boffrand系も含めて11もある。2544
にElie-Francois Labrousse de Bellevilleがいるが、同族の別系Belleville系の人)

 Jean Labrousse du Boffrand

2297. ピエール・ル・ジューヌ(通称ラモネRamonnet) LE JEUNE (Pierre) 70歳。農民。
( Hesancourt生まれとある。自治体の警察警部)

2298. シャルル・オノレ・ルテリエ LETELLIER (Charles-Honore), 30歳。元治安裁判所書記官。トゥール生。
(シャルル・オノレ・テリエ Charles Honore Tellierとも。 マルセイユ治安裁判所書記官)

2299. マドレーヌ・クロディーヌ・リドワーヌ LIDOINE (Madeleine-Claudine), 42歳。コンピエーニュの元修道女。パリ生。
(マリー・マドレーヌ・クロディーヌ・リドワーヌ Marie-Madeleine-Claudine Lidoine 1752-94 修道院長。パリのサン・シュルビス教会で洗礼を受けているが、両親については
不明とある。母親はこの人を生んだ時に41歳で、天文台勤務の父親との間の唯一の子だった。この一人娘に色々な教育をほどこした為に、修道院に入る持参金を用意す
ることが出来なかった。王室のルイーズ王女{一番信心深く、自らを「神の子」と名乗り、決して「国王の子」とは言わなかった王女で、王太子ルイつまり後のルイ16世の結婚
を機にサン・ドニ修道院に入ってしまった王女}の口添えで、王太子妃だったマリー・アントワネットにこの人の修道院への持参金の支払いを依頼し、この人は無事に修道女
となった。Louise-Marie de France王女は閉鎖寸前のカルメル修道院に莫大な持参金と共に入り、この修道院を再興させ87年病没した。尚、この人は最後に処刑された。
2281説明参照。ブルジョワ出身で、1785年以来院長)

 Marie-Madeleine-Claudine Lidoine

2300. ルイーズ・ポール・メイズナール MEISNARD (Louise-Paule), デュブレDubret未亡人。60歳。リジーヌRisine生。
(ルイーズ・ポール・メナール Louise-Paule MESNARD 通称プラドPRADOTと呼ばれたダブレDABRETの未亡人。無職とある。あるいは、ジャン・デュブレJean Dubretの未亡人
でこの人の通称がプリュドPrudotともある。Canton-de-Riviere生まれとも)

2301. レオナール・メナール(通称ボワBois) MESNARD (Leonard), 46歳。農業。ブール・ヴューBourg-Vieux生。
(ブドウ栽培者。Bois-Vieux生まれとも。通称はDuboisとも)

2302. フランソワ・ムトジー・ドラクロワ METGY-DELACROIX (Francois), 26歳。商人。シャルリュナルクCharlunarque生。
(Chalimarque生まれとも)

2303. マリー・ジュヌヴィエーヴ・ムーニエ MEUNIER (Marie-Genevieve), 29歳。 ans, コンピエーニュの元修道女。ラ・フランシアードLa Franciade(⇒Saint-Denis)生。
(Marie-Genevieve Meunier 1765-94  修練女noviceとある。2281説明参照。この人はギロチン台の前で、修道院長の前に跪く。院長は手を縛られていたので祝福が出来ない。
しかし言葉でこの一番若い修練女に祝福を与えたという)

 ムーニエ修練女に祝福を与える院長(この画では手が解放されているが)

2304. ピエール・フランソワ・モネ MONET (Pierre-Francois), 30歳。教師。ルコラーニュRecolagne生。
(聖職者で、馬糧徴発管理所の使用人。Rusogne生まれとも)

2305. フェルディナン・モレル MOREL (Ferdinand), 45歳。鬘師。ストラスブール生。

2306. クロード・ルイ・ドニ・ミュロ(通称ラ・メナルディエールLa Menardiere) MULOT (Claude-Louis-Denis) 60歳。パリ生。
(クロード・ルイ・ドニ・ミュロ・ド・ラ・メナルディエール Claude Louis-Denis Mulot de La Menardiere 生年不詳-1794 国王秘書官の息子。1741年頃の生まれとあるが、年齢が合わない。
1779年Marie Madeleine Eleonore Boitelと結婚。子はいない。コンピエーニュの有力市民だったが、カルメル派修道女らを援助したとして逮捕・処刑。2281の修道女マリー・クロード・シピリ
エンヌ・ブラールの従兄弟になる。彼女に詩を送ったりしている。
青年時代には司祭とカルメル修道女の衣装を着けて街を練り歩くような不謹慎で不敬な仮面舞踏会に参加したり不信心者だった。しかし従姉妹の2281によって、彼はカルメル修道女らに
関心を示すようになっていた。逮捕時、彼は「司祭」だと疑われた。カルメル修道女らのもとに出入りしていたので、非宣誓司祭だと思われたのだ。シャンティー城の牢獄に反革命容疑で妻
が収監されているのを証明しなければならなかった。パリでの牢獄では、彼の魂の救済のために2299が大変に手を貸してくれた。そして、この人は見事な勇気を示して、16人の修道女らと
共にギロチン台に上ったのであった)

2307. アンヌ・ぺルラ PELLERAT (Anne), 34歳。 コンピエーニュの元修道女。カザCazats生。
(Marie-Anne PelrasともMarie-Annette Pelrasとも。1760-94 Cajarc生まれとも。この人はMarie Henriette de la Providenceと名付けられ、看護修道女だった。院長の2299が最後の処刑順
だが、この人はその前、最後から二番目に処刑された。2281説明参照。)
 
コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2308. アンドレ・プティ PETIT (Andre), 47歳。皮なめし業。アルベールAlbert生。

2309. アンヌ・マリー・ピエクールPIEDCOURT (Marie-Anne), 68歳。コンピエーニュの元修道女。パリ生。
(Marie-Anne Piedcourt 1715-94 78歳である。処刑台上で執行人に「神が私を許してくれるように心からあなたを許す」と言った。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2310. ピエール・プルネイル PRUNEYRE (Pierre), 44 歳。ブリオードBrioude生。
(第一大隊下士官。拘留されても気にせず、国王の為に死ぬほど良いことはないと話していた)

2311. ルイーズ・ルケ REQUET (Louise), 40歳。家政婦fille de confiance。アングラAnglas生。

2312. ジャン・ローラン・オーディベール・ルーボー ROUBEAU (Jean-Laurent-Audibert), 53歳。数学教師。エクスAix生。
(ロンドンから乞食の衣装でフランスに入り、旅券を提示せず、またピットとジョージ{イギリス首相と国王}の機密書類を所持していたという)

2313. アンジェリク・ルーセル ROUSSEL (Angelique), 52歳。コンピエーニュの元修道女。フレーヌFresne生。
(Angelique Roussel 1742-94 Fresnes-Mazancourt{Somme}生まれ。正確には修道女ではなくsoeur converse。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2314. テレーズ・シロン SOIRON (Therese), 45 ans, 受付係の修道女touriere, コンピエーニュ生。
(Marie-Therese Soiron 1748-94 共に修道院受付 touriereをしていたCatherine Soironは42年生まれの姉で同日の処刑だが、この記録にはない。2281説明参照。二人とも、72年からこの
修道院に奉仕していた一般人なのかも知れない)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画 

2315. マドレーヌ・トゥーレ THOURET (Madeleine), コンピエーニュの元修道女。ムーイMouy生。
(アンヌ・マリー・マドレーヌ・フランソワーズ・トゥーレ Anne Marie Madeleine Francoise THOURET1715-94  父親はCloizeaux領主でムーイのブルジョワFrancois THOURET DES CLOIZEAUX
1674-1720。{祖父 Nicolas THOURETはボーヴェ近くクレルモンの国王主席検事で評定官。この人の父はその次男。父の兄はクレルモンの王室代官で評定官} 母親は高等法院弁護士の娘
Marie Anne LE RAT 1686生。この人は長女で、弟 Nicolas Francois Gilles THOURET 1716生、妹Jeanne Madeleine THOURET 1718生、共に成人し結婚している。また叔父や叔母には、聖職者
やベネディクト修道女とかいる。ボーヴェの教区にあるムーイで生まれ、彼女の両親は裕福で、子供時代は幸福だった。
1724年{20年?}に父親が亡くなり、その後母親が再婚することで大きく混乱する。彼女は継父{Christophe CARELUムーイの租税官}の権威に耐えることが困難だった。彼女はダンスが大好きな
とても美しい少女になる。 彼女は、ダンスに行く機会をすべて利用して楽しむ。 いつも陽気で可愛らしい彼女は、その華やかさゆえに非常に人気があった。 しかし、彼女が「とても悲劇的な」と
言ったけれど、誰も何も知らなかった出来事は、彼女が再びダンス会場に足を踏み入れなくする。 彼女の人生は大きく変わり、1736年、21歳で彼女はコンピエーニュのカルメル会に入った。
彼女は修練院に5年間留まった。これは、彼女の養成が非常に困難だったことの証拠だ。その後修道院で看護修道女になる。逮捕時、彼女は79歳で、身体が不自由であり、連行時、彼女の手は後
ろに縛られていた。 2人のサンキュロットが彼女を残酷に舗装路に投げつけた。 彼女は苦情もなく苦痛に立ち上がった。牢内では、 彼女の優しさ、そして彼女の傷にもかかわらず、彼女は囚人に対
する配慮と慰めの言葉を惜しまなかった。 死刑判決が宣告され、1時間後、刑執行は「Place de la Nation」で行われた。広場へ向かうカルメル修道女らを乗せた搬送車は、パリの通りの両側に集ま
った、普段は騒々しい群衆を、不思議なことに、沈黙させてしまった。そして、この印象的な沈黙の中で、彼女らは賛美歌を歌った。彼女と彼女の仲間の輝く、純粋で平和な顔は、パリジャンを否応も
なく感動させた。 死刑執行人が彼女が処刑台の階段を登るのを手伝ったとき、彼女の柔らかい声でそのつぶやきを聞いた。「私の友人、私は心からあなたを許します」 。2281説明参照)

 Anne-Marie-Madeleine-Francoise Thouret

2316. マリー・ガブリエル・トレゼル TREZELLE (Marie-Gabrielle), 49歳。コンピエーニュの元修道女。コンピエーニュ生。
 (Marie-Gabrielle Trezel 1743-94 父親はPere TREZEL、母親名は不明。姉か妹に Marie Marguerite TREZELがおり、 Michel CLAINという人物と結婚、食料品店を経営する息子Michel Gabriel CLAIN 
1775-1842 をもうけている。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画  

2317. エリザベト・ジュリー・ヴゾタル VEZOTAL (Elisabeth-Julie), 30歳。 ans, コンピエーニュの元修道女。リーグLigues生。
(ジュリーもしくはジュリエット・ヴェロロ Julie or Juliette Verolot 1764-94 リニエLignieres {Aube}生まれ。正確には修道女ではなくsoeur converse。2281説明参照)

コンピエーニュ・カルメル派修道女らの処刑の画  

2318. ジャン・ユン YUNG (Jean), 33歳。靴屋。ストラスブール生。

2319. ルイ・ジョゼフ・イヴォン YVON (Louis-Joseph), 48歳。郵便配達人。パリ生。
(公安委員会からの郵便配達係)

1794年7月19日

2320. エーメ・マリー・アレノ ALENO (Aime-Marie), 28歳。牛商人。カンペルQuimper生。
(エーメ・マリー・ルイ・アレノ・ド・サン・タルーアルン Aime Marie Louis Aleno de Saint-Alouarn 1765-94 海軍士官。
父親はオーストラリア西海岸で主権の主張を行った最初のヨーロッパ人として名高い軍人である海軍大尉Francois Marie ALENO de SAINT ALOUARN 1738-72。母親は
Marie Jeanne Corentine DROUALLEN de KERAZAN 1740-69。海軍大尉で士爵の兄 Hyacinthe Marie Marcelin 1762-1818、姉 Marie Renee Sophie 1763-1849{海軍大佐
LE VEYERと結婚}、弟の歩兵少尉で士爵Hypolite Louis Agathe 1768-1835がいた。1786年Marie Josephe Gabrielle Pelagie de KERRET 1761-1821と結婚し、二女あり。
この妻は死別後に弟のHypolite Louis Agatheと再婚し、一女をもうけている。このKERRET家は以前よりALENO de SAINT ALOUARN家と濃厚な姻戚関係にある。
アレノ家は、1669年国王の機関により「ブルターニュのかなり古い貴族一族」であることが承認された家柄。処刑されたのをHypolite Aleno de Saint-Alouarnとしている資料
は誤りである。この二人の兄と弟は亡命しており、この人は彼ら兄弟とは正反対に燃える情熱を抱いていた。「私はブルトンの紳士であり、私の州の端から来ました。恐ろし
い無秩序の下で妻と子供たちを捨て、最高の王とその8月の家族に私の体で防波堤を作る。私ほど王の家族に愛着のある者はいません。彼らの足元で滅びることは私の義
務です」という手紙を国王に差し入れるほどの熱烈な王党派だった)

父・Francois Marie ALENO de SAINT ALOUARN  
Marie de SAINT ALOUARNの肖像(妹・Marie Renee Sophie?)

2321. ローラン・オーブリー AUBRY (Laurent), 42歳。日雇いの兵士。プーイヨンPouyon生。

2322. ジャン・バティスト・ブランダン BLANDIN (Jean-Baptiste), 65歳。奉公人。モワン・ジュリアンMoin-Julien生。
(亡命したブザンソンの聖職者の奉公人。亡命者との関係を維持していたとして逮捕・処刑)

2323. ジル・ルネ・コナン・サン・リュック CONIN SAINT LUC (Gilles-Rene), 75歳。レンヌ生。 ans, ne a .
(ジル・ルネ・コナン・ド・サン・リュック Gilles Rene Conen de Saint-Luc 1721-94 ブルターニュ高等法院法官帽部長。2328は妻。2324は娘。
レンヌのイエズス会大学で学び弁護士になる。ブルターニュ高等法院評定官から法官帽部長評定官{1771-74}となり、イエズス会への政策に反対した。ルイ16世が
ブルターニュ高等法院を再建した際に辞任。以後は妻の財産だったQuimerchのChateau du Botで年金生活に入る。革命中は宣誓拒否聖職者らを匿い、憲法によ
り任命された初めての司教であるカンペルのLouis-Alexandre Expilly de La Poipe司教と対立していた。{この司教も政争で94年5月にブレストにてギロチン}
ヴァンデの反徒との共謀の容疑もあり妻・娘共々逮捕、同日処刑。
父親はToussaint Jacques CONAN DE SAINT LUC 1679-1759。母親はJeanne Marie PEAN 1695-1767。夭折した兄と弟二人、妹三人。弟のToussaint Francois Joseph
 CONEN de SAINT-LUC 1724-90 は、最後のCornouaille司教{1773-90}で、革命時は市民憲法の拒否を病床で表明したが間もなく他界した。1758年海軍士官の娘
Francoise Marie du BOT 1743-94{⇒2328}と結婚し、三男四女をもうけた。長女Marie-Marquise-Charlotte-Victoire-Emilieは2324参照。次男{長男は夭折} Ange Marie Louis
 Rene Joseph 1768-95 は竜騎兵連隊士官だったが、キブロン上陸に参加、捕虜となり95年7月31日Aurayにて銃殺されている。四女 Euphrasie Marie Francoise 1765-96は、
両親や姉と共に収監されたが解放され、96年1月にGuenole LE SAUXと結婚するも、同年11月死去している。姉の2324がこの薄幸の妹の肖像画{下図右}を描いている。また
末子Athanase Marie Stanislas Francois 1769-1844 は、後の政治家で伯爵のGaston Conen de Saint-Luc 1840-1920 の祖父となる)

 Gilles Rene Conen de Saint-Luc ..............................................................................弟・ Eveque de Cornouaille,Toussaint Francois Joseph CONEN de SAINT-LUC 
四女・Euphrasie Marie Francoise CONAN DE SAINT LUC(姉の2324が描いた肖像画)

2324. ヴィクトワール・コナン・サン・リュック CONIN SAINT LUC (Victoire), 33歳。レンヌ生。
(マリー・マルキーズ・シャルロット・ヴィクトワール・エミリー・コナン・ド・サン・リュックMarie-Marquise-Charlotte-Victoire-Emilie Conen de Saint-Luc 1761-94
2323と2328の娘。カンペルのダーム・ド・ラ・ルトレイトDames de la retraite修道院の修道女だが、絵画の才あり作品も残っている。1919年列福申請。
1782年修道院に入る。彼女の作品は教会の礼拝堂のフレスコ画、修道院のパステル画、カンペルの4つの教会のステンドグラス等に多く残されている。また1923年ラングドック
に"Victoire Conen de Saint-Luc"私立学校が設立されたりしている。その画才ゆえにヴァンデ反乱軍が身に着けた徴章もデザインしており、反乱軍への共謀容疑は確定的だっ
た。両親共に逮捕されて、そして処刑された。家族については前者説明参照。
267の医学博士Alexandre Marie de La Roque Tremariaがカンペルのベネディクト修道院(博士の妹のJeanne Marie Thereseが尼僧でいる)に患者の治療に立ち寄った時に、
そこに91年7月9日来、避難してこの人の一家がおり、博士はこの人の作製した聖心を表す徽章を感謝をこめてもらい、弟でロリアンの艦隊司令だった266の分ももらっていた。
1793年3月この兄弟が逮捕された際に、この徽章について作製者の名を話してしまい、この人の逮捕につながった。兄弟の反革命的文書が押収され、徽章はその仲間の記だ
とされた。実際には、博士とこの修道院の尼僧である博士の妹に頼まれて彼女はいくつか渡しただけであった。しかし「革命来、兄弟は常にFinistere県とMorbihan県の陰謀の
指導者で、ヴァンデの乱の集結の証が、この徽章である」とフーキエ・タンヴィルは断じた。そして1793年10月10日にこの人も逮捕されるに至った)

 Marie-Marquise-Charlotte-Victoire-Emilie Conen de Saint-Luc................................................................................................................父・Gilles Rene Conen de Saint-Luc  
妹・Euphrasie Marie Francoise CONAN DE SAINT LUC(姉のこの人が描いた肖像画)

2325. トゥーサン・フランソワ・ジョゼフ・コルヌリエ CORNULIER (Toussaint-Francois-Joseph), 22歳。レンヌ生。
( シャトーフルモン侯爵、ラルグーエ伯爵、ヴァイル伯爵、モントルレ男爵、ランヴォー男爵、カンタン男爵、トゥーサン・フランソワ・ジョゼフ・ド・コルヌリエ Marquis de Chateaufremont,
Comte de Largouet, Comte de Vair, Baron de Montrelais,Baron de Lanvaux , Baron de Quintin, Toussaint Francois Joseph de Cornulier 1771-94 近衛隊員。父親はブルターニュ高
等法院法官帽部長だったToussaint Charles Francois de CORNULIER 1740-79。母親はMarie Felix Pauline Hay des Netumieres 1752-81。1788年 Celeste de SAINT-PERN 1773-
94?{⇒2345。但し、この妻に関しては1858年没とも、没年不詳ともあり、処刑と明記されているもの、あるいは94年没となっている資料はない。弟は2346のように17歳で処刑されているが、
これも93年とされている資料もあり、不明点多々⇒1858年1月28日、ナントにて84歳で没。夫の2325の申告によりこの妻の妊娠が確認され、94年7月17日の死刑判決後に執行が保留、
その後テルミドールとなり、この人は辛くも釈放された}と結婚し、Marquis de Cornulier,Toussaint de CORNULIER 1789-1862{後に騎兵中佐。1830年7月革命の際には、この父らを処刑し
た革命理念の再来を受け入れることを善しとせずに退官してしまった軍人}をもうけた。この妻の母親は2337、祖母は1557と処刑されている。娘二人が成人し結婚しているが、長女
Marie Camille Albertine 1791生 は、姉Marie Pauline Sainte de CORNULIER 1769-1788 とMathurin Louis Anne Bertrand de SAINT-PERN de La TOURの息子Comte de Saint-Pern,
Jean Louis Marie Bertrandに1815年嫁いでいる。この一族とサン・ペルン家の繋がりは濃厚である。
コルヌリエ家は11世紀ノルマンディーのCornille領主一族に由来すると言われるが証明できない。ブルターニュ公ジャン4世の部下Gregoire de Cornilleが確認できる祖先だと言われている)

長男・Marquis de Cornulier,Toussaint de CORNULIER  

2326. ジャン・クーリュール COUREUR (Jean), 68歳。年金生活者。パリ生。
(市役所の年金受給者receveur de rentes a l'Hotel de Ville?)

2327. ピエール・デシュイザール DESHUISSARDS (Pierre), 39歳。農夫。バイイ Bailly生。
(38歳、58歳とも。Bally生まれとも。セーヌ・エ・マルヌ県のBailly Romainvilliersに、1737年没の農家で修道院小作人のPierre DESHUISSARDSという人物がいるので、
Baillyが正しいと思われる。 DES HUISSARDSとも綴るらしい)

2328. フランソワーズ・マリー・デュボワ DUBOIS (Francoise-Marie), コナン・サン・リュックConin Saint-Luc妻。33歳。カンペルQuimper生。
(フランソワーズ・マリー・デュ・ボ Francoise Marie du BOT 1743-1794 2323の妻、2324の母。 51歳なので年齢は娘の年齢との錯誤だろうし、名も類似の発音からありがちな
名前と間違えているようだ。父親は海軍士官Charles Jacques du BOT 1713-58。母親はCharlotte Elisabeth de BARRIN de La GALISSIONNIERE 1715生。この母親の祖父
Achilleの兄Marquis de La Guerche,Roland Barrin de La Galissoniereはやはりブルターニュ高等法院評定官だったが、その孫{つまりこの人の母親の再従兄}はヌーベルフランス
総督で、ミノルカ島海戦でイギリス軍を破り有名になったMarquis de La Galissoniere、Roland-Michel Barrin de La Galissoniere 1693-1756 である。夫が引退したQuimerchの
Chateau du Botはこの人の所有だった。家族詳細は2323を参照)

 Portrait de Victoire de Saint-Luc et de sa mere, Francois-Marie du Bot..........夫・Gilles Rene Conen de Saint-Luc 
四女・Euphrasie Marie Francoise CONAN DE SAINT LUC(姉の2324が描いた肖像画).................................
母親の再従兄・Marquis de La Galissoniere、Roland-Michel Barrin de La Galissoniere

2329. クリストフ・ガルディ GARDY (Christophe), 50歳。事務員。サン・マロPort-Malo生。
(レンヌ生まれとも。Magon-Labelinayeの事務員とあるので、2339のLuc Magon de la Blinayeの部下だったのだろう。Luc Magonがサン・マロ国民衛兵隊長だった時、
イギリスとの通謀を疑われて、共々カンカルにて逮捕されている)

2330. アンリ・ジュヌヴィエーヴ・ゴーシェ GAUCHER (Henry-Genevieve), 39歳。⇒59歳とも。元少佐。サン・レジェSaint-Leger生。
(アンリ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴーシェ Henri-Genevieve de GAUCHER 元バッシニーBassigny連隊少佐。元暴君の聖霊騎士。「王室財務部年金名義」(1791)には、
オーニスAunis連隊少佐補佐官大尉Capitaine-aide-majorとして記載され後にバッシニー連隊少佐とある。バッシニー連隊は1776年オーニス連隊の第2、第4大隊か
ら編成されたからだろう。1621年Castelbayard男爵により設立された歩兵連隊であり、革命下て゜第32連隊となったガスコンの連隊。革命直前はにザール・ルイ 、ナ
ントとベル・イール、ブレスト等に駐屯していたが、91年にサント・ドミンゴへ派遣される。大佐であるシュフラン伯爵を追放し、連隊はマルティニークに移動。大隊ごとの
展開となり、本国に戻った大隊、アンティル諸島のままの大隊と。間もなく両大隊共に本国での作戦従事となった。96年に再編成で消滅。この人は1768年に名があり、
「52」とあるので、それを年齢と解釈すると1716年頃の生まれとなる。従ってこの時78歳くらいとなる。同書にオーニス連隊大尉でHenri GAUCHERもあり、1767年に「62」
とある。またオート・マルヌの革命中に破壊された教会であるLangres教区のサン・ピエール教会の結婚記録に、1771年9月6日Henri Genevieve GAUCHERとElizabeth 
GAUCHERのものがある。この人は処刑時の居住地が、このオート・マルヌのラングルであるので同一は間違いない)

2331. ジャン・バティスト・グレモン GREMONT (Jean-Baptiste), 52歳。元執達吏。ジゾールGisors生。

2332. ピエール・ギー GUY (Pierre), 45歳。 ヴィリエVilliers生。
(ヨンヌのヴィリエ小郡の元司祭。ヴァンデの反徒としてドゥーエDoueの軍事委員会によって死刑判決を受けた)

2333. エラーム・シャルル・オーギュスト・ラランド・マゴン LALANDE-MAGON (Erasme-Charles-Auguste), 49歳。貿易商。サン・マロPort-Malo生。
(エラーム・シャルル・オーギュスト・マゴン・ド・ラ・ランド Erasme Charles Auguste MAGON de La LANDE 1745-94 元帥法廷代理官、貿易商。2338の従甥。
父親はブルターニュ総財務官、長官Nicolas Auguste MAGON de La LANDE 1715-93。母親は野戦総監でロレーヌ公侍従官Comte de Marainvilleの娘Charlotte Elisabeth
LOCQUET de GRANVILLE 1720-48。553のMarie-Jean Herault de Sechellesは姉Marguerite Marie MAGON de LA LANDE 1742-95 とJean-Baptiste Martin HERAULT
de SECHELLES 1737-59 の息子なので甥に当たる。ちなみに姉の夫Jean-Baptisteはミンデンの戦で戦死した大佐だが、実は上官コンタード元帥の実子で、元帥の37年頃
からの愛人マリー・エレーヌ・モロー・ド・セシェル{パリ警視総監エローの二番目の妻}との間の子だった。この元帥の正式の妻はこの人の伯母Nicole Francoise MAGON de
LA LANDE 1710生 という複雑な関係である。この伯母とコンタード元帥の適男である Georges Gaspard Francois Auguste Jean Baptiste de CONTADES 1726-94 は中将
だったが、ヴァンデの戦いで王党派として戦死している。父親の元帥は95年に90歳で他界し、その愛人マリー・エレーヌは98年に83歳で亡くなっている。
この人は1772年 Francoise Jeanne Julienne du FRESNE de PONTBRIAND 1753-1832 と結婚し、六女ニ男を得て、末子Arsene MAGON de LA LANDE 1784-1833 の次女
は20世紀に至っている。長女Elisabeth 1773-1806 は Vicomte de Saint Pern,Marie Joseph Therese 1770-1825 と結婚したが、この夫は2325の姉マリー・ポーリーヌの夫
の弟である。またこの子爵のサン・ペルン家と2337が結婚したサン・ペルン侯爵とは近い関係ではなく、五世代前のRene II de SAINT-PERN 1595-1655 の子供から枝分
かれした同系別家。枝分かれの時点では侯爵の家系が兄で、子爵の家系は弟である)

甥・Marie-Jean Herault de Sechelles  

2334. フロリド・ラロック LAROQUE (Floride), 33歳。カンペルQuimper生。
(フルリド・ジョゼフ・ド・ラ・ロック・トレマリア Floride Josephe de La Roque Tremaria 1759-94 30歳ともあるが6月20日生まれだから35歳。独身女性で職業なしとある。元貴族とあり。
後者、266の姉、267の妹。
de La Roque de Tremariaとする系図もある。
父親はJean Baptiste Francois de La Roque Tremaria 1725-1803。母親はQuimper市長で民兵大佐の娘Marie Francoise Corentine Huchet de Kerourein{Kerourainとも} 1723-71。
この母の父のカンペル市長任期は1732-34と1742-47。五男五女の四女。
長兄Alexandre Marie 1751-93は医学博士で267。長姉Jeanne Marie Therese 1752-1831は改革派ベネディクト会Calvairienneの修道女。次兄Guillaume Francois 1754-1817は1791年
から1808年迄Chateaulinの市長{1791〜94、1800〜1808とも}。Kergoatのノートルダム聖堂に墓がある。1784年と96年に二度結婚し、計三男四女をもうけている。兄Felix Marie
1756生 はカプチン修道僧。姉Marie Therese 1758-83はカンペルに生まれ同地で24歳で没している。「兄弟の医師が看取る」とあるので267だろう。弟Victor Hyacinthe 1760-94は
海軍大佐で266。妹Marie Francoise Marguerite 1762-94は後者。他は夭折。系図にはChateaulin市長になった次兄以外一律に結婚記録がない。両親とこの次兄だけの系図もある。
266、267ら兄弟もヴァンデのハートの徽章を着けており、共和国の外部の敵と共謀し有罪・処刑となっている)

2335. フランソワーズ・ラロック LAROQUE (Francoise), 33歳。カンペル生。
(マリー・フランソワーズ・マルグリット・ド・ラ・ロック・トレマリア Marie Francoise Marguerite de La Roque Tremaria 1762-94 30歳ともあり。62年のこの日{7月19日}に洗礼を受けている
ので、少なくとも32歳。独身女性で職業なしとある。前者、266、267らの妹。元貴族とあり。
de La Roque de Tremariaとする系図もある。
父親はJean Baptiste Francois de La Roque Tremaria 1725-1803。母親はQuimper市長で民兵大佐の娘Marie Francoise Corentine Huchet de Kerourein{Kerourainとも} 1723-71。
この母の父のカンペル市長任期は1732-34と1742-47。五男五女の五女。
長兄Alexandre Marie 1751-93は医学博士で267。長姉Jeanne Marie Therese 1752-1831は改革派ベネディクト会Calvairienneの修道女。次兄Guillaume Francois 1754-1817は1791年
から1808年迄Chateaulinの市長{1791〜94、1800〜1808とも}。Kergoatのノートルダム聖堂に墓がある。1784年と96年に二度結婚し、計三男四女をもうけている。兄Felix Marie 1756生
はカプチン修道僧。姉Marie Therese 1758-83はカンペルに生まれ同地で24歳で没している。「兄弟の医師が看取る」とあるので長兄の267だろう。姉Floride Josephe 1759-94は前者。
兄Victor Hyacinthe 1760-93は海軍大佐で266。他は夭折。系図にはChateaulin市長になった次兄以外一律に結婚記録がない。両親とこの次兄だけの系図もある。
266、267の兄らもヴァンデのハートの徽章を着けていて共和国の外部の敵と共謀し有罪・処刑されている)

2336. シャルル・アドリアン・ルグリ LEGRIS (Charles-Adrien), 32歳。法律家。パリ生。
(亡命者Havreの元執事で革命裁判所の書記官。王妹エリザベトの裁判、つまり94年5月頃の裁判記録はこの人が行っており、多くの記録が残っている。執事をしていたのが、
HavreとかDuc d'Avrayとかあるが、いずれにせよ未詳)

2337. フランソワーズ・マリー・ジャンヌ・マゴン MAGON (Francoise-Marie-Jeanne), サン・ペルンSaint-Pern妻。48歳。カディスCadix生。
(サン・ペルン侯爵夫人フランソワーズ・マリー・ジャンヌ・マゴン・ド・ラ・バリュー Marquise de Saint-Pern,Francoise Marie Jeanne Magon de La Balue 1746-1794 後者の娘。
2345、2346の母。夫はMarquis de Saint-Pern,Bertrand Auguste de Saint-Pern 1742-1812で亡命している。娘Anne Laurence Marie Celesteの夫は2325。また夫の妹{義妹}
Anne Felicite de SAINT PERN 1764-1856は、この人の兄 Adrien Dominique MAGON de La BALUE 1741-1819と結婚している。夫の母親Marie Philippe de L'OLLIVIERは1557)

義妹・Anne Felicite de SAINT PERN  

2338. ジャン・バティスト・マゴン・ドラバリュ MAGON-DELABALU (Jean-Baptiste), 81歳。サン・マロPort-Malo生。
(ジャン・バティスト・マゴン・ド・ラ・バリュー Jean-Baptiste Magon de La Balue 1713-94  前者の父。後者の兄。18世紀後半のフランスの最も偉大な金融家の1人であり 、特にアル
トワ伯と 宮廷に近い多数の貴族の重要なフランスの銀行。Luc Magon de la Balue 1685-1750とHelene Poreeの息子 サンマロの船主の一族。
 7年戦争の時点で1758年の資金不足で、フランス政府は、ショワズールが宮廷銀行家に任命したJean-Joseph de Laborde{636}を介してスペインから莫大な借金をした。この時裕福な
船主であるマゴン・ド・ラ・バリューも代表者に加わり、じきこの人が宮廷の唯一の銀行家になる。 この人は自分の名前でヴァンドーム広場に銀行を開いた。彼は「ムッシュー・マゴン」と
呼ばれた。 パリの私邸は、 サン・マルク通り18 番地。
革命期、徴税請負人、アルトワ伯の資金提供者として、この人は当時「マゴンの陰謀」と呼ばれていたものに関与していると非難される。 一般安全委員会が1793年10月14日「反革命的
な目的で亡命者と共謀、彼らに資金を提供したこと、彼らの解放計画を支持したこと」を理由に逮捕・処刑。彼の家族も処刑、その莫大な財産も没収。
この人は1734年に Cadix で 総徴税請負人の娘Marie Jeanne Lefranc 1712-76 と結婚。
1785年にアン・フェリシテ・ド・サン=ペルンと結婚したパリの銀行家Adrien Dominique Magon de La Balue 1741-1819、 Bertrand Auguste de Saint-Pernの妻Francoise Marie Jeanne{前者}、
パリ会計院院長でアマチュア音楽家としても名高いJerome-Pelagie Masson de Meslay 1742-98 と結婚したLaurence Marie 1798没{この夫婦と25歳の息子はなぜか同年にみな死去}、
騎兵大尉となるRaphael Guillaume Francois Magon de La Balueが子供たちだった。2333は従弟の子、つまり従甥)

 Jean-Baptiste Magon de La Balue.......................................................................叔母・Comtesse de Carcado,Jeanne Magon 1686-1724   ......
祖父・Jean Magon de La Lande 1641-1709  娘婿・Jerome-Pelagie Masson de Meslay

2339. リュク・マゴン・ドラバリュ MAGON-DELABALU (Luc), 80歳。サン・マロPort-Malo生。
(リュク・マゴン・ド・ラ・ブリネイユ Luc Magon de La Blinaye 1715-94 船主、貿易商、奴隷商人。79歳で処刑。両親については前者説明参。前者の弟。
母親Helene Poreeの持参資産だった農地Blinaye、もしくはBlinaisの地名を名乗った。1733年から1750年迄はカディスの商人として、それ以降は兄のもと、
あるいはDinanの徴税請負人、元帥法廷代理官として活動。革命時はサン・マロの国民衛兵隊隊長だったが、イギリスとの通謀容疑で、部下だった2329
クリストフ・ガルディ共々カンカルで逮捕された。なんであれ、革命政府は莫大な資金を没収することに成功している。末弟の Francois Auguste MAGON
de TERLAYE 1724-77 は55年司祭となり、宣教師としてFrancois Picquetのフリゲート艦La Gloire号でカナダに渡り、イロコイ族の宣教を行い、ケベックで
病没している。この弟は資産家一族の一員としてかなりの寄付と貧しい人への支援金を施している)

弟・Francois-Auguste Magon de Terlaye  

2340. フランソワーズ・マレー MAREY (Francoise), 36歳。グランシャンGranchamp生。
(未亡人Varinの奉公人。 Voltechamp生まれとも。F.M.Mareyともある。またヴァラン未亡人とは2343のようだが、この未亡人は93年7月19日処刑とする
資料もある。確かに夫の高等法院評定官Francois VARINは71年死去しており、未亡人ではある。2342も未亡人Varinの奉公人)

2341. マリー・フロランス・アンジェリク・ジョゼフ・オリヴィエ OLIVIER (Marie-Florence-Angelique-Joseph), プレザンPlaisant妻。 33歳。ドゥエーDouai生。
(Saint-Maurille-sous-Pont-de-Ceの執達吏{huissier。女性だから管理人か?} Les Ponts-de-Ceの町はフランス革命まで州都に行政上結びついた町で、そこの
1860年に破壊された教会のあるSaint-Maurilleの小教区は、アンジュー地方の修道院に属していた。{Les Ponts-de-Ceは母后マリー・ド・メディシスとルイ13世の
戦いで有名} 2337の夫サン・ペルン侯の母親Marie Philippe de L'OLLIVIERとは関係ない模様。裁縫師ともある)

2342. アンヌ・ウーデ OUDET (Anne), 33歳。ロシュフォールRochefort生。
(未亡人Varinの奉公人。2340参照)

2343. マリー・フランソワーズ・ピュゼル PUZEL (Marie-Francoise), ヴァランVarin未亡人。59歳。ブザンソン生。
(ジャンヌ・マリー・フランソワーズ・ピュゼル・ド・ブールシエール Jeanne Marie Francoise PUSEL de BOURSIERES 1735-94
父親は高等法院評定官Jean Claude PUSEL 1687-1756。母親は高等法院弁護士の娘Jeanne Therese RAMASSON 1694-1774。1763年高等法院評定官
Francois VARIN 1720-71 と結婚し、二男一女をもうける。兄弟妹、皆成人し、長男はやはり評定官となっている。次男Desire Joseph VARIN d'AINVELLE
{Joseph Varin、Joseph Varin de Solemont、Joseph Desire Varin}1769-1850は、始め亡命軍士官として91年ブロイの部隊に入隊、ところが、ベルギーでブロイ
の弟の修道院長Charles de Broglieと会うや、イエズス会聖職者としての道に転換。以後、革命後のフランスの宗教界の指導者として歴史に名を残すまでになる。
尚、この人の処刑日は1793年7月19日とも94年7月29日ともあるが、この人の使用人である2340、フランソワーズ・マレーや2342、アンヌ・ウーデがこの日に処刑
されているから、94年7月19日が正しいと思われる。またブザンソンにはL'Hotel Pusel de Boursieresがあるが、これは1729年から1731年にかけて、高等法院評
定官であるジャン・クロード・ピュゼル・ド・ブールシエール{この人の父}のために、1729年5月にサン・ヴァンサン修道院のベネディクト会から購入した庭園の一部
に建てられ、18世紀半ばにヴァラン・ダンヴェル家が住んだもの。この人の兄弟姉妹は六男五女もいるが、この人は夭折も含め五女である。それでも婚資として
ヴァラン・ダンヴェル家にこのような建物が渡ったとするとPUSEL家の資産のほどがうかがえる)

次男・Joseph-Desire Varin  

2344. ピエール・ラティエヴィル RATIEVILLE (Pierre), 55歳。石鹸製造。ルーアン生。

2345. アメリー・ローランス・セレスト・サン・ペルン SAINT-PERN (Amelie-Laurence-Celeste), コルヌリエCornulier妻。21歳。レンヌ生。
( セレスト・アメリー・ローランス・マリー・ド・サン・ペルン Celeste Amelie Laurence Marie de Saint-Pern 1773-94{1858に改め} 2325の妻,1788年結婚。後者の姉。
2337の娘。1557の孫娘。この女性に関しては多くの資料で没年不詳になっている。1773-1858ともある。ともかく1858年没か没年不詳である。どこにもギロチン処刑
の明記がない。後者弟は93年と94年と交錯しているがギロチン処刑と明記されている。この時期の混乱する裁判所記録はあてにならない部分もあるので、また判明
したら追記とする。
⇒1858年1月28日、ナントにて84歳で没。夫の2325の申告によりこの妻の妊娠が確認され、94年7月17日の死刑判決後に執行が保留、その後テルミドールとなり、
この人は辛くも釈放されたようである。記録では、この人は89年の長男出産より、91年、92年、93年、94年とほぼ毎年出産しており、93年の娘は夭折で、この刑執
行保留となった妊娠の事実は、94年の子であると確認されそうだが、この時の出産は7月16日で、娘を生んだものの1日で夭折している。出産後は刑が執行される
ので、微妙なタイミングということになる。16日の出産が終了した翌日に上記の日付である7月17日の死刑判決となり、実際に執行される前にテルミドールとなった
のかも知れない。この場合、臨月だった女性が夫の申告の有無に関わらず、保健官が視認で判断出来たのではないかとも思う)

2346. ジャン・バティスト・マリー・ベルトラン・サン・ペルン SAINT-PERN (Jean-Baptiste-Marie-Bertrand), 17歳。レンヌ生。
( ジャン・バティスト・マリー・ベルトラン・ド・サン・ペルン Jean Baptiste Marie Bertrand de SAINT-PERN 1777-94  前者の弟。2338の孫。1557の孫。
この人の没年は93年処刑ともあるが、誤りだろう。父親はMarquis de Saint-Pern,Bertrand Auguste de SAINT-PERN 1742-1812。母親は2337。不在の父親の代わりに
母親共々処刑されたとある。父親は妻子と死別後の95年1月にはMarie Toussainte COSNIER 1764-1847 と再婚し、二男二女をもうけている。その長女Marie Desiree de
 SAINT-PERN 1803-70は1827年、従兄にあたるComte de Saint Pern,Bertrand Joseph Marie Cecile 1799-1847と結婚している。{父親Marquis de Saint-Pern,Bertrand
 Augusteは長男だが、五男である弟 Philippe Vincent 1753-1834の息子。またこの結婚は再婚で、伯爵は1820年に結婚したMarie Julie MAGON de SAINT-HELIERと26
年死別している})

2347. ピエール・ボナヴァンテュール・トリパール TRIPART (Pierre-Bonaventure), 37歳。臓物商人。オルサンOrsan生。

2348. ギョーム・ジョゼフ・エラーム・ヴァンカペル VANCAPELLE (Guillaume-Joseph-Erasme), 元司祭。
 (ギョーム・ジョゼフ・エラーム・ヴォーカペル Guillaume-Joseph-Erasme Vaucapelle ノールのレイドルゼルLeidrezelの元司祭。ロワドルゼルLoidrezel生まれとも。
 Releghem{ベルギーのレレゲムか}の元司祭ともある。42歳)

1794年7月20日

2349. マルグリット・ボーシェ BAUCHET (Marguerite), 60歳。商人。スナルSenal生。

2350. ルイーズ・アンジェル・ベルビス BERBIS (Louise-Angele), Duteuil妻。元貴族。25歳。オーソンヌAuxonne生。
(ルイーズ・アンジェル・ド・ベルビス Louise Angele de Berbis 1769頃-94 父親は歩兵大尉Louis BERBIS。母親はMarie Francoise de La LOGE de La FONTENELLE。
1785年砲兵将校Claude Jean Joseph Pierre du TEIL 1757-1822と結婚し、四男一女を残す。夫は革命時に大佐であった。91年亡命し、父親の又従兄弟であるBuffevent
野戦総監の将官補佐となり、亡命軍に入っていた。95年王党派蜂起の際はマルセイユにおり、サン・ジャン要塞に収監されていた革命派の虐殺を指揮したらしい。処刑され
た妻への復讐か?
この人は夫に合流する為の移動中にポンタリエ{恐らくスイスに向かっていたものと思われる。義弟のMarie Cesaire du TEILもスイスに亡命している}で逮捕され、この人の側
を離れることを拒否した女中{2363のCatherine ZOLLA}共々処刑された。夫のすぐ下の弟でアメリカ独立戦争にも従軍したサントンジュ連隊大尉Jean Michelは、91年に亡命
しコンデ軍に参加、93年にBerstheimの戦で未婚のまま戦死しているし、末弟 Alexandreも亡命してコンデ軍に加わっているので、夫の兄弟は皆、亡命して反革命戦争に身を
投じているようだ。{三男のJean-Augustinだけはロレーヌ歩兵連隊士官ではあったが、1788年に28歳で亡くなっている}
この94年に長男Pierre Parfaitを8歳で失っている。死亡地はオーソンヌとなっており、母親逮捕の前か後かは不明。⇒94年10月21日とある資料あり、処刑後となる。死亡地は
イゼールのPommier-de-Beaurepaire。恐らく、夫の一族の多くがイゼールの La Cote-Saint-Andreで生まれており、ポミエ・ド・ボールペールまでは11.9Kmである。この子供ら
は母親逮捕後は夫の実家の関係者に保護されていたのだろう。一族の所城にChateau de Pommier-de-Beaurepaireがあり、義父も義理の叔父等もこの城館で生まれている
ので間違いない。夫も引退後はこの城館で過ごしたらしい。彼はその城館と土地を売却している。
夫の父は Baron du Teil,Jean-Pierre du Teil 1722-94で、76年ラ・フェール連隊大佐、79年オーソンヌ砲兵隊司令、84年野戦総監、そして中将となり砲兵学校教官となった
人物で、あのナポレオンに砲術技能と自信を与えたオーソンヌ王立砲術学校の恩師である。{ナポレオンのオーソンヌ滞在期間は88年〜91年。この人も94年2月27日反革
命容疑でリヨンで処刑されてしまったが、それはギロチンではなく銃殺刑} ナポレオンはこの恩師への思いを終生忘れることなく、セント・ヘレナで男爵の息子か孫に10万
フランの寄贈を遺言している。それがこの夫かは不明。また男爵の弟{この人の義理の叔父}であるJean du Teil de Beaumont 1738-1820も砲兵中佐としてオーソンヌに赴任
しており、砲術理論家としてナポレオンを高く評価していた。{94年4月貴族身分ゆえに少将として引退。後に復帰し1813年退官}
夫は ブルターニュ歩兵連隊大尉の娘Louise Gabrielle Francoise Marie de LUZY de PELISSAC 1767-1837と再婚している。義弟Marie Cesaireはコンデ公の命令で何度か
国内に戻り、ヴィヴァレー山脈で作戦行動をした際に「兄の義兄弟であるM.de Berbis」他の数人の仲間と行動を共にしたと語っているが、記録にはないがこの人には兄弟が
いたものと推測できる。ディジョンには高等法院評定官Philibert Berbisの為に建てられたHotel de Berbisがある)

義父・Baron du Teil,Jean-Pierre du Teil   
義理の叔父・Jean du Teil de Beaumont

2351. アントワーヌ・カーズ CAZES (Antoine), 60歳。元市長。モントーMonteau生。
(バイイ裁判所判事、後に革命後にアリエージュAriege地区治安判事で市長)

2352. ベルナール・ダルディニャ DARDIGNA (Bernard), 63歳。元名士で市長にして議長。モントー生。
(元名士、元市長、元選出者、元モントー監視委員長)

2353. クローディーヌ・アナトール・デ DEZ (Claudine-Anatolie), 46歳。無職。サランSalins生。

2354. クロード・フリッサール FRISSARD (Claude), 31歳。ボタン屋。パリ生。

2355. フランソワ・ラルマン LALLEMAND (Francois), 23歳。大尉。ティニーTigny生。
(ヴォージュVosges第一大隊大尉)

2356. ジャン・フランソワ・リュリオン LURION (Jean-Francois), 52歳。ブザンソン生。
(ジャン・フランソワ・ド・リュリオン・ド・レグタイユ Jean Francois de LURION de l'EGOUTHAIL 1742-94 父親はJean Francois de LURION de l'EGOUTHAIL 1673-1757。
母親はAnne Francoise MAGNIN de LACHAPELLE。父親は軍事技術者で中尉で、1707-13年スペインでの戦争に従軍、17年に大尉、20年サン・ルイ騎士、22年ブルターニュ
の橋と道路の管理官をやった人。L'Esgouthail、Le Gouthail、Le Goutail、Legouthail、Legoutail、L'Egouthailの表記がある。70年Antoinette Denise MOURET de BARTHERANS
と結婚し、71年生まれのClaude Francoisをもうけ、以降今世紀に至っている。画像は玄孫になるLouis Claude Francois Marie de Lurion de l'Egouthail 1886-1914で対独戦で
中尉として戦死している)

玄孫・Louis Claude Francois Marie de Lurion de l'Egouthail  

2357. ピエール・アントワーヌ・ムゲ MUGUET (Pierre-Antoine), 36歳。綿製造業。リヨンCommune affranchie生。

2358. ピエール・ジャン・バティスト・ピヨ PILLOT (Pierre-Jean-Baptiste), 通称ヴィルマール Villemard。30歳。使用人。パリ生。
(鬘師ともある。通称ヴィルモールVillemordとも)

2359. バルテレミー・ピナール PINARD (Barthelemy), 70歳。貿易商店員。ディジョン生。
(亡命者との通信容疑により処刑)

2360. ジャン・フィリベール・モーリス・ルーセ・ブランシュタールROUSSET-BLANCHETARD (Jean-Philibert-Maurice) , 20歳。ショサンChossain生。
( ジャン・フィリベール・モーリス・ルクセル・ド・ブランシュランド Jean-Philibert-Maurice ROUXEL de BLANCHELANDE 1775-94 サント・ドミング総
督の父親、1793年4月15日処刑の 9.フィリベール・フランソワ・ルクセル・ブランシュランドの将官補佐官。ショーサンChaussin生まれとも。19歳ともあり。
母親の姓氏は不詳。父親は革命で植民地総督の任を解かれて帰国し、再びサント・ドミング総督として赴任する際に「家族と本国を離れたくない」と
希望したという。この人の兄弟姉妹の記録はない)

父・Vicomte de Blanchelande,Philippe Francois Rouxel de Blanchelande  

2361.フィリップ・ティセール TISSERE (Philippe), 43歳。国民衛兵大尉。モントー生。
(フィリップ・テセール Philippe Teyssereとも。元王弟親衛隊員、後にアリエージュのモントーの国民衛兵大尉)

2362. ジャン・アントワーヌ・ティゾ TISSOT (Jean-Antoine), 33歳。税関代理官。アリアンArien生。
(ジュラのアルマンAllemands宿駅の税関代理官。若い男性と女性の亡命を支援したとして処刑) 

2363. ジョゼフ・マリー・ヴォワザール VOIZARD (Joseph-Marie), 42歳。公証人。モントー生。
(公証人で後に自治体の革命検察官にして名士の選挙人notable et electeur)

2364. ジャン・バティスト・ヴイルマン VUILLEMAIN (Jean-Baptiste), 23歳。元聖職者。リヴェルノンLivernon生。
(ジャン・バティスト・ヴィルマン Jean-Baptiste Villemin 元聖職者。リエヴルモンLievremont生まれとも。この人も2362同様、若者と女性の亡命を
手助けしたとある。出生地の元司祭。父親がGermain VUILLEMINで息子がJean Baptiste VILLEMINという記録があるようにVUILLEMAINと
VILLEMAINも混同されているようだ)

2363. カトリーヌ・ゾラ ZOLLA (Catherine), 23歳。洗濯女。ヌーヴィルNeuville生。
(デュテイユ妻の侍女で洗濯女。デュテイユ妻は砲兵将校Claude Jean Joseph Pierre du TEILの妻で2350のLouise Angele de Berbis 1769頃-94のこと。夫人は
夫の元に合流すべく恐らくスイスへ移動中、ポンタリエで逮捕された。その際にこの侍女は夫人の側から離れることを拒み、夫人共々、同日に処刑されてしまった)

1794年7月21日

2366. ガスパール・ジョゼフ・アロイーズ・ジュビストロフト ALOYSE GEBISTROFTE (Gaspard-Joseph), 41歳・ルツェルンLucerne生。
(ガスパール・ジョゼフ・アロイーズ・ジェビストロフ Gaspard-Joseph-Aloys Gebistroffe  スイス、ルツェルン生まれ。亡命者ド・マリニー氏M. de Marignyの奉公人。
軍事輸送副官だったとある。亡命者De Marignyについては不詳。「故マリニー」ともあるので、この年の7月10日に同胞から銃殺刑に処せられ没したヴァンデの将
Gaspard de Bernard de Marignyか? しかし革命政府が捕らえて処刑したのならば死亡は周知されるだろうが、同胞に処刑された報が伝わるには早すぎる。マリニー
は92年にレスキュールとその両親と一時亡命している。また Marie-Francoise TULLIER DE MARIGNYという女性{寡婦。国王評定官PREVILLE未亡人}も亡命して
いる。特定はできない。バス・ノルマンディー、マンシュにMarignyという土地があるので、そこの土地関係者かも知れない)

2367. ジャンヌ・カトリーヌ・ベロヴィル BEROVILLE (Jeanne-Catherine), ギシャール・モーディトリGuichard-Mauditry妻。元貴族。45歳。サン・タンドレSaint-Andre生。
(ベローヴィルBerouvilleとも。原本はベロヴィルBerovilleで、夫名はGuichard-Manditryにも見える。 St Andre de Valogne生まれ。いずれにしても該当なし。
⇒ベローヴィルBerauville家は現在は断絶しているが貴族家系。18世紀にSaint-Andre-du-Valjouais{クータンス地区でギシャール家が子爵をしているガヴレーの近村}
を領有している。1470年に買取によりクータンス子爵を授爵した。1715年小厩舎小姓Thomas Dominique de Berauville 1696生 の貴族証明はルイ・ピエール・ドジエに
より成された。他は16世紀の一族の記録とかで、この人についての言及はない。夫は2382と思われる。2377. ジャン・バティスト・二コラ・ギシャールはガヴレー子爵)

2368. フランソワ・ブランダン BLANDIN (Francois), 43歳。ハンカチ製造。ショレCholet生。

2369. ピエール・アンヌ・ブーディエ BOUDIER (Pierre-Anne), 31歳。元検察官。ガヴェルニーGaverny生。
(商人。元ガヴェルニー{マンシュ}小郡検察官) 

2370. ジャン・バティスト・イアサント・デジレ・コテル・ドートルソール COTTEL DAUTRESOUL (Jean-Baptiste-Hyacinthe-Desire),32歳。砲兵士官。クータンス生。
(ジャン・バティスト・イアサント・デジレ・コテル・ドートルソール Jean-Baptiste-Hyacinthe-Desire Cottel d'Autresoul 第7砲兵隊元士官。
 Cimetiere de Picpusの埋葬者名簿にはJean Baptiste Hyacinthe Desire COSTEL d'AUTRESOULがある。Cottelle d'Autresoulとの表記もあるが、いずれにしても、
処刑リストや埋葬リストとして以外に記録が出てこない)

2371. ジャン・ジャック・クーイヤール COUILLARD (Jean-Jacques), 23歳。奉公人。ヴェールVers生。
(ジャン・ジャック・ジェルヴェ・クーイヤール Jean-Jacques-Gervais Couillardともあり)

2372. ルイ・レオナール・キュシー CUSSY (Louis-Leonard), 23歳。クータンス生。
(ルイ・レオノール・ド・キュシー Louis Leonor de CUSSY 1770-94 フランス衛兵隊中尉。後者の甥。Louis Laurentともあるが間違いだろう。
父親はMarquis de Jucoville,Louis Francois de CUSSY 1735-1802。母親はAmbroisine Eleonore de LA HOUSSAYE D'OURVILLE 1740-81。
兄弟がみな亡命していたので、処刑された。兄Marie Leonor Louis Ambroise de CUSSY 1766-1837はナポレオン宮廷の長官となり、マリー・ルイーズ妃の侍従官となる。
また「世の中に良い料理がなくなると、文学も、高度で鋭い知性も、友好的な集まりも、社会的調和もなくなる」と名言を残した美食家でもあった。その娘{この人の姪}は
Marie Ambroisine de CUSSY 1817-70は劇作家Henri Hippolyte Potierの妻となるが、歌手、女優としてパリの国立劇場の数々で喝采された女性)

兄・Marquis de Cussy,Marie Leonor Louis Ambroise  姪・Marie Ambroisine de Cussy  

2373. マリー・ルイ・レオナール・キュシー CUSSY (Marie-Louis-Leonard), 58歳。元助祭長。クータンス生。
(マリー・ルイ・レオノール・ド・キュシー Marie Louis Leonor de CUSSY 1736-94 元貴族でクータンス司教総代理。聖職者。前者の叔父。
父親は1722年小厩舎小姓だったMarquis de Mandeville後にMarquis de Jucoville,Jacques de CUSSY。母親はFrancoise de LA BAZONNIERE。
兄で長子のLouis Francois 1735-1802は前者の父。1760年結婚し前者を含む五男を残している。弟Francois Leonor 1738-74は士官だったが35歳で没している。
弟Gabriel Francois 1749-94は王妃小姓、士官だったが、没年月日は94年11月15日である。他に3人の兄弟がいたようだが夭折か詳細がない。
 革命の初期、大変な人気ある聖職者で、クータンス市長にもなった。しかし宣誓司教であるBecherelの受け入れを拒否し91年辞任。その為に逮捕、
そして処刑された。180のジロンド議員Gabriel de Cussyもノルマンディー{こちらはカーン}だが、関係未詳。
この人が女性のMarie Louise Eleonore de CUSSY 1736-94と女性になっている系図もある)

2374. アドリアン・ジャン・二コラ・ドラマール DELAMARRE (Adrien-Jean-Nicolas), 通称ピエモンPiemont。32歳。元裁判官。クータンス生。
(元クータンスバイイ裁判所尋問委員会判事juge commissaire enqueteur au baillage de Coutances。クータンス地区訴追官。通称はプレモン Plemontとも。
またブリニュヴィルBrigneville生まれとも。⇒プレモンPLEMONTが正しい。
⇒Adrien Nicolas Jean de La MARE, sieur de Plemon クータンス・バイイ裁判所管轄の国王評定官でパリにてギロチン刑とある。妻はFrancoise Pauline
Brohon 1771-1846。Brohon家のWiKiに記述あり。妻は La Neuville領主Paul-Anne-Francois Brohonの三女だった。Brohon家はCoudevilleに14世紀終わり
頃より確認できるブルジョワ起源の一族。
⇒Adrien Nicolas Jean de LA MARE de PLEMONT 1762-94  コタンタン{ Cotentinとある}・バイイ裁判所管轄の国王評定官。父親はNicolas Francois de
La MARE 1712-61、母親はCharlotte Le GRAVEREND 1728生。Francoise Pauline BROHON de La NEUVILLE 1771-1846と結婚し、92年生まれと93年生ま
れの二男を残す。共に成人し子供ももうけている)

2373. ジュリアン・フランソワ・レオナール・ドモン DEMONTS (Julien-Francois-Leonard), 34歳。元教会参事会員。カランティイーCarantilly生。
(元貴族で、元クータンス大聖堂の教会参事会会員)

2376. ルイ・ジャン・ドルム DREME (Louis-Jean), 26歳。数学教授。サン・ピエール・ノガレSaint-Pierre-Nogaret生。
(Louis-Jean-Alexandre DresmeまたはDreme 元貴族で数学教授で橋と馬車道を整備した。Louis-Jean-Alexandre DREMEだと「元暴君の近衛兵」がいる。
⇒ ルイ・ジャン・アレクサンドル・ド・ドレーム Louis Jean Alexandre de DREME 1764-94 数学教授。亡命しているかの居住地の証明が問題となり、逮捕
された模様。Marie Jeanne Catherine Gabrielle de RAYMOND de LAGRANGEと結婚している。Notre-Dame de Marmandeの教区記録に「1790年4月26日」
としてこの二人の結婚記録がある。Jeanne Marie Catherine Gabrielle REMOND de LAGRANGEとして。この妻の父親は系図では騎兵士官Philippe
Joseph de RAYMOND de LAGRANGE 1723生。教区記録では父親名は合っているが、母親名は系図はMarie Marthe de CLARIS、教区記録はMarie Marthe
 de CLAVISとなっている。また系図ではこの人の両親名は記されていないが、教区記録では父親名はArnaud Bernard de DREME、母親名はMarie-Helene
 CHEVALIER DESCAGEとなっている)

2377. ジャン・バティスト・二コラ・ギシャール GUICHARD (Jean-Baptiste-Nicolas), 62歳。海軍管理官補佐。ヴェールVers生。
(ガヴレー子爵ジャン・ジャック・二コラ・ギシャール Vicomte de Gavrey,Jean-Jacques-Nicolas Guichard 別資料でもJ. J. N. GUICHARDとなっている。
 ガヴレー助任司祭vicaire de Givrayとあるが、上記の子爵Vicomteは誤記か? しかしガヴレー市の歴史によれば、「ガヴレー子爵として17世紀から18世紀には
下記の人々が見られる」として、Louis-Charles-Jean Guichard{ガヴレーの警察長官}、Jacques Guichard{国王顧問官}、Jean-Jacques-Nicolas Guichard{ノル
マンディー高等法院弁護士で国王顧問官}が記されている。93年ガヴレー市長になったとも。{1789年より始まる市長一覧にはなし。91年〜94年迄の同地市長職
はJacques DURVILLE}
ガヴレーは11世紀ノルマンディー公国時代に子爵領として設置されている。クータンス地区。89年の三部会ではガヴレーの代表としてVicomte de Gavray,Jean-
Jacques-Nicolas GUISCHARDと三人の弁護士、Jacques Michel Jean LE CERVOISIER、Jean-Richard LE TENNEUR、Charles-Francois-Alexis LE MAITRE DE
LA MORTIERESが選出されたとある)

2378. マリー・シャルロット・ルイーズ・エリザベト・エベール HEBERT (Marie-Charlotte-Louise-Elisabeth), カドCadotの離婚した妻。38歳。サヴィニーSavigny生。
(マリー・シャルロット・ルイーズ・エリザベト・エベール・ド・ラ・メヤルディエール Marie-Charlotte-Louise-Elisabeth Hebert de La Maillardiere 1756-94
父親は中佐Jean-Baptiste Hebert de La Maillardiere 1705-59。母親はDame de Savigny,Marie Helene Eleonore Le Normand de Villers 1720-84。1775年セブヴィル
伯爵ギョーム・カド・ド・セブヴィル Comte de Sebeville, Guillaume Kadot de Sebeville{Guillaume Remy Charles CADOT de SEBEVILLEとも}1749-1823と結婚し、夭折
含め五女六男をもうける。夫は85年ブルボン竜騎兵大尉、89年のクータンス地区貴族議員。本家が断絶し、Kadot{もしくはCadot}の家門を継承したとある。この夫は
亡命しているが1823年にサヴィニー{妻のこの人の母親からの資産}で死去しているから、離婚は亡命者の身内であることを断つためのものか? 1812-23サヴィニーの
市長までやっている。11名の子供たちの内夭折は一名のみで他は成人している。没年不詳の四男と六男は共にスペインでの戦役で皇帝軍士官として戦死しているようだ)

 Marie-Charlotte-Louise-Elisabeth Hebert de La Maillardiere   ...............................................................................................................................................夫・Comte de Sebeville, Guillaume Kadot de Sebeville 

2379. ジャン・二コラ・ユエル HUEL (Jean-Nicolas), 36歳。大尉。アクトヴィルActeville生。
(ジャン・二コラ・ジュエル 通称ボヌフェBonufe、 Jean-Nicolas Juhel 元暴君の聖霊騎士でアルトワ竜騎兵大尉。Eteville生まれとも。クータンス居住。
没年が1761年以前のボワズゼーBoisuzey (Boisuze,Boissuze)領主二コラ・ジュエルNicolas JUHEL、アンクトヴィルAncteville生まれがいる。この人は娘のみで家名継承者がいない。
別名Nicolas JUHEL-BOISZUZEとも呼ばれている。系図ではSuzanne Renee JUHEL 1739頃-1808という一人娘が61年にクータン教区St-NicolasでJean Nicolas Le SAUVAGE de
VAUFEVRIERという人物と結婚している)

2380. アンリ・ルフォレスティエ LEFORESTIER (Henry), 30歳。元ヴェール Vers市長。モビックMobick生。
(Henri LEFORESTIER 1743-94 ノルマンディー・マンシュのMobecq生まれで当地の領主。ラ・クーロンヌ連隊士官。{歩兵少尉とも} 元貴族でヴェール市長、90年選挙人electeur。
父親は士爵Pierre Aubin LEFORESTIER 1711-77。母親はMarie Madeleine Bernarde LECOINTE 1723-63。四男三女の長男。
1769年Dame de Ver,Marie Gabrielle Victoire de GASCOING 1749-1809と結婚し、五男三女をもうけた。長男はBaron de Valendry、四男はComte de Mobecqとなっている。
ルフォレスティエ{ル・フォレスティエ}家は、英王ヘンリー1世の娘マティルドと共に12世紀にフランス・ノルマンディーに渡った一族が起源。バス・ノルマンディーに定着しOsseville, Vendeuvre, 
Mobecq, Periers, Saint Patrice, Hugueville等の分家を形成していった。1739年の結婚によりOssevilleとVendeuvreの古い家系はVendeuvreに統合されたとあるので、それが本家筋なのだろう)

2381. シャルル・レスコーデイ L'ESCAUDEY (Charles), 44歳。元訴追官。クータンス生。
(シャルル・レスキャンデイ Charles Lescandeyともある。Briqueville生まれとも。 クータンスのバイイ裁判所検事代理で同町裁判所の訴追官。
但し別人だが、Louis Charles Guillaume LESCAUDEY 1747-1804はクータンスの4〜5キロのところの Saint-Sauveur-Lendelinのバイイ裁判所捜査官・審査官で民事代官だった人がいる。
生まれは Saint-Sauveur-Lendelinの近くPeriersである。従って、LESCAUDEYが正しいと思われる)

2382. ジャン・フランソワ・ギシャール・モーディトリ MAUDITRY (Jean-Francois-Guichard), 34歳。(⇒54歳) 農民。ヴェールVers生。
(ジャン・フランソワ・ギシャール・モーディトリ Jean-Francois Guichard-Mauditry 54歳、元貴族、農民であると主張した。2367. ジャンヌ・カトリーヌ・ベロヴィルの夫と思われる。
2377. ジャン・バティスト・二コラ・ギシャールはガヴレー子爵)

2383. ピエール・モードゥイ MAUDUIT (Pierre), 42歳。海軍行政副官。ノジャン・ル・ロトルーNogent-le-Rotrou生。

2384. ジャン・バティスト・メジエール MEZIERES (Jean-Baptiste), 42歳。鍵屋。パリ生。
(鍵屋で第14猟騎兵として仕えていた)

2385. シャルル・プラトル 通称ベルクールBellecourt、PLATRE (Charles), 34歳。カペの娘の美容師。軍輸送隊に仕えた。ラウーLaheux生。
(シャルル・プラトレ Charles Platreとも。1760-94  Mme Elisabeth{王妹エリザベト}の美容師ともある。fille de Louis XVI {ルイ16世の娘}の美容師ともある)

2386. ピエール・ポティニー POTIGNY (Pierre), 34歳。クータンス生。
(ピエール・ポティニー・ラメー、もしくはラメー Pierre Potigny-Lamey ou Lamey。またはポティエ・ラメー POTIER-LAMEYとなっている資料もある。クータンス周辺の蜂起で、一派が「Carabo!」
と叫ぶことからCarabo派と呼ばれたものの首謀者の一人とされている。Potigny姓はバス・ノルマンディーのマンシュ近辺には多く、同時代のPierre Potignyは幾人も散見されるが特定できない)

2387. ジャン・バティスト・シャルル・ルヌー RENOU (Jean-Baptiste-Charles), 26歳。元助任司祭。ボンヌヴァルBonneval生。
(Jean-Baptiste-Charles Renou 1766-94 Prouvis小郡の元助任司祭で後に印刷屋としてパリに居住。91年の宣誓を拒否し、その熱意のために故郷を離れた若い聖職者。
⇒Jean Baptiste Charles RENOU 1765-94 28歳 シャルトル司教管区Prouvisの助任司祭 父親はボンヌヴァルの学校長でラテン語教師Charles Louis Eustache RENOU
1739-81。母親はMarie Francoise ISAMBERT。三女二男の長男だが、姉のMarie Louise Elisabeth以外は夭折している。{この姉は63年に生まれ、97年にLouis Rene HUNAULT
と結婚し一女をもうけている。没年不詳})

2388. フランソワ・ロベール・レピジョン ROBERT L'EPIJON (Francois), 66歳。アヴランシュAvranches生。
(Francois-Robert Lepijon、Francois Robert-LepijonまたはFrancois ROBERT-LEPIJOU 元クータンス選出者名誉議長。革命理念の受け入れは良心が許さなかったと発言した)

2389. ピエール・フランソワ・カジミール・ソラン SORIN (Pierre-Francois-Casimir), 43歳。元貴族。クータンス生。
(ピエール・フランソワ・カジミール・ソラン・ド・レペッス Pierre Francois Casimir SORIN de LESPESSE 1749-94 歩兵士官、士爵、 l'Epesse領主。父親はJean Francois,sieur de l'Epesse SORIN
1718-69。Marie Madeleine MICHEL d'ANNOVILLE 1715-78。二男一女の次男だが長兄 Leonor Marie Charles SORIN 1745-1825はSaint Pairの修道院長で Granvillの司教と聖職者になっている。
{姉のMarie Charlotte Catherineは 1747-1822は68年ポワトゥー連隊大尉でYberville領主の貴族Jacques Francois Antoine Le FORESTIER 1721-81と結婚し、Adelaide Francoise Le FORESTIER
1768-94をもうけたが、この娘は93年にJustin Robert Marie LOUVEL de CONTRIERESと結婚するも翌年であるこの94年8月3日にHeugueville-sur-Sienneで死亡している。詳細は不明。2380の
Henri LEFORESTIERで記したルフォルスティエ家の分家の通り、死亡地からしてこの娘の父親、つまりこの人の義兄Jacques Francois Antoine Le FORESTIERは少し綴りが異なるがHeugueville
Hugueville]分家の出身と思われる。テルール崩壊後の8月に93年人口調査で688人の人口だったHeugueville-sur-Sienneで処刑とは考えられないので病没だろう} 
この人は1786年Marquis de CALIGNYの娘Adrienne Henriette Auguste HUE de CALIGNYと結婚し、やはり軍人となる Adrien Bon Charles Casimir SORIN 1788-1857を残した。ちなみに、この妻の祖父
Louis-Rolland Hue de Caligny 1677-1748は高名な軍事技術者で1743年工兵司令官になっている)

義理の祖父・Louis-Rolland Hue de Caligny  

2390. シャルル・アントワーヌ・タンクリー TANQUERY (Charles- Antoine), 51歳。農業。(⇒元貴族。竜騎兵大尉) クータンス生。
(シャルル・アントワーヌ・タンクレー・ド・ディヤンヴィル Charles Antoine Tanqueray d'HYENVILLE 1743-94 王妃竜騎兵連隊大尉 
父親はLouis Antoine TANQUERAY d'HYENVILLE 1712生。父親は1757年Hyenville領主となり、59年に貴族に列せられた。母親はクータンス裁判所評定官の娘Marguerite Genevieve Le COURTOIS
 1743没。父親は死別後に二度再婚している。二度目の妻の間にMarie Rosalie Leonore 1747生、という腹違いの妹がいて、この妹は64年Luc Francois,sieur de Vallesfleurs Le BOUCHERと結婚して
いる。
この人は近衛銃士第一中隊司令で騎兵大佐Jean Estienne PIOCHARD de La BRUSLERIE 1696-1766の娘Louise Julie PIOCHARD de La BRUSLERIE 1747-1829と結婚{この妻は66年騎兵中佐
Jean Louis Antoine de SEGENTと結婚し69年死別している}、二女をもうけた。長女Marie Louise Charlotte TANQUERAY 1780-1866は86歳まで生きた。{但し結婚してもうけた男子二人は20代、30代
に早世。事情は未詳だが、この二人の息子は1837年別々の場所で亡くなっている。兄のAdolphe L'HEUREは1月20日にパリのモンマルトルで死去し、同地に埋葬、33歳。弟の Charles Louis L'HEURE
は同年10月7日ルーアン近くのChateau de Boisnormandで亡くなり同地に埋葬、27歳。翌年9月12日に兄のアドルフ、同年同月22日に弟シャルル・ルイの遺体をそれぞれ掘り出し、母親の生誕地 
Hyenvilleに同年9月22日に二人の遺骸を再埋葬している。母親もまた66年の9月17日に同じ墓地に眠った。また弟のシャルル・ルイは死亡する半年前の37年4月に Elisabeth Florimonde NICOT de La 
SERREという20歳の女性と結婚しているようだ。いずれにしても、なんとも不幸な出来事の連鎖である。[兄をAugustin Charles Adolphe L'HEURE de CAMBERNON 1804頃-37、弟をLouis L'HEURE de 
CAMBERNON 1806-37としている資料もある]})

1794年7月22日

2391. ジャン・ピエール・ベルジェ・デ・バール BERGER DES BARRES (Jean-Pierre), 55歳。元農民。ヌヴェールNevers生。
(元公文書検査官とある。1767年高等法院の弁護士になったJean Pierre BERGER des BARRESがいる。それ以外の情報はない人物であるが、この人物が洗礼の名付け親になっている恐らく親戚筋の
Georges Jean Pierre BERGER DU BOUCHAT 1767-1844は同じヌヴェールNevers生まれで、76年から82年迄エフィアEffiatの王立士官学校に在籍し、鉄工所と製鉄所の所有者となった人物。名付け親
になっているもう一人の子供はその姉のCatherine BERGER du BOUCHAT 1766生 で、やはりヌヴェールNevers生まれ。両者の親は94年タバコ公社の管理官になったPhilibert BERGER du BOUCHAT
 1734-1805である)

2392. シャルロット・ボワジョー BOIJAU (Charlotte), アミラルAmiral妻。72歳。ヌヴェール生。
(シャルロット・ボワイヨー Charlotte Boyauでシャルル・アミラルCharles Amiralの未亡人ともある。Caroline Boyauとも。無職)

2393. シモン・シャルル・ブータン BOUTIN (Simon-Charles), 74歳。オルレアン生。
(Simon Charles BOUTIN 1719-94 ルイ16世治下の海軍・植民地会計の総財務官。パリのティヴォリ遊園のもとになった jardin de Tivoli{イタリアのローマ近くのTivoliにあるVilla d'Esteを模倣}を造った人物
としても知られる。庭園は1766年、様々な植物、遺跡、滝、岩の岬等で飾られた庭園とクリシー通りに正面玄関があり、サン・ラザール通りに別の入り口が設けられた彼の邸宅と8ヘクタールの公園はパリ
の名物となっていた。
Simon Gabriel Boutinともある。1720年生まれとも。
父親はトゥールの総収税官 Simon BOUTIN 1681-1768。母親はMarie Magdeleine LE CLERC 1695頃-1774。弟と妹がいた。弟Charles, Robert BOUTIN de La Coulommiere 1722-1810は、ボルドー管区
長官で王室財務評議会評議員、国務顧問官となり、国務顧問官・財務監察官・シャトレ弁護士の娘 Jeanne Gabrielle Delphine Victoire Charlotte CHAUVELIN de BEAUSEJOUR 1738-1814と結婚した。そ
の長男のパリ高等法院評定官Claude Francois Parfait 1753-90が、あのルソーの恋人だったComtesse d'Houdetotの息子 Cesar Louis Marie Francois Angeとde La Roche du Ronzetの娘と結婚した
とする系図もあるが、de La Roche du RonzetはCesar Louis Marie Francois Angeの義母{確かに2歳年下の義母ではあるが}であり、夫Jean-Nicolas Cereとの娘Constance Josephineが、20歳年上の
Cesar Louis Marie Francois Angeと結婚しているのだ。このConstance Josephineの二つ上の姉Marie Henriette Cecile Cere 1767生 がこの人の弟の長男Claude Francois Parfaitと結婚した。整理すれば
この人の甥は、ルソーの恋人"Mimi"ことComtesse d'Houdetotの息子と義兄弟、ということになる。尚、Comtesse d'Houdetotの義兄の息子{義理の甥}Marquis d'Houdetotは2543。
妹Marie Charlotte Madeleine BOUTIN 1731-82は、1748年Vicomte de Montboissier, Charles Henri Philippe de MONTBOISSIER-BEAUFORT-CANILLAC 1719-51と結婚、一男をもうけている。
この人自身は独身であった。この人は93年1月にイギリスより帰国したところをカレーにて逮捕・拘留されたが、93年7月には釈放され資産も取り戻している。94年初頭に当時のリシュリュー通りの自宅で再
逮捕された。そしてコンシェルジュリーに収監。そして処刑された)

 Simon Charles Boutin .................................................................................................................................................................................................妹・Vicomtesse de Montboissier,Marie Charlotte Boutin

2394. ジャック・カイヨー CAILLAUX (Jacques), 41歳。代理人。サール・ラ・ブリュイエSarre-la-Bruyer生。
(J. CAILLAUT 通称デュザールDussardとも。ジャル・ラ・ブリュイエールJarre-la-Bruyere生まれとも。ペイルPeyre元野戦総監の使用人、ともある。このペイル野戦総監とは、恐らくガシオン元帥家系
最後のMarquis de Gassionである中将Jean IIIの娘Jeanne de GASSION 1710頃-67{男子継承者だった弟 Pierreは後継なく死去}の息子である,Jean-Louisde Moret de Grolee 1737
-1812のことだろう。この伯爵は野戦総監だった)

2393. クロード・フィリベール・カミュゼ CAMUSET (Claude-Philibert), 61歳。ヌヴェール生。
(クロード・フィリベール・カヌゼ Claude-Philibert Canuzetとも。 C. P.CAMBZETで60歳とも。元ヌヴェールバイイ裁判所判事)

2396. クロード・ローラン・シャンブリュン・デュゼルー CHAMBRUN DUSSELOUP (Claude-Laurent), 56歳。ヌヴェール生。
(クロード・ローラン・シャンブリュン・デクセルー・ド・ロズモン Claude Laurent CHAMBRUN d'UXELOUP de ROSEMONT 1738-94 評議員、ロレーヌ議会の国王顧問官。
父親はUxeloup領主Charles CHAMBRUN, 1753没。母親はClaude Laurence MOREAU。
62年Marie Madeleine Charlotte MICHEL 1747-95と結婚し、五男三女をもうけた。子供たちは亡命しており、残った息子である後者と処刑される。長男Piere Laurentの息子Arthurは
1910年に死んでいる。
Luthenay Uxeloup{古地図の表記はUxloup}の城の子供らの教師だった修道院長のFontblave師が主催した信者の真夜中のミサをウクセルー教会で行っていたようで、また子息らの
亡命の罪も加わり逮捕・処刑された。夫人もかなり熱心な信者であった。ヌヴェールからの処刑者20人の殆どはその集会の参加者だった。
Rosemont, Luthenay, La Vesvreの領主権と裁判権をClaude Francois de Chabannesから買っている。ニヴェルネ貴族議員でもある。
Claude-Laurent Chambrun d'Usseloup ヌヴェール会計院監査官で鉱山採掘業ともある資料あり)

2397. ピエール・シャンブリュン・デュゼルー CHAMBRUN DUSSELOUP (Pierre), 25歳。ヌヴェール生。
(ピエール・シャンブリュン・デクセルー・ド・ロズモン Pierre CHAMBRUN d'UXELOUP de ROSEMONT 生年不詳-1794 前者の三男。共に処刑。しかし、確かに三男に同名の子がおり、
1794年没とあるが、長男のPierre-Laurent CHAMBRUN d'UXELOUP de ROSEMONTは生年不詳で1873年没である。この三男が25歳で処刑されたとすると、1769年頃の生まれであり、
長男はそれよりも年長なのだから、104歳以上となってしまう。別の資料でも長男は没年不詳の1772年生まれともあり、計算が合わない。{この長男Piere Laurentは91年亡命し、中央軍
近衛部隊のノアイユ中隊に92年加わり、94年にはコンデの貴族猟騎兵連隊に参加、95年貴族騎兵第二連隊。1802年に帰国。騎兵中佐となる。1826年にMarie Louise Zoe de MULLOT
 de VILLENAUT 1802-73と結婚しているが54歳だ。また、別資料の1873年没はこの妻の没年との錯誤かも知れない} 前者{父}の処刑時に共にパリに同行させられた息子が一人いたとあ
るが、その息子自身は罪には問われなかったともある資料あり。また前者と長男と聖職者の叔父が連行されたともあり、長男は一時亡命していたが、1792年8月10日に不法に帰国して、
故郷に戻っていたところを通報されて逮捕された、ともある。しかし「長男」の亡命中の軍歴やその後の履歴からしておかしい。「長男」ではなくこの三男ピエールが、この記録の25歳が錯誤
で、その記述の通り亡命先から8月10日事件への参加か何かで帰国し、事件後に故郷に舞い戻ったところを逮捕されて処刑されたのか? やや、この辺りの記録は不確かである)

2398. カトリーヌ・フランソワーズ・シャルロット・コッセ・ブリサック COSSE-BRISSAC (Catherine-Francoise-Charlotte), ノアイユNoailles未亡人。70歳。パリ生。
(ノアイユ公爵夫人カトリーヌ・フランソワーズ・シャルロット・ド・コッセ・ブリサック Duchesse de Noailles,Catherine Francoise Charlotte de COSSE BRISSAC 1724-94
父親はDuc de Brissac,Charles Timoleon Louis de COSSE BRISSAC 1693-1732。母親はリヨンの大商人家系の訴願審査官Claude PECOIL 1626-1719の娘Catherine Madeleine PECOIL de
 La VILLEDIEU 1707-70。姉と妹がおり、姉のFrancoise JudithはMarquis de Charost,Armand Louis De Bethune 1711-35に嫁ぎ、妹Anne Francoise Judithは詳細不明。Brissac公位は、父親
の弟Jean Paul Timoleonに移り、その息子 Louis Hercule Timoleonがデュ・バリー夫人の晩年の恋人となった人物。
1737年4代目Duc de Noailles,Louis de NOAILLES 1713-93{母親はコンスタン・ドービニェの孫娘}と結婚、二男二女をもうけた。長男で5代目ノアイユ公となる Jean Paul 1739-1824は後者と結婚。
女子ばかり6人をもうけ、次女Adrienne de NOAILLES 1759-1807はラ・ファイエットの妻となる。公位は弟Emmanuel Marie Louisの息子に移った。夫ノアイユ公は1769の兄。この1769の息子と孫
娘2401が結婚している)

 Duchesse de Noailles,Catherine Francoise Charlotte de Cosse-Brissac...................................................................夫・Duc de Noailles,Louis de Noailles 
母方祖父・Claude PECOIL
2399. アンリエット・アンヌ・ルイーズ・ダゲッソー DAGUESSEAU (Henriette-Anne-Louise), ダイヤンDayen妻。57歳。パリ生。
(ダイヤン公爵夫人アンリエット・アンヌ・ルイーズ・ダゲッソー Duchesse d'Ayen,Henriette Anne Louise d'AGUESSEAU 1737-94 93年からノアイユ公夫人でもある。
父親は国務顧問官Jean-Baptiste Paulin d'AGUESSEAU 1701-84。母親はAnne Louise Francoise du PRE 1720-37。17歳の出産で母親は亡くなったのか、この人は
一人娘。大法官Henri Francois d'Aguesseauの孫娘で相続人。2401の母親。
1755年前者の長男であるDuc d'Ayen、5代目Duc de NoaillesであるJean Paul 1739-1824と結婚し、女ばかり6人の子をもうける。しかしこの人のみ出産し17歳で亡くな
った母親からこの人を通して17人の孫らが誕生し、ラ・ファイエット、ノアイユ、モンテーギュ、ルール、テザン、グラモンの各家の名のもとに19世紀のフランス社交界に
子孫らが生き続けた。この人はノアイユ館でサロンを開いていた。祖父の大法官を大変に好いており、亡くなった時には大変に悲しんだ。ノアイユ公との結婚は、ダゲ
ッソー大法官と共に閣議に加わっていた3代目Duc de Noailles,Adrien Maurice de Noaillesからの申し合わせだった。
次女Adrienne de NOAILLES 1759-1807はラ・ファイエットの妻となり、継承者をもうける。この人は娘アドリエンヌと若きラ・ファイエットの若さを心配して、求愛後も1年間、
2人を離して様子を見てから結婚させた。このアドリエンヌもテルール中は投獄されていたが、サロンで夫の関係者と親しくなっており、アメリカ建国の父モリスや後に
第5代アメリカ大統領となるモンロー夫妻らの働きで釈放に至っている。
夫の特赦に東奔西走したアドリエンヌは、妹のMme de Montagu{Marquis de MONTAGU, Anne Paule Dominique DE NOAILLES 1766-1839}と共に祖母、母親や妹2401
の埋葬されている場所の特定作業という厄介な調査に乗り出した。そしてMme de Montaguがある日、ブリサック家に30年仕えていた父親をもつレース女工のMlle Paris
と出会った。この女工はブリサック家の悲劇によって年金も断ち切られたが、弟が国民衛兵隊事務所の使用人をしていてその収入で生活を保てていた。だが、ある日、
この弟も父親も連行されて処刑された。彼女は処刑後の父弟の埋葬場所を確認する為に、遺体運搬車の跡をつけた。そこでピクピュス{当時の庶民にはこの埋葬場所
は伏せられていたらしい}を突き止めた、という話を聞きだした。しかし、すでにこの地は97年、2454ザルム・キンブルクの妹でボーアルネ子爵の愛人でもあった妹アメリー
に買い占められてしまっていた。彼女も思いは同じだったが、アドリエンヌと妹Mme de Montaguの申し出は断られ、2人は他の思いを同じくする人々と共に、1803年周辺
の土地や礼拝堂を共同で買い取り、共同墓地の隣に第二の墓地を建設し、犠牲者らを弔うことに成功した。Picpus Cemeteryの記念碑がそれである。アドリエンヌは長
い時間を礼拝堂で過ごし、犠牲者の冥福を祈ったという。彼女自身も、また夫もそこに埋葬されている。
2241のFrancois PARISは処刑当時28歳{22歳ともあり}でオーブ第二大隊司令部の使用人である。Mlle Parisの弟はこの人か? また「老人」と言われる年齢ではないが、
2135のAndre PARIS、47歳はブリサック公の馬丁でオーブ県出身でパリ在住、公爵とデュバリー夫人の通信役をしていたとの理由で処刑されているので、父親はこの人か?)

 Duchess d'Ayen,Henriette Anne Louise d'Aguesseau        .............................娘・Marquise de La Fayette,Marie Adrienne Francoise de Noailles
娘・Marquis de Montagu,Anne Paule Dominique de Noailles

2400. シャルル・ドフレル DEFLERS (Charles), 38歳。元将軍。パリ生。
( フレール子爵ルイ・シャルル・ド・ラ・モット・アンゴ Vicomte de Flers,Louis-Charles de La Motte-Ango 1754-94 40歳で処刑。
父親は騎兵将校でアランソン公領の狩狼指揮者、プロヴァンス伯狩猟管理者Comte de Flers,Ange Hyacinthe Ango de La Motte-Ango 1719-88。母親はBaronne des Reaux,
Magdeleine Charlotte CHERTEMPS de SEUIL 1722-75。兄と姉がおり、兄はComte de Flers,Pierre Francois de Paule 1747-1802で、77年Jacqueline Le GOUE de
RICHEMONTと結婚し、一子を残している。ヴァンデの乱に積極的に関わり、Chateau de Flersはフロッテ侯の本部にもなった。姉はAgathe 1750頃生で、1771年にMarquis de
 La Brisolliere,Louis Gabriel PITARDと結婚し二子をもうけている。
1786年Comte de Lattre de Neuvilleの娘Maximilienne Albertine Guillemine de LATRE de NEUVILLEと結婚。一男一女をもうけた。
騎兵連隊に若くして入り、革命後は革命理念を受け入れて91年に野戦総監となる。オランダでデュムーリエのもと従軍し重傷を負うも、回復後に師団司令官。92年のJemappes
の戦いでは左翼の予備軍指揮。93年東ピレネー軍の指揮をとり、8月セルダーニュのVillefranche-de-Conflentのスペイン軍に対する敗北の責任を問われて逮捕、処刑された)

祖母・Comtesse de Flers,Antoinette-Jordaine de Pelleve de Flers 1699-1738  

2401. アンヌ・ジャンヌ・バティスト・アドリエンヌ・ポーリーヌ・ルイーズ・カトリーヌ・ドミニク・ド・ノアイユ DE NOAILLES (Anne-Jeanne-Baptiste-Adrienne-Pauline-Louise-Catherine-Dominique),
ノアイユ妻。35歳。パリ生。
(ノアイユ子爵夫人アンヌ・ジャンヌ・バティスト・ポーリーヌ・アドリエンヌ・ルイーズ・カトリーヌ・ドミニク・ド・ノアイユVicomtesse de Noailles,Anne Jeanne Baptiste Pauline Adrienne Louise Catherine
Dominique de Noailles 1758-1794 Duc d'Ayen、5代目Duc de NoaillesであるJean Paul 1739-1824と2399Anne Louise d'AGUESSEAU 1737-94の娘。ラ・ファイエット侯夫人アドリエンヌやモンタギュ
侯夫人アンヌ・ポール・ドミニクの姉になる。Vicomte de Noailles,Louis Marc Antoine Marie DE NOAILLES 1756-1804と73年に結婚し、二男一女をもうける。子供らは皆、成人し結婚し子を残す。
夫は祖父Duc de Noailles,Louis de NOAILLESの弟で1769のDuc de Mouchy,Philippe de Noaillesと1749のClaude Louise d'Arpajonの次男で、兄に王政復古の後に政治家となるPrince de Poix,Louis-
Philippe-Marc-Antoine de Noailles 1752-1819がいる。
夫はフランス軍将校として軍歴を重ね、義理の兄弟であったラ・ファイエットと共に、アメリカ独立戦争にも参加し、ヨークタウンの戦いでの勝利に貢献。 帰国後は、1789年の三部会に議員として選出。
第一身分・第二身分と、第三身分の対立から、6月20日には球戯場の誓いを経て第三身分中心の国民議会が設立され、さらに7月14日にバスティーユ襲撃が発生すると、国民の不満を解消するため、
封建的特権の廃止を提唱した。これに大土地所有者であったエギヨン公爵が賛同したことで、その他の多くの貴族の同意を得ることに成功し、8月4日の宣言として封建的特権の廃止が宣言された。
ヴァレンヌ事件発生後、北部軍に配属となったが、兄弟らはすでに亡命貴族として国外に脱出しており、彼も1792年5月に、イギリスへ脱出し、さらにアメリカへと渡った。フランスに残された妻、母、祖母
は1794年7月22日に処刑されている。1802年にナポレオン体制となったフランスに戻ったのち、12月にはサン・ドマングの黒人反乱の鎮圧軍に参加した。1803年11月30日に、フランス軍は大敗するが、
彼は降伏を拒否し、夜陰を衝いてキューバに向けて港から脱出した。しかし、イギリス戦艦と遭遇し、1804年1月1日の洋上の戦闘の際に負った傷がもとで、そのまま死去した。{日本語WiKi編纂})

夫・Vicomte de Noailles,Louis Marc Antoine Marie de Noailles   
義兄・Prince de Poix,Louis-Philippe-Marc-Antoine de Noailles

2402. ジャック・セバスティアン・ルイ・デュボワ DUBOIS (Jacques-Sebastien-Louis), 38歳。ムーランMoulins生。
 (元ヌヴェール会計院院長。ベルナール・ポール・セバスティアン・デュボワというヌヴェール教区の助任司祭補佐がいる。またヌヴェール在住で同じくムーラン生まれのJ. J.DUBOIS{父}は
64歳で共謀者として同日である94年7月22日に処刑された、とあるが、こちらの記録にはなく、逆にその資料にはこの人の記録なく、関係も不明)

2403. ミシェル・デュビュイッソン DUBUISSON (Michel), 36歳。奉公人。パリ生。
(奉公人で、従軍食糧品商人だった。デュポンDupont妻の元奉公人ともある)

2404. フランソワ・デュヴァル DUVAL (Francois), 27歳。奉公人。バロムニーBaromeny生。
(モレMoleの元議長。また別資料では、F.DUVAL、同年齢、農夫、Maugis生まれが、この94年の一日違いの7月21日の処刑として記録されている)

2405. ジャン・バティスト・ピエール・エヴラ EVRA (Jean-Baptiste-Pierre), 40歳。ラ・シェウテLa Chaiute生。
( Jean-Baptiste-Pierre Evratsとも。元国家憲兵隊員gendarme national。La Charite-sur-Loire生まれとも。国家憲兵隊は革命前夜4,114名規模。革命後に解散されたが、91年に再組織
されていた。一万人以下の小郡を担当する一般警察業務に従事する意味では現在の警察組織に同じ)

2406 ルイーズ・ガスコワン GASCOING (Louise), ドラロシュ・リュピーDelaroche-Lupy妻。56歳。無職。ヌヴェール生。
(ルイーズ・ガスコワン・ド・ベルネ Louise GASCOING de BERNAY 1737-94  2414のLAROCHE-LUPYの妻。 Jean-Henry GASCOING de BERNAY 1694-1738とLouise ROBERT de
PESSELIERE 1789没 の娘。兄二人がおり、長兄Louis Edouard GASCOING de BERNAY 1721-90は、近衛銃士隊員で、45年Marie Anne PRISYE de BERNAY 1720生 と結婚。次兄に
ついては夭折か1722年生まれ以外の記録はない。
2414と1765年に結婚し一女 Louise Angelique de LAROCHE LUPY 1774-1859をもうけ、この娘は96年Comte de Charry,Louis Joseph Hugues Michel CHARRY de LURCY 1778-1859と
結婚し、一男一女をもうけている。
ガスコワン家は13世紀以前に紋章を持っていた大変に古い貴族家系であるが、長い内戦で様々な記録が喪失しており、18世紀前半期からの公証記録が散見されるのみらしい)

2407. アントワーヌ・ゴーティエ GAUTHIER (Antoine), 33歳。モンテーニュMontaigne生。
( Montaigu生まれとも。元暴君の事務官。Antoine Francois GAUTHIERという生没年不詳の人物が1783年にClauda{?} Antoinette MICHAUD 1759生 と結婚している記録はあるが、他の情
報はなし)

2408. ピエール・フランソワ・ゴッシス GOSSIX (Pierre-Francois), 40歳。元立憲議会議員?(ex-constituant) スーイエSouillier生。
(ピエール・フランソワ・ゴッサン Pierre Francois Gossin 1754-94 弁護士。1789年三部会第三身分議員。ラ・ムーズLa Meuse代表検事。
父親はGeorges Gossin 1722-1802。母親はMarie "Barbe" Bohin 1732-1804。九男一女の長男だった。すぐ下の弟Jean Baptiste Gossin 1754-1826 は聖職者で、アデライド王女のお付
司祭だった。それ以外の弟妹らは夭折・早世したようだ。弟の一人Jean Nicolas Gossin 1758-1787は Jeanne Mauclerと結婚はしているが、29歳で亡くなっている。
1787年Gabrielle Vayeur 1756-1829と結婚し、五男を残した。軍人になっている子らが多く四男もロシア遠征で亡くなっているが、次男Augustin "Jules" Gossin 1789-1855は、司法官となり
ブルボン家系の利益を保護する評議会の一員でもあり、またピクピュス墓地の委員会の創設者の一人でもあった。また多くの社会事業も手掛けている)

 Pierre Francois Gossin

2409. ジャック・ジョゼフ・アティ HATY (Jacques-Joseph), 56歳。公証人。グロソーGrosseu生。
(ジャック・ジョゼフ・アリー{父} Jacques-Joseph Haly, pere とも。元検事で公証人。ヌヴェールの役人。ジェルソンGerson生まれとも)

2410. イザベル・ルイーズ・ジュヴノ・トルネル JUVENOT-TRENELLE (Isabelle-Louise), ラシャトルLachatre未亡人。69歳。パリ生。
(Isabelle-Louise Juvenot de Traisnelとも。また元貴族の亡命者La Chatre未亡人のJosephine-Louise de Juvenot de Trenelleという記録も出てくる。
Vicomte de La Chatreは亡命し、コンデの旗下でボワトゥー歩兵連隊第4中隊大尉をしているが、生きているし妻の名も異なる。de La CHATRE-NANCAYも亡命してシャトル連隊を率いて
いるが、これも生きているし妻の名も違う。
Marquis de Trainel {ou Traisnel},Claude-Constant -Esprit Jouvenel des Ursins d'Harville 1723-94{10月6日病死}がいる。
⇒ イザベル・ルイーズ・ジューヴネル・デ・ジュルサン・ダルヴィル Isabelle-Louise JOUVENEL des URSINS d'HARVILLE 1725-94 44年Comte de Nancay, Marquis de La Chatre, Charles-Louis
 1724生 と結婚した。父親はオルレアン竜騎兵大佐Marquis de Trainel et de Doue,Esprit JOUVENEL des URSINS d'HARVILLE 1698-1726。母親はDame de Villers-au-Tertre,Madeleine Le
BLANC 1746没。早世含めて二人の兄と一人の姉がいた。兄Marquis de Trainel,Claude Esprit Constant JOUVENEL de HARVILLE des URSINS 1723-94{10月6日病死}は、中将で1744年マティニ
ョン侯爵・ガセ伯爵の娘Antoinette de GOUYON de MATIGNON 1725-70と結婚。ドーファン連隊大尉でフォントノワの戦、ミンデンの戦に参加。70年の妻の死で経済状況が悪化、73年に設立した
炭鉱採掘会社 Filles de Villers-au-Tertre協会{母親の資産だった土地}を設立し、これは後にAniche社となりフランスで最も大きな鉱山会社となっていく。92年に補佐官にしたクロード・コルビノーの
名付け親だったが、この人物はナポレオン時代の将軍となる若者だった。この兄はヴェルサイユで「麻痺死」で没した。四女一男をもうけたが、一男のComte d'Harville,Louis Auguste Jouvenel (ou
Juvenal) des Ursins 1749-1815は革命戦争をフランス軍人として生き抜き、後にナポレオン時代は政治家、ジョゼフィーヌ皇后の第一侍従、王政復古後も pair de Franceになっている。
この人は子供は三男一女で、長男Claude-Louis Raoul de La CHATRE-NANCAY 1745-1824は父の後継としてComte de Nancayとなり、三部会議員や立憲議会議員をし、後にイギリスに亡命し、
当地で教練したラ・シャトル連隊"Loyal-Emigrant"を率い、ナポレオン時代はプロヴァンス伯のロンドンでの常任代理人を経て、後に1814年王軍中将、同年大使、15年Pair de Franceそして
Duc de La CHATREとなった。尚、この長男は1778年ルイ15世主席従者の娘Marie-Charlotte BONTEMPS 1762-1848と結婚している。三男のLouis-Sylvestre de La CHATRE 1754-1829は
 Beauvais司教である。
尚、夫の妹Louise-Elisabeth-Charlotte de La CHATRE 1729生 嫁いだMarquis de Dreux-Breze, Michel de DREUX-BREZE 1700-54 は89年三部会の解散命令を告知し、ミラボーに「「我々は民衆の
意思によって此処に在る。銃剣を用いぬ限り我々を追い出すことは叶わぬ」と拒否された式部長官ドルー・ブレゼ侯{Marquis de Dreux-Breze,Henri-Evrard 1762-1829}の伯父。
また兄の娘 Marie Francoise Eleonore JOUVENEL de HARVILLE des URSINSが嫁いだVicomte de Rochambeau,Donatien-Marie-Joseph de Vimeur 1755-1813はロシャンボー将軍の息子。
1919の妻Marie Louise Madeleine Gabrielle JOUVENEL de HARVILLE des URSINSは姪{上記兄の娘})

長男・Comte de Nancay,Duc de La Chatre,Claude-Louis Raoul de La Chatre-Nancay  
甥・Comte d'Harville,Louis Auguste Jouvenel des Ursins

2411. ジャン・バンジャマン・ラボルド LABORDE (Jean-Benjamin), 元徴税請負人。 作曲家。パリ生。
(ジャン・バンジャマン・ド・ラ・ボルド Jean-Benjamin de La Borde 1734-94 ルイ15世主席従者。総収税官、徴税請負人。作曲家。
父親は金融家で徴税請負人Baron de la Brosse,Jean Francois de La BORDE 1691-1768。母親はElisabeth Francoise LE VASSEUR 1695-1779。三女二男の長男。{夭折を含めれば15人の子が
いたらしい} 姉Elisabeth Josephe de La BORDE 1726-1808が81年に再婚した相手はあの王室建築物部管理官Comte d'Angiviller,Charles-Claude Flahaut de La Billaderie 1730-1810である。
またもう一人の姉 Henriette Charlotte 1730-77は徴税請負人Auguste Louis Simon BRISSART{妹か姉になるAnne Elisabethが2613Comte de Thiard de Bissyに嫁いでいる}と結婚していたが、
夫も複数の女性{オペラ座の踊り子や女優やイタリア座の女優等々}と関係しているが、この姉も外国使節紹介官で回想録作者のComte de ChevernyやPrince de Conti、Comte de Lauraguais等
と浮名を流した。もう一人の姉{47年に結婚しているので姉だろう} Francoise Moniqueは徴税請負人Marquis de Cramayel 1712-79と結婚しているが、恐らく62年迄には亡くなっている。なぜなら、
62年に夫の侯爵はオペラ座の踊り子Marie ALLARDと、こちらは浮気ではなく本当に結婚しているからだ。生没年不詳の恐らく弟 Joseph Louis de La BORDEは竜騎兵大佐になっている。
彼はアントワーヌ・ドーヴェルニュのもとでヴァイオリンを、 ジャン=フィリップ・ラモーのもとで作曲を学ぶ。 1762年から1774年まで、彼はルイ15世の部屋付主席従者を務め、王の死で職を失う。
彼は多くのオペラを書いたが、ほとんどがコミックである。コレクションの歌の多くは、イギリスの民謡コレクターであるLucy Etheldred Broadwoodの努力によって後に個別に公開された。
彼のEssai sur la musique ancienne et moderne は1780年に出版された。
この人はAdelaide Suzanne de VISMES 1753-1832 と結婚。この妻はDame de lit{マリー・アントワネット妃がこの女性の為に設けた官職}で王妃の「女詩人」だった。その仕事は王妃のベッドの足元
で本の朗読をすることで、機知に富んだこの女性は王妃のお気に入りとなり、それを警戒したポリニャック夫人に嫉妬されていた。将来、関税管理官で銀行家となる1775年生まれのAuguste de La
BORDEをもうけた。妻はこの人の刑死後、デュバリー夫人との関係で有名なDuc de Rohan,Louis-Antoine-Auguste de Rohan-Chabot 1733-1807と結婚し公爵夫人となった。
この人もオペラ座の踊り子で女優のMarie Madeleine GUIMARD 1743-1816と関係しており、63年生まれの娘がおり、70年に認知している。
尚、636のJean Joseph de LA BORDEとは同族。貿易業で成功したJean Josephは、ジョゼフ・ド・ラ・ボルドという従兄に商売を学び、その死後は事業を継承し大資産家への道を切り開いたが、この
従兄は「恐らくJean Francois{この人の父親}の15人の子の一人らしい」とあるので、明確な系図はないのだろう)

 Jean-Benjamin de La Borde .............................................................................................................................姉・Elisabeth Josephe de La Borde  
.義兄・Comte d'Angiviller,Charles-Claude Flahaut de La Billaderie 関係・Marie Madeleine GUIMARD................

2412. ルイ・シャルル・エマニュエル・ラフォン・デスサール LAFONT-DESSESSARTS (Louis-Charles-Emmanuel), 53歳。大隊長。キプル・ノワイヨンCuipres-Noyon生。
(ルイ・シャルル・エマニュエル・ラフォン・デ・ゼッサール LouisCharles-Emmanuel Lafont des Essarts 1741-94 1583年認証の貴族家系。Cul生まれとも。妻はde MASSENT de LA MASSERIE姓。
もしくはde Saint Masseres de la Masserie姓。この妻はJean Louis Francois Elie BOITEL 1758-1829{テルールの元ではシャンティイーに投獄、テルミドールで釈放。91年コンピエーニュとサンリス
の森の間を通る国王の脱出ルートを準備。1814年パリ入りするアルトワ伯に馬を提供。1816年サンリス市長で後にサンリス副長官}と再婚している)

2413. ジャン・ジョゼフ・アントワーヌ・ラロシュ・ランベール LAROCHE-LAMBERT(Jean-Joseph-Antoine), 41歳。元貴族。プジョウラPougeoulat生。
(LAROCHES-LAMBERTとも。Pongontat生まれとも。44歳とも。モントーバン御用金裁判所評定官でPOUJOULATの領主で士爵のJean Joseph de LAROCHE LAMBERT 1689生 あり、多くの子供、
兄弟姉妹らがいて、その生年のみ記録あるが、詳細はない。この人物はCahorsのサン・ピエール教区で生まれているが、同じCahorsには同姓の一族の記録はある。 Jean Joseph Antoine
Gaspard de Laroche-Lambertは生没年不詳だが、士爵のGaspard de Laroche-Lambert 1719生 とMarie Marguerite Derrua 1726生 の息子で、51年生まれの兄弟 Jean Joseph Geraud Marie
は同じサン・ピエール教区生まれとの記録あり{洗礼の立会人は上述のPOUJOULATの領主Jean Josephで祖父になる}。世代的にも合致はする。しかももう一人の兄弟 Alexandreは亡命している。
このJean Joseph Antoine GaspardはMarie Anne de Fabre de Montvaillantと結婚し、80年代生まれの一女二男を得ている)

2414. エティエンヌ・ラロシュ・リュピー LAROCHE-LUPY (Etienne), 64歳。リュピーLupy生。
(エティエンヌ・ド・ラ・ロシュ・ド・リュピー Etienne de La ROCHE de LUPY 生没年不詳か1731-96とある。 2406 ルイーズ・ガスコワンの夫。この妻の処刑の記録は随所に明記されている
が本人のはない。
父親はAlexandre de LAROCHE LOUDUN 1702頃-66。母親は国王評定官の娘Marguerite BRISSON。3人の姉がいるが、長姉・次姉は25年と27年の生年以外の記録なし。
すぐ上の姉 Charlotte de LAROCHE LOUDUN 1728頃-1805は1760年にOrvilliers領主でナヴァール連隊大尉、聖霊騎士、サン・ルイ騎士Edmond Paul GUILLOUET 生没年不詳
と結婚している。この夫は父親 Claudeと Marie Claude VIE de PONGIBAUDの息子だったが、子の記録はない。
1765年に2406のLouise GASCOING de BERNAYと結婚して一女をもうけている。娘については2406参照)

2415. マリー・エドアール・ランペリュール L'EMPEREUR (Marie-Edouard), 66歳。ヌヴェール生。
(元国王の近衛兵。後者の弟か親族であろうが、記録にはない)

2416. L'EMPEREUR-BISSY (Claude-Edouard-Francois de Paule),74 ans, ne a Ne vers.
(クロード・エドアール・フランソワ・ド・ポール・ランペリュール{ランペリュール・ビシー} Claude Edouard Francois De Paul LEMPEREUR Lempereur-Bissyとも。元ヌヴェールバイイ裁判所判事、ヌヴ
ェール地区裁判所判事。また元帥法廷陪審判事ともある。生没年不詳で処刑の記載もなく、Jeanne TAILLEFERという女性と結婚し、1757年生まれの Marie Jeanne Antoinette LEMPEREURという
娘がいて、 Pierre Michel BERCHON 1759生 という人物と娘は結婚して94年に Antoine Dominique BERCHONという息子を生んだ、とのみある)

2417. ジャン・バティスト・レグザルド LEXALDE (Jean-Baptiste), 42歳。橋と道路の委員。エヌーAinhout生。

2418. ジョゼフ・ランダン・ダプルモン LINDEN DAPREMONT (Joseph), 36歳。元中央市場監督官。ブリュッセル生。
(ジョゼフ・ダプルモン・ランダン Joseph D'APPREMONT-LINDENとも。亜紗布中央市場監督官とも。
この時代、オーストリアに仕えたComte d'Aspremont Lyndenがいる。現在のベルギーのFranchimont城の所有者一族)

2419. フィリップ・ブノワ・マリオン・ラモール MARION LAMOLLE (Philippe-Benoist), 59歳。ヌヴェール生。
(フィリップ・ブノワ・マリオン・ラモットPhilippe-Benoit Marion Lamotteとも、Philippe-Benoit MARION La MOLEとも。元ニヴェルネ公領の森林管理官)

2420. マリー・アレクサンドリーヌ・マルタン・ヴィル MARTIN VILLE (Marie-Alexandrine), デュヴォーガルニエDuvaugarnier未亡人。49歳。パリ生。
(マルランヴィルMarlinvilleとも、マルタンヴィルMartainvilleとも)

2421. ジョゼフ・メイナール・ミレ MEYNARD MELLET (Joseph), 17歳。元貴族。ブリヴ・ラ・ガイヤルドBrive-la-Gaillarde生。
(ジャン・ジョゼフ・メイナール・ド・メレ Jean Joseph Meynard de Mellet 1776-94 リムーザンのBrive-la-Gaillarde生まれ。
父親はJoseph Julien Meynard de Mellet 1740-1801。母親はBrive代官の長女Catherine Josephe Maledent de La Bastille 1748-1805。ひとつ上の姉 Marie Meynard de Melletがいた。
Chambouliveの財産を有し、サン・ピエールのPenitents Blancs教会に墓があった。 Tulle周辺の一族で、16世紀後半のこの町の薬剤師Leonard Meynard由来の一族。ボルドー高等法院
評定官等を経て18世紀に貴族身分になったようだ。1720年Jacques de Douhet d'AuzersがChateau de Melletをパリの外科医で「王妃付外科医」のTulle出身Henri Peyratに77830リーヴル
で売却し、その娘{だと思う}Marguerite Peyrat 1709生 と結婚したこの人の祖父 Gabriel Meynard de Mellet 1706-64が、新しい所有者となり、 "seigneur de Melet"を称した。そして城館の
改築工事をし、革命の間も所有していた。
この少年はマイエMailleと誤って呼び出されて、略式手続の杜撰さから処刑されたという。召喚者の誤りは判明したとしても是正されなかったろう、との事)

2422. ピエール・シャルル・ムーシー MOUCHY (Pierre-Charles), 31歳。商家の店員。フレアン・ルーFrean Leu(Franleuとも)生。

2423. ジャン・パロト PALOTOT (Jean), 28歳。監督官。パリ生。

2424. アントワーヌ・シャルル・プラコンプタル PRACOMPTAL (Antoine-Charles), 61歳。ロ二Roni(⇒Rouy⇒Luis)生。
(アントワーヌ・シャルル・ド・プラコンタル Antoine Charles de PRACOMTAL 1733-94 小厩舎小姓{1747}、国王親衛騎兵旗手、野戦総監。
父親は二ヴェルノワ地方中将Marquis de Pracomtal,Leonard Armand de PRACOMTAL{Baron de Berniere, Marquis du Breuil et de Luis}1698-1780。母親はグルノーブル、後にリモージュの
地方長官の娘Catherine Marguerite BOUCHER d'ORSAY 1765没。{この母の姉Antoinette-Henriette Francoiseは夫処刑前に獄死した2486Soyecourtの妻Marie Sylvie de BERENGER-
SASSENAGEの母。祖父Charles BOUCHER d'ORSAY 1641-1714は、1700〜1708年パリ市長だったパリ高等法院評定官}
この人は三男で、長兄Arnoul de PRACOMTAL 1725-54は父親の様々な爵位を継承。やはり親衛騎兵旗手もしていたが、53年Charlotte THIROUX de MONTREGARD 1736-1803と結婚して
Leonor Claude 1754-76を残し、死去。このLeonor Claude は王室騎兵隊大尉だったが、妻Claude Gabrielle de PERTUIS 1754-1831はヴィクトワール王女の女官となる。次兄Charles Jean de
 PRACOMTALはベネディクト派修道士となる。姉も一人いて、 Anne Marguerite 1727生 は46年にBaron de Wismes, Adrien Antoine de BLOCQUEL de CROIX de WISMES 1705生 と結婚し二
男をもうけている。
この人の結婚記録はない。
プラコンタル家は1443年には確認がとれるドーフィネの貴族家系で、18世紀にはニヴェルネに定住。所有する土地に名に由来する家名だが、Pracontalとも綴る。18世紀に伯爵位と侯爵位
を授かった。ノルマンディーの分家もある)


母方曾祖父・Charles BOUCHER d'ORSAY  

2425 クロード・アントワーヌ・プリシー・リムー PRISY LIMOUX (Claude-Antoine), 37歳。ヌヴェール生。
(Claude-Antoine Prissy-Limouxとも。ヌヴェールの役人で法律家)

2426. アントワーヌ・アンリ・ルミニー REMIGNY (Antoine-Henry), 37歳。ヌヴェール生。
(アントワーヌ・アンリ・ド・ルミニー・ド・ジュー Antoine Henry de REMIGNY de JOUX 1757-94 1777年小厩舎小姓。マルタ騎士。父親はMarquis de Joux,Jean Baptiste Angaelique de REMIGNY
de JOUX 1710-87。{1708頃-86とも。1725年大厩舎小姓。1735年Elisabeth Rosinde de BOURIATと結婚しPaule de REMIGNY de JOUX 1735-1811をもうけ、死別後に再婚} 母親はSuzanne Therese
 SEGUIER 1728-94{⇒2432}。兄の騎兵連隊大尉Marquis de Joux,Angelique Louis Antoine{Louis-Angelique Marieとも} 1752頃-1802がおり、Chateau de Dumphlun生まれで、二度結婚して三男一女が
いた。この兄は94年2月に離婚しているが、最初の妻は79年結婚したFrancoise de Guigues de Moreton de Chabrillan 1749-1825である。{下記の二度目の妻と記録が錯綜しているようだが、79年3月
24日付のMontelimar教区記録に明記されているのでこちらが正しい} 離婚理由は不明だがそれぞれに子は生まれてはいる。父親がヴォルテールですら称賛したフォントノアやロクールの英雄で野戦
総監であるMarquis de Chabrillan,Francois-Cesar de Moretonで、妻の兄のJoseph-Dominiqueも革命中も准将をしている軍人である。この准将が93年3月に死亡しているのも影響しているのか、45歳の
妻から26歳の女性へと再婚している。旧体制下の名門縁故も革命で意味がなくなり、また教会権力も否定され離婚が簡単に出来る世の中に変異したせいか。しかし、この再婚後1年と3か月と3日で彼
は他界してしまうのである。
再婚した妻Elisabeth Pierrette FROMENTIN 1775-1856は死別後の1809年にAlbert Boniface Joseph HENNET de GOUTEL 1773-1815と再婚している。
異母姉のPaule de REMIGNY de JOUXは歩兵大佐Marquis de Feillens et de Bagae, Comte de Montiernoz, Claude Marie de FEILLENSと60年に結婚、一女を得るも、継承者なく夫が1772年死亡し、
家名は絶えた。
尚、この人の結婚記録はない)

2427. ピエール・ルヴシュ REVECHE (Pierre), 45歳。農家。モージMaugis(Mangis、Nangisとも)生。
(フィアクル・ピエール・ルヴェシュ Fiacre Pierre REVECHE とも。NangisのMarie Rose REVECHEがLaurent HARDOUIN 1748頃-1816と結婚し86年以降三男一女をもうけている。86年生まれの長男
 Jean Laurent HARDOUINはNangis市長になっている)

2428. ジャン・ピエール・ロビヤール ROBILLARD (Jean-Pierre), 33歳。市役所役人。ヌヴェール生。
(Neversには複数のROBILLARDが確認できる)

2429. ジャン・ロジェ ROGER (Jean), 41歳。質屋の使用人。ブザンソワBuzancois生。

2430. オーギュスタン・マリー・二コラ・サミヤール SAMILLARD (Augustin-Marie-Nicolas), 24歳。パリ生。
(SAMILLARDもしくはSEMILLARD。後者の子)

2431. 二コラ・サミヤール SAMILLARD (Nicolas), 71歳。商人。トロワTroyes生。
(SAMILLARDもしくはSEMILLARD。前者の父)

2432. スザンヌ・テレーズ・セギエ SEGUIER (Suzanne-Therese), ルミニーRemigny未亡人。66歳。パリ生。
(Suzanne Therese SEGUIER 1728頃-94 2426の母親。父親はパリ高等法院評定官Louis Anne SEGUIER 1692-1749。母親は国務評定官の娘Jeanne Therese Antoinette PELETYER 1734没。
次兄のAntoine-Louis Seguier{Anne-Louisとも} 1726-92は48年シャトレ裁判所次席検事、51年大評議会次席検事、55年高等法院次席検事、革命後90年息子と亡命し、亡命先で死去。
長兄Alexandreと弟Anne-Charlesは夭折か、記録なし。
但しセギエ家系図には長兄Alexandre-Louisは若くして他界とあるも、この人と弟の記録が載っていない。
このセギエ家は有名な大法官ピエール・セギエの家柄の末裔。この人の6代前のNicolas Seguierが、大法官の祖父Pierre{1世} Seguierの弟という関係。
夫は1752年結婚のJean Baptiste Angelique de REMIGNY de JOUX 1710-87{1708頃-86とも}。2人の子供らについては2426説明参照)

兄・Antoine-Louis Seguierとその妻(義姉)・Marguerite Henriette Vassal 1747-1817   

2433. セザール・マリー・タラリュ TALARU (Cezar-Marie), 70歳。シャザンChassins生。
(タラリュ侯爵、シャルマゼル侯爵、シャマランド伯爵セザール・マリー・ド・タラリュ Marquis de Talaru, Marquis de Chalmazel, Comte de Chamarande,Cesar Marie de TALARU 1725-94
マイイ連隊大佐、1746年マリー・アントワネットの初代部屋付従者頭、48年歩兵少佐、58年歩兵総監督官。61年野戦総監。80年中将。{部屋付従者頭の職は70年弟Vicomte de Talaru, Louis Francois
 1729-1782に継承。この部屋付従者頭の職は46年ではなく63年3月所得とも}
父親はPhalsbourgとSarrebourg総督でマリー・レクザンスカ妃部屋付従者頭だったMarquis de Chalmazel,Louis de TALARU 1680-1763。母親はMarie Marthe Francoise de BONNEVAL 1701-70。{この
母親の母方祖父は、ルイ13世愛人のマリー・ド・オートフォールの兄} 弟 Louis Francois{上記}がいた。弟の長男Louis Justin Marie de TALARU 1769-1850はPair de Franceとなる。
中央山地フォレ地方の非常に古い貴族。フォレ城は1084年すでにこの一族が居城としていた。StrasbourgとPhalsbourgの総督にもなる。1756年7月ミノルカ島の勝利の後、島の副司令官。 野戦総監に
なった後、マリー・アントワネットの部屋付従者頭となる。リシュリュー通りに2つの大邸宅を構える。革命期、奇妙な一連の出来事によって逮捕となり、その後フランス革命の下で彼の処刑に至る。
1750年王太子妃の女官Marie Justine de SASSENAGE 1730-93と結婚する。一女をもうけ、娘Eulalie Xaviere de TALARU 1751-74は73年Louis Etienne Francois de DAMAS-CRUX 1735-1814と結婚した。
{この娘は出産時に女児共々亡くなってしまう} 妻の妹Marie Francoise Camille de SASSENAGE 1735生 の夫Marquis de Beranger, Raymond Pierre de BERANGERは2486の妻で94年獄中で死亡したMarie
Sylvie de BERENGER-SASSENAGE du GUAと兄妹{弟姉?}。また妻の妹Marie Francoise Camilleの娘は2492のサン・テニャン公の妻)

父・Marquis de Chalmazel,Louis de TALARU  
母方祖母・Marquise de Bonneval,Angelique de Hautefort 1659-1749
甥・Marquis de Talaru,Louis Justin Marie
2434. マリー・ルネ・ルイーズ・エリザベト・トロー THOREAU (Marie-Renee-Louise-Elisabeth), サン・ジュイルSaint-Juire未亡人。 73歳。ポワティエ生。
(Marie Renee Louise Elisabeth THOREAU 1722-94 父親は国王評定官Rene THOREAU de SAINT-CHARTRES。母親はMarie de MASCUREAU de SAINTE TERRE 1700生。二男二女の長女だった。
1742年パリ高等法院評定官Thibault Francois Gaspard FORIEN{士爵でSaint Juire領主}1716生 と結婚。子の記録はない)

2435. フランソワ・トレショー TRECHAUT (Francois), 26歳。教師。グヴィニーGuvigny生。
(国外に逃亡出来るなら殺されても構わないと言い放った。好きな格言は「個々に逃げよ」sauve qui peutだったという。ゲリニーGuerigny生まれとも)

2436. フランソワ・ヴュイヤッス VUILLASSE (Francois), 63歳。大尉。ヴィルヌーヴ・ダジャンVilleneuve d'Agen{Villeneuve-la-Guiard、Villeneuvela-Guiardとも}生。
(地方連隊大尉で元貴族。しかし処刑記録に名が残っているのみ)

1794年7月23日

2437. アレクサンドル・ボーアルネ BEAUHARNAIS (Alexandre), 34歳。ラ・マルティニクLa Martinique生。
(Vicomte de Beauharnais,Alexandre Francois Marie de BEAUHARNAIS 1760-94 軍人にして革命期は政治家。
父親はマルティニク総督Baron de Beauville, Marquis de La Ferte-Beauharnais,Francois de Beauharnais 1714-1800。母親はHenriette Pyvart de Chastulle 1722-67。
この人は三人兄弟の末子。長兄は夭折。次兄Comte des Roches-Baritaud,Francois de Beauharnais 1756-1846は89年三部会貴族議員。この兄は78年叔父Claude Joseph deBEAUHARNAIS 1717-84
の娘 Marie Anne Francoise de BEAUHARNAIS 1757-1822と結婚し、三女一男をもうけるも、三女 Emilie Louise以外は夭折{Emilie Louiseは1781-1855、後年ナポレオンの高級官吏LAVALETTEと結婚し、
1815年死刑囚となった夫を牢獄から変装によって脱出させることに成功した女性で有名}。93年離婚し、1802年Christine Josephine Xaviere Gertrude Walburge de COHAUSEN 1775-1822と再婚、三女を
もうけるも、次女Hortense Louise Francoise以外は早世。
1775年近衛銃士隊第一中隊。La Sarre歩兵連隊、ラ・ロシュフコー連隊の少尉。この人は自分の家柄が宮廷に通用するものでもなく、出世に結び付くほどの血筋ではないことを自覚していたが79年大尉と
なる。79年 Marie Josephe Rose TASCHER de La PAGERIE 1768-1814{将来のジョゼフィーヌ皇后}と結婚。一男一女をもうける。長男Eugene Rose de Beauharnais 1781-1824はナポレオンに引き取られ
大変に優遇され、自らも軍将として活躍、フランス皇太子、イタリア副王となるも、百人天下時は静観し、バイエルンで没した。また妹Hortense de Beauharnais 1783-1837もナポレオンに引き取られ可愛が
られ、皇帝の弟ルイと結婚し、夫婦仲はともかくオランダ王妃となり、ナポレオン3世の母となった。ナポレオンの兄弟姉妹らとは好対照に、この二人の連れ子兄妹はナポレオンに生涯忠実だった。
1783年離婚。84年王室シャンパーニュ騎兵連隊に所属し、88年連隊副官major。離婚した妻子らが1789年から1790年にマルティニークに滞在している間に、憲法制定議会に出席し、1791年執政。1791年7月
ヴァレンヌ事件では逃亡した国王を捕らえるため尽力した。 1792年立法議会が宣戦布告すると、息子共々出征。92年野戦総監、93年師団長、ライン軍司令官となる。国民公会の統制下となると状況が変わり、
マインツの防衛に失敗し、許可なく軍から離脱し、自らの所領へ戻るなどした。1794年1月に逮捕、起訴され、カルム監獄に収監。元妻もこの元夫や友人の助命嘆願が災いし、数週間後の4月21日同じ監獄に
連行されてしまう。しかし、テルミドールを挟んでの数日がこの元夫婦の明暗を分けた。この人は処刑、妻は8月6日釈放となり、未来のフランス皇帝妃への運命を切り開く。
2454ザルム・キンブルク大公の妹Amalie Zephyrine von Salm-Kyrburg 1760-1841の愛人。他にFrancoise Linette de MONTDESIR 1763生 との間にMarie Adelaide Victoire 1786-1869という娘までいたとか、
また92年頃は284Comte de CUSTINEの夫人Delphine de SABRAN 1770-1826との関係もあったらしい)

 Vicomte de Beauharnais,Alexandre Francois Marie de BEAUHARNAIS ...................妻・Marie Josephe Rose TASCHER de La PAGERIE 
父・Marquis de La Ferte-Beauharnais,Francois de Beauharnais
兄・Comte des Roches-Baritaud,Francois
元夫Vicomte de Beauharnaisを牢内に訪ねる妻と子  息子・Eugene Rose de Beauharnais  
娘・Hortense de Beauharnais................................................................
妻の叔父・Baron de La Pagerie,Robert-Marguerite Tascher 1740-1806

2438. シャルル・ルイ・アンジュ・ボーヴォワール BEAUVOIR (Charles-Louis-Ange), 24歳。サン・ブリューSaint-Brieuc生。
(シャルル・ルイ・アンジュ・エリッソン・ド・ボーヴォワール Charles Louis Ange HERISSON DE BEAUVOIR 1762生 か? 没年不詳だが、94年では32歳となってしまう。元貴族で元上級大佐Colonel-general
だった元歩兵連隊少尉。24歳でも32歳でも上級大佐は早いか。カルム監獄内の陰謀の共謀者として処刑。このCharles Louis Ange HERISSON DE BEAUVOIRは生地は未詳だが、1758年のSaint-Castの
戦で戦死した伯父 Rene Julien HERISSON DE BEAUVOIR 1723-58がSAINT MELOIR DES ONDES生まれで、この人のSaint-Brieucとは80km程度の距離。微妙な距離ではあるが。
父親はGeorges Claude HERISSON DE BEAUVOIR 1728-96。母親はFrancoise M Therese Felicite DU CHASTELLIER 1735頃生。兄一人と妹二人がおり、皆、生地や没年も不詳だが、成人して結婚してい
る。兄の子Barthelemy 1787-1857は近衛隊士となっており、妹AnneはVicomte de TREGUIL 1766-1834と結婚し、もう一人の妹 ArmandeはGuerande市長De SECILLON 1771-1847と結婚している。
名前の類似で推定しているので、合致しているかは不明)

2439. ルイ・エティエンヌ・ボンヌヴァル BONNEVAL (Louis-Etienne), 22歳。ポーランド人女性の従者。パリ生。

2440. アンドレ・ジャン・ブーシェ BOUCHER (Andre-Jean), 44歳。パリ生。
(アンドレ・ジャン・バティスト・ブーシェ・ダルジ・ド・ギレヴィル Andre-Jean Baptiste Boucher d'Argis de Guillerville 1750-94 パリ高等法院弁護士、シャトレ評定官。
父親はドンブ最高評議会評議員、後にシャトレ評定官Antoine Gaspard BOUCHER d'ARGIS de GUILLERVILLE 1708-91。母親はDame de La Fontaine,Jeanne Genevieve LEVASSOR 1770没。
弟Claude Gaspard BOUCHER d'ARGIS de GUILLERVILLE 1753-1840がいた。{Andre Jean BOUCHER d'ARGIS 1751-94という弟が別記されている系図もあり}
1779年Marie Anne rosalie CORPELET 1765-1824と結婚し、一女四男がおり、皆、成人しており、孫らは20世紀に至っている。
父親のAndre-Jean Baptiste Boucher d'Argisは法律論文の発表者でも名高く、また法と実務の書籍コレクションを1742年から公開、百科全書の法的記事には4000以上寄稿している)

両親・Antoine Gaspard BOUCHER d'ARGISとJeanne Genevieve LEVASSOR  

2441. フランソワ・アントワーヌ・ブルジョワ BOURGEOIS (Francois-Antoine), 43歳。法律家。パリ生。

2442. フランソワ・ユルシュル・ブルク BOURKE (Francois-Ursule), 17歳。船員。ロリアン生。
(フランソワ・ユルシュル・ビュルク Francois-Ursule Burkeとも。74門艦Le Superbeの乗組員。Villaret-Joyeuse提督により95年1月、Le Superbe号は嵐による損傷で破棄されている。
この人は亡命者の乗組員ということでリストに載っていた。
⇒Francois-Ursule BOURKE  1690年のボイン川の敗北でスチュアート家に従ってフランスに渡ってきたBurghのアイルランド人一族の子孫。父親はラリー・とランダルの連隊で大尉をした
貴族のRichard BOURKE 1740生。母親は Marie Jacquette SAINT-JOHN 1750頃生。8人の子がいた。系図には3人のみ。恐らく姉のAnne BOURKEはJean Marie Theophile JOLY de
ROSGRANDに嫁いで子をもうけている。兄のJean Raymond Charles BOURKE 1772-1847はロリアンで生まれ、1788年アイルランド旅団のウォルシュ歩兵連隊士官候補生としてフランス軍
に入隊、同年少尉、90年迄はインド諸島勤務、92年中尉、同年大尉となり、ナポレオン信奉者としてアイルランド遠征、サン・ドミング遠征にも参加、軍位を上げていき、総督の時にナポレオ
ン退位、以後はブルボン家に仕えて、大将、歩兵総監、伯爵、Pair de France。シャルル10世治世まで在職し、以後はロリアン近くの所領に引退した人物)

兄・Jean Raymond Charles BOURKE  

2443. ミシェル・アンジュ・ブルージュ BRUGES (Michel-Ange), 32歳。憲法制定会議議員。ヴァラブルグValabregue生(⇒Vallabregues)
(ミシェル・アンジュ・ブノワ・ド・ブルージュ  Michel Ange Benoit de BRUGES 1743-94 Mende司教で叔父のCastellane{Jean-Arnaud de Castellane 1733-92}の総司教代理。89年には三部会
の教区選出議員。 Mendeの憲法上の総司教代理grand vicaire。父親はサン・ルイ騎士のJean-Baptiste de BRUGES {1672生とあるが誤記?}。母親はGabrielle Gasparde de CASTELLANE
1700頃生。五女二男の末子。兄はComte de Bruges, Marie Jean Louis de BRUGES 1739-1807、54年にMarguerite BRACHET d'ARENES 1740頃生 と結婚し四男二女をもうけている。その
長男のComte de Bruges,Louis Andre Hyacinthe 1761-1841は革命期にアルトワ伯の側近として亡命政権のもと活動し、復古期に中将となっており、その弟Vicomte de Bruges,Henri Alphonse
 1764-1820も中将になっており、三男のMarie Joseph Celestin 1766-98は騎兵大佐)

叔父・Eveque de Mende,Jean-Arnaud de Castellane  
叔父・Marquis de Castellane,Esprit Francois Henri de Castellane 1730-99
2444. アルマン・アンリ・エリキュール・コーモン CAUMONT (Armand-Henry-Hercule), 31歳。ジュールドニエールJourdonniere生。
(コーモン・ダッド伯爵アルマン・アンリ・エリキュール・ド・コーモン・ダッド Comte de Caumont d'Adde,Armand Henri Hercule de Caumont d'Adde 1743-94 歩兵連隊大佐
父親は七年戦争の海戦で活躍した艦隊司令Marquis de Caumont d'Adde,Alexandre Tancrede Louis de Caumont d'Adde 1708-77。母親はAngelique de Gousse de La Roche-Allard 1714生。
姉と妹がおり、姉 Angelique de Caumont d'Adde 1740-1831は1758年Baron de Suzannet 1739-1815に嫁いでいる。この姉は91歳まで生きた。妹Constance Lucie Bonne de Caumont d'Adde
1749-98は69年Marquis de La Rochejacquelein,Henri Louis Auguste du Vergier de La Rochejacquelein 1749-1802に嫁ぎ、あのヴァンデの英雄ラ・ロシュジャクランの母となる。
この人は1773年Jeanne Amable ROUSSEAU DE LA FERANDIERE 1757-1840と結婚し一男一女をもうけた。息子は結婚するも子の記録はなく、娘は84歳まで生きたが結婚記録がない。
この人の五代前のJosue de Caumont d'Adde 1650没 はマントノン夫人の伯母{つまり回想録作者のアグリッパ・ドービニェの娘}であるMarie d'Aubigneと結婚しているが、二女のみ残して死別、
Josue de Caumont d'Addeは1625年Madeleine Marie Meriadeauと再婚し、その長男が直系の先祖であり、ドービニェ家の血は引いていない)

義弟・Marquis de La Rochejacquelein,Henri Louis Auguste du Vergier de La Rochejacquelein  
甥・Comte de La Rochejaquelein, Henri du VERGIER de La ROCHEJAQUELEIN

2445. シャルル・フランソワ・シャンブリー CHAMBLY (Charles-Francois), 37歳。ルイ・ブールLouis Bourg(⇒Bosmont-sur-Serre)生。
(ラ・トゥール・デュ・パン・シャンブリー伯爵、ラ・シャルス子爵ルネ・シャルル・フランソワ・ド・ラ・トゥール・デュ・パン・シャンブリー・ド・ラ・シャルス Comte de La Tour du Pin-Chambly,Vicomte de
La Charce,Rene Charles Francois de LA TOUR DU PIN Chambly de La Charce 1746-94 オーニス連隊大佐、ブルゴーニュ王室擲弾兵大佐、ヴェルマンドワ貴族議長、戦争大臣
父親はブルボン連隊大佐Comte de La Tour du Pin, Vicomte de La Charce, Rene Francois Andre de La Tour du Pin Gouvernet 1715-78。母親はJacqueline Louise Charlotte de Chambly 1716-91。
母親はComte de Monthenault,Charles Jacques Francois de Chamblyの一人娘だったので、この人からLA TOUR DU PIN Chambly de La Charce分家が始まった。
もともとラ・トゥール・デュ・パン家は12世紀からのドーフィネの貴族家系でいくつもの分家に分かれている。「シャンブリー」が家名につくのはこの人からだが、「ラ・シャルス」はMarquis de La Charce,
Rene de La TOUR du PIN-GOUVERNET 1543-1619が初代で、Dame de La Charce,Isabeau ARTAUD de MONTAUBANとの結婚により始まった。この元の姓氏であるLa TOUR du PIN-GOUVERNET
もこのReneの祖母Dame de Gouvernet,Madeleine de Sylveがもたらした婚資による。Reneの長男がCharles de La TOUR du PIN-GOUVERNET{Marquis de Gouvernet 1576-1643}が、783のJean-
Frederic de La Tour du Pin Gouvernetの先祖となり、次男が男子継承者ないために三男Cesar de La TOUR du PIN-GOUVERNET{Marquis de La Charce 1583-1645}が、この人の五代前の先祖と
なった。また784のPhilippe Antoine Gabriel Victor Charles de La Tour du Pin Gouvernetは、この人の曾祖父Rene Scipion 1708没の兄Louis de LA TOUR DU PIN de LA CHARCE 1655-1714の孫。
⇒ 2013と重複している。系図の記録からすると7月7日処刑が正しいので、2013が正式な順。相互に内容は参照。再婚相手Angelique Louise Nicole de BERULLE 1753-1826の弟は2501のMarquis
 de Berulle)

2446. ルイ・シャンスネ CHAMPCENETZ (Louis), 35歳。パリ生。
(ルイ・ルネ・カンタン・ド・リシュブール・ド・シャンスネ Louis Rene Quentin de Richebourg de Champcenetz 1760{59とも}-94 「使徒言行録」 ≪ les Actes des Apotres ≫の記者。 Chevalier de
Champcenetzとも呼ばれた。
父親は辛くもグレース・エリオットの助けで逃亡に成功したルーヴル及びチュイルリー総督{1762-89}Marquis de Champcenetz, Jean Louis Quentin de Richebourg 1723-1813の息子。母親はMadeleine
PERNON 1737-75。{侯爵は三度結婚しており、この人は二番目} 父親の初婚相手Marie Rose Tessier 1754没 が母親である異母兄のLouis-Pierre 1754-1822は竜騎兵、後に78年アルト竜騎兵連隊、
アメリカ遠征のロシャンボーに従ってフリゲート艦「Aigle」乗り組み。ヴィオメニル男爵の副官。国王主席従者。89年11月〜92年8月10日まで父親からの後継でチュイルリー司令官。オルレアン竜騎兵少尉
連隊大佐。ムードン、ベルヴュー、シャヴィル総督。93年6月、イタリア、イギリスへ亡命。王政復古ですべての称号を取り戻し、1814年中将。1817年Marquis de Majastres, Comte de Castellane-
Majastres, Andre Joseph Marie Gaspard de Castellaneの娘Armande Pauline Marie de Castellane 1788-1833と結婚するも、子孫なく死別。妻は1824年Marquis de Juigneと再婚している。同じ母親から
の弟 Edmond Ferdinand 1762-1805は、88年〜90年ノアイユ竜騎兵連隊大尉、1784年Louise Josephine Le PRESTRE de NEUBOURGと結婚し一男を得る。Hortense Louise Claire de SAINT BELINと再
婚しているが子はなかった。前妻は1820年没なので単純な離婚である。この弟の子Felix Quentinも1807年子なく死去したので、三兄弟でこの家系は絶えた。長男Louis-Pierreが1822年に亡くなり、それ
で断絶。もっとも命からがら革命のパリを脱出して生き延びた父親は9年前まで生きており、90歳で他界していたが。
1788年フランス衛兵隊中尉をしている。革命前から様々な出版物の著者となっている。「Les Gobe-mouches」パレ・ロワイヤル、1788年。「愚か者のための女性の愛に関する小論文」バガテル1788
「J.J.ルソーの性格と作品に関するMadame Germaine de Stael-Holsteinからの手紙への応答」(20人の書店が印刷を拒否したささいなタイトルの下で)ジュネーブ1789等。
また父親の三度目の再婚で義母となったSophie Gertrude Adelaide Dorothee Catherine Frederique de Neukirchen de Nivenhein 1743-1805とは大変に仲が悪かった。この女性は美貌で知られた
オランダ女性で父親とは再婚だったが、Mme Paterとして74年デキヨン公の差し金でデュ・バリー夫人がスパで療養中ルイ15世とも関係していた。79年自分より遥かに若いランベスク大公と結婚し
ようと策謀したが、Marquis de Champcenetzと結婚。ローザン公は「グルーズが最高の彼女を描いたものよりも実物の彼女は美しい」と評していた。宮廷ではポリニャック夫人の義妹やヴォードルイ
ユに取り入りマリー・アントワネット妃からも好意的に受け入れられていた。そして、89年革命時はポリニャック夫人らとスイスに亡命し、スイス・フランスを何度も行き来して、ポリニャック夫人と王妃
との通信役を果たし、ヴェネツィアではアルトワ伯と合流。反革命的行動と亡命者の通信支援で保安委員会に告発された時にはイギリスで拘留されており、彼女はギロチンから逃れられた。
この義母との不仲で父親からのレトル・ド・カシェで逮捕されたこともある。記者をしていた「使徒言行録」 ≪ les Actes des Apotres ≫で政府重要人物を盛んに批判していた。機知と笑いでは革命政
府を寛大にすることは出来なかった。
カンタン・ド・リシュブール家はもとは百年戦争の頃アンジュー、トゥーレーヌで成立したブルターニュの一族で、恐らくはアンヌ・ド・ブルターニュ公夫人に従っていた者の子孫。16世紀には富裕な商人、
国王の秘書官、国王付従者等を輩出していく。17世紀には高等法院評定官が何人か現れ、18世紀には宮廷出仕、この人の直系はこれらの流れである)

 Louis Rene Quentin de Richebourg de Champcenetz .............................................................................義母・Sophie Gertrude Adelaide Dorothee Catherine Frederique de Neukirchen de Nivenhein 

2447. ジャック・ブノワ・シュヴリエ CHEVRIER (Jacques-Benoit), 50歳(30歳とも)。聖職者。リュミイーRumilly生。

2448. ジャン・クープリー・ド・メゾンヌフ COUPRY DE MAISONNEUF (Jean), 27歳。元暴君の近衛兵。リニュー・ラ・ドンゼル(リ二エールとも)Lignoux-la-Donzelle (Liniere)生。
(ジャン・クーペリー・ド・メゾンヌフ Jean Coupery de Maisonneufとも。いずれにしても詳細の記録はなし)

2449. ジャン・ダルシー DARCHY (Jean), 37歳。ドニ・ド・ジューエDenis de Jouhe(サン・ドニ・ド・ジョンシュ St Denys-de-Joncheとも)生。
(DARCHIとも。アンドルのシャティヨン参事会管理聖堂の元教会参事会員)

2450. フランソワ・シャルル・アントワーヌ・ドーティシャン DAUTICHAMP (Francois-Charles-Antoine), 56歳。元貴族、パリの元ノートル・ダム教会参事会員。アンジェ生。
(シャルル・アントワーヌ・フランソワ・ド・ボーモン・ドーティシャン Charles Antoine Francois de BEAUMONT d'AUTICHAMP 1739-94 トゥールーズ大司教司教総代理。
父親は大厩舎小姓、近衛銃士、親衛騎兵旗手、アンジェ城及び町の代官、アンギャン歩兵連隊中佐Marquis d'Autichamp,Louis Joseph de BEAUMONT d'AUTICHAMP 1716-47。母親はブルターニュ
総財務官の娘Marie Celeste Perrine LOCQUET de GRANDVILLE。三人兄弟の次男。兄は国王の連隊中尉、1757年から62年ブロイの将官補佐官、7年戦争中の .61年自分の名のオーティシャン
竜騎兵連隊大佐、アンジェ代官のMarquis d'Autichamp,Jean Therese Louis de BEAUMONT d'AUTICHAMP 1738-1831。70年リュネヴィルの親衛騎兵司令官、80年から89年野戦総監でパリ城内の
軍政総監察官。革命後はコンデ軍に参加、スイスからイギリスに渡り、キブロン遠征に参加、97年ロシアの連隊指揮官としてロシアに奉仕、ルイ18世の元で軍職に復帰した。1763年アランソンの収税官
の娘Marie Charlotte MAUSSIONと結婚しているが子はなかった。ポリニャック夫人の夫の妹Diane Louise Augustine de Polignac 1746-1818{78年王妹エリザベトの女官、革命時はポリニャック家共々
亡命しサンクト・ペテルブルクに定住し当地で死去}と関係をもっており、Charles Paul Edmond de VILLEROT 1781{1770とも}-1805という子までいた。この息子は父親も母親もロシアに居たのでロシア軍
士官となり、アウステルリッツの戦いで戦死している。ロシア皇帝近衛Preobajenski連隊大佐でMarquis de Villerotとあり、また1804没のElisabeth Apraxineという女性と結婚しているとする系図もある。
母ディアーヌの正式な結婚記録はないが、Felix Francois Antoine de BRENNEという詳細不詳の男性と結婚しFrancois de BRENNE 1775-1822という男子を得ているとする系図もあり。ディアーヌは96年
ロシアで "Memoires, Vie et Caractere de Madame la duchesse de Polignac"という回顧録を著している。また亡命時に「fils naturel」も連れていたとあるので、息子はこの人がロシアに連れて行ったのか
も知れない。
また弟Vicomte d'Autichamp, Antoine Joseph Eulalie de BEAUMONT d'AUTICHAMP 1744-1822は、1759年ブロイ元帥の副官となり、その後、兄の竜騎兵連隊の管理の責任者を務めた。1769年にコルシ
カ島のヴォー元帥の部下となる。 またアメリカ独立戦争では、特にヨークタウンとセント・クリストファーで、アメリカの歩兵連隊の大佐として戦った。野戦総監に昇進し、1782年にサント・ドミンゴ南部の総督
に任命され、1788年にフランスに戻る。 1792年から亡命し亡命軍に参加。 1799年に亡命者リストから削除。サンジェルマンの総督に任命され1822年4月10日に彼の人生の終わりまで在任。1765年、サント・
ドミンゴの義勇兵大尉の娘Agathe Jacquine GREFFIN de BELLEVUEと結婚し、二男を得る。{⇒画}{ Marie Louis Joseph Jacques 1766-82はアメリカ独立戦争での海戦で16歳で死亡している。下画の
Portrait de deux garconsはJoseph Bozeによる製作年不詳の画で、Vicomte d'Autichampの二人の子を描いたもの。この16歳で亡くなった息子の死亡時弟らは15歳と12歳。三人息子の画として描かなかっ
たのは82年以降に残った二人兄弟を描いたものと推定される。兄が「要塞」の図面を手にしていることからも陸軍に進んだ士官学校生徒の兄と、その弟の画と見るのが妥当} 長男 Marie Jean Joseph
Jacques 1767-1826{27、28}は、国王護衛兵で野戦総監になる。次男のCharles Marie Auguste Joseph 1770-1859は1789年コンデ竜騎兵連隊、92年帰国してGarde constitutionnelle du Roi{92年5月司令官
ブリサック公の逮捕で解散する短命の警護隊}に入隊、解雇後も勤務を続け、8月10日事件では辛くも虐殺から逃れた。後、義兄弟のボンシャン侯と共にヴァンデの乱に身を投じていく)

兄・Marquis d'Autichamp,Jean Therese Louis de BEAUMONT d'AUTICHAMP  
兄と関係・Diane Louise Augustine de Polignac 義妹・Agathe Jacquine GREFFIN de BELLEVUE......甥たち.............................

2451. アレクサンドル・ジャン・フランソワ・ドラサール・シャンパーニュ・ゴリエ DELASALLE-CHAMPAGNE-GOLIER (Alexandre-Jean-Francois), 27歳・元貴族。マンMans生。
(ゴイエ・アレクサンドル・ジャン・フランソワ・デザール・シャンパーニエ Gohier-Alexandre-Jean-Francois Dessalle-Champagnier 王室シャンパーニュ騎兵連隊少尉
ゴイエ・アレクサンドル・ジャン・フランソワ・ド・サール・ド・シャンパーニェ・ド・モワレ Gohier-Alexandre-Jean-Francois de Sales de Champagne de Moyre 1767年7月30日生まれか。
メーヌ地方初審裁判所所在地及びセネシャル行政区ラ・サルト県の議会、バイイ裁判所、会計院、租税院、造幣院の裁判権・司法権の1790年以前の記録概略という資料の中の1787年の項に、モワレ領主
にして士爵ルネ・ド・シャンパーニェRene de Champagne, chevalier, seigneur de Moyreと妻ジャンヌ・フランソワーズ・ド・トーローJeanne-Francoise de Tahureauの要請により、王妃食糧係の貴族Louis-
Charles de La Toucheに対するSaint-Michel de ChavaignesのLa Coutureの土地の押収宣告を告知したとかある。
⇒ゴイエ・アレクサンドル・ジャン・フランソワ・ド・サール・ド・シャンパーニェ・ド・モワレ Gohier-Alexandre-Jean-Francois de Sales de Champagne de Moyre 1767-94 オート・アンジューの古い騎士の一族で
テュファード館{Logis des Tuffades}の18世紀の所有一族。父親はMarquis de Champagne,Rene-Francois 1727生。モワレMoyreとテュファードとラ・ノエLa Noeの領主にして城主の士爵。Vicomte de Perriers
でもある。1744年から軍に仕え、ナミュール包囲戦や46年のロクー Rocouxの戦に参加。Berg-op-Zoom包囲戦、47年ラウフフェルトの戦、48年マーストリヒトの包囲戦、59年ミュンスター、60年ケルンでの作
戦等に従軍した。63年サン・ルイ騎士。65年王室砲兵隊オーソンヌ連隊砲兵中隊大尉。77年王室砲兵隊監察官。65年王室砲兵連隊大佐Etienne TahureauとJeanne-Francoise Prudhomme de Melleの娘
Jeanne Tahureauと結婚したとあるので、上述の裁判記録に出てくる夫婦は、この父親だと思われる。この結婚で生まれたのが、この人と、72年7月9日洗礼の弟Charles-Marie、そして66年2月12日生まれの
妹Jeanne-Perrine-Reneeである。このChampagne de Moyre系の分家の他に多くの系がある。この資料はFrancois Alexandre Aubert de la Chenaye Desbois, Dictionnaire de la noblesse, seconde edition, 
Paris, A. Boudet, 1770-1778なので、このChampagne de Moyre系の当主はこの人になっており、その後のことは記されていない)

2452. シャルル・フランソワ・ドロールヌ DELAULNE (Charles-Francois), 54歳。パリ生。
(クロード・ルイ・フランソワ・ドロールヌ Claude-Louis-Francois Delaulne サン・ヴィクトルSaint-Victorの元修道士でブレ{オワーズ}Bret {Oise}の元修道院長。1771年のパリ聖職者一覧に、サン・ヴィクトル
修道院の長として載っている)

2453. ジャン・バティスト・ドレルム DELERME (Jean-Baptiste), 36歳{56歳?}。ティオンヴィルThionville生。
(ジャン・バティスト・ドロルム Jean-Baptiste Delorme 元サン・ルイ騎士、元貴族で、パリ地方連隊擲弾兵大尉)

2454. フレデリク・ドザルム・キルブルク DESALM-KIRBOURG (Frederic), 48歳。ランブールLimbourg生。
(ザルム・キルブルク大公フレデリク Prince de Salm-Kyrbourg,Frederic。正式にはFriedrich III. Johann Otto Franz Christian Philipp Furst
 zu Salm-Kyrburg, 1745-94
ザルム=キルブルク侯フィリップ・ヨーゼフとその妻でホールン公マクシミリアン・エマヌエルの長女マリア・テレシア 1725-83 の間の長男。
姉マクシミリアーヌはトゥアール公ジャン=ブルターニュ=シャルルに、妹アメリーはホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯アントン・アロイス
にそれぞれ嫁ぐ。兄弟姉妹とともにフランス宮廷で育ち、フランス語名のフレデリク・ド・サルム=キルブール{Frederic, prince de
Salm-Kyrbourg}で呼ばれた。83年の母の死により断絶したホールン公家の資産を継承、ブラバント北部ボクステルのスタペレン城などを
入手する。82年から87年にかけ、パリに私邸オテル・ド・サルムを建設。 フレデリクは1780年代のネーデルラント連邦共和国において、
愛国党の軍事指導者として重要な役目を果たした。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が1781年防壁条約を破棄したときは皇帝との交渉役を担い、
続く1784年のやかん戦争に際しては軽騎兵8隊、猟兵2隊、歩兵6隊で構成されるライン軍団の司令官に就任した。ホラント州政府は軍団を
維持するための給与の支払いを渋るが、愛国党の人々が募金によって軍団に給金を与えた。87年5月12日、フレデリクは愛国党のため
にユトレヒトを占領し、6月28日にはウールデンに歩を進めて愛国党の憎悪の的であった総督夫人・オラニエ公妃ヴィルヘルミーネを逮捕した。
ヴィルヘルミーネの兄プロイセン王の派遣したブラウンシュヴァイク公率いるプロイセンの軍隊がネーデルラントを侵略し始めると、フレデリ
クは戦わずして軍団を退却させ、愛国党の激しい批判を浴びた。フレデリクは姿をくらましたが、おそらくグルムバッハの家領に住む弟モー
リッツの許に身を寄せていたと考えられる。88年、パリに戻っていたフレデリックは、愛国党の指導的政治家ピーテル・パウルスのパリ訪問時
に面会を望むが、拒否されている。自由主義者のフレデリクは、1789年のフランス革命の勃発を好意的に見ていた。1792年12月29日付けの
国民公会宛て書簡に自らの領邦主権を放棄してフランス市民となる旨を表明、1793年3月にはザルム=キルブルク侯領がフランス軍に併合
された。93年1月のルイ16世処刑後、王党派はプロヴァンス伯を中心とするグループと、王妃マリー・アントワネットを指導者と見なすグループ
に分裂したが、フレデリックは後者に属した。彼の属する王党派グループにはカステラーヌ侯爵、ブロイ公爵、ディロン伯爵、エナン公らがおり、
彼らはデュムーリエ将軍の支持者だったが、デュムーリエが93年4月にクーデタ未遂を起こして失敗すると、その共犯者として追われる身となった。
フレデリクはヴィトリー=ル=フランソワに潜伏していたところを捕らえられ、その後は当局の監視下で生活していた。94年2月13日、反革命派の
容疑で逮捕・投獄される。7月4日、カルム監獄(英語版)の収容者45人が当局によるでっち上げの陰謀を計画したと告発された。その中にはフレ
デリク、そして妹アメリー{Amalie Zephyrine von Salm-Kyrburg 1760-1841}の愛人だったアレクサンドル・ド・ボーアルネ子爵{2437}が含まれていた。
2人は7月23日にギロチン刑に処された。テルミドールのクーデターの4日前だった。{日本語版WiKiより編纂} 2058のDoldecopはザルム大公付侍従
官とあるが、この人の侍従か。もう一人の妹Auguste Friederike von Salm-Kyrburg 1747-1822はDuc de Croy,Anne Emmanuelに嫁いでいる)

 Prince de Salm-Kyrbourg,Frederic........................................................................................... 
..............................................................................................................................................................................................................妹・Auguste Friederike von Salm-Kyrburg  妹・Amalie Zephyrine von Salm-Kyrburg

2455. 二コラ・マリー・ガブリエル・ドヴィリエ DEVILLIERS (Nicolas-Marie-Gabriel), 28歳。パリ生。
(憲法制定国民議会、立法議会、国民公会の事務所の職員)

2456. ジャン・バティスト・ディディオ DIDIOT (Jean-Baptiste), 31歳。代理人。デーヌDesne生。
(ラ・ブルドネの奉公人とあるが、この時期ラ・ブルドネは幾人かいる。Vicomte de La Bourdonnaye,Anne Francois Augustinは元貴族だが革命軍将軍として活躍し去年亡くなっているが、妻子が逮捕
され、本人は病没。Marquis de La Bourdonnaye,Charles Clairは亡命し亡命軍に加わり資産は没収されている。Charles Esprit Marie de La Bourdonnaye de Blossacはイギリスに亡命している。Comte
 de La Bourdonnaye-Montluc, Charles Olivier Marie Severeは国内で反軍の将をしている。Comte de La Breteche,Francois Regis de La Bourdonnayeは亡命し亡命軍に従軍している)

2457. ジャン・ユペール・ドゥートルモン DOUTREMONT (Jean-Hubert), 32歳。パリ生。
(元副校長。abbe Viennetの元秘書)

2458. アンリ・デュピュジェ DUPUJET (Henry), 52歳。パリ生。
(元近衛銃士で元侯爵とある。Marquis de BombellesのJournal Tome 4, 1793-1795の中には「Le marquis du Puget, 54歳。Mme de Lowendalの姉妹であるルイ15世の私生児と結婚した人物」と処刑記録
に注釈を加えている。しかし、この注釈は錯誤がある。まず、該当するデュ・ピュジェは、Comte du Puget,Denis Nicolas du Puget 1777没、擲弾兵大佐であり、1769年にMarguerite Marie de Bourbon 1752
-1830と結婚し、Marguerite Marie du Puget 1772-1860頃{この娘は1805年アメリカのルイジアナでFrancois Louis Chemin de Forgues 1759-1840と結婚している}をもうけている。確かにこの妻はあの有名な
Marechal de Lovendal 1700-1755の息子Comte de Lowendal,Francois Xavier Joseph, 1742-1808と72年に結婚したCharlotte Marguerite de Bourbon1754-1839の姉であり、「Mme de Lowendalの姉妹」で
ある。しかし、その姉妹はルイ15世の私生児ではない。しかしこの二人の姉妹はComte de Charolais,Charles de Bourbon-Conde 1700-60とMarguerite Caron de Rancurel 1800没との非摘出の娘たちな
のだが、このComte de Charolais自身はルイ14世とモンテスパン夫人の娘Louise Francoise de BourbonとPrince of Conde,Louis IIIとの娘なのである。つまりMarquis de Bombellesの注釈を修正するので
あれば、「Le marquis du Puget, 54歳。Mme de Lowendalの姉妹で、ルイ14世の私生児と結婚した人物の息子と愛人との間の娘と結婚した」となる。しかし、その人物はComte du Puget,Denis Nicolas du
Puget 1777没なのであり、諸々の点で相違が多い。処刑されたピュジェ侯爵であれば、トゥールーズ高等法院大審部部長評定官のHenri Bernard Catherine de SAPTE du PUGET 1744-94{Marquis。在職
60-90年}がいる。この人は処刑記録にはないが94年に処刑されている人物だ。しかしトゥールーズ高等法院関係者がまとめて処刑された6月14日がこの人物の処刑日である。{⇒1392}
その他のデュ・ピュジェあるいはド・ピュジェ家でも該当者は見当たらない)

2459. エティエンヌ・フランソワ・ガレ・サンテール GALLET-SANTERRE (Etienne-Francois), 43歳。実業家。パリ生。
(EtienneFrancois Gallet-Santerre 1750-94  銀行家で商人。職業も銀行家になっていても没年が1805年頃55歳にて、ともあるが処刑されている。1780年Angelique Eleonore Felicite LE PRIEUR 1760頃生
と結婚し、イタリア・トリエステの税関職員となる Francois Pierre 1780生、税関管理官の Pierre Louis DIZIEと結婚するAlexandrine Felicite 1785生、等一男二女をもうける。
この人は、ある人物を救ったことにより、多くの者をギロチンから救済した。その人物とは俳優のCharles-Hippolyte Delpeuch de La Bussiere 1768-1808である。この男は家柄は良いが貧しい将校の息子に
生まれ、サヴォワ・カリニャン連隊士官候補生となったが、すぐに軍隊を去りパリに出て俳優を志し郊外の劇場で多少の人気を博していた。89年ある集会でパリの秩序を回復させるために12000人の部隊を
呼び寄せろという提案をし、怒った人々によって街頭に吊るされた。フランス衛兵によって身柄を確保されアベイ監獄に収監された彼を知人のこの人が引き取り、騒ぎが収束するまで田舎に住まわせた。
その後、この男は公安委員会と一般保安委員会に雇用され、テルールの本部の職員となる。そこで、男は、94年春チュイルリー宮2階に設けられたサン・ジュストの警察本部の事務所で、なんと知り合いの
劇団関係者の処刑者ファイルを抜き取って命を救うという行動を続けた。セーヌのロワイヤル橋近くの入浴施設 Bains Vigierに夜に立ち寄り、そこでファイルを廃棄するということを繰り返した。彼の手元
ファイルが消えると、収監されている者の名が牢獄の名簿からなくなり、検察官へ提示されなくなるのだ。こうして劇場管理者Montansier嬢とその恋人、テアトル・フランセの俳優たちを50以上、そして94年
7月〜9月の分924ファイルを破棄。ヴォルテールの養女となったヴィレット侯夫人{「歴史に名を刻んだ人々」余談1参照}、植物学者の姪ビュフォン夫人、外交官の叔父タレイラン・ペリゴール、劇作家でもあ
ったセギュール子爵、ラ・ファイエット夫人、モナコ王子、キュスティーヌ将軍未亡人等の1153人にのぼるという。しかし、89年に彼を救済してくれた恩人であるこの人のファイルは抜けなかったようだ)

2460. ジャン・バティスト・ギルベール GUILBERT (Jean-Baptiste), 47歳。アングレスク・ヴィルAnglesque ville(Angleville)生。
(Jean-Baptiste Guillebertとも。Montfermeilの元憲法上の司祭)

2461. シャルル・アルロップ HARROP (Charles), 22歳。商人。ロンドル(ロンドン? ロンドルというフランス地名もある)Londres生。
(革命で処刑されたイギリス人の中に名があるので、出生地は「ロンドン」だろう。1793年1月にドイツの港で軍事店を購入するために派遣され、理由は不明でその後逮捕された。カフェで革命に反対する発言
をしたという証言もある)

2462. フランソワ・ルイ・エティエンヌ・アンベール HUMBERT (Francois-Louis-Etienne), 28歳。元貴族。第19猟歩兵連隊大佐。サルグミーヌSarreguemines生。
(Francois Louis Etienne de HUMBERT 1768生 は生年が2年ほど遅いが、生地も符合するのでこの人と思われる。但し処刑の事実もなく没年も不詳になっている。この人は父親はポーランド王の侍従官で
1771年Bercheny連隊大佐、84年野戦総監となったFrancois Louis de HUMBERT 1725-96。母親はMarie Elisabeth Marthe Beatrice JOLY de MOREY 1735-1822。父親も革命中はBeurnonville旗下でモーゼ
ル軍に勤務していたが、上官の命令で93年1月ティオンヴィルにて逮捕、しかし同年7月には釈放、自宅に引退、96年モーゼルのChateau de Moreyで死去している。
四男二女の長子。恐らく成人したのは妹 Elisabeth Suzanne 1769-1807だけで、94年9月にGermain HENRY 1753-1808と結婚し子を残している。この妹は自身がComtesseの称号をもっている。
この人の詳細は不明。結婚記録はない)

2463. ジャン・ルイ・アンリ・ジョリ・ブヴィ JOLI-BEVI (Jean-Louis-Henry), 53歳。元貴族。元ポワトゥー連隊中佐。ディジョン生。
(Jean-Henri-Louis Joly-Beviとも。Seigneur,M. de Joli de Beviという歩兵大佐で聖霊騎士、サン・ルイ騎士がAlmanach civil, politique et litteraire de Lyon et du departement de Rhone.{1787年}に載っている)

2464. ジャン・ポール・マリー・アンヌ・ラティル LATYLL (Jean-Paul-Marie-Anne), 47歳。Thomas d'Aquinの憲法上の元司祭。元オラトリオ派聖職者。マルセイユ生。
(Jean Paul Marie Anne Latyl 1747-94 革命時はナントのオラトリオ派学校の学長。89年三部会議員。90年12月最初に憲法を受け入れ誓約した聖職者の一人。91年2月ナントのSaint-Clement教会の教区司祭
に選出されたが、彼はパリのSaint-Thomas d'Aquinの司祭になる)

 Jean Paul Marie Anne Latyl

2465. ルイ・フランソワ・ルロワ・ド・グラモン LEROY DE GRAMMONT (Louis-Francois), 64歳。元貴族。ボンヌターブルBonnetable(Bonne-Libreとも)生。
(Louis-Francois LEROY de GRAMMONT ルロワ・ド・グラモンになるとグラモン家の分家のひとつにも見当たらなく、詳細は不明)

2466. クロード・ルサージュ LESAGE (Claude), 23歳。教師。レーグルLaigle(l'Aigleとも)生。
(父親がClaude LESAGEで母親がMarie HERVEで1765年Laigleで生まれたJean LESAGEがいる。この人物は1803年10月17日から1805年7月5日まで第17歩兵連隊にいた。元オーヴェルニュ
連隊だった第17歩兵連隊は1805年ドイツの作戦に加わっており、この12月にアウステルリッツの戦いに参加している連隊。年齢的には全く符合せず)

2467. ルイ・アレクサンドル・マリー・ル・セネシャル・カルカド LE SENECHAL CARCADO (Louis-Alexandre-Marie), 38歳。モラックMolac生。
(ケルカド・モラック侯爵、スラン男爵ルイ・アレクサンドル・マリー・ジョゼフ・ル・セネシャル・ド・カルカド・モラック Marquis de de KERCADO-MOLAC, Baron de Serent,Louis Alexandre Marie Joseph Le
SENECHAL de KERCADO-MOLAC 1757-94 アルマニャック連隊歩兵大尉。Carcadoの別名でも知られる。ロアン子爵領の封建大法官grand senechalの職名より由来。
父親はペリゴール歩兵連隊大佐にしてカンペル総督のMarquis de Molac , Comte des Chapelles , Baron de Saran{Serent?},Corentin Joseph Le SENECHAL de KERCADO1720-1806 。母親は
Marie Anne Le SENECHAL de KERCADO 1739-83。三男五女の長男。異母兄弟が1名あり。
1785年サン・マロにてCatherine Marie Jeanne PICHARD de SAINT-JULIENと結婚。二男一女がいた。妻の母の兄{義理の伯父}は1543、妹{義理の叔母}アデライドは1542。
カルム監獄の陰謀の共謀者としてパリで逮捕。勇気と決断力で名高い人物だったらしい。
この人の母方祖父の弟、つまり大叔父Comte de Kercado,Louis Gabriel LE SENECHAL DE KERCADO 1716-85は1783年三度目の結婚でAdelaide Raymonde de MALEZIEU 1755-1808と結婚した。
この妻はルイ16世の宮廷に出仕しマリー・アントワネットの取り巻きとなるが孤児救済の活動をしていた。ちなみにこの二人の83年の結婚の立会人はバスティーユ長官ローネー侯である)

大叔父の妻・Comtesse de Kercado,Adelaide Raymonde de MALEZIEU  

2468. ルイ・マレ・グーイ・ダルシー MALET-GOUY-DARCY (Louis), 41歳。元議員。パリ生。
(グーイ・ダルシー侯爵ルイ・アンリ・マルト・ド・グーイ・ダルシー Marquis de Gouy d'Arcy,Louis Henri Marthe de GOUY d'ARSY{d'Arcyとも} 1753-94 王妃竜騎兵連隊大尉、国王胸甲騎兵隊中佐、
野戦総監、三部会議員、フォンテヌブロー国民衛兵司令官。
父親はイール・ド・フランス中将Marquis d'Arsy,Louis de GOUY d'ARSY 1717-90。母親はアデライド王女女官Anne Yvonette Marguerite Esther de RIVIE 1723生。{この両親の71年の離婚訴訟では
1766のシモン・ニコラ・アンリ・ランゲが夫側の弁護を行った}姉にMarie Louise Henriette Monique1749-1823がおり、Marquis des Salles,Louis Antoine Gustave des SALLESと結婚しているが、79年
一女をもうけ死別、87年にアイルランド貴族で67年帰化した王軍中将Barthelemy O'MAHONY1748-1825と再婚し、一男Arsene O'Mahony 1787-1858は二度の結婚で九女九男を残している。
また弟Comte de Gouy, Francois 1755-80{81とも}は竜騎兵大尉だったが、24歳{25とも}で死去。{医師であったジャン・ポール・マラーの治療の失敗で死亡。但し若き伯爵は充分な治療をしてくれたと
人々に保証し、マラーの医療ミスではないと言い遺している}
1768年近衛銃士隊第二中隊入隊。70年王室砲兵隊ブザンソン連隊中尉。74年王妃竜騎兵連隊大尉。89年国王第二胸甲騎兵連隊中佐。91年第六竜騎兵連隊大佐。92年准将。89年サント・ドミンゴの
貴族議員となり、球戯場の誓いの署名者の一人。
1780年サント・ドミンゴの大地主の娘Anne Amable HUX de BAYEUX 1763生 と結婚。母親はクレオールの身分の嫁をとることに反対したが、王室の承認はおりた。長男 Ange Emmanuel de GOUY 
d'ARSY 1782-1861は一族の領地であるMarines{セザンヌは1888年から1890年まで滞在した}の市長、次男Athanase de GOUY d'ARSY 1785-1849はSeine-et-Oiseの議員、兄の後任でMarines市長
となっている。女児は二人いたが夭折している)

 Marquis de Gouy d'Arcy,Louis Henri Marthe de GOUY d'ARSY...................................................................................................................長男 Ange Emmanuel de GOUY d'ARSY 
次男・Athanase de GOUY d'ARSY........
姉・Marie Louise Henriette Monique(推定される肖像画)  
義兄・Barthelemy O'Mahony............. 甥・Arsene O'Mahony

2469. マリー・アンヌ・マリコルネ MALICORNET (Marie-Anne), 36歳。シャルネリーCharnery(CharnayともChanay)生。
(1758-94 シャルトルの司祭エティエンヌ・ラガルドLagardeの使用人。ただの貧しい女性だったが、日頃より反政府的な発言が目立っていた。「多くの頭領をもとよりも、国王一人を頭領にする方がましだ」
等。そして直ぐに捕らわれた。しかし自分は妊娠していると申告し、l'hospice de l'evecheに移されて、テルミドールで解放されるはずであった。しかし、彼女はタリアンに最後のお別れ、もしくは最後の意見
として「短刀」を送り付けたために、処刑されてしまった)

2470. ジャン・バティスト・マレット MALLETTE (Jean-Baptiste), 27歳。金具商人。エクシドゥイユExcideuil(Leideuilとも)生。
(アネット・ジャン・バティスト・マレットAnnette Jean-Baptiste Malletteとも。 また金具商人ではあるが、「元貴族で元暴君の小姓」ともある)

2471. ジョシュエ・マルーエ ・MALOUE (Josue), 25歳。代理人。リメリック(アイルランド)生。
(ジョン・マローヌ John Maloneとも。ワードWard{⇒2489}の使用人)

2472. ジャック・エティエンヌ・マルシャン MARCHAND (Jacques-Etienne), 59歳。国民乗馬警邏隊gendarmerie nationale中尉。ルールLure(l'Eure)生。

2473. アントワーヌ・マルシヤック MARCILLAC (Antoine), 43歳。宝石商。リヨンCommune affranchie生。
(Antoine Marsillacとも。宝石商でパリのラ・ジュシエンヌla Jussienne大隊の傭兵中隊大尉)

2474.ジュール・フランソワ・ミシュレ MICHELET (Jules-Francois), 52歳。パリ生。
(メーム侯爵Marquis de Mesmeの元代理人)

2475. シプリアン・ミエル MIEL (Ciprien), 30歳。刃物屋。ラングルLangres生。
(Cyprien Mielleとも)

2476. ルネ・ジャック・ミニャール MIGNARD (Rene-Jacques), 32歳。ノワイエNoyers生。
(水夫、後にパリ自治体の職員)

2477. ブノワ・ミヨ MILLOT (Benoit), 52歳。エタンEtang生。
(エタン自治体の書記官)

2478. フランソワ・モロー MOREAU (Francois), 40歳。鬘師。ディジョン生。
(ブランデー商人でもある)

2479. ピエール・オブルナン OBRENANT (Pierre), 63歳(55歳とも)。元司祭。コンピエーニュ生。
(1739-94 マント近くのMagny-Guervilleの元司祭。憲法宣誓を拒否したので国外追放されたが、フランスに戻ったために逮捕されたとある。
パリの国立公文書館の歴史センターに保管されている文書の1785年3月19日、「現在のCauxのManiquervilleであるかつてのJugier (Juziers ?)の元教区司祭」とあり、
代官のMarquis de LESTORIERE,Armandの名がある)

2480. 二コラ・パラン PARENT (Nicolas), 36歳。自営業。トリニーThorigny生。
(スイス、ドイツと旅行して93年4月のみ帰国していたとして逮捕)

2481. ジャック・ジョゼフ・ペステル PESTELS (Jacques-Joseph), 49歳。ラ・シャペル・オー・プラLa Chapelle-aux-Plats(Chapelle-en-Placeとも)生。
(Jean Josephとも。元貴族で、マルタ騎士とある。
PestelsまたはPesteils家はオーヴェルニュ、リムーザン出身の高貴な家柄。Grimoard de Caylus家やCassagnes de Beaufort家と交わりつつ19世紀半ばまで存在した。この一族に
La Chapelle分家がある。Baron de La Chapelle-aux-Plats,Francois-Antoine de Pesteils{この分家はこの綴りを使ったらしい} de La Chapelleはseigneur de La Chapelle-aux-Platsで
同地のChateau de La Chapelle-aux-Platsに居住。Vialore分家の従妹Marguerite de Pestelsと結婚し、この分家の最後の一人娘Josephie de Pesteils de La Chapelleを残し、娘は
1779年Francois de Caissac, seigneur de Laroquevieilleと結婚したとある。この辺りの血縁者だと思うが、記録はない。系図ではこのフランソワ・アントワーヌには妹が二人いるのみで、
またその父親Jacques Louis de PESTEILS-La CHAPELLE 1774没 にも、男兄弟はJacques FrancoisとJosephがいるものの詳細記録がなく夭折かも知れない。何らかの重要な欠落
が系図上であるように思われる。名前はマルタ騎士承認簿{下記}からJacques-Josephが正しく、出身地もこの一族の記録からLa Chapelle-aux-Platsが正しいと思う。
また1761年5月6日にJacques-Joseph de Pesteilsに対するマルタ騎士承認の記録が1789年発行のCatalogue general et alphabetique des familles nobles de France admises dans
 l'Ordre de Malteにある。ちなみにその記録の上にはFrancois-Andre de Pesteils La Chapelleが1770年9月10日にマルタ騎士承認受理とある)

2482. ノエル・グザヴィエ・クローアン QUERHOENT (Noel-Xavier), 52歳。ボワ・ルアンBois-Ruant生。
(クローアン伯爵ノエル・グザヴィエ・ド・クローアン Comte DE QUERHOENT,Noel-Xavier de Querhoent 1744-94 野戦総監。ザルム・キルブルクのドイツ人部隊大佐。
父親はPierre Louis de QUERHOENT{de Kerhoent} 1710-88。母親はMarie Rose BRUNET DE LA GUERCHE 1717-81。兄は海軍大尉Marquis de Querhoent,Jean Sebastien 1742-1821
がいる。弟にJoseph Marie 1749-1822、Herve Salomon、Henri Louis 1755生がいる。兄と弟Joseph Marieは結婚している。Herve SalomonはVannes教会参事会員になり、末弟は不明。
この人の結婚記録はない。国民公会のルクレールの一族が領地の管理・収税をしていて仕えたクローアン侯は seigneur de Montoireなので、生没年も同じこの人の父親Pierre Louisであると
思うが、94年7月のこの時期にルクレール議員の郷里の女主人は未亡人の2597クローアン侯爵夫人であり、その夫はLouis-Joseph de Querhoentで、クローアン家のロクマリア領主系の分家
のようだ。どうしてまだ当主が存命中に同族他家に移ったのかは不明)

2483. ルイ・アルマン・コンスタンタン・ロアン・モンバゾン ROHAN-MONBAZON (Louis-Armand-Constatin), 35歳⇒62歳。パリ生。
(モンバゾン大公、ロアン士爵ルイ・アルマン・コンスタンタン・ド・ロアン Prince de Montbazon,Chevalier de Rohan,Louis-Armand-Constantin de Rohan 1732-94 名門出の海軍将官
第6代モンバゾン公HerculeMeriadecde Rohan 1688-1757とロアン家分家筆頭の娘Louise-Gabrielle-Julie de ROHAN-SOUBISE 1704-41の7人の子供の5番目。
フランス海軍に加わり、 1758年4月29日の作戦で64門艦Raisonnableで大尉を務め、七年戦争中ビスケー湾で70門艦HMS Dorsetshireに捕獲された。 戦後の1764年に、彼は戦隊司令官に昇進、
66年にリーワード諸島の総督に任命された。68年、彼はサン・ドミニクのフランス人入植者による反乱鎮圧に従事。 70年、海軍中将に昇進し、翌年、結婚{下記}。アメリカ独立戦争の勃発時に、
トゥーロンを拠点とするレバント艦隊の副提督に昇進したが、1768年と1769年のサン・ドミンゴでの行動は論争を呼んだ。彼は公然と敵対し、1789年のフランス革命に続いて海軍を去る。
1794年にフランス共和国への忠誠を証明することを拒否した後、 革命裁判所によって非難され、ギロチンによって処刑された。
1771年、ルイ15世治下で戦争大臣だったFrancois-Victor Le Tonnelier de Breteuilの娘Louise Rosalie 1726{1727とも}-1792{70とも}と結婚。ブルトゥイユ男爵ルイ・オーギュストは祖父同士が兄弟の
又従姉弟の関係。子はいない。
活動的なフリーメーソンであった。弟Louis Rene Edouard de Rohanは、首飾り事件のロアン枢機卿である)
母・Louise-Gabrielle-Julie de Rohan-Soubise  
兄・Prince de Guemene, Duc de Montbazon,Jules Hercule Meriadec de Rohan 1726-1800
弟・Cardinal,Louis-Rene-Edouard de Rohan Guemene 1734-1803

2484. ジャン・ジャック・ソーナック SAUNHAC (Jean-Jacques), 32歳。元貴族。所有地の自作農。ヴィル・ロングVille-longue生。
(ヴィルロング侯爵、ダンピアック男爵ジャン・ジャック・アルマン・アントワーヌ・ド・ソーナック Marquis de Villelongue,Baron d'Ampiac,Jean Jacques Armand Antoine de SAUNHAC 1762-94 
Chateau de Villelongue生まれ。Jacques-Jean Saunhaerともあるが、誤記と思われる。
父親は近衛銃士隊中尉Comte de Villelongue,Michel Louis de SAUNHAC 1709-73。母親はDame d'Ampiac,Marguerite de PORTAL 1691頃-1747。
姉Jeanne Marie Antoinetteは1747年生まれとのみ記録。兄Jean Antoine Jacques Louis 1751-79は生没記録のみ。28歳で亡くなったとのみ。次姉Antoinette Clemence Marguerite Marieも
1756年生まれという生年の記録のみ。弟Louis Henri Philippe 1763-1833は、王室騎兵隊中尉だったが亡命し従軍、帰国後はヴィルロングに定住、子{結婚}なく死去しソーナック家のBranche
 d'Ampiac Villelongueは断絶。亡命者ファイルの特徴欄には「身長157cm。暗い茶色の髪と眉毛、茶色の目、短い鼻、中程度の口、丸い顎と顔、普通の額」とある。末弟Gabriel Amans Charles
 1770-91はChateau de Villelongueの麓を流れるle Lezert川にて事故で溺れて亡くなった。{le Lezertは渓谷。作家のアンドレ・マルローがレジスタンス活動をしている1944年に、ここで保護され
たがゲシュタポの待ち伏せで逮捕[後にレジスタンスにより救出]された。城の礼拝堂には「レジスタンス博物館」がある}
この人は亡命していたが帰国しパリに潜伏。故郷Aveyronの刃物師Garriguesという人物が献身的に世話をしてくれたが、やはり出身地のAmpiacのCalmelsという男に告発され逮捕。
処刑されてしまうが処刑日は93年9月27日となっている資料もあり。
ソーナック家は12世紀にはフランス国王に忠実な騎士として確認できる一族。ルエルグとケルシーに分家を作りながら存続。La branche du Fossatは1753年にアメリカ・ルイジアナに渡り枝分かれ
していった。この人のd'Ampiac et de Villelongue系はBelcastel系と並ぶ最も古い分家のひとつ)

2485. ジャン・ダヴィット・ガブリエル・スーラヴィエ SOULAVIER (Jean-David-Gabriel), 49歳。代理人。シュロバッハ(ドイツ)Schrobach (Allemagne)生。
(イギリス人の奉公人。93年3月に帰国していたが、何人も亡命させた共謀者として逮捕されていた)

2486. ジョワシャン・シャルル・ソワイエクール SOYECOURT (Joachim-Charles), 69歳。パリ生。
(ソワイエクール侯爵ジョワシャン・シャルル・ド・セグリエール・ド・ベルフォリエール Marquis de Soyecourt,Joachim Charles de Seigliere-Belleforiere 1725-94 ピカルディー名門の軍人。アスフェルド
連隊竜騎兵大尉。
父親はMarquis de Soyecourt, Joachim Adrien Adolphe de Seigliere-Belleforiere 1686-1738。母親はPauline-Corisande de Pas 1704-42。兄で野戦総監のLouis-Armand 1722-90{83とも}は三回結婚した
が女児のみ、Antoine Adolphe 1723頃-91は未婚のまま死去、侯爵位はその相次ぐ後継者なしの兄らの死去により継承した。
パリのヴェルヌイユ街の私邸やピカルディーの居城chateau de Tilloloyに住んでいたが、革命後Tilloloy近くのBeuvraignesの市民権を獲得した。しかしパリに滞在中に逮捕、1794年2月12日投獄。妻も、
2人の娘{一人は2524、もう一人は Eleonore Raymonde。後者は1755年頃生まれて79年にEmmanuel Dieudonne DE LA TOUR EN VOIVRE 1752-1824と結婚しているが、それ以外の記録がないので処刑
は免れたものと思われる}も一緒に収監。妻は翌月獄死する。Tilloloyの領民らは侯爵の釈放嘆願に代表団を送り込むが徒労に終わり、処刑となる。この人の処刑により、その財産は、2524の嫁ぎ先だっ
たHinnisdal家に移った。
1749年中将Comte des CHARMES et du GUA,Pierre de BERENGER 1676-1751の娘Marie Sylvie de BERENGER-SASSENAGE du GUAと結婚したが、この人の処刑の4か月前の3月25日に牢内にて
亡くなっている。{この妻の母親は Antoinette-Henriette Francoise Boucher d'Orsayだが、妹のCatherine Margueriteは2424の母親} 妻の兄{弟?}Marquis de Beranger,Raymond Pierre de BERANGER
{2492サン・テニャン公の義父}の妻の姉は2433タラリュ侯の妻。3人娘がいたが、その一人Catherine-Louise de Seigliere 1759-94は2524。また今一人の娘Francoise Camille de Seigliere 1758-1849 
はCamille de Soyecourtとして名高いパリのカルメル会修道院の再興者。84年にパリの同修道院に入ったが、革命で家族共々投獄。このカミーユは解放され、相続財産が回復されると、修道院を買い
取り再興。98年から1807年にかけて各地の修道院の再建に資金を注いだ。ナポレオン時代は弾圧され投獄・追放もされたが、ナポレオンが去ると再び修道院を開き91歳で没した。
ソワイエクール家は11世紀からのピカルディーの貴族。もとはコルビー伯爵・修道院長の臣下に始まる。ソワイエクール領主として数々の人物を輩出した本家は、16世紀にBelleforiere家の娘との結婚で
Belleforiere-Soyecourt家となる。Soyecourt-Mouy分家やSoyecourt-Franconville分家等分かれていくが、Belleforiere-Soyecourt家は爵位も付与され総督、高位将官、官僚など宮廷に近い人物を世に
送っていく。モリエールが「町人貴族」{1670年}の中に登場させたブルジョワ商人を手玉に取る宮廷貴族ドラント伯爵のモデルになった王室狩猟長官marquis de Soyecourt,Charles Maximilien de Belleforiere
 1619-79などその頃の当主だ。しかし1690年7月に二つの悲劇が起きる。この王室狩猟長官の二人の息子、ヴェルマンドワ連隊大佐のMarquis de Soyecourt,Jean Maximilien de Belleforiere-Soyecourt
1656-90と弟で王太子近衛騎兵隊長Adolphe de Belleforiere-Soyecourt 1656-90が、アウグスブルク同盟戦争中の1690年7月のFleurusの戦で、共に子孫なく戦死するのである。{弟は2日後に戦傷死}そこで、
この二人の兄弟の妹Marie Renee de Belleforiere 1657-1739はMarquise de Soyecourtになる。彼女は1682年宮内府訴願審査官Thimoleon Gilbert de Seigliere 1695没 と結婚していたので、Seigliere de
Belleforiere de Soyecourt系が誕生した。以来、ソワイエクール家はこの子孫らに継がれていくわけだが、上述のようにこの人の兄二人は、三度の結婚の努力も空しく、あるいは独身主義によって後継者を
得ることなく、90年、91年と相次いで亡くなり、また大革命によって新しい当主になったこの三男坊もギロチンに果てた。しかしこの人にはVicomte de Soyecourt,Adolphe Fois Joachim de Seigliereという男子
継承者がいたのだ。だが、彼は、26歳で若くして亡くなってしまった。26歳ならば、この父親が24歳{あるいは23歳}で結婚しているように、結婚していてもおかしくはない年齢だが、1786年、親よりも早く未婚の
まま亡くなっている。そして、11世紀来の名門貴族のソワイエクール家はこの人の処刑と共に絶えてしまったのである。
また、根拠となった一族発祥の地名や家名の綴りを発音記号で読むと確かに「ソワイエクール」となるが、ラ・ブリュイエールの「カラクテール」の中の注釈に、上述のソワイエクール兄弟の戦死について触れて
「ラ・ブリュイエールは家族の友人であり、その名前は常にソークールSaucourtと発音され、時にはそう綴られていた」とあり、種々の書物にも「Soyecourt,ou Saucourt」と書かれているものが散見される。
そもそも地名が1106年の文献でSoihecurt、1293年ではSoiecort、1397年Soiecourtと変遷して、Saucourtとなり、後にSoyecourtとなったらしい。つまり、「ソークール」はむしろ伝統的な古い呼称だったわ
けで、その呼び方、その綴りに誇りをもっていたから、このような面倒なことになったのだろう)

三女・Francoise Camille de Seigliere   
義父・Comte des CHARMES et du GUA,Pierre de BERENGER

2487. ジャン・バティスト・ヴァレ VALLET (Jean-Baptiste), 33歳。委員。ヴェルサイユ生。
(オルヌのムーリソーMoulisseau{Montessantとも}の元監視委員会委員で、元戦争事務局委員)

2488. マテュー・ヴェルディエ VERDIEZ (Mathieu), 56歳。モンペリエ生。
(マテュラン・ヴェルディエ Mathurin Verdierとも。 モンペリエ司教の元秘書)

2489. トマ・ヴァル(トマス・ワード) WARD (Thomas), 45歳。アイルランド、ダブリン生。
(ジャン・トマ・ヴァル Jean Thomas Ward 1749-94 アイルランド生まれのフランス革命軍将官。
フランスで育ち、大学もフランスで学んだ。89年当時はアイルランド連隊の将校。1793年4月12日、ダンピエール将軍補佐官として北方面軍の暫定准将となる。
デュムーリエの反乱後、多くの外国人将校同様にこの人も疑われ、93年10月、カルム監獄に収監された)

2490. ルイ・シャルル・ヴァロキエ WAROQUIER (Louis-Charles), 38歳。元貴族。サン・タフリックSaint-Affrique生。
(ルイ・シャルル・ド・ヴァロキエ Louis Charles de WAROQUIER 1757-94 sieur de Mericourt。軍人、系図学者。
元王室近衛騎兵隊中尉、元パリ国民衛兵隊少佐。「フランスおよび海外のいくつかの家の一般的な紋章」{1782年}、「聖職者、貴族および第三身分を含むフランス」{1784年}、「貴族の系図、歴史、年代、紋章および
地理学」{1786-89年}、「1790年と1791年の間に生死の境にあるフランス三部会、もしくはフランス」などの著書あり。またComte de Waroquier,Louis-Charles de Waroquier de Mericourt de La Mothe de Comblesという
名義で、「貴族の歴史的系図表、以下の内容を含む。1.侯爵・伯爵・子爵・男爵について 2.一族の系図 3.系図作成者の著書を参照しての姓の一覧 4.一万五千以上のアルファベット順の一覧」という著書を1787年、
パリの歩兵将校 M. le comte de Waroquier de Comblesより国王に謹呈、として著している。
父親は1728年ピュイジゥー騎兵連隊候補生、44年歩兵少佐だったSieur de Mericourt,Francois V de WAROQUIER 1708-88。母親は軍人・高等法院弁護士の娘Elisabeth de FLORIS。
長兄は1766年近衛軽騎兵、80年騎兵大尉のPierre Francois Auguste de WAROQUIER 1750-1830。ヴァロキエ侯爵とも呼ばれている。聖霊騎士でサン・ルイ騎士。1800年にボージョレ連隊歩兵大尉の娘で、
1785年から閉鎖の93年迄サン・シール寄宿学校に在籍していたMarie Elisabeth de DURAND de La CAPELLE 1777生 と結婚し一男一女{共に成人し結婚、子をもうけている}を残している。姉Ponce Laurence 1752-
1838は86歳で亡くなるまで未婚であった。56年生まれの次姉Elisabeth Susanne Ursuleと60年生まれの弟Jean Francoisは没年記録なしなので夭折か。父親は79歳、兄は80歳、姉は86歳まで生きたので、当時としては
長寿家系。この人も処刑されなければ王政復古まで生きられたと思われる。
ヴァロキエ家は13世の騎士に確認がとれる古い貴族家系。Warroquierともあり、この綴りが付記されている記録もある。「市民的な立場ではde Warroquierと綴るが、系図学者La Chesnaye-Desboisはde Waroquierと綴
った」とある)

1794年7月24日

2491. シャルル・ミシェル・アラン ALLAIN (Charles-Michel), 28歳。教師。パリ生。

2492. ポール・マリー・ヴィクトル・ボーヴィリエ BEAUVILLIERS (Paul-Marie-Victor), 通称サン・テニャンSaint-Aignan, 27歳。パリ生。
(サン・テニャン公爵、モントレゾール伯爵ポール・マリー・ヴィクトル・ド・ボーヴィリエ・ド・サン・テニャン Duc de SAINT-AIGNAN, Comte de MONTRESOR,Paul Marie Victoire de BEAUVILLIERS de SAINT-AIGNAN
1766-94
父親はDuc de Beauvilliers,Paul-Etienne Auguste de BEAUVILLIERS de SAINT-AIGNAN 1745-71。母親はMarie-Madeleine de ROSSET 1744生。
Francoise Camille de BERENGER du GUA 1770頃-1827 と結婚し、Duc de Saint-Aignan, Comte de Montresor,Raymond Francois de BEAUVILLIERS de SAINT-AIGNAN 1789-1811を生んでいる。
94年5月に妻と共に逮捕。妻は後者になっているが、懐妊により処刑されず、テルミドールで釈放、1827年まで生きている。その妻はレヴィ公の娘で処刑された2079の夫の妹である。
ルイ14世の寵臣だったサン・テニャン公 1648-1714 は高祖父。また後にスペインの公爵位を継承し、陸軍中将、pairs de Franceとなる叔父Charles-Paul-Francois de Beauvilliers 1746-1828は革命中
は亡命している)

叔父・Charles-Paul-Francois de Beauvilliers    
大叔父・Marquis de Saint-Aignan de Beauvilliers, Paul-Hippolyte 1712-88
曾祖父・Paul-Hippolyte de Beauvilliers 1684-1776

2493. フランソワーズ・カミーユ・ベランジェ BERANGER (Francoise-Camille), ボーヴィリエ・サン・テニャンBeauvilliers-Saint-Aignan妻。 29歳。ヴェルサイユ生。
(前者の妻Francoise Camille de BERENGER du GUAのことのようだが、この人が死んだのは1827年。しかも1770年頃生まれなので94年には24歳前後だ。この人については生年が不確かで1765-1827
という説もある。この説だと94年当時は29歳であるが、いずれにしても没年は1827年で処刑はされていない。1827年7月28日にパリで62歳で亡くなっている。尚、サッセナージュ城の資料でも、この人は
94年5月に夫共に逮捕、しかしテルールの終結により釈放され、95年1月1日に出産した娘Pauline-Arthemieには「Sauve la vie」{命を救った}というニックネームが付けられたとある。恐らくは、懐妊により
死刑執行延期が認められたと推定される)

 Francoise-Camille de Berenger(この人は恐らくは懐妊により執行延期され、解放された)............................................................... 
.........................................................................................................................................................................................................................................................................................父・Marquis DE BERENGER,Raymond Pierre de BERENGER 1733頃-1806
母方祖父・Comte de Sassenage,Charles Francois de SASSENAGE 1704-1762
2494. アンヌ・ロザリー・ボケ BOCQUET (Anne-Rosalie), フィユールFilleul妻。42歳。パッシーPassy生。
(アンヌ・ロザリー・アデライド・ボケ Rosalie Anne Adelaide Boquet 1752{53}-94 女流画家。ロザリー・フィユールRosalie Filleulで知られる。
画家でアカデミー会員。ラ・ミュエット城の管理者でもある。装飾画工Blaise Boquet 1721頃-84とやはり装飾画工で共に処刑されたMarie-Rosalie Halle
{2313}の娘。ヴィジェ・ルブランの友人でもある。肖像画と静物画に特化し、1773年 、アカデミーに認められ 74年から77年にかけてサロンで作品を展示し、
かなり好評を博した。伯父Louis Rene Jean-Baptiste BOQUET 1717-1814は97歳でなくなったが、王室催事担当部検査官で舞台衣装デザイナー。
1777年Louis Filleul de Besne 1732-88と結婚。この夫は三度目の結婚。{二度目の結婚[Adelaide Barbe Farcyと]の連れ子Louise-Antoinette Filleulは
高等法院弁護士Jean-Arsene Billard de Chenevieresと結婚したが子がなかったので、相続人に、父親の後妻であるこの人との一人息子Louis Auguste
Filleul 1780-1848を指名した。}夫はラ・ミュエット城管理官だった。結婚後はラ・ミュエット近くのパッシーに居住。宮廷関係者から多くの肖像画を依頼され
たが、革命でそのほとんどが失われている。現在ではアルトワ伯夫人の子供らの画なみ残っている。アメリカ大使のフランクリンも顧客に含まれていた。
フランクリンは彼女に関心を示し、本を借りる名目で家を訪れては会っていて、交わされた手紙も保存されている。
86年夫が重篤な病気になると、王妃の好意で夫の仕事を後継する許可が出て、ラ・ミュエット城内に住み続けることができた。画家ジョゼフ・ヴェルネの娘
Marguerite Emilie Felicite Vernet{2526}のミニチュア画もその頃、作製された。この人は革命に好意的であり、亡命はしなかった。しかしラ・ミュエット城の
廃棄物である家具類を転売するという過ちをおかす。そこで安全委員会に非難され、転売業者を監視していた革命政府により告発。仲間で友人の2526と
共に逮捕された。共和国に属する物の盗難と隠蔽のために、 革命裁判所により死刑を宣告される。2526の兄で画家の Antoine-Charles-Horace "Carle"
VERNET 1758-1836も政府に影響力ある画家ジャック=ルイ・ダヴィッドを介して働き掛けてくれたが、効なく処刑されてしまった。2111のFelix-Louis de
Cornette de La Miniereは夫の妹の夫。
2497のアンドレ・フランソワ・シェロンはラ・ミュエット城の請負業者なので、この事件の関係者だろう)

 Rosalie Anne Adelaide Boquet ......................................................................................息子・Louis Auguste Filleul 
夫の前妻との娘・Louise-Antoinette Filleul...../////.........................................
伯父・Louis Rene Jean-Baptiste BOQUET

2495. ピエール・ローラン・シャンピオニー CHAMPIONY (Pierre-Laurent), 59歳。ビュクレールBuclaire(Duplanとも)生。
(CHAMPIGNYとも。 Duplanの元司教ともVillepinteの元司教ともある。Duclair出身のPierre Laurent CAMPIGNYなら同時代でいるが商人で二度結婚している。
⇒Pierre Laurent Campigny 1735-94 1766年から94年までVillepinteの司祭。Lucienne Lebonが1996年「Pierre Laurent Campigny」という本を著している。87年、89年にも
Villepinte村についての出版物を出している。Villepinteは1793年人口調査では260人ほどの自治体だったが、現在ではパリ近郊{パリ北東18.3Km}ということもあり36,000以上
の人口がある。VillepinteのNotre-Dame de L'assomption教会の歴史には、1793年10月、フランス革命の間、教会は放棄され、開かれず、鐘は取り除かれ、教区の司祭Pierre
Laurent Campignyは世俗に身を落とすことを拒否して翌年処刑された、とある)

2496. セザール・フランソワ・シャルルヴァル CHARLEVAL (Cezaire-Francois), 元貴族。(47歳)。エクスAix生
(セザール・オーギュスト・ド・カドネ・シャルルヴァル Cesar Auguste de CADENET CHARLEVAL 1746-94 ルイ16世の憲法制定国民議会護衛隊中尉
父親はMarquis de Charleval,Pierre Cesar de CADENET CHARLEVAL 1708-63。母親はプロヴァンス高等法院評定官の娘Angelique de BARRIGUE de MONTVALON 1711-86。
母方祖父 Andre de BARRIGUE de MONTVALON 1678-1769はプロヴァンス高等法院名誉評定官。
領主Prince de Lambesc,Charles de Lorraine{ランベスク村はすぐ近く}の名に因んで1598年シャルルヴァルと名付けられたこの地は母親の婚資だった。1740年32歳の父親がシャルル
ヴァルの開拓を約束し、近村の70世帯を移住させ村として切り開き、自ら1756年から1763年まで祖父の購入したChateau de Cesar de Cadenetに居住。父親は最後は盲目になり、
近村のランベスクにて死去した。89年シャルルヴァルは小郡{コミューン}となった。93年当時の人口は464人)
六女四男の末子だった。成人した兄弟の長兄 Francois 1738-1812はプロヴァンス高等法院評定官、会計院院長。次兄Joseph Francois 1740-74も同高等法院聖職評定官、
Beziersの司教総代理Grand vicaire。姉たちの内三人は成人し二人は結婚している。
この人の結婚記録はない。
カドネ・シャルルヴァル家は1598年から大革命までに、プロヴァンス高等法院に主席検事、8人の評定官、会計院長を輩出した古い法官貴族の家系)

父・Marquis de Charleval,Pierre Cesar de CADENET CHARLEVAL  
母方祖父・ Andre de BARRIGUE de MONTVALON

2497. アンドレ・フランソワ・シェロン CHERON (Andre-Francois), 55歳。エクセーヌEixene生。
(ラ・ミュエット城の請負業者。2494のアンヌ・ロザリー・アデライド・ボケが行った城の調度類の転売に関わった業者だろう)

2498. ピエール・クロード・コパン・ド・ヴィルプルー COPPIN DE VILLEPREUX (Pierre-Claude), 45歳。士爵で元騎兵大尉。パリ生。
(元男爵とも。砲兵大尉とも。Jean Henry Maubert de Gouvetの未亡人Marie Pierrette de BernierとPierre Claude de Coppin Villepreuxの1783年の結婚契約記録がある。{公証人Francois
 Emmanuel ARNAUDの1764年7月17日〜1798年9月1日の記録簿} 作家で冒険家で名高いJean-Henri Maubert de Gouvest 1721-67の未亡人か? 少し年齢が合わないが)

2499. ジャック・ダジュー D'AGIEUX (Jacques), 45歳。サン・ペ Saint-Pe生。
(元暴君の近衛隊士官。但し関連する情報はない)

2500. ジャン・アルセルム・ドーバレード DAUBAREDE (Jean-Anselme), 72歳。元貴族。リヨンCommune affranchie生。
(元騎兵大尉。議員を中傷した王室主義者とある。
⇒ジャン・ドーパレード Jean d'AUBAREDE 1722-94 士爵。 
父親はルーヴル宮門衛隊中尉gardes de la porte du Roi au LouvreのPaul Alexandre d'AUBAREDE 1684-1761。母親はBugeyバイイ裁判所刑事・民事総監の娘Dame de la Moutonniere 
Marie Anne de TRICAUD。六女五男の四男。長男はMarquis d'Aubarede,Guillaume d'AUBAREDE 1717-95で、野戦総監、Belfortの国王代理官。一男をもうけ、五男一女の孫がいる。夭折
らしき者を除くと次兄である Jean Maximilien 1721-1815はラ・サール連隊歩兵中佐。この次兄の五代後の子孫に小説家で文芸評論家として名高いアカデミー会員・ Gabriel d'AUBAREDE
1898-1995がいる。この作家は1971年「アンドレ・シェニエ」で歴史作品に贈られるアカデミー・フランセーズの年次賞であるGuizot賞を受賞しているが、五代前の先祖の弟であるこの人が
シェニエ{2532}の前日にギロチンになっていることは当然知っていたと思う。ちなみにこの作家Gabrielは97歳まで生きていたが、先祖であるこの人の兄Jean Maximilienも94歳まで生きている。
他の兄弟姉妹は夭折なのか末子Claudine d'AUBAREDEが生年不詳で1752年に亡くなっている以外、詳細はない。また、この人の結婚記録もない。
1752年サン・ルイ十字章。パリのJacques du Haut Pas通りに居住していた。逮捕理由は「マドリッドの Viriginie de Crillonとの通信」の為。 Viriginie de Crillonとは、Virginie de BERTON des 
BALBES de CRILLONのことだろう。兄のDuc de Crillon,Louis 1717-96も当時スペイン人と結婚しスペインに奉仕していた。Barthelemy Jean Baptiste de THOMAS 1710生 の妻だし、兄が
1717年生まれだから、この人と同年輩の女性ではあるが、詳細は不詳)

兄の五代後の子孫・作家Gabriel d'AUBAREDE  

2501. アマブル・ピエール・アルベール・ドベリュール DEBERULLE (Amable-Pierre-Albert), 38歳。パリ生。
(ベリュール侯爵アマブル・ピエール・アルベール・ルネ・ド・ベリュール Marquis de Berulle,Amable Pierre Albert Rene de BERULLE 1755-94 グルノーブル高等法院院長
父親は1760年グルノーブル高等法院院長でブルボネ地方長官、89年パリ高等法院名誉評定官Amable Pierre Thomas de BERULLE 1726-97。母親はパリ高等法院大審部評定官の娘
Catherine Marie ROLLAND 1730-99。この母親の同年生まれ{双子?}の兄弟Comte de Chaubaudoin, Barthelemy Gabriel ROLLANDはパリ高等法院訴願審査部部長で674。
四女四男の長男。姉妹4人は皆、成人し全員侯爵夫人。姉の一人Angelique Louise Nicole de BERULLE 1753-1826の夫は2013{2445に重複}のMarquis de La Charce。
革命中は父親はパリのグルネル街に住み、この人はグルノーブル高等法院院長としてChateau de Foissyに在住していた。父親と連絡していたので、一度は逮捕されるが、すぐに釈放
された。しかしパリから委員が来て、城館で逮捕され、自分の馬車でパリに移送され処刑された。父親はこの94年4月にコンシェルジュリーに収監されていたが、最後は97年にChateau de
Foissyで死んでいる。つまり、息子のこの人はMarquis de Berulleではなかったことになる・・・。記録によっては父親は94年4月6日に68歳でパリで処刑されているともあり、ここに親子による
何らかの錯誤が発生しているようだ。
1779年国璽尚書Marquis de Miromesnil,Armand Thomas HUE de MIROMESNIL 1723-96の娘Marie Blanche Rosalie HUE de MIROMESNIL 1765-87と結婚し、一男 Armand Amable Marie
をもうける。{1805年17歳で早世} 1790年パリ会計院訴願審査長の娘Anne Marie Francoise Le VAVASSEUR d'HEROUVILLE 1768-1832と再婚し、一女 Amable Blanche de BERULLE
1792-1815をもうけ、この娘は1813年、1096のComte de Mirepoixの息子Marquis de Leran,Athanase Gustave Charles Marie de LEVIS-MIREPOIX 1792-1851の妻となるも、この娘も22歳
で子なく亡くなり、夫は死別後2年でCharlotte Adelaide de MONTMORENCY-LAVALと再婚している)

グルノーブル高等法院院長"Pierre de BERULLE"とある肖像画。祖父のVicomte de Guyencourt,Pierre de BERULLE 1641-1723と思われる  
母方伯父(叔父)・Comte de Chaubaudoin, Barthelemy Gabriel ROLLAND...........
義父・Marquis de Miromesnil,Armand Thomas HUE de MIROMESNIL

2502. ルイ・デシズナール DESSISNARD (Louis), 23歳。ヴェルサイユ生。
(DESSINARD、DESISNARD、 20歳とも。銀行家Laurent de Mezieresの部下。確かにこの時期のパリに、「St. Benoit通りの銀行家M. Laurent Mezieres」はいる)

2503. アントワーヌ・ジョゼフ・デュブレーゼル DUBLAIZEL (Antoine-Joseph), 78歳。ラヌーヴィルLaneuville生。
(ブレーゼル男爵アントワーヌ・ジョゼフ・ルイ・オーギュスト・デュ・ブレーゼル Baron du Blaisel,Antoine Joseph Louis Auguste du Blaisel 1717-94 Laneuville-sur-Meuse生まれ。野戦総監。
父親はサン・ルイ騎士で中佐のBaron du Blaisel,Baron de La Neufville-Stenay,Antoine du Blaisel。母親はケルン選帝侯侍従官marquis d'Yveの娘Marie Charlotte d'Yve 1692頃-1737。
五男二女の兄弟姉妹がいたが、成人した兄弟では次男になると思われる。長男は騎兵大尉Comte du Blaisel , Marquis du Saint-Empire,Antoine Albert Anne du Blaisel 1714生 で、1739年
Catherine Gabrielle Marguerite de Riencourt 1712-67と結婚し、一男Antoine Joseph Louis Auguste 1741-1811をもうけた。この子は1795年再婚でマリア・テレジアの女官だったPrincesse
Cantacuzene,Marie Anne Ernestine Pauline Cantacuzene 1749-1811という相手とウイーンで結婚している。この妻はCharles Sigismond de Tornaco 1736-77の未亡人だったが、この前夫との
一人娘Dame de Montigny,Anne Elisabeth de Tornaco 1770-96はAntoine Joseph Louis Augusteの前妻との息子Albert Camille Joseph Louis Auguste 1770-1803と1788年に結婚しているので、
Antoine Joseph Louis Augusteは息子の嫁の母親と再婚同士で結婚したことになる。CantacuzinoまたはCantacuzene家はビザンチン皇室の系譜のルーマニア貴族、1710-11年のロシア・オスマ
ン戦争時にロシアに移住し大公位を得た一族。
他の兄弟姉妹に結婚の形跡は見当たらない。
Brigitte Dillon 1717-88と結婚したが子はなかった。1788年9月第1週のガゼットには「サン・ルイ騎士で王室大十字章の騎にして王軍中将たるBaron du Blaiselの妻Brigitte Dillon、8月2日に
サン・ジェルマン・アン・レーにて死去」と載っている)

2504. エリザベト・ペレット・イポリート・デュボワ DUBOIS (Elisabeth-Perette-Hipolyte), ジョリ・フルーリーJoly-Fleury未亡人。36歳。パリ生。
(エリザベト・ピエレット・デュボワ・ド・クールヴァル Elisabeth Perrette DUBOIS de COURVAL 1758-94 
父親はパリ高等法院評定官Vicomte d'Anisy,Anne Louis DUBOIS de COURVAL 1737-89{88とも}。母親はMarie Antoinette CHAMBON 1772没。一人娘。
父親は1756年踊り子Mlle FONTENAY、1760年Mlle AUBIN等と関係を結んでいた。そしてこの人の母親と死別後の1772年Marquis de Millyの娘Marie Madeleine LEFEVRE de MILLYと再婚し
男子継承者Alexis Charles Guillaume 1774-1822をもうけた。彼はこの腹違いの姉の処刑された94年Augustine de POILLOUE de SAINT-MARSと結婚している。
夫は1768年結婚した主席検事Omer Louis Francois Joly de Fleury 1743-84。子は出来なかった。夫の父親はパリ高等法院法官帽部長で過激なジャンセニストJoseph-Omer Joly de Fleury
1715-1810。この人も下記の通りだが、夫もBaronne d'Estat,Jeanne Louise Catherine Voidet 1780没と愛人関係だった。この愛人の夫は Werneter連隊騎兵中佐Joseph Dominique d'ESTAT de
BELLECOURT 1766没で、長女Emilie Lucrece d'ESTAT de BELLECOURT 1759-1816、長男Angelique Michel d'ESTAT de BELLECOURT 1761-94{630}、次女Catherine Denise d'ESTAT de
BELLECOURT 1764-94{335}がいた。(他にAugustine Josephine、94年ロンドンでスペイン宮廷の銀行家Juan Antonio Caresseと結婚、がいる)長女Emilie Lucreceはスペイン外交官でルイ16世
救出の為に200万の資金を活用して暗躍していた人物 Jose Ocariz 1750-1805と通じていた{98年にパリで結婚。夫の活動に報いルイ18世より6000フランの年金が与えられた}。反革命的な自由
主義の集まりに兄弟姉妹で出入りして人脈を増やしていた。陰謀が露見すると長女は辛くもロンドンに逃れ、弟夫婦{妻は641}と妹は逮捕されてしまった。
奔放な女性のようで、ルイ15世やデギヨン公、あのサド侯等色々な男性らと関係していたMlle Raucourt{Marie Antoinette Joseph SAUCEROTTE}とも同性としての関係をもっていた。
収監中、妊娠6週間を申告。しかしすでに夫とは死別しているので、相手の男性の姓名を尋問され、Francois Thibault-Delagardeと告白した。しかし EnguchardとNauryは、未亡人
Priouxの助けを借りて診察し、妊娠の兆候なしと診断した。このFrancois Thibault-Delagardeとは2525のComte de La Garde,Francois Thibaud de La GARDE de SAIGNES 1762-94だろう)
 義父・Joseph Omer Joly de Fleury 1715-1810  
 

2505. フィリップ・デュコンタン DUCONTENT (Philippe), 56歳。元司祭。ラ・コート・サン・タンドレLa Cote Saint-Andre生。

2506. アンヌ・ルイ・ジャン・フラヴィニー FLAVIGNY (Anne-Louis-Jean), 30歳。シャルミエCharmier⇒シャルムCharmes生。
(フラヴィニー伯爵アンヌ・ルイ・ジャン・ド・フラヴィニー Comte de Flavigny, Anne Louis Jean de FLAVIGNY 1763-94 後者の兄。歩兵中佐。
父親は野戦総監Vicomte de Flavigny,Charles Francois de FLAVIGNY 1731-1803。母親はMarie Anne Madeleine Elisabeth Louise de TUFFEREAU
{TUSSEREAUとも} 1743生。
四男五女の長男。兄弟姉妹の中で後者の他は妹Anne Charlotte 1769生、Angelique Francoise Adelaide 1782-1855のみが成人、結婚している。
1785年Jeanne Louise de BREUILLYと結婚し、一男一女をもうけるも、長男は夭折し、娘二人はそれぞれ成人し結婚している。長女のAgathe Pauline
 Francoise Louise 1789-1878が1810年結婚した夫Jean Marin DUBUARD 1769-1837は、ナポレオンに高く評価された軍人で男爵となり、皇帝近衛隊
の大佐に任命された人物。
フラヴィニー家はカンブレーとピカルディの古い家系。中将で外交官で貧しい軍人貴族から栄達したLouis-Agathon de Flavigny de Renansart 1722-
93とは「全く関係ない一族」とあるが、同系だろう。この中将は亡命財産として資産没収されていたが、98年に「Flavigny de Renansartとは少しも関係ない
シャルムとレスのフラヴィニー家Les Flavigny de Charmes et de Liezが資産を取得した」とある。シャルムなのでこの人の系統か。シャルムはこの人の
祖母Dame de Charmes,Marie Madeleine Suzanne du CHESNEがフラヴィニー家にもたらした婚資)

2507. マドレーヌ・アンリエット・ルイーズ・フラヴィニー FLAVIGNY (Madeleine-Henriette-Louise),デヴューDesvieux妻。28歳。シャルミエ⇒シャルム生。
(マドレーヌ・アンリエット・ルイーズ・ド・フラヴィニー Madeleine Henriette Louise de FLAVIGNY 1765-94 前者の妹。
父親は野戦総監Vicomte de Flavigny,Charles Francois de FLAVIGNY 1731-1803。母親はMarie Anne Madeleine Elisabeth Louise de TUFFEREAU。
四男五女の長女。家系のことは前者参照。
1786年Leonard Philippe DESVIEUX 1794年以降没 と結婚。{この夫に関しては94年7月以降に没とあるのみ}子の記録はない。{下記参照}
Leonard Philippe des VIEUXは1749年パリで洗礼を受けている。パリ高等法院第一訴願審査部部長Philippe Etienne des VIEUXとMarie Therese du CLUZEL
1730-69の息子。弟にシャルトル竜騎兵連隊大尉のDominique Etienne des VIEUX 1751生 がいる。この弟は1780年Francoise Charlotte CHERUOT 1750頃生
と結婚し娘Alexandrine Charlotte des VIEUX 1780生 をもうけている。
また Lucie-Philippine des Vieuxは1813年Comte d'Agoult,Charles-Cesar-Marie 1775-1860と結婚してMarquis d'Agoult,Charles-Marie-Alfred 1814-78の母親
となっている。このLucie-Philippineの姉妹のLouise-Gabrielle Desvieux{des Vieux}はdemoiselleとあるので未婚女性のようだが、1796年5月14日には「故 Leonard-
Philippe Desvieux」の相続手続をしているようだ。Marie Madeleine Regnier Rohant{Ruel de Belleisle未亡人}から訴訟を起こされていて1816年にまだ係争中のようだ。
このMarie Madeleine Regnier RohantはM Magdelaine Louise REGNIER DE ROHANT 1756-1843で、夫は1775年結婚したNicolas Thomas RUEL DE BELLEISLE 1739
-1811。何の訴訟かは不明。また記録の中に故 Leonard-Philippe Desvieuxは亡命していたとある。ダグー伯夫人であるLucie Philippine DES VIEUXは1799年以前の
生まれと系図にはあり、1841-78の間にシャルトルで亡くなったと推定されている。両親姓名については全ての系図に未詳となっている。もしかしたら、夫Leonard
Philippe DESVIEUXは96年に亡くなり、少なくとも二人の娘{Lucie-PhilippineとLouise-Gabrielle}がいたのかも知れない。その一人Lucie-PhilippineはComte d'Agoultに
嫁いでいることになる。{紛らわしいが、あのリストの愛人で有名な女流作家Marie Catherine Sophie de Flavigny 1805-76も、 Comte d'Agoult[Charles Louis Constant
d'Agoult 1790-1875]に嫁いでいるが、フラヴィニー家としても別系で、夫のダグー家としても別系である})

2508. ジャン・フランソワ・ゴーティエ GAUTHIER (JeanFrancois), 24歳。モワサックMoissac生。
(暴君の元小姓)

2509. フランソワ・ジゴ・ボワ・ベルニエ GIGOT BOIS-BERNIER (Francois), 58歳。サンスSens生。
(フランソワ・サンフォリアン・ジゴ・ド・ボワ・ベルニエ Francois-Symphorien Gigot de Bois-Bernier 1736-1794 サンスの元司教総代理grand vicaireで教会参事会員。1784
年Sainte-Marie-Madeleine de Longwe修道院院長となる。
 ワイン税の徴収監督官Pierre-Symphorien Gigot 1702-80とJeanne Dantan Satinの子として生まれた。弟のJean Baptiste Francois Gigot d'Orcy 1737-93はシャロン・
アン・シャンパーニュの財務長官だったが、昆虫と鉱物学に熱心なコレクターだった。この弟の息子Bernard Gigot d'Orcyは89年に22歳で他界していたので、死後の膨大な
コレクションはその妻{Madeleine Marie Anne DELAMONNAYE}とこの人が相続人だった。94年に芸術委員会に買い取ってもらったり、残りは競売されたりしたが、Gigot d'Orcy
標本は1866年設立のイギリスの自然史博物館に所蔵されている。
司祭の誓いを忘れて、1794年の初めに結婚していたらしい。ロメニー・プリエンヌ枢機卿の協力者。1793年12月29日、サンス監視委員会により告発、元貴族だった。番所の向
かいに住んでいたので、衛兵は通りを渡るだけで良かったという)

2510. シャルル・フランソワ・ギュスターヴ・グランドルジュ GRAINDORGE (Charles-Francois-Gustave), メニル・デュランMenil-Durandと言われた。32歳。元将官補。リジューLisieux生。
(メニル・デュラン伯爵シャルル・フランソワ・ギュスターヴ・ド・グランドルジュ・ドルジュヴィル Comte de Mesnil-Durand,Charles Francois Gustave de Graindorge d'Orgeville 1760-94
アンリ3世によってノルマンディー貴族に列せられたアイルランド家系。「メニル・デュラン伯爵」は自称のようだ。但し父親は同男爵。元将官補。「中佐待遇の将官補」ともある。
92年から94年にかけてパリでの反革命活動に従事。 Mesnil-SimonとJosset de Saint-Laurentらと共にコンデ大公の代理官もしている。そしてパレ・ロワイヤルの常連で、パリで当時
知らぬ人のいない遊女Caroline Mayeul de Maningan{騎兵将校の娘なので、職業的な遊女とは少し違う女性}と懇ろになり、M. de Barrasと決闘までした。そして偽アッシニャ紙幣の製造
に携わり、また反革命的新聞Les Actes des Apotresの共編者でもあり、それにより逮捕・処刑された。
父親はDaron de Mesnil-Durand,Francois jean de Mesnil-Durand 1729-99。母親はLouise Elisabeth Nicolle de Livarot 1735-1808。父親は小厩舎の小姓から軍人となり、七年戦争に従軍
して、68年ようやく大佐、そして84年野戦総監となるが、55年から戦術本の発刊を行っており、戦術家ギベールや砲術論の大家トロンソン・デュ・クードレーとも盛んに論争した人物。95年に
イギリスに移り、最後までパンフレットや回顧録を書きつつロンドンで死去した。
兄弟姉妹は弟Louis Cesar Adolphe 1762-1844がおり、亡命し竜騎兵大佐をしていたが、帰国後Baron de Mesnil-Durandを継承し、1806年Marquis de LA FERTE-SENECTEREの娘Henriette
Antoinette Adele THIBAULT de LA CARTE de LA FERTE-SENECTERE 1781-1815と結婚、一女一男をもうけ、長女のLouise Henriette Adrienne 1811-59はBaron de La Boulayeと結婚して
五男一女、そして15人の孫を残している。また長男 Louis Marie Gaston 1814-89はサド侯爵の孫娘Laure Emilie de SADE 1810-75と結婚し一男一女をもうけている。この弟は82歳で没した。
この人の結婚記録はない。前述のCaroline Mayeul de Maninganとの愛人関係があるのみである。
 2524のComtesse d'Hinnisdaelは収監中、妊娠5週間であると申告。すでに夫と死別していることから、相手の男性の姓名を言うよう尋問され、Charles-Gustave Graindorge
という相手と関係をもったと告白。しかしEnguchardとNauryは、未亡人Priouxの手を借りて診断し、妊娠の兆候を否定し、処刑されたが、相手の男性とはこの人だろう)

父・Baron de Mesnil-Durand,Francois jean de Mesnil-Durand  

2511. シャルル・グラヴィエ 通称ヴェルジェンヌ GRAVIER (Charles), dit Vergenne, 24歳。デジョン生。
(シャルル・グザヴィエ・グラヴィエ・ド・ヴェルジェンヌ Charles Xavier GRAVIER de VERGENNES{Charles Bonaventure Francoisとも} 1751-1794 後者の息子。41歳だが。
母親はブザンソンの高等法院長の娘Jeanne CHEVIGNARD de CHAVIGNY 1727-84。
姉二人と弟が一人いる。姉二人は成人し結婚。弟もMarquis de VERGENNESを継いで野戦総監、結婚し子ももうけている。
1778年トゥールーズ高等法院長の娘Elisabeth Adelaide Francoise de BASTARD 1763-1808と結婚し、二女をもうけている。長女Claire Elisabeth Jeanne Gravier de Vergennes 1780-1821は96年、
後にナポレオンの主席侍従官となるAugustin Laurent Charles de REMUSATと結婚してComtesse de REMUSAT、ジョゼフィーヌ皇后女官としてまた女流作家として名を馳せ、外務大臣で作家の
Charles de Remusat 1797-1875の母親となった。{革命期、この夫になるAugustin Laurent Charles de REMUSATはプロヴァンスの12世紀来の貴族家系でエクス・アン・プロヴァンスの租税法院
次席検事だったが[父親のマルセイユ商人Charles de REMUSATが93年88歳でギロチンにかけられたとあるが、処刑地はマルセイユか? この記録にはない]その保護下に母と妹とSaint-Gatien-
des-Boisに匿ってもらった。84年に結婚していた[一人娘は夭折]が、その妻が95年逝去すると、96年このClaire Elisabeth Jeanneと再婚。彼女がボーアルネ夫人時代からのジョゼフィーヌ皇后の
友人であり、その女官となったことと、また皇帝の大侍従官であった彼女の友人のタレイランによって、彼は皇帝の第一侍従官となり伯爵位まで授かった。革命期の命の借りを、彼女は夫に充分
に返したと言えよう}
外務大臣Comte de VERGENNESの甥{外務大臣は父親の弟}になる。叔父と従兄弟らは後者参照。
2522のComtesse de Mussinは収監中、妊娠6週間を申告した。すでに夫とは離婚しているので、相手の男性の姓名を尋問され、「Charles Gravier dit Vergennes」と告白。
つまりこの人だろう。しかしMussin夫人の妊娠はEnguchardとNauryが未亡人Priouxの手を借りて診断し、妊娠の兆候を否定して処刑は実行される)

長女・Comtesse de Remusat,Claire Elisabeth Jeanne Gravier de Vergennes  
孫・Charles de Remusat................

2512. ジャン・グラヴィエ 通称ヴェルジェンヌ GRAVIER (Jean), dit Vergenne, 75歳。デジョン生。
(Marquis DE VERGENNES, Jean Charles GRAVIER de VERGENNES 1718-94 1742年ブルゴーニュ会計院院長、75年〜77年スイス大使、77年ポルトガル大使、79年〜85年ヴェネティア大使、
86年〜89年再びスイス大使。前者の父。
父親はCharles GRAVIER de VERGENNES 1693-1745。母親はAnne Marie Francoise CHEVIGNARD de CHARODON 1694-1720。弟にルイ16世がその死に際して「私が頼りにすることができる唯一
の友人、私を決して騙さなかった唯一の大臣」と涙を流したという外務大臣Comte de VERGENNES, Charles GRAVIER de VERGENNES 1719-87がいる。その弟の息子らは二人とも軍人となり、
長男{甥}Comte de VERGENNES,Charles Constantin GRAVIER de VERGENNES 1761-1832は野戦総監、大使となり、次男{甥}Louis Charles Joseph GRAVIER de VERGENNES 1765-1821も
野戦総監となっている。愛人Louise NICAISE 1745-1806との間にもうけた娘Marie Catherine Lucile Nicaise des Roches 1769-1840は徴税請負人Nicolas Deville de Noailly 1749-94{⇒892}と1785年
ヴェルサイユで結婚している。一女Rose Deville de Noailly 1794-1885をもうけ、この娘はアンジェ市長で都市開発で名高いAlexandre Auguste JOUBERT-BONNAIRE 1785-1859と結婚、その息子
たちは二人とも国会議員となる。
1746年ブザンソン高等法院長の娘で従妹のJeanne CHEVIGNARD de CHAVIGNY 1727-84と結婚し、二女二男をもうけた。
長女Anne GRAVIER de VERGENNES 1748-1803はロレーヌ連隊大尉Marquis de Ganay,Paul Louis de GANAY 1723-1802と結婚するが、子Charles Antoine de GANAY 1769-1849は軍人で国会議員、
孫のJacques de GANAYも在日大使館付武官、大統領全権公使となる将軍である。次女Charlotte Anne Marie Therese 1750-1798はComte de Garnerans,Louis CACHET de MONTEZAN 1746-1816
に嫁いで二男一女をもうけている。長男は前者。その子らについては前者参照。{レミュザ夫人の祖父に当たる}次男Jean Charles 1756-1827もMarquis de VERGENNESを継いで野戦総監、結婚し子を
もうけている)

 Marquis de Vergennes,Jean Charles Gravier de Vergenne................................................................弟・Comte de Vergennes,Charles Gravier de Vergenne 
甥・Charles Constantin Gravier de Vergenne.................................
甥・Louis Charles Joseph Gravier de Vergenne

2513. マリー・ルイーズ・アレ HALLE (Marie-Rosalie), 70歳。⇒72歳 パリ生。
(マリー・ローズ・アレ Marie-Rose Halle 1722-94 女流画家Rosalie Anne Adelaide Boquet{2494}の母。Claude Guy Halleの娘。母は不詳。
1750年Blaise Louis Boquet de Liancourt 1721頃-84と結婚、二男一女と性別不詳の子の4人をもうける。長男 Pierre Jean 1750-1817も名高い風景画家。
長女の2494は王室の肖像画家として活躍し、王妃から様々な恩恵を受けるが、共々処刑される)

娘・Rosalie Anne Adelaide Boquet  孫・Louis Auguste Filleul  

2514. ルイ・マリー・オランド HOLLANDE (Louis-Marie), 72歳。マルリーMarly生。
(ラ・ミュエット城の元管理人。2494の事件に関係か)

2515. ジャン・アンリ・ラブーレイヌ・モンテスキュー LABOULLEINE-MONTESQUIEU (Jean-Henry), 43歳。元貴族。アジャンAgen生。
(ジャン・アンリ・ド・ラブールベーヌ・ド・モンテスキュー Jean-Henri de Laboulbene de Montesquiou  ルーアンの元司教総代理grand vicaire。
ダルタニャンの家系にも繋がる一族のモンテスキュー家{を主張していた家柄}。Imbert de Montesquiou 1505頃-32とMadeleine de Sainte-Colombe 1500頃生 の息子の1人
{四男坊Bernard}から派生した分家。{この系統の主流はMontesquiou de Sainte-Colombe系、18世紀に断絶。上記Imbertの父 Jean de Montesquiou de Faget 1460生
の兄Mahaud de Montesquiou de Salles 1450頃生 の次男 Paul[Paulon] de Montesquiou d'Artagnan 1485-1555よりダルタニャン系として分家し[結婚によりダルタニャンの
地を得ていた]、孫娘 Francoise de Montesquiou d'Artagnan 1585生 が Bertrand de Batz 1570頃生 と結婚し、有名なダルタニャン[Charles de Batz-Castelmore 1615頃-73]
が生まれ、彼はパリに上京するにあたり、地元の貴族家名として家格が上で、銃士隊に親族も多い母方の「ダルタニャン姓」を名乗ったのである}
子孫は多数であり、いくつかの分家を形成したが、それらは次第に消滅した。 この分家はほとんど明確化されておらず、最後の支流は1789年より以前に、Amadeの司祭
Pierre de Montesquiou-Saintraillesの死で途絶えた。アジャン出身のLaboulbene家は、Saintrailles系の分家の1つに属していると主張。しかし1783年7月31日パリ高等法院
により名と紋章の承認を却下された。妻よりのみ、モンテスキューの血筋として判断されたようだ。{77年にモンテスキュー家が中世名門フェザンサック伯家の系統であること
をルイ16世が承認し、83年にパリ高等法院がそれを認証した事実があるが、その際の追加審理としてこの申請が吟味されたのか?}
アジャン出身で1748年生まれのLouis Francois de Montesquiou de Laboulbeneは父親はサヴォワ家のChablois連隊大尉Jean Joseph de Montesquiou de Laboulbene 1699-1772、
母親はMarie-Magdeleine de Sainte-Colombe de Tournade。1799年Comte de Cardaillacの娘Louise Paule de Cardaillac-Lomne 1768生 と結婚している。この人とある程度近い
親族であると推定は出来る。このLouis Francoisの曾祖父でアジャンの評定官でガイヤルデGaillardet領主Jean de Laboulbene 1653没 が1643年にJeanne de Montesquiou
Xaintrailles{=Saintrailles} 1653没 と結婚している。この妻は上記Imbert de Montesquiouの4世代後の子孫である。上記1783年のパリ高等法院の判決は、この事実をして評定して
いるのだろう)

2516. マリー・ルイーズ・ラヴァル・モンモランシー LAVAL MONTMORENCY (Marie-Louise), 71歳。パリ生。
(マリー・ルイーズ・ド・モンモランシー・ラヴァル Marie Louise de MONTMORENCY-LAVAL 1723-94 モンマルトル{王立}修道院最後の院長
父親は元帥Comte de Montmorency-Laval,Guy Claude Roland de MONTMORENCY-LAVAL 1677-1751。母親はDame de Parigne,Marie-Elisabeth de ROUVROY de SAINT-SIMON 1698-1762。
二女四男の長女。弟らは夭折し末弟 Joseph Pierre 1729-57も結婚し一女を残して28歳で死去{ギュイエンヌ連隊大佐としてbataille d'Hastenbeckで死去}妹Henriette Louise 1733-1811は
47年Comte de Helmstadt,Bleickard Maximilien Augustin von HEMLSTADT 1728-1802{旧体制に固執し、憲法制定会議議員を辞任し亡命、国内財産は没収される}と結婚したが、子はなし。
大元帥Mathieu II de Montmorency直系の子孫。46代{43代とも}続いたモンマルトル修道院の最後の院長として1760-90年在任した。90年閉鎖、94年売却、取り壊し。
1792年8月16日、修道院のベネディクト修道女らは退去を命じられ、9人の修道女とサン・ドニに引退、そしてMarquise de Crussol d'AmboiseとChateau de Bondyに一時的に避難した。革命後
この人は聴覚障害と視覚障害を患っていた。
母親のMarie-Elisabeth de Rouvroy de Saint-Simonはあの回想録作者サン・シモン公や社会主義思想家サン・シモン伯の家系だが、本家筋。母親の8代前の子孫Gaucherの弟Gillesから始まる
seigneurs du Plessier Rasse系がサン・シモン公の家系{公爵はGillesの6代後}、母親の五代前のFrancoisの弟Jeanから始まるseigneurs de Sandricourt系がサン・シモン伯の家系{伯爵はJeanの7代後}。
但し、この母親は兄メッツ司教となるClaude-Charles de Rouvroy de Saint-Simon 1795-1760に対して父親Titus-Eustache de Rouvroy de Saint-Simonが1712年に亡くなると、親戚のサン・シモン
公は二人をムードンに連れてきて養父のように振る舞い、保護下においた。{1755年に公爵が亡くなった際にはクロード・シャルルが葬儀を執り行った}
この人の母親の弟{つまり母方叔父}のMarquis de Saint-Simon,Henri de Rouvroy 1703-39の娘{この人の従妹}Blanche-Marie Elisabeth {Isabelle} de Rouvroy de Saint-Simon 1737生 は、2609アグド
司教の兄Comte de Saint-Simon-Sandricourt,Balthazar-Henri de Rouvroyに嫁ぎ、社会主義思想家サン・シモン伯の母となっているので女系では従妹の子である)

 Marie-Louise Montmorency-Laval ................................................................................................................................................................母方伯父・l’Eveche de Metz,Claude-Charles de Rouvroy de Saint-Simon

2317. マリー・アンヌ・テレーズ・ルテリエ LETELLIER(Marie-Anne-Therese), ラングロワLongrois妻。61歳。ポントワーズPontoise生。
(Marie Anne Therese LETELLIER 1732-94  後者の母、2529の妻。
父親はMellon LETELLIER。母親はAnne d'HEVILLY。夫は1750年結婚したPierre HASSASSIN de LONGROY{⇒2519}で二男二女をもうけた。娘の一人{51年生まれの Louise Marie Basile Rigobert?}
は家具保管係と結婚。同居だった後者は次女で独身のようだ。長男は2519の内容を参照。53年生まれの次男Alexandreについては不詳。夫が革命の災禍を免れるよう王室家具類をこの人の兄弟
の家等に隠密に運び出した件が露見し、共々逮捕、処刑されてしまう。ロマン派画家Leon RIESENER 1808-78の曾祖母にあたる)

曾孫・Leon RIESENER  

2518. マリー・テレーズ・ラングロワ LONGROIS (Marie-Therese), 37歳。マルリーMarly生。
(Marie Therese HASSASSIN de LONGROY 1756-94 前者と後者の次女。両親共々処刑された)

2519. ピエール・ラングロワ LONGROIS (Pierre), 84歳。ムードンMeudon生。
(ピエール・アササン・ド・ラングロワ Pierre HASSASSIN de LONGROY 1710-94 
ムードンの父同様にマルリー・ル・ロワやラ・ミュエット城の王家の家具や芸術品・装飾品の管理官だった。長男Pierre Mellonも後にフォンテヌブローの同職に就く。前者の父で2317の夫。
ベアルンから渡ってきた先祖がアンリ4世に奉仕し、以来150年来の王室出仕であった。ラ・ミュエット城に住居があった。娘の一人{51年生まれの Louise Marie Basile Rigobert?}は家具保管係と結婚
しており、彼は前ニ者らと生活していた。ラ・ミュエット城からの退去の際に彼はヴェルサイユで馬を、王室催事部で馬車を調達して、家具類を義兄弟ルテリエのいるポントワーズに運んだ。革命の危
険から王室財産を守る為である。しかしこれが露見し、この人も妻娘も逮捕される。義兄弟ルテリエの家にも家具は運び込まれていた。2494Rosalie Anne Adelaide Boquetの転売事件とは別のようだ。
しかしそれらは一連の横領事件として処理されたようだ。だからこの人は2494Rosalie Anne Adelaide Boquetを城内の時計等の盗難者として告発している。しかし共々に処刑された。
長男Pierre Mellon 1752-1840の娘FeliciteはHenri Francois RIESENERと結婚して、ロマン派画家で名高いLeon RIESENER 1808-78の母となる)

曾孫・Leon RIESENER  

2520. フォルテュネ・シャルル・ルイ・フランソワ・マイエ MAILLE (Fortune-Charles-Louis-Francois), 16歳。パリ生。
(シャルル・ルイ・フランソワ・フォルテュネ・ド・マイエ・ド・ラ・トゥール・ランドリー Charles Louis Francois Fortune de Maille de La Tour-Landry 1777-94
番外である後者Vicomte de La Tour-Landryの息子。母親はナントに住むクレオールのPerrine Jeanne Marguerite Le Roux 1755生。2521は従兄。
妹が一人おり、Blanche Felicite Charlotte de Maille de La Tour-Landry 1781-1820でナポレオン侍従官となるAuguste Louis Gabriel de Montaigu 1780-1846と結婚している。
16歳のこの少年の処刑は後にフーキエ・タンヴィルの起訴に繋がる。母親は翌日出頭させられたが、息子を処刑した裁判官を見て卒倒し、審議保留となり、テルミドールで救われた)

妹・Blanche Felicite Charlotte de Maille de La Tour-Landry  

(番外)
Vicomte de La Tour-Landry,Jean Louis de Maille de La Tour-Landry 1744-94 野戦総監 Chateau d'Entrammes生。
(ラ・トゥール・ランドリー子爵ジャン・ルイ・ド・マイエ・ド・ラ・トゥール・ランドリー 1744-94 前者の父、後者の叔父。
父親はComte de La Tour-Landry, Baron d'Entrammes,Charles Louis de Maille de La Tour-Landry 1712-80。母親はMarie Francoise de Savonnieres 1711-79。
三女四男の三男。長兄はDuc de Maille, Charles Rene de Maille de La Tour-Landry 1732-91である。この長兄はMarquis de Jarzeの娘と結婚したが68年に死別、Vicomte de L'Isleの娘
Madeleine Angelique Charlotte de Brehant 1750-1819{マリー・アントワネットの女官}と再婚したが、この妻は、92年8月10日事件に際して王妃の危機を知ると王妃の元に駆け付けようとし
失敗し、投獄され処刑されるところ、姓の間違いにより執行が保留となり、テルミドールで救われた女性だ。長姉Marie-Henrietteは後者の母。次兄のSaint-Papoul司教{革命後レンヌ司教}
Jean Baptiste Marie 1743-1804は大革命中にカトリック教会の存続に貢献した人物。
マルティニク生まれでナントに住むクレオールの Perrine Jeanne Marguerite Le ROUX 1755生と結婚し、前者と長女Blanche Felicite Charlotte de Maille de La Tour-Landry
1781-1820{ナポレオン侍従官となるAuguste Louis Gabriel de Montaigu 1780-1846と結婚}をもうけた。この娘の息子Marquis de Montaigu,Augusteは1904年91歳で亡くなっている。
妻は革命で同様に逮捕されたが、この人と息子の処刑の翌日出頭させられたが、息子を処刑した裁判官を見て卒倒し、審議保留となり、テルミドールで救われた。
この人は1786年7月14日、兄からEntrammesの男爵領を340,000リーヴルで取得している。革命時にはパリにいた。しかし修道院に収監され、彼の肉屋をしていた人物が彼を救い出すという
口実でそこで人気のない隅に連れていき、腹に短刀を突き刺した。この人は逆に肉屋に飛び掛かり、男を絞殺するという事件もあった。
Hardouin de Maille 1462-1524が1494年Francoise de La Tour-Landryと結婚したことで成立した家系。11世紀のGauzbert de MailleはすでにMaille領主だった。一族はトゥーレーヌに発祥し、
アンジュー、メーヌへと広がった。de Maille-Breze家も14世紀に派生した一族。 ブルターニュのLa Forest系もある)

娘・Blanche Felicite Charlotte de Maille de La Tour-Landry  娘婿・Auguste Louis Gabriel de Montaigu   
義姉・Madeleine Angelique Charlotte de Brehant

2521. フランソワ・ルネ・アレクサンドル・マイエ MAILLE (Francois-Rene-Alexandre), 37歳。ヴェルラントVerlante生。
(フランソワ・ルネ・アレクサンドル・マイエ・ド・ラ・トゥール・ランドリー Francois Rene Alexandre de Maille de La Tour-Landry 1794没 ピュイPuyの司教総代理。
父親はMarquis de Jalesnes,Charles Francois de Maille de La Tour-Landry 1730生。母親はComte de La Tour-Landry, Baron d'Entrammes,Charles Louis de Maille de La Tour-Landry 1712-80の娘
Marie-Henriette de Maille de La Tour-Landry 1731-62。この母親の弟が前者{番外。つまり2520の従兄}。またこの母親の弟{つまりこの人の叔父}であるSaint-Papoul司教{革命後レンヌ司教}Jean
Baptiste Marie de Maille de La Tour-Landry 1743-1804は大革命中にカトリック教会の存続に貢献した人物。
姉と兄がいて、姉はFelicite EmilieはAnne Pierre de La Modetaieに嫁いでいる。兄Marquis de Jalesnes,Charles Louis Francois(WikiではCharles-Henri-Francois) 1755-1845は騎兵大佐となり、1780年
Jeanne de Sheridanと結婚、二女一男を得た後、1804年Isabel Campbellと再婚し一女を得ている。長男のCharles Theodore Belisaire 1785-1850と次女のAdelaide 1787-1873は、共にComte de Vaudre
 de Hautefortの娘と息子と結婚している。{父親Comte de Vaudre de Hautefortは1994Vicomtesse d'Hautefort,Jeanne-Marie de Hautefort 1747-94の弟})

兄・Marquis de Jalesnes,Charles-Henri-Francois de Maille de La Tour-landry  姪・Adelaide de Maille de La Tour-Landry  

2522. イザベル・ピグロワ PIGROIS (Isabelle), ミュルザンMeursinの離婚した妻。 21歳。ヴェルサイユ生。
(ミュザン伯爵夫人マリー・イザベル・ピグレー Comtesse de Mussin,Marie Isabelle PIGRAIS 1768-94 アルトワ伯の娘Mlle d'Angoulemeの朗読係。
父親は国王控えの間案内官、受付官、王妃付部屋係、王室家具類検査官Jean Nepomucene Joseph PIGRAIS 1737生。母親はパリ商人の娘Marie Louise BOURGEOIS。
異母姉Marie Louise Adelaide Julie PIGRAIS 1762生 がいたが没年・詳細共に不明。
1786年ヴェルサイユのノートルダムにて王室家具検査官Comte de Mussin,Sylvain RATAUD de MUSSINと結婚。離婚していると裁判所の記録にはある。
両足に麻痺があり、同室だった女性らと2532シェニエらは、守衛を殺し、窓の外へ板を渡し、テラスへ逃亡しようと計画していたという。しかしこの人は麻痺で板を渡ることは難しかった
はずだが、有罪となる。
収監中、妊娠6週間を申告した。すでに夫とは離婚しているので、相手の男性の姓名を尋問され、「Charles Gravier dit Vergennes」と告白。つまり2511だろう。
しかしEnguchardとNauryは、未亡人Priouxの手を借りて診断し、妊娠の兆候を否定した)

2523. ルイ・セル SCELLE (Louis), 44歳。元貴族。パリ生。
(Louis Selleとも。国内軍服検査官inspecteur general des effets militaires des armees de l'Interieur)

2524. カトリーヌ・ルイーズ・シルヴィーヌ・セグリエール・ベルフォリエール SEIGLIERES-BELLEFORIERES (Catherine-Louise-Sylvine), ディニスダールDhinnisdal未亡人。 35歳。パリ生。
(ディニスダール伯爵夫人カトリーヌ・ルイーズ・シルヴィーヌ・ド・セグリエール・ベルフォリエールComtesse d'Hinnisdael,Catherine Louise Sylvine de Seigliere-Belleforiere 1759-94
父親はJoachim-Charles de Seigliere-Belleforiere 1726-94。母親はMarie-Sylvie de Berenger 1794没。母親Marie-Sylvie de Berengerは94年3月25日牢内にて死亡している。父親は2486の
Joachim-Charles de Seigliereで前日に処刑されている。ラ・マルシュ連隊大佐のComte d'Hinnisdael , Baron de Fumal et de Monchy,Francois-Eugene 1751-86 と結婚し、Comte d'Hinnisdael,
Joachim Louis-Ernest 1779-1814 をもうけており、この息子はMelanie de Villeneuve 1778-1848と結婚、その二女一男は皆、成人している。
この人は収監中、妊娠5週間であると申告。すでに夫と死別していることから、相手の男性の姓名を言うよう尋問され、Charles-Gustave Graindorgeという相手と関係をもったと告白。しかし
EnguchardとNauryは、未亡人Priouxの手を借りて診断し、妊娠の兆候を否定した。その男性は2510だろう。
妹Francoise Camille de Seigliere 1758-1849 はCamille de Soyecourtとして名高いパリのカルメル会修道院の再興者。84年にパリの同修道院に入ったが、革命で家族共々投獄。このカミーユは
解放され、相続財産が回復されると、修道院を買い取り再興。98年から1807年にかけて各地の修道院の再建に資金を注いだ。ナポレオン時代は弾圧され投獄・
追放もされたが、ナポレオンが去ると再び修道院を開き91歳で没した)

妹・Francoise Camille de Seigliere  

2525. フランソワ・ティボー・ラガルド THIBAUD-LAGARDE (Francois), 31歳。サン・タンジェルSaint-Angel生。
(ラ・ガルド伯爵フランソワ・ティボー・ド・ラ・ガルド・ド・セイ二ュ Comte de La Garde,Francois Thibaud de La GARDE de SAIGNES 1762-94 近衛隊将校。
父親はBaron de Saint-Angel,Thibaud II de La GARDE de SAIGNES。母親はDame de Montgaillard,Anne-Marie de BEYNAC 1733生。
1791年Amelie Josephine Francoise de BOURDEILLES 1826没 と結婚し、一女一男をもうけた。共に成人し結婚し子を残している。息子はAmedee de La GARDE de SAIGNES de SAINT-ANGEL
1792-1828。
妻の父親Vicomte de Bourdeilles,Henri Joseph de BOURDEILLES 1749-94は2529。資料によってはこの人と同日の7月24日処刑とある。
2504のエリザベト・ピエレット・デュボワ・ド・クールヴァルは、収監中、妊娠6週間を申告。しかしすでに夫とは死別しているので、相手の男性の姓名を尋問され、Francois Thibault-Delagardeと告白した。
しかし EnguchardとNauryは未亡人Priouxの助けを借りて診察し、妊娠の兆候なしと診断した。Francois Thibault-Delagardeとはこの人のことだろう)

2526. マリー・フェリシテ・ヴェルネ VERNET (Marie-Felicite), シャルグランChalgrin妻。 34歳。レイヨーヌRayonne生。
(マルグリット・エミリー・フェリシテ・ヴェルネ Marguerite Emilie Felicite Vernet {Chalgrinで知られる} 1760-94 女流画家。ヴィジェ・ルブラン等の師匠Claude Joseph Vernet 1714-89
の娘。2494のアンヌ・ロザリー・アデライド・ボケの友人。72年、後に凱旋門の設計者として名高い建築家となるJean-Francois-Therese Chalgrin
1739-1811と結婚。Louise-Josephe Chalgrin 1777-1826という娘がいる。娘はClaude Marin SAUGRAIN 1756生 と結婚し、一男二女をもうけた。
2494のラ・ミュエット城の家具転売事件に巻き込まれ、国家財産の転売・隠蔽の罪で逮捕、そして処刑された。兄で画家の Antoine-Charles-
Horace "Carle" VERNET 1758-1836も政府に影響力ある画家ジャック=ルイ・ダヴィッドを介して働き掛けてくれたが、効なく処刑。右下の父親
肖像画はヴィジェ・ルブラン画である)

 Marguerite Emilie Felicite Chalgrin............... ......................................................................................................................父・Claude Joseph Vernet  
兄・Antoine-Charles-Horace "Carle" VERNET

1794年7月25日

2527. ジャン・フランソワ・オーティ 通称レオナール AUTIE dit Leonard (Jean-Francois), 36歳。パミエPamiers生。
(ジャン・フランソワ・オーティエ Jean-Francois Autie 1758-94 王妃の美容師だった。後に砲兵隊輸送隊に雇われていた。
乗合馬車の馭者Alexis AUTIEが父親で、母親はCatherine FOURNIERという。{父母共に使用人とも}二女三男の末子。
長兄Leonard-Alexis AUTIE 1751頃-1820がボルドーで美容師として働き、1769年パリに出て女優の髪型デザインで好評となりデュ・バリー夫人やマリー・アントワネットにも気に入れら
奇抜な高髪に壮大な髪飾りで名を博した。そしてショセ・ダンタン通りに美容学校を設立し、次兄Pierre AUTIE 1753生とこの末弟を呼び寄せて手伝わせた。二人も「レオナール」という一種
ブランド名化した通称名を名乗り、長兄の栄誉に浴した。後世の歴史書でこの為、兄弟らが混同されることになる。この人は小柄な美男で少し頬骨が出ており、鼻が尖っており、ロベスピエ
ールのように上向き加減の姿勢をしていたという。プロヴァンス伯によって「マルキ」{侯爵}と呼ばれたのは、兄の「シュヴァリエ」{士爵}と区別するためで、この人も宮廷で活動していた。
長兄はCoiffeur de la Reine{王妃の美容師}として特別な日に王妃の髪をデコレーションしだか、この弟は毎日、王妃の髪飾りを作製していた。だから、下記の特別な任務を託されるに至っ
たと思われる。
そして、革命後、1791年6月20日チュイルリー宮で王妃に呼ばれて、フランス脱出後も身の回りを整えるべく随行員に指名{計画については伏せてあるが}、ショワズール公の指示に従うよう
漠然とした密命を帯びて公爵の元に派遣される。始めは公爵に伴ってそのまま遠出をさせられたのに戸惑ったこの人も、あまりの困惑の様子に困った公爵から王室の脱出計画を聞かされ、
すっかり怖気づき、動揺していた。しかし、王室一行の二時間の遅延と駐屯地の村人らの攻撃的な態度に不安を抱き、判断ミスを招いた公爵が「作戦失敗、脱出経路沿いに待機していた部
隊の撤収」を命じる指令書をレオナールに託すと、俄然張り切りはじめ、この困った指示書を配り歩く。その為にかえって伝わってはならない命令が徹底されてしまい、王室一行は確実にフェ
ルゼンの慎重で巧妙な計画を頓挫せしめてしまう原因ともなった。レオナールは王妃から預かった宝石類を追っ手に渡してはならぬと頑張り、途中の部隊に馬の調達も頼み、結局、王妃本人
はヴァレンヌで捕縛され、装身具のみが脱出に成功、という皮肉な結果となった。レオナールは3ヶ月間外国に過ごし、長兄のレオナール・アレクシもそこに合流。この人は起訴されなかったので、
兄弟共々帰国し、92年6月頃、兄はロシアに1814年帰国するまで亡命。{それに従わなかった妻でアルトワ伯の料理係の娘Marie Louise Adelaide Jacobie Malacridaとは離婚}この人は留まり、
ヴェルサイユでの軍務に就いていて、そこで逮捕された。歴史書は上記のヴァレンヌ逃亡事件での任務を長兄と混同したり、無名の囚人が身代わりに処刑され、当人はアメリカに脱出したと
いう説もある。また4巻本の回想録もあるが、それは長兄でもなく、全く別人の手によるものとされている。長兄・次兄ともに結婚し子を残しているが、この人の結婚記録はない)

 Jean-Francois Autie ..........................................................................................................................................................................................................................................................兄・Leonard-Alexis Autie

2528. フランソワ・ローズ・バルテレミー・ブシュエジュール・ロクロール BESSUEJOULS ROQUELAURE (Francois-Rose-Barthelemy), 46歳。トゥールーズ生。
(ロクロール侯爵フランソワ・ローズ・バルテレミー・ド・ブシュエジュールド・ロクロール Marquis de Roquelaure,Francois Rose Barthelemy de BESSUEJOULS de ROQUELAURE 1748-94
野戦総監。ボース連隊大佐。{アルトワ連隊大佐とも}父親はMarquis de Roquelaure, Baron d'Apchier et de Lanta,Mathieu Ignace Alexandre Felix de BESSUEJOULS de ROQUELAURE。
母親はMarie Victoire Mathiasse de Barthelemy de Grammont。姉と弟がおり、姉 Henriette de BESSUEJOULS de ROQUELAUREはAntoine Francois Louis de PREVINQUIERES 1737生
と結婚している。弟はAntoineとして詳細不明としている資料と Etienne 1828没 として亡命先のドイツでvon BAYERN GROSBERG某と結婚したとする資料あり。
この人は1779年Marie Louise Isabelle{Eugenie} de HOUCHIN{Houchainとも} 1748-99{1767-97とも}と結婚して一女一男Alexandrine-Louise 1780-82夭折、Louis-Georgesを1785年にもうける
も99年に14歳で早世。
1754年サンリス司教となったJean-Armand de Bessuejouls de Roquelaure 1722-1818は叔父で46年アラスの司教総代理、64年国王第一聴聞僧、67年国務評定官、71年アカデミー会員、
1802年Mechelen大司教となり97歳で亡くなっている。
ラングドッグの古い貴族の一族。1615年と1724年に元帥を出している。Bessuejouls家も1088年には確認できる騎士の家系。
95年1月25日ロクロールの城と領地は国有財産として売りに出されている)

叔父・Jean-Armand de Bessuejouls de Roquelaure  

2529. アンリ・ジョゼフ・ブールデイユ BOURDEIL (Henry-Joseph), 36歳。⇒46歳 パリ生。
(ブールデイユ子爵アンリ・ジョゼフ・ド・ブールデイユ Vicomte de Bourdeilles,Henri Joseph de BOURDEILLES 1749-94 資料によっては娘婿2525と同日の7月24日処刑とある。
父親はHenry Joseph de BOURDEILLES 1715生。母親はLouise Marguerite d'ESPARBES de LUSSAN。
姉のMarie Anne Francoiseは1775年にBaron de Maussac, Marquis de Saint-Genies,Joseph Laurent Thomas Raymond de BADERON de SAINT-GENIES 1750生と結婚しているが
この夫は1770年に近衛銃士隊第一中隊に入隊している。この人の祖父Marquis de Bourdeilles,Comte de Matha,Henri de BOURDEILLESも近衛銃士だった。{後にフランス衛兵隊
少尉}。また叔母{父親の妹}Marie Susanne de BOURDEILLES 1717生は 1739年Charles Auguste TIERCELIN d'APPELVOISINと結婚しているが、息子{つまりこの人の従兄}のMarquis
 de La Roche du Maine,Charles Gabriel Rene TIERCELIN d'APPELVOISIN 1743-94は1930。
この人は三回結婚し、三女一男をもうけている。
最初は1770年、Comte d'Archiacの娘Marguerite Henriette DESMIER d'ARCHIAC。生まれた娘Amelie Josephine Francoise de BOURDEILLES 1826没が2525の妻。
二度目がMarquis de Maunyの娘で75年クロチルド王女、ついで王妹エリザベトの女官となるAdelaide Therese d'ESTAMPES 1759-83。二女をもうけるが、長女 Elisabeth de
BOURDEILLES 1777生 の夫Charles Raymond Sylvain de BERENGERの母方祖母は2154のマリー・アントワネット・ブーレ。ベランジェ家との関係は2154説明参照。
三度目はComte de La Roqueの娘Marie Jacquette Claude de BEAUMONTで、後継者Marquis de BOURDEILLESとなるJoseph Marie Armand 1793-1845が生まれた。
ブラントーム、つまりピエール・ド・ブールデイユはこの人の7代前のアンドレ・ド・ブールデイユの弟)

2530. フランソワ・ブーケ BUQUET (Francois), 46歳。コンジュConge(Conges Congis)生。
(パリ教区リヴリ近くのGagnyの元司祭)

2531. マリー・マルト・シャルロ・ダルティーグ CHARLOT-DARTIGUES (Marie-Marthe), マロンMaron未亡人。46歳。クーロミエCoulommiers生。
(Marie-Marthe-Charlotte d'ARTIGUEともあり、国立公文書記録に1772年の結婚契約記録があって年代的にも符合する。また2490のヴァロキエが著した「Tableau Genealogique,
Historique, Chronologique, Heraldique Et Geographique de la Noblesse」には王室連隊歩兵大尉でアランソン民兵司令ジャン・フランソワ・ダルティーグとMarie Manousseとの息子
である騎兵野戦総監アレクサンドル・ダルティーグが1746年にMarguerite-Marthe Houlierと結婚し、以下の三人の子もうけた。長女1747年生まれのサン・シール生徒のシャルロット・
ダルティーグ。1751年生まれの弟で継承者のアレクサンドル・ダルティーグは王室軍学校の生徒で国王近衛騎兵、1757年生まれの次女ルイーズ・ダルティーグ・ドソー{d'Osseaux}、
がいた、とある。また1547-1907年におけるマルヌ県での死亡一覧{マルヌの教区もしくは自治体死亡記録からの抽出}にもMarronの妻Marie-Marthe-Charlotte d'ARTIGUEが1794年
の欄にある。またセーヌ・エ・マルヌのイヴリーヌ居住記録には、Marie-Marthe-Charlotte d'ARTIGUES、1747年3月20日Coulommiers生まれとあり、1759年2月9日、1767年3月27日の
年月日の記載{確認日付か}がある。加えて、「高貴な少女のための教育の王立施設サン・シールの「Les Demoiselles de Saint-Cyr」一覧にも「Marie Marthe Charlotte d'ARTIGUES,
Seine-et-Marne」が見られる。
しかし系図で唯一確認できるのは、Marie Noelle Charlotte d'ARTIGUES Coulommiers, Seine-et-Marne生まれで、1747-94でMlle de Saint-Cyr。父親はAlexandre d'ARTIGUESで、
1746年Marthe Marguerite HOULIER 1720頃生 と結婚し、長女のサン・シール生徒Marie Noelle Charlotteの他は、生年のみで詳細不明のNicolas Alexandre 1748生、Alexandre 1751生、
Louise 1757生、と兄弟姉妹がいる。この人はN. MARONと結婚とだけあり。
恐らくミドルネーム以外はヴァロキエ氏の貴族辞典に書かれているシャルロット・ダルティーグに符合するので同一だろうし、マルヌ県の死亡一覧やサン・シールの生徒一覧とも合う。
総合すると、サン・シール生徒であり、1772年にMARONもしくはMARRONという姓の男性と結婚し、94年には死別しているMarie-Marthe{もしくはNoelle}-Charlotte d'ARTIGUEで、生没年
1747-94、ということになる。罪状は「陰謀の共犯者」。
アルティーグ家はギエンヌの同じ名の村に由来。フィリップ・オーギュスト時代{在位1180-1223}のブーヴィーヌの戦{1214年}に国王に仕える貴族で騎士ピエール・ダルティーグが確認できる。
1784年のサン・シールにはSebastienne d'Artigues d'Osseauxという生徒か教官がいる。この女性は系図では近衛隊大尉 Jean Jacques d'ARTIGUES d'OSSEAUX 1710-71とIsabeau Elisabeth
LARREILLET 1704生 の長女Sebastienne d'ARTIGUES d'OSSEAUX 1737-1821であろうと確認できるが、この女性であれば教官か)

2532. アンドレ・シェニエ CHENIER (Andre) 31歳。文人。コンスタンティノープル生。
(アンドレ・マリー・シェニエ Andre Marie Chenier 1762-94 詩人
官能的で情感豊かな詩作によって、ロマン主義文学運動の先駆者のひとりに位置付けられている。恐怖政治が終わるわずか3日前に、断頭台の露と消えたため、その活動は唐突に終わった。
ウンベルト・ジョルダーノのオペラ作品「アンドレア・シェニエ」などに取り上げられている。弟ジョゼフは文人・政治家。
コンスタンチノープルに外交官の三男として生まれる。父親Louis CHENIER 1722-95はフランスのラングドック出身で、レバント方面で20年にわたって織物商人として働いた後、コンスタンチノープル
でフランス大使相当の地位に任ぜられていた。ギリシャ系の母Elisabeth SANTI LOMACA 1730頃-1808は、19世紀の歴史家・政治家のアドルフ・ティエールの祖母と姉妹であった。 
長兄Constantin Xavier 1757-1837はMarocやAlicante、プロイセン国内で領事代理をしていた。次兄Louis Sauveur CHENIER 1761-1823は80年Bassigny連隊貴族候補生となり軍人の道へ進み、
国民公会によって騎兵中佐となっているが、テルール中は危険な状態となり、テルミドールで救われた。弟Marie Joseph Blaise CHENIER 1764-1811は詩人であり政治家で、国民公会委員として
国王の死刑に投票、公安委員であったが、テルール中は不安定な立場だった。革命後も評議会議員や教育審査員等をしていたが、ナポレオンに排他された。

アンドレが3歳のとき、一家はフランス王国に戻り、父親が1768年から1775年までモロッコでフランス領事を務めるものの、家族はその間フランスに留まった。数年間カルカッソンヌのおばのもとで
自由奔放に育った後、パリのコレージュ・ド・ナヴァールにおいて、古典文学の詩の翻訳家として名を揚げた。 
1783年にストラスブールのフランス連隊に士官候補生名簿に登載されるが、新たな経験は間もなく潰えてしまう。年末までにパリに戻り、家族の歓待を受けるとともに、母親のサロンに足繁く通った
洗練された社交界の常連、とりわけルブラン・パンダール、ラヴォワジエ、ルジュール、ドラ、少し後にはダヴィッドらと交際する。 
この頃にはすでに詩人になろうと決めており、当時の新古典主義に参加しようと決心していた。特に、1784年にローマやナポリ、ポンペイを訪れたことから、強く刺激された。 
ほぼ3年の間シェニエは、家族からプレッシャーや干渉を受けることなく、詩作を研究し試作に向けた。 この時期、テオクリトスやビオーン、古代ギリシャの詞花集を大幅に模倣し、主に田園詩や牧歌を
書いた。この頃に書かれたか、少なくともスケッチされた詩に、「 L'Oaristys 」「 L'Aveugle 」「 La Jeune Malode 」「 Bacchus 」「Euphrosine 」「 La Jeune Tarentine 」があり、古代神話と、個人の感情や
精神という感覚を融合させた。 
1787年に一家の友人であったアンヌ=セザール・ド・ラ・リュゼルヌが駐英フランス大使に任ぜられた際、シェニエはその秘書に指名され、3年間ロンドンに滞在することになる。だがその生活は必ずしも
幸福ではなかった。イギリスではミルトンとジェームズ・トムソンに興味を示し、いくつかの自作の詩にはシェイクスピアやトマス・グレイの影響が見られるとはいえ、英文学を学んだというには程遠かった。 
1789年の出来事と、弟のマリー・ジョセフの政治的な劇作家およびパンフレット作成者としての驚くべき成功により、彼の考えはすべてフランスに集中する。 1790年4月、彼はもはやロンドンに発つことが
できず、パリのクレリー通りで両親に再び加わる。フランスは無秩序の危機に瀕していた。憲法上の君主主義を強く信じていたシェニエは、フランス革命はすでに完了しており、やるべきことは法治の
開始であると信じていた。彼の政治的見解は中道だが、彼の戦術は危険なほど攻撃的だった。彼は詩的な風刺を書く穏やかさ長閑さを捨てた。
その間、彼はフイヤン・クラブで演説を行い、1791年11月から1792年7月までパリジャーナルに頻繁に寄稿した。 1792年8月10日の暴動は彼の党派、彼の論理、彼の友人たちを根こそぎにし、彼はノルマ
ンディーの親戚と一緒にいることで9月の虐殺から逃れられた。これらの出来事に続く月に、彼の弟マリー・ジョゼフは反君主制全国大会に参加。アンドレはこれらすべての出来事に対して怒りを燃やす。
彼はルイ16世をギロチン台から救うべく亡命を拒否してパリに戻る。
ルイ16世国王の弁護人であるマルゼルブの要請で、シェニエは国王の弁護にいくつかの論文を提供する。
王が処刑された後、彼はヴェルサイユのサトリーの丘で人里離れた場所に潜伏、日が暮れてから外に出た。Francoise Lecouteulxと恋に落ち、触発された詩を書く。
ヴェルサイユでの彼の孤独な生活はほぼ1年続いた。 1794年3月7日に彼はパッシーのMarquise de Pastoret,Adelaide Piscatoryの家で逮捕された。公安委員会の2人の委員{内1人はNicolas Guenotという}は
逃亡した夫の侯爵を探していたが、見知らぬシェニエと遭遇、探していた侯爵であると疑い逮捕した。
彼はリュクサンブール宮殿に運ばれ、その後サン・ラザールに運ばれた。彼が投獄された140日間に、彼は逮捕を非難する一連の作品を書いた。これは看守によって彼の家族に密かに届けられた。
されました。刑務所でも様々な作品を残した。シェニエの死の10日前に、囚人仲間の画家Joseph-Benoit Suveeは彼の有名な肖像画を完成させる。{本人画右側。Suveeはテルミドールで解放された} 
また監獄で出会い女神と称えたAimee de Coignyへの作品も残した。{Aimee de Coignyはすでに亡命貴族Duc de Fleuryとは離婚していたが、牢内でComte de Morond,Casimir de Mouretと出会い100ルイで二人の
解放を買収、このシェニエ処刑の日に釈放される。二人はロンドンに逃げて結婚したが不幸に終わる} またシェニエは、スペインの外交官と共謀してルイ16世の死刑判決を覆そうと暗躍し、すでに弟・妹{630,641}を
処刑され、自身も危険な状態だったEmilie Lucrece d'ESTAT de BELLECOURTを救うべく、自らがスペイン大使の機密書類を所持していると告白し、彼女に逃亡の機会を与えたりした。これが死刑判決の決定的な
罪状となった。マリー・ジョゼフは兄の処刑を防ぐために最善を尽くしたが、後にこの弟は兄を見殺しにした男として王室主義者から攻撃の的となる。
 3日後、ロベスピエールはクーデタに倒れ、裁判なしで処刑され、テルールは終焉を迎えた) 前半部は日本語WiKiを編集。

 Andre Marie Chenier(右Joseph-Benoit Suvee画、サン・ラザール牢内にて)  ............  La famille Chenier
 
母・Elisabeth Santi Lomaca ................兄・Louis Sauveur................. 弟・Marie Joseph Blaise..............

2533. ジョゼフ・フランソワ・マリー・コアタレル COATAREL (Joseph-Francois-Marie), 32歳。元貴族の農家。プルーランPlourin(プルーヴェPlouveとも)生。
(コアタレル男爵ジョゼフ・フランソワ・マリー・ド・コアタレル・ド・ケルモード Baron de Coattarel,Joseph Francois Marie de COATAREL{COATTAREL} de KERMODES 1762-94
本家最後の人。士爵で軍指揮官。父親はGabriel Jean Marie de COATAREL de KERMODES 1722-66{1741年大厩舎小姓。軍指揮官}。母親はDame de CHAMBAL,Christine Marie Louise Josephe de
BOISLEVE de CHAMBAL 1726-65。すべて夭折した姉妹ばかり5人いた。系図にもPlourin生まれとあり。父親の死亡地はPlourin-les-Morlaix。
1779年Marie Jeanne Emilie de PENFENTENYO{PENSENTENNIO de CHEFFONTAINEとも} 1760-1849と結婚し、一女 Marie Josephe Olympe 1782生 をもうけ、この娘はAlexis de LANCRAU de BREON
1778生 と結婚した。妻のPENFENTENYOもしくはPENSENTENNIO家は1393年騎士が確認できるブルターニュの家系で、最古の祖先は1360年生まれのJehan de Penfeunteuniou。この妻は1651年分家して
Clohars-Fouesnantに定住したCheffontaines系の出身。長兄はMarquis de Cheffontainesを名乗ったJonathas Marie Hyacinte de PENFENTENYO 1751-1844である。
この人の家系はブルターニュのRolland de Coattarelが1248年十字軍に騎士として参加してるというが未確認で、1427年と37年にはPloubezre教区の「貴族」として確認されている。この人は1779年にBaron du
Bois de La Rocheと称号を得ている。
1791年7月1日Kerouet教会で宣誓したあと、Sizunの宣誓司教の話によれば「反革命を企み」、93年逮捕、パリへ送られたという)

2534. ジャンヌ・コラン COLIN (Jeanne), グリュエGruet未亡人。 36歳。シェスネーChessenaye生。
(ワイン商{元パン屋}Michel Gruetの未亡人。偽造紙幣の製造者として死刑判決を受けた)

2533. シャルル・アレクサンドル・クレキ・モンモランシー CREQUI-MONTMORENCY (Charles-Alexandre), 60歳。ドイツ生。(ドイツのChateau-de-Chetzembergen、Chateau-de-Chetzemberg生まれ)
(Charles-Alexandre de Crequi de Montmorency クレキでモンモランシーの姓は名門なのであるが、一部の資料ではDucともなっているにも関わらず、該当する者がいない)

2536. ルイ・ジャン・シャルル・ダシー DASSY (Louis-Jean-Charles), 36歳。パリ生。
(1758-94 d'Assyとも。パリのサン・マルタン・デ・シャンSaint-Martin-des-Champsの終身助任司祭、元司祭。94年の7月25日の処刑者でG.J.C.ASSY 36歳、元司祭あり。また収税会計官から財務官となったJean
Claude GEOFFROY d'ASSY 1729-94も処刑者にいるが、65歳である⇒2070{姓がGEOFFROY d'ASSY}。但しそこに当人かは不明とし掲載した「Portraits de Geoffroy d'Assy {XVIIIe s.}」とある肖像画は聖職衣を着ている)

2537. シャルル・ドレク DOLEQ (Charles), 49歳。少尉。フィレンツェ生。
(Charles Doley 元伯爵とか C.Doldy 元子爵とかある。イタリア人だからか、いずれにしても処刑記録以外に該当はない)

2538. シャルル・アンリ・ガステル GASTEL (Charles-Henry), 50歳。無職。元貴族で近衛銃士隊中尉。フォルジャンForgent(Forgesとも)生。
(シャルル・アンリ・ルイ・ガステル Charles-Henri-Louis Gastelともある。Comte de Gastel,Charles Henri Louisともある公文書あり。またマルタ騎士団の登録一覧にClaude-Charles-Joseph de GASTEL 1792年、
Charles-Henri-LouisとCharlotte-Suzanne PORTAILの息子、という記述がある。1939年Grand Armorial de France, tome 4には「ノルマンディー貴族のJean Rene{de Gastel}は1704年 Marguerite Louise Le Grandと
結婚、その子Rene Jean Charlesは1740年Marie Angelique Heulardと結婚、長男Comte de Gastelと呼ばれたCharles Henryは1770年Charlotte Suzanne Portailと結婚した。{その子1771年生まれのCharlesは1787年少尉
となる}弟のJean Henriは 1781年Adelaide de Fontenauと結婚した。尚、1705年に生まれたRene Jean{恐らくRene Jean Charles}の姉Marguerite Renee du Gastelは1715年サン・シール寄宿学校に入った」との記述もある。
deとduは転記間違いではない。尚、系図では妻と思しきCharlotte Suzanne PORTAILは1744年パリ生まれで上の記述の通り1770年5月23日にCharles Henri Louis de GASTELと結婚し1775年にClaude Charles Joseph
de GASTELを生んでいる。{年齢的に上記の1771年生まれが正しかろう}Edmee Louise PORTAILという姉妹がいた。夫のCharles Henri Louis de GASTELについての詳細はない。妻は他の系図では1750年頃の生まれと
あり、息子Charles Edme Bonaventure de GASTEL 1771-1783と没年が相違したものを記載している。夫に関してはTroncaiとSoranne領主の士爵で1742年生まれとある。父親が1717年生まれのRene Jean-Charles de
GASTELで、母親がMarie-Angelique d'HEULLAND 1721頃-65とあるが、ほぼ符合。祖父はJean-Rene de GASTEL 1670頃生 で父母はMarguerite Louise LE GRAND DU BOULAI 1680頃生 とあり、上記のGrand Armorial
 de Franceの内容に合致している。この人には弟が二人おり、王軍大尉のJean Henry de GASTEL 1750頃生 とSocanne{ノルマンディーにSocanneの地名はある}司祭Marc-Antoine de GASTEL 1752頃-1785である。前者
の婚姻に関しては上記にある通り)

2539. ゴーティエ・ヴァンフラック GAUTHIER-VINFRAC, 36歳(56歳とも)。ヴェルサイユ生。
(ピエール・ゴーティエ・ヴァンフレー Pierre Gauthier Vinfray 元貴族。王弟プロヴァンス伯の近衛兵)

2540. ルイ・ヴァランタン・グスマン GOESMANN (Louis-Valentin), 61歳。ローセルLausserre生。
(ルイ・ヴァランタン・グスマン・ド・テュルン Louis Valentin Goezman de Thurn 1729-94 弁護士兼外交官
父親はLandserのバイイ裁判所の判事Georges Adam GOEZMAN 1684-1768。母親はMarie Anne POIROT 1761没。
1753年Marie Anne Francoise AMANN 1732-58と結婚し、死別後1764年パリでGabrielle Julie JAMARDと再婚、また不明女性からGeorgesという男子をもうけているとあるが、WiKiでは唯一の子の Georges Jacques Louis
は1755年生まれなので、初婚の相手との子になる。後にロワイヤル・バヴィエール連隊に入っている。後にイギリスからベルギーに移った父親に同行している。
アルザスのLandserで生まれる。Goesman、Goetsmann、Goetzmann、Gotsmannとも表記あり。
15世紀以来、多くの議員を輩出したドイツ系の古い家柄出身。アルザスのColmarで弁護士になる。 1755年7月に司法長官代理。57年11月評定官となる。
1773年、官職を売却した後、パリに移るこの頃、再婚した。この妻Gabrielle Julie JAMARDはグスマン事件で重要な役割を果たす。学識のある法学者である彼は、 1769年に英国王立科学芸術アカデミー会員となった。
1773年〜74年のいわゆる「Goezman事件」が発生。金融家Duverneyの相続権を巡るボーマルシェとComte de La Blacheの争議に於いて、妻を介してボーマルシェより賄賂を得て、ボーマルシェ敗訴後にそれを暴露され、
世の笑い者にされた。それもあり、彼は政府の秘密捜査官という新しい任務に就き、1775年から15年間、ロンドンで海軍省、次に外務省の秘書官として潜入。Brom de Thurnと名乗りスパイと諜報活動に従事する。
イギリスの経済的及び政治的状況の評価が主でロンドンの新聞からの抜粋を送ったりした。また、シモン・ニコラ・アンリ・ランゲ{⇒1766}のような、ロンドンに定住した問題のあるフランス人の監視任務も担当した。アメリカ
独立戦争中は危険を避けてOstende{ベルギー}に滞在、息子も同行している。
81年頃より彼の信頼は揺らぎ、パリ警視総監ルノワールは反体制的な出版社Boissiereへの関与疑惑が浮上。83年帰国を命じられた。しばらく国務大臣Comte de Montmorin Saint-Heremのもとで働いた。
後に革命で逮捕となる)

2541. ジャン・ルイ・ギベール GUYBERT (Jean-Louis), 46歳。元貴族でトゥールーズの裁判官。トゥールーズ生。
(バンク男爵ジャン・ルイ・ド・ギベール Baron de Benque,Jean-Louis de GUIBERT 1746-94 近衛銃士。1789年から90年にトゥールーズの裁判官。
父親はBaron de Benque,Antoine Bernard Bruno de Guibert 1710-90。母親はモントーバン租税院院長で国王評定官Baron de Caussade,Jean d'Aliesの娘Marie d'Alies 1712-68。
二男一女の長男。弟は将官補佐大尉でマルタ騎士のGuillaume Mathieu Aime 1749生 は86年Marquis de Mongeyの娘Fleur Hyacinthe Marthe Francoise de Franc de Mongeyと結婚している。
一男 Bruno Louis de Guibert 1787生 がいた。妹Marie Marguerite Martine Bruno 1751-83は71年トゥールーズ高等法院評定官のPhilippe de Cuessac 1738生 と結婚、子の記録なし。
653のPhilippe-Joseph-Marie CUSSAC{CUCSAC} 1727-94はトゥールーズ高等法院大審部評定官で在職1748-90、処刑時67歳だが、系図には「 NE N.」と結婚としかない。生年が異なっている。
同一なら44歳での結婚となる。{38年生まれなら33歳だが、在職が48年からというのがおかしくなる}。Philippe de Cuessacの系図には父母の記載ない。
この人は1774年、三部会でのトゥールーズ貴族議員Marquis de Montesquieu Volvestre,Marc Antoine de Bertrand de Molleville 1717-92の娘Marie Victoire Etiennette de Bertrand de Molleville
1785没 と結婚し子の記録はない。この妻の兄Comte de Bertrand de Molleville,Antoine Francois de BERTRAND de MOLLEVILLE 1744-1818は1791年10月7日から1792年3月16日までルイ16世
のもとで海軍大臣・植民地大臣を務めており、秘書官にオノレ・バルザックの父親となるBernard Francois Balssaがいた)

義兄・Comte de Bertrand de Molleville,Antoine Francois de BERTRAND de MOLLEVILLE  

2542. ピエール・エベール HEBERT (Pierre), 42歳。 ブロンヴィフBronvif(⇒マンシュのブルーヴィルBreuville {Manche})生。
(ピエール・エベール Pierre Hebert 1742-94 クータンス教区Courbevoieの元司祭{1785年から}。66年Courbevoie{パリの西郊外2キロ}の聖職者となりMontmerque家の家庭教師を務める。Colombes
教区の村の教会の助任司祭となる。その村はスイス衛兵隊の兵舎やヌイイ橋が建設され2000人規模になる。{93年人口調査では1400人。Courbevoieは数百人くらいの漁師とワイン生産者の村だったが、
1730年代後半より軍の駐屯地となり、人口が増えた}85年最初のCourbevoie司祭となり、89年Saint-Pierre-Saint-Paul教会を建立。この人は宣誓拒否したため、91年サン・ルイ島に避難。そして93年11月
逮捕された)

2543. シャルル・セザール・アンリ・ウードト HOUDETOT (Charles-Cezar-Henry), 39歳。農家。サン・ローランSaint-Laurent(Saint-Laurent-de-Brevedent)生。
(ドゥードト侯爵シャルル・セザール・アンリ・ドゥードト Marquis d'Houdetot, Charles Cesar Henry d'Houdetot 1754-94 騎兵大尉。
父親はアルトワ連隊大尉Charles Louis Marie d'Houdetot 1718-86頃。母親はMarie Anne Henry Louise de Baudot de Senneville 1733-1807。
Alexandrine Jeanne Louise Eudes de Catteville de Mirville 1763-1810と結婚し、二男一女をもうけた。長男4代目Marquis de Houdetot,Alexandre Louis Cesar 1787-1854{Saint-Laurent-de-Brevedent市長
{1815-19,21-30,48-54}は1808年Hortense Louise Charlotte de Bailleul 1789-1834と結婚し二女をもうける。大佐となる次男 Armand Maximilien 1787-1871はStephanie Hersant des Touches 1871没 と結婚し
一男を得る。長女Alexandrine Constance Louise 1791-1838は1808年Amable Marie Boursier 1786-1850に嫁ぎ二女一男をもうけた。
ウードト家は11世紀にはウードト領主として記録されているノルマンディーの名家。
父親Charles Louis Marieの弟{つまりこの人の叔父}Comte de Houdetot,Claude Constant Cesar 1724-1806の妻Elisabeth Francoise Sophie La Live de Bellegarde 1730頃-1813こそ、ルソーの恋した
Comtesse d'Houdetotのことである。この夫人の兄Marquis d'Epinay,Denis Joseph de La Live de Bellegarde 1724-82の妻Louise Tardieu d'Esclavellesはルソーの保護者として彼をエルミタージュの別荘
に住まわせたMarquise d'Epinay 1726-83である。またその息子(つまりこの人の従兄)2代目Comte d'Houdetot, Cesar Louis Marie Francois Ange 1749-1825は88年野戦総監、98年亡命から帰国、1803-09
マルティニク総督で1814年中将となる)

従兄・Comte d'Houdetot, Cesar Louis Marie Francois Ange  義理叔母・Elisabeth Francoise Sophie La Live de Bellegarde  

2544. エリー・フランソワ・ラブルース・ベルヴィル LABROUSSE-BELLEVILLE (Elie-Francois), 41歳。ビュシエールBussiere生。
(エリー・フランソワ・ラブルース・ド・ベルヴィル Elie-Francois Labrousse de Belleville リモージュ教区ノントロンのビュシエール・バディルBussiere-Badil生まれ。
ラブルース家はペリゴールの4番目の都市であるノントロンの中世の貴族家から由来している。一族の中には、市の2人の市長、地方の2人の長官、長官補佐、国王の顧問秘書、ルイ14世の将軍、
スイス百人隊のキャプテン中尉、高等法官、ギュイエンヌ高等法院、王の衛兵と革命の犠牲者が出ている。分家はこの人たちのLe Boffrand系も含めて11もある。2296にJean Labrousse du
Boffrandがいるが、同族の別系Le Boffrand系の人。
この人に対するフーキエ・タンヴィルの起訴状では、貴族身分をひけらかし、常に政府関係者に対する嫌悪感を示し、食事会等を開いて仲間をつくって、政府の意向に歯向かわせようと企んだ、と
山のような罪状が並べられていた。しかし市民の証言によれば、彼は昔からの住民で、慈善活動を好み、礼儀正しく誠実な人物であるという実像が示されている。そのような市民らの証言書は
革命裁判所では一顧だにされず、判で押したような罪状が並べられて極刑に処さられた、という実態がよくわかる)

2545. ジャン・マルダー二ュ MALDAGNE (Jean), 58歳。 元司祭。パリジューPalisieux(⇒Paleysieu)生。
(ジャン・バティスト・マルダー二ュ Jean-Baptiste Maldagnes ルーヴルLouvres{トゥール Toursとも}の元司祭)

2546. ルイーズ・エリザベト・マティス・シモン MATHIS-SIMON (Louise-Elisabeth), マイエMaillet妻。 48歳。ロルベックLorbec(⇒Orbec{Calvados, Normandie})生。
(ルイーズ・エリザベト・ガブリエル・マティー・シモン・ド・フランヴァル Louise Elisabeth Gabrielle Mathie SIMON de FRANVAL 1745-94
父親はサン・ルイ騎士で大佐Louis Adrien SIMON de FRANVAL 1690-1772。母親はMarie Gabrielle LALLIAT。
1735年生まれの兄Pierre Louis SIMON de FRANVALと1740年生まれの姉Marie Apolline Simone SIMON de FRANVALがいて、この姉は1775年Jean Baptiste Bernardin de PRAEL 1739生 と結婚
している。
この人は1783年Francois Yves de MAILLET 1753-1813と結婚し一女Apolline Francoise de MAILLETをもうけている。「Etats detailles des liquidations faites par la Commission d'indemmite」という
資料の中で、この夫は亡命者として扱われており、同行者のMarie-Claude-FrancoiseはM.Emile Cochetと離婚した妻、もう一人同行者はAppolinne-FrancoiseでM.Victor-Antoine-Elisabeth de
Pardieuの妻、とあり、相続権の没収とある。後者は上記の娘だろう。前者は不明。系図にないもう一人の娘かも知れない。この資料は「補償委員会が1回目に清算した詳細な声明。 1826年4月、
1825年4月27日の法律に従い、没収された土地の元の所有者または元の所有者の譲渡者の利益のため・・・」というものなので、結婚についてはその時点でのものだろう。別の系図では娘のAppoline
Francoise de MAILLET 生没年不詳 は確かにVictor Antoine Elisabeth de PARDIEU 1772-1855と結婚し、1811年〜25年にかけて長男Marquis de Pardieu,Charles de PARDIEU始め、いずれも結婚し
子を残す3人の男子を生んでいる。パルデュー家は13世紀来の騎士の家系でノルマンディー貴族。Marie-Claude-Francoise de MAILLETと離婚した夫Emile Cochetの両名については確認出来ず)

2547. トゥーサン・ムニエ MEGNIER (Toussaint), 65歳。聖職者。デュピュイDubuis生。

2548. グラティアン・モンタランベール MONTALEMBERT (Gratien), 62歳。リモージュ生。
(モンタランベール侯爵グラティアン・ド・モンタランベール Marquis de Montalembert, Gratien de MONTALEMBERT 1732-94 王軍連隊大尉
父親はVasse騎兵連隊中佐Gratien de MONTALEMBERT。母親はComte du Dognonの娘Anne VIDAUD du DOGNON。{母親は1709年近衛銃士第二中隊少佐Pierre de CREZEUNET士爵と結婚し
一女をもうけた後の再婚}
恐らく妹のJeanne 1792没 がおり、彼女は1748年Marquis de Cardaillac,Francois Emmanuel de CARDAILLAC{Cardaillac家のVegennes系。1759年初代侯爵位をルイ15世より授かる} 1782没 と結婚し三女
三男をもうけている。
この人は1768年パリで歩兵連隊大尉Baron de Lassonの長女Marie Suzanne de CROIXMARE{CROISMAREとも} 1742-76と結婚し、一女 Rose de MONTALEMBERT 1769-1851をもうけ、この娘は1790年
ギエンヌ竜騎兵連隊大尉Marquis de Livry,Etienne Alexandre L'HOTE{LHOSTEとも}と結婚した。
モンタランベール家は14世紀以来のアングーモワの貴族。この人の父親はMonbeau系だが五男坊)

2549. クロード・フランソワ・モントリフ MONTERIF (Claude-Francois), 42歳。ストニーStegny(⇒Stigny)生。
(クロード・フランソワ・ルージュオ・ド・モンクリフ Claude Francois Rougeot de Montcrif 1751-94 Chevalier de Montcrif とも。ブルゴーニュの Stigny生まれ。近衛ノアイユ中隊。
 父親はClaude Francois Rougeot 1712-79{1739年猟兵大尉Capitaine des chasses}。母親はスティニー裁判官の娘Jeanne Charlotte de Brie 1715-81。909のClaude-Francois Rougeot 1719-94とかの徴税請
負人のRougeotの家系とは違う。
七女六男の四男。長兄Claude Charles Jules 1740-84はRoyat連隊の騎兵。弟Rene Louis 1752-1805は国王評定官の娘Pierrette Francoise TREMISOT 1768-1824と92年に結婚している。
1773年Laurence Catherine Marie Carouge 1751頃-75と結婚、夭折含めて四男をもうけた。息子Etienne Francois Rougeot de Montcrif 1775-1840は教師・測量士となり1801年Marguerite Julie Ayotと結婚して
いる。死別後1789年パリでChristophe Henriette Aprin 1724頃-1803と再婚した。
モンクリフは恐らく父親か母親が購入した農地で、現在でもその土地は確認できるらしい)

2550. ジャンヌ・マリー・ポーム PAUME (Jeanne-Marie), ゴーティエ・サン・プレGauthier Saint-Pres妻。48歳。マルセイユ生。
(ジャンヌ・マリー・ポーム Jeanne Marie Paume  高等法院元弁護士Gauthier-Saint-Priestの未亡人{Gauthier-St-Crest妻J.M.PAUMEとあるのは誤記で、Saint-Priestを見よと
断り書きされている})

2551. ジャン・ラウール RAOUL (Jean), 52歳。グラヴサンGravesan生。
(国王の叔母たちの御用商人)

2552. ジョゼフ・ラウール RAOUL (Joseph), 56歳。元聖職者、自称、小間物屋。グラヴサン生。
(Joseph Raoulx 1737-94  les Peres de la Doctrine Chretienne{1592年Cesar de Busにより創立、97年法王認可、アヴィニョン大司教により修道院を与えられた会衆}の聖職者)

2553. ジャック・フランソワ・ランクネー・ラトリニエール RINQUENAY-LATOULINIERE (Jacques-Francois), 49歳。砲兵検査官。ヴェルサイユ生。
(ジャン・フランソワ・ラトリニエール・ヴァングネー Jean-Francois LATOULINIERE-VINGUENEY 元国王の酒杯係侍従で、革命後に砲兵隊に勤務していた。旧体制下のパリ新聞
の編集者Barnabe Farmian Durosoy{92年8月25日処刑}とも関係があり、1789年10月6日ヴェルサイユ行進の翌日、火薬庫守衛として国民衛兵への火薬の提供に抵抗した)

2554. ジャン・アントワーヌ・ルーシェ ROUCHER (Jean-Antoine), 48歳。文人。モンペリエ生。
(Jean Antoine Roucher 1745-94 詩人。塩税収税官。
父親は裕福な仕立屋親方Jacques ROUCHER 1719-88。母親はClaire BARON。父親は1750年Francoise AUBANELと再婚し一女四男の異母兄弟姉妹をもうけている。
父親からギリシャやラテン文学の教育を受け、故郷の神学校を出る。イエズス会からの奨めもあったが、彼はパリに出た。王太子とマリー・アントワネットの婚礼に際して
彼が書いた詩はテュルゴーから高く評価され、塩税収税官の職を得た。しかし詩作への専念のためその職は異母弟Pierre Roucher d'Aubanelが就いた。しかしその後も
テュルゴーとの親交は継続され、政治的集会やエルヴェティウス夫人の会合やフリーメイソンの集まりに参加していた。エルヴェティウス夫人のサロンでフランクリンと知り
合い、そこで英語の学習に励んだ。エルヴェティウス夫人は彼の娘Eulalie ROUCHER 1774-1834がお気に入りだった。{この娘は牢獄内の父からの手紙のやり取りは処刑
後に出版される}
批評家Jean-Francois de La Harpeがアカデミー会員資格を得るために求めた妥協を拒否して、以後、彼と敵対していく。
ヴォルテールやルソーの信奉者だった。イギリスのリベラルな政治をフランスに持ち込もうともしていた。革命勃発後、過激化する革命政府に対して徐々に批判的な記事を
書くようになる。特にロベスピエールへの批判は激しく反ジャコバン・クラブを主宰すらした。ゆえに93年10月4日に逮捕される。2532シェニエと処刑場へ向かう護送車の中で
詩の交換などした。
1774年Marie Agathe Elisabeth HACHETTE 1745-1822と結婚し、前出の長女Eulalie始め三女一男を得た。Eulalieは94年9月4日にMoniteur Universelleの編集者Marc-Francois
 GUILLOIS 1774-1858と結婚、この娘婿が妻と義父の手紙を出版することになる)

 Jean-Antoine Roucher..............................................................................................................................................................................................................................................................................娘・Eulalie Roucher  

2555. ジャン・アントワーヌ・ルイヤール ROUILHARD (Jean-Antoine), 60歳。元貴族。ムーシュMouche生。
(ダルマニャック伯領の初代男爵にて領主)

2556. ジャン・ソージュオン SAUGEON (Jean), 53歳。農夫。ブザンソン生。

2357. レオナール・セロ SELLO (Leonard), 29歳。ルー・ペロンRoux-Perron(Rouperauxとも)生。
(レオナール・ミシェル・セロ Leonard-Michel Sellos 1763-94 Fontenay-les-Louvetsの助任司祭、Sees教区の聖職者ともある)

2558, ルイ・セル SERR (Louis), 50歳。元大尉。カストルCastres生。
(Louis Sers  シャンデルナゴール司令官で歩兵大尉)

2559. ジャン・バティスト・スヴァン SEVIN (Jean-Baptiste), 57歳。元陸軍省官吏。ヴォーVaux生。
(ジャン・バティスト・セヴァン Jean-Baptiste Sevin  1736-94 Vaux-sur-Seine生まれ。Jean Baptiste SERINとも。サン・ルイ騎士。1762年陸軍省事務官、73年陸軍省官吏。
父親は王室商人で71年橋と道路の管理官となったEtienne SEVIN 1674頃-1762。母親は商人の娘Jeanne VALLIN{VALIN} 1697-1770。兄がおり、Etienne Pompee SEVIN 1734-96
はやはり71年陸軍省事務官となり、84年アルトワ伯夫人の館の管理官、陸軍省主席事務官、96年l'hospice de Triel管理官となった。71年Duchesse de Parmeの主席外科医の娘{母親
はソフィー王女の主席侍女Claire Josephe LEGRAS 1710頃-78}でマドリード生まれのVictoire Anne Clementine ROUTIER 1746-1823と結婚して三男四女をもうけている。
この人は1762年ヴェルサイユにて国王侍従官のリンネル洗濯商の娘でヴィクトワール王女の侍女Victoire BERRY 1732頃-1818と結婚し、65年名前不明の娘をもうけている)

2560. フレデリク・トレンク TRENCK (Frederic), プロイセン(⇒Neuhaldensleben)生。
(トレンク男爵フレデリク・ド・トレンク Baron de Trenck,Frederic de Trenck {⇒Friedrich von der Trenck}1726-94 軍人。文筆家。
ロシア、オーストリアに仕えた猛将Baron Franz von der Trenck 1711-49の従弟。父親は少将Christopher Ehrenreich von der Trenck、母親はケーニヒスベルク王立裁判所長Albrecht Frederick
von Derschauの娘Marie Charlotte von Derschau。
ケーニヒスベルク大学法学部生だった。42年プロイセンのフレデリック大王の士官候補生となる。44年シレジア作戦で当地に派遣、忠実なプロイセン将校として軍務に励む。しかし敵国オーストリア
に仕えていた上記の従兄Franz von der Trenckとの関係{相続人だった}からスパイ容疑がかかり、{あるいはフレデリック2世の妹Anne Amelie de Prusseとの恋愛沙汰が原因か}45年逮捕。{ナント勅令
廃止で亡命したフランス貴族の子孫で大王の親友Ernst Heinrich August de La Motte Fouque 1698-1774が総督をしているGlatzの刑務所に入獄}46年、彼はここを脱出し、49年ハンガリー騎兵連隊に
入隊、またモスクワへの旅に出る。そしてロシア女帝エリザベトの寝室係侍従官の職を得た。そこで名は遂に明かされなかったが、とある既婚の公妃と恋をした。ルター派の信仰を放棄し、亡くなった
従兄の遺産を相続する。53年母親の葬儀でDanzigに赴いたところをフリードリヒ2世により再逮捕される。逃亡を防ぐために重い手枷足枷を装着されての10年間の生活となる。63年マリア・テレジア女帝
の介入によりようやく釈放。回想録の執筆等の文学活動や、ワイン事業、英仏への旅行等、次の10年間は活動的に過ごした。
1765年Maria Elisabeth de Broe zu Dipenbendtと結婚。14人の子をもうける。但し、86年フレデリック大王崩御により、その妹Anne Amelie de Prusse 1723-87と40年来の恋を実らせ結婚したともある。しかし
彼女はすぐに亡くなってしまったと。あるいは兄王の崩御後にようやく再会を果たした直後に亡くなったとも。彼女は独身を保っていた。1744年7月の姉の結婚式での二人の出会いから42年の歳月が経って
いた。しかし、出会いの記録も不確かな資料に基づいているし、87年の再会も曖昧な記録による。晩年健康を損ねていた彼女はすでに盲目だったという。トレンクの娘の一人の身請けを保証したが、その数
週間後に亡くなったともあるが、ともかくすべての信憑性は低い。しかし二人の間には、44年生まれのFredericka、45年生まれのInconnuという二子がいたとする系図もある。彼女は58年兄王のホッホキルヒ
の敗北の直後にその野営を訪問するという冒険をおかしたり、兄王とは大変に仲の良い妹だった。
87年プロイセン国王フレデリック・ヴィルヘルム2世、またオーストリア皇帝からも年金を支給された。
オーストリアの密使として革命初期に渡仏し、活動していたが、革命政府支持者であると公言したものの逮捕されてしまった。獄中では賃料を支払わなければ劣悪な監房しか入れず、彼は Comte d'Estaingに
よる匿名の援助金により、ベッドと一日40ソルで仕出屋からの食事を提供された。これがなければ命が危なかった、と「HISTOIRE DE LA PRISON SAINT-LAZARE 1925」にはある。
その波乱万丈な生涯は文学作品、映画となっている)

 Friedrich von der Trenck ....................................................................................................................................................................................恋人・秘密結婚?・Princesse Royale de Prusse,Anne Amelie 

2561.エティエンヌ・フランソワ・ヴァルネ VARNES (Etienne-Francois), 36歳。元貴族。クレルモン・フェラン生。
(元竜騎兵大尉)

2562. ジョゼフ・ヴェリヌ VERINE (Joseph), 16歳。マニャックMagnac{St Maximilienとも}生。
(VerinneともVerienneとも。元貴族ともあるが、無国籍で居住地もなしともある)

2563. ミシェル・ヴォワノー VOYNEAU (Michel), 33歳。露天商。フォントネー・ル・コントFontenay-le-Comte生。
(VoyeneauともVoyenneauとも)

2564. ジャン・二コラ・ヴォワイヨ VOYOT (Jean-Nicolas), 37歳(32歳とも)。タンドンTendon生。
( J. R.VOYOTとも。Bonneval{Seine-et-Oise}の元司祭)

1794年7月26日

2565. ルナール・アルシャンボー ARCHAMBEAUT (Renard), 通称・二コラ・デュクードレDUCOUDRET (Nicolas), 54歳。パリ生。
(二コラ・アルシャンボー・ルナール、通称デュ・クードレNicolas Archambaut Renard dit du Coudray、聖霊騎士とも。元陸軍省委員commissaire des guerresとも)

2566. クロード・オージェ AUGER (Claude), 43歳(45歳とも)。パリ生。
(法律家。パリ治安裁判所管理職)

2567. ジョゼフ・ボーセ BAUSSET (Joseph), 45歳(42歳とも)。元貴族。ポンディシェリPondichery生。
(ボーセ子爵ジョゼフ・ド・ボーセ・ロックフォール Vicomte de BAUSSET,Joseph de BAUSSET ROQUEFORT 1751-94 ピカルディー連隊士官、近衛士官。
父親はポンディシェリ議会主席検事Comte de Sauvian,Pierre de BAUSSET 1703-94。母親はMarie Jeanne Le RIDE 1723-57。
四女六男の四男。すぐ上の兄Louis Francois de BAUSSET 1748-1824は84年Alais司教となり、市民憲法に抗議し亡命、92年に帰国すると逮捕・入獄。テルミドールで解放
され、Longjumeau近くのVillemoissonに引退して文筆活動に従事、大学設立に際してナポレオンに専任官に任命されて男爵位を授かり、王政復古期は公教育評議会の会長とし
活躍し1817年Duc de Bausset-Roquefortとなる。また法王より枢機卿にも任命された。
この人は長年軍人として仕えてサン・ルイ騎士となる。憲法制定国民議会下での近衛隊に召集され大尉となるも、パリに駐屯したその部隊は解散となる。93年嫌疑がかかり逮捕。
1777年Catherine Louise BUTHAUD 1761生 と結婚している。系図にはないが、息子にボーセ士爵がおり、マルセイユのサン・ジャン要塞の将官補佐官をしていた。
父親の兄{つまり伯父}に、Beziers司教Joseph Bruno de BAUSSET ROQUEFORT 1702-71がおり、また父親の長兄Marquis de Roquefort 1689-1759の息子{つまり従兄}Frejus司教
Emmanuel Francois de BAUSSET ROQUEFORT 1731-1802は、66年フリジュス司教となると、町の貧民救済や衛生管理、学校設立に貢献し、フランス軍の占領により、92年使用人
一人を連れて徒歩でトリノまで亡命した。
Bausset-Roquefort系はプロヴァンスはオーバー二ュの14世紀来の名家。Marquis de Baussetを名乗っている家系とは16世紀から分家している)

兄・Louis Francois   
伯父・Joseph Bruno de BAUSSET ROQUEFORT....................................................
従兄・Emmanuel Francois de BAUSSET ROQUEFORT

2568. ピエール・ブランシャール BLANCHARD (Pierre), 36歳(56歳とも)。メッツ生。
(ヴォージュの軍事委員)

2569. アナスタス・ジョゼフ・ブーシェ BOUCHER (Anastase-Joseph), 36歳。法律家。パリ生。
(アタナーズ・ジャン・ブーシェAthanase Jean Boucherとも。バイイ裁判所秘書官)

2570. シャルル・アレクサンドル・ブロニャール BROGNARD (Charles-Alexandre), 44歳。モンシェフMontchef生。
(元聖職者、元司祭。Saint-Nicolas-du-Chardonnet教区の憲法宣誓司祭)

2571. ピエール・ブロケ BROQUET (Pierre), 80歳。クータンス生。
(1714-94 MancheのGouville-sur-Mer生まれ。パリ大司教区の聖職者。非宣誓聖職者)

2572. ジャン・マリー・ブリュニー BRUNY (Jean-Marie), 61歳。荷積人夫。リヨンCommune affranchie生。

2573. ジャン・ピュイ BUIS (Jean), 31歳。宿屋経営。リジューLisieux生。

2574. ピエール・ロシュ・カヴァン CAVIN (Pierre-Roch), 30歳。元竜騎兵。モンペリエ生。
(元貴族で国王の近衛。輸送部隊の砲兵師団司令とある)

2575. ジュール・シャルル・アンリ・クレルモン・トネール CLERMONT-TONNERRE (Jules-Charles-Henry), 74歳。パリ生。
(クレルモン・トネール公爵シャルル・アンリ・ジュール・ド・クレルモン・トネール Duc de Clermont-Tonnerre, Charles Henry Jules de CLERMONT TONNERRE 1720-94
2代目クレルモン・トネール公。他にMarquis de Cruzy, de Vauvillers, comte d'Epinac。重臣。王軍中将。ドーフィネ中将で総司令官。
父親は元帥、初代Duc de Clermont-Tonnerre,Gaspard de CLERMONT TONNERRE 1688-1781。母親はポティエ家ノヴィヨン系のMarquis de Novionの娘Antoinette de NOVION 1685-1754。
この人は三男三女の次男だが長男Jean Louis Aymard夭折により継承者となる。弟はMarquis de Clermont-Tonnerre,Joseph Francois 1726-1809。この弟の長男{この人の甥}Comte de Clermont-Tonnerre,
Stanislas Marie Adelaide 1757-92は三部会貴族議員となり、球戯場の誓いの後に国民会議に合流した47人の一人。イギリス的議会君主制を支持していたが、革命が激化する中で91年の立憲議
会に再選されなかった彼は、王室をルアーブルからイギリスへ渡航させる計画に加担。92年8月6日王妃が実行直前にこの計画に反対し頓挫する。そして8月10日、彼は逮捕されるが即日釈放された。
しかし8月10日の暴徒らにより虐殺されてしまった。妹で唯一成人したMadeleine Louise Jeanne 1722-69はComte de Busset,Francois Louis Antoine de BOURBON BUSSET 1722-95に嫁いで、この
王家の非摘出子の血をひきチェザーレ・ボルジアの娘の家系の継承者をもうける。
 この人はルイ15世の国務大臣Marquis de Fontenay Tresigny,Francois Victor Le TONNELIER de BRETEUIL 1686-1743の娘Marie Anne Julie Le TONNELIER de BRETEUIL 1720-93と1741年に
結婚する。このル・トヌリエ・ド・ブルトゥイユ家は本家筋で、ルイ16世の国務大臣ブルトゥイユ男爵ルイ・オーギュスト 1730-1807とこの妻は又従兄妹に関係で、男爵の祖父の長兄の孫娘がこの妻である。
三男をもうけた。長男Marquis de Clermont-Tonnerre, Charles Gaspard 1747-94は中将でドーフィネ地方司令官だったがこの2月18日にリヨンにて処刑されている。67年にLouise Adelaide Victoire de
DURFORT de CIVRAC 1759-96と結婚し、4代目公爵Aynard 1769-1837をもうけているも、Aynardは二度の結婚で子がなかった。次男のAnne Antoine Jules 1749-1830は、聖職者となり、1782年シャロン
司教、89年三部会議員となるが聖職者の布告に抗議しドイツへ亡命する。1801年帰国。1820年トゥールーズ大司教となり、22年枢機卿となった。三男Vicomte Gaspard-Paulin 1750-1842は、クレルモン・
トネール騎兵連隊大佐であったが、亡命軍に参加、コンデ旗下で同名の竜騎兵大佐として戦った。公位を継承し中将、重臣となる。1779年 Anne Marie Louise BERNARD de BOULAINVILLIERSと結婚して
おり、後に陸軍大臣となる5代目クレルモン・トネール公となるAime Marie Gaspard 1779-1865をもうけている。
クレルモン・トネール家は11世紀から確認できるドーフィネの騎士の一族。
 この人は1741年クレルモン・トネール騎兵連隊大佐としてプラハの占領に従軍。43年コワニー元帥のもとでbataille de Dettingenに参加。またサクス元帥のもとフランドルの戦役にも従軍。45年bataille de
Fontenoy他、46年bataille de Rocourtにも従軍。准将となり47年bataille de Lauffeldで戦い、 Berg-op-Zoom包囲戦、48年 Maastricht包囲戦、57年bataille d'Hastembeckに。野戦総監に昇格。ノルマンディー
での勤務の後、ドーフィネ司令官として父親のもとに勤務。81年父の他界で公爵位継承。ほぼヴェルサイユで暮らしていた。
1788年6月7日のグルノーブルの「屋根瓦の日」事件の鎮圧にあたった。Marquis d'Ambertが大佐を務める王室海兵連隊{この中に将来スウェーデン王となる若き軍曹ベルナドットがいて負傷している}と
Comte de Chabordが大佐のオーストラジー連隊が交代で勤務していたが、当日は前者の当番で、暴徒らがこの人の館を襲撃しようとしたのに対し、発砲して負傷者が出た。これに対して民衆が建物屋上
より屋根瓦を投石したのが事件の名の由来。またこの暴動を見学していた市民の中には5歳のスタンダールもいた。暴動が激化すると非番のオーストラジー連隊も援軍に駆け付け、またこの人は事件の
沈静化を図るべくグルノーブルから脱出し、軍を撤収させる。この事件の責を問われ、この人は解任され、ヴォー元帥が後任となった。この暴動はドーフィネ高等法院の王権の拡大・法院の権限縮小の勅令
登記の拒否による対立に民衆の王権に対する憤慨が暴動化して拡大したものだが、この事件でこの人と対決し、議会の権限を支持した弁護士Antoine Barnave{⇒195}も革命裁判所により処刑、またドーフィネ
高等法院法院長Albert de Berulle{⇒2501}など2日前に処刑され、皆、同じギロチン台に上っているのである)

妻・Marie Anne Julie Le Tonnelier de Breteuil  
  ...................................................................................................................................................................................................................................................................................................................父・Duc de Clermont-Tonnerre,Gaspard de Clermont-Tonnerre
 ................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................弟・Marquis de Clermont-Tonnerre,Joseph Francois
次男・Cardinal de Clermont-Tonnerre,Anne Antoine Jules
甥・Comte de Clermont-Tonnerre,Stanislas Marie Adelaide  
義弟・Comte de Busset,Francois Louis Antoine de Bourbon-Busset
義父・Francois Victor Le Tonnelier de Breteuil
2576. アンリオ・コーサン・ラベレー COESSIN-LABEYRAY (Henriot), 29歳。元貴族。ラベレーLabeyray生。
(Armand Coessin de Laboraye, Armand Coessin-Labeyrayeとも。元貴族で歩兵士官だったとある。
⇒アルマン・ジョゼフ・フランソワ・ド・クウサン・ド・ラ・べライユ Armand-Joseph-Francois de Couessin de La Berraye 1765-94 
父親はピカルディー歩兵連隊大尉Jean-Francois de Couessin de La Berraye 1787没。母親はMarie-Anne de Castillon。
系図によっては、この人の伯父にあたる{父親の兄}歩兵大尉Jean COUESSIN de LA BERRAYEが94年処刑されたともあるが、年齢的はおかしい。{この人の祖父の長兄Jean de Couessin 1682生 が
1718年のCellamareの陰謀に加担して1720年ナントで処刑されているが世代が違う}
1782年少尉任官にあたっての貴族の証明書が確認できるが、この人のものだろう。この曾祖父の弟ジャックより始まるBoisriou系分家でVictor-Jules de Couessinが士官学校に入学申し込みをしているが、
弟のGeorges-Marie-Pierreが「亡命先で結婚」とあるので同時代の親戚だろう。またやはり分家のKerhaude系のArmand de Couessin de Kerhaude 1766生 が1785年に士官学校に入学している。
この人の結婚記録はない。
COUESSIN家はブルターニュのVannes教区の古い貴族家系。確認資料はないが9世紀最後の年にアイルランドからブルターニュに移住したものと伝わる。Prienes修道院に1250年寄付をした記録のある
Guillaume Couessinと結びつくかは不明。Chateau de La Berrayeは1580年から革命までCouessin家が所有)

2577. アンヌ・エマニュエル・フランソワ・ジョルジュ・クリュソル・ダンボワーズ CRUSSOL D'AMBOISE (Anne-Emmanuel-Francois-Georges), 67歳。オーリヤックAurillac生。
(クリュソル・ダンボワーズ侯爵アンヌ・エマニュエル・フランソワ・ジョルジュ・ド・クリュソル・ダンボワーズ Marquise de Crussol d'Amboise,Anne Emmanuel Francois Georges de CRUSSOL d'AMBOISE 1726-94
父親Comte d'Aubijoux,Jean Emmanuel de CRUSSOL d'AMBOISE 1699-1735はメーヌ連隊歩兵大尉だったが、1735年8月29日Veronneでドイツ人大尉との決闘で死去している。母親は王室府訴願審査官
Marquis de Forsの娘Anne Marthe Louise MABOUL de FORS 1685-1779。兄弟姉妹の記録はない。
1740年近衛銃士となり、後に王室ポーランド騎兵連隊。44年ブルターニュ軽騎兵連隊、騎兵中佐となる。45年フォントノワの戦いにも参加。Tournay包囲、Dendermonde、d'Oudenarde、d'Athと転戦。同年12月
にはベリー近衛騎兵中隊となり、Mons包囲戦、Charleroi , Namur、Rocouxの戦いと転戦。47年フランドル近衛騎兵中隊少尉となるが騎兵大佐の軍位をもっていた。47年 Lawfeld、48年 Maastrichtの戦いに参加。
57年ドイツ戦役で指揮を執ったベリー軽騎兵中隊の隊長となる。 58年、Sundershausenの戦い、カッセルの陥落、ヘッセンの占領、Lutzelbergの戦いと従軍。59年王妃歩兵連隊中佐となる。60年Clostercamp
の戦いで同連隊を指揮し、61年もドイツでの任務で同連隊を率いた。62年、野戦総監に昇格。80年には中将となる。1789年ポワティエの三部会貴族議員に選出。93年ジャコバンにより逮捕される。
 1747年、Claude Angelique de BERSIN 1730-94{⇒914}と結婚し、一男Louis Emmanuelをもうけるも、51年10歳{2歳とも}に早世している。
妻のClaude Angelique de BERSINとは革命中は別居していた。妻は侍女のMarianne Berthe Asseline{この侍女も投獄されたが救われる。兄弟のJean-ReneAsseline 1742-1813は89年10月革命後に平民より
任命されたブーローニュ司教となるも市民憲法に反対し亡命、イギリスで亡命中の王室に仕えている。また他の兄弟の孫Adolphe Jean Rene Asseline 1806-91は王室評議員となる}と暮らしていたが、1793年
9月17日に逮捕。王妹エリザベトと同日に処刑されている。
クリュソル・ダンボワーズ家はクリュソル・デュゼス家の分家。クリュソル家はラングドックの大変に古い家柄Bastel家が1150年ヴィヴァレーのクリュソル城を所有したことにより名乗った。本家はユゼス公家である。
1727年オペラ座でドイツ人の大男ランツォ伯爵にふざけてピスタチオを吐き出し決闘となり倒したのは本家のDuc d'Uzes, Charles Emmanuel de CRUSSOL 1707-62が17歳の頃の出来事である。この人の父が35
年にドイツ人将校に決闘で殺されたのと対照的である。Emmanuel de CRUSSOL d'UZES 1587-1657の次男 Jacques Christophe 1607-80が母親の婚資からde CRUSSOL de SAINT-SULPICEを名乗り分家、その
五男{この人の祖父}Alexandre Galliot 1703没 がまた母親の婚資よりde CRUSSOL d'AMBOISEを名乗り分家したのが始まりである。上記のDuc d'Uzes, Charles Emmanuelとこの人は曾祖父同士が兄弟となる。
叔父にトゥールーズ大司教Francois de Crussol d'Uzes d'Amboise 1702-58、従弟にラ・ロシェル司教Francois-Joseph-Emmanuel de Crussol d'Uzes d'Amboise 1735-89がいる。
2610の母親Marie Louise Victoire de Crussol d'Uzesは祖父同士が兄弟の又従妹)

従弟・Eveque de La Rochelle,Francois-Joseph-Emmanuel de Crussol d'Uzes d'Amboise  

2578. フェルディナン・ドクー DECOUX (Ferdinand), 39歳(38歳とも)。アニヴォルAnivol生。
(エメ・デュー・ジャン・バティスト・フェリクス・デュクロ Ame-Dieu-Jean-Baptiste-Felix Duclos、通称Aime Dieu。 サン・ルイ騎士。連隊中尉。Saint-Marc植民地選出議員。Saint-Domingue生まれ。
1767年から71年迄のサント・ドミンゴのポルト・マルゴPort-Margot教区司令官で民兵竜騎兵大尉Francois Amidieu-Duclosは記録にある。
上記のフランソワの{かなり年下の}弟Jean Baptiste Felix AMIDIEU DU CLOS 1756生 は、サント・ドミンゴの民兵竜騎兵大尉Jean Baptiste AMIDIEU DU CLOS 1707-84とMarie Anne LOUCHER de
 SAINT FRAISの四男。1768年Limbe地区民兵少尉{12歳なのでおかしい}、75年Borgne教区民兵少尉、79年サント・ドミンゴ民兵中尉、81年サン・シモン侯爵将官補佐官、88年中尉、89年 La Boudeuse
号{26門フリゲート艦}乗船、90年大佐。別の記録では79年サント・ドミンゴ猟兵民兵中尉、Savannah包囲戦参加、ヨークタウン包囲戦でサン・シモン侯の補佐官、他にいくつもの海戦従軍、82年捕虜となる、
とあり、1756年生まれで98年には生きている、とある。系図にも没年はなく、98年にはまだ生きていると記録されているわけだ。しかし56年生まれであると処刑年齢は合致する)

2579. シャルル・ジャン・ルイ・ドフォッス DEFOSSE (Charles-Jean-Louis), 57歳。元貴族、元憲法制定議会議員。パルクParc⇒ La Fere ( Aisne )生。
(シャルル・ジャン・ルイ・デ・フォッセ Charles-Jean-Louis des Fosses 1737-94 騎兵銃隊中尉からヴェルマンドワの三部会貴族議員となる。Vicomte des Fossesともある。
父親は親衛騎兵少佐副官、近衛マンシュ隊員Vicomte de Vauxtin,Charles Francois des FOSSES d'ARCRY 1699頃-1748。母親はMarie-Francoise de BRODARD 1710頃-79。三女一男の長男。
姉や妹らの詳細は生年のみで記録なし。
49年Moustiers騎兵連隊士官候補生。Coucy管区ソワッソン地方バイイ裁判所元帥法廷副官。議員選出後の1790年12月23日に辞任。91年St Sauveur de Coucy教会の一族の貴族席の特権を保持しよう
として非難される。93年8月コンピエーニュにて逮捕。監視下におかれつつ釈放。同年11月起訴されて妻共々逮捕される。
1774年サンリス大隊大尉の娘Marie Julie Josephe Louise d'HENAULT 1755-86と結婚し一男二女をもうける。長男Charles 1775-1841 は騎兵大尉となり、Vicomte des Fossesとなる。94年11月叔母で
ある1703年生まれのHenriette-Charlotte des FOSSES{1750年近衛銃士Antoine Guillaume Alexandre de VIGNOLLES 1699-1753と結婚しているが死別}と相続権確保のため結婚しているが、この叔母
は98年95歳まで生きた。死別後84年生まれのJosephe Marguerite LABBEY de POMPIERESと再婚し一女を得ている。妹Armande 1776-1832はLouis-Charles de COMMINES de MARSILLY 1777-1842
と結婚し二女を得る。末妹Agathe 1777-1861は98年Charles-Francois de RANDON du LAULOY 1764-1832と結婚している。
最初の妻と死別後に1788年Marguerite SCHEFFER{⇒2612} 1761-94と再婚しているが、子の記録はない)

2580. ルイ・ジルベール・デルヴィイー DERVILLY (Louis-Gilbert), 43歳。食料品商人。パリ生。

2581. シャルル・フランソワ・マリー・ドリヴァル DORIVAL (Charles-Francois-Marie), 33歳。元隠修士の織工。リヴァニーRivanie(⇒Rivenne)生。
(Saint-Benoit修道院)

2382. マリー・フェリシテ・デュプレッシ・シャティヨン・ペレ DUPLESSIS-CHATILLON-PELET (Marie-Felicite), 60歳。パリ生。
(ノナン侯爵夫人、ルグル伯爵夫人、シャトーブリアン伯爵夫人マリー・フェリシテ・デュ・プレッシ・シャティヨン Marquise de Nonant, Comtesse de Rugles, Comtesse de Chateaumeillant,Marie Felicite du 
PLESSIS-CHATILLON 1723-94 
父親は王軍中将でアルジャンタンの城と町の総督Louis du PLESSIS-CHATILLON 1678-1754。 母親はCatherine Pauline de COLBERT de TORCY 1699-1773。
最初の結婚は1748年Marquis de La Palice,Francois Antoine de CHABANNES 1686-1754。死別後 1760年Baron de Narbonne-Pelet,Charles Bernard Martial PELET de NARBONNE 1720-75と再婚。
{この夫は94年3月25日処刑の番外Marquis d'Haucourtの妻Marie Blanche Felicite de Narbonne-Peletの叔父}
弟Marquis de Nonant et de Saint-Gelais,Louis-Henri Felix du PLESSIS-CHATILLON 1726-54はオルレアン軽騎兵少尉で結婚していたが28歳で亡くなり、姉が爵位等を継いでいた。
95年この夫人の財産は相続人らへ返還されることになる。この人はコルベールの弟Marquis de Croissy,Charles COLBERTの曾孫になる。{母親がCharles COLBERTの孫}
二回の結婚で子の記録はない)

2583. ジャン・バティスト・フルニエ FOURNIER (Jean-Baptiste), 27歳(⇒67歳)。元戦争委員。ロンジュモーLongjumeau
(同姓同名で1766年Longjumeau生まれの系図はあり。66年11月12日生まれなので27歳ならば年齢は合う。没年はない。父親は鍵屋でJean Evangeliste FOURNIER 1712生。母親はMarie Catherine
DELANGE 1720頃生。二男二女の長男。妹Anne Genevieve 1770生 はFrancois NICOLLE 1762-1829と結婚、1804年生まれの一男Francoisをもうけている。もう一人の妹Marie Catherine Elisabeth
1769生 と弟 Jean Bazile 1772生 については詳細は不明か夭折か生年しか記録がない。またAnne Genevieveのみが記録された系図もある。曾祖父・祖父・父・叔父と鍵屋をしている。役人なったこの
人は一族としても目立った存在だったろう。結婚記録はない)

2584. シャック・フルコ・ランティ FRECOT-LANTY (Jacques), 80歳。元貴族。パリ生。
(ジャック・ド・フレコー・ランティ Jacques de FRECAUT-LANTYともあるが、Lanty領主Jacques FRECOT 1714-94 が「Dictionnaire de la noblesse de France」にある。1749年没の国王秘書官ジャック
の息子。1735年パリ・シャトレ裁判所の評定官、1739年大評議会の評定官、1741年Dame de Lanty,Angelique Marie Huchede 1752没 と結婚、Casimir-Narcisse Frecotをもうけた。他の子はすべて
夭折した、とある。またChateau de Lantyの歴史を見ると、この城はセヴィニエ夫人の親戚で「ゴールの恋」の作者ビュシー・ラピュタン伯の娘が所有しており、伯爵もしばらく住んでいたという。この一人
娘はコリニー侯の寡婦でHenri Francois de La Riviereと再婚したが、その子供は国王評定官Hubert Hucheに1720年ランティの領主権と城を売却した。評定官の唯一の娘Angelique Marie{上記の妻}は
1741年16歳で国王評定官Jacques Frecot{この人}と結婚し、持参金としてランティの城とその男爵領の土地を与えた。彼女は1752年9月17日に出産で亡くなり、残された息子Casimir Narcisse{上記}も、
1757年9月24日に6歳で亡くなる。妻子を失ったJacques Frecot de Lantyは1757年ランティの所有権と男爵領を甥のAntoine Marque du Coinに売却。息子のAlexandre Francoisは62年父が亡くなると
ランティを相続し革命で破壊された城を1807年修築した。1831年彼は四人の娘を残して他界。土地と城はMarquis de Dintevilleに売却された・・・とある。57年に家族全てを失ったこの人が、同じ年に甥に
亡妻の婚資として得た土地と城も売却し、その後、革命により80歳の身で断頭台に上るまで、何があったのかは不詳である)

2585. ジュヌヴィエーヴ・グラモン GRAMMONT (Genevieve), ドソンDossun未亡人。 44歳。パリ生。
(ドソン伯爵夫人ジュヌヴィエーヴ・ド・グラモン Comtesse d'Ossun,Genevieve de GRAMONT 1751-94 王妃の女官
父親は王太子歩兵連隊大佐、野戦総監のComte de Gramont d'Aster,Antoine-Adrien-Charles 1726-62。{フランス衛兵大佐で中将、フォントノワで戦死したLouis de GRAMONT 1689-1745の次男、兄は
Duc de Gramont, Antoine Antonin de GRAMONT 1722-1801。この兄の妻はショワズール外相の妹で689} 母親は騎兵大佐Marquis de Granetotの娘でマリー・アントワネット妃女官Marie-Louise Sophie
de Faoucq 1732-99で革命中は亡命しドイツのBraunschweigで亡くなっている。グラモン家は89年亡命している。
長女で、弟が一人おり、Antoine-Louis-Marie de Gramont 1755-1836である。8代目グラモン公となるが、それは伯父の子{つまり従兄} Louis Antoine Armandが95年48歳で既婚ではあったが
後継なく死去しており、伯父が1801年に78歳で死去した為に継承権が回ってきた。ポリニャック夫人の娘Aglae Louise de POLIGNAC 1768-1803と1780年結婚している。革命前は近衛大尉だったが、革命
初期に亡命しアルトワ伯の長男アングレーム公に仕え、復古時はイギリスのセント・ジェームズ宮に大使として赴任している。息子Antoine Genevieve Heraclius Agenor 1789-1855は9代目グラモン公となる。
この人は81年マイイ公夫人より王妃の化粧係女官の職を引き継ぐ。王妃に仕える女官のナンバー3{ランバル大公妃、シメー大公妃に次ぐ立場}となる。しかしポリニャック夫人のような美貌も機知もなく、仲々
王妃の信頼は得られなかった。王妃の装身具の全ては彼女の署名がなければ支払われない重要な立場であり、81年よりその膨大な支出の削減に努め、87年から88年にかけて大幅な削減に成功した。
誠実で堅実な人柄、またあまり豊かな家系ではないが不平も言わずに王妃に仕える光栄のみに満足していた女性で、段々と王妃の信頼を得ていった。89年10月、王妃に従ってパリに入り、グリュネル通り
のオテル・ド・コーモンに居住。ヴァレンヌ事件後、その逃亡計画を隠蔽したとして逮捕。しかし彼女は逃亡前日に王妃から送られてきた手紙等すべてを焼却しており、何の記録もなかった。そこで釈放される。
91年シメー大公妃の亡命でその女官長の地位を引き継ぐ。92年君主制廃止により一般の生活に入った。しかしテルールにより、Oiseauxで再逮捕。前回と同じ理由で起訴されて処刑となった。
 1766年シチリアやスペイン大使Marquis d'Ossun,Pierre Paulの息子Comte d'Ossun,Charles Pierre Hyacinthe d'OSSUN 1750-91と結婚、一女Sophie-Pauline 1772-1845がおり、1784年Duc de La Force,Louis
Joseph de CAUMONT La FORCE 1768-1838に嫁いだ。

 Genevieve d'Ossun  ..............................................祖父・Louis de GRAMONTと二人の息子(どちらかが父・Antoine-Adrien-Charles)  
   ..................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................伯父・Duc de Gramont, Antoine Antonin de GRAMONT
 弟・Antoine-Louis-Marie
甥・Antoine Genevieve Heraclius Agenor  
義父・Marquis d'Ossun,Pierre Paul d'OSSUN 1713-88
義妹・Aglae Louise de POLIGNAC

2586. ギョーム・マリー・ギシャール GUICHARD (Guillaume-Marie), ヴィギエViguier未亡人。51歳。元貴族。パリ生。
(クールクテーヌ侯爵夫人ギユミーヌ・マリー・ギシャール Marquis de Courquetaines,Guillemine Marie GUICHARD 1743-94
1759年国王評定官で会計院部長クールクテーヌ侯爵クロード・ジャック・ド・ヴィニー Marquis de Courquetaines,Claude Jacques de VIGNY 1720-74と結婚。五男を得る。末子は2616で同日処刑。
成人した子は三人で、一人はAnne Claude 1761-1836で騎兵大佐となり、1800年Marie Rose Elisabeth FIQUET de NORMANVILLE 1769生 と結婚し一女をもうけている。もう一人はJean Charles
1765生で、海軍尉官だったが亡命し1828年ロンドンにいた。没年及び結婚記録はない。末子2616の経歴は法学学生だったことのみで他は不明で結婚記録もない)

2587. ジャック・ギユムトー GUILLEMETEAU (Jacques), 56歳。聖職者。べルジュラックBergerac(Bignacとも)生。
(1738-94 Saint-Jean de Biargeの聖職者。 Bergerac生まれとある。アングレーム出身の元パリはシャトレの守衛(執達吏?)ジェローム・ギユムトーの息子。王室を敬愛する詩の作詞家。
やはり38年生まれの同姓同名者はBignac生まれでBlanzacの教会参事会員、父親はJerome Guillemeteau 1779没、母親はAnne Marie Mulot 1779没、兄弟のJean Guillemeteau
は1779年AngoulemeでMarie Turcatと結婚している。上記の父親名や出身地が合致する。父親の職業は開業医Praticien{法実務に精通した者と訳すと上記のジェロームの内容に近くなるか}で
書記とある。{1735年法律実務家Praticien、42年アングレームで執達吏Huissier、55年パリのシャトレの書記官})

2588. ルイ・マリー・アルマンデュッソン HARMANDUSSON (Louis-Marie), 52歳。パリ生。
(ボナック侯爵マテュー・ルイ・アルマン・デュッソン Marquis de Bonnac,Mathieu Louis Armand d'Usson 1740-94 軍人でパミエ選出の三部会貴族議員
父親は中将で外交官Marquis de Bonnac,Jean-Louis d'Usson 1716-78。母親は国王評定官の娘Louise Petronille Bide de La Granville 1721-94。
妹が一人いる。Louise Petronille d'Usson de Bonac 1749-1814で、1768年Jean-Paul d'Angosse 1732-88と結婚し、Marquis d'Angosse,Armand Mathieu 1776-1852とBaronne de Saint-Julienとなる
Louise Armandine Petronille 1828没の一男一女をもうけている。{Comte de Donnezanを名乗っていた兄がいたようだが名前は不詳。1762年竜騎兵少佐、ションベルク連隊第二大佐となっいるが、
父親以前に亡くなっているのだろう}祖父のMarquis de Bonnac,Jean Louis 1672-1738は決闘で軍隊を去り、1701年〜10年スウェーデン特使、1711年ポーランド大使、スペイン臨時特使、1716年〜
24年コンスタンティノープル大使、1727年〜36年スイス大使と活躍し1734年野戦総監となっている。また1715年にゴントー・ビロン元帥の娘Francoise Madeleine de GONTAUT-BIRON 1692-1739と
結婚しているが妹のGenevieve de GONTAUT-BIRONは2585の祖父Louis de GRAMONTと結婚している。
この人は軽騎兵に改変される前の近衛騎兵隊の少尉、89年三部会議員、91年擲弾兵大佐、野戦総監となる。
1771年野戦総監Comte du Rumainの娘で王妹エリザベトの女官Constance Paule Flore Emilie LE VICOMTE DU RUMAIN 1749生 と結婚し、二女をもうけ、長女Marie Charlotte Clotilde d'USSON
1771-93は1784年Amable Charles Marie Catherine de PREISSAC-FEZENSAC 1829没 と結婚、次女Louise Elisabeth d'USSON 1777生 は1806年Alexandre Francois GUILLEMEAU de
SAINT-SOUPLET 1756生と結婚した。{この夫de SAINT-SOUPLETは72年小厩舎小姓になったが、あの92年8月10日事件に際して「国王の厩番サン・スープレ氏と小姓の一人が大きな火箸を二つに
割り、まるで鉄砲のように重々しく肩に乗せていた。それで守備の役に立とうというのだ」と「マリー・アントワネット」[ルノートル・カストロ共著]に書かれている人物だろう})

  ..............................................................................................................................................................................................................................................................
Marquis de Bonnac,Mathieu Louis Armand d'Usson
 ..........................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................父Marquis de Bonac,Francois-Armand d'Usson (1716-78)
 母Marie Louise Petronille Bide de La Grandville(1721-94自然死)

2589. ルイ・ジャンティア JANTHIAT (Louis), 52歳。元司祭。シャロンChalons生。
(パンティエーヴル公の代理人と接触していたという。 Evreuxに住むベネディクト僧とあるが、Assetの町に引退していた普通の聖職者である、と「革命期のベネディクト会の修道士の殉教者と信仰の告白者」
{FRANCOIS ROUSSEAU著1926}にはある)

2590. マリー・アレクサンドリーヌ・ルネ・ジャステュ JASTUD (Marie-Alexandrine-Renee), ブティエButter妻。 27歳。元貴族。リシュマンRichement(⇒Richemont⇒Henrichemont)生。
(ブトレ伯爵夫人マリー・アレクサンドリーヌ・レイヌ・ド・ジャソー Comtesse de Butler,Marie Alexandrine Reine de JASSAUD 1767-94 (JastudやReneeは裁判所書記官の表記違いとある)
父親はパリ高等法院予審部評定官の息子で国王連隊士官で弁護士Baron de Jassaud,Pierre de JASSAUD 1721-91。母親はHenrichemont相続権裁判所裁判官の娘Marie Anne THOMAS de BOISCHANTEL
1729生。父親は1764年に妻の一族のHenrichemontの宗主シュリー公との10330リーヴルの訴訟に勝訴した。
一人娘のようだ。父親の異母兄の死去により1785年三代目Comte de Butlerとなる。
1786年Comte de Butler,Jean Pantaleon de BUTLER 1753-1815と結婚。100万リーヴルもの多額の持参金がついた。夫はコブレンツのプロヴァンス伯とアルトワ伯が署名し、ブロイ元帥が副署した書面で92年4月
15日付の大佐の任官書がある。父親はピカルディーの家系だが、サント・ドミンゴの入植者で士官である。但しルイ・ピエール・ドジエの証明によれば、アイルランド由来の古い貴族家系。1770年Gardes marines入隊。
1771-72年サント・ドミンゴのCap連隊少尉。1772-1775年近衛銃士隊。78年王室竜騎兵中尉。同年大尉となるが不正行為で拘留され1779-1781年サント・ドミンゴの部隊に左遷。デスタンの部隊と共に帰国し、83年
アイルランド旅団の第二大佐、そして84-88年王室竜騎兵の大尉補佐に返り咲く。88-90年司令官、90年大隊長となり91年サン・ルイ騎士。同年辞職しコブレンツの亡命軍加わり、少佐となり92年騎兵大佐となる。
ロンドン、パリ、マドリードの反革命計画に加わり、主にロンドンでのアルトワ伯の代理人となる。義兄弟Cormier{不明}とも共に活動した。またタンプルからルイ17世を救出するLady Atkynsの陰謀にも加わる。その後、
謎の多い人生を送り1815年スウェーデンで死去している。下記に記すが、92年頃、その妻であるこの人が92年頃にイギリスに渡っている点、それをアイルランドの子供の引き取りと弁明しているが、なんとなく怪しい。
 子供は長女Alexandrine de BUTLER 1787-1808、肖像画はあるが詳細は不明。画は1805年頃作製らしい。長男Charles Jean Michel 1788-90は夭折。次男Charles Edouard 1791-1872は婚資のRemaisnil城主で
結婚し現代に至るまでのComte de Butler後継者をもうけている。子供らはルイ18世近衛銃士になるなど、シャルル10世、ルイ・フィリップ等へと保護されていった。
 この人は92年領地の屋敷が焼失したサント・ドミンゴへの帰郷を申請している。7月6日付のパリのセクション{ヴァンドール広場}の渡航証明があり、植民地委員会の焼失に関する証明書もあった。途中イギリスに立ち
寄りアイルランドに行き、5歳の娘{Alexandrineだろう}を引き取りサント・ドミンゴへの渡航費用をもらう必要があった為にその手続もした。帰国するとBasse des Remparts de la Magdeleine15の住居に封印がされていた。
留守中の屋内には何も違反するようなものはなかった。生後11ヶ月の乳児{Charles Edouardだろう}に母乳を与えている母親だ。Dubu夫人に託したトランクの中身を強制売却されており、夫人が「亡命者から金品を受け
取った罪」で告発されていたことも知る。彼女は様々な証明書類を添付して抗議した。92年11月8日、地区委員会はロンドンでのウエストミンスター裁判所の書類で滞在中の居住地の証明も得て、他区の彼女の市民宣誓
証明書、90年10月からはBasse du Rempart通りに居住していた証明書等を確認し封印の解除を命令してくれた。また夫ブトレとの財産分離による私有財産として認め、共和国に対する何らの違反行為もなし、と結論づ
けた。それにも関わらず、94年7月24日に共和国の敵だとフーキエ・タンヴィルにより起訴。そして同罪の25人と処刑された。
 もしもすべての証明が正しくても、当時の夫の行動からすれば革命裁判所の嫌疑はとても晴らせるものではなかったろう)

 Comtesse de Butler,Marie Alexandrine Reine de JASSAUD................................................................................................................................................................................................娘・Alexandrine de BUTLER

2591. マテュラン・ピエール・ジョソー JOSEAU (Mathurin- Pierre), 44歳。非公式弁護人。シャルトル生。
(非公式弁護人で治安判事補佐官。第4区訴追官。またカペー担当委員で市役所事務長ともある)

2592. ローズ・フランソワーズ・ラブーレイユ LABOULAYE (Rose-Francoise), 50歳(30歳とも)。元貴族。フサンヴィリエFessanvilliers(Fessauvilliersとも)生。
(未婚女性filleとある。 Rose-Francoise Laboullaye de Fessanvilliersとも。{本人はRose-Francoise Laboullaye de Fessanvilliersと署名していた}Fessanvilliers-MattanvilliersはCentre-Val de Loire地方の小郡。
Commune de Fessanvillierの教区の「洗礼・結婚・埋葬」記録に、1764年6月19日、Firmin DelhommeとMarie Bertelotの息子Ive-Francois-Parfaitの洗礼記録があり、名付け親にBoissard領主の平貴族Yve-
Emmanuel Du Cheminと、この教区の領主Alexandre de La BoulayeとMarieAngelique Dyel{他の個所にはDhyeileとも}夫人の娘Roze-Francoise de La Boulayeがなったとあり、署名Rose-Francoise de La Boulayeと
Fessanvilliers司祭G. Chatelとある。その後にFessanvilliers教区教会管理人の任命とあり、1773年1月1日日雇人夫Jacentes Bellenger、1774年1月1日Jacques Flamand、1778年1月1日製車工Jean-LouisBonnet、
1779年1月1日日雇人夫Daniel Barrois、1786年1月1日Louis Moulinetと記述が入り、次に、1777年3月1日、アルザス連隊騎兵大尉でFessanvilliers領主Antoine de La Boulayeの未亡人Marie-Gastonne d'Arquema 
91歳の埋葬、とある。また遡ると、1705年2月24日に、故士爵Antoine de La BoulayeとMarie-Lucresse Mesnagerの息子でFessanvilliers, Les Planchesその他の領主で士爵Antoine de La BoulayeとChristophle 
d'ArquemaとCharlotte Barihanの娘Marie Gastonne d'Arquemaとの婚礼の記録がある。しかし少し進むと、Fessanvilliers, Les Planches、その他の領主でアルザス連隊騎兵大尉Antoine-Francois de La Boulayeが
1710年3月11日に31歳で埋葬された記述があり、1709年9月11日モンスの最後の戦い{マルプラケの戦のひとつ。総司令官のヴィラールも左足を負傷して戦線離脱した激戦}で砲弾により足を失っていた、と付記され
ている。このAntoine de La Boulayeを祖父とすれば、この人の父であろうAlexandre de La Boulayeは1705-10年の間の生まれで、その娘であるこの人は30年代〜40年代の生まれと推定。ちなみにAlexandreの娘
Angelique-Aimee{この人の姉妹になる}は1746年に洗礼記録があるから、その前後とすれば年齢は50歳が正しいかも知れない。いずれにしても記録が乏しい。
総裁政府の立法府である五百人会のEure-et-Loir選出議員として97年4月11日から99年12月26日まで在籍したJean-Alexandre Laboullaye de Fessanvilliersは元士官で1744年3月22日Fessanvilliers生まれであるが、
その姉か妹だろう。この議員は没年は不詳。93年Fessanvilliers市長をしているAlexandre Jean LABOULLAYEがいるがこの議員か?)

2593. ジャック・フランソワ・ローラン LAURENT (Jacques-Francois), 34歳。食糧品屋。サンリス生。
(商取引委員会の代理人)

2594. マドレーヌ・シャルロット・ルペルティエ LEPELLETIER (Madeleine-Charlotte), シメーChimay未亡人。54歳。パリ生。
(シメー大公妃マドレーヌ・シャルロット・ル・ペルティエ・ド・サン・ファルジョー Princesse de Chimay,Madeleine Charlotte Le PELETIER de SAINT-FARGEAU 1740-94 
父親はAnne Louis Michel Le PELETIER de SAINT-FARGEAU 1713-39。母親はCharlotte Marguerite d'ALIGRE 1713-1780。
1754年Prince de Chimay,Thomas Alexandre Marc d'HENIN-LIETARD 1732-59 と結婚{ミンデンの戦で戦死}。父親も夫も26歳で亡くしている。夫との子も2歳で夭折。そしてあと2日、処刑の順番が延びていたらテルミドー
ルだった。5年間だけの大公妃だった。義弟で夫のあとを継いだPrince de Chimay,Philippe-Gabriel-Maurice-Joseph 1736-1804もDuc de FitzJameの娘Laure Auguste Fitzjames 1744-1804と結婚していたが、後継者なし。
もう一人の義弟{三男}の1988も子なく処刑されており断絶となる)

 有名なL'appel des victimes pendant la Terreuの画中で断頭台に連行される姿が描きこまれている。 夫・Prince de Chimay,Thomas Alexandre Marc d'Henin-Lietard . 
義弟の妻・Laure Auguste FitzJames

2595. マリー・アンヌ・ルロワ LEROY (Marie-Anne), 21歳。 フェイドー通りの劇場の演技者。パリ生。
(Feydeau通りの劇場の女優。フェイドー劇場は王妃美容師2527の兄Leonard-Alexis AutieとヴァイオリニストのGiovanni Viottiが国王より許可を得て、プロヴァンス伯の後援のもとオペラ・コミックの上演を主に
した劇場としてチュイルリーの劇場を拠点に活動していたものが、その後転々とし、閉鎖や再開もしてフェイドー通りの劇場に落ち着いたもの。彼女は≪ vive le roi ≫と叫んで捕らわれた。
Mullerの有名なL'appel des victimes pendant la Terreuの画の中に描きこまれているらしい)

2596. ジャン・シモン・ロワゼロール LOIZEROLLES (Jean-Simon), 61歳。元貴族。パリ生。
(ジャン・シモン・アヴド・ド・ロワゼロール Jean Simon AVED de LOIZEROLLES 1732-94 高等法院弁護士。国務評定官で砲兵総監の名誉中将。アルスナルのバイイ裁判所総監lieutenant general au bailliage
de l'arsenal。
最初、プロイセンの将校でもあった。
父親は肖像画家のJacques Andre Joseph AVED 1702-66。母親はAnne M Charlotte GAULTIER DE LOIZEROLLES 1705頃生。4兄弟の三男。
兄はComte de MAGNAC, Charles Francois AVED 1728-87で高等法院弁護士で国王評定官。{この爵位は1754年に結婚したブルターニュ財務官の娘Jeanne ARNOLFINI de MAGNAC 1735生 がComtesse de
 MAGNACであったことからのもの}
この人のde LOIZEROLLESも母親からのもの。
1769年Elisabeth Genevieve Marteauと結婚し下記Francois-Simonの父親となる。
フランドルの旧家だった。息子Francois-Simon Aved de Loizerolles 1771-1845の身代わりになって逮捕され処刑された。彼の名は19世紀「父親の献身」の代名詞となった。息子は弁護士、文筆家となりMarie
Marguerite BOUVET 1784-1866と結婚、二女一男をもうけ、孫は20世紀に至る。
身分証明には身長は高く181.5センチあり、茶色の髪と眉毛、高い額、灰色の目、鷲鼻、丸い顎、丸い顔とある。尚、父親が18歳の時に描いた自画像{と思しき若者像}と1740年頃に描いた「赤いウエストコートを着た
男」の画が自画像だと言われるが判然とはしない)

  父親が描いた"buveur de lait"はJean Simonがモデル......18歳の時の自画像と思しき父親の画(1720頃) 
息子の身代わりになり逮捕されるJean Simon AVED de LOIZEROLLES
父親の作「赤いウエストコートを着た男」(1740頃)は自画像ともある

2597. フェリシテ・ロプリアック・ドゥーズ LOPRIAC-DOUZE (Felicite), ケロワンQuerrhoint未亡人。58歳。パリ生。
(クローアン侯爵夫人フェリシテ・ド・ロプリアック Marquise de Querhoent,Felicite de Lopriac
父親はMarquis de Coetmadeuc, Comte de Donges,Gui Marie de LOPRIAC{Vicomte de Donges Marquis d'Asserac,Guy Marie de LOPRIACとも} 1764没。母親はMarie Louise de LA ROCHEFOUCAULD
{Marie Louise ROCHEFOUCAULT de ROYE} 1697頃-1750。兄弟姉妹にMarquis de Donges,Guy Louis de LOPRIAC 1747没とFrancoise Judith de LOPRIAC 1748没がいるが、早世だろう。
1752年王軍少佐Louis-Joseph de Querhoent{ Louis Joseph de KERHOENTとも} 1782没と結婚。子はなし。
1789年8月4日の夜、すべての封建的権利は廃止された。 これにより、クローアン侯爵夫人が所有していた封建的権利と名誉称号が取り消された。 彼女はもはやモントワールMontoire侯爵領の侯爵夫人
でもなく、ヴィルデューVilledieuのChateau de la Ribochereの所有者としての女城主となる。子供のいない未亡人だったこの侯爵夫人は、したがって、優先財産の使用権者でしたが、パリのオテルほうが安
全だと考えた。 そこで逮捕され、迅速な裁判の後、死刑判決を受け、ギロチンとなる。国民公会の議員Claude-Nicolas Leclercはこの侯爵領の管理や収税を生業にしていた一族の出身であったが、すでに
国王の死刑に反対、マラーの起訴等でロベスピエールから敵視されており、とてもテルールの最中に貴族婦人であるこの人を救出することは出来なかったという。
2482のクローアン伯爵ノエル・グザヴィエ・ド・クローアンの父親はルクレールの一族が領地の管理・収税をしていて仕えたクローアン侯がseigneur de Montoireで生没年が1710-88なので2482の父親Pierre 
Louisであると思うが、同地はこの人の所領になっており、亡夫はLouis-Joseph de Querhoentで、クローアン家のロクマリア領主系の分家。どうしてまだ当主{2482の長兄}が存命中に同族他家に移ったのか
は不明)

 Marquise de Querhoent,Felicite de Lopriac

2598. ピエール・フランソワ・マエ・ドローネー MAHE-DELAUNAY (Pierre-Francois), 51歳。無職。クレイシーCraissy生。
(サント・ドミンゴの入植者一覧にPierre-Francois Mahe Delaunay {もしくはDelaunay Mahe}がおり、ナントの一族とある。インドのマラバール海岸ポンディシェリ地区にある小さな町Maheの植民地創設者
Bertrand-Francois Mahe de La Bourdonnais 1699-1753から派生した一族とも。La Bourdonnais姓は母親からのもの。元々はMahe家。出身はサン・マロ。{この町はもともとMayeと表記されており、
ラ・ブルドネの名との類似性から名付けられたよう。この町は英仏争奪戦が激しいが、85年にフランスに戻されるも93年革命戦争で再び英領になっている}
 サント・ドミンゴのL'Arcahaye生まれのClaudine de LAUNAY-MAHE 1753-88が1770年同地でJan Baptiste Francois BRETTON DESCHAPELLES 1739-95と結婚している。{Claudineは同地で没している
が、この夫はアメリカのデラウエアのWilmintonで亡くなっており長女も同地でアイルランド出身者と結婚している}しかし、Claudineの家族の記録はない。別資料では父親はJulien Mahe de LAUNAY 1714-
94{ナント生まれで、サント・ドミンゴにて94年7月13日に没}、母親はMarie Madeleine Victoire PAYEN 1771頃没。弟に軍人となったJulien Jacques Marie Claude 生没年不詳がいた。二女がいた。もう一人
64年生まれのEugene Odonがいたが詳細はない。父親は死別後にAnne-Marie LAMOUSSAYE 1757生 と再婚しているようだが、子の記録はない。つまり、クローディーヌの兄弟にこの人はいないが、父親
がナント出身なので、近しい関係とは推定できる)

2599. シャルロット・ジャクリーヌ・フランソワーズ・マンヌヴィル MANNEVILLE (Charlotte-Jacqueline-Francoise), コルベール・モーレヴリエColbert-Maulevrier未亡人。63歳。ルーアン生。
(モーレヴリエ侯爵夫人シャルロット・ジャクリーヌ・フラソワーズ・ド・マンヌヴィル Marquise de Maulevrier,Charlotte Jacqueline Francoise de Manneville 1731-94
父親はComte de Manneville,Charles Louis de MANNEVILLE 1690-1740。 母親はCharlotte Francoise AUBER de THEUVILLE 1708-88。
亡命同様の息子に会うべく何回も出国し1792年5月22日に帰国。ルーアンにて逮捕された。
彼女の人望は厚く、その親切と慈善に満ちた人柄は有名で、彼女がギロチン台に引き立てられた時、「やめろ、彼女は違う、彼女は素晴らしい人だ、処刑をやめろ!」という叫びが巻き起こったという。
彼女が黙々と処刑されると人々は「元后あわれみの母 われらのいのち、喜び、希望」というサルヴェ・レジナSalve reginaというキリスト教聖歌を跪いて歌ったという。
1754年中将Marquis de Maulevrier,Rene Henri Edouard Colbert de Maulevrier 1706-71と結婚しニ男をもうける。長男は野戦総監Marquis de Maulevrier,Edouard-Victurnien Charles Rene 1754-1839。
次男Comte de Maulevrier,Charles Colbert de Maulevrier 1758-1820をもうけている。夫は兄のLouis-Rene Edouard Colbert 1699-1750の子Francois-Edouard Henri Rene 1727-48が子なく亡くなったことで
Marquis de Maulevrierを継いだ。また夫は1751年に結婚したMarie-Charlotte Eugenie Caroline de Fiennesが分娩で1752年に亡くなったためにこの人と再婚している。尚、夫は祖父がコルベールの弟)

  Marquise de Maulevrier,Charlotte Jacqueline Francoise de Manneville...........................
父・Comte de Manneville,Charles Louis 母・Charlotte Francoise Auber de Theuville 夫・Marquis de Maulevrier 長男・Edouard-Victurnien Charles Rene

2600. ジャン・マルタン MARTIN (Jean), 通称アンリHenry。 26歳。ヴィルヌーヴVilleneuve生。
(Lot-et-GaronneのVilleneuveの司祭)

2601. ジョゼフ・ヴァンサン・ミコー MICAUT (Joseph-Vincent), 27歳。パリ生。
(ジョゼフ・ヴィヴァン・ミコー・ド・クールブトン Joseph-Vivant Micault de Courbeton 1767-94。 2614の義兄弟。共に逮捕された。
父親はディジョン高等法院法官帽部長評定官Jean-Vivant Micault de Courbeton 1725-94。母親はMarie Charlotte Francoise TRUDAINE 1739頃-1804。母の遠縁{4世代前が兄弟同士}が2614。
父母は89年10月に亡命するが、亡命者の財産没収を防ぐため92年3月に帰国する。ディジョンからLuxeuilに引っ越し、居住証明と診断書を提出したが無効とされ、93年11月財産は没収された。 1794年
 2月22日亡命罪で逮捕。公安委員会からディジョンに送られたAndre-Antoine Bernardは差し押さえたこの家族の財産を失わないために、裁判所に圧力を掛けて居住証明書による弁護を無効にして、
3月17日にディジョンのMorimont広場{現在のエミール・ゾラ広場}で父親を処刑した。
母親の妹Charlotte Genevieve TRUDAINE 1745-94はアラス市長のCharles Guislain Alexandre QUARRE de Chelers 1783没 と結婚し五女一男を残していたが、1793年10月15日二人の娘と共に逮捕。
監視委員会は好意的で愛国者であると指摘し、病気だとして自宅での療養を許可したりした。しかし結局はノワイヨンの教会参事会員MARTINを亡命させたり、Comtesse de MAZAINCOURTと共謀して
いたとされて94年5月15日にアラスにてギロチン刑に処せられている。その次女Marie Charlotte QUARRE de CHELERS 1766-1832の夫で元近衛銃士のLouis Gabriel d'HANGEST 1744-94は816で、パリ
にてギロチン刑に処されている。
妹Marie Louise Josephe Micault de Courbeton 1769-1802は母方遠縁(五代前同士が兄弟)の2614と89年6月16日に結婚しているが、この義弟とは共々逮捕された。この人の結婚の記録はない。
尚、伯父{父親の兄}のJoseph MICAULT d'HARVELAY 1723-86は国務評定官で王室財務管理官であり、この伯父の妻Anne Rose Josephe de NETTINE 1739-1813は伯父と死別後にカロンヌと再婚した。
この妻は636のラボルドの妻Rosalie Claire Josephe de NETTINE 1737-1815の妹)
妹・Marie-Joseph-Louise Micault de Courbeton  
伯父の妻・Anne Rose Josephe de NETTINE
2602. ジャン・ボン・モワノー MOINEAU (Jean-Bon), 37歳。ロングヴィルLongueville生。
(1793年以来Troyes教区の聖職者。Troyes近くのAix-en-Otheに居住。Chaperonの二兄弟の共犯者として処刑される。Chaperon兄弟とはFrancois Joseph CHAPERON de TERREFORT 1734-
94と従兄のPaul Romain CHAPERON 1732-93のことか)

2603. アデライド・マリー・ノナン・ピエールクール NONANT-PIERRECOURT (Adelaide-Marie), レイモン・ナルボンヌ・ペレRaymond Narbonne Pelet妻⇒未亡人。36歳。⇒31歳。パリ生。
(ナルボンヌ・ペレ・フリッツラー子爵夫人アデライド・マリー・テレーズ・ル・コント・ド・ノナン・ド・ピエールクール Vicomtesse de Narbonne-Pelet-Fritzlar,Adelaide Marie Therese Le CONTE de NONANT de
PIERRECOURT 1763-94
父親はMarquis de Pierrecourt,Alexis Bernard Le CONTE de NONANT。母親はComte d'Estampesの娘Sophie d'ESTAMPES 1729生。
母親は恐らくこの人を生んだ後に亡くなり、父親は66年国務評定官の娘Cecile Jeanne BLANCHEBARBE de GRANDBOURGと再婚、67年Cecile Rose、69年後にMarquis de Pierrecourtを継ぐ
Abel Francoisの異母妹弟をもうけている。この後妻もBaron de Courchampと64年に死別後の再婚だった。
この人は1782年ヴェルサイユでComte de Narbonne-Pelet-Fritzlarの長男Vicomte de Narbonne-Pelet-Fritzlar, Francois Bernard Raymond Joachim de Narbonne-Pelet 1761-88と結婚。一女二男
をもうけた。長女Francoise Marie Felicite Ermesinde Raymonde de Narbonne-Pelet 1785-1813をもうけた。この娘は1800年Duc de Luynes,Charles Marie Paul Andre d'Albert de Luynes 1783-1832と結婚する。
長男Alberic 1786-1846は皇帝に仕えた。次男Francois Raymond Aimeric 1787-1853が家督を継いだ。
Le CONTE de NONANT家は13世紀のナヴァール王Philippe d'Evreuxの大元帥Colinet Le Conteまで遡れるノルマンディーの貴族。ピエールクールはBrucourtとVillers領主系の分家から派生した一族。7月9日に
処刑されている2092Felix Prosper Le Conte de Nonant de Bretoncellesなども同系の遠縁である)

2604. クロード・オスタリエ OSTALIER (Claude), 48歳。庭師。パリ生。
(ビセートルに貧民として収容されていた元庭師とある)

2605. ジャン・バティスト・アンリ・ポステル・ドミニエール POSTEL-DEMINIERE (Jean-Baptiste-Henry), 45歳。オルヴォーOrvaux{OrveauともあるがChateau d'Orvauxの所有者なのでOrvauxが正しい}生。
(ジャン・バティスト・アンリ・ド・ポステル・デ・ミニエール Jean Baptiste Henri de Postel des Minieres 1748-94  近衛軽騎兵の後、1785年ルーアン高等法院評定官。
父親はOrvaux領主Jean Baptiste des Minieres de POSTEL 1715-85。母親はノルマンディー会計検査官の娘Marie Catherine de LANGLE 1720-97。
三男三女の末子だったが、他は夭折か、生年のみで詳細なし。一人だけ姉Marie Elisabeth 1745-67のみが成人はしている。
この人は1772年Sainte Opportune、Fretils、La Saussiere領主の平貴族の娘Marie Madeleine de Sainte-Opportune Le FORESTIER 1747生 と結婚、一子Jean Baptiste Louis d'Orvaux de POSTEL 1777-1851を
もうける。この息子は二度結婚し現在に至る子孫を残している。
ポステル家は1234年からミニエールを領有していた一族。ノルマンディーのウール県Chateau d'Orvauxの所有者。同村は93年人口調査では116人)

2606. ルイーズ・セシール・クヴラン QUEVRIN (Louise-Cecile), 32歳。⇒22歳。召使女。モンディディエMontdidier生。
(Comtesse de Narbonne-Pelet の召使女、とある。同日処刑された2603のVicomtesse de Narbonne-Pelet-Fritzlarのことか?)

2607. マルタン・リプリエ RIBERIEX (Martin), 54歳。元役人。シュルザックSurzac{Cursacとも}生。
(M. G.Riberexとも。元貴族で農業とも)

2608. エティエンヌ・ドロテー・リケ RIQUET (Etienne-Dorothee), カンボンCambon妻。50歳。トゥールーズ生。
(ドロテー・エティエネット・ド・リケ・ド・ボンルポ Dorothee Etiennette de RIQUET de BONREPOS 1743-94
Baron de Bonrepos,Alexandre de RIQUET{1750年トゥールーズ高等法院主席検事} 1709-91と国務評定官の娘Marie Catherine Charlotte de MAUPEOU d'ABLEIGES 1718-73の娘。
四女の次女。姉Catherine 1740生 は1758年Antoine de RIQUET de CARAMAN 1729-59と結婚し死別後の60年三部会議員となるJean de BUISSON de BOURNAZELと再婚。妹 Gabrielle Eulalie Louise 1744-1809は
1768年Marquis d'Avessens,Paul Jacques Marie d'AVESSENS 1749-1822と結婚。末妹Victorine 1749生 は1769年Marquis de Talairan,Alexandre DADVISARD 1748-1817と結婚している。
この人は1762年トゥールーズ高等法院次席検事Antoine de MALARET de FONTBEAUZARD 1727頃-62と最初に結婚したが、姉と同じようにすぐに死別する。{結婚した年に夫は死去}
1770年トゥールーズ高等法院長Jean-Louis Emmanuel Augustin de Cambon 1737-1807と再婚。二男一女をもうける。長男Louis Alexandre de CAMBONは革命中は亡命、1802年帰国、皇帝から男爵位を与えられ、
後に議員からPair de Franceとなる。次男Jean Francois Auguste de CAMBON 1774生 はMarie-Adelaide Jeanne M Hanrieと結婚し一女をもうける。長女 Paulineは下記参照。
夫婦で隠れ家を捜索隊に急襲され、夫は逃げ切ったが、彼女は逮捕される。夫の立ち回り先について口を割らず、処刑された。翌日はテルミドールだった・・・。
収監中、末妹Victorineとその夫Marquis de Talairanと共々投獄されていたが、その次女のGabrielle Victoire Catherine DADVISARD 1773-1845という娘も一緒だった。彼女は公安委員会の有力議員Bertrand
BARRERE de VIEUZACから両親の命と引き換えでの関係を強要されていた。母方叔母であるこの人もBARREREから関係を求められていたが、処刑されてしまった。そこで、ついにこの娘も両親の命の為に、
この卑劣漢に身を委ねることになった、という話がある。両親も彼女自身もその後、テルミドールで解放され、彼女はCharles de SAGET 1776-1857と結婚、一女をもうけ共に長寿をまっとうする。
共に収監されていた娘Pauline de CAMBON 1776-1842と恋人のFelix MARTIN d'AYGUESVIVES{1383の息子}に対して、処刑時に「生きて出られたら結婚するように」と約束させた。翌年2人は約束通り結婚し、
一男一女をもうけ、孫たちは20世紀に至る。
尚、一族のボンルポ城に出没する首なしの幽霊は彼女であると言われている)

 Dorothee Etiennette de RIQUET de BONREPOS....................................................................................................................................................................................................................................................................................................
夫・Jean-Louis Emmanuel Augustin de Cambon

2609. シャルル・フランソワ・シメオン・サン・シモン SAINT-SIMON (Charles-Francois-Simeon), 70歳。⇒67歳。パリ生。
(シャルル・フランソワ・ド・ルーヴロワ・ド・サン・シモン・サンドリクール Charles Francois Simeon de ROUVROY de SAINT-SIMON SANDRICOURT 1727-94 アグド司教Eveque d'Agde
父親は1718年野戦総監{中将とも}になったMarquis de Sandricourt,Louis Francois de ROUVROY de SAINT-SIMON 1679-1751。母親はMarquis de Vayres et d'Aulnayの娘Louise Gabrielle de GOURGUES 1698-1753。
夭折含め七男三女の七男。成人した中での長兄Marquis de Sandricourt, Louis de ROUVROY de SAINT SIMON 1718-60はドイツのゲッティンゲンGottingenにて死亡しているが、七年戦争で1757年から1762年迄、
この都市をフランス軍が占領しているので、駐屯中に亡くなったものと思う。{長兄をMaximilien Henri 1717頃-99とする系図もあり} 次兄はMaximilien Henri 1720-99はMarquis de Sandricourt{多分長兄の後継}で騎兵
大尉で著述家。1744年ドーフィネとピエモンの作戦でコンティ大公の将官補佐官を務めた。三男Comte de Sant-Simon,Balthazar-Henri 1721-83はメッツで騎兵大尉、少佐、サンリス総督、式部長官、ポーランド王近
衛准将。{この人の長男Claude Henri 1760-1825が有名な社会主義思想家のサン・シモン}二人の夭折と思しき兄を抜かすと四男がこの人。夭折、早世と思しき姉妹を除くと妹が一人いて、Catherine-Leonore 1731-81
は1761年大厩舎小姓からフランス衛兵隊将校になったMarquis des Roches-Herpin,Ambroise-Rene 1729生 と結婚している。
この人は1753年Conchesの神父になった後、 Joseph-Francois de Cadenet de Charlevalの死を引き継いで1759年アグドの司教となる。85年アカデミーに入会。91年聖職者の市民憲法を拒否、多くの教区司祭らにも
賛同を求めた。そこで非難され、町を家族と共に避難しパリに行き、待遇が良く高額で裕福な容疑者に人気のLes Oiseaux{この高収益を守る為に囚人らは地区委員会に守られ、収容者の名は外部に漏れぬようされ
ていた}の監獄に収容された後に処刑となる。
ルーヴロワ家はピカルディの騎士由来の名門。シャルル・マー二ュ時代のヴェルマンドワ伯家由来とされた。13世紀にルーヴロワの名が残る家系だが、実際にはヴェルマンドワ伯家の女性系の家柄。ソンム左岸の
ルーヴロワの地に由来。サン・シモンの名はピカルディの土地由来で付けられた。有名なサン・シモン公の家系は元々は15世紀に分岐した次男の家系だが、「回想録」で有名なサン・シモン公の父Comte de Rasse,
Claude de Rouvroyがルイ13世の寵愛のもと1635年サン・シモン公位を授かったことで宮廷貴族となった。この人のサンドリクール系は、16世紀に本家から分岐した家系である。この人の8代前と、「回想録」のサン・
シモン公の6代前が兄弟という関係である。上記したように有名な社会主義思想家サン・シモン伯爵{Comte de Saint-Simon, Claude Henri de ROUVROY 1760-1825}は兄の息子であり、甥である。またこの兄Balthazar
-Henriは、本家筋の五男だがMarquis de Saint-Simon,Henri de Rouvroy 1703-39の娘でプロヴァンス伯の女官Blanche-Marie Elisabeth { Isabelle} de Rouvroy de Saint-Simon 1737生 と結婚している。この妻は
2516の母親の姪なので2516とは従妹の関係である)

  Mullerの有名なL'appel des victimes pendant la Terreuの画の中に描きこまれているサン・シモン司教...........................................甥・Comte de Saint-Simon, Claude Henri de Rouvroy
Charles-Francois-Simeon de Vermandois de Rouvroy de Saint-Simon de Sandricourt

2610. マリー・シャルロット・セネクテール SENECTERE (Marie-Charlotte), veuve de ルイ・コンフランLouis Conflans未亡人。43歳。パリ生。
(ダルマンティエール侯爵夫人マリー・シャルロット・ド・セネクテール Marquise d'Armentieres, Marie Charlotte de SENNECTERRE 1750-94
父親は歩兵大佐Marquis de Sennecterre,Henri Charles de SAINT-NECTAIRE 1714-85。母親はMarie Louise Victoire de CRUSSOL d'UZES。
母親にとって2577クリュソル・ダンボワーズ侯爵アンヌ・エマニュエル・フランソワ・ジョルジュ・ド・クリュソル・ダンボワーズは祖父同士が兄弟の又従兄。
また祖父Marquis de Sennecterre,Jean Charles de SAINT-NECTAIRE 1685-1771はフランス元帥で、祖母はMarquis de Saint-Pierreの娘Marie-Marthe de Saint-Pierre。
弟Charles Emmanuel de SAINT-NECTAIRE 1753-85がいた。
この人は1770年Marquis d'Armentieres,Louis de CONFLANS 1711-74と結婚。夫は父親からオルレアン公の主席侍従官の職を継承する。26年近衛銃士、27年アンジュー
歩兵連隊の指揮官、33年〜35年イタリアに従軍し34年コワニー元帥旗下でbataille de Guastallaに参加し負傷、34年准将。オーストリア継承戦争ではベル・イール元帥旗下
でボヘミアに従軍、43年野戦総監。 bataille de Rocourtに参加し、ルイ15世に勝報をもたらし、46年中将に昇進。七年戦争でスービーズとコンタードのもとで従軍し、68年フ
ランス元帥となった。74年ヴェルサイユの国王の居間の中で脳卒中で亡くなった。結婚は元帥となった二年後で59歳のときであるが、それは再婚だった。
夫は1733年Adelaide Jeanne Francoise BOUTEROUE d'AUBIGNY 1717-46と結婚し、やはり元帥になったMarquis de Conflansなど、この人よりも年長の息子らをすでにもうけている。
父親より年上なのだから仕方ない。再婚し、この人との間にも一男Marquis d'Armentieres,Charles Louis Gabriel de CONFLANS 1772-1849をもうけ、90年Princesse de Croyである
Amelie de CROY d'AVRE1774-1847と結婚し、20世紀に至る子孫らを残している。
サン・セネクテール家はオーヴェルニュの旧家。13世紀にはクレルモン伯の家臣に確認がとれる。フランス元帥を含め軍人を多く輩出している)

夫・Marquis d'Armentieres,Louis de CONFLANS  
祖父・Marquis de Sennecterre,Jean Charles de SAINT-NECTAIRE
祖母・Marie-Marthe de Saint-Pierre

2611. テレーズ・フランソワーズ・スタンヴィル STAINVILLE (Therese-Francoise), グリマルディ・モナコGrimaldi Monacoの妻。27歳。パリ生。
(モナコ大公妃マリー・テレーズ・ド・ショワズール・スタンヴィル Princesse de Monaco,Marie-Therese de Choiseul-Stainville 1767-94
父親はDuc de Choiseul-Stainville,Jacques Philippe de CHOISEUL 1727-89。母親はMarquis de Renelの娘Therese de CLERMONT d'AMBOISE 1746-89。
父親は次男{兄は大臣Duc de Choiseul,Etienne-Francois}であるが、七年戦争を戦い抜き70年にフランス元帥、86年Duc de Choiseul-Stainville位を授けられている。しかし子は二人の娘しかいなかった。
長女のMarie-Stephanie 1763-1833は1778年833の息子の竜騎兵大佐Claude Antoine Gabriel de Choiseul 1760-1839と結婚している。この夫は上記Etienne-Francoisに保護されて育ち、弟に娘ばかりしかいないので、
家督を継がせる意味でこの結婚となった。夫はヴァレンヌ逃亡計画に参加し逮捕され、92年5月釈放されると10月にコンデの亡命軍に参加、95年捕らわれダンケルクに収監されるとそこを脱出しインドに向かい、難破し
て捕らわれ死刑宣告されると三度逃亡し、1801年に帰国した。1830年の暫定政権の政治家にもなったりと波乱万丈の人物だった。こちらも娘が一人いて1804年Duc de Marmierに嫁いでいる。
次女のこの人は1782年モナコ公オノレ3世の次男ジョゼフ・ド・モナコと結婚。結婚生活は幸福だった。三人の娘をもうける。長女HonorineはMarquis de La Charceに嫁いだが、この子孫にはモナコ公位の継承権がある。
1793年2月14日モナコ公国が併合されるとこの人ら公家の人々はフランス市民となってしまう。財産の保全のためローマから帰国する。夫はヴァンデの乱に加担しており、一族は捕らわれてしまう。94年7月に死刑宣告。
妊娠を申告すると保健官{医師Enguchard、薬剤師 QuinquetとPrioux未亡人}に虚偽として却下された。この人は娘らに残す遺髪を、処刑執行人ではなく自らの手で切るための時間を稼いだだけで、死刑を免れたいため
ではないとフーキエ・タンヴィルへの手紙に書いた。しかし、処刑前日にフーキエ・タンヴィルに求めた面会は実現しなかった。
この人は毅然として断頭台に上った。処刑を前に狼狽える他の女性囚人に「勇気です、我が友よ、勇気です」と声掛けしていた。
また、彼女の遺髪はどのようにして娘らに届けられたか不明だが、今でも保存されている。
夫はモナコが併合された後にヴァンデの乱に加担、父も兄夫婦も妻のこの人も逮捕されたわけだが、その後にイギリスに亡命し1795年帰国した。後にイギリス領セイロンの総督の未亡人Frances RAINFORDと再婚したが
子はいなかった。1814年モナコ公国の独立が再度認められると、病弱の兄の摂政として統治を補佐するが翌年に甥のオノレ5世に任せ、翌年パリで亡くなった。
義父のモナコ公オノレ3世 1720-95は、父が公国を追われパリに移住すると自分もパリに住む。公国の政権は父祖の庶子が握った。33年父親から公位の譲位を受けてモナコ公となるも、フランス国王の庇護下で宮廷暮ら
しを続け84年まで公国の統治には携わらない。1757年ジェノヴァの名門貴族の一人娘Maria Caterina Brignole Sale 1737-1813と結婚したが、妻は駐仏ジェノヴァ大使グロポリ侯爵の娘として頻繁にフランス宮廷を訪れて
いた。またその母親は自分の夫となる相手と愛人関係にあった。輿入れの儀も、家格の争いで紛糾し、結局は、海と陸の間の桟橋の中間地点で互いに迎えるという滑稽な方法で落着した。それでも始めは良好な夫婦関係
で二人の息子ももうけた。しかし夫オノレ3世は公国を離れてパリに戻り、妻がパリに入る頃にはすでに愛人と暮らしていた。しかし美しいMaria Caterinaも、65年コンデ公ルイ・ジョゼフとの愛人関係を結び、大スキャンダル
となった。夫婦は別居し、それぞれの愛人と生活する。コンデ公は政治的影響力を利用し愛人の法的離婚と財産権の確保を獲得する。夫オノレ3世も承認。マリー・アントワネットはこのスキャンダルを忌み嫌い、彼女のヴ
ェルサイユへの出入りを禁止した。77年彼女はオテル・ド・モナコ{現ポーランド大使館}を建ててそこに住まう。革命後は愛人のコンデ公とコブレンツに亡命し、亡命政権に資金援助し、王弟らの愛人たちと共に女主人の役割
を演じた。後に公爵と共々ロンドンに移り、そこで98年結婚。{公表は1808年}一方、元夫のモナコ公オノレ3世はテルールで収監されていたが、自らはテルミドールで救われたものの、翌年貧窮の内に他界した。尚、共に収
監されていた長男{この人の義兄}の妻Louise Felicite Victoire d'Aumont 1759-1826とその子供はモナコ公家の侍医Desormeauxが牢獄から救出に成功しテルールの終わりまで匿ったという)

 Princess de Monaco,Marie Therese de Choiseul-Stainville .夫・Prince de Monako,Joseph de Monaco ... 
父・Duc de Choiseul-Stainville,Jacques Philippe 母・Therese de Clermont d'Amboise
1770年描かれたMarie Therese(中央の少女)、姉 Marie-Stephanie(左)と伯母・叔母(グラモン公夫人は689で4月に処刑) .
伯父・ Duc de Choiseul,Etienne Francois 義父・Prince de Monaco,Honore III 義母・Maria Caterina Brignole Sale

2612. マルグリット・ステフェル STEFER (Marguerite), ドフォッシDefossi妻⇒des Fosses。33歳。 Agyangt生。
(マルグリット・シュッフェ{スヘッフェル?} Marguerite ScheffersまたはScheffer 1761-94 夫は2579でシャルル・ジャン・ルイ・デ・フォッセ Charles-Jean-Louis des Fosses 1737-94。
 夫は騎兵銃隊中尉からヴェルマンドワの三部会貴族議員となる。夫の父親は親衛騎兵少佐副官、近衛マンシュ隊員Vicomte de Vauxtin。夫は
,Charles Francois des FOSSES d'ARCRY 1699頃-1748。母親はMarie-Francoise de BRODARD 1710頃-79。三女一男の長男。49年Moustiers騎兵連隊士官候補生。Coucy管区ソワッソン地方バイイ裁判所元帥法廷副官。
議員選出後の1790年12月23日に辞任。91年St Sauveur de Coucy教会の一族の貴族席の特権を保持しようとして非難される。93年8月コンピエーニュにて逮捕。監視下におかれつつ釈放。同年11月起訴されて妻共々逮捕
される。1774年サンリス大隊大尉の娘Marie Julie Josephe Louise d'HENAULT 1755-86と結婚し一男二女をもうける。長男Charles 1775-1841 は騎兵大尉となり、Vicomte des Fossesとなる。{その他詳細は2579参照}
最初の妻と死別後に1788年この人と再婚しているが、子の記録はない)

2613. アンリ・シャルル・ティアール THIART (Henry-Charles), 72歳。パリ生。
(ティアール・ド・ビシー伯爵アンリ・ド・ティアール・ド・ビシー Comte de Thiard de Bissy,Henri de THIARD de BISSY 1723-94 将官で文筆家。
父親はClaude VII de THIARD de BISSY 1690-1723。母親はSylvie Angelique ANDRAULT de LANGERON 1685-1771。兄Comte de Bissy,Claude
 de THIARD de BISSY 1721-1810がいる。この兄も将官で文筆家でアカデミー・フランセーズ会員、LanguedocとAuxonneの総督だった。
この人は15歳から軍職に就き、歩兵連隊中尉となる。87年ブルターニュの司令官となり、89年5月のレンヌの暴動では地方長官Mollevilleと負傷しつつ
総督邸に避難した。92年8月10日事件では負傷している。99年死後にその詩集が出版されている。
1752年徴税請負人の娘Anne Elisabeth BRISSARTと結婚し、娘Marie Claudine Sylvie de THIARD de BISSY 1752-1812をもうけ、この娘はDuc de
 Fitz-James,Jean-Charles de FITZ-JAMES 1743-1805と1768年結婚している。{息子Edouard de Fitz-James 1776-1838は6代目Duc de Fitz-James。
娘Henriette Victoire Fitzjames 1770-1809は、2520下の番外の兄Duc de Mailleの息子と結婚している。この娘婿の妹Laure Auguste Fitzjamesは
1988の兄Prince de Chimay,Philippe-Gabriel-Maurice-Joseph de Henin-Lietard 1736-1804に嫁いでいる。}
また妻の兄か弟のAuguste Louis Simon BRISSART 1727-79は徴税請負人で、2411のド・ラ・ボルドの姉と結婚している。
また近衛銃士からアンジュー騎兵大佐、ポンタリエ総督、中将となったMarquis de Bissy,Anne-Louis de Thiard 1715-48は、曾祖父の兄の曾孫)

娘・Duchesse de Fitz-James,Marie Claudine Sylvie de THIARD de BISSYとその息子(孫)6代目Duc de Fitz-James,Edouard  
兄・Comte de Bissy,Claudede THIARD de BISSY......................................................
曾祖父の兄の曾孫・Marquis de Bissy,Anne-Louis de Thiard

2614. シャルル・ルイ・トリュデーヌ TRUDENNE (Charles-Louis), 29歳。パリ生。
(シャルル・ルイ・トリュデーヌ・ド・モンティニー Charles-Louis Trudaine de Montigny 1764{65とも}-94 パリ高等法院弁護士、シャトレ弁護士、パリ高等法院評定官。
父親はやはり高等法院評定官で国務評定官Jean Charles Philibert TRUDAINE de MONTIGNY1733-77。母親はAnne Marie Rosalie BOUVARD de FOURQUEUX 1776没。
弟Charles Michel TRUDAINE de MONTIGNY 1766-94{後者}がいた。
 Marie Louise Joseph MICAULT de COURBETON 1769-1802 と結婚。子はいない。
93年パリを去り、モンティニーに移り、芸術愛好家としてシェニエ2532らの親交を深める。亡命未遂を告発されて義兄弟の2601や後者共々逮捕され処刑。
同日処刑のシェニエとは兄弟共にナヴァール大学の同級だった。
妻とは遠い姻戚関係だが、この人の五代前と妻の母方五代前が兄弟という関係。
尚、妻の肖像画は長くJacques-Louis David作 'Portrait of Madame Chalgrin, nee Vernet'、つまり旧姓ヴェルネ、シャルグラン夫人{2526}の肖像画と信じられていたもので未完成品。画家ダヴィッドはロベスピエール
の支持者であり、91年から92年にかけてこの夫よりの依頼で始めた奥方の肖像画作製も、トリュデーヌ家が政情により潜伏化することにより仲違いし、未完のまま保存された)

 Charles Louis TRUDAINE de MONTIGNY.............................................................................................................................................................................................................................................................................................
 妻・Marie-Joseph-Louise Micault de Courbeton

2615. シャルル・ミシェル・トリュデーヌ TRUDENNE (Charles-Michel), 28歳。パリ生。
(シャルル・ミシェル・トリュデーヌ・ド・ラ・サブリエール Charles Michel Trudainne de La Sabliere 1766-1794 前者の弟。パリ高等法院評定官。
両親については前者参照。
1791年頃からヴィクトワール王女の女官だったラ・リュゼルヌ伯爵夫人Victoire Marie Francoise de Montmorin Saint-Herem 1765-94{937の娘}と関係をもち、女児Elisabeth Francoise Bouvard de Fourqueux
{両親不明の子Therese Obertonとして生まれた}1793-1867 をもうける。誕生後1年で両親を失ったこの女児は後にMarquis de Baliviere 1782-1821に嫁ぐ。大伯母である財務総監Etienne MAYNON d'INVAULT
1721-1801の夫人{Adelaide Elisabeth BOUVARD de FOURQUEUX 1745-1813}が養子として受け入れてくれたとある。
尚、愛人のラ・リュゼルヌ伯夫人も収監されており、狂気に見舞われて監獄内にて亡くなっている。
またこの人の牢の壁には、まだ若いが枯れている木の枝が地に垂れており、そこにラテン語で「育ったら実を結んだであろう」と刻まれていた)

父・Philibert TRUDAINE de MONTIGNY 1733-1777  

2616. クロード・ピエール・ヴィニー VIGNY (Claude-Pierre), 26歳。法学生。パリ生。
(クロード・ピエール・ド・ヴィニー Claude Pierre de VIGNY 1768-1794
父親は国王評定官で会計院部長クールクテーヌ侯爵クロード・ジャック・ド・ヴィニー Marquis de Courquetaines,Claude Jacques de VIGNY 1720-74。母親は同日処刑のGuillemine Marie GUICHARD
1743-94{⇒2586}。五男の末子。
成人した兄らは二人だけで、一人は Anne Claude 1761-1836で騎兵大佐となり、1800年Marie Rose Elisabeth FIQUET de NORMANVILLE 1769生 と結婚し一女をもうけている。もう一人の兄は Jean
Charles 1765生 で、海軍尉官だったが亡命し1828年ロンドンにいた。没年及び結婚記録はない。
この人の経歴は法学の学生であったこと以外は不明で結婚記録もない)

2617. マドレーヌ・アンリエット・サビーヌ・ヴィリヴィル VIRIVILLE (Madeleine-Henriette-Sabine), ペリゴールPerigord妻。31歳。パリ生。
(サビーヌ・マドレーヌ・アンリエット・オリヴィエ・ド・スノザン・ド・ヴィリヴィル Sabine Magdeleine Henriette OLIVIER de SENOZAN de VIRIVILLE 1764-94
法相マルゼルブの姉922のMarquise de Senozan,Anne-Nicole de LAMOIGNON de MALESHERBESの息子Comte de Viriville,Antoine Francois Olivier de Senozan 1737-69の一人娘。母親はComte de Vienne
の娘Claude Louise de VIENNE 1741-69。
1778年{79年とも}アルザス連隊騎兵大佐Archambaud de TALLEYRAND PERIGORD{Duc de Talleyrand-Perigordは兄に与えられた称号を1817年授与されたもの} 1762-1838と結婚し、6子をもうけた。夫は
中将Comte de TALLEYRAND,Charles Daniel de TALLEYRAND PERIGORD 1734-88と80年から89年王妃の女官をしていたAlexandrine Victoire Eleonore de DAMAS D'ANTIGNY 1728-1809の次男。{三男だが、
長兄は夭折} 兄はオータン司教だったが後にナポレオン下で外相・侍従長となり復古期には首相ともなるCharles Maurice de TALLEYRAND PERIGORG 1754-1838{「1789年以前に生きたことのない人に、人生
の甘美さはわからぬ」の名言はこの人}
夫は革命期は亡命している。
四女二男がいたが、娘は末娘で1803年Comte de Naillesに嫁いだFrancoise Xavier Melanie Honorine 1785-1863だけが成人しており、ベリー公夫人の女官になっている。長男Archambaud Marie Louis 1784-1808
はComte de TALLEYRANDとしてバイエルン軍で軍職に就くが24歳でベルリンにて独身のまま死去している。次男 Alexandre Edmond 1787-1872はナポレオンに軍人として仕え帝国伯位も授けられ、また復古後も
王室に仕え野戦総監、中将となっている。また1817年ナポリのDuc de Dinoとなっている。また伯父タレイランによりロシア皇帝の仲介でクールラント公の娘Dorothea von Biron 1793-1862{庶子を認知した}と結婚したが、
後にこの妻は伯父タレイランの愛人となり{妻であるCatherine Grand 1761-1834もこの頃離婚}、また名の知れぬ相手との子もあり、夫とは別居した。子は四人おり、長男はタレイラン公位を継いでいる。
夫は1795年Anne Jacobee de CAUMONT 1758-1842と再婚している)

夫・Archambaud de TALLEYRAND PERIGORD  
次男・Alexandre Edmond 次男嫁・Dorothea von Biron

義父母・Comte de TALLEYRAND,Charles DanielとAlexandrine Victoire Eleonore de DAMAS D'ANTIGNY  
義兄・Charles Maurice de TALLEYRAND PERIGORGとその妻・Catherine Grand

2618. アドリアン・ドニ・ブノワ・ヴィヨット VIOTTE (Adrien-Denis-Benoit), 45歳。実業家。ブザンソン生。
(Adrien-Denis-Benoit ViolleもしくはVioteとも。モナコ公の事務官Homme D'affairesともある。
没年不詳の1748年ブザンソン生まれのBenoit Denis VIOTTEは造幣職人Toussaint VIOTTE 1713-88とBarbe DAMOTTEの六男三女の長男。詳細は不明なるも出生地、生年は合致する。
没年不詳で1747年ブザンソン生まれのDenis Adrien VIOTTEは職業等の詳細は不明。1707年生まれのPierre VIOTTEとLuce Francoise VERDY 1722-70の六男五女の長男。こちらも出生地と年齢がほぼ合致。
いずれにしても不明)

1794年7月27日

2619. セバスティアン・アラローズ・ラブルミー ALAROZE-LABREMIE (Sebastien), 42歳。ムーランMoulins生。
(セバスティアン・アラローズ・ド・ラ・ブルヌ Sebastien ALAROZE DE LA BRESNE 1752-94 総財務官、国民衛兵大尉
父親は国王親衛騎兵でムーラン総徴税管区財務局総財務官Gilbert ALAROZE de LA BRESNE。母親はJeanne FARJONNEL AUZON de VILLEFRANCHE 1773没。兄Philibert Francoisは詳細不明だが、1773年
La Charite-sur-LoireにてMarguerite PAICHEREAUという女性と結婚している。この人の結婚記録はない。{祖父Etienne 1763没は歩兵大尉}
1778年ムーラン総徴税管区総財務官。89年国民衛兵大尉。生まれが高貴なのでムーランの公訴人Christophe Sayet{8月16日解任・追放}を憤らせ、Oiseaux、後にコンシェルジュリーに収監。そしてフーキエ・タン
ヴィルの怒りを買い処刑となる)

2620. ジェラール・ジャン・アルフェリエール ARFELIERE (Gerard-Jean), 37歳。パリ生。
(Gerard-Jean Arfeliere 1757-94 パリの大工。
両親については不詳。94年までTracy通りに居住。
1781年パリでMarguerite Helene MARCION 1761-1849と結婚し、三女一男をもうける。長女Marie Helene Jeanne 1784頃-1857はAndre Joseph HEBERT 1815没と結婚し二女をもうけ、後に大工Jacques MUGNIE
1851没 と再婚している。長男Jean Charles 1786頃-1861はパリで使用人{1832頃-49頃}をやり、61年には家主となっており、Flore Christine Francoise PETIT 1792頃-1847と結婚、二男をもうけた。{長男の Charles
1811頃-77は61年にはパリ民事裁判所書記局の古文書保管係員をやっており、77年には年金生活者になっている。次男のEdouard Antoine 1821頃生 は61年にはパリで製図師となっている。}次女Genevieve
Marguerite Francoise1795-1855は1812年パリでAntoine RIVIERE 1855以前に没 と結婚し子の記録はないが、没する頃にはパリで地主となっている。三女Helene Margueriteは生没年不詳だが1813年パリでSimon
Florentin MARGUERITEと結婚し、一男 Charles 1814生 をもうけている)

2621. マルシャル・フランソワ・オーベルタン AUBERTIN (Martial-Francois), 41歳。 花屋。パリ生。
(職業は羽細工Plumassierとある同姓同名者は1793年4月24日付の身元保証札を持っているとして記録されており、Amis de la Patrie地区に属しておりサン・ドニ通り居住43歳とある。{国立公文書館}
Martial Aubertin 1775-1824はパリ生まれの舞台俳優で劇作家)

2622. ジャン・ルイ・マリー・オーカーヌ AUCANNE (Jean-Louis-Marie), 45歳。大尉。マルティニク生。
(ジャン・ルイ・マリー・ジョゼフ・オーカーヌJean Louis Marie Joseph Aucane 1748-94 プロヴァンスの一族。騎兵大尉。1773年シャトレの評定官、74年会計監督官。何らかの事情で植民地サント・ドミンゴに放逐
されたが、1780年当地の商人となってパリに帰国。1468のサント・タマラントと知り合い結婚、彼女のギャンブルハウスの運営を手伝った。彼女の二子らと暮していたが、サン・ジュストの告発で共々逮捕。妻と
連れ子二人は処刑されたが、この人はフーキエ・タンヴィルの保護で生き延びていた。{「結婚」ではなく「関係」としている系図もあり}
マルティニクのクレオールで以前は会計監督官、後に騎兵大尉とある。78年の資料では、マルティニク出身のアイルランド貴族。スイス百人隊に職を得るために騎兵士官として勤務、とある。
妻Jeanne Louise Francoise Desmier d'Archiac de Saint-Simon 1751-94{⇒1468}はサン・シモン侯爵エティエンヌ・ルイ・デズミエ・ダルシアック Marquis de Saint-Simon.Etienne-Louis Desmier d'Archiac 1709-98
{サン・シモン公家とは関係ない}の娘。1771年徴税請負人Francois Louis Barthelemy Davasse de Saint-Amarand 1743-89と結婚。死別後はコンティ大公の保護を受けていた。
後サント・ドミンゴの商人のこの人と再婚。息子1505、サルティーヌ総監の息子と結婚した娘1506、その夫1509共々サン・ジュストに告発されて逮捕・処刑。
この人の奨めでパレ・ロワイヤルの50番目のアーケードにあったので「50」という名のギャンブルホールを運営して、パレ・ロワイヤルで評判になって、王党派も集まってはいたが、国家警察の保護もあった。
つまり「元貴族」も革命家も集う社交の場だった。92年の8月10日事件以来は反革命の資金活動が密かに行われ、革命が急進化する中で段々と非難が集中。再婚の夫のこの人と子供らとSucy-en-Brieで
逮捕・処刑に。1469のVicomte de Ponsは妻の愛人で、娘1506はVicomte de Ponsの娘とも言われている)

 妻(関係)・Jeanne Louise Francoise Desmier d'Archiac de Saint-Simon  

2623. マリー・マルグリット・バルコー BARCKHAUS (Marie-Marguerite), ピュイ・ヴェリーヌPuy-Verine妻。53歳。パリ生。
(Marie-Marguerite BARCKHAUS 1739-94  2653の妻
父親は会計院検事ProcureurのFrancois Guillaume BARCKHAUS 1760没。母親はMarie Marguerite JOURDAIN。
パリ会計法院評定官Durand-Pierre PUY de ROSNY {Puy de Verines} 1725-94{⇒2653}と結婚し、一男一女をもうけた。長男Jean Francois Pierre 1762-1825は1782年から92年までパリ会計院部長評定官
で、1816年レジオンドヌール、帝国男爵位も授かっている。結婚し一女をもうけ、孫は20世紀に至る。長女Alexandrine Marguerite Gabrielle 1802没 は1785年歩兵中佐でスイス百人隊大尉のAlexandre Jean
Baptiste de CULLON d'ARCYと結婚し、二女をもうけ、長女AlexandrineはMarquis de Pleurreに嫁ぎ、次女Aglae-Pierrette-AdelaideはCharles Henri de DEVEZEAU de RANCOGNEに嫁いでいる。
夫は3年間盲目で聴覚障碍者だったが、フーキエ・タンヴィルの告訴を免れなかった。元貴族で君主制に執着し、亡命者の息子との通信を行っていたと。夫はRosiers通りのHotel de Coulangesを所有しており、
そこはrue des Francs-Bourgeoisの建物の方で、セヴィニエ夫人が生まれて1637年迄住んでいた建物はヴォージュ広場{旧ロワイヤル広場}のHotelde Coulanges。こちらのHotel de Coulangesはセヴィニエ夫人
が結婚するまで数年間住んでいた建物だが、18世紀に改装している。1748年来ここの所有者だった高等法院院長Andre Charles Louis Chabenatから1775年に購入。二つの庭園の間に分離壁を建てた。この夫
がここの最後の所有者であり、建物は19世紀にかなり痛むことになった)

2624. ガスパール・シメオン・バルトン・ド・モンバス BARTON DE MONTBAS (Gaspard-Simeon), 50歳。元歩兵大尉。べラックBelac⇒Bellac生。
(「国庫恩給名簿」第三巻に1789年、王室歩兵連隊司令を退官したことによる支給。とある。また1759年の項には、Francois de Salles-Pierre Barton de Montbas という人物が、ラ・マルシュ・コント連隊大尉として
退官したためと記載されている。この1759年の方は、 Francois de Salles Pierre BARTON de MONTBAS 1720生 でBellac生まれ。Comte de Montbas,Pierre BARTON de MONTBAS 1681-1755とDame d'Escurat,
Louise de RAYMOND 1685生{マルシュのBasse-Marcheの代官Gabriel-Francoisの娘} の息子で、二ヴェルノワ連隊大尉で元帥法廷中尉Lieutenant des Marechaux de France{別系図にはcapitaine au regiment
d'infanterie du comte de La Marcheとある}。1751年Claire Francoise de CHANTELOT de LA CHAISE 1727生 と結婚し、Louis BARTON de MONTBAS 1761-1817をもうけている人物。兄にPierre Louis Jean
BARTON de MONTBAS 1715頃生 がおり、1735年Marie-Anne FORIENと結婚しているが、肝心な子の記載はない。
しかし、この夫婦の子の記録を、歴史家で神父のJoseph Nadaud 1712-75著のNobiliaire du diocese et de la generalite de limoges: Tome 1の中に見つけられる。Vicomte de Montbas,Pierre Louis Jean 1710生 は、
1735年結婚したMarie-Anne FORIENとの間に、五男一女をもうけている。長男Pierre-Thibaud-Marie 1735生 は1754年近衛銃士第二中隊に入った。次男Jean-Thibaud-Louis 1737生 は1756年ニヴェルネ連隊大尉
になる。長女Felicite-Perpetue-Dorothee-Catherine 1738生 は未婚で1777年に没する。三男Gabriel-Francois-Xavier 1741生 は1759年ガルド・マリーヌに入り、Marquis de Montbasとなり、1771年結婚。四男Pierre-
Francois-de-Sales 1742生 は1760年Marche-Princeの中尉となり、61年死去。そして、五男Gaspard-Simon 1744生 は1760年Bigorre連隊中尉となった。  以上である。つまり、1759年に恩給を支給されたFrancois
de Salles Pierreには兄がいて、それはVicomte de Montbas,Pierre Louis Jean 1710生 で1735年結婚したMarie-Anne FORIENとの間の五男Gaspard-Simon 1744生 こそがこの人のことなのである。{Simonとなってい
るが誤記だろう} 叔父であるFrancois de Salles PierreがBellac生まれなので生地も合致し、44年生まれなので年齢も合致する。Nobiliaire du diocese et de la generalite de limoges{リモージュ総徴税管区・教区貴族名鑑}
の著者Joseph Nadaudが1775年死去なので、その後の記載がないわけだが、この五男Gaspard-Simon{Simeon} BARTON de MONTBAS 1744-94がこの人で間違いない。{年金支給までには「大尉」になっていたのだろう。
但し、Leonard Alexandre Francois Barton de Montbas 1745-94という出生地不明の人物がパリのbarriere du Trone{1794年7月27日にギロチンが設置された}で49歳で処刑された、とある。この人物はJacques Barton
 de MontbasとMarie Henriette Merigot de Sainte Feyre 1724生 の息子で1768年にMarie Francoise de Fricon de Parsac 1747-1816と結婚して一女一男をもうけている。長女Marie Alexandrine 1774生 は1804年に
Jacques Leonard Descubes du Chatenetに嫁ぎ、一男をもうけている。長男Alexandre Leonard 生没年不詳 は1806年Virginie de Boysseuln 1788-1854と結婚し三男一女をもうけた。しかし別系図には Leonard
Alexandre Francois BARTON de MONTBASは1745-1803となっており、1768年にMarie-Francoise de FRICON de PARSACと結婚しているので同一なのだろうが、三男二女をもうけ、コンデ軍で93年戦死した長男
 Francois 1769-93等いるが重複しているらしき子らもいる。つまり資料内容が相違していて確定不能。
BARTON de MONTBAS家は La Marcheの古い貴族家系でChateau de Montbasで居住し、モンバス子爵位を有す。1259年にスコットランドから渡仏した12世紀〜13世紀のスコットランドのBARTONの子爵が由来。
1638年サン・トメール攻囲戦で負傷したリシュリュー枢機卿の第一連隊{リシュリューの護衛士隊か}の第一大尉にde BARTHON de MONTBASがいる。またMarquis de MONTBAS,Gabriel-Francois-Xavier BARTHON
は海軍大佐で1782年グラス伯爵がイギリスのロドニー提督と戦ったマルティニク近くの海戦、つまり82年4月12日のセインツの海戦{フランス側が敗北し艦長30名中6名が戦死}に"Duc de Bourgogne"号{80門砲艦}に
乗船参加し負傷したと記録がある。これはこの人の兄の「三男Gabriel-Francois-Xavier」{上記参照}のことだろう)

2625. ブション・ダルカン BECHON-DARQUIN, 47歳。パリ生。
(ダルカン伯爵ジャン・ピエール・ペション・ダルカン Comte d'Arquian,Jean-Pierre Bechon d'Arquian 1747-94 元近衛銃士隊中尉。Cosne-sur-Loire総督とも。
父親はシャルトル連隊大尉Comte d'Arquian, Pierre Francois de BECHON d'ARQUIAN 1768没。母親はMarie Anne Suzanne de MAZENS{もしくはMASIN}
兄弟姉妹の記載はない。ArquianはもともとはMasin家の領有地。婚資だろう。
 1771年Marquis de Myennesの娘Francoise Gabrielle Anne Henriette HINSELIN de MORACHES 1749-1836と結婚、一男二女をもうける。長男Pierre 1773生 は亡命中に死亡した者と推定されている。長女Madeleine
Henriette Antoinette Sophie 1774-1810は95年騎兵将校Jacques Hilaire de MALMAZET de SAINT ANDEOL 1829没 と結婚、一女三男をもうけている。次女Eulalie Suzanne Clotilde Victoire 1775-1855は96年Abraham
 Simon GUY{通称de LA VILLETTE}と結婚し一女をもうけている。
ニエーヴルのCosne-Cours-sur-LoireのChateau des Grangesは妻の父Marquis de Myennesから妻の所有となり、その後Malmazet de Saint Audeol家の所有になっているので、長女の嫁ぎ先が恐らく1837年迄は所有
したものと思われる)

2626. フィリップ・クレマン・ベルナール BERNARD (Philippe-Clement), 38歳。元聖職者。リュジニャンLusignan生。

2627. アンドレ・ジャン・ブリヨン BRILLON (Andre-Jean), 20歳。元貴族、法律家。パリ生。
(Andre-Jean BRILLON 1773-94 父親は名前が不詳で1740年頃の生まれ。母親は不詳。兄にAugustin-Philippe BRILLON 1769頃-1819がいる)

2628. アンドレ・ジョルジュ・ブリュマン・ボールガール BRUMANT-BEAUREGARD (Andre-Georges), 49歳。教会参事会員で司教総代理。ポワティエPoitiers生。
(アンドレ・ジョルジュ・ブリュモー・ド・ボールガール Andre-Georges BRUMAULD de BEAUREGARD 1745-94 リュソンLucon教区の司祭とも司教総代理ともある。
父親は裁判所評定官でポワトゥー地方長官総補佐官のJean-Charles BRUMAULD de BEAUREGARD 1707-70。母親はポワティエ商領事裁判所判事の娘Anne Renee, Francoise de La GARDE 1720-1802。
夭折も含めて十男三女の四男。兄のJean-Emmanuel 1743-1802はポワティエ{ポワトゥー?}地方長官総補佐官の職を継いでいる。弟Jean 1749-1841は13歳で教会参事会員となり、亡命したリュソン司教
Marie-Charles-Isidore de Mercyの司教総代理となり、自らもイギリスに亡命したりヴァンデで活動したりした。テルール後国外追放になったりした。革命後の1821年にオルレアン司教となる。また回想録を
残している。下記の「兄弟のジャン」はこの人か。{兄弟が四人にJeanが付いている} 弟Jean-Charles 1751-1806は、74年アングーモワ連隊中尉、79年竜騎兵大尉、後に同連隊大尉となり、92年スペイン、
93年イギリスに亡命し帰国している。M. des Gaschetsと呼ばれていた。妹Anne-Julie 1752-1827はブザンソンの高等法院国王評定官で秘書官Jean-Jacques Amable PARENT de CURZON 1751-92と79年に
結婚し、いずれも成人する三女二男をもうけている。弟Vincent 1754-1828はM. de Monfolonと呼ばれ、登記所管理官となる。末弟Thomas 1758-95はBeon騎兵連隊中尉だったが、95年8月3日にキブロン遠征
中に銃殺刑となった。{亡命軍の第二師団にLegion de BeonがありComte d'Anceauが指揮している。共和国軍に銃殺された捕虜748人の内、627人が亡命者、聖職者だったがその一人だろう}
この人は1762年リュソンの教会参事会員。サン・シュルピスで学びソルボンヌで博士となる。司教総代理に任命されると80年頃リュソンにLe Petit St Cyrを創設して貧しい子女への教育に注力。パンティエーヴル
公の庇護も得られ、この寄宿学校はポワトゥーやブルターニュで大評判になるも、革命により92年解散。聖職者に市民憲法への宣誓拒否の働き掛けをした為に逮捕。兄弟のジャンも亡命の罪で投獄されていた。
母親は体調が悪く亡命できずにいた。処刑の前夜、彼は母親に長い手紙を残した。「私に運命づけられた定めは、明らかに、この不幸な人生の試練に終止符を打つでしょう...私は、聖なる教会、カトリック、使徒、
そしてローマを信じ、神の教えのすべてを信じています」)

 Andre-Georges BRUMAULD de BEAUREGARD.................................................................................弟・Jean
末弟・Thomas  妹・Anne-Julieとその夫(義弟)・Jean-Jacques Amable PARENT de CURZON

2629. シャルル・マテュー・シャルパンティエ CHARPENTIER (Charles-Mathieu), 30歳。兵士。ラ・フェールLa Fere生。
(通称Cadet。第18歩兵大隊猟兵。1764-94 「Grands Militaires originaires du Vermandois」という資料に、Charles Matthieu CHARPENTIER dit CADET  1764年4月29日La Fere {Aisne}生まれで、父親は
パン職人親方Francois、母親はMarie Jeanne Cecile LACOUR、第17部隊{18ではない}猟兵、1794年7月27日パリにてギロチン刑、集団墓地Picpusに埋葬、とある)

2630. ジャン・クリュニー CLUNY (Jean), 41歳。帽子屋。タラスコンTarascon生。

2631. クロード・フィリベール・ココー COQUEAU (Claude-Philibert), 39歳。建築家。ディジョン生。
(クロード・フィリベール・コケオー Claude Philibert Coqueau 1755-94  建築家
革命前もオペラ座の現状について報告、Hotel-Dieuの移転・再建築の必要性の報告等、活発な意見書を発表、また反グルック派として論争に参加したりもしている。メルキュール・フランス等で様々な評論も
発表している。革命後、1792年8月31日、国有財産の鑑定人として内務省に入り、その後、公教育課の事務長、そして局長になる。 Masuyer議員{3月19日処刑⇒489}や市長だったPetion de Villeneuve{6月18日自殺}
の逃亡を助けたとして死刑宣告となる。
妻はMarie Genevieve Therese Lejeune。子がいた)

2632. フランソワ・デジレ・マテュー・クールテ・ブーロ COURTET-BOULOP (Francois-Desire-Mathieu), 31歳(51歳とも)。元貴族。ブザンソン生。
(フランソワ・デジレ・マテュー・クールレ・ボーロ Francois-Desire-Mathieu Courlet-Beaulop 通称ヴェルマンティVermanty 元Comte de Vernantoisともある。ディジョン{もしくはブザンソン}高等法院評定官の息子。
ピクピュス礼拝堂財団の記録にはFrancois-Desire-Mathurin Courlet Baulop de Vermanty 31歳とある)

2633. ルイ・セザール・モーリス・デュモンテリフ DUMONTERIF (Louis-Cesar-Maurice), 46歳。パリ生。
(ルイ・セザール・モーリス・ド・モンクリフ Louis Cesar Maurice de Montcrif 1747-94 アルトワ伯主席評定官。後者の息子。
父親は後者。母親はMarie-Suzanne de Vaucoret {Vaucourtとも}。三男ニ女{一名性別不明}の長男。
弟Antoine-Louisはサント・ジュヌヴィエーヴの教会参事会員。弟Louis-Francoisはインドのスラト領事館秘書官。姉Marguerite Marie 1746{48とも}生 は1801年{晩婚だが、他の資料にも1801年とある}Pierre
Ambroise LAFORESTと結婚。妹Genevieve-Marie 1752生 は84年Jean Guillaume Michel DUREAU de LA BUFFARDIERE 1744-1818と結婚している。
結婚の記録はない)

2634. ピエール・ルイ・デュモンクリフ DUMONTERIF (Pierre-Louis), 74歳。パリ生。
(ピエール・ルイ・セザール・ド・モンクリフ Pierre-Louis-Cesar {Pierre Antoineとも} de Montcrif 1720頃-94 国王評定官、アルトワ伯主席評定官。前者の父。
1744年国王評定官、会計院傍聴官。アルトワ伯主席評定官になる。
父親は会計官、シャトレ検事Pierre Francois Cesar de Montcrif 1745没。母親はMarguerite MAUCUIT 1766没。
二女三男がいた。姉Marie-Louise 1708-85は1755年Jacques Chevallierと結婚した。兄Pierre Charles 1700頃-71はオータン聖堂の神父で参事会員。兄Cesar Francois 1711頃-57はパリのブルジョワ。
妹Marguerite Louise de Moncrif 1771没 は33年国王評定官Francois de Romieuと結婚した。{但し父親には前妻との間に一男一女がいたが、夭折している}
妻は1745年結婚したMarie-Suzanne de Vaucoret {Vaucourtとも}。子供らは前者の兄弟姉妹の内容参照。
1744年、及び48年にはNotre Dame de Nazareth通りに、77年にはPortefoin通りのSt Nicolas-des champs教区に、90年Thorigny通りに居住していた。
モンクリフ家は1671年貴族の証明をしてる一族。文学者で詩人で宮廷で評判だった歴史編纂官Francois-Augustin Paradis de Moncrif 1687-1770は、母方の家系からスコットランド貴族の血を引いているとあるが、
実は彼の祖母Marguerite de Moncrif 1619生 がこの人の家系。この祖母の父親とこの人の四代前が兄弟である。16世紀モンクリフ家は近衛スコットランド衛兵隊としてフランス王室に仕えたが、1417年以前には
すでにフランスに定住しており、スコットランド中部のパースシャーPerthshireのモンクリフ家の分家が、渡仏し帰化した家柄。フランスでは当初Moncrif, Muncry, Montcrif, Moncry, Montcryと表記されているので、
語尾のfは無音にしてモンクリと発音するべきなのかも知れないが、一般的には上記の文学者は「モンクリフ」とされている。また革命裁判所の書記は多くの場合、記録を発音で適当に綴っているので、語尾のfは
発音されていた可能性はある)

2635. ルイ・二コラ・デュヴァル DUVAL (Louis-Nicolas), 28歳。金物商人。 セヌヴィルSenneville生。

2636. ピエール・ルイ・フォアシエ FOACIER (Pierre-Louis), 70歳。元貴族。ルーアン生。
(ピエール・ルイ・フォアシエ・ド・ブトヴィル Pierre Louis FOACIER de Betteville 1725-94 パルマ公総監察官、後に徴税請負人ともある。
父親はトスカーナ大公の徴税請負人Pierre de La Tonnerie FOACIER 1695-1774。母親はAnne Catherine Le CARPENTIER。
祖父もSaint-Germain-du-Saultの教会男爵領の徴税請負人をしている。
夭折を含め二女三男の長男。弟Pierre Louis FOACIER de Borneauxは士爵、スイス百人隊退役大尉で歩兵中佐。弟Henri FOACIER du MESNILは詳細不明。妹Marie Francoiseは、カーンの財務局弁護士
Charles HEBERT de La VACQUERIE 1727生 と結婚し一男をもうけている。
この人の結婚記録は系図にはない)

2637. ジャン・ジエ GILLET (Jean), 53歳。商人。ヴィルヌーブ・ダジャンVilleneuve-d'Agen生。

2638. トゥーサン・シャルル・ジラール GIRARD (Toussaint-Charles), 45歳。公証人。パリ生。

2639. エティエンヌ・二コラ・ゲラン GUERIN (Etienne-Nicolas), 58歳。元会計係。パリ生。
(ガラス工場の経理責任者)

2640. ジャン・ギヨー・ド・レジュー GUYOT de REJOUX (Jean), 57歳。元貴族。ネイエNeyers(⇒レイニェ・レ・ボワLeigne-les-Bois{Vienne})生。
(ジャン・ギヨー・ド・リジューJean Guyot de Rijoux 1738-94 ポワティエ教区の聖職者、教会参事会員。聖職者殉職者一覧にはJean Guiot du Rijou、1737年生まれとある。
父親は士爵リジュー領主ルネ・ギヨー 1785没。母親は1730年頃に結婚したMarie-Anne Preverault。兄がいた。兄Rene-Josephは騎兵大尉でアルトワ伯の近衛隊員。1785年10月11日にCatherine de La Bssiere
と結婚し{この日に以前に父親は亡くなっている}、一女一男をもうける。89年ポワトゥー選出の三部会貴族議員となった。
この人は聖職者となり、神学学位を取得、サント・マルト王立学校人文学の教授となり、テルールでポワティエにて逮捕され、処刑。
GuyotあるいはGuiot家は、多くの家系に見られるが、ポワトゥーの主たるものはGuyot d'Asnieres家を母体にする各分家である。15世紀すでにモンパンシェ伯夫人のもとでカレーの総督をしているGuyot d'Asnieres
がおり、ここからSalines系が4分家形成され、Chalonne系、Ville-Champagne系、Monserant系、Sweet系、Fanet系、Saint-Quentin et de Dognon系、La Gillardie系、La Mothe Villognon系、Lunesse et Molans系、
Montorsy系、Repaire系、Ervaud系、Lespars系、Mirande系、Champagnac系、Champblanc系、La Rochere系、Ferraudiere系、Viniere系、La Perelle et La Carte系、そしてこの人のRijoux系はこの人の祖父の代から
分家したものである)

2641. ジャン・クリストフ・ラルシェ・ラトーヴィアル LARCHER-LATOUVIALLE (Jean-Christophe), 75歳。元大尉。プロエルメルPloermel生。
(ラ・トーレイユ伯爵ジャン・クリゾストーム・ラルシェ Comte de La Touraille, Jean Chrysostome Larcher 1720-94 詩人、哲学者。コンデ連隊騎兵野戦総監、コンデ大公主席侍従官、サン・ルイ騎士。
父親は王軍少佐Isidore LARCHER du BOIS du LOUP 1679-1755。母親はDame du Bignon,Marie Anne GAILLARD de La NOUE 1679-1751。父親は次男だった。
ラルシェ家はブルターニュの旧家。1500年ルイ12世によって、その王室への貢献を認められ伯爵位を授かっている。この人はChateau du Bois de Loupにて誕生。双子だったが、兄Chrysostome-Reneは11歳で逝去。
31年迄は両親とChateau du Bois de Loupにて過ごす。その後は叔母Jeanne-Michelle LarcherがBois de Loupの領主権を受けたのに伴い、父親が1716年購入していたChateau de La Tourailleに住む。しかし32年には
レンヌの大学に入り38年迄はレンヌに。当地では "petit du Bois-de-Loup"と呼ばれていた。ラ・トーレイユに戻った頃、この人は親族Thomas Francois LE DOUARAIN ou LE DOUARINの居城Chateau de Lemoをよく訪
れていたが、そこで娘Jeanne Le Douarain 1717-42と出会い、39年に結婚となる。彼は19歳、妻は21歳の時だった。二男一女をもうけることになる。しかし妻は三人目{長女}の出産時に亡くなってしまう。
ロアン公の奨めでコンデ大公家に出仕する。51年母の死に際してラ・トーレイユに戻り、悲しみに暮れ、ロアン公に、宮廷での悦楽に身を浸し悲しみを忘却することなど母への忘恩であるとの手紙を書いている。54年の父
親の衰弱時にはその看護資金のためにChoyselの土地を売却している。父親が亡くなり伯位を継承。
七年戦争ではコンデ大公旗下で従軍。多くのブルターニュ貴族仲間を失う。ロスバッハの血生臭い戦いには参加していない。59年のミンデンの戦いで重傷を負い、他の緒戦でも負傷する。
1740年生まれの長男 Isidore-Francoisは海軍尉官だったが、58年9月21日、ブレスト港近くで、二隻のイギリスのフリゲート艦と戦ったコルベット艦「La Calypso」{56年建造の16門艦}で戦死。出産時に妻が亡くなった娘
Marie Francoise Emilieも入っていた寄宿学校サン・シールで56年14歳で早世。母も51年、父も55年と家族の死が続いた。
41年に生まれた次男Joseph-Jean-Chrysostomeはパリで大学に学び73年少佐に任官、85年サン・ルイ騎士となっていた。98年57歳で亡くなるまでに4度の結婚{最後は亡くなる7ヶ月前}しているが、結局、子はなかった。
59年、この人は再婚する。国王の軍事財務官の娘Marguerite-Louise Patiot 1740-92である。 Louis Joseph Antoine 1760-95とLouis Esprit Juvenal 1767-1814の二子をもうけた。兄の方は、ブルボン竜騎兵中尉だった
が、革命後も軍務に。しかしデュムーリエに従ってオーストリア側につき、最後はキブロン遠征に参加、銃殺される。弟は88年アンギャン歩兵連隊少尉だったが、結婚せず1829年没した。{系図には載っていない妹Marie-
Therese-Mathurine 1769生 も1806年独身のまま亡くなった}
1765年この人は資金不足からラ・トーレイユの地を称号等は保留として義兄弟のPierre-Noel-Gabriel Le Douarainに26000リーヴルで売却した。城館の修復を条件としたが、この地の売却を後々後悔したらしい。この人の
手紙は、生まれた教区と育った故郷での思いで一杯だった。
 PoutrellesとAuxonnesの町々の総督及びブルゴーニュ公領の総督となる。シャンティ城でヴォルテール、ディドロ 、ダランベール 、ルソーらと交友をもったが、ヴォルテールは過去にロスバッハでフランス軍に勝利したフリ
ードリヒ2世を賛美したこともあり、文学者として尊敬するにとどまり、その反宗教的な思想には共鳴しなかった。
89年7月17日、亡命第一陣のコンデ大公を国境まで送ったが、この人は高齢であり従わなかった。帰郷するとThionville近くのGuentrangeに隠棲。しかし再婚した妻との長男が亡命軍に参加していることもあり、父親として
逮捕。この人は常に故郷の地を宮廷よりも気に入っており、「洗礼を受けた地に眠ること」を最高の幸せとしていたが、願い叶わず、パリにて処刑され共同墓地に入れられてしまった。様々な著書も残っている)

 Comte de La Touraille, Jean Chrysostome Larcher

2642. ゴドフロワ・エリザベト・ラヴォワジアン LAVOISIEN (Godefroy-Elisabeth), 36歳。管理官。エウEu生。
(Godefroy Elisabeth Lavoisien 1758-94 所有地管理委員。
両親は不明。他の詳細も不明。
この日告発された25名の中でBLANCHARDの妻Therese-Charlotte de CORIOLISだけが無罪となり、他は処刑されている。この女性は1744年生まれで「94年以降に死去」とあるので、この記録以降の記録がないのだろう。
この女性の弟Edouard Laurent de CORIOLIS 1745生 は国王評定官であるし、もう一人の弟Jean Baptiste Elzear de CORIOLIS 1754生 はBaron de Limayeでルイ16世近衛大尉などしているので、貴族家系だろう。
どちらにしてもこの人とは無関係)

2643. ルイ・オーギュスタン・ルゲ LEGAY (Louis-Augustin), 31歳。大尉。モンルソンMontlucon生。
( ルイ・オーギュスタン・ルゲ・ド・モンルソン Louis Augustin LEGAY de MONTLUCON 1762頃-94 第23猟騎兵大尉。オーヴェルニュ・ローヌ・アルプスのモンルソン生まれ。両親は不詳。系図には93年、31歳前後
でギロチン刑とある。結婚記録等もなし)

2644. ルイ・フランソワ・ルジューヌ LEJEUNE (Louis-Francois), 41歳。巡視。エランクールElancourt(エザンクールHesancourtとも)生。

2645. ジャン・アントワーヌ・リュイリエ L'HUILLIER (Jean-Antoine), 45歳。法律家。ブリュイエールBruyere(⇒Bruyeres)生。
(ジャン・アントワーヌ・リュイリエ・ド・セヌヴィル Jean Antoine L'HUILLIER de SENEVAL 1749-94 高等法院弁護士、1777年コンデの利益総監督官、後にリュジニャン小郡の元行政官
父親はJean Antoine L'HUILLIER de SENEVAL 1716生。母親はMarie de La RUELLE。
1782年管区憲兵隊長の娘Reine Helene Therese du SAULGET 1750-1831と結婚した。子の記録はない)

2646. ギョーム・ロワゾン LOISON (Guillaume), 47歳。シャン・ゼリゼの劇場監督。パリ生。
(暖炉煙突製造人で人形劇を行ってもいた。2648は妻だろう)

2647. ピエール・マルシェ MARCHE (Pierre), 48歳。執行官。ショワズールChoiseuil生。
(オート・マルヌのショワズールの元監視委員会委員長)

2648. アンヌ・モーリス MAURICE (Anne), Loison妻。33歳。サン・サテュルナンSaint-Saturnin生。
(2646の妻だろう。無職とある)

2649. ルイ・メリー MERRY (Louis), 41歳。執行官。ポントーPontault(⇒Pontant)生。

2650. フランソワ・ジョゼフ・モンジェルショット MONGHELCHOTTE (Francois-Joseph), 34歳。室内装飾商。パリ生。
(MONGEL-CHOTTEとも)

2651. ジャン・プレーズ・ペルレ PERRET (Jean-Blaise), 26歳。パリ生。
(レモネード売り。ヴァンデの徴兵に対してジャコバン派は悪党だと批判した)

2652. ペルロネ・ブリッソン・ブッフェ PERRONET-BRISSON-BUFFE, 45歳。
(ペルロネ・ブリヨン・ブッフェ Perronnet Brillon-Buffe 元貴族。 Brissonも含めまったく該当なし)

2653. デュラン・ピエール・ピュイ・ヴェリーヌ PUY VERINE (Durand-Pierre), 69歳。パリ生。
(デュラン・ピエール・ピュイ・ド・ロズニー{ド・ヴェリーヌ} Durand-Pierre PUY de ROSNY {Puy de Verines} 1725-94 パリ会計法院評定官  妻は2623
父親は国王評定官で高等法院弁護士のPierre du PUY de ROSNY 1675生。母親は同じく国王評定官で高等法院弁護士の娘Marie Elisabeth Le NOIR 1689-1762。
2623のMarie-Marguerite BARCKHAUS 1739-94と結婚し、一男一女をもうけた。長男Jean Francois Pierre 1762-1825は1782年から92年までパリ会計院部長評定官で、1816年レジオンドヌール、帝国男爵位も
授かっている。結婚し一女をもうけ、孫は20世紀に至る。長女Alexandrine Marguerite Gabrielle 1802没 は1785年歩兵中佐でスイス百人隊大尉のAlexandre Jean Baptiste de CULLON d'ARCYと結婚し、二女を
もうけ、長女AlexandrineはMarquis de Pleurreに嫁ぎ、次女Aglae-Pierrette-AdelaideはCharles Henri de DEVEZEAU de RANCOGNEに嫁いでいる。
この人は3年間盲目で聴覚障碍者だったが、フーキエ・タンヴィルの告訴を免れなかった。元貴族で君主制に執着し、亡命者の息子との通信を行っていたと。Rosiers通りのHotel de Coulangesを所有しており、
そこはrue des Francs-Bourgeoisの建物の方で、セヴィニエ夫人が生まれて1637年迄住んでいた建物はヴォージュ広場{旧ロワイヤル広場}のHotelde Coulanges。こちらのHotel de Coulangesはセヴィニエ夫人
が結婚するまで数年間住んでいた建物だが、18世紀に改装している。1748年来ここの所有者だった高等法院院長Andre Charles Louis Chabenatから1775年に購入。二つの庭園の間に分離壁を建てた。この人
がここの最後の所有者であり、建物は19世紀にかなり痛むことになった)

2654. フランソワ・二コラ・ルイ・ルーヴィエール ROUVIERES (Francois-Nicolas-Louis), 通称デュボワ・バルボー Dubois-Barbeau。60歳。セーSees生。
(フランソワ・二コラ・ルイ・ルーヴィエール・ド・デュボワ・バルボー Francois Nicolas Louis Rouviere de Bois Barbeau 1734-94 国王秘書官
ロワレのフレヴィルFrevilleの元貴族。Barbeau家によって領有されていた農場もしくは森がDubois-Barbeauであったと思われる。 Boisbardot、Bois-Barbault、Boisbardaud等の表記あり。他にBois-Gautier,Grimonval
の領主でもあった。この家柄では本家のようだ。
父親は二コラ・ルーヴィエールで母親は1731年に結婚したフランソワーズ・ロジェ Francoise Roger。
Seezの総督。パリでMarie Victoire Hallez de La Senaudiereと結婚し、1771年生まれの子Francois Nicolas Edmeがいた。
ちなみにこのLa Senaudiereは1944年6月ノルマンディーに上陸した連合軍とドイツ軍との間でChurchill"Crocodiles"とPanzerの戦車戦のあったカーンの西の村)

2655. サン・ティレール SAINT-HILAIRE, 45歳。
(ジェレミー・サン・ティレール Jeremie Saint-Hilaire 無職であるが、自分は貴族身分であることを自慢しており、捕らわれた)

2656. ガブリエル・フランソワ・サール SALLE (Gabriel-Francois), 35歳。元市長。ムーランMoulins生。
(ガブリエル・フランソワ・サーレ Gabriel-Francois Salle 元貴族で元市長にして自治体役人)

2657. フェリクス・アドリアン・セガン SEGUIN (Felix-Adrien), 35歳。化学者。シャルトル生。
(アドリアン・フェリクス・セガン Adrien Felix Seguin 1759-94 化学者。オルレアン公の息子モンパンシェ公アントワーヌ・フィリップ 1775年-1807の元秘書官。
父親はシャルトルの公証人でオルレアン公の総財務官Hector Hiacinthe Seguin 1731-89。母親は商人の娘Marie Anne Madeleine Chancerel。
兄弟は二人おり、生没年不詳のCharles-Hectorと有名な科学者・経済学者・実業家となる弟Armand Jean Francois 1767-1835がいた。
この人の結婚記録等はどの系図にもない。またWiKi{弟のArmand Jean Francoisの兄弟として記載}など1793年没としている。
弟Armand Jean Francoisはラヴォワジェの研究の協力者だったが、ラヴォワジェの処刑に反対するでもなく、またそれを批判することすらしなかった。95年には国民公会の依頼で軍靴の革の厚い革
を作製する工程を提供して財産を築いた。資金調達で横領罪に問われ、ナポレオン治世に投獄される。復古期にまた実業家として復活するが、工場は破綻し、偏執的になった彼の虐待に耐えかねて
妻は在英の娘のもとへ逃亡した。また全ての社交も断ち切った。最期はホテルの屋根裏部屋で孤独のまま没する。95年Marie Emilie Felicite Raffard de Marcilly 1773-1862と結婚し、一女一男がいた。
画家Armand Seguin 1869-1903は孫)

弟・Armand Jean Francois Seguin  

2658. ジャック・セール・ド・サン・ロマン SERRE DE SAINT-ROMANS (Jacques), 50歳。パリ生。
(サン・ロマン伯爵ジャック・ド・セール・ド・サン・ロマン Comte de Saint-Roman,Jacques de Serre de Saint-Roman 1745-94 パリ高等法院大審部評定官
父親はパリ会計院評定会計官Comte de Frejeville,Baron de Saint-Roman,Etienne de Serre de Saint-Roman 1698-1781。母親はSuzanne Lenoir de Cindre。{Jeanne Suzanne Le Noir du Breuil
 1719頃-1804とも}五男六女の長男。
弟Etienneは1747年生まれで、小厩舎小姓から王妃連隊騎兵士官となり、妹Anne Sophie 1750-82以前 は68年Marquis de Buzancy,Jacques Mathieu Augeard 1739-1805と結婚、一女をもうけた。
弟Jacques Henri 1752生 は士爵でロワイヤル・クラヴァット連隊の騎兵大尉、弟Jacques Philippeは1755年生まれで、パンティエーヴル竜騎兵連隊大尉で1777年にBaron de Saillansとなっているが、
系図によっては94年7月26日にパリで処刑ともあるものの、1811年スイスでMadeleine de Glutz-Ruchti 1786-1858と結婚し一男をもうけている。弟Pierre 1757-85は小厩舎小姓からノアイユ竜騎兵
大尉となるも27歳で早世、弟Francois Marie 1759-1835はBaron de Combretで、やはりパンティエーヴル竜騎兵大尉。妹Anne Jeanne Sophie 1762-1844は93年以降にEtienne-Denis Pasquier{1819
年外務大臣、44年Duc de Pasquier。テルミドールで解放された。しかし父親Etienne Pasquierは処刑されている。⇒672} 1767-1862と結婚している。
この人は1767年Baron de Neuvilleの娘Helene-Francais de Murard 生没年不詳 との結婚でCharles Etienne Jacques 1768-71やAlexandre Jacques de SERRE de SAINT-ROMAN 1770-1843{92年亡命し
コンデ軍に加わり、Pair de France 1815-30となる}、 Charlotte Sophie 1771生 をもうけている。唯一成人した子はAlexandre{Alexisとも} Jacquesだけである。
系図がこの人の子と兄弟姉妹を混同しているものもある)

 Portrait de Jacques de Serre de Saint Roman (1745-94)とあるGravure画1840年だが、明らかに違うと思える。.................息子・Alexandre Jacques 
 妹・Anne Sophie de Serre de Saint-Roman 義弟・Etienne-Denis Pasquier

2659. フランソワ・ソメッソン SOMMESSON (Francois), 51歳。室内装飾業。パリ生。
(国王の伯母のお抱え室内装飾業者で従者。パリ生まれのAmbroise Francois SOMMESSON 1773生 は室内装飾業tapissierであるFrancois SOMMESSONの息子、とある。母親はHelene Louise RUELLEと。
系図で照合していくと、パリ生まれの第9砲兵連隊中尉のAmbroise Francois SOMMESSON 1773生 が94年11月17日Marie Anne Francoise O'DWYER 1775生 とBoulogne-sur-Merにて結婚し、父親はFrancois
SOMMESSON、母親はVincente Helene Louise RUELLEという系図がある。また別系図ではこのAmbroise Francoisは第9砲兵連隊中尉から最終的には大佐となったとあり、生没年は1773-1833とある。妻の
Marie Anne Francoise O'DWYERの生没年は1775-1842と。これ以上の情報はないが、父親の業種から、このアンブロワーズ・フランソワの父親である可能性は高い。94年に51歳であれば43年頃の生まれとなり
アンブロワーズ・フランソワが生まれた1773年には30歳である)

2660. フィリベルト・テュラン TURIN (Philiberte), ダンリエDanlier(ドーリエDAULEIRとも)未亡人。無職。60歳。ヴェーズVeze生。
( フィリベルト・ド・テュラン Philiberte de THURIN 1734-94 姉がAveze{Sarthe}生まれなので同じと推定。
父親はMarquis de Ceton, Cyprien Philibert de TURIN 1695生。母親はMarie Charlotte de BONVOUST 1679から1704の間-1759。父親は1772年にHenriette Francoise de Bastardと再婚している。
姉と生年不詳の兄か弟がいた。姉Marie Henriette Philiberte 1724頃生 は1752年Pouvray領主Pierre Francois Alexandre de TASCHER 1715-67と結婚。皆成人し結婚している二男一女をもうけている。
生年不詳の兄か弟はCeton領主Charles Francois Philibert de TURINで、竜騎兵大尉になっている。59年Marie-Therese Baillyと結婚しており、姉の次男Alexandre Philibert Louis de TASCHER 1762-1825の洗礼に
際して名付け親になっている。93年1月17日にヴェルサイユで没している。
もう一人、姉がいるという系図もある。それはMarie Philberte 1727-81で1756年パリでCharles du TREMBLAYと結婚後、71年Nicolas Gabriel DUFOUR 1735頃生 とMontargisで再婚しているが子の記録なし。
{この姉妹はTurin家の系図には明記されているが、生没年はなく、TREMBLAYと結婚したことのみ記載されている}
この人は1767年騎銃兵大尉Jean-Philbert OLIER de TOUQUIN 1718生 と結婚し、二男をもうけた。長男Philippe OLIER de LA GORGE 1755-1800以降 は、Baron de La Gorgeとなるが、89年にはLa Gorgeで
材木商となっている。結婚し四女一男をもうけている。次男Claudeはボルドーの司教総代理Grand Vicaireとなっているが、94年1月14日亡くなっている。312のClaude HOLLIERは94年1月16日に39歳で処刑
されている助任司祭Vicaireだが、この人は55年生まれとあり、年齢は合う。兄のPhilippeと同年ではあるが、この次男のことかも知れない。312の履歴はブザンソン教区の神父となり、84年以来ボルドー大司教の
秘書で、憲法宣誓のボルドー司教の元でVicaire Episcopalだった。処刑日は1月15日とも16日ともある。錯誤が多い記録簿であり少しの差異は多く見られる。
TurinもしくはThurin家はリヨネの家系。1475年財務官として名を残し、パリやブルターニュの高等法院法官、訴願審査官、国務評定官となった司法貴族)

2661. ジャン・ギョーム・ヴァロ VALLOT (Jean-Guillaume), 51歳。天文学者。アッペンハイムAppenheim(⇒オッペンハイムOppenheim)生。
(ヨハン・ウィルヘルム・ヴァロット Johann Wilhelm Wallot 1743-94 ドイツ・フランスの天文学者
オッペンハイムで誕生。元々は、ルイ14世の貴族に列せられた主治医アントワーヌ・ヴァロに始まるフランスのユグノー家系。フォンテヌブロー勅令{1685年}でユグノー教徒は多く他国に亡命したが、この一族の一部
もドイツのオッペンハイムに移住した。一族は建築家や物理学者を輩出していく。
1768年、この人はニューファンドランド島とサリー島への航海でジャン・ドミニク・カッシーニと一緒に航海時計の試験を実施。 1770年、カッシーニはこの人を「科学をフランスにもたらし、天文学への献身が
私に旅に出る決意をさせた活気のある独創的な若いドイツ人」と語っている。
1773年、この人はパリの権威ある数学者および天文学者として、 ファルツ選帝侯科学アカデミーの一員になる。 1772年からは、 王室科学アカデミーの会員になる。
彼はリュクサンブール宮殿に住んでいたメルシー・ダルジャントー伯爵の私設展望台のオブザーバーの地位を与えられた。
1782年11月12日、彼は水星の通過を観察し、ハーシェルと同様に、彼は水星の直径を9インチと決定した。
個人的な情報は不詳)

2662. ルネ・ヴォークラン・ヴリニー VAUQUELIN-VRIGNY (Rene), 72歳。議員。ヴリニーVrigny生。
(ヴリニー侯爵ルネ・ヴォークラン・ド・ヴリニー Marquis de Vrigny,Rene Vauquelin de Vrigny 1722-94 騎兵大尉、三部会選出貴族議員
父親はMarquis de Vrigny,Jean-Jacques VAUQUELIN 1687頃-1760。母親はBaron de Montchauvetの娘Louise Anne d'AMPHERNET。{Anne-Louise d'Amphernet de Pontbellanger 1695-1760} この母親は
父Baron de Montchauvetの女相続人で、結婚後の1719年10月14日、アンフェルネ家が1290年以来所有していたモンショーヴェの男爵領を売却した。これに対して叔父Baron de Pontbellanger,Rene d'Amphernet
1658-1736が抗議し売買の無効で訴訟に。この訴訟は夫婦の孫、つまりこの人の下記の息子Antoine Reneが相続人なしで1828年亡くなるまで続いたそう。
姉Francoise Charlotte Louise 1716-95がいた。姉は55年Louis Charles de GLAPION 1706-64{60とも}と結婚し、二男をもうけている。長男Louis-Charles de Glapion 1756-1817は子孫なく死去し、下記の肖像画を
含める資産を生存中の従弟であるAntoine Rene VAUQUELIN{下記}に譲渡した。
この人は1761年Antoinette-Helene de VERDUCと結婚し、Marquis de Vrigny,Antoine Rene VAUQUELIN 1762-1828をもうけた。{後継者なし}
特権廃止を拒否し辞任。1793年10月逮捕されている。
軍人で詩人として名高いJean Vauquelin de La Fresnaye 1536-1608はこの人の五代前。歴代名前はJeanかJacquesかJean-Jacquesを交互につけている家系。この人から変わっている。
掲載の画{左}は1749年Lesseline作と記銘があり、従来から母であるLouise Anne d'AMPHERNETがモデルとされていたが、彼女の埋葬記録がサン・ジャン教会で発見されて、1695年〜1760年2月という生存期間が判明、
作製年にモデルが55歳となってしまうわけで、定説が覆り、娘Francoise Charlotte Louiseの肖像であることが判明したもの)

 姉・Francoise Charlotte Louise   
"Portrait de Jean Vauquelin, Seigneur de La Fresnaye"は服飾的に祖父のJean Vauquelinの肖像だろう。
母方大叔父・Baron de Pontbellanger,Rene d'Amphernet

2663. ジャック・ヴァトラン WATRIN (Jacques), 65歳。治安判事。サン・ピエール・ド・ヴィリエSaint-Pierre-de-Villiers生。
(VATRINとも。治安判事、元宿主maitre de pension。1792年6月20日の事件の後、暴君にフォーブール・サン・アントワーヌの住所を売り渡した共謀者とある)

1794年7月28日

2664. ジャック・クロード・ベルナール BERNARD (Jacques-Claude), 34歳。
(Jacques-Claude Bernard 1760-94 パリ市役所の事務長。既婚の元聖職者。パリ生まれ。元は聖職者でSte Margueriteの助任司祭だった。2758や2766と共にモントルイユ地区{名称変更なし}の代表委員。
エベール派。93年1月21日国王を処刑台にJacques Rouxと共に導いた委員の一人。テルミドールの反動中にはロベスピエール方に味方したため処刑。
父親は建具師親方Pierre BERNARD 1730-88。母親は園丁の娘でパリSainte Marguerite教区生まれのMichelle MAUGER 1734-88。
弟 Pierre Louis Anne 1770頃-89以降 は建具師を継いだ。
93年Francoise Cesarine DENONCOURT 1767生 と結婚し、一女Julie 1794頃-1862をもうけたばかりだった)

2665. シャルル・ジョゼフ・マテュラン・ブーゴン BOUGON (Charles-Joseph-Marthurin), 57歳。トゥールヴィルTourville生。
(シャルル・ジョゼフ・マテューCharles-Joseph-Mathieuとも。元収納紙事務所の所員でモン・ブラン地区の代表委員。20人の子持ちとある。2673、そして恐らく2696と共に同地区代表委員をしていた。
Mont-Blanc地区は最初はLa Grange-Bateliere地区、92年8月にMirabeau地区、93年12月にMont-Blanc地区に名称変更した地区)

2666. クリストフ・コシュフェル COCHEFER (Christophe), 室内装飾業。ゴネスGonesse生。
(Christophe Cochefer 1734-94 2750と共にLa Reunion地区評議会代表委員。元はBeaubourg地区という名称だったが92年9月に改称。2,996人の労働者と1,220人の経済的弱者を含む16,320人の住民がいた地区)

2667. ジョルジュ・クートン COUTHON (Georges), 38歳。オルセOrcet生。
(ジョルジュ・オーギュスト・クートン Georges Auguste Couthon 1755-94 政治家・弁護士、ジャコバン派指導者
父親は王室書記官、役人、1772年にオルセ裁判所判事となったJoseph Couthon 1721-87。母親はMarie Lafond 1721-91。
夭折含め四男四女の次男。兄Pierre 1752-1818は書記官となり、弟Jacques 1760-79は19歳で早世した。妹Gilberte 1757-92は86年Gilbert COISSARTと結婚している。
84年に裁判所が調査した時、父親には多くの借金があり、とりわけ宿主への500リーヴル等の飲み代の借財が目立っていた。父親死後、クートン家は絶望的に財政が困窮しており、子らは苦労した。
1787年郷里のOrcetでMarie Brunel 1774-1843と結婚。長男 Antoine Francois Xavier 1787-1867 をもうけた。この息子はナポレオン軍で軍曹となり、ミラノの副領事{1854-1859}となった。次男Jean-Pierre
Francois Hyppoliteは90年に生まれ、4〜5歳で亡くなった。妻はテルミドールでSijasの妻とChalabreの妻共々逮捕された。この人にはSuzanne Revange de Villard 1753-1814{ルイ16世のスコットランド近衛
隊士Jean-Francois Marie de Mignot-Torrentと94年9月7日離婚}とBernard某{テルミドールで逮捕}という愛人がいた。後者は未知の女性であるが、前者はこの人がオーヴェルニュへの任務の時に知り合
った大変に美しい女性だったという。
1785年にクレルモン・フェランで弁護士資格を取得。下肢の麻痺で車椅子生活だったが、病院や慈善事業のための弁護や無料の法律相談等、精力的に行っていた。87年オーヴェルニュ地方議会
に入る。革命当初は自身を立憲君主制主義者と述べている。91年立法議会議員に選出。ヴァレンヌ事件後、王室に批判的になり、92年国民公会議員に選出されると、国王死刑を支持、ロベスピエールや
サン・ジュストと親しみジャコバン派に属した。「ロベスピエールの第二の魂」とも言われるほどに彼に心酔。93年公安委員となり、反革命的活動をするリヨンに派遣された時は、国民公会がリヨンの破壊を
命ずるも従わず、指導者らを罰するだけに留めた。{フーシェやコロー・デルボワが後任としてリヨンを破壊} 93年暮れには公会議長に任ぜられ、パリに帰還。エベール派やダントンを失脚させる。そして
プレリアール22日法{恐怖政治法}の制定に寄与、逮捕・処刑がより簡便に、より大量に行われる時代を作り上げた。テルミドールの反動を予測して南仏行きをやめてパリに留まり、ロベスピエール一派とし
て断罪される。市役所に逃げ込むも襲撃され、自殺を図り階段を転落したところを逮捕された)

 Georges Auguste Couthon

2668. ジャン・バティスト・マテュー・ダザール DHAZARD (Jean-Baptiste-Mathieu), 36歳。鬘師。パリ生。
(1758-94  旧体制下では鬘師をしていた。ガルド・フランセーズ地区{92年section de l'Oratoireが改名された地区。労働者1,680人、経済弱者305人を含む12,850人の住民}からパリ市会総評議会委員に選出され
ていた。2711、2711次の番外なども同地区からの選出委員)

2669. ルネ・フランソワ・デュマ DUMAS (Rene-Francois), 37歳。ジュセイJussey生。
(1753-94 革命裁判所長。
父親は騎馬警邏隊士官でジュラの警邏隊大尉Jean Baptiste DUMAS 1729生。母親はJeanne Marguerite FLEURAND 1731生。
弟Jean Francois DUMAS 1756-95は弁護士で、93年の数ヶ月間ジュラの管理者をしていた。兄の過激な活動には反対しており、公会の措置に対してもその実行を拒み、逃亡するに至る。帰国許可後も故郷 Lons-le-
Saulnierに戻ろうとはせず引退先のTrevouxで失意の中、脳卒中で38歳で亡くなっている。1785年Fougerolles{Haute-Saone}にてAnne Francoise ROBLIN 1765生 と結婚している。{尚この人の生年に諸説あり、Jean
Francoisを兄とするものもある}
この人はその残酷な性質とは裏腹にしっかりした教育を受けていた。もともと聖職者の道へ進み、神学校、次いでベネディクト会で教育されたが、途中で誓約を破る。90年 Lons-le-Saunierの市会に入り、91年市長。
 " Society of the Friends of the Constitution "{憲法友の会}に入り、頭角を現す。93年9月には革命裁判所副所長となり、ローラン夫人や王妃やデュバリー夫人の裁判に関与。94年4月ダントンやデムーランの処刑
の三日後にMartial Joseph Armand Hermanに代わり革命裁判所長に任命される。フーキエ・タンヴィルを検察官として、ディロン将軍、ゴベル大司教、エベール夫人、リュシー・デムーラン、王妹エリザベトを裁く。
毎朝ロベスピエールと面談し、国民公会の決定ではなく、彼自身の決定に従い、牢獄を空にするための処刑を続けた。コンピエーニュの修道女らの処刑なども有名である。この人の態度と皮肉さと残酷さは評判となる。
最後はモナコ公妃の処刑が有名である。テルミドール事件ではロベスピエール擁護発言をし翌日、一般の家で逮捕、そして処刑された。サン・ジュストは処刑時、順番がくると、この人にキスをし、ロベスピエールにさような
らと言葉を掛けて断頭台に上ったという)

 Rene-Francois Dumas

2670. ジャン・エティエンヌ・フォレスティエ FORESTIER (Jean-Etienne), 47歳。溶接工。パリ生。
(Jean-Etienne Forestier 1747-94 2695、2733と共にl'Homme-Arme地区{Enfants-Rouges地区が92年9月Marais地区となり、93年6月l'Homme-Arme地区に改名された}の代表委員。
2711次の番外Jean-Antoine Forestier 1755-94との混同に注意。鋳物工で似ているが、ガルド・フランセーズ地区代表委員で7月29日処刑である)

2671. アントワーヌ・ジャンシー GENCY (Antoine), 23歳。樽屋。ランスReims生。
(Antoine Gency 1761-94 パリ市会委員。2738と共にFinistere地区{Gobelins地区が92年8月に改称したもの}の代表委員。地区WiKiでは94年7月29日の処刑になっている)

2672. アドリアン・二コラ・ゴボー GOBEAU (Adrien-Nicolas), 26歳。ヴァンセンヌVincennes生。
(1768-94 元フーキエ・タンヴィルの代理人でもあった。この日、最初に処刑されている。2705やGodefroyとLa Croix-Rouge地区{section de la Croix-Rougeはその後、93年10月
Bonnet-de-la-Liberte地区となり、94年5月l'Ouest地区となる}の代表委員をした)

2673. 二コラ・ゲラン GUERIN (Nicolas), 52歳。パリ市収入役。ボーモンBeaumont⇒Beaumont-sur-Orne (Calvados)生。
(Nicolas Guerin 1742-94 総評議会委員でもあった。 恐らく2696、そして2665とMont-Blanc地区{最初はLa Grange-Bateliere地区、92年8月にMirabeau地区、93年12月にMont-Blanc地区に名称変更}の代表委員)

2674. フランソワ・アンリオ HANRIOT (Francois), 35歳。ナンテールNanterre生。
(Francois HANRIOT 1759-94 国民衛兵隊司令官
父親はブルジョワの召使Edme HANRIOT 1715-87。母親はMarguerite DAVOINE 1799没。
CharlesとPierreの詳細不明の兄弟がいた。姉Marie-Cecile 1753生 はQuinze-Vingts通りの小市場で旋盤工の親方をしていたCharles LASSUSと結婚しているが93年離婚している。
貧しい家庭だったが、地元で仕事にありつくが不誠実を理由に解雇されパリに出た。89年税関事務員の仕事に就いたが、7月12日の民衆による焼き討ち事件で関与を疑われ投獄。
しかし続く大革命勃発で「旧体制の犠牲者」として釈放されたが、また貧しいままの生活に戻るが、不穏な情勢下サン・キュロットの地区の扇動家として台頭していく。
片手に法案、片手に拳銃、という強引なやり口で、貴族への課税要求などしつつ、92年の9月虐殺での活躍により地区の代表に採用され、国民衛兵としての指揮者への道を開く。
ジロンド派排撃に際してもサン・キュロット中心とした兵力で議会を武力制圧し、正式に国民衛兵司令の地位に就いた。サン・キュロットの武装民兵を導入したその武力は奏功するが、
彼自身はよく飲んだくれて指揮をとっており、まさしくサン・キュロットそのものの姿であった。
ロベスピエールに心酔しており、「ロベスピエールの第二の魂」と言われたクートン{2667}に対して彼は「ロベスピエールの地に落ちた魂」と揶揄された。
ロベスピエール、サン・ジュストらが排撃されて捕らわれると、彼は兵力をもって救出しようと試み、逮捕されてしまう。パリ市会はロベスピエールの支配下にあったが、国民公会はすで
にロベスピエールらを逮捕し市庁舎に身柄を拘束してあるという複雑な緊張状態。しかし市庁舎はロベスピエールの「家」も同然。市会の要請か、連行した各監獄もロベスピエールらの
収監を拒否しており、実質的にロベスピエールらは自由を取り戻したようなものだった。
しかも武装民兵らが集結して、公会の憲兵らに不穏な動きを示している。だが、深夜に時が及ぶと、自然と包囲は解かれてしまう。そこをバラスの一隊がそこを襲い、ロベスピエールたち
改めて捕らえた。この時、この人はすでにまた酔っぱらって「サ・イラ」を歌って泥酔していた。そこで同志のコフィナルに「あなたの馬鹿さ加減とその臆病は我々の信頼を失った」と言われ、
窓から突き落とされたと言われている。翌日、意識のないまま中庭で発見され捕縛、同日に処刑された)

 Francois Hanriot

2675. ドニ・エティエンヌ・ローラン LAURENT (Denis-Etienne), 32歳。パリ生。
(1761-94 2683の「靴屋のシモン」や2685とマラ地区{最初はTheatre-Francais地区、92年8月Marseille地区、93年8月Marseille et Marat地区、94年1月にマラ地区に改称。95年1月にTheatre-
Francais地区に戻った}の代表委員をしていた)

2676. ルイ・ジャン・バティスト・トマ・ラヴァレット LAVALETTE (Louis-Jean-Baptiste-Thomas), 40歳。パリ生。
(ラ・ヴァレット伯爵ルイ・ジャン・バティスト・ド・トマ・ド・ラ・ヴァレット Comte de La Valette,Louis Jean Baptiste de THOMAS de La VALETTE 1753-1794
1249は93年ギロチンともあるが94年6月6日処刑された弟。
父親は海軍大佐で61年ブルゴーニュ地方中将となったJoseph Francois de THOMAS de La VALETTE 1729-65。母親はDame de La Couarde, Marie d'ALENCE。
一女三男の次男。姉Marie Louise 1748生 は家族と共に亡命している。兄Francois Louis Clair 1750-1836 は1774年Anne Louise de GALLEAN 1752生 と結婚し四男二女をもうけている。
この兄も1789年亡命している。Marquis de La Valetteとなっている。弟Francois Joseph ElisabethはVicomte de La Valetteだったが1249で、すでに処刑されている。{この弟の処刑時、
兄のこの人はアンリオの元で国民衛兵隊の幹部だったわけである}
1769年Garde de la marine、1772年6月1日、王室外人騎兵連隊と呼ばれた第7胸甲騎兵連隊の中尉。1774年に軍隊でのキャリアを放棄し、1778年11月12日にHenriette Elisabeth von Thurn
 und Taxisと結婚し、一男二女をもうける。革命後はナンシーの最初の国民衛兵指揮官となり、90年パリ定住、92年フランス衛兵隊から派生したオラトワール大隊の中佐となり、デュムーリエ旗下
でアルゴンヌ作戦従軍。その後ブリュッセルの臨時司令官、カンプレーの臨時指揮官、93年4月にはリール総督となり、ブレスト海岸の陸軍准将ともなる。問題があり起訴されそうになるがロベス
ピエールにより救われる。復職後もドイツ亡命者と結婚していること等を非難され、再び逮捕されたが、これもまたロベスピエールにより釈放され、アンリオの元で国民衛兵大隊の指揮官となる。
94年5月には国民衛兵第17師団にいたので、弟の処刑時には国民衛兵隊の高官だったことになる。しかしそれが災いし、7月のテルミドールでは「ロベスピエールの手先」としてアンリオ共々逮捕、
28日に処刑される。
尚、子供たちは長女・長男は夭折か早世している。90年生まれの次女Zoe Thereseは「未婚」とあるので成人はしているものと思われる)

2677. ジャン・バティスト・エドモン・レスコ・フルーリオ LESCOT-FLEURIOT (Jean-Baptiste-Edmond), 43歳。芸術家。ブリュッセル生。
(Jean-Baptiste Edmond Fleuriot-LescotもしくはLescot-Fleuriot 1761-94 建築家、彫刻家、革命政治家。暫定パリ市長1794年5/10〜7/27。国民公会のホールにあったLe Peletier{国王処刑を支
持した革命政治家Lepeletier de Saint-Fargeau侯。93年王党派により暗殺}の彫刻の作者。
系図には両親の名はなく、里親としてフーキエ・タンヴィルの名がある。結婚記録もなし。
89年のヨーゼフ2世による中央集権化政策に反対する活動La revolution brabanconneに参加。渡仏後はパリの建築家となっていた。その後、ロベスピエールと関係を深めて公共事業の委員となる。
ジャコバン・クラブに出入りし、シャン・ド・マルスの銃撃事件や8月10日事件等で過激なサン・キュロットとして活動を過激化していく。93年3月にはフーキエ・タンヴィルの代理にもなった。また94年5月
からテルミドール反動までパリ市長となっていた。テルミドールの日は、ロベスピエールらが捕らわれたことに際し、アンリオやペイヤンと共に「真の友を解放せよ」とうったえて抵抗。バラスの補佐官
Leonard Bourdonの憲兵隊に捕らえられ命運尽きる)

 Jean-Baptiste Fleuriot-Lescot

2678. クロード・フランソワ・ペイヤン PAYAN (Claude-Francois), 27歳。ポール・ル・フォンテーヌPaul-les-Fontaines⇒Saint-Paul-Trois-Chateaux (Dauphine)生。
(クロード・フランソワ・ド・ペイヤン Claude-Francois de Payan {Claude Francois de Payan du Moulinとも} 1766-94 革命政治家
ドーフィネの由緒ある家系の出身で軍の高官、判事などを輩出していた家柄。父親は弁護士・グリニャン伯領の総執行官Francois de Payan 1720-94。母親はMarthe Isoard{d'Isoardとも} 1822没。
父親は94年9月14日にAuxerre {Bourgogne}で74歳で亡くなっている。叔母Therese-Gabrielle de Payan 1726-72は{恐らく地元の}警視総監Paul d'Audiffret 1708-56に嫁いでおり、その子は郷里Saint-Paul-
Trois-Chateauxのバイイ裁判所判事補をしている。
この人は夭折含め一女七男の六男。姉Jeanne-Francoise 1757-1842は上記従兄弟の判事補Joseph-Paul-Francois d'Audiffret 1746-1817と結婚し五人の子をもうけている。長兄は夭折で次男Joseph-
Francois 1759-1852は弁護士だが、やはり革命政治家となり、テルミドールでスイスに逃亡し、1809年結婚している。双子の兄Charles-Joseph 1766-1832はグリニャンの司祭になっている。弟Esprit-Francois
 1772-1818は詳細不明だが、96年結婚し一男をもうけている。
この人は90年砲兵将校を辞任、教師で政治家Marc Antoine Jullienを介してロベスピエールに会い、その崇拝者となった。そして信頼され公安委員会の事務局に入る。評価され、委員会から資金提供されていた
新聞「L'Antifederaliste」の主筆となる。93年には革命裁判所の陪審員となった。94年パリ・コミューンの国家代理官となり、反宗教を熱烈支持し最高存在の確立に尽力した。
テルミドールでは前者レスコ・フルーリオの元で主席助役としてロベスピエール救出に動き、パリの地区評議会を味方にしようと活動するも、この人の傲慢さと厳格さにその効果はわずかな地区に及んだだけだっ
た。結局、当日の午前2時に逮捕、処刑となった)

 Claude-Francois de Payan

2679. ジャン・マリー・クネ QUENET (Jean-Marie), 材木商。リヨンCommune affranchie生。
(材木商。パリ総評議会委員。警察管理官。2728や2754と共にLa Maison-Commune地区{92年8月L'Hotel de Ville地区より改名}の代表委員)

2680. オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール ROBESPIERRE (Augustin-Bon-Joseph), アラス生。
(オーギュスタン・ボン・ジョゼフ・ド・ロベスピエール Augustin Bon Joseph de Robespierre、1763-94年 革命政治家。マクシミリアン・ド・ロベスピエール{後者}の弟。
父親はアルトワ高等評定院の主席検事Maximilien Barthelemy Francois de ROBESPIERRE 1732-77。母親はアラスのRonville通りのピール卸業者の娘Jacqueline Marguerite CARRAULT 1735-64。
祖父もアルトワ高等評定院弁護士だった。母親は64年の出産{死産}12日後に亡くなり、父親は失意のあげくに失踪してしまう。妻との結婚は、両親の反対を押し切ったものらしく、契約にも婚姻の儀式にも親族は
不参加だった。66年か67年にフランスを出国しバイエルンに住んだと推定されている。
二男二女の次男。兄弟は母方祖父母に、姉妹は父方の叔母にひきとられる。長姉Marie Marguerite Charlotte de ROBESPIERRE 1760-1834は、家族の「回想録」を後に残した。パリでは兄の元でデュプレ家に住む。
ジョゼフ・フーシェとの結婚話もあったが実現はせず。デュプレ夫人と険悪になり、転居を兄に勧めたりもしている。テルミドール反動の後に名を変えて潜伏したが捕らわれる。しかし釈放され、知人マトンの元にその娘
と共に生活し、フーシェの進言でナポレオンからも年金が支給され、それは政権が変わっても継続されたが、生涯独身のまま亡くなっている。次姉のHenriette Eulalie Francoise 1761-80はアラスで18歳で早世した。
この人は、兄がSt. Vaast修道院長ロアン{2483の弟}から得ていた奨学金を弟に継承させたいという願いを受け入れてもらい、法学を学んだ。兄と違い美男で美食家で遊戯好きで女性にももてる人物だった。
革命までは兄や父と同じくアラスでアルトワ高等評定院弁護士を勤める。革命思想を受け入れてアラスの「憲法友の会」の議長となり、91年パ・ド・カレー県の行政官となった。そして国民公会パリ選出の議員となる。
そしてジャコバン党に入党。国王の有罪に投票し、国民の承認に反対、執行猶予の適用にも反対した。93年ジロンド派の逮捕も求めた。93年7月には南仏の視察に派遣され、トゥーロン攻囲戦の陣営でナポレオンを
知る。そして彼を高く評価したが、後々テルミドール反動時にはこれがナポレオンを窮地に追いやうことになる。パリ帰還後、デュプレの宿を姉シャルロットと共に出てRicord夫妻と同居する。またフーシェと知り合い、
姉のシャルロットとの結婚を彼が希望していることを兄マクシミリアンに伝えるも、兄はフーシェを評価せず破談となる。
テルミドール時は、兄らの逮捕に際し「私も兄と同罪だ。私も起訴すべきだ」と発言し共々逮捕となる。兄とは別の監獄に連行されたが市庁舎で合流、反乱を鎮静化する策を練るが、深夜に急襲される。靴を脱いで
高所より飛び降りた時に頭部を挫傷し、骨盤も骨折したが、そのまま連行、3人目に処刑された)

 Augustin Bon Joseph de Robespierre................................................................................................................................................................................................................................姉・Marie Marguerite Charlotte 

2681. マクシミリアン・ロベスピエール ROBESPIERRE (Maxlmilien), 35歳。アラス生。
(マクシミリアン・フランソワ・マリー・イシドール・ド・ロベスピエール Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre 1758-91 革命政治家。前者の兄。
両親・兄弟姉妹に関しては前者参照。この人は二男二女の長男でシャルロットも妹となる。
上記にある通りの家庭事情で奨学金のよりルイ・ル・グラン学院を卒業し81年郷里アラスにて弁護士となる。89年の三部会で名乗りを上げると当選、議員としてパリへと出た。
憲法制定会議が成立する際には、議員の派閥争いを続けぬ為に議員構成の一新を主張し、議会成立後は新聞による言論活動で深く市民の支持を確立していく。統一されたフランス、法のもとでの平等、諸特権の廃止
を高く掲げたその主張はサン・キュロット層を中核とした大衆の熱い支持を得ていく。
ヴァレンヌ事件の後92年の君主制崩壊の8月10日事件でも重要な役割を担い、国民公会選挙では圧倒的な支持のもと当選、93年国王裁判を主導、また革命戦争においての苦戦によって、対立するジロンド派の粛清
を行う。1793年7月27日に公安委員会に選出されて以降は自己の理想実現のための革命政府の樹立を急いだ。コンドルセは彼をカルト宗教の指導者と揶揄した。{コンドルセは逮捕、獄中で自殺する}
国の内外に敵をもつ中、反革命勢力と共謀する者、それが想定される者、また彼の政府に政治思想として敵対する者等を逮捕・投獄・処刑することを容易にする「恐怖政治」テルールの導入を始め、ギロチンは毎日のよう
に広場で大量処刑を行い始めた。革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日まで1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日テルミドール反動の日までの47日間で、
パリのギロチンは1376人の首を刎ねたことになる。その他、虐殺的な手法で殺害された容疑者ら劣悪な獄中で自殺又は病死した者、国内戦で現地で処刑された者など数万単位にのぼり、今でもフランスではこの時期の
死亡者には「Les Victimes du Tribunal Revolutionnaire」{革命裁判所の犠牲者}という表現を使っている。
このような恐怖政治により、恐怖による独裁的な圧倒で抑えられるとした彼の予想は甘く、94年7月26日彼が「粛清されねばならぬ議員たちがいる」という発言で議員全体的な恐怖心を煽ろうとしたところ、逆にそれにより
対立議員らの結束と決断を早めてしまった。翌7月27日{革命歴テルミドール9日}、サン・ジュストの演説が始まるやそれが阻止され、ロベスピエールの発言要求も無視され、ロベスピエール一派のプロスクリプティオ{国家の
敵と見なされ、法の保護外に置く措置}が宣告された。彼らは逮捕されるが、このクーデタに対し蜂起したパリ市会の武力により一旦は解放される、パリ市庁舎に逃げ込めた。アンリオの200人の国民衛兵隊と3500人もの
群衆が市庁舎を取り囲み、形勢は有利に見えた。ただ「独裁者」と呼ばれたくないロベスピエールの思いはこの好機を逃してしまう。深夜まで膠着状態が続いたあげく、包囲陣は三々五々帰宅を始め、深夜にバラス率いる
部隊は市庁舎を急襲した。ここでロベスピエールは顎を撃ち砕かれるが、それは急襲に際して自殺を図ったものなのか、敵兵メルダの銃撃によるものなのかは定かではない。少なくともメルダの主張は信じられ、後の彼の
出世には寄与した。そして、いずれにしても血まみれの状態で彼は捕縛されて、その日の内に処刑されることになった。市民から清廉潔白な男と評価され、政治仲間からは冷酷非情な男と恐れられた人物の最期だった。
 この人は結婚はしていない。但し、パリで宿を提供してくれた大工請負業Maurice DUPLAY 1738-1820の娘Marie Eleonore DUPLAY 1768-1832とは婚約の関係にあったという説もある。{妹Elisabeth 1773-1859はロベス
ピエールらが市庁舎で急襲され捕らわれた際にからくも逃走し、早朝に自決したPhilippe LE BAS 1764-94と結婚している} また、王軍少佐Jean Pierre Roger de Chalabre 1702-83の娘で異母兄がMarquis d'Usseである
Jeanne Marguerite Roger de Chalabre 1753-99以降 という女性のもとへ頻繁に出入りしており手紙も私物の中に発見されていて、何らかの関係があったものと推定されている)

 Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre............................................................................................................................................................................................................関係・Marie Eleonore Duplay

2682. アントワーヌ・サン・ジュスト SAINT-JUST (Antoine), 26歳。ドシーズDecize生。
(ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト Louis Antoine Leon de Saint-Just 1767-94 革命政治家
父親は元ベリー公親衛騎馬隊軍曹でサン・ルイ騎士の騎兵大尉Louis Jean de SAINT JUST de RICHEBOURG 1715-77。母親は国王公証人、評議員の娘Marie-Anne ROBINOT 1734-1811。
父親はChateau de Morsainの管理者としての職務を果たし、76年終わりにピカルディーのBlerancourtに移転。76年10月16日のブレランクールの公証人Thorinの売買契約書によれば、Chouettes通りのFrancois
 Lefebvreの食品店だった家屋を買い取って居住したらしい。しかし転居して一年足らずで父親は没している。また父母の結婚し母の父Leonard Robinotの頑固な反対にあい難航した。すでに32歳だった母は、公証人
や学長等の人たちの助けを借りて父親の許可なく結婚手続を成立させる認可を得ている。66年式をあげたヴェルヌイユ教会の神父は叔父Antoine Robinotだった。
また祖父Charles de Saint-Just 1675-1766は農夫の息子だったが、父親同様にRichebourg領主M. du Buatの所城であるChateau de Morsainの管理者だった。息子{この人の父}のド・リシュブールは兄弟との区別の
ためにそこから名付けられたもの。ちなみに祖母Marie Francoise ADAM 1683-1728も、Chateau de Nampcelの管理者の娘だった。
この人には妹が二人いた。Marie Anne Louise 1768-1857は90年ブレランクールの公証人で国民衛兵大佐となるAndre Fursy Emmanuel DECAISNE de TOULLE 1757-1829と結婚し六男三女をもうけている。Anne
Marie Francoise Victoire 1769-1832は1803年税務職員Jean Nicaise Michel LESASSIERE 1773生 と結婚、そしてMarie Claude DECAISNE d'ABLINCOURT 1761-1801と再婚し二女一男をもうけ、最後にChaulnesの
治安判事Adrien BAYARDと三度目の結婚をしている。
{以下日本語WiKiより編纂}
この人は1785年、ソワソンのオラトリオ派の学院を修了後、1788年にランス大学法学部に入学。入学後1年を経ずして学士号を取得した。
1789年にはエロティックな風刺歌「オルガン」を地下出版し、伝統・権威・カトリック教会・国王を批判。追われる身となった。
1790年には23歳でエーヌ県の国民衛兵隊長の1人に選挙で選ばれて、その年の7月14日のパリでの連盟祭に参加した。1791年には『革命及びフランス憲法の精神』を発行し、革命の最中にあって最年少の理論家となった。
25歳で国民公会議員に当選。その生涯において数々の演説を残すが、1792年に8月10日の事件後に行われた国王裁判での「処女演説」がもっとも有名である。その痛烈かつ冷徹な演説により、ルイ16世の裁判の方向性
を決定付けた。
ロベスピエールの同僚として辣腕をふるい、同派の政策に深く関与した。公安委員会の委員となって治安局を創設し、公会では左派と共に憲法草案作成や行政改革などを行ったが、フランス革命戦争が始まってからは
前線視察に多くの時間を費やしてパリを離れていた。ヴァントーズ法は特にサン=ジュストが実現を望んだ法令であったが、これがプレーヌ派との決裂を招き、失脚の要因になった。
1794年7月27日にテルミドールのクーデターで逮捕され、翌日の最後の演説を反対派に妨害されて果たせぬまま、ロベスピエールらと共に処刑された。{以上日本語WiKiより編纂}
尚、ソワソンのオラトリオ派のSaint-Nicolas学院に通っていた頃、彼は地元の富裕層の子女らと交わっていたわけだが、Coucy-le-Chateauのバイイ裁判所公証人の娘Louise Therese Sigrade Gelle 1765-1806と恋仲に
なっていた。彼女の父親は彼を信頼せず、娘を86年ブレランクールの書記官Francois Emmanuel Thorin 1765生 と結婚させた。彼女は93年7月にサン・ジュストのあとを追ってパリに逃亡。夫はコンシェルジュリーに投獄
されて処刑の脅威にさらされたという。{トランの父親からの手紙でブレランクールの地方検事Monneveuxによる訴えで息子は逮捕されたとある}夫の収監中に彼女は離婚手続のために郷里に戻ったという。また、彼は
93年Armande Henriette Joseph LE BAS 1774生 と婚約したともある。ロベスピエール一党の仲間で、テルミドール反動の際に市庁舎からからくも逃走、早朝に自決したPhilippe LE BAS 1764-94の妹だ。この婚約は成
立せず彼女はClaude Cattantと結婚している)

 Louis Antoine Leon de Saint-Just........................................................................父・Louis Jean de Saint-Just de Richebourg 
母・Marie-Anne Robinot 恋人・Louise Therese Sigrade GelleとSaint-Just

2683. アントワーヌ・シモン SIMON (Antoine), 58歳。靴屋。トロワTroyes生。
(1736-94 タンプル塔のルイ王子{ルイ17世}世話係。2675や2685とマラ地区{最初はTheatre-Francais地区、92年8月Marseille地区、93年8月Marseille et Marat地区、94年1月にマラ地区に改称。95年1月にTheatre-
Francais地区に戻った}の代表委員もしていた。
父親は肉屋Francois Simon 1695生。母親はMarie Jeanne Adnet。
四男二女の三男。異母兄が二人、異母姉が二人いた。
貧民用施療院オテル・デューで亡くなったMunsterの未亡人Marie Barbe Hoyaut 1786没 と66年結婚。死別後88年大工の娘Marie Jeanne Aladame 1746-1819と再婚。コルドリエ・クラブ会員。
1793年7月3日、タンプル塔に幽閉されていたルイ17世の世話係を命じられ、妻と共に着任、94年1月19日解任されるまでタンプル塔に住んだ。再婚の妻は92年のチュイルリー宮殿襲撃に際して人々の治療に尽力した
女性で有名だった。ショーメットにより、王子に教育を施し階級意識を喪失させろ、という命令に従順だった。アルコール中毒で王子を常に虐待し、下品な言葉・歌・態度を刷り込ませた野卑な人物という評価が定番に
なっているが、多くの証言では、革命歌や言葉を教える以外は丁寧に接していたといわれている。事実、93年12月まで、王子の生活についての記録は残っていない。その時の記録は12月4日のもので、王妹エリザベ
ートとテレーズ王女の部屋から物を叩く音がするのと王子が言っており、贋金作りの音だと思えるとシモンがパリ市会に報告したものだ当然に議員らより失笑を買っていた。{真相は双六ゲームの音}
翌月94年1月3日、ショーメットより、市会の役人が定例会にすら出席せずに何らかの仕事をしている場合、両立が出来ないのなら役人としての職務を放棄せよと通達した。シモンは「カペーの息子」の世話役{一万リーヴル
の報酬と居所が提供されていた}を放棄し、本来の業務に戻ることにする。公安委員会も特別なる監視は不必要と判断した。そして彼は世話役を辞した。
彼のこの時の私物搬出作業が二度にわたり、さして荷物もないのに不思議とされ、それがルイ王子{彼いわく「左腕と奪われても一緒に住みたいかわいい相手」}を他者とすり替えた証左とする等の推論が長くあったが、
すでにDNA鑑定で否定されている。テルミドール反動の際に、タンプル塔の役人らは、市会と公会の対立の渦中で、かなり混乱していたが、結局勝者であったバラスを塔内に迎え入れた。そこでバラスが目にしたのは、
立つこともままならない衰弱状態の王子であり、その後の治療も空しく王子はタンプルで亡くなった)

 Antoine Simon

2684. 二コラ・ジョゼフ・ヴィヴィエ VIVIER (Nicolas-Joseph), 50歳。パリ生。
(第3区裁判所裁判官・代訴人)

2685. ジャック・ルイ・フレデリク・ヴーアルメー VOUARMEE (Jacques-Louis-Frederick), 29歳。パリ生。
(ジャック・ルイ・フレデリク・ヴーアルメ Jacques-Louis-Frederic Wouarmeとも。元国有財産委員、食糧供給・取引委員会の職員。
ジャック・ルイ・ヴァルメ Jacques-Louis Warme 1766-94のことだろう。2675や2683「靴屋のシモン」とマラ地区{最初はTheatre-Francais地区、92年8月Marseille地区、93年8月Marseille et Marat地区、
94年1月にマラ地区に改称。95年1月にTheatre-Francais地区に戻った}の代表委員もしていた)

1794年7月29日

2686. ジョゼフ・アラヴォワーヌ ALAVOINE (Joseph), 63歳。仕立屋。ラ・ヴェリエールLa Verriere生。
(La Tonnellerie通りの婦人服仕立屋。パリ総評議会委員。2706やNicolas Lepauvre 1768-94とContrat-Social地区{旧Postes地区}の代表委員。93年5月第2区治安部委員に選出された。La VerriereはOise)

2687. ベルトラン・アルノー ARNAUD (Bertrand), 55歳。ディーニュDigne生。
(1739-94 パリ総評議会委員。読会秘書lecteur secretaire。 Joigny、Vergneと共にLepeletier地区{最初La Bibliotheque地区と呼ばれ1792年9月、Quatre-Vingt-Douze地区となり、1793年10月Lepeletier地区
となった}の代表委員)

2688. ジャン・バティスト・ベルゴ BERGOT (Jean-Baptiste), 56歳。皮革業店員。パリ生。
(皮革市場職員。警察管理官。地区WiKiでは生年不詳。2720、2763と共にBon-Conseil地区{92年8月迄Mauconseil地区と呼ばれていた}の代表委員)

2689. クロード・ベルナール BERNARD (Claude), 28歳。パリ生。
(クロード・ベズナール Claude Besnard 裁判所陪審員で公共事業管理官。1793年10月14日マリー・アントワネット裁判の時の12名の陪審員の一人。裁判所執達吏として参加)

2690. ジャン・ピエール・ベルナール BERNARD (Jean-Pierre), 38歳。執事homme de confiance。ラ・シャラードLa Chalade生。
(使用人domestique。自治市会委員)

2691. クロード・ビゴ BIGOT (Claude) 40歳。画家。パリ生。
(クロード・ビガン Claude Bigant   Boulangers通りの画家で92年パリ総評議会委員。警察管理委員。
Sans-Culottes地区WiKiにあるC.ビゴー C. Bigaud 1754-94はFelix、Guyotという人物と共にSans-Culottes地区{最初はSaint-Nicolas-du-Chardonnet地区、次にJardin-des-Plantes地区となり、92年8月に
Sans-Culottes地区に改称。テルミドール反動後にJardin-des-Plantes地区に戻る}の代表委員であり、同一だろう)

2692. ジャック・二コラ・ブラン BLIN (Jacques-Nicolas), 63歳。著述業ecrivain-expert。オーパントンAubenton生。
(市会副書記秘書官secretaire greffier adjoint。
1731年生まれでピカルディーのAubenton出身Jacques Nicolas BLIN 没年不詳 がいる。出身地・年齢が合致する。10月生まれなので厳密には62歳だが。
父親は農夫で養豚業だったJacques Philippe BLIN 1704-81。母親はAntoinette LAMY 1707-41。五男二女の長男。その他の家族情報もない。兄弟姉妹の殆どが夭折している)

2693. ジェルヴェ・ボードワン・ブーランジェ BOULLANGER (Jervais-Beaudoin), 38歳。宝石商。リエージュLiege(⇒Herstal)生。
(セルヴェ・ボードワン・ブーランジェ Servais Beaudouin Boulanger 1755-94 ベルギーのHerstal生まれ。パリに移住し1772年にサン・トノレ街54番地で宝石商となる。89年7月パリ国民衛兵隊に入隊、砲手
そして中尉。La Halle-aux-Bles地区の第二大隊大尉となり、またCharles Sepher旗下の第一大隊副指令となる。92年8月10日事件に参加。サンテールがヴァンデに派遣されるに際し、93年5月暫定総司令官
に任命されたが、これには穏健派地区からの猛反対が起こり、辞任する。同年7月Charles Sepherの旗下としてシェルブール海岸軍司令となり反乱鎮圧に従軍。准将に昇格する。同年10月パリに呼び戻され
Ronsin将軍のもとでパリ周辺部隊の指揮を委ねられた。ロンサン将軍を介してエベール派との関係をもち、94年2月にロンサンが逮捕され、この人も3月に解任されたが、告発は免れて、ロベスピエール一党
のアンリオの仲間となり、ロンサンの二人の共犯者を友人ル・バに密告し、その逮捕に貢献する。94年ラ・ヴァレットと共にアンリオの補佐官となり、同年5月、Theresa Cabarrusの逮捕を進言し実行する。しかし、
この逮捕が運命を変える。
Theresa Cabarrusは司法貴族の妻としてボルドーで収監されていたところを彼女に恋した派遣委員タリアンにより解放され、タリアンと同棲。そしてボルドーの容疑者の多くを釈放させるという影響力を発揮して
Notre-Dame de Bon Secoursと言われた女性だった。彼女はこの逮捕により再びギロチンの危険に晒されたわけであるが、恋人のタリアンがロベスピエールと対立していることを知っていたので、彼を「臆病者」
と言い、その発起を促した。その結果、テルミドールのクーデタが政敵排除と恋人救済の目的に燃えたタリアンらにより勃発するのだ。テルミドールの反動で多くの人が解放されたことから彼女は今度はNotre-
Dame de Thermidorと讃えられた。この人はTheresa Cabarrusの逮捕を進言することで、テルミドールの反動の大きな誘因をつくってしまったわけである。そして自らの運命も決定してしまった)

2694. ジャン・ジャック・ブーリユー BOURIEUX (Jean-Jacques), 45歳。時計職人。アルトワArtois生。
(ジャン・ジャック・ボーリユー Jean-Jacques Beaurieux 1749-94 元自治体役人。2716、2756と共にピク地区{元La place Vendome地区と呼ばれていた。ヴァンドーム広場は後にピク広場に改名される}の代表委員。
ピク地区はロベスピエールが所属していた地区で、ロベスピエールは92年8月生出された五人の委員{他はMoulins, Duveyrier,Piron, Laignelot}の一人だった。ロベスピエールは公会に選出されるとほぼ地区には
現れなかったが、彼の家主Duplayが委員となっていた。90年来、この地区の市民であったサド侯も93年議長に選出されたが、病気を理由に同日中に辞任している。また有名なロベスピエール最後の署名
「Legrand、Louvet、Payan、Lerebours、Ro…」の指令書はこの地区の市民への呼び掛けのものであった。
フォーブール・サン・トノレ在住{89年から94年}で1787年7月21日、時計職人親方となる。Marie Laurence LAGUILLERの夫で、息子は彫刻家Francois Louis BEAURIEUX 1787-1826で、Jeanne CHATANDEAUの夫)

2695. ジャン・カズナーヴ CAZENAVE (Jean), 38歳。商店店員。ベルヴィルBelleville生。
(Jean Cazenave 1756-94 ジャン・カズナール Jean Cazenardとも。自治体役人。2670、2733と共にl'Homme-Arme地区{Enfants-Rouges地区が92年9月Marais地区となり、93年6月l'Homme-Arme地区に改名された}
の代表委員)

2696. ジャン・バティスト・シャラニー CHARAGNY (Jean-Baptiste), 55歳。 店員。パリ生。
(ジャン・バティスト・シャリニー Jean-Baptiste Charigny パリ市総評議会委員で軍輸送業務運搬業者。Faubourg-Montmartre地区の代表委員はJean-Baptiste Chavigny。生年は不詳で処刑されている。他の代表委員
のAndre Tonnelierは当日、総評議会にも出席せず行動は不明であるが、4ヶ月投獄された。今一人のLegryはお咎めなし。しかし綴りが少し異なる。モン・ブラン地区の代表委員にJean-Baptiste Charigny{生没年なし}が
いる。こちらは綴りも同じ。2665のBougonと2673のGuerinの両代表委員共に処刑されている。Mont-Blanc地区は最初はLa Grange-Bateliere地区、92年8月にMirabeau地区、93年12月にMont-Blanc地区に名称変更した。
「1793年から1802年までパリで行われた結婚・離婚一覧」中には、19 pluviose an 2{つまり1794年2月7日}、父の名はJean Baptiste{BOLOT}、母の名はSusanne CHAUCHEFOIXであるCatherine BOLOTはNicolas
MICHELONと離婚の上Jean Baptiste CHARIGNYと結婚、ある。この処刑の年の2月に結婚しているようだ。但し公証人Alexandre Philippe SAUVAIGEの1779年5月29日の記録にJean Baptiste CHARIGNYが
BOCHET{ファーストネームは不詳}と結婚、という記録もある。どちらにしても40歳か55歳前後の結婚ではある)

2697. ジャン・フィリップ・ヴィクトル・シャルルマーニュ CHARLEMAGNE (Jean-Philippe-Victor), 26歳。教師。パリ生。
(1767-94 教師にしてパリ市会役人。2703と共にBrutus地区{最初はLa Fontaine-Montmorency地区、92年10月Moliere et Lafontaine地区に、93年9月にBrutus地区に改名された}の代表委員。
1791年パリにてMarie Adelaide DELAFOND 1771頃生 と結婚し、92年に長女Marie Honorineをもうけ、この長女は1813年パリにてJoseph Marie MOLTENIと結婚している。
長男Brutus Emileはこの年の6月4日に生まれたばかりだった。その後のこの長男の詳細は不明)

2698. フランソワ・ローラン・シャトラン CHATELIN (Francois-Laurent), 43歳。絵画講師。ナンシー生。
(国立絵画学校の教授。92年市会委員で、公共事業管理官。Quincampoix通りの98番地に居住。Lombards地区{名称変更なし}の代表委員の2731は処刑されているが、他のBlandin、Hoenerは処刑されていない。
ただ同地区国民衛兵司令のこの人は処刑。地区のWiKiには「国民衛兵司令のChatelin」とのみ記載されているがQuincampoix通りは同地区なのでこの人だろう)

2699. ジャン・バティスト・コショワ COCHOIS (Jean-Baptiste), 53歳。商店店員。パリ生。
(商店店員で、後に市会委員として民事・刑事事務所の職員。 Bonne-Nouvelle地区{名称変更なし}の代表委員。地区WiKiには代表委員の記述はない)

2700. ジャック・ピエール・コリュ CORU (Jacques-Pierre), 63歳。鞘類製造。 ノーフNoof(⇒ノセNoce)生。
(鞘類製造業で、市会委員で登録簿委員。2718や2737と共にl'Arsenal地区{名称変更なし}の代表委員。地区は三人の代表を除外して公会を支持した)

2701. ジャック・ルイ・クレッソン CRESSON (Jacques-Louis), 49歳。唐木細工師。パリ生。
(唐木細工師で自治体役人で警察管理官。 la Halle-aux-Bles地区代表委員。後者も。もう一人の代表Benoistは同年自殺。
1771年3月16日〜98年7月7日の公証人Michel Guillaume GIROUSTの記録に、Jean CressonとFrancoise Desprezの息子Jacques Louis CressonとMarie-Charlotte Duvalの結婚契約が1773年にかわされたという
記録がある。署名者としてJacques-Louis Cresson,Jean Cresson,Francoise Desprez,Marie-Charlotte Duvalが記録されている。王室にも仕えた歴代の家具職人を輩出しているクレッソン家がいる。その中に三世代目
としてJacques Louis Cresson 1743-95がおり、「革命の終わりに断頭台にて処刑」とある。若干年齢が異なるが、この人のことなのか? この家具職人は1759年親方となり{早過ぎる}、rue des deuxecusの商人だが
革命運動に熱心で95年処刑されたとある。生年は正確には1743年頃、とある。父親は家具職人Louis Cresson 1706-61。母親はJeanne Louise Dolu。結婚記録はないが、父母の名も上記の公証人記録にあるように
Jean CressonでもFrancoise Desprezでもない。但し他系図には、Jacques Louis CRESSONは、この系図と同じ両親名で1748年以前の生まれで1794年7月29年パリにて処刑、73年に親方となり、74年小間物店を開き、
革命歴2年よりパリ警察管理官とあり、この人の経歴と合致し、尚且つ、1773年パリでCharlotte Marie DUVAL 1748頃生 と結婚しているので、公証人記録とも合致する。従って、この人はコンデ大公やオルレアン公を
顧客にもっていた歴代のパリでも高名な家具職人一族の一人であり、何故か革命運動に身を捧げ{過去に王室と関わりのあった経歴は致命的なので、逆に人一倍の革命活動をしないと危険な立場となる場合も多い
ゆえか}、あげくに処刑されてしまった人物、ということになる。もっとも市会所属の委員だったから、たまたまテルミドール反動で国民公会と対立し、ロベスピエール側となり敗北したという成り行きに巻き込まれた、という
ことでもある)

2702. ルネ・トゥーサン・ドーバンクール DAUBANCOURT (Rene-Toussaint), 53歳。木箱製造。パリ生。
(1742{1756ともあるが年齢が合わない。古記録は42年}-94 木箱製造業で自治体委員。総評議会委員ともある。Croix des Petits Champs通りの木箱製造者だったが、Halle au Ble地区の代表委員だった。{前者も。
もう一人の代表Benoistは同年自殺}
1794年7月1日の布告によって設置された鉱山課事務局の職員。{この人の後任はPierre Auguste ADET 1763-1834でラヴォワジェの実験助手でもあり、後に外交官・管理官}
公証人Martin LA GRENEEの1772年3月1日の結婚記録に、Rene Toussaint DAUBANCOURTとVictoire LAYNEのものがある。ある売買契約の記録からすると、父親はHubert Daubancourt、母親はMarie Lemaire
であると思われる)

2703. ピエール・二コラ・ドラクール DELACOUR (Pierre-Nicolas), 37歳。公証人。ボーヴェBeauvais生。
(1757頃{47年頃ともあるが年齢が合わない}-94 元公証人、元自治体職員。1788年9月18日Jean Bancal des Issartsの事務所を購入したBro氏の主席公証人という記録がある。処刑記録には、Brutus地区の自治体
役人で公証人Pierre-Nicolas Delacour {元 de La Cour}とある。⇒Pierre-Nicolas Lacour 1767-94、公証人、Brutus地区{最初はLa Fontaine-Montmorency地区、92年10月Moliere et Lafontaine地区に、93年9月に
Brutus地区に改名された}の代表委員。もう一人の代表委員は2697。
父親はGermere Claude Delacour 1723生。母親は不詳。Anne Marie Felicite Verdier 1772-1851と結婚し、一男Felix Georges 1793-1858をもうけている。この息子は三度結婚し一男を得ている。また妻Anne Marie 
Feliciteは夫処刑後の1798年立憲議会のヨンヌ選出議員の息子でパリ近郊セーヴルの駅と郵便の管理官Louis Felix Malusと再婚している)

2704. クロード・アントワーヌ・デルトロワ DELTROIT (Claude-Antoine), 43歳。製粉業。ポントワーズ生。
(1751-94 元製粉業。市会役人で登録簿委員。2729と共にMuseum地区{元Louvre地区}代表{恐らく2735も})

2705. ピエール・フランソワ・ドヴォー DEVAUX (Pierre-Francois), 53歳。庭師。グピリエールGoupillieres生。
( 1741-94 生花の庭師。パリ自治体委員。
カルヴァドスのグピリエール生まれ。Gilles DevauxとCatherine Riviereの息子。パリに移り、生花の庭師となり、Elisabeth Charlotte Diveと結婚した。この結婚で革命家Robert Guillaume Antoine Delabarre 1748-1810と
義兄弟となった。革命で仕事を失うが、La Croix-Rouge地区{section de la Croix-Rougeはその後、93年10月Bonnet-de-la-Liberte地区となり、94年5月l'Ouest地区となる}の代表委員をしていた義兄弟Delabarreの
代わりを務めて代表委員となる。テルミドール反動時は、ロベスピエール一派の釈放に署名し、ロベスピエールの敗北により逮捕され、処刑された。他の代表委員にGodefroyと2672がいた。
Jean-Pierre, Pierre-EtienneそしてCharlotte-Agnesの三人の子がいた)

2706. マリー・ルイ・ドヴィユー DEVIEUX (Marie-Louis), 44歳。パリ生。
(マルク・ルイ・デヴィユー Marc-Louis Desvieux 1750-94 元弁護士。第三区裁判所議長で公証人。2686のAlavoineやNicolas Lepauvre 1768-94と共にContrat-Social地区{旧Postes地区}の代表委員だった)

2707. ルイ・フランソワ・ドリニー DORIGNY (Louis-Francois), 36歳。大工。ブリュイエールBruyere生。
(1758-94 自治体総評議会委員。2755のWiltcheritzと処刑されなかったSaretと共にPopincourt地区代表委員。Popincourtは名称変更のなかった地区。他地区同様、代表委員のみが市会に宣誓し、地区自体は
公会支持をした。2762のLAHUREは同地区司令官補)

2708. ドニ・デュムーティエ DUMOUTIER (Denis), 51歳。仕立屋。パリ生。
(ドニ・ジョゼフ・デュモンティエ Denis-Joseph Dumontier 1743-94 自治体役人。警察行政官。2722、2741と共にMarches地区{最初Marche des Innocents地区、92年10月Halles地区に改名、93年5月この名に}の代表委員)

2709. ピエール・デュニエーズ DUNIEZ (Pierre), 37歳。技師。ラフェルテ・シュル・ウルクLaferte-sur-Ourcq(la Ferte-sur-Ourkとも)生。
(ピエール・デュメス Pierre Dumez 1757-94 技師。93年から94年自治体委員、食糧管理官。弁護士のVincent Cellier 1749-1812や2726と共にChalier地区{最初Thermes-de-Julien地区、92年9月Beaurepaire地区、
94年2月にこのChalier地区に。95年には最初のThermes-de-Julien地区に名称が戻った}の代表委員。セクシオンのWiKiには1760-94とあり。
橋と道の技師の息子で、自らも「技師」と名乗っていた。1790年国家事業として国民地図の出版を依頼され地図製作者Pierre-Gilles Chanlaire{1758-1817。元パリ高等法院弁護士だったが、革命後、専門分野を
変更した}と共に作製。92年「Atlas national portatif de la France, destine a l'instruction publique compose de 93 cartes et d'un precis methodique et elementaire de la nouvelle geographie de la Republique」として
出版された。この地図はこの人の処刑後にその未亡人とChanlaireにより「Atlas national de la France」として再出版される)

2710. ジャン・ピエール・ウード EUDE (Jean-Pierre), 31歳。石工。パリ生。
(1763-94 自治体委員。サン・タントワーヌ通り29番地で小さな建築業を営んでいた。Dupaumierと2767と共にDroits-de-l'Homme地区{92年8月迄Roi de Sicile地区}の代表委員。
父親はHotel Dieuで亡くなったJean EUDE 1787没。母親はMarie Julie MACRET 1742-83。弟Jean-Louis EUDE 1768-1846がおり、Droits de l'Homme地区砲兵中隊指揮官の大尉{89年時点だろう})

2711. マルティアル・ガモリー GAMORY (Martial), 46歳。美容師。ゲリュGuerut(ゲレGueretとも)生。
(美容師でパリ総評議会委員。公証人記録に、1794年6月10日Gardes Francaises地区rue du Coq123番地のMartial Gamory{Alexis GamoryとAntoinette Cassierの息子}は、Jean Charles Cailleuxと離婚したDorothee 
Chambordと結婚、とある。ロベスピエール派のパリ総評議会委員と注釈あり、当人だろう。つまり処刑の前の月に結婚したということになる。ガルド・フランセーズ地区{92年section de l'Oratoireが改名された地区。
労働者1,680人、経済弱者305人を含む12,850人の住民}からパリ市会総評議会委員に選出されていた。2668、2670なども同地区からの選出委員。地区のWiKiには、2668、後者はフルネーム明記されており、加えて
「ガモリーと呼ばれる人物」として処刑された代表委員の名を掲載している。この人のことで間違いない)

番外・Jean-Antoine Forestier 1755-94 鋳物工。パリ市会委員。ガルド・フランセーズ地区{92年section de l'Oratoireが改名された地区。労働者1,680人、経済弱者305人を含む12,850人の住民}からパリ市会総評議会
    委員に選出されていた。2668、前者なども同地区からの選出委員。7月29日処刑。2670との混同に注意。2670のJean-Etienne Forestier 1747-94 は溶接工でl'Homme-Arme地区代表委員で7月28日処刑。

2712. 二コラ・ジェローム GEROME (Nicolas), 44歳。旋盤工。パリ生。
(1750-94 Nicolas GEROSMEとも。郵便管理官、自治体役人。Lepineという人物と2743と共にArcis地区{名称変更なし}の代表委員。市庁舎の後ろにあるSaint-Jean-en-Greve教会で会合を開いていたセクシオン)

2713. ジャン・ルイ・ジベール GIBERT (Jean-Louis), 43歳。菓子職人。ルザンシーLuzancy生。
(パリ自治体委員。2736やBarelleという人物と共にFaubourg-du-Nord地区{Faubourg Saint-Denis地区が93年1月に改名}の代表委員)

2714. ジャン・クロード・ジラルダン GIRARDIN (Jean-Claude), 48歳。扇子屋。パリ生。
(扇子屋、パリ市総評議会委員。2723やGreppinとパリのセクシオンで最も人口の多いGravilliers地区代表委員。Greppinは釈放されている)

2715. ピエール・ジロ GIROD (Pierre), 27歳。小間物屋。パリ生。
(小間物商人、パリ市総評議会委員。 2719や2732と共にLa Fraternite地区{92年11月Saint-Louis地区が改名されたもの。サン・ルイ島全域の地区}の代表委員。
1771年から99年に於ける公証人Thomas GAILLARDの記録に、94年小間物商人Joseph GirodとMarguerite Francoise Pavaultの息子Pierre Girodと机製造業Jean RominiraとMarie Suzanne Francoise Lecoufletの娘
Antoinette Adelaide Rominiraとの結婚契約がある。母方伯母となるMarie Genevieve Carmes、伯父となるClaude Joannes、従姉妹となるMarie Marguerite Joannes、友となるCharles Pierre Lesire、姉妹となる
Marguerite Girodとその夫Nicolas Leleu、姉妹となるMarie Joseph Girod、公証人で母方伯父となるEtienne Lecouflet、姉妹となるSuzanne Genevieve Rominira、その夫Pierre Jean Chotelon等が立会人。
Pierre Girodについての情報として、「ロベスピエール派パリ総評議会委員」とあるので間違いない。月日が不明だが、結婚した年に処刑されたことになる。
妻のAntoinette Adelaide ROMINIRAに関しては、すべて年月日、詳細不明の系図で、父はJean ROMINIRA、母はMarie Suzanne Francoise LECOUFLET。Pierre Jean CHOISELATと結婚してSuzanne CHOISELATという
娘をもうけているのが確認できる。再婚したと思われる)

2716. ルネ・グルナール GRENARD (Rene), 45歳。製紙業。ラ・ガレンヌLa Garenne生。
(1749頃-94 製紙業でパリ市総評議会委員。2694、2756と共にピク地区{元La place Vendome地区と呼ばれていた。ヴァンドーム広場は後にピク広場に改名される}の代表委員。またこの人は2756の父親の協業者
であり、また2756の妹の名付け親でもあった。
ピク地区はロベスピエールが所属していた地区で、ロベスピエールは92年8月生出された五人の委員{他はMoulins, Duveyrier,Piron, Laignelot}の一人だった。ロベスピエールは公会に選出されるとほぼ地区には
現れなかったが、彼の家主Duplayが委員となっていた。90年来、この地区の市民であったサド侯も93年議長に選出されたが、病気を理由に同日中に辞任している。また有名なロベスピエール最後の署名
「Legrand、Louvet、Payan、Lerebours、Ro…」の指令書はこの地区の市民への呼び掛けのものであった。
Catherine LAMARRE 1760頃生 と結婚して長男Alexandre Rene 1788-1852と93年か94年生まれの次女をもうけている。長男Alexandre Reneは1809年Antoinette Francoise Anathalie DUHAMEL 1791-1846と結婚し一男
をもうけている。妻LAMARREとこの人との結婚は「関係」であるとされ、二人の子の認知は死後に法廷で認められたようである。92年ルイ・ル・グラン通り20番地に住んでおり、ラ・ロシュフコー通りに家を購入。そのような
資産もあったので、死後、「妹」と思しき女性が相続を主張している)

2717. ピエール・エーネル HAENER (Pierre), 52歳。印刷屋。ナンシー生。
(1742-94 印刷屋で市会委員。
Jean-Jacques Haener 1710頃-94という印刷屋がおり、彫刻家Johann Haenerとロレーヌの母のもとドイツのUmstadtで生まれ、1734年頃ナンシーに印刷組合員として定住。35年カトリックに改宗。54年書店開業。
ポーランド王とロレーヌ公の王立協会書店、1757-66。68年の王室のよる調査ではまだ彼を「ドイツ人」と誤って認識していた。81年3月息子のHenri Haenerが書店を継いだ。94年2月に父親が亡くなった時、87歳だった
と述べているが、資料には「1710年頃誕生」とある。De l'influence des loix sur les moeurs {1757年}、Relation du second voyage de Mesdames de France en Lorraine en 1762 {1762年}、等の出版物を扱っている。
系図には、生没年不詳のHenri HAENER{上記のJean-Jacquesの息子?}とMadeleine PERRINの息子Antoine HAENER 1771-1817はナンシー生まれで紙職人の親方で94年12月Epinalで結婚し二女をもうけている。その
弟 Jean Baptiste HAENER 生没年・職業不詳 は1801年Pont-A-Moussonで結婚し一男一女をもうけている。もし彼らの父親{生没年・職業不詳}のアンリ・エーネルがナンシーに定住して印刷・書店業を創業した上記の
ジャン・ジャックの息子であるなら、この人はその兄弟か何かではないかと推測できる年代である)

2718. ピエール・アンリ HENRY (Pierre), 48歳。富くじ管理。リスRis生。
(富くじ管理官で警察行政官。 2700や2737と共にl'Arsenal地区{名称変更なし}の代表委員。地区は三人の代表を除外して公会を支持した)

2719. シャルル・ユオー・デボワゾー HUAUT-DESBOISSEAUX (Charles), 39歳。パリ生。
(シャルル・ユアール・デボワゾー Charles-Huart Desboisseaux 1756-94 ブロンズ彫刻家。1793年10月14日のマリー・アントワネット王妃の公聴会に臨席した12名の陪審員の一人。市会委員。
Claude Desboisseaux 1755-94はLa Fraternite地区{92年11月Saint-Louis地区が改名されたもの。サン・ルイ島全域の地区}の代表委員{2715や2732と一緒}で、同日処刑されているが、名に混乱が見られるようだ。
別資料では同様の内容の委員になっていてCharles HUAUT DESBOISSEAUXともある)

2720. アントワーヌ・ジャムテル JAMETEL (Antoine), 54歳。モワジーMoissy生。
(アントワーヌ・ル・ジャムテル Antoine Le JAMETEL 1741-94 パリのブルジョワでパリ総評議会委員。。セーヌ・エ・マルヌのMoissy-Cramayel生まれ。2688、2763と共にBon-Conseil地区{92年8月迄Mauconseil地区と
呼ばれていた}の代表委員。地区WiKiではAntoine Jemptel 1740-94となっている。
父親はSylvain le JAMETEL。母親はMarie Etiennette CADET。1768年パリでLouise Pauline NOIZEUX{もしくはNOISEUL} 1838没 と結婚し、長男Antoine Guillaume Louis 1786-1840と次男Auguste Jean 1790-1841をもうけ、
2人とも結婚し子をもうけている。この子孫らは銀行家、実業家、作家として活躍しパリの名家となっていく。例えば長男Antoineの息子{つまりこの人の孫}Gustave-Louis Jametel 1821-93は弁護士から上院議員となり、
その弟Ernest Jametel 1824-76は銀行家で、その子{この人の曾孫}であるGeorges Jametel 1859-1944は外交官となり、法王レオ13世から伯爵位を授かり、1899年Mecklembourg-Strelitz大公の娘Marie de Mecklenbourg-
Strelitzと結婚する。次男Auguste Jeanの孫Maurice Jametel 1856-89は外交官として活躍した後、Ecole des langues orientales vivantesの教授となり中国中心の著書を多く残している)

孫・Gustave-Louis Jametel  
曾孫・Le comte Georges Jametel

2721. ピエール・シモン・ジョゼフ・ジョー JAULT (Pierre-Simon-Joseph), 30歳。芸術家。ランス生。
(ピエール・シモン・ジョゼフ・ジョー Pierre-Simon Joseph Jault 1761-94 Bonne-Nouvelle地区{名称変更なし}代表委員。市会総評議会委員。ジャコバン党員。 l'Egalite通り在住の芸術家。
父親はPierre Simon Jault。母親はMarie Catherine Olivier。両親は1761年10月13日、ランスで結婚。父親は国王評定官でポンタリエ警察検察補佐官Philippe JAULTとMarguerite Blondeauの息子。母親Marie Catherine
OLIVIERは1732年3月20日ランスで洗礼、Nicolas OLIVIERとClaire HYVERNEAUの娘。両親は1780年1月現在はパリのモンマルトル通りに住んでいた。
この人は93年にはl'Egalite通りに住んでいたが94年Saint-Claude通りに転居している)

2722. オーギュスタン・ジェルマン・ジョベール JOBERT (Augustin-Germain), 50歳。商人。モンティニーMontigny(⇒Montigny-sur-Aube, Cote d'Or, Bourgogne)生。
( 1744-94 Precheurs通り在住の商人で、自治体役人で警察行政官。2708、2741と共にMarches地区{最初Marche des Innocents地区、92年10月Halles地区に改名、93年5月この名に}の代表委員。
父親は外科医Joseph JOBERT。母親はLouise BARTHELEMY。六人兄弟の五男。ブルゴーニュ、コート・ドールの Montigny-sur-Aube生まれ。兄Jean Baptiste JOBERT 1732-98は国王海軍の船医。他は夭折か。弟Adrien
1746頃-59はシャンパーニュ・アルデンヌのLangresで生まれ、同地で13歳で亡くなっている。系図には没年不詳となっているが、職業と生地と生年からの年齢が合致している。
1793年から1802年までのパリに於ける結婚・離婚の記録に、11 pluviose an 2{1794年1月30日}、父の名はJoseph、母の名はLouise BARTHELEMYであるAugustin Germain JOBERTは、Marthe THIERRIATと結婚した。死別
した妻の名はFrancoise FOUREAU、とある。父の名も母の名も合致している。妻と死別後、この年の1月にMarthe THIERRIATという女性と再婚していたようだ)

2723. ジャック・ジョンコワ JONQUOY (Claude), 44歳。家具職人。マシアックMassiac生。
(クロード・ノエル・ジョンコワ Claude Noel JONQUOY 1751-94 家具職人tablettierで警察行政官。パリ総評議会委員。 2714とGreppinとパリのセクシオンで最も人口の多いGravilliers地区代表委員。Greppinは釈放された。
父親は肉屋後にマシアックの水汲人Noel JONQUOY 1715頃-67以前。母親はIsabeau JOURNIAC 1722頃-67以降。弟がおり、55年生まれのJeanだが夭折か。父親は再婚で前妻との間に異母兄ら3人がいた。
78年パリにてMarie Victoire Nicole ESCURE{通称LASERRE} 1829没 と結婚し、生没年不詳の長男Francois Louisと次男Claude Louis JONQUOY 1788-1861がおり、次男はSt Germain l'Auxerrois通りの金細工業を経営。
1813年Marie Madeleine BOISSADE 1791-1874と結婚し、一女Louise Charlotte 1826-1920をもうけている)

次男・Claude Louis JONQUOY  
次男妻・Marie Madeleine BOISSADE 孫娘・Louise Charlotte

2724. ピエール・レオン・ラミラル LAMIRAL (Pierre-Leon), 38歳。果物屋。パリ生。
(ピエール・レオン・ラミラル Pierre-Leon Ladmiral 1756-94 Pierre-Leon l'admiralとも。果物屋で県郵便事業職員、パリ総評議会委員。
公証人Louis COLLAS de MARIMONの記録に、1780年4月5日パリにてPierre Leon LAMIRALがMarie GRAINと結婚したとの内容あり)

2725. ジャン・二コラ・ラングロワ LANGLOIS (Jean-Nicolas), 49歳。鍵屋。ルーアン生。
(1745-94 鍵屋で市総評議会委員。Section du Mont Blancの委員との記述もあるが、地区WiKiにはこの人の名はない。後者との関係不明、ルーアンの法官ラングロワ家との関係も不明)

2726. マリー・フランソワ・ラングロワ LANGLOIS (Marie-Francois), 37歳。文具屋。パリ生。
(1757{60とも}-94 文具屋で自治体役人。総評議会委員。弁護士のVincent Cellier 1749-1812や2709と共にChalier地区{最初Thermes-de-Julien地区、92年9月Beaurepaire地区、94年2月にこのChalier地区に。
95年には最初のThermes-de-Julien地区に名称が戻った}の代表委員。前者との関係不明)

2727. ジャック・ラニエ LASNIER (Jacques), 52歳。代理業者homme d'affaires。ブゾン・ラフェリエールBezon-Laferriere(Auzouar-la-Ferrieereとも)生。
(1742-94  Dosoir-la-Ferriere{Seine-et-Marne}生まれとも。代理業者でパリ市自治体役人。Godart、Soulierと共にMutius-Scaevola地区の代表委員。この地区は元々section du Luxembourgだったが、94年11月
にMutius-Scaevolaに改名、95年5月に元に戻った地区)

2728. エドム・マルグリット・ローヴァン LAUVIN (Edme-Marguerite), 60歳。ヴェズレーVezelay生。
(エドム・マルグリット・ローヴァン・ド・モンプレジエ Edme-Marguerite Lauvin de Montplaisir 1735{34とも}-94  市役所近くのGeoffroyl'Asnier通り在住の元パリ高等法院弁護士。起訴陪審中央裁判所国家委員commissaire
national du tribunal central des directeurs du jury d'accusation。総評議会委員。2679や2754と共にLa Maison-Commune地区{92年8月L'Hotel de Ville地区より改名}の代表委員。妻の名はMarie Jeanne Maubert)

2729. ジャン・バティスト・エマニュエル・ルジャンドル LEGENDRE (Jean-Baptiste-Emmanuel), 62歳。パリ生。
(1734 -94 2704と共にMuseum地区{元Louvre地区}代表委員{恐らく2735も}。元郵便財産財務管理官で、郵便事業自治体職員。1788年6月3日郵便事業監督官でったJean Baptiste Emmanuel LEGENDREとAngelique
Marguerite FAUVEAUの結婚記録あり)

2730. ピエール・ジャン・ルグラン LEGRAND (Pierre-Jean), 51歳。事業家。パリ生。
(ピエール・ジャック・ルグラン Pierre-Jacques Legrand  事業家で自治体総評議会委員。元高等評定院弁護士のVincent Cellier 1749-1812とショーメット、エベールに代わる国家代理人と副代理人に任命されている)
ピエール・ジョゼフ・ルグラン Pierre-Joseph Legrand 1743-94とも。La Cite地区{92年8月迄はNotre-Dame地区、93年一時La Raison地区とも呼ばれていた}の代表委員。他にLenoirという人物と2752が代表委員だった。

2731. ジャック・マテュラン・ルリエーヴル LELIEVRE (Jacques-Mathurin), 40歳。彫刻師。パリ生。
(1753-94 石彫刻師で警察行政官。 Lombards地区{名称変更なし}の代表委員。他のBlandin、Hoenerは処刑されていない。ただ同地区国民衛兵司令Francois-Laurent Chatelin{⇒2698。この地区のWiKiには国民衛兵
司令のChatelinは処刑とだけあるが、シャトランの居住するカンカンポワ通りは同地区なので2698だろう}
公証人Francois Claude PREVOSTの1779年7月21日の記録に、Jacques Mathurin LELIEVREとJeanne Prudence EGLETZの婚姻届がある)

2732. ジャン・シャルル・ルシル LESIRE (Jean-Charles), 48歳(43歳、23歳とも)。農夫。ロゼーRosay生。
(ジャン・シャルル・ピエール・ルシル Jean-Charles-Pierre Lesire 1751-94 農夫で自治体総評議会委員。2715や2719と共にLa Fraternite地区{92年11月Saint-Louis地区が改名されたもの。サン・ルイ島全域の地区}の
代表委員。生没年が処刑年齢と合わない。但し23歳と記してある資料も1751年生まれとしているので、単なる誤記であろう。この記録の48歳も43歳の数字スキャン相違だと思われる)

2733. ピエール・アレクサンドル・ルーヴェ LOUVET (Pierre-Alexandre), 33歳。画家。パリ生。
(画家で元警察行政官、食糧管理官。地区WiKiでも生年不詳でP.C. Louvetになっている。2670、2695と共にl'Homme-Arme地区{Enfants-Rouges地区が92年9月Marais地区となり、93年6月l'Homme-Arme地区に改名された}
の代表委員)

2734. ジャン・ジャック・リュバン LUBIN (Jean-Jacques), 29歳。画家。パリ生。
(Jean-Jacques Lubin 1765-94 絵画アカデミーの生徒だったが、後1792年8月10日、総評議会委員。1793年2月18日に第1区裁判所判事、1794年3月29日国家代理人補佐。Salmonと共にChamps Elysees地区代表委員。
父親は肉屋でDames Saint Cyrの農園の農夫Jean-Baptiste LUBIN 1731-97。母親はMarie Francoise COLIN 1738-1808。四男の長男。結婚記録なし。
弟は弁護士で、やはり政治活動を行い投獄、テルミドール反動で解放された後に地方政治家、土地所有者となるJean-Baptiste Lubin 1766-1848。この弟は94年9月14日収容されていたPort-Libre牢の中で知り合った
Baronne de Burmann,Jeanne-Cecile Vallegeas 1745頃-1806と結婚し、死別後の1816年Francoise Antoinette de LAGARDE 1788-1858と再婚、三男一女をもうけ、レジスタンスの諜報活動家で有名なHubert de Lagarde
1898-1945の曾祖父{孫娘の子}に当たる。弟Simon LUBIN 1767-1835は眼科医でブリュッセルに定住、その治療法で名高い。末弟Pierre Francois LUBIN 1774-1853は98年最も古い香水ブランドを立ち上げ、その後も王族
相手の高級ブランドの創立者として名を残した)

弟・Jean-Baptiste Lubin  
弟・Simon LUBIN......................................末弟・Pierre Francois

2735. ジャック・二コラ・リュミエール LUMIERE (Jacques-Nicolas), 45歳。音楽家。パリ生。
(Bourdonnais通り在住のヴィオラ・ヴァイオリニストで、92年パリ自治体総評議会委員。公会に背いて処刑。1793年10月14日マリー・アントワネット裁判の時の12名の陪審員の一人。
Museum地区の代表委員で2704や2729と共に処刑されたLumiereという人物がいるが、この人のことだろう)

2736. アンドレ・マルセル MARCEL (Andre), 53歳。石工。ロズニーRosny生。
(1741-94 2713やBarelleという人物と共にFaubourg-du-Nord地区{Faubourg Saint-Denis地区が93年1月に改名}の代表委員。
父親はやはり石工のJean MARCEL 1707生。母親はElisabeth PATTU 1711生。没年不詳の兄Francois-Noel MARCEL 1738生 がいた。
1771年パリにてMarie-Elisabeth FRERELAIS 1749-1841と結婚し五男一女をもうける。長男Andre 1772-1832は建築業を営み、結婚し五男をもうけた。次男Pierre 1773生 は鍵屋となり1817年結婚している。
三男Louis-Andre 1775-94は第10軽歩兵大隊第8中隊の義勇兵となり、94年4月16日Estreuxの森で捕らわれ、村の火災により焼死したものと思われる。四男Andre Alexandre 1777-1841は大工の親方となり、
結婚し一女三男をもうけた。五男Marie-Hippolyte 1780-1855は食品商となり、結婚し三男一女をもうける。長女Marie Madeleine Victoire 1785生 はリネン女工となり、1811年結婚している。
この人は屋根葺き職人で建築請負業で、結婚に際して400リーヴルを、花嫁は600リーヴルを持参したとある。尚、妻は91歳まで生きた)

2737. ルイ・ジョゼフ・メルシエ MERCIER (Louis-Joseph), 40歳。大工。サシー・ル・グランSacy-le-Grand生。
(1754-94 建具屋で、2700や2718と共にl'Arsenal地区{名称変更なし}の代表委員。地区は三人の代表を除外して公会を支持した。
ピカルディーのSacy-le-Grandに1754年3月1日に生まれたLouis Joseph MERCIERは没年・詳細は不明だが、当人であると思われる。
父親は建具屋で67年パリに移住したEdouard MERCIER 1731-78以降。母親はMarie Marguerite FERON 1728-98以降。夭折含め四男五女の次男。誕生時には長兄は逝去しているので長男か。
この人以外は末妹 Marie Marguerite 1769頃生 以外夭折している。この末妹は98年に結婚している。
この人の結婚記録はこの系図にはない。また後者との関係も不明だが、「二人のメルシエがいて・・・」という記述があり、この人と後者が記されているので、関係はないものと思われる)

2738. マルク・マルティアル・アンドレ・メルシエ MERCIER (Marc-Martial-Andre), 48歳{43歳とも34歳とも}。書店。パリ生。
(1761-94 La Clef通りの書店業で、元アッシニア紙幣印刷の管理官。 Antoine Gency 1761-94と共にFinistere地区{Gobelins地区が92年8月に改称したもの}の代表委員。Antoine Gencyについては、地区WiKiでは94年
7月29日の処刑{ちなみにこの人は7月28日だが}になっているが、2671に名がある。
Lazowski人民協会の委員でもあった。Anne de Byと結婚していた。また前者との関係も不明だが、「二人のメルシエがいて・・・」という記述があり、この人と前者が記されているので、関係はないものと思われる)

2739. ドミニク・ムット METTOT (Dominique), 45歳。請負人agent d'affaires。ナンシー生。
(1749-94 ドミニク・メロー Dominique Mellotとも。 請負人でパリ市戸籍記録部署の書記官。
ナンシー生まれのDominique METTOT 1794没 は、下宿屋主人でFrancoise Angelique VIAUCOURT 1782没 と結婚し82年生まれの一男をもうけているが、パリにて死亡であるものの死亡月日は8月14日である。
1793年5月25日の居住証明書があり、セーヌ県管理部書記長Claude-Francois-Etienne Dupin 1767-1828やMail地区議長Jean FrancoisTranche-La-Hausse 1754-1810、Mail地区議長委員Honore Le Moyne
Serigny 1733-1811等の署名のあるその書類の書記欄に署名された綴りはMETTOTとなっている。
90年〜91年にパリ48区総合事務所長に任命されている。このMail地区は最初はLa Place Louis XIV地区と呼ばれ、92年12月Mail地区あるいはPetits-Peres地区と名称変更になり、93年12月にGuillaume-Tell地区
になった。地区WiKiには、代表委員について書かれていない)

2740. ジャック・モニエ MONIE (Jacques), 39歳。簿記係。リヨンCommune affranchie生。
(ジャック・モワーヌ Jacques Moyne 簿記委員、自治体国家代理人補佐)

2741. ジャック・モレル MOREL (Jacques), 50歳。著作家。 ヴァノーヴルVanoeuvre生。
(1749-94 著作家でパリ市会委員。2708、2722と共にMarches地区{最初Marche des Innocents地区、92年10月Halles地区に改名、93年5月この名に}の代表委員)

2742. 二コラ・ノーダン NAUDIN (Nicolas), 35歳。大工。ヴィル・シュル・ヨンVille-sur-Yon(⇒Ville-sur-Yron)生。
(1759-94 Chariot通り在住の大工。2751やFiguetという人物と共にTemple地区{名称変更なし}の代表委員。Ville-sur-Yronのサイトにも名があるが、同地出身のノーダン姓は多く系図に確認できるものの該当者なし)

2743. フランソワ・オーギュスト・パッフ PAFFE (Francois-Auguste), 41歳。帽子商人。パリ生。
(1753頃-94 Francois-Auguste Paffとも。8月11日処刑とも。 帽子商人。名士。 Lepineという人物と2712と共にArcis地区{名称変更なし}の代表委員。市庁舎の後ろにあるSaint-Jean-en-Greve教会で会合を開いてい
たセクシオン。
父親はやはりパリ出身でシャンジュ橋の帽子商のLouis PAFFE 1720-88以降。母親はやはり帽子商の娘Marie-Madeleine BELLOT 1755頃没。姉と妹がいた。姉はMarie Anne Adelaideで95年亡くなっている。妹
Hyacinthe Madelaineは生没年不詳だが、1777年結婚し一女をもうけている。父親は母親と死別後に商人の娘Marie Romaine LE CHEVALLIER 1760没 と再婚し、一女二男をもうけている。
この人は1779年パリでCatherine Francoise BOURGAIN 1754生 と結婚し、一女Aspasie Antoinette Olympe PAFFE 1785-1825頃をもうけ、この娘は1804年オテル・デューの医師Pierre Marie HONORE 1777-1851と
結婚、三女一男をもうけている。また妻の兄Denis Guillaume BOURGAIN 1751-1810は、Quatre-Nations地区の代表委員を1791年と1792年〜93年とやり、93年セーヌ県議員、1795年10月26日より1798年5月20日の
間、総裁政府五百人会の議員に就く)

2744. ジャン・パコット PAQUOTTE (Jean), 48歳。彫金師。トロワTroyes生。
(1746-94 彫金師で自治体役人。 ChampeauxとMasseという人物と共にl'Unite地区{93年4月迄Quatre-Nations地区。前者の義兄が93年迄代表委員をしていた地区}の代表委員。パリ市会に宣誓したこの人だけ処刑)

2745. ピエール・ルイ・パリ PARIS (Pierre-Louis), 35歳。パリ生。
(1759-94 文芸belleslettresの教授。自治体役人。Gadeau、Lorinetと共にPantheon-Francais地区{92年8月まで名称はSainte-Genevieve地区}の代表委員)

2746. フランソワ・ペルティエ PELLETIER (Francois), 33歳(⇒32歳)。ワイン商。シュミノンCheminon生。
(1761-94 ワイン商で自治体委員の名士。Jean Leonard Faro 1760-94{画家。もしくはFarrot。同日処刑だが、この記録にはなし。もしかしたら2748?}とRenardという人物と共にFaubourg-Poissonniere地区{当初は
La rue Poissonniere地区と呼ばれていた}の代表委員。
父親は日雇人夫Jacques PELLETIER 1724-99。母親はFrancoise PETIT 1726-90。三女一男の長男。姉二人は夭折。妹Marie Magdeleine 1767-1804は1790年大工Jean JACQUESSON 1767-1850と結婚して、六男
三女をもうけている。このジャクソン家の生地Jussecourt-Minecourtのすぐ近く{30qほど}にChalons-en-Champagneがあるが、そこのジャクソン家はシャンパンの有名な銘柄ジャクソンの創業者の家系。{シャンパンの
栓を抑える金具の発明も同一族でナポレオンに好まれた銘柄}その創業者Claude JACQUESSON 1735-95{1800とも}がおり、その息子Memmie JACQUESSON 1779-1835が事業を発展させた人物であり、この夫とは
同時代人で、シャロンの国民衛兵中佐をしており、「ワイン商」{シャンパンは発泡性ワイン}である。この人もワイン商であり、妹の嫁ぎ先がジャクソン家であり、有名なシャンパン事業のジャクソン家と同名で同地域なので、
何らかの関係が想像される。この人の出生地Cheminonも近い地域。
この人の結婚記録は系図にはない)

2747. ピエール・ルミー REMY (Pierre), 45歳。机職人。ショーモンChaumont生。
(1749-94 机職人tablettierで警察行政官。Lucien Levasseurや2753とl'Indivisibilite地区{92年8月までLa Place-Royale地区だったが、Federes地区と名称変更になり、93年7月にこの名になる}の代表委員)

2748. ジャン・レオナール・サルロワ SARROI (Jean-Leonard), 31歳。画家。パリ生。
(Jean Leonard Faro 1760-94は画家でパリ生まれで、Renardという人物と2746と共にFaubourg-Poissonniere地区{当初はLa rue Poissonniere地区と呼ばれていた}の代表委員。処刑年齢が合わないが、別資料には
Leonard Farrot、画家、31歳、パリ生まれともあるので年齢は合致する。SARROIのIはトレマ付きではあるが、他の資料には出て来ない。TTをトレマ付きのIIにスキャン相違していたケースあり、その場合SARROIは
SARROTとなる。SがFと取り違えてSARROIとなったのかも知れない)

2749. プロスペル・シガス SIGAS (Prosper), 35歳。委員。ヴィルVire (Calvados)生。
(二コラ・プロスペル・シジャス Nicolas Prosper Sijas 1759-94  元税務監督委員で陸軍大臣補佐官。陸軍省の事務長Chef des bureauxともあり。1793年7月2日、ArdecheとLozereの公会委員市民Gleizal宛のDusaillantら
5人の逮捕に関しての指示書や1793年9月13日のアルプス軍司令委員宛の軍憲兵士官らの給与についての指示書、1794年2月22日Journal Universelの編集者宛の陸軍大臣の購読新聞部数の連絡等の記録文書が
残っている。陸軍大臣はJean-Baptiste Bouchotte 1754-1840。この人は陸軍省第四部局補佐官ともある。
父親はヴィルとコンデの租税主席検事Pierre Charles Sijas。母親はMarie-Julienne Le Creps。八男一女の三男。
「兄も逮捕」とあるので、次兄は夭折しているので長兄のPierre Charles Julien 1752-1815のことだろう。結婚し一男一女をもうけている。1815年没だから釈放されたのだろう。弟Jean Baptiste Frederic Francois 1758-
1856は結婚記録はないが98歳でパリで没している。他の兄弟姉妹は夭折か、没年等の記録がない。
1788年結婚した妻はMarie-Anne Krems。「兄も妻も逮捕」とあるので、この妻も逮捕されている。逮捕時Chantre通り在住。夫ともに頻繁にロベスピエールを賛美支持したジャコバン・クラブの会合に出向いていたと告発
されている。妻は後にPreville某と再婚しているので釈放されたのであろう。89年イヴリーヌのHouillesで生まれた男児がいたが同地で夭折している)

2750. エティエンヌ・アントワーヌ・スアール SOUARS (Etienne-Antoine), 56歳。オーベルヴィリエAubervilliers生。
(Etienne-Antoine Souard{但し系図はSOUARS} 1738-94 鏡師。郵便管理官。 2666と共にLa Reunion地区評議会代表委員。元はBeaubourg地区という名称だったが92年9月に改称。2,996人の労働者と1,220人の経済的
弱者を含む16,320人の住民がいた地区。
結婚歴はあるが妻の姓氏は不詳。両親も不詳)

2751. ジャン・バティスト・クレパン・タイユボ TAILLEBOT (Jean-Baptiste-Crepin), 58歳。石工請負業。ジュイ・ル・プープルJouy-le-Peuple生。
(1736-94 ジャン・バティスト・タルボ Jean-Baptiste Talbotとも。 石工でパリ市会役人。2742やFiguetという人物と共にTemple地区{名称変更なし}の代表委員。 Pontoise管理官ともある。faubourg du Temple通り在住)

2752. ピエール・タンション TANCHON (Pierre), 32歳。彫刻家。ブールジュBourges生。
(ポンス・タンション Ponce Tanchon 1762-94 彫刻家で警察行政官。テルミドール反動当日、タンプル塔の監視役割を割り当てられていた一人。La Cite地区{92年8月迄はNotre-Dame地区、93年一時La Raison地区
とも呼ばれていた}の代表委員。他にLenoirという人物と2730が代表委員だった。テルミドール反動でロベスピエール一派が市庁舎に入り体勢立て直しを図っている夜、タンプル塔の夜勤監視の役割を割り当てられた自治
会委員は5人しか集まっていなかった。というのも、この人が現れなかったからである。市の中央では警鐘が鳴り続いており、何事かが起きている気配だが、誰にも真相はつかめていない。やはり夜勤監視の任を申し付け
られていた医師ロリネもシテ島を横切り、不穏な様子に市役所の様子を見に行く。そこでは自治市会が国民公会に反旗を翻したとの噂でもちきりだった。しかし彼はともかくタンプルの任地に向かった。しかし、この人は
事態の展開に市会の意向に従い夢中になって、演説して公会に対する攻撃に加わろうと行動した。そこで、タンプルの夜勤監視員が夜10時というのに一人欠落したのだ。ロリネ医師は好奇心を捨ててタンプルに入った
ので、その深夜と翌日に公会から差し向けられた委員がタンプルに入ってきた時も中立的な立場をとれて、なんとか命拾いをした。しかし自治市会に深く肩入れしたこの人は逮捕され、処刑されたのであった)

2753. ジャン・バティスト・ヴァンサン VINCENT (Jean-Baptiste), 36歳。建築請負業。ムーティエ・サン・ジャンMoutier-Saint-Jean(Mouthier St-Jeanとも)生。
(1758-94  2747やLucien Levasseurとl'Indivisibilite地区{92年8月までLa Place-Royale地区だったが、Federes地区と名称変更になり、93年7月にこの名になる}の代表委員。市会総評議会委員で、重砲係官agent de 
la grosse artillerie。
Tournelles通り在住。92年8月10日の自治市会総評議会委員。 l'Indivisibilite広場{現ヴォージュ広場}の大砲鋳造所の建設を行った。その意味でも革命思想やサン・キュロットではなく国への奉仕をしていた人物。93年
10月コンシェルジュリーからマリー・アントワネットを救出する陰謀への加担者として名があがったこともある。ラ・フォルスからリュクサンブール牢に収監されもした。トゥーランは処刑。この人は、自分の容疑がまだ認識
力もないカペーの息子によるものであると主張。またこの人の妊娠中の妻と大砲鋳造所の監督官Bernard Poyetからの嘆願書が国立文書保管所に保存されている。公安委員会もこの人の武器の生産能力を鑑みて、
この時は無事に解放された。しかし今回のテルミドール時は、一時的に加わっていた自治市会の委員として91名と共に署名した為、翌朝、逮捕されてしまった。
この人の王室への親切な対応はある遺品が2004年オークションにかけられたことでも裏付けられている。それは捕らわれのルイ16世が身に着けていたcravat{形態はスカーフ}である。7万ユーロでアメリカ系フランス人
が競り落としているが、このモスリンの無地のスカーフはルイ16世が92年12月27日裁判に出廷する朝に立ち会っていた自治体委員のToulanとCailleuxとこの人がおり、この人が国王の出発を王妃に伝達するという好意
を示したことに対し、国王が首のスカーフを解いて手ずからそれを礼として渡したと、その朝国王の着替えを手伝っていたクレリーの記録に記されている物品。このスカーフはこの人の未亡人がガラスケースに保管し、
再婚先の家族の所有となり、後に相続の争いから売却するに至りオークションにかけられた経緯があった。下記の画はミニチュアールで、このスカーフと共に保管されていたこの人の肖像である)

 Jean-Baptiste Vincent

2754. ジャン・ギョーム・フランソワ・ヨカ二ュ YOCANNU (Jean-Guillaume-Francois), 37歳。糸小間物商人。ドイツ出身。
(ジャン・ギョーム・フランソワ・ヴォカニュ Jean-Guillaume-Francois Vaucanu 1747-94  国立公文書館の記録にはVAUCASNNEまたはVAUCANUで、カルヴァドスのMontgommey生まれと「?」付きであり、年齢も35歳又は
37歳と記されている。WallonによればJean Guillaume Francois VAUCANU 37歳とのこと。地区WiKiによる生没年とは不一致だが。
2679や2728と共にLa Maison-Commune地区{92年8月L'Hotel de Ville地区より改名}の代表委員)

2755. マルタン・ヴィトリッヒ WICHTERICH (Martin), 45歳。ケルンCologne生。
(マルタン・ヴィルトリッツ Martin Wiltcheritz 1749-94 Witchevitchとも。 靴屋で警察行政官。2707のDORIGNYと処刑されなかったSaretと共にPopincourt地区代表委員。2762のLAHUREは同地区司令官補)

1794年7月30日

2756. ジャン・ジャック・アルテュール ARTHUR (Jean-Jacques), 33歳。製紙業。パリ生。
(ロベール・ジャン・ジャック・アルテュール Robert Jean Jacques ARTHUR 1761-94 イギリスの家系出の壁紙製造業で市会総評議会委員。父親の元で製紙業を営み、88年事業を継承。ジャコバン派の市会評議会副議長。
90年ジャコバン・サン・トノレ部の議長となり、92年8月、パリ市会総評議会委員。92年11月ピク地区{元La place Vendome地区と呼ばれていた。ヴァンドーム広場は後にピク広場に改名される}の議長。9月虐殺の組織者
の一人。10月のジロンド派への攻撃者でもあり、地区でのロベスピエールの後任。ピク地区はロベスピエールが所属していた地区で、ロベスピエールは92年8月生出された五人の委員{他はMoulins, Duveyrier,Piron, 
Laignelot}の一人だった。ロベスピエールは公会に選出されるとほぼ地区には現れなかったが、彼の家主Duplayが委員となっていた。また有名なロベスピエール最後の署名「Legrand、Louvet、Payan、Lerebours、Ro…」
の指令書はこの地区の市民への呼び掛けのものであった。90年来、この地区の市民であったサド侯も93年議長に選出されたが、病気を理由に同日中に辞任している。
テルミドール時に共に処刑されたピク地区の委員には2694、また同業者の2716がいる。
父親はイギリス、シュロップシャーのOswestry生まれの時計職人で壁紙製造業のJean ARTHUR 1716-1801。母親は金細工職人の娘Suzanne Charlotte Caroline DEJEAN 1738頃-1805。父親はパリで1756年ブルジョワの
娘である妻と結婚し、フランスに移住、57年時計職人親方となる。スケルトン時計を専門とし時計商として開業。65年、サン・ドニに甥のBoyle ARTHURと壁紙製造所を開業した。解散後70年l'Arbalete通りにて再開業。
娘の名付け親Rene Grenard{2716}と協業する。83年Louis Legrand通りとboulevard des Italiensの角に移転。また時計店もAugustins通りに移転。1788年11月に「Royal Factory」の称号を獲得。ヴェルサイユやチュイルリー宮
の壁紙等も提供。また彼は木製の車輪に替わる金属製の回転車軸の技術開拓者でもあった。自由主義的な思想の持主でもある。
 この人には妹が一人いた。上記の通り父親の協業者Rene Grenard{2716}が名付け親になっているMarie-Suzanne 1779-1807である。1796年パリで塗装業Louis-Julien GOHIN 1765-1834と結婚している。この夫の父
Julien GOHINも父親の協業者である。二男一女をもうけている。
この人の結婚記録はないが、Marie Adelaide MARIN 1788以前没 と関係し一女Adelaide MORET 1781生 をもうけているようだ。1788年11月18日に7歳のこの娘の家庭教師にこの人とその父親Jeanが料金を支払っている。
また「結婚」としている系図もある)

父・Jean ARTHUR  
妹・Marie-Suzanne ARTHUR

2757. フランソワ・レミー・カミュ CAMUS (Francois-Remy), 47歳。商人。パリ生。
(1746-94  革命以前は商人{扇子等の商人か⇒Marchand evantailliste}。自治体委員。系図では生没年は、1744頃-94、処刑時50歳とある。
父親はRemy CAMUS。母親はMarie Anne DEROUARD。71年Sucy-en-Brieの庭師の娘Marie Denise Joseph FAGART 1751-1808と結婚している。子の記録はなし。
Mail地区の14人の選挙人の中にあるこの人の記録では、両替仲買人で46歳、モンマルトル通り84番地在住とあり、1746年11月26日パリ生まれでジャコバン協会員で自治体総評議会委員、94年7月30日処刑、
とあるので、こちらの方が正しいと思える。{2759と同じ}
この地区は始め92年12月迄La Place Louis XIV地区と呼ばれ、次に93年12月迄Mail地区もしくはPetits-Peres地区となり、Guillaume-Tell地区となった地区。地区WiKiには代表委員の名がない。

2758. ピエール・シエッティ CIETTI (Pierre), 41歳。画家。 Traffmme(⇒LombardiaのTrafuil)生。
(1752-1794 Pierre Ciettyとも。画家で自治体委員。 2664や2766と共にMontreuil地区{名称変更なし}の代表委員。1778年イタリアから渡仏。あのJean-Baptiste Reveillonの工房で働いた後、壁紙の画家として
装飾家でアルトワ伯の主任建築家等も務めたFrancois-Joseph Belanger 1744-1818{94年2月貴族との関係ある立場として逮捕、サン・ラザール牢に恋人のオペラ歌手Anne-Victoire Dervieux 1752-1826共々投獄。
テルミドール反動後の8月に釈放され結婚した}の作業に参加している。革命後は公安委員会の事務所の壁紙装飾も担当した。また地区のWiKiにはこの人の生没年が1763-1794となっているが、1752-94が正しい。
1787年3月16日付のMarie Louise TALAMONAと画家Pierre CIETTYの何らかの記録あり。結婚か?)

2759. アントワーヌ・フレリー FRERY (Antoine), 62歳。ナンシー生。
(1732-94 アントワーヌ・フリリー Antoine Friryともある。自治体総評議会委員。
Mail地区の14人の選挙人の中にあるこの人の記録では、国営富くじ事業職員で、Vieux-Augustins通り8番地在住の60歳、1732年ナンシーうまれで、自治体総評議会委員、94年7月30日パリにて処刑、とある。2757
と同じ。この地区は始め92年12月迄La Place Louis XIV地区と呼ばれ、次に93年12月迄Mail地区もしくはPetits-Peres地区となり、Guillaume-Tell地区となった地区。地区WiKiには代表委員の名がない)

2760. ピエール・ウスターシュ・ジエマリー GILLETMARIE (Pierre-Eustache), 41歳。舗石業。パリ生。
(ピエール・ウトロップ・ジエ・マリー Pierre-Eutrope Gillet-Marie 1753-94 舗石業で自治体総評議会委員。処刑簿の原文にはPierre-Eustacheとなっている。Bourgogne通り在住。2764と共にInvalides地区{名称変更
なし}の代表委員)

2761. ジャン・バティスト・グリエ GRILLET (Jean-Baptiste), 67歳。パリ生。
(肖像画家で自治体員。Bertin Poiree通り16番地に居住。Bertin Poiree通りは2704、2729、2735が代表委員として処刑されているMuseum地区内。
1787年1月25日Saintonge通り在住のJean-Baptiste GRILLET{市警Garde de la Ville}の妻Marie Francoise DEGUET死去、という記述がパリ・シャトレ記録にある。また1747年2月4日付のJean Baptiste GRILLETとMarie
Magdelaine DELAPLANCHEとの結婚記録が公証人Claude Francois RAINCEの記録簿にある。また1757年7月11日付の「彼ら{左記の二人の名が連記}の娘Marie Francoise Elisabethの保護者」としての記録がある。
またJean Baptiste GRILLETは1757年12月13日パリ市役所巡査Garde archer de l'hotel de villeとして記録されている。しかし、肖像画家と市警吏員という関連性が結ばれず、当人の記録か不明)

2762. ジャン・エティエンヌ・ロール LAHURE (Jean-Etienne), 38歳。宝石商。モンルイユMontreuil生。
(宝石商でポパンクール地区司令官補。Popincourt地区の代表委員は2707と2755、そして処刑されなかったSaret)

2763. ジャン・フランソワ・ルシュナール LECHENARD (Jean-Francois), 33歳。仕立屋。ランRans生。
(1757-94 仕立屋で8月17日の裁判の判事{1792年8月17日に設立された「革命裁判所」[特別刑事裁判所]の各地区より選出された判事の一人}。パリ市総評議会委員。2688、2720と共にBon-Conseil地区{92年8月迄
Mauconseil地区と呼ばれていた}の代表委員。
フランシュ・コンテのRansにて、同姓の系図が確認できる。Jean Louis LECHENARD 1719-60とかPierre Francois LECHENARD 1715-52 農民とか。但しどれも該当しない)

2764. シャルル・二コラ・ルルー LELEU (Charles-Nicolas), 40歳。鬘師。ヴィトリー・シュル・マルヌVitry-sur-Marne(⇒MarneのVitry-le-Francois)生。
(Charles Nicolas Leleu 1753-94 {系図では8月30日生まれなので処刑時は40歳で合致。地区WiKiでは1750-94、こちらは年齢が合わない} 2760と共にInvalides地区{名称変更なし}の代表委員。自治体総評議会委員。
父親はCharles Francois Leleu 1719生。母親はJeanne Therese Broncquart 1726生。四人兄弟の次男。{長男とする系図あり}
兄Claudeは夭折か1752年生まれとのみ。弟Francois 1755-58は夭折。末弟Louis Joseph Leleu 1757-1828は1785年郷里Vitry-le-FrancoisでJeanne Plutと結婚している。この人の結婚記録はない。またこの人を四人
兄弟の長男とする系図では、上記兄のClaudeの生没年が1759-62となって末弟となっている。他は同じ。Louis Josephは結婚で一男一女をもうけている記載あり。やはりこの人の結婚記録はない)

2765. レオポール・二コラ NICOLAS (Leopold), 印刷屋。ミルクールMirecourt(Vosges,Lorraine)生。
(シャルル・フランソワ・レオポール・二コラ Charles-Francois Leopold Nicolas 1754-94 印刷屋でパリ市会委員。1793年10月14日マリー・アントワネット裁判の時の12名の陪審員の一人。
ロベスピエールと大変に近い人物で、デュプレ家の近くに印刷機を設置し、あらゆる印刷物を集中的に請負い、かなりの繁盛した。ジャコバン協会と公安委員会の印刷屋となり、その検閲も行っている。Nicolas de
Mirecourtとも呼ばれている。ロベスピエールの身辺警護等も行っている。
また同郷のヴォージュのサン・レミ生まれの弦楽器製造業者で名高いLeopold Renaudin 1749-95とは親戚{父親はMirecourtの靴職人}で、l'Oratoire地区{1792年にGardes-Francaises地区に改名}の代表委員にも
なっており、ジャコバン支持者となっていたが、この人の影響が強かった。かつて王立音楽院で働き、そのチェロやコントラバスの製造で後世に名を残したこのRenaudinも、95年5月に処刑されてしまう。
父親は弦楽器製造業Francois Nicolas 1724-72。母親はAnne Boyer 1731-1804。十二男三女の次男。生没年不詳の長兄だと思われるFrancois Nicolasは75年郷里のMirecourtでElisabeth Mastと結婚し二男をえている
とする系図もあり、九男Jean Baptiste 1766生 が92年MirecourtでMarie Francoise COLLIN 1768生 と結婚しているとする系図がある。また父親には前妻{Jeanne Therese VUILLAUME 1726-52}がおり、その間に
Francois 1751-82という異母兄がいて、75年Elisabeth MAST 1753-1833と結婚しているとあるので、上記の「長兄と思しき」Francoisはこの異母兄であると思われる。実兄Francoisは54年に生後3日で夭折しているとある
ので、そちらが正しいかと思われる。尚、異母兄は二男ではなく一女三男をElisabeth MASTよりえているとある。他の兄弟姉妹はやはり夭折か没年・詳細がない。
他の兄弟姉妹は夭折か、没年・詳細がない。またこの人は82年郷里MirecourtでLa Fereの馬具屋の娘で装飾品の女商人Marie Catherine Henriette Vignon 1752-94以降 と結婚、83年、85年と二男をえているが
夭折している)

2766. ピエール・フランソワ・ケニアール QUENIARD (Pierre-Francois), 54歳。唐木細工師。パリ生。
(1740{39とも}-94  唐木細工師で自治体総評議会委員。2664や2758と共にMontreuil地区{名称変更なし}の代表委員。La Roquette通り68番地在住。
通称ギニャール Guignardと呼ばれていたキャビネット職人でルイ16世様式の作品が多々残っており、ルーヴル美術館でも展示されている。1767年1月21日親方の称号を得た)

2767. ジョゼフ・ラヴェル RAVEL (Joseph), 48歳。外科医。タラスコンTarascon生。
(外科医で自治体総評議会委員。Dupaumierと2710と共にDroits-de-l'Homme地区{92年8月迄Roi de Sicile地区}の代表委員。
タラスコンにはRavel家の系図が確認できるが、この人に該当するものはない)

2768. フランソワ・トルト TORTOT (Francois), 31歳。時計職人。パリ生。
(フランソワ・トルロ Francois Torlot 時計職人で、警察行政官。国立公文書館の記録ではTORTOTまたはTORLOTとある。 1786年4月25日に時計職人親方の称号を与えられた。88年Dauphine通りに居住。
Montreuil地区の所属だが、地区WiKiの三人の代表委員の中には名はない)

1794年8月5日

2769. ピエール・アンドレ・コフィナル COFFINHAL (Pierre-Andre).
(ピエール・アンドレ・コフィナル・デュパイユ Pierre-Andre Coffinhal-Dubail 1762-94 オーヴェルニュのVic-sur-Cere生。31歳で処刑。弁護士、革命裁判所裁判官。処刑は8月6日である。 Jean-Baptiste
Coffinhalとして知られている。
93年Le Regrattier通りに住んでおり、政治活動に積極的に加わる。すでに91年立法議会選挙と翌年の国民公会選挙で l'Ile-Saint-Louis地区{92年La Fraternite地区に改称}の委員となっており、その後、
この地区の警察行政官となっている。ジャコバン・クラブに入っており、92年8月10日のチュイルリー襲撃にも参加、その直後の8月17日に設置された特別刑事裁判所の裁判官となる。自分を古代人的に
Mucius Scaevola Coffinhalと呼んでいた。{他例はGracchus Babeuf 、 Anacharsis Cloots}
93年3月10日に革命裁判所が設置されるとその裁判官の一人に任命され、フーキエ・タンヴィルの友人となる。ロベスピエールに政治的には近い立場で、その熱心さと非道なやり方は多くの憎悪の対象と
なっていく。94年3月エベールとエベール派の裁判、ラヴォワジエと徴税請負人たちの裁判{共和国は科学者を必要としない、と発言したのもこの人}、リュクサンブール牢の陰謀事件、シェニエ裁判を主宰
する。1794年6月11日には3人の副議長vice-presidentsの一人になっていた。後にフーキエ・タンヴィルが法廷で証言したように、証拠の多くはこの人により改竄・隠蔽されたという。
テルミドール反動の際、1794年7月27日夜に地区の大砲・兵士を率いてアンリオを市庁舎に向かわせた。その後、市庁舎に公会側が突入した際に、酔っ払っていたアンリオを窓から放り出したのはこの人
だと伝えられている。この人は攻撃に最中に辛くも逃亡に成功する。カンタルの同郷の船頭に匿われてセーヌ河沿いにCygnes島に逃げ落ちた。しかし空腹に耐えられなくなり、Montorgueil通りの愛人Negre
嬢のもとへ救いを求めるが、彼女に拒否され、通報され、逮捕されるに至る。 8月6日、断頭台を前にしたこの人に群衆は、裁判所でのこの人の常套句を真似て「コフィナル、あんたの話す番じゃないぞ!」と
野次ったという。処刑後にこの人の所蔵品には237本のワインのセラーと300本の空のボトル、さらに225リットルに相当するフル樽のワインが含まれていた。
 父親はVic-sur-Cereのバイイ裁判所弁護士Annet Joseph COFFINHAL 1705-67。母親は外科医の娘Francoise DUNOYER 1728-81。夭折含め七男四女の七男。
地元の貴族よりも裕福な家柄であった。長兄のJean-Baptiste 1746-1818は父の職を継承し、国有財産化した裁判所の資産を購入、近衛銃士の娘Madeleine ROBLASTE de RHAINVILLE 1750-82と77年に結婚、
二女二男をもうけた。次兄Pierre 1747生 は医者となる。姉Louise 1750生 は71年Vic-sur-Cereのバイイ裁判所検事Antoine MOULINと結婚。兄Jean 1754-87はSaint-Sauveur司祭に。兄Pierre-Paul 1756-1802
は陸軍省委員でリモージュ財務検査員となり、98年結婚し一男をもうけている。兄Joseph 1757-1841は国王評定官、同秘書官になり、革命後はナポレオンに仕え、その戴冠式の出席者の一人となり、またこの人
の元で悪名を晒したCoffinhal姓を捨てて母親のDunoyer姓の名乗りを認可され{長兄もそうしている}男爵位を1816年授かっている。結婚し一男を得ている。
この人は次兄ピエールを倣って医学の道へ進もうとしたが、それを諦めてパリに出て検察官事務所に勤務して社会に出ている。
この人の結婚記録はなく、Demoiselle NEGREとの関係のみでる)

 酔っ払いのアンリオを窓から突き落とすコフィナル

2770. ジャック・ルイ・ジョゼフ・デザクル (通称ドレーグル) DESACRES dit Delaigle (Jacques-Louis-Joseph), 36歳。パリ生。
(レーグル侯爵ジャック・ルイ・ジョゼフ・デ・ザクル・ド・レーグル Marquis de L'Aigle, Jacques Louis Joseph des Acres de L'Aigle 1758-94 王軍中将、野戦総監、初代L'Aigle市長。
五代目にして最後のレーグル侯爵。{叔父である448の息子が王政復古時にレーグル侯位を復活している}1792年4月、この人は1624年以来彼と彼の祖先がその名前を冠していた領地と城を売却。
この人は血筋から王室主義者と思われがちだったが、叔父をこの年3月に、母を5月に処刑されながらも自分の抱いた大義に大変に忠実で、その勝利の為の行いの全てを正当であると信じていた。
偽アッシニャ紙幣の発行によりアランソンで裁かれパリで処刑された。{レーグル城は1944年の爆撃部分を修復後、現在は市庁舎になっている}
父親はアンギャン連隊大佐、野戦総監、王軍中将Marquis de l'Aigle,Louis Gabriel des Acres de L'Aigle 1705-1774。母親はAnna Salome van Waes 1739頃-94{⇒919}
父親は再々婚で前妻との間に一子いたが51年夭折している。61年生まれの妹Fortunee Francoise Josephe 1760-79がいたが19歳で早世。
1790年Aglae Henriette Flore Calixte de Gaucourt 1768-1847と結婚し、ニ女をもうけるも93年、97年に夭折し断絶。
 ACRES家はノルマンディーの名家。1587年に結婚によりL'Aigle男爵領を得る。1628年ラ・ロシェル攻囲でNicolas des Acresが戦死。1650年4月代々の王室への貢献によりJacques des AcresがL'Aigle
侯爵位を授かる。448は叔父(父親の異母弟)のComte de L'Aigle。この伯爵の息子{従弟}Louis L'Esperance des Acres 1764-1851が復古期にレーグル侯位を復活させた。尚、このLouis L'Esperanceの
妻Anne Charlotte Caroline Gabrielle de Vintimille du Luc 1785-1810はルイ15世とComtesse de Vintimilleの私生児Marquis du Luc, Charles Felix Rene de Vintimilleの娘であり、その子らは国王家
の血をひくことになった。Louis L'Esperanceの孫で政治家のRobert-Arthur-Esperance des Acres 1843-1931,その息子でやはり政治家になったMarie-Joseph Charles des Acres de L'Aigle 1875-1935も
ルイ15世の血筋の子孫たちとなる)

従弟の孫・Robert-Arthur-Esperance des Acres                        
......................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................従弟の曾孫・Marie-Joseph Charles des Acres de L'Aigle

1794年8月14日

2771. シャルル・ダスニッヒ DUSNICH (Charles), 26歳。アムステルダム生。
(1769-94 Louesnichとも。PassyのTaitout通り在住。後者と共に死刑判決を受け処刑された。結婚していたが、相手の姓名は不明。イラリオン・ダスニッヒ Hilarion Dusnichと呼ばれていた)

2772. ジャン・フランソワ・マリー・ケラトリー KERATRY (Jean-Francois-Marie), 28歳。レンヌRennes生。
(ケラトリー伯爵ジャン・フランソワ・マリー・ド・ケラトリー Comte de Keratry,Jean-Francois-Marie de Keratry 1765-94 年金生活の貴族。保釈評議会で自由になっていた。前者の友人。
Suresnesで逮捕されている。アッシニア紙幣の偽造と配布。1508のFrancoise Augustine Eleonore de SENTUARY・その姉Mme de Bonneuil姉妹の弟ら他数人と捕らわれる。その後9月虐殺で仲間の内3人{Mericourt、
Gerval、Gaudibert}は殺された。{この人やFrancoise Berthellemot, Angelique Legrand, Marie-Anne Bourgoin, Elisabeth Bridan, Marie Paul{2776}, Claude-Andre Champagne de Montereauらはノルマンディーのシュアン
の会計係であるJean-Baptiste Boureau de Placenneが造ったLivarotの偽アッシニャ紙幣工場に関係していた}
父親は1754年〜1774年までブルターニュ議会貴族議長だったComte de Keratry,Julien Jean-Francois de KERATRY 1700-79。母親はCatherine Marie Guillemette du HAMEL de La BOTHELIERE 1730頃-1815。
父親は1730年Saint-Brieucでデストレ元帥の同行者としてMarquis de Sabranによるブルターニュ人への侮辱的な発言に触れ、抗議し決闘となり、負傷した。侯爵は「あなたは負傷している」と叫んだが、ケラトリー
は「相手を殺すまでやめない」と言い放ち、再び剣を交え、侯爵を突き刺して殺した人物。1788年10月3日「Louise, Comtesse de Keratry」がスタンヴィル元帥{国王勅令の高等法院での登録を武力により強制すべく
ブルターニュに派遣された軍司令官}にレンヌから宛てた抗議の手紙にこの決闘が引用されている。{この手紙の執筆者「Louise, Comtesse de Keratry」は、執筆時の1788年、まだ存命だった決闘者の妻[上記の
Catherine Marie Guillemette du HAMEL de La BOTHELIERE]ではなく、「Louise」とあり、また注釈に「ブルターニュ貴族オーギュスト・イラリオン・ド・ケラトリーの姉による」Par la soeur d'Auguste Hilarion de Keratry, 
gentilhomme breton[Auguste Hilarion de Keratryはこの人の弟・後記]とあるから、この人の姉Anne-Louise Aimee de Keratry 1760頃生 であると思われる。
 この人には姉と弟がいた。姉は前出のAnne-Louise Aimee de Keratry 1760頃生。Jean-Baptiste Le CLERC de CERNY 1757頃生 と結婚し一女一男をもうけている。弟はAuguste Hilarion de Keratry 1769-1859で、
革命中はナントで投獄されたりしたが、1818年フィニステール選出議員となり、自由主義思想擁護派の政治家・作家となる。その子{60歳で三度目の結婚により63歳でもうけた子}Emile de Keratry 1832-1904も政治家で、
パリ警察総監、軍人、作家として名を残した。
この人は長男であったが、結婚記録はなく、愛人関係しかない。1468のサント・アマラント母娘らの知人として彼女らが運営していたパレ・ロワイヤルのクラブ「50」の常連だったBarrairon夫人であるJosephine Jeanne 
Armande de L'Isle{Lucile Delille} 1769-1865の求愛者として、同クラブに出入りしていた。この女性は89年にFrancois Marie Louis de Barrairon 1746-1820と結婚したが94年に離婚している)

弟・Auguste Hilarion de Keratry  
甥・Emile de Keratry

2773. フランソワ・マデュボー MADUBEAU (Francois), 35歳。
(どの資料のスペルもMadubeauとなっており、該当もない)

2774. シャルル・アレクサンドル・オーザンヌ OZANNE (Charles-Alexandre), 34歳。商人。シャトー・ティエリーChateau-Thierry生。
(シャルル・アレクシ・オーザンヌ Charles Alexis OZANNE 絹織物の商人。Charles Alexis OZANNEで国立公文書館保管の記録にも、Chateau Thierry出身の34歳、絹織物商人、le 27 messidor an IIに有罪判決、とある。
但しle 27 messidor an IIは1794年7月15日だ。{le 27 thermidor an IIだと8月14日で合致するので、月名相違か?} 罪状はアッシニア偽造紙幣の製造とある。1791年3月11日パリの治安裁判所の記録にはCharles Alexandre
OZANNE、商人、として記録がある。2776は妻?)

2775. ピエール・ジョゼフ・ルーセル ROUSSEL (Pierre-Joseph), 43歳。醸造者。エダンEsden生。
(1751-94 Pas-de-CalaisのCoullemont出身。国王の兵士。フランス北東部Pont-a-Moussonのワイン商。2772のJean-Francois Keratry, Francoise Berthellemot, Angelique Legrand, Marie-Anne Bourgoin, Elisabeth Bridan,
Marie Paul{2776}, Claude-Andre Champagne de Montereau, 他の事件に関与。ノルマンディーのシュアンの会計係であるJean-Baptiste Boureau de Placenneが造ったLivarotの偽アッシニャ紙幣工場に関係している。
Caradec de Kerloury{⇒1480}とその愛人の喜劇女優Louise Legrandらも関与していて、捕らわれた。Louise Legrandは94年8月25日釈放されている。
父親はPierre Roussel。母親はGenevieve Serre。Jean-Baptiste Rousselという兄弟がいるが生没年・詳細不明。
この人は1774年Barbe Jacob 1753-94と結婚し、生没年・詳細不明の一男Georges Rousselをもうけている。妻Barbe Jacobは41歳で死去とだけあり、死亡地等は不明。この人は92年から94年にかけて Francoise Elisabeth
 Berthellemot 1760-95以降 と関係をもっており、この愛人も事件に巻き込まれている。しかし愛人ルーセルは偽造紙幣製造工場のLivarotから彼女を遠ざけてLizieuxのアパルトマンに住まわせていた為、この犯罪の事実
に関して何も知らなかった。よって釈放されている)

1794年8月15日

2776. マリー・ポール PAUL (Marie), 22歳。ノワジー・ル・セックNoisy-le-Sec生。
(偽アッシニャ紙幣製造に関与したため夫と共に処刑。生年不詳。
父親はノワジー・ル・セックの庭師Antoine{もしくはAndre Paul} 1728生。母親はJeanne Catherine Fond 1738生。両親も同容疑で逮捕されていたが無罪釈放された。
共に同罪で処刑された夫はBasse Franciade通りの絹織物商人C(harles ?) Antoine Ozanne 1760-94 とある。シャルル・アントワーヌであっても、2774と少し名が異なるが、同一だろう。 le 28 thermidor an IIなので処刑日付
も合致する。但し夫の処刑日はle 27 messidor an IIは1794年7月15日{94年7月15日}とあり、これはle 27 thermidor an II{94年8月14日}の月名相違であると思われる)

1794年8月18日

2777. アントワーヌ・ポール・ラヴォール LAVAUR (Antoine-Paul), 31歳。モンフォーコンMontfaucon生。
(Antoine-Paul LavaurもしくはLavaux  Gourdonの法律家{モンフォーコンはグールドン地区の州都}。亡命者の兄弟。サン・セレSaint-Cereの貴族家系の出身。モンフォーコンのWiKiには1794年8月18日、Cahors、Sarlat、
Rodezで弁護士をしていたAntoine-Paul Lavaurが国民公会に反対し、「自然の欲求を満たすために自由の木を侮辱した」為に逮捕・処刑されたとある。自由の木は、革命期に自治体により植樹された革命精神シンボルの
若木。自然の欲求un besoin naturelとは排尿・排便のことだから、町の「自由の木」に立小便でもしたのであろう。「ケルシーのテュレンヌ子爵領内、サン・セレに1653年6月11日に生まれたLa Boisse領主で貴族のGuillaume
de Lavaurはパリ高等法院弁護士で、その父のPaul de Lavaurはトゥールーズ高等法院弁護士で...」との記述があるので、司法貴族の家柄だろう。{⇒Guillaume de Lavaur de La Boisse 1653-1731、パリ高等法院弁護士。
その子Pierre-Louis 1692-1754もパリ高等法院弁護士で、モントーバン地方財務局財務官。その子Geraud Louis 1733生 も財務官で1767年にMarie Francoise Roquet d'Estressesと結婚しているところまで系図では
確認出来るが、そこまでである。この人が63年あたりの生まれであれば、この次の世代の親族系だと思われる。尚、このde Lavaur de La Boisseの家系は現在に続いている})

2778. ジャン・ソーモン SAUMONT (Jean), 34歳(54歳とも)。農民。ルシネRoussinet(la Roche-Foucauldとも)生。
(Jean Saumont、通称ラブランLabran。シャラント県ラ・ロシュフコー生まれで、ドルドーニュ県Basserolles在住。「共謀者」として処刑、とあるのみ)

1794年8月22日

2779. ルイ・エーメ AIME (Louis), 33歳。宿屋。ルリエRoulliez生。
(Louis Aubergiste{宿屋} AIME 1794-08-22 , 33歳、Roulliez生まれとある記録文書あり)

2780. ジャン・バル BAL (Jean), 40歳。ワイン商。ラ・ロシュ・スヴァンLa Roche-Sevin生。
(偽アッシニャ紙幣の配布に関与した者として処刑。相場師ともある)

2781. ジャン・ブゴン BEGON (Jean), 28歳。兎皮商人。ロジエールRosieres生。
(前者同様、偽アッシニャ紙幣の配布に関与した者として処刑。2783と同郷同業である)
公証人Antoine Joseph EDONの1791年5月24日の記録にJean BEGONとMarie GERARDの結婚記録がある)

2782. フランソワ・ピエール・デシャン DESCHAMPS (Francois-Pierre), 29歳。将官付副官。レヴィルReville生。
(1765-94 糸小間物商人だった。供給物資商務委員会代理人。 アンリオの参謀部将校。
両親は系図になく、1786年パリにて Fontenay-aux-Rosesの靴屋の娘Catherine HENRIと結婚し一男Maximilien Francois 1792生 をもうけている。名付け親にはマクシミリアン・ロベスピエールがなっている。
これらの関係でロベスピエール兄弟とも親密になり供給物資商務委員会代理人の職務で裕福になり、ルイ15世の狩猟施設でポンパドゥール夫人の滞在場所にもなったパリ南東3キロのMaisons-Alfortに農場を
借りることができ、そこに妻と、妻の故郷出身の娘でアンリオとの結婚を拒否しているRosalie Vincent{息子の名付け女親でもある}と住んでいた。この人はロベスピエールの密命で多くの任務についた。
テルミドール反動時にもアンリオ旗下で参加するが、移動のふりをしてJanvilleに逃亡し隠れることに成功。しかし捕らわれて8月22日処刑された)

2783. ジャン・ジュリ GELY(Jean), 29歳。兎皮商人。ロジエールRosieres生。
(偽アッシニア紙幣の配布に関与。2781と同郷同業である)

2784. ジャン・バティスト・メトル・グーアール GOUARD (Jean-Baptiste-Metre), 29歳。義勇兵。エクスAix生。

1794年8月23日

2785. ピエール・テオドール・ベイユモン BAILLEMONT (Pierre-Theodore), 42歳。ルーアン生。
(ピエール・トマ・ベイユモン Pierre-Thomas Baillemontとも。パリの両替所の取引所内務員。偽アッシニャ紙幣事件に関与した者として処刑。裁判所記録の原本はPierre-Theodoreになっている)

1794年8月24日

2786. ブノワ・デュマ DUMAS (Benoit), 27歳。土工。カプロンヌCapronne生。
(La Villette在住。偽アッシニャ紙幣の事件に関与した者として処刑)

1794年8月25日

2787. ジャン・ルイ・モーリス MAURICE (Jean-Louis), 53歳。石切工。パリ生。
(公証人Francois Le JAYの1772年10月30日付の記録にJean Louis MAURICEとFrancoise BIGNONの結婚記録がある)

1794年8月28日

2788. ジャン・セルヴァン SERVIN (Jean), 70歳。公証人。 マルゼルブMalesherbes生。
(エタンプEtampesの公証人 。「共和国に対する陰謀」で処刑。
公証人Jean ANDRIEUの1753年1月25日付の記録にJean SERVINとFrancoise SIMONNEAUの結婚記録がある。
公証人Charles GARCERANDの1770年5月27日付の記録にJean SERVINとCatherine CAMBIERの結婚記録がある。こちらは記録文書原本にジャン・セルヴァンの名の後にGreffier notaireとあるので、
本人である可能性は高い)

1794年9月1日

2789. ジョゼフ・ジュリアン・ルモニエ LEMONNIER (Joseph-Julien), 38歳。パリ生。
(酢製造業。La Fidelite地区委員。この地区は最初l'Hotel de Ville地区、92年8月にLa Maison-Commune地区に改名、その後テルミドール反動の翌日、市役所の反抗の印象払拭のためにLa Fidelite{忠誠}に再改名
させられた。処刑された代表委員は2679、2728、2754。同地区執行官でもあった。テルミドール反動の夜、ロベスピエール、サン・ジュスト他の議員への誓約書に署名した為に処刑。
1793年8月20日付のJoseph Julien LEMONNIERとAnne Catherine SCHMITEのパリでの結婚記録がある)

1794年9月3日

2790. ジャン・ポミエ POMMIER (Jean), 28歳。使用人。セニー・オー・ヴィー二ュCesny-aux-Vignes生。

1794年9月4日

2791. ジャン・バティスト・ブーヴレ BOUVRET (Jean-Baptiste), 32歳。ブリノンBrinon(Brinon-sur-Arnencon、Brienonとも)生。
(1761-94 ブリノンの教会参事会員で、ブイイBouilly{ヨンヌ}の臨時主任司祭。宣誓拒否の聖職者らと交流を続け反革命的発言をした為に処刑され財産は没収された。{系図では95年9月4日処刑となっている}
父親は水運業、1773年には材木商をしているAndre Nicolas BOUVRET 1728-89。母親はMarguerite Colombe DELION 1738-1808。夭折含め七女三男の次男。
成人した兄弟姉妹では妹Marguerite Colombe Elisabeth 1763-1829は87年結婚し六男三女をもうけている。妹Clotilde Colombe 1770-1832も結婚し四女四男をもうけている。妹 Marie Nicole Emelie 1774-1853は
98年結婚し三女をもうけ、皆、成人している)

1794年9月5日

2792. ジャック・ロンバール LOMBARD (Jacques), 44歳。公証人。
(LOMBARDSとも。Cloale{Ardennes}生まれ。革命以前から92年までMontfauconの公証人をしており、以後は農業従事。同県のミュセMuceで教師をしていたともある。プロイセンの軍事顧問にフランス侵入の経路
を教えたという容疑で逮捕された。系図には94年7月5日パリにて死亡した公証人Jacques LOMBARDがいる。7月と9月の錯誤であれば該当する。そのJacques LOMBARDは両親記載なしで、Barbe Marguerite
LOMBARTと結婚し、72年生まれの長男は皮なめし職人となるMichel Christophe LOMBARD。次男Francois LOMBARD 1778-1854は免許医となり、1804年結婚し一男をもうけている)

1794年9月8日

2793. 二コラ・デフィエ DESFIES (Nicolas), 44歳。靴屋。ヴィエンヌ・ル・シャトーVienne-le-Chateau生。
(二コラ・デフィエ Nicolas Deffiesとも。またDesficesとも。ビセートルに入獄していた。フランス国内に共和国の敵を侵入させて、ヴィエンヌの住民を危険に晒した罪で逮捕とある)

1794年9月9日

2794. トゥーサン・マヌゴー MANEGAUD (Toussaint), 41歳。時計職人。ブザンソン生。
(トゥーサン・ムヌゴー Toussaint Menegaudとも。発音記号付きでメヌゴー、あるいはメネゴーともあり。91年、92年に亡命した嫌疑。93年に逮捕。コンシェルジュリーに収監。
没年不詳のToussaint MENEGAUDは1751年4月5日ブザンソン生まれ。父親はSimon Albert MENEGAUD 1721生。母親はAgathe TIROT。二男二女の長男。1753年生まれの妹Jeanne Elisabethは76年郷里ブザンソンで
結婚している。55年生まれの弟Jean Denisは監獄守衛となり、結婚し一男一女をもうけている。58年生まれの妹Anne Claudeについては詳細の記録なし。このToussaint MENEGAUDは1780年ブザンソンでCharlotte
LESQUEREUX 1759頃生 と結婚し、81年から92年にかけて三女四男をもうけているが、子供たちの生年以外の詳細は全てなし)

1795年6月8日

2795. ルイ・シャルル・カペー CAPET (Louis-Charles), 10歳。ルイ・カペーの息子。ヴェルサイユ生。
(Louis-Charles de France 1785-95 断頭台ではなく、1795年6月8日午後3時頃、収監されていたタンプル牢内にて結核性リンパ節炎にて病没した。直接の病因はともかく、長期間の心身に対する様々な種類の虐待行為
による衰弱死であった)

 Louis XVII............................................................................................................................................父・Louis XVI 
母・Marie-Antoinette 姉・Marie Therese Charlotte de France 1778-1851




RELEVE NUMERIQUE DES EXECUTIONS PAR JOURNEE





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