素敵で史的な「三銃士」
            マニア向けのオタク内容です



 ダルタニャンと三銃士




1948年ジーン・ケリーの「三銃士」パンフレット

 私の手元に1948年ジーン・ケリーがダルタニャン役、恋人コンスタンス役をジューン・アリソン
 が演じた「三銃士」のパンフレットがある。私の年齢からすれば、これは親の世代の「三銃士」
 と言える。自由席200円とあり、戦後7年(日本公開は52年)だけあって広告類も安っぽい。サイ
 レントからトーキー映画に移行した時期の傑作である。(だが、このパンフ表紙の女優はラナ・
 ターナーで宿敵のミレディー役なのだが・・・)


本来ならこちらを使うべきかと⇒

 それはともかく、こんな古めかしいパンフレットに、こうある。「『三銃士』はすでに数回映画化
 されており・・・」。驚くなかれ、映画・三銃士の歴史は1921年あたりまで遡ることができるので
 ある。ダグラス・フェアバンクス1世主演の三銃士は、すでにこのとき「30年も昔の映画」であっ
 たのだ。その間にも、ウォルター・エーベル主演のものや本国フランスで作製されたものや
 色々あったらしい。


リチャード・レスターの「三銃士」

 それぞれの時代に必ず「三銃士」の映画がロードショーされていると言っても良いくらい。

 私の場合は、なんといっても、リチャード・レスター監督でダルタニャン役にマイケル・ヨーク、
 アトス役にオリバー・リード、アラミス役がリチャード・チェンバレン、ポルトス役はフランク・フィン
 レイ、それにリシュリュー役にチャールトン・へストン、宿敵ロシュフォール伯爵にクリストファー・
 リー、女優陣もフェイ・ダナウェイ、ラクウェル・ウェルチにジェラルディン・チャップリンといった
 豪華な顔ぶれの「三銃士」「四銃士」そして「新・三銃士」の一連の作品が、我が青春の「三銃
 士」となる。
  
画像は1844年ブリュッセル版

 もちろん、「三銃士」がアレクサンドル・デュマ原作の1844年発表の文学作品であることはご
 存知だと思うが、文学の世界においても、グレードの高い名作文学を凌ぐ超ベストセラーで、あ
 らゆる国語に翻訳され、我が国でも大手出版社のほとんどが翻訳本を出しているし、他方、漫
 画やアニメの世界でも度々登場する。これほどまでに身近な文学作品も珍しい。

 私は文庫版で読みました・・・

 一般に知られている部分は、「三銃士」の初めの二巻ほどで、実際のこの作品は有名な「鉄
 仮面」を含む全11巻ほどの長大なもの。鈴木力衛氏の名訳で「ダルタニャン物語」として発刊
 されているが、最終巻の「剣よ、さらば」で読了してしまうと、大作を読み終えた充実感よりも、
 なんともそのダルタニャンの世界からのお別れが寂しくて本を閉じるのがためらわしい気分に
 なる。それほど読者をひきつける圧倒的な魅力がある。



 さて、では、この全世界的な名作「三銃士」の、魅力的な登場人物たちを、味気のない歴史史
 料の中で描いてみよう。無鉄砲で一本気なダルタニャン、沈着冷静でどこか憂いのあるアト
 ス、おしゃれで陰謀家のアラミス、怪力でお人好しのポルトス、それぞれが、モデルとなった人
 物が実在している。どれもいわゆる「無名人」なのだが、この小説のおかげで世界的な有名人
 になった。その実態やいかに・・・

 では、そもそも、原作者デュマが、この作品を書こうとしたいきさつから・・・

    
クルティス「ダルタニャン備忘録」    

 デュマ自身が「三銃士」の序文で述べていることからも分かる通り、何かこの時代の歴史小
 説を書くにあたって手頃な題材はないものかと図書館で史料の山と取り組んでいると、「国王
 の銃士隊副隊長ダルタニャン氏の備忘録」という1704年出版の本を発見した....それが始まり
 である。



 これはガシアン・ド・クルティス・ド・サンドラス(1644〜1712)という人が書いたもので、アム
 ステルダムで刊行された古書。外国で書物を出版するのは、フランス当局の検閲逃れの常套
 手段で、王室批判や権力者中傷の色彩が濃いものが多い。しかも、このクルティスという作家
 は、その手の出版物によってメシを食っていた男で、本当に「ダルタニャン氏の備忘録」かはま
 ったく疑わしい、というよりも最近の研究では「人の名を借りて回想録の体裁をとり真実味を持
 たせた創作本」であることが判明している。



 現在、この「ダルタニャン氏の備忘録」は全訳され「ダルタニャン物語外伝・恋愛血風録」とい
 う、ちょっと納得のいかない邦題をつけられてはいるが内容は確認できる。デュマが大胆に
 色々な箇所をパクっているのが分かる。冒頭部分などそっくりだ。

 このクルティス、文学史家ソーニエによれば、「小説風の回想録の流行をもたらした作家」、と
 いう立場らしいが、「回想録」「備忘録」とは、本来、ある人が自分の生涯を自分で綴るのが原
 則。それからすれば、他人が脚色した備忘録など、人の名を借りた誹謗中傷本としか考えられ
 ない。

......................................................................
 クルティス作「フレーヌ侯夫人回想録」................「疑惑の様相、もしくはヌムール公とポワイエンヌ侯夫人の恋」

「三銃士」が発表される百年前、つまり「ダルタニャン」なんて名前を誰も知らぬ時代に、ヴォル
 テールが「ルイ14世の世紀」(1751)の中でこのクルティスを散々攻撃している。つまり祖国フラ
 ンスを中傷せんがために作り話を歴史書として全ヨーロッパに氾濫させた罪深い作家、と。そ
 して、その作り話の作例の中にこの「ダルタニャン備忘録」を挙げている。文学史的には、デュ
 マも、あまり水準の高い史料を参考にしているとは思えない。

 ともかく、その「ダルタニャン備忘録」の中に、ダルタニャンが入隊すべくパリの近衛銃士
隊隊長宅を訪れたおりに、アトス、アラミス、ポルトスの三人の先輩たちに出会ったという
くだりがあり、デュマの好奇心を刺激したらしい。

 これらの名は、明らかに偽名であり、何らかの目的で本名をふせているに違いないからだ。

 そこで、デュマは、当時の古書を片っ端からむさぼり読んで、ついに「ルイ13世時代の末期
 よりルイ14世親政初期にフランスで起きた数々の事件に関するラ・フェール伯爵の回想録」と
 いう手書き原稿の中に、この3人の通称名を発見して、天にも昇る感激を味わったという。(但
 し、最近の研究によれば、この「ラ・フェール伯爵回想録」などという資料は実在せず、本当っ
 ぽく見せるためのデュマのでまかせらしい) クルティスもクルティスだが、デュマもデュマだ。

  
Alexandre Dumas

 そして、これらの原稿をもとに、「三銃士」の物語が始まるようなスタイルをとっているが、実
 際はデュマの創作がそのすべてである。いや、ほとんどである。と言うのも、この三文作家クル
 ティス、軍人くずれで、一時、1660年〜67年まで銃士隊に在籍していたのだが、その時期の隊
 長が、ダルタニャン氏その人なのだ。だから生の情報をあれこれ知っていてもおかしくない。

 それに、この備忘録の粗筋、アトスたち友の存在、ミレディーすらパクっているし.....。まぁ、当
 時、デュマがクルティスのダルタニャン備忘録を「本物」の回想録だと思い込んでいたら、歴史
 小説家としては共通部分が多くなるのも仕方ないわけだ。


左が近衛銃士隊、右がリシュリューの護衛士隊(リシュリューの旗印が見える)


「歴史は釘であり、我々はその釘に小説をひっかける」「すべてが事実ではないが、すべてが
 嘘ではない」「私は歴史を強姦して子を産ませる」などといった一連のデュマ語録からも推察で
 きるように、歴史好きのフランス人気質を利用して本物と見せかけて、思う存分に創作を展開
 しているわけだ。ある意味、先の「ダルタニャン備忘録」の偽作者クルティスよりも、一枚役者
 が上、である。

 というわけで、まず、先述の「ダルタニャン氏の備忘録」から、われらの主人公であるダルタ
 ニャンが実在していたことがすでに判明している。
   
   近衛銃士の宿敵、リシュリュー枢機卿の護衛士                  近衛銃士

「国王の銃士隊副隊長」という肩書だが、これはつまり近衛銃士隊隊長のことである。この部
 隊は、隊長は形式的には「国王」であるので、「副隊長」は実質的には「隊長」そのものを指
 す。あの南フランスの田舎から近衛銃士隊員にならんと大志を抱いて上京してきた貧乏侍の
 ダルタニャンが、隊長にまで栄達していたことが分かる。そこで、フランスでも権威あるラルー
 スの人名事典を繰ってみよう。

                
リール総督時代のルーヴォワ国務長官との手紙(下にサインあり)......................ダルタニャンの紋章

「ダルタニャン伯爵シャルル・ド・バッツ。ガスコン貴族。1611〜73。ルイ14世の近衛銃士隊
 長。後に野戦総監。マーストリヒト攻囲戦にて戦死。デュマの『三銃士』物語で有名になる」(ガ
 スコンとは南仏ガスコーニュ地方人のこと)とある。野戦総監は陸軍でも高位ではあるが、少
 将、旅団長といった軍位、さすがにラルースの辞典にのるほどではない。やはり、死後二世紀
 たって「三銃士」で脚光を浴びたおかげで、辞典に載ったのだろう。

従弟ピエール    池田一雄・絵

 従弟にダルタニャン侯爵ピエール・ド・モンテスキューという人物がおり、こちらは1712年に
 元帥に任じられているが、おかげでまったく影が薄く、逆に「あのダルタニャンの従弟」と注釈
 がつく始末。甥のダルタニャン伯爵のジョゼフ・ド・モンテスキューも近衛銃士隊から野戦総監、
 地方中将に任命されているが、こちらも同様のあつかい。ダルタニャンの一族の知名度は、
 「歴史」ではなく「文学」からのものなのだ。

 ところで、ダルタニャンがリール総督時代の1672年、ルーヴォワ大臣と交わした手紙の署名
 だが、「d'Artaignan」、つまり「ダルテニャン」となっている。「d'Artagnan」(ダルタニャン)ではな
 い。
 この表記違いを、デュマの間違いだと指摘される場合もある。

 そうならダルタニャン本人もガッカリだ。せっかく家名が世界的に有名になったのに、一文字
 違いで広まってしまったのだから。


甥のジョゼフ(1651〜1729)の指令書(1710年)                        1745〜50の近衛銃士

 確かに、甥のダルタニャン伯ジョゼフが1710年にプロヴァンス地方中将としてシャゼル竜騎
 兵連隊に移動を命じた指令書にも、サインは「d'Artaignan」、つまり「ダルテニャン」となってい
 る。

 これは、これは、またデュマの名言「すべてが事実ではないが、すべてが嘘ではない」を思い
 出してしまうと、大雑把な匂いがしてきてしまう・・・

 このようなことに、長々こだわっていると申し訳ないので、結論を言えば、これはデュマの間
 違いではなく、家名の根拠になっている地名が18世紀頃より簡略化され「i」がなくなった
 「Artagnan」になっているので間違いではないのである。(日本の地名でもよくあること)

 そもそも原作、失礼、種本であるクルティスの「ダルタニャン氏の備忘録」は1700年に書かれ
 たが、「d'Artaignan」ではなく「d'Artagnan」なのだから、デュマがそのまま「d'Artagnan」を疑いも
 なく使用しただけのことだ。また地名的には、ArtaignanからArtagnanへの表記の変遷の過渡
 期にあたる時期でもあり、当時は、どちらも併せて使用されていたようだ。

 下左に、当時の版画に、実在のダルタニャンが描き込まれたものを掲載するが、その画像に
 は「M. d'Artagnan」と明記されている。本人が威厳を示すために綴り字を勝手に変えてサイン
 することも当時はあったようなので、古めかしい由緒ある家名っぽくしただけのことかも知れな
 い。ということで家名についてはもうやめておく。


 
              ↑
        「d'Artagnan」とある。 (1659年国王婚礼の護衛行列が描かれた中の部分)


    
    カステルモール城(個人所有で未公開)                  時代順の近衛銃士制服     

 そもそもダルタニャンは、貴族といっても、それほど由緒正しい血筋ではない。曽祖父のアル
 ノー・ド・バッツがリュピアックの商人として成功して不動産を買いあさったのが始まり。その息
 子のベルトランが結婚したアンヌ・ド・マサンコムが、界隈でも有名なモンリュック元帥の親族
 で、自身も軍人となって宗教戦争時代に少し活躍する。こうなると、商人の息子も、カステルモ
 ール城という不動産もあるし、軍人でもあるし、有名な元帥閣下の親族でもあるしで、「貴族ら
 しく」なる。

  
モンリュック元帥プレーズ・ド・ラッスラン・マサンコム(1502〜77)  ガシヨン元帥ジャン(1609〜1647)


 子供がなかったので、同名の甥ベルトランを相続人としたが、この甥のベルトラン(1570〜
 1635・ダルタニャンの父)がまたモンリュック家等もその支流とする名家モンテスキュー家につ
 ながるフランソワーズ・ダルタニャン(1575〜1656)と結婚する。

  
父ベルトラン 母フランソワーズ

 ダルタニャン家自体は大した家柄ではないが、当時、モンテスキュー家との血縁を示す家名
 は、この地方ではかなりメリットがあった。加えて、フランソワーズの弟アンリ(1667没・ダルタニ
 ャンの母方叔父となる。従弟でモンテスキュー元帥となるピエールはこの叔父の子)が娶ったジ
 ャンヌ・ド・ガシヨン(1606〜85)が、ガシヨン元帥の姉になるという幸運つき。ガシオン家自体は
 法官一族で貴族名門ではないが、元帥の武功は誉高く、これも有利だ。そこで、軍職で栄達を
 夢見る一族の者は、こぞって、「ダルタニャン」を名乗ることになる。



 ベルトランの息子(四男と推定されている)だったわれらの主人公は、こうして、本当は「バッ
 ツ・カステルモール」なのに、「ダルタニャン」という姓を名乗ったわけだ。ダルタニャンの兄、つ
 まりバッツ・カステルモール家の長男がそもそもポール・ダルタニャンと名乗っている始末であ
 る。(余談だが、このダルタニャンの兄のポールは、1609年生まれだが、亡くなったのは1703年
 である。なんと94歳だ。ちなみにダルタニャン物語には一度も登場しない)

 1640年から89年までの間に、近衛隊には12人の「ダルタニャン」がいたという資料があるが、
 みんな同じ「名前のつて」を利用したのだろう。どれもそれしか取り柄のない貧乏侍ばかりだ。



 作品中ではダルタニャンの上京は1625年だが、史実では30年前後という説が有力。彼が歴
 史の中に名を残している初めが、1633年である。その年の正式な閲兵式の人員登録に「シャ
 ルル・ダルタニャン」が記録されている。

     
    マーストリヒト攻囲戦のダルタニャン.........................................................ダルタニャン戦死

 ともかく、彼は、こうして、ルイ13世時代からルイ14世時代にかけて、近衛隊というポストで
 地道に出世していくわけである。入隊は1640年とも44年とも諸説あるが、そこは「無名人」、
 仕方あるまい。58年に中尉、67年に隊長職。この間の軍人としての重要な任務といえば、61
 年の財務卿フーケの逮捕の任務だろう。これは、ちょっとした歴史書や回想録にも「ダルタニャ
 ン」の名が出ている。
 そして、70年にリールの総督となり、73年には戦死。


..............シャンルシーとの結婚証書....................................ダルタニャン肖像...................カステルモール城の内部

 彼の結婚といえば、1658年、公務で立ち寄ったシャロン・シュール・ソーヌの総督からの紹
 介で、サント・クロワ男爵の娘で、ラ・クレイエット男爵の未亡人、35歳のアンヌ・シャルロット・
 ボワイエ・ド・シャンルシー(1624-1683)という名門で資産家の女性と出会う。翌59年に結婚。
 彼はすでに40過ぎ。しかし裸一貫で成り上がった貧乏貴族としては、少しでも位が上になって
 からの方が有利な結婚が出来るというもの。仕方もない。



テュルゴーのパリ地図(1739)に描かれた銃士隊館hotels des mousquetaires



..    
銃士隊2中隊の旗(1771)      ......デュ・ベック通りの近衛銃士隊館hotels des mousquetaires(1720頃)

 60年と61年に男児をもうける。(後述) 軍人家系としては目出度い跡継ぎだ。しかし、夫人
 は二人目の出産は自身の生まれ故郷で行なっている。・・・つまり、結婚後、ほどなくして夫婦
 は別居しているのだ。夫人は、里で親族との相続権やらの法廷闘争に明け暮れしながら余生
 を送ったらしい。
 つまり、ダルタニャンの結婚生活は、当時の貴族としてはありがちだが、決して幸福なもので
 はなかったようだ。

      
.............................................................................................................嬉しそうな顔をした近衛銃士隊第2中隊士官(1750)

ちなみに、ダルタニャンの2人の息子の長男ルイはダルタニャン伯爵位を継ぎ、宮廷の大厩
 舎小姓からやはり軍人畑へと進んだが、近衛中尉で故郷カステルモール城に引退。健康上の
 理由で結婚はせずに1709年49歳で没。

 同名だが次男のサント・クロワ男爵ルイもやはり軍人になり野戦総監まで出世、法官貴族の
 娘と結婚して2人の子ルイ・ガブリエルとルイ・ジャン・パティストを残し、兄の死去でダルタニャ
 ン伯爵となった後1714年没。サント・クロワ城で亡くなっているので、ダルタニャンと別居した母
 が故郷で出産した生地でそのまま暮していたのだろう。

 ルイ・ガブリエルも軍人となっているし、そのまた子のルイ・コンスタンタンも同様。この代で大
 革命となるがギロチンは免れている。

 こうして、そこそこの出世を遂げた「一軍人」の史的な話は終わりとなる。名もない田舎侍とし
 ては、そこそこの地位にはのし上がって大任も果たした。しかし、出世といっても、歴史に名が
 残るほどでもない。だから、クルティスなどという偽回想録作家に名を利用されたわけだ。

   
            モンマス公..............銃士隊軍旗"QUO RUIT ET LETHUM"(落ちたら最後、御命頂戴)とある。


 それでも最期は、英王チャールズ2世の認知された息子モンマス公爵を身を挺して守って
 の、名誉ある戦死を遂げているのも事実。われらの知るダルタニャンらしい、勇敢な男であっ
 たことは間違いない。

トレヴィル銃士隊長

 ダルタニャンは父親の紹介状をもってパリの都に上京し、近衛銃士隊長のトレヴィルの邸を
 訪ねるわけだが、この隊長は、宮廷の重職にありながらも、常に、喧嘩だ決闘騒ぎだと問題を
 起こす部下の銃士らを、温かく見守る父親的な存在として描かれている。


       トレヴィル伯爵とその城館               昭和36年講談社版挿絵(池田一雄)

 では、実在のトレヴィル隊長は、本名アルマン・デュ・ペイレ(1598〜1672)。正式にはトロ
 ワヴィル。34年銃士隊長(余談1)、35年野戦総監。小説中にあるように宰相リシュリューとは犬
 猿の仲だったらしく、いっとき追放させられていた。マザラン宰相時代に復帰。後にフォワ地方
 総督となっている。1643年、伯爵。総督時代に、関係のない書物に名が登場しているので、
 実在のトレヴィルの足跡をたどるのは容易い。総督になったり、銃士隊騎手から野戦総監にな
 ったりする二人の息子らもいる。(余談2)
 ただし、実在のダルタニャンが銃士隊に入隊志願しに上京したときの隊長ではない。


..............1636年コルビー攻囲戦の銃士隊.........................1629年モント―バンの戦でのリシュリュー護衛士隊

 物語ではリシュリュー宰相の向こうを張る近衛隊長として描かれているが、彼の出自のデュ・
 ペイレ家は、南仏べアルン地方の都市オロロン・サント・マリーの商人家系で、資産家だった父
 親ジャンが貴族領を次々と購入し(後にこの人の武勲で伯爵領となるトロワ・ヴィル、後のトレヴ
 ィルの土地も購入)、また貴族家系の女性と結婚して姻戚関係を結ぶなど、当時の金持ち商人
 ならでは活動に励んだ。その結果、バスク地方スール(現在のピレネー・アトランティック県スー
 ル)の地方貴族の身分に成り上がった。つまり「新興貴族」の身分だ。

 
       ラ・ロシェル攻囲戦........................................................ラ・ロシェル攻囲戦のリシュリュー宰相

 但し、トレヴィル自身は1616年17歳でパリに出る。そして近衛フランス衛兵隊の候補生として
 入隊し、その後、近衛銃士としてラ・ロシェル包囲戦(1627〜28)に参加し負傷(ダルタニャンの
 母方叔父ジャン・ド・モンテスキュー・ダルタニャンも近衛銃士隊旗手としてこの戦で戦死してい
 る。ちなみに「書簡集」で名高いセヴィニエ侯爵夫人の父シャンタル男爵も戦死している)、その
 後、戦場での活躍が国王からも評価され、栄進を続け、1634年10月、前任近衛銃士隊長ジャ
 ン・ド・ヴィエイユシャテル辞任に伴い銃士隊長に任命された。

 つまり、貴族に成り上がった商人の息子ではあったが、若貴族らがしのぎを削る戦場で立派
 に認められて、地位を築いたバリバリの武人だったのだ。

 後述するが、アトスはトレヴィルの父ジャンの姉妹(名前は不詳らしい。ジャンヌとある資料も
 あり)が嫁いだシレーグ家の息子だし、アラミスは母マリー・ダラミッツの兄弟の息子である。つ
 まり二人とも「従兄弟」になる。隊長との血縁を頼って近衛銃士隊に入隊したことが丸見えであ
 る。



 ダルタニャンの頼もしい仲間たち、つまり、アトス、アラミス、ポルトスの三銃士の面々。これ
 からが、歴史の史料の塵ほこりの中から、かなりマニアックな研究をしないと見出せない「無名
 人」の発掘作業となる。


1628年頃の枢機卿護衛士...........................リシュリュー枢機卿護衛士隊Les Gardes du Cardinal



 当然ではある。原作者デュマですら、「ダルタニャン備忘録」の中に見つけたこれら「偽名」の
 銃士らを、「ラ・フェール伯爵回想録」の中に再見して、「小さな歴史的発見」と小躍りしたくらい
 なのだから。

 近衛銃士は「貴族」でなければ入隊できないが、どれも「小貴族」ばかりで、そのまま歴史の
 闇に埋没してしまったような人たちを、史料の中から詳らかにするのは至難なわけである。で
 も、さすが、この「三銃士」ともなれば本国フランスでは皆が興味津々。歴史学者や郷土史家、
 アマチュア研究家らも総力で「発掘作業」をしたのだろう。かなり詳しいプロフィールが解明され
 ている。

 実はアトス、アラミス、ポルトスは、実在のダルタニャンよりも若いのだ。また近衛銃士隊で
 は、3人共に後輩ではないか・・・。アトスがせいぜい同期かな、しかし年下。そんなリアルが分
 かってしまい、少し哀しいが・・・

アトス

 
               シレーグ家紋章

 沈着冷静、常に皆の兄貴役で、酒は好きだがどこか憂いを含み、実はラ・フェール伯爵とい
 う立派な肩書を持つアトス。

        
.......................アトス(右)と語り合うダルタニャン..................................今でも小村のアトス村Google Earth

 本名は、アルマン・ド・シレーグ・ダトス・ドートヴィエイユ。1615〜45。(43年とある資料も多い)
 父親はアトス領主アドリアン・ド・シレーグ。母親はジャンヌ・デュ・ぺイレ(名前未詳ともある
 が、1595〜1681、84歳で没と明記されている資料もあり、ジャンヌで正しいと思われる)。この母
 親は、トレヴィル隊長の父親の姉妹。つまり、アトスはトレヴィル隊長の従弟になる。

 ジャン・ド・シレーグという兄がいるので、貧乏貴族の次男坊の定めとして、トレヴィル隊長と
 の血縁関係を頼ってパリに出て、1640年頃近衛銃士隊入隊。貴族といっても、裕福な商人だっ
 た曽祖父ペロトンが1559年頃、シレーグ、アトス、オートヴィエイユの貴族領を購入して成り上
 がった家系であり、トレヴィル隊長のぺイレ家より貴族歴が少し古いだけだ。

 
   アトスの城館の跡と案内プレート            母ジャンヌの墓のあるサンピエール教会

 アトス村は1842年にアスピス村と併合されているが、それでも2010年統計で住民185人の規
 模。人口の移動が少なかった1793年まで遡っても2村合計で416人の田舎である。アトスの父
 親の姉妹ジャンヌが嫁いだフィリップ・ド・サン・クリクが「アスピス領主」だが、小貴族同士で隣
 村の土豪と婚姻を重ねていたのだろう。現在はアトス・アスピスになっている。


右手がサンピエール教会。家屋の左手狭道の先、アトス看板。 アトス看板の裏手。ボロ家と農機具の納屋だけ・・・

 こんなピレネー・アトランティック県の小村に世界的有名人のアトス生誕の城館跡があるのだ
 から、海外からの三銃士マニアの訪問も多く、町興しにはもってこいだろう。(上のGoogle Earth
 の画像を見る限りでは、町興し事業にはあまり関心がないようだが・・・)

 アトスの苗字の中にも入っているオートヴィエイユ村も、近隣の村であり(現在はオートヴィエ
 イユ・サン・マルタン・ビデラン村)、ここにも古い廃墟があり、そここそがアトスの生誕地と主張
 しているそうだ。


  
        アトス

 このような田舎から飛び出して、花のパリに出て近衛銃士隊に入隊したアトスであるが、残念
 なことに、ほんの4〜5年の後、当時としてはよくあることだが、若い身空で、パリ左岸プレ・オ・
 クレールの原で行なわれた決闘で命を散らしている。30歳だった。

 
 プレ・オ・クレールでの決闘風景(17世紀)......................................17世紀のサン・シュルピス教会

 このプレ・オ・クレール、「三銃士」の中にも名が出ているが、実在のアトスにとっては忘れえ
 ぬ場所だったわけだ。1645年12月22日付でサン・シュルピス教会の埋葬記録が残っているの
 で確かなことだ。(オーギュスト・ジャルという歴史家が同教会の記録簿より発見)

サン・シュルピス教会遺体登録簿1604〜1714

 
  登録簿の1645年最終欄にアトスの名が「近衛銃士・べアルン地方の貴族」の記載と共にある。

 ラ・フェール伯爵などという肩書もない今でも僻地のような山里の無名貴族。しかもダルタニ
 ャンよりも銃士隊の後輩かも知れぬ。それに、早々と決闘で落命。共に冒険して、闘い、末永
 い契りを結んでいるほどの余裕はなかった人物なのだ。

 シレーグ家は兄ジャンの方で家系を繋いで、1725年生まれのフランソワ・ド・シレーグまで確
 認がとれる。実在のアトスが結婚をしていたかは不明とある。少なくとも子はいなかった。

 山深い田舎の領地から上京してわずか数年、30歳そこそこで、よくある事とはいえ、決闘で
 命を落として世を去った彼が、「アトス」の名のもとに世界的有名人になるとは、きっとあの世で
 さすがの憂い顔をほころばせていることだろう。

アラミス

  
アラミスとその城館

 次に、お洒落で女たらしで美貌のアラミス。本名はアンリ・ダラミッツ。1620 〜74(55、57と
 も)。41年に近衛銃士隊入隊。

 祖父ピエール(1540〜97)は勇将として名高かった軍人で、その次男の息子。(長男のフェビュ
 ス・ダラミッツは早世している)

 父親シャルル・ダラミッツも近衛銃士隊下士官だったが、父親の姉妹マリー・ダラミッツ(共に
 1580生とあり、姉か妹かは?)がトレヴィル隊長の母親にあたるわけで、これもまた縁故での入
 隊らしい。前者アトスとも縁戚となる。

     
                        アラミス

 物語のアラミスは、銃士隊引退後、好戦的なカトリック教団イエズス会の要職について暗躍、
 スペインのアラメダ公爵位を授かり大人物となって行くが、実在の彼は、48年に父親が亡くな
 ると除隊し、(ダラミッツ家には、他にマリーとジャンヌという娘しかいないから、彼が当主であ
 る)田舎に隠棲して、ジャンヌ・ド・べアルン・ボナッスという女性(べアルン地方のカトリックの一
 族。ダラミッツ家は代々ユグノーなのだが・・・)と結婚、アルマンとクレマンとルイーズという二男
 一女(二女とも)をもうけ、静かに歴史の舞台から消えてゆく。

 しかも亡くなった年も1655年説、1657年説、1674年説と諸説ある。但し、子のアルマンの生年
 が1655年、クレマンは1660年、他にも一女ないし二女娘がいるわけだから、1674年だと無理が
 ない。また1660生まれの子クレマンは1690年に家を売却した。


    残されたアラミス時代の門Google Earth.................................門に設置されたアラミスの看板    

 アラミスのダラミッツ家(アラミッツAramitzの地名は、中世からで1606年の表記も同じ。但し
 1630年地図ではアラミスAramysとなり、18世紀後半は現在のアラミスAramitsに)は、教会のな
 い村々に、個人所有の礼拝堂(abbaye laique)を開放することで収入と貴族身分を得る当時の
 南仏特有の家柄。

 現在アラミスの町にはサン・ヴァンサン教会があるが、これは1884〜86建造のもので、その
 工事のときに古い礼拝堂は門だけ残して解体された。その残された門が上の写真。

    
              1905年の写真

 また1905年古い写真にダラミッツ家の居館部分が写っている。(これも現在の写真にはない
 ので取り壊されたのか?) すでに「三銃士」が世に広まっている時期なのに、惜しいことだ。この
 写真のアングルからすると、今のアレット通り沿いの教会の向こう側にある「警察署」
 Gendarmerieの辺りが居館があったところか?

 アラミスといえば、女性には魅惑的な響きがある。ファッション・ブランドや化粧品やワインや
 様々な分野でその名が使われている。余談だが、第二次大戦時、日本がフランス船を接収・
 徴用して日本船として使った帝亜丸は、フランス船籍の時は「アラミス」という名だった。(ちなみ
 にその時に同じくフランスから徴用して帝興丸となった貨客船は元「ダルタニャン」)

 このように、地球規模でその名が広まるとは、ご本人にはとても信じられることではなかった
 だろう。物語のお洒落なアラミスも、今や世界中の女性に慕われているのだからご満悦のはず
 だ。

ポルトス

    
ポルトスとその城館

 最後に大食漢で怪力、この上のないお人好しのポルトス。本名はイザック・ド・ポルトー。1617
 〜1712。43年近衛銃士隊入隊。

 1643年入隊となると、45年の12月に決闘で落命してしまうアトスとの御縁もあっても2年だった
 ということだ。

 初め物語のダルタニャンと同じく銃士隊の候補生として近衛フランス衛兵隊のエサール侯の
 中隊に入隊している。しかし肝心のダルタニャンの方は、エサール侯の中隊の在籍が確認さ
 れないらしい。つまり、デュマが実在のポルトスの履歴を転用したようなのだ。

 エサール侯爵は、フランソワ・ド・ギヨン・デッサール(1645没)だが、姉妹のアンヌ・ド・ギヨン・
 デッサールがトレヴィル隊長の妻なので、隊長とは義兄弟。ポルトスはエサ-ル侯の紹介で銃
 士隊に入隊した。(トレヴィル隊長の従兄弟アレクサンドル・デッサールの推薦とある資料もあ
 るが、トレヴィル隊長の妻の姓氏からこちらが正しいと思われる)


ポルトスの城館は今は民泊施設.........................付属のサン・マルタン教会

 父親は同名のイザック・ド・ポルト―。べアルン地方の司法官だ。法官貴族。兄のジャン(1613
 〜70)も近衛銃士である。このジャンの直系子孫が20世紀初頭まで続いているそうだが、系図
 では1712年没のピエールまでしか確認できない。他にジャンヌ(1614生)、カトリーヌ(1615生)と
 いう姉、それに腹違いの姉サラ(1612生)がいた。1635年にダヴィッド・ド・フォルカードに嫁いだ
 姉のジャンヌなど11人も子を産んでいる。ポルトスの家系はこの地方に広がっているはずだ。

 
      Chevalier Louis de Bouvard, Mousquetaire du Roi.       1780近衛銃士

 1654年(1646年とも)に父親が死亡すると退役。1712年に脳梗塞で死亡した。妻の名は未詳
 だが、アルノー(1659〜1729)とジャンという二人の息子を残している。次男のジャンはサン・ル
 イ騎士で海軍中尉になっている。退役後のポルトスは父の跡を継いで、ナヴァール議会の法
 廷弁護士や駐屯軍管理官などの要職に就いた。古い別資料では、このポルトー氏は「早世」し
 たとあったが、最近の研究成果か、早世どころか、95歳の長寿ではないか....。サン・マルタン
 教会に埋葬されている。

 ともかく、在地の要職に就いてはいたが、所詮は地方の名士。歴史という大河の流れの中で
 は名も無き存在である。まさか、世界中の人々から愛される「ポルトス」の名のもと、このような
 有名人になるとはイザック・ド・ポルト―氏は思っても見なかったろう。物語の中の見栄っ張りの
 ポルトスならば大喜びだ。

 
 近衛銃士隊カザック

 こうして見ると、デュマがもったいつけて名家名門の名前を事情があって隠している3人の近
 衛銃士・・・と言っていたアトス、アラミス、ポルトスだが、ちっとも「仮の名」ではないことに気づ
 く。アラミスはアラミッツ(18世紀以降の地名表記から「t」を抜いただけ)、ポルトスはポルト―、
 アトスなどそのまんまだ。それにみんなダルタニャンの近衛銃士の後輩だし・・・

 
         三銃士はみんな、ダルタニャンの銃士隊の後輩で年下?

 史実は、どうも夢が消されて哀しくなる。ただ、これがまったくの架空の人物を登場させた物
 語だったら、「三銃士」の魅力はここまで読者を惹きつけることはなかったはずだ。特に歴史好
 きの本国フランスではなおさらである。クルティスは実在の人の名を借りて体制批判をしたが、
 デュマはそれをロマンスにして昇華させたのである。

ミレディーとダイヤの首飾り事件


 あとは補足的になるが、物語中、つねに彼らに敵対する妖艶な女策士ミレディー。これは名
 ではなく、イギリス貴婦人を呼ぶときの呼称なのだが、物語中の正式名はミレディー・ド・ウイン
 ター。



映画の中のミレディー・ド・ウインターたち


 フランスの宰相リシュリューからイギリスの宰相バッキンガム公爵へ差し向けられたといわれ
 る女スパイ(イギリス名門の貴婦人がリシュリューのスパイになる、とは信じ難く、俗説だと思う)
 で、名をカーライル伯爵夫人リュシー・ヘイ(1599〜1660)がモデルとのこと。

                  
 本にもなっているミレディー                モデルとなったカーライル伯爵夫人リュシー・ヘイ

 当時の、こちらは正真正銘、本人の書いた「ラ・ロシュフコー公爵回想録」の中で語られてい
 る話で、「三銃士」の中に出てくるダイヤの首飾りの陰謀と類似した事件があった。

 カーライル伯爵夫人は丁度ミレディーと同じような役回りを史実の中で演じたという話が記載
 されている。

 また、実は宰相バッキンガム公爵の愛人で、フランス王室から英王チャールズ1世に嫁いで
 きたアンリエット王妃に取り入り、女官となって、何かとバッキンガム公爵の便宜を図った、とか
 の話も伝わり、その美貌ゆえとかくスキャンダルの「渦中の人」となっていることは確かだ。

       
イギリス宰相バッキンガム公爵     フランス王妃アンヌ・ドートリッシュ     フランス国王ルイ13世

「三銃士」の中でも大きなプロットになっている、あのアンヌ王妃が恋人のバッキンガム公爵に
 渡した国王からのプレゼントのダイヤモンドが、リシュリュー宰相の差し向けたミレディーによっ
 て盗まれた事件は、銃士らの大活躍で解決するのだが、デュマの荒唐無稽な創作ではなく、確
 かに当時の宮廷の噂話になっていたほどの大スキャンダルだった。

 ラ・ロシュフコー公爵がその回想録の中に書き記した噂話は、シュヴルーズ公爵夫人(なんと
 「三銃士」の中でアトスの古い愛人という設定のあの女性)から聞いたものだった。

 実際に、アンヌ王妃は夫である国王ルイ13世から送られたダイヤモンドを、恋人のバッキン
 ガム公に、身に着けている大切なものとしてプレゼントしてしまったようなのだ。公爵のフランス
 王妃への恋情に嫉妬したイギリスの元愛人カーライル伯夫人は、腹いせにそのダイヤを公爵
 のもとから盗み出したという。

      
.....................................ラ・ロシュフコー公爵.......................................シュヴルーズ公爵夫人

そして、恐らく王妃を陥れようとしているフランス宮廷の一派(例えばリシュリュー宰相)に内通
 し、アンヌ王妃にそのダイヤを身に着けて舞踏会に出席せよと所望するようルイ国王に促す段
 取りをつけ、国王からプレゼントされた大切なダイヤをバッキンガム公にあげてしまったという
 王妃の裏切りを露呈せしめようと目論んだ。

 
アンヌ王妃とバッキンガム公爵の恋...............................ルイ13世に王妃のダイヤの数を確認させる宰相

 この陰謀は、どうしたわけかアンヌ王妃が言われた通りダイヤを身に着けて出席し、事なき
 を得て終わる。物語では、ダルタニャンら銃士たちがリシュリュー方の刺客と闘いながら、イギ
 リスに渡り、陰謀の事実をバッキンガムに伝えて、ダイヤの複製を突貫工事で作らせて、フラ
 ンスに持ち帰り、王妃に渡すという大手柄をあげたことになっている。

 当時の宮廷のスキャンダルに精通していたシュヴルーズ公爵夫人からの話となれば、あなが
 ち根拠のない出鱈目とも言い切れない。だからこそ、あの「箴言録」の作者のラ・ロシュフコー
 公爵もわざわざ回想録に記録したのだろう。

 バッキンガム公爵の愛人だったのなら、カーライル伯爵夫人が公爵の身近に接近することは
 容易だろうし、寝ている最中にダイヤを盗み出すことも可能だ・・・

 

ラ・ロシュフコー公爵回想録は、公爵が「箴言録」(1664)の作者として著名であるゆえデュマの
 時代もすでに広く読まれていたし、その中のこのルイ13世の宮廷スキャンダルをデュマが「三
 銃士」に取り入れるのは自然だ。だが、物語の中では、ミレディーが色仕掛けでバッキンガム
 に接近して、ダイヤを盗み出すという筋書きになっている。

 なんであれ、実在のカーライル伯爵夫人は父親がノーサンバーランド伯爵という英国貴族で
 も名門中の名門。銃士相手に派手に立ち回るような立場の貴婦人ではない。

  
パリに着く前からの宿敵ロシュフォール伯爵


「三銃士」の冒頭はロシュフォールとの喧嘩から始まる

 また宿敵ロシュフォール伯爵。これはデュマが参考にした「ダルタニャン備忘録」にやはり宿
 敵として登場するロネーという人物が原型なのだろうが、例のあのうさん臭い作家クルティスの
 別の出版物にMemoires de Mr. L. C. D. R. (le Comte de Rochefort), つまり「ロシュフォール伯
 爵回想録」(1688年)というものがあるので、デュマがそのまま名を転用したのだろう。

 そもそも「ラ・フェール伯爵回想録」を参考にしたデュマは、そのまま登場人物のアトスにその
 「隠された本名」ということでこのラ・フェール伯爵という肩書を与えてしまっているのだから、あ
 りがちなことである。


................ロシュフォール伯爵回想録

 ロシュフォール回想録の正式な書名は 「リシュリュー枢機卿とマザラン枢機卿への奉仕の下
 で起きた出来事の詳細とルイ14世の親政下のいくつかの注目に値する事件についてのL.C.D.
 R(ロシュフォール伯爵)の回顧録」。 1713年第5版の序文にはこうある。「しかし、これらの回想
 録が私の思うほどに重要ではなくとも、それらは非常に興味深いものでしょう。他に書かれたこ
 とがない大変に感動的なものです。それらはまたとても面白いものになるし、そして誰も読んで
 いて飽きないと思います」

 大層な宣伝文句である。

 著者名にロシュフォール伯爵シャルル・セザールRochefort, Charles-Cesar, comte de.ともあ
 る。研究家の間では、この回想録の著者を、ロシュフォール元帥アンリ・ルイ・ダロワニーであ
 るとする説がある。この元帥は、生年も不詳(1611年説から26年、27年、30年、36年説まであ
 り、不詳となっている資料も多い)。1646年4月30日付でラヴェル・ボワ・ドーファン侯爵の娘マド
 レーヌ・ド・ラヴェルと結婚していることは確かなので、30年以降の生年はおかしい。


 スネフの戦で乗馬を失う司令官コンデ大公......................スネフの戦の戦勝祝賀の国王とコンデ大公

 アロワニー家は13世紀からの騎士の家系であり、彼は地方中将のロシュフォール侯爵ルイ
 の子として生まれた。その生涯のほとんどはドイツ、ハンガリー、フランドル、オランダ等の戦
 場を渡り歩き、1674年(ダルタニャンがマーストリヒトで戦死した翌年)のスネフの激戦(総司令
 官のコンデ大公すら乗馬を倒されること3回。両軍計25000の死傷者を出した戦)などにも加わ
 っている。顔に負った大きな戦傷は一生消えなかった。

 野戦総監、中将、総督そして1676年には元帥となるが、直後のムーズ・モーゼル方面軍の司
 令官としての作戦途上、満身創痍の身体が限界に達し、ナンシーにて死去。凄まじい軍将人
 生を終える。



 戦地にばかりいたせいか、顔に大きな傷跡があったせいか、肖像画は見当たらない。少なく
 ともフランスのサイト中には画像データが見つからない。この顔の傷あたり、物語中のロシュフ
 ォールを彷彿とさせるが、件の回想録の中で伯爵が関与したシャレー伯爵の陰謀事件(1626
 年。リシュリューを暗殺し、国王ルイ13世を退位させ王弟ガストンを王位につける陰謀。シャレ
 ー伯は斬首)の時に、年齢が若すぎるということで、デュマ本人は否定的だった。

 それに、戦地にいることが多く、現役元帥の作戦行動中に亡くなった軍人が「回想録」など書
 くひまがあろうか? (その意味ではダルタニャンも同様ではある)

ラ・ヴァリエール嬢の実在の恋人とブラジュロンヌ子爵ラウル


実在の「ブラジュロンニュ」氏 ラ・ヴァリエール嬢         ルイ14世とラ・ヴァリエール嬢

 アトスととある高貴な貴婦人との間の子供であるラウル・ド・ブラジュロンヌ子爵。若き国王ル
 イ14世の愛妾となる有名なラ・ヴァリエール嬢の恋人の設定。

「三銃士」は「ダルタニャン物語」として3部作で構成されて完結する。第1部はご存知「三銃
 士」、そして第2部は「二十年後」、最終の第3部は「十年後」と題されている。(随分と簡単なネ
 ーミング)最終部は20年+10年で、我らの主人公らも30年分の歳をとっているわけだ。

 このラウル・ド・ブラジュロンヌ子爵は、その最終部にアトスの「とある高貴な貴婦人との間の
 子」として登場する。過去に陰のある男・アトスのとある高貴なお相手は、上述のミレディーの
 項で触れたシュヴルーズ公爵夫人のことである。確かに高貴だ。高貴すぎる。

 彼は、ダルタニャンや三銃士らが中高年になったルイ14世の宮廷で、国王の恋人を愛して
 しまった若き宮廷貴族ブラジュロンヌ子爵として登場するが、実在のモデルは、当然アトスの子
 でも(もちろんシュヴルーズ公爵夫人の子でも)なんでもない。ついでに子爵などでもない。


  ルイ13世弟ガストン・ドルレアン.....................王弟妃マルグリット........................................ル・ソーセー館

 例によって諸説ある。

@ 王弟オルレアン公の執事ジャック・ド・ブラジュロンニュの子ピエール・ロベール(1683年
 没)。作中の国王の恋人で実在のラ・ヴァリエール嬢の恋人であったことは史実、とある。本当
 ならば確かに複雑な立場の青年。(余談3)
 ラ・ヴァリエール嬢の母親は夫と死別後、ルイ13世弟オルレアン公の司厨長サン・レミ侯爵と
 再婚して王弟のブロワの宮廷に住む。そして、王弟執事の息子のこのピエール・ロベール青年
 と出会う。家柄的にはとんとんだ。1660年に王弟が他界し、王弟妃はパリに移るが、ラ・ヴァリ
 エール嬢も母と共に王弟妃に随伴しパリへ。16歳の頃である。そこで若きルイ14世と出会う。
 そして国王の愛妾となる。彼女はラ・ヴァリエール公爵夫人への道を進む。もうピエール・ロベ
 ール青年とは「とんとん」の関係ではなくなる・・・


A ル・ソーセー城に肖像画(冒頭の画像左)が残されている、この城の所有者一族のニコラ・
 ド・ブラジュロンニュ(やはり1683年没)。ラ・ヴァリエール嬢の従兄弟で、恋仲。「意に反しての甲
 冑姿。1683年、その高貴な英雄伝のごとき死がラ・ヴァリエール嬢に伝わると、彼女は国王ル
 イ14世の腕の中に飛び込んで泣いた」とある。


B ピエール・ド・ブラジュロンニュ。この人は「デュマの小説の主人公・ブラジュロンヌ子爵」と
 注釈まで付いて系図に明記されている人物。
 但し1655年生まれとあり、ラ・ヴァリエール嬢がパリに移った時にはまだ5歳だし、そもそも彼
 女はこの人より11歳年上の計算になる。

 しかしAのニコラ・ド・ブラジュロンニュとソーセー城関係として、ニコラの兄にピエールがお
 り、こちらはパリのサン・ポール教会で1640年4月28日洗礼とあるから、生年は確かだ。そし
 て、1717年という没年がこのピエールと同じなので、生年の誤りで同一かも知れない。もしかし
 たら、このピエールとニコラの兄弟がモデル候補になっているのかも。しかし、ピエールは77歳
 まで生きてブルターニュ高等法院調査部議長、ニコラは78歳まで生きてパリの出納官をし、共
 に結婚し子も残しており、リアルは充実。1683年に非業の死など遂げていない。



 いずれにせよ、ピエール・ロベールでも、ニコラでも、ピエールでも、ブラジュロンニュという姓
 名のラ・ヴァリエール嬢の恋人が存在していたのだろう。その一点で、デュマは彼をアトスの息
 子にしてしまった。一応、ブラジュロンニュをブラジュロンヌと改名して・・・。改名といっても、原
 語のスペルからすれば、「g」をひとつ抜くだけの簡単なもの。思えば、アラミスも「t」だけだった
 し・・・。(ダルタニャンの「i」は誤解だったが) ともかくまさにデュマ語録の「すべてが事実ではな
 いが、すべてが嘘ではない」である。
 
 しかし、「ほとんどが嘘」である。






 なんであれ、ダルタニャン氏は幸運な人である。三百年も前の一介の軍人が、今では世界中
 の子供ですら知っている有名人になったのだから。ただ、本人にとって残念なことは、「ダルタ
 ニャン」という男が実際にこの世に生きていたと知る人が少ないということだろう。ともかく、架
 空だろうと実在だろうと、本人はとっくに古ぼけた墓石の下に葬られ、永久の眠りについてい
 る。それが「史的ダルタニャン」の事実。



 しかし物語を読めば、ダルタニャンはこの世にいないどころか、リシュリュー宰相の手下と決闘
 したり、貴婦人の手にキスしたり、アトス、アラミス、ポルトスの仲間らと酒を酌み交わしたり、い
 つもピンピンとしている。三百年前に生きていたどころか、読者の目の前の「現実」の中に元気
 一杯に躍動しているのだ。これから何百年たっても。
 






余談コーナー
どうでも良い話なのであまり関心のない人は飛ばしてOK
(余談1)
この同じ年の1634年に喧嘩相手のリシュリュー付護衛士隊隊長にフランソワ・ドージェ・ド・カ
 ヴォワFrancois Dauger de Cavoye(1604-41)が任命されている。1641年のバポームの戦で戦
 死しているが、リシュリューの信任厚く右腕だった。また、この隊長が鉄仮面の秘密にからんだ
 ある「特殊な使命」をリシュリュー宰相に命じられているとの推測がある。それについては前章
 「鉄仮面の顔に期待するもの」中のトンプソンの主張を参照のこと。

(余談2)
トレヴィル隊長、つまり Arnaud Jean du Peyrer,Comte de Troisvilleは、妻アンヌ・ド・ギヨン
 Anne de Guillonとの間に2人の世継の男児をもうけた。 Armand-Jean(1639-1700)とJoseph-
 Henri (1641-1708)である。長男のアルマン・ジャンはモーレオン城代、スールの総督となるが、
 後継者なく没する。(61歳没だが結婚の履歴がないので未婚か) トロワヴィルの爵位等を継い
 だ弟ジョゼフ・アンリは、1666年に近衛銃士隊騎手、70年騎兵連隊大佐、92年に野戦総監とな
 るが、こちらも同じく結婚記録はなく、後継者なしで没。トロワヴィルの爵位等は、甥のモネアン
 侯アルマン・ジャン・ド・モンレアルArmand Jean de Montreal,marquis de Moneinsに渡ってしま
 った。(「甥」とあるが、この人はトレヴィル隊長の妹ルイーズの孫だから従甥だろう。しかも母
 方である。随分と遠縁に渡ってしまったものである)

 多くの系図では不詳となっているが、実はトレヴィル隊長、上記の息子たちの他に娘がいる。
 fille naturelle、つまり婚外子である。フランソワーズ・デュ・ぺイレFrancoise de Peyreという。隊
 長のお相手は、グラシアンヌ・デシャンディGracianne d'Etchandy。1688年4月4日付のこの女
 性の遺言書では、受遺者に、姉妹でビスケブリュー家のマルグリット・デシャンディとジョールガ
 ン・ドサスの貴族令嬢マルグリット・ド・コンジェ(自分の孫)が指定されている。それ以外は未詳
 の婦人である。
 娘フランソワーズは認知されており、オサス(トロワ・ヴィル近村)の貴族でスール地方の名
 士、高等法院弁護士のピエール・トーマ・ド・コンジェ Pierre Thomas de Congetと結婚(1658)
 し、6男2女を残している。隊長の愛人が在郷の貴族女性であることは分かるが、正式な結婚
 以前の関係のようではある。しかし「アンヌ・ド・ギヨンとの結婚の直前に娘が生まれている」と
 ある。ギヨン嬢との結婚は1637年だ。フランソワーズの生年についてはどこも「不詳」になって
 いるが、自身の結婚(トロワヴィルの教会にて1658年)が当時の平均的な年齢で20歳前後だと
 すると、ピッタリだ。となれば、隊長は、お相手のグラシアンヌ・デシャンディが自分の子を出産
 した直後に他者と正式な結婚をしていることになる。・・・どういういきさつがあったのだろうか?

 
    オロロン市のトレヴィル伯爵像                トロワヴィル遠景


トロワヴィルのサン・ジャン・パティスト教会

..........................
    トロワヴィルのサン・ジャン・パティスト教会               ........ぺイレ家紋章



(余談3)
 この王弟オルレアン公爵の執事ジャック・ド・ブラジュロンニュはJacques de Bragelongneで
 1630〜79。オートフイユ領主でパリ財務裁判所部長・評定官ジェローム・ド・ブラジュロンニュ
 (1588-1658)の子。マリー・ド・サン・メスマンMarie de Saint-Mesminと結婚してマリー・(マルト)・
 ド・ブラジュロンニュMarie "Marthe" de Bragelongne(1660年頃生)という娘を残すが、ピエー
 ル・ロベールという男子の記録は見当たらない。
 ちなみに、この人の姉マリー・ド・ブラジュロンニュはオルレアン公の愛人となっている。1634
 年に16歳年上のソワッソンの会計官クロード・ド・リボードン(M. de Ribaudon)と結婚させられて
 いるが、34年から35年にかけての冬、「オルレアン公はリボードン夫人という美女」を愛人とし
 て、リボードン氏のコキュ(寝取られ夫)の戯れ唄が盛んに作られたという。ただこの女性は虚
 弱体質で43年5月にリボードン氏に2人の娘を残して死去してしまう。
 また、2人のもう一人の兄弟にフランソワ・ド・ブラジュロンニュがおり、その娘マリー・ジャンヌ
 は同系のシャルル・ド・ブラジュロンニュ(1660-1702)と結婚しているが、このシャルルの兄クリ
 ストフ・フランソワ(1646-1721)の娘マリー・ジュヌヴィエーブ・ド・ブラジュロンニュ(1681生)は、あ
 の大革命勃発の日(1789年7月14日)に民衆に襲撃されたバスティーユ牢獄の長官ド・ローネー
 侯の母方祖母に当たる。




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