歴史の中のシンデレラたち



 シンデレラのおとぎ話は、ペローの童話集やディズニーの映画などで誰もが一度は味わい、
 そのメルフェンの世界に夢心地になったことだろう。



 虐げられていた娘が魔法の力で変身し、舞踏会で王子様を魅了し・・・・ガラスの靴を忘
 れ・・・・と。少年少女の夢物語そのままのストーリー展開で、最後は王子様と結ばれてハッピー
 エンドである。


 大人になると、メルフェンの寓意や教訓のみを語り、ストーリーそのものは「非現実」としてし
 まうものであるが、なんと、本物の王様や王子様がいた時代、現代では信じられないほど身分
 格差が厳格であった時代に、このシンデレラのような夢物語を現実の中に展開させたという事
 例がいくつもあるのだ。



 意外と歴史の中のシンデレラたちは沢山いるのである。

 王様が身分の低い娘にちょっかいを出して子供を産ませた、なんて話を持ち出して「シンデレ
 ラ」扱いするつもりはない。そこそこの年金と持参金をもらってほっぽり出され、他の男との縁
 談を強いられるようなシンデレラでは話が哀れだ。

 条件としては、少なくとも、王様との関係によって、人も羨むような地位に引き上げられたとい
 う正真正銘のシンデレラの話だけである。

 もう一つ、時代を限定したい。これは、時代が古くなればなるほど、身分制度が寛大になり、
 低い身分から栄達するというシンデレラ条件がゆるくなってしまうからだ。そもそもシンデレラ物
 語の原型は、古代エジプトや4世紀のシナの伝説にもあり、時代背景など解らぬものなのであ
 る。

THE SLIPPER AND THE ROSE(76年/イギリス)

 76年イギリス映画で、ブライアン・フォーブス監督でシンデレラ役がジェマ・クレーブン、王子役
 がリチャード・チェンバレンのシンデレラ映画The Slipper and the Roseでは、18世紀を設定して
 いるが、これはコスチュームの美的配慮からのものに過ぎない。実は、シャルル・ペローの原
 作の中に、時代背景をしぼりこむヒントが隠されているのである。

 それは物語中の「12時15分前を知らす時計の音」がしたという箇所だ。つまり、15分ごとに鐘
 を鳴らす珍しい時計の存在が物語の「魔法の効力のなくなってしまう時限近し」の警鐘を響か
 せる重要な役割を担っているのである。シンデレラはその鐘の音によってあわてて走り出し、
 ガラスの靴を落としてゆくのだから、この時計は必須のアイテムなわけだ。

15分刻みで時を告げる時計.......

 そこで、ヨーロッパの時計の研究家が調べたところ、このての時計が製造されたのは16世紀
 末から17世紀初めにかけてということが判明。そこで、ペローの童話に忠実にシンデレラを再
 現するとすれば、少なくとも、時代背景は16世紀以降でなければ、あの時計の鐘は聞かれない
 のだ。そんな訳(大した訳でもないが)で、16世紀以降と時代を限定したい。





 いきなり、悲劇のシンデレラ物語になってしまうが、スコットランド国王ジェームズ4世(1475〜
 1513)は、マーガレット・ドゥラモンド(1475〜1501)という一貴族の娘と結婚していた。国王の身
 分にあって、国益をはなれ、一私人としての妻を迎えていたわけである。

 イギリス国王はスコットランドとの平和を実現すべく、自分の娘を彼に娶わせようと縁談を持
 ちかけてきた。両国の永久平和条約が締結すれば、長年の戦いにも終止符がうてるし、多くの
 臣民の命も救われる。
    James IV

 しかしジェームズ4世は、身分違いとはいえ愛して選んだこの妻を捨てきれない。

 そこで、自分の存在ゆえに両国の平和が結ばれないのなら、自分の命を絶ってしまおうと、
 このマーガレット妃は彼女に同情する妹二人と一緒に、服毒自殺をしてしまう。

Margaret Drummond

 1501年のことである。

 そして翌年、スコットランド・イングランド両国の和平条約が締結され、王はイギリス王の娘を
 娶った。

 しかし十年もするとまた両国は戦争を始めるのである。一人のシンデレラの哀しい命の犠牲
 であった。

 そして、王もこの戦争で戦死を遂げてしまう.......。

 マーガレット・ドゥラモンドがジェームズ王と結ばれるまでは、恐らくシンデレラ物語そのものだ
 ったはずだ。めでたく結婚、で幕が下りてしまう物語の方はそれで良いが、現実、国王との結
 婚とは、その国の国益と深く結びついており、最も有効な切り札が政略的結婚なのだ。

 このスコットランドのシンデレラ物語は、結婚でのハッピーエンドの後に、悲劇的な続編が用
 意されていたわけである。


寓意  ⇒  シンデレラの人生は結婚だけでは終わらない


Henry VIII 

 次もあまり明るいシンデレラ・ストーリーではないが、前述のスコットランド王が再びイギリスと
 の戦争に突入してしまった頃、イギリス王はかのヘンリー8世だった。

 この王の有名な6人の王妃の中にも、実はシンデレラがいるのである。


             Jane Seymour           映画の中のジェイン


 3人目の王妃ジェイン・シーモアである。

 父親は貴族であるが、忠義を認められての破格の出世を遂げて寝室係侍従になった程度だ
 から、あまり家格の高い人物でもない。宮廷貴族のはしくれ、そんな程度。

 しかし、娘ジェインは、ヘンリー王の今までの二人の王妃に仕えている内に、国王の目にとま
 った。


ヘンリー8世とアン・ブーリン           Anne Boleyn


 そして二人目の王妃アン・ブーリンが姦通罪によって処刑された十日後にジェインとの結婚を
 国王は告知したのだ。

 これにはさすがのロンドンっ子たちも仰天したそうだ。

 王妃の侍女が王の愛人となるケースは、どこの宮廷にも数え切れないほどあるが、正式に
 王妃となる事例は皆無である。しかも出身も名門貴族でもなく、成り上がりの無名人の娘とな
 れば異例中の異例。

 何であれ、ジェインは1536年5月29日正式にヘンリー8世との結婚式を挙行する。つまりまぎ
 れもない英国王妃となったのである。

   
             Edward VI           映画「王子と乞食」より

 男子継承者を熱望しながらも、今までの二人の王妃から二人の娘しか授からなかったヘンリ
 ー王に、このジェインは待望の男児エドワードを与える。後に早世してしまうが、エドワード6世
 として王位を継ぐことになるこの子供は、あのマーク・トウェインの「王子と乞食」のモデルとして
 も有名だ。

 ところが、お手柄のジェインであったが、当時の衛生状態の悪さから、出産12日後に感染性
 の病気から亡くなってしまう。

 王妃たちを処刑したり離縁したり、やりたい放題のヘンリー8世だったが、このジェインへの
 愛着は強かったようで、彼女の死後に描かせた王室一家の肖像画には、作製させた当時の
 王妃ではなく、このジェイン妃の姿を王妃として描かせているくらい。

 また6人の王妃の中で唯一、ヘンリーと墓所を共にしているのがこのジェインでもある。

 さすがに、女好きだった王も、このシンデレラには本気だったらしい。

 ちなみに、余談になるが、ヘンリー8世に処刑された王妃たちの幽霊が出没するのは有名
 で、宮殿の夜警にあたる衛兵日誌には、ごく日常的な出来事として幽霊との遭遇記録が記載
 されているらしい。

16世紀の幽霊(イメージ写真です)

 ヘンリーに愛されたこのジェインの幽霊も、エドワード王子の誕生日にハンプトン・コート宮殿
 に現われるという。低い身分から王妃の座に昇り、男児出産の大役を果たしながらも死ななけ
 ればならなかった彼女の無念が、今でも彼女の霊を彷徨わせているのだろうか。


寓意  ⇒  シンデレラも出産は命がけ



 現実のシンデレラたちは、多くの場合、王様のお妃になることはできない。しかし、それに値
 する地位として、昔の宮廷には、「公式愛妾」というものがあった。すなわちそれは側室であり、
 公に認められた重要な地位なのである。

 大臣や高官、外国の大使たちからも敬意を表され、場合によっては国政すら牛耳れる地位
 だった。公家の子女ですら王様に気に入られてこの地位を手に入れようと鵜の目鷹の目にな
 っていたような公式の位である。

 この地位になれたら、充分にシンデレラと言える。

Louis XIV

 太陽王ルイ14世は、生涯にわたって凄まじい数の女性遍歴をもっていた。その中には、身
 分の卑しい女性も含まれていたが、ほとんどが名を残さず、もちろん公式愛妾などという高位
 につくこともなく、消えてしまっている。つまり、シンデレラにはなれなかった。

                          

当時のヴェルサイユ宮殿

 あの荘厳なヴェルサイユ宮殿に、この王様の側室として君臨することは、女性としての栄華
 の極みであり、居並ぶ宮廷の美女たちが、王の関心を買おうと権謀術数を競い、陰で暗躍して
 いたのだ。

 ここに一人、フランソワーズ・ドービニェという女がいた。

Agrippa d'Aubigne

 祖父アグリッパは詩人にして軍人として名を馳せたが、父親は指名手配の札付きの悪党。彼
 女は逃げ込むように修道院の生活に入っていた。

 しかしその才気と美貌は、尼僧になって女子修道院に隠遁する生活から彼女を華やかな外
 界へと駆り立てる。

Francoise d'Aubigne, marquise de Maintenon

 彼女は貧乏生活に疲れ切っていたため、風采は醜いが羽振りのいい人気作家スカロンとの
 結婚に踏み切る。そして8年後、彼女は未亡人となった。

Paul Scarron

 32歳のとき、ひょんなことから宮廷の舞踏会に招かれ、人から衣装を借りて出席する。ごく目
 立たぬ存在ではある。かつてちょっと名の知れた作家の未亡人という立場だけだ。

 しかしそこで、王様の側室モンテスパン侯爵夫人と王様の庶子らの子守役という仕事を得る
 ことになった。

 こうして、彼女は国王ルイ14世の目に触れるようになる。その内に、モンテスパン夫人に内緒
 で王様は彼女自身に会いにやってくるようになった。

 徐々に、彼女の立場とモンテスパン侯爵夫人の立場は逆転し始める。


       marquise de Montespan          Chateau de Maintenon

 彼女は王様からマントノンの城館と領地を賜り、「マントノン夫人」を名乗るようになった。ルイ
 王はすでに落ち着いた愛情を捧げられる相手を求めており、モンテスパン夫人や過去の愛人
 たちのような欲望主体の関係に疲労を感じ始めていたのだ。

 控え目で信心深いマントノン夫人こそ、そんな彼の相手には相応しかった。

 王妃の死後、この二人は非公式に結婚したとも記録にはある。

 王が72歳で崩御するまでの30余年、二人の関係は穏やかに続いた。


晩年のルイ14世とマントノン夫人

 王様は臨終に際して、すでに80歳になっていたこのマントノン夫人に「この世の心残りは貴女
 だけだ」と最期の言葉をかけたという。


1683年10月9日 国王ルイ14世とマントノン夫人の秘密結婚


 この数奇な人生を送ったシンデレラは王様の死後4年経って84歳の生涯を終える。悪党の
 父親のもとに不幸な出生をとげ、修道院での信心深い生活の後、作家の未亡人となって、すで
 に三十路を超えてから、信じられないようなヴェルサイユ宮殿での栄華の頂点へと昇りつめる
 人生が始まったわけだ。確かに、人生、何があるか分からぬものだ。


寓意  ⇒  シンデレラへの道は三十路になってもあきらめてはいけない



 このルイ14世と同じ時代、海の向こうのイギリスでも、一人のシンデレラが生まれていた。

 こちらは劇場のオレンジの売り子だ。


                          Nell Gwyn

 名をネル・グウィン(1650〜87)という。
 彼女は売り子から転身して女優となり、ロンドンの劇場ではなかなかの評判となっていた。し
 かし当時、女優などといっても、今のようなご身分ではなく、いささか怪しげな商売だった。

 イギリス国王チャールズ2世は根っからの陽気な王様で、また根っからの女好きでもあった。
 すでに女優のモル・デイヴィスと浮名を流したり、そこいらの色男のジェントルマンたちと腕を競
 うかのように、ロンドンの巷の女優たちにちょっかいを出していた。

         
        Charles II                             チャールズとネル

 そしてじきにこのネルにも接近してくる。
ネルは王様を愉快に笑わすだけ笑わして、あけっぴろげな陽気なロンドン娘として接した。王
 様はそんな彼女を面白がり、強く惹かれていく.....。

 ネルは王様に金の無心もせず、小さな町家に住み、ただ王様を楽しませるだけの女に甘ん
 じていた。


セント・ジェームズ宮殿

 しかし間もなく、王様との子供を身ごもり、いつまでも下町に住んでいるわけにもいかなくなっ
 た。そして、セント・ジェームズ宮殿近くに移る。

 チャールズ王は、ネル一人ではなく、同時に幾人かの愛人を囲っていたが、いずれも貴族の
 娘ばかりで、その間にできた子供たちをきちんと授爵していた。

 自分自身への利益など頓着しなかったネルであるが、子供たちの将来のこととなるとそうも
 行かない。
 
自分の身分が低いとはいえ半分は王家の血をひく子供たちだ。ちゃんと身分を与えて欲しい
 と、この件ばかりは王様に食らいついた。

 国王チャールズ2世もその勢いには負けて、セント・オールバンズ公家の設立を認可し、現
 在のイギリス貴族社会の中にもこのオレンジの売り子ネルに始まる公家の血が広く流れてい
 るわけだ。

               
初代セント・オールバンズ公爵(ネルと国王の子)セント・オールバンズ公爵家は現在も続いている・・・   
                  
 ネルは、けなげにも王様からいただく手当を慈善療養所に寄付したり、彼女の父親が入獄し
 てそこで死んだ負債者監獄への毎年の寄付を息子に遺言したりしている。

                    
     オレンジの売り子のネル・グウィン人形・チャールズ2世人形      ネルの本


 そんな彼女だから、当時から王様の側室ネルはロンドン庶民のアイドルであったし、現代でも
 イギリスでのネル人気は根強いものがある。
 
 チャールズ王は臨終の言葉として、弟のヨーク公爵に言った。
「どんなことがあっても、ネルを飢えさせるな」と。

 飾らず、ロンドンの町娘のまま王様を愛したネル・グウィンのシンデレラ・ストーリーであった。


寓意  ⇒  シンデレラはサンドリヨンのままで良し
 (「サンドリヨン」は「シンデレラ」のフランス語。灰かぶり、つまり薄汚れた、という意味)



 1937年、イギリス国王エドワード8世はアメリカ女性シンプソン夫人との結婚を選んで王位を
 退いた。この話はいまでも一大ロマンスとして語り草になっている。シンデレラによって、男が
 位を捨てて、愛した女性と結ばれるというパターンである。

 これと同じような話が17世紀のドイツにもあった。


Georg Wilhelm, Herzog zu Braunschweig-Luneburg


 ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公家の若君で、公位継承者ゲオルグ・ヴィルヘルム
 (1624〜1705)はボヘミア王ゾフィアとの縁談を断り、フランスの身分のない小貴族の娘エレオノ
 ール(1639〜1722)との貴賎結婚を強行した。


Eleonore Desmier d'Olbreuse

 彼女はフランスのポワトゥー地方の古いデズミエ・ドルブリューズ家の長女だが、家柄だけの
 地方の下級貴族の身分。(余談1)
たまたまドイツのヘッセン・カッセル方伯の三女がフランス貴族ラ・トレムイユ公爵と結婚した
 ので、その公爵夫人の女官となり、ゲオルグ・ヴィルヘルムと出会い、そして恋に落ちる。

 それによって、彼は、すべての権利を喪失して、ただの人になってしまったのだ。

 ところがエレオノールとの間にひとり娘ゾフィア・ドロテアが誕生すると、彼はその娘の将来を
 心配し、自分の失ったものの大きさを今さらながら悔やんだ。

 そんなとき、フランス国王ルイ14世から、様々な特典つきでのフランス帰化の話が持ち込ま
 れる。しかし、敵国のそんな誘いに乗るわけにも行かず、彼は皇帝への忠義をまっとうし、対フ
 ランス戦で戦功をあげる。

 皇帝はその活躍に感動し、彼の妻エレオノール、つまり身分の低いフランス女性だった彼女
 に、帝国伯位の称号を与え、貴賎結婚の解消、そして正式な結婚の承認をしてくれたのだ。


1665年 二人は結婚

 晴れて復帰した彼らのもとへ、その一人娘との有利な縁談が次々と持ち込まれた。


一人娘のSophie Dorothea von Braunschweig-Luneburg

 そして、彼が最も心配したこの娘ゾフィア・ドロテアは、従兄弟のゲオルグと結婚した。

 この結婚生活は哀れなものとなったが、この結婚相手のゲオルグ、イギリスに渡ってジョージ
 1世となる人物で、間に生まれた男児は後のイギリス国王ジョージ2世、女児はプロイセン国王
 の王妃となり、かのフリードリヒ大王の母君となるのである。

      
  夫は英王ジョージ1世         息子は英王ジョージ2世  婿はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

 たった一人の愛の結晶ゾフィア・ドロテアは大活躍だ。

 身分を捨て愛に生きた夫は、皇帝への忠節により結婚を認可され地位を挽回、、ゆくすえを
 心配した一人娘は巡り巡って英国王妃となり、英国王太后となり、プロイセン国王義母となっ
 た・・・

 公家の若君が身分をかなぐり捨てて一緒になったフランスの名もない娘エレオノールの逆転
 のシンデレラ物語だ。


寓意  ⇒  シンデレラの愛の力はパワー絶大



 今度はロシアの話になるが、一つは、シンデレラ自らが放棄してしまった例。


Anna Mons


 亡命者で宿屋を経営していたヨハン・モンスという男の娘アンナは、下品ではあったが、活き
 活きとして、よく笑い、男を楽しませるタイプの娘だった。

 丁度、前述のネルのような天真爛漫な女。ロシア皇帝ピョートル(あの大帝)の側近の愛人だ
 ったことから皇帝とも知り合い、じきに皇帝はこの娘に夢中になる。

 そして信心深く陰気で憂鬱な皇妃と離婚して、本気でこの娘との結婚を考えるまでに至った
 が、ザクセンの大使ケーニヒスエックとアンナは関係しており、皇帝は彼女との結婚を断念し
 た。

 結局、アンナは大使の死後、今度はプロイセン大使のカイザーリングの愛人となって、結婚
 するに至った。

 生まれからいって、大使夫人となっただけでもシンデレラかも知れないが、ロシア皇妃の道も
 開けていただけに口惜しい。



 もう一つの例は、こちらは、シンデレラ以上の、サクセスストーリー。

 彼女はリヴォニアの貧しい農家の娘マルタ。

   
   Christian Felix Bauer   Boris Petrovich Sheremetev Alexander Danilovich Menshikov


 極めて身分の低い家柄で、シンデレラの中でも特筆される。
 マルタは当時スウェーデン王国支配下だったリヴォニアで1684年に生まれた。

 1701年スウェーデンのある竜騎兵と結婚したが、ほどなく町からスウェーデン軍が撤退する
 と、彼女はリヴォニアに進駐したロシア軍司令部で軍人の相手をするようになる。

 バウアー准将から始まり、最後に関係していたのが司令官ボリス・シェレメーテフ。そして、こ
 の司令官からメーンシコフという皇帝の側近へと関係は広がった。(お相手のランクアップも着
 実である)


          Peter I                    ピョートル皇帝との出会い

 側近の愛人に手を出すのが大好きなこのロシア皇帝ピョートルは、当然の成り行きとしてマ
 ルタに夢中になった。

 しかし、一時の遊び相手ならば後にも先にも山といるが、皇帝を本気にさせた相手はわ
ずかだ。この女マルタは、その中でも最高の栄冠を手に入れたわけで、皇帝はおおっぴ
らに彼女との関係を続ける。


1712年 皇后となる

 彼女は名をエカテリーナ・アレクセーエヴナと改め、ついには皇帝の妃におさまった。

 ここまでなら、他のシンデレラと同様だが、彼女の場合はまだ先がある。

 彼女は、ピョートル皇帝が1725年に崩御すると、近衛部隊を動かしてクーデタを起こし(元カレ
 のメーンシコフも近衛部隊率いて大活躍)、ピョートル大帝の孫を次期皇帝に推す勢力を排他
 して、自らがロシア史上初の女帝となったのである。エカテリーナ1世だ。


Catherine I


 治世はわずか2年だったが、農夫の娘からロシア女帝にまで栄進した、史上類を見ないサク
 セス・ストーリーである。


寓意  ⇒  シンデレラとは野心的女性のことかも知れない





Louis XV


 フランス国王ルイ15世は、これもまた女性遍歴の豊富な王様であった。

 しかし、貴婦人から身分卑しい娘まで様々なその遍歴を見ていっても、いわゆる側室として重
 んじられるに至ったシンデレラ女性は一人しかいない。

 側室として絶大な権力を握り、ヨーロッパの政治に多くの影響を与えたポンパドゥール侯爵夫
 人は、確かに町家の娘ではあったが、ブルジョワ台頭のご時世において彼女の姻戚関係は、
 名門貴族以上の勢力をもっていたし、決して貧しい生まれでもなく、虐げられた娘でもなく、シン
 デレラとは言えない。

 そこで、ルイ15世の愛妾たちの中で、「側室」の座を手に入れ、フランス宮廷で重んじられた
 身分にまで昇ったシンデレラは、ジャンヌ・ベキュただ一人であると思われる。


Marie-Jeanne Becu

 この娘は氏素性すらはっきり分からぬほどの生まれである。彼女はフランス救国の少女ジャ
 ンヌ・ダルクの生まれたドンレミ村のすぐ近くのヴォクルール村の生まれだ。(ジャンヌ・ダルク
 が大天使のお告げに従いフランスを救うべく先ず最初に向かったのが、隣村のこのヴォクルー
 ルだった。ここの守備隊長がジャンヌを信じることから、ジャンヌ・ダルクの奇跡の物語がスタ
 ートする)

 名もなき田舎の隣村同士で、歴史に名の残る二人のジャンヌが生まれたわけだから面白す
 ぎる。

 ともかく、ジャンヌ・ベキュはパリの婦人服の売り子となっていた。すでにその美貌は評判で、
 さっそく売春宿の女将が彼女を雇い入れにやってくる。当時の「売り子」などそんなものだっ
 た。次は、適当なパトロンに囲われるというのが常なのだが、ジャンヌは少々悪辣な男にひっ
 かかってしまう。

 名をデュ・バリという男である。この男は囲った女を身分ある貴族らに「転貸」して儲けている
 ようなやくざ者だった。しかし、運命とは分からぬもので、この男との出会いが彼女のシンデレ
 ラ・ストーリーの序章となるのだ。


Parc-aux-cerfs(鹿の園) ヴェルサイユの一画に用意された、ルイ15世の一夜妻たちの密会場。かつて王室の鹿を
囲っていた地域なのでこの名がついた。デュ・バリ夫人により廃止。

 パリでも評判のジャンヌの美貌に、国王の侍従ルベルが目をつけた。このルベル氏はルイ15
 世の快楽係の担当官とも言うべき役職にあり、パリの美女たちを国王にお忍びで引き会わせ
 るような特務官だった。(ドミニク・ギョーム・ルベル氏はすでに三代にわたり王室の従者や王宮
 世話係をしている一族。なんの因果でこんなことの担当になったのか・・・)

Madame du Barry

 そこで、ルベル氏の仲介により国王に会うともなると、仕来りとして、しかるべき貴族の奥方と
 かの身分が必要になってくる。こうして、ジャンヌは、デュ・バリーの弟である風采の上がらない
 元カンタブル連隊中尉、元海軍予備隊大尉で、健康上の都合で故郷に戻っていたギョーム・デ
 ュ・バリーという人物と、にわかに結婚させられ、「デュ・バリー伯爵夫人」に仕立て上げられ
 る。(余談2)

 こうして、彼女は、王様をすっかり魅了し、正式に側室としてヴェルサイユの宮殿に招かれる
 ことになるのだ・・・・

 売女などとしばらくは陰口をたたかれもしたが、じきに国王の後ろ盾のある彼女であるし、貴
 族らも彼女の側につくようになる。

 ここが「公式愛妾」の強いところである。

 あくまでも彼女に敵対する相手は大臣だろうと名門貴族だろうと宮廷を放逐されるのだから、
 外国の国王たちですら、彼女の顔色をうかがうほどになる。

 
................................Comtesse du Barry.................................映画の中のデュ・バリー夫人

 つまり、氏素性も分からぬ田舎の村娘が、こうして絶大なる権力を掌握することになったので
 ある。非公式の愛人らは、そのまま金銭援助と庶子らの身分保証程度の恩恵で終わるが、こ
 うしてジャンヌのように正式な立場になると、もはやシンデレラそのものだ。(余談3)


 その頃、オーストリア皇室から王太子妃としてマリー・アントワネットがフランス宮廷に輿入れ
 して来たが、彼女は、いかがわしい女が宮廷で幅をきかせているのを見て驚き、さっそくこのデ
 ュ・バリー伯爵夫人ジャンヌに屈辱を与えた。つまり、公的な式典で一言も声を掛けないという
 無視である。

 これに宮廷勢力のあれこれが加わって、マリー・アントワネットの女官のひとりが宮廷からの
 追放を言いつけられた。この女官の姻戚の一族もそれに抗議し、たちまち宮廷は王太子妃派
 とジャンヌ派に分かれて大騒動。

Marie Antoinette 

 アントワネットの母親でオーストリア女帝だったマリア・テレジアは、ウィーンの売春宿を廃止
 したような厳格な女性で、娘もその母の教えに忠実だった。売春宿にいたような前歴のジャン
 ヌをフランス国王の公式愛妾として受け入れるつもりはなかった。

 しかし、それでも、フランス国王の側室の権利は守られるのである。

ベルばらの中のジャンヌ

 駐仏オーストリア大使メルシーもアントワネットを説得するが、こんなオペラ座の女優を愛人
 にしている男の言うことを聞く彼女ではない。そこでとうとう国王自らが王太子妃に、デュ・バリ
 ー夫人へ声を掛けるよう命じた。

「ヴェルサイユは、今日は大変な人出ですこと」

 ついにアントワネットもそんな一言をデュ・バリー夫人に向けた。1771年1月1日のことである。

      
 Florimond-Claude, comte de Mercy-Argenteau    Marie-Therese d'Autriche


 つまり、王太子妃ですら、こうして、公式愛妾ジャンヌとのトラブルには、泣く泣く折れたわけで
 ある。その権勢のほどが理解できる逸話である。

  
         ルイ15世とジャンヌ..........................国王からプレゼントされたルーヴシェンヌ城館

 しかし、何もかも、国王の庇護があっての側室。1774年、国王ルイ15世が天然痘で崩御す
 ると、たちまちジャンヌはすべてを失った。


 その後、尼僧院に蟄居させられていたが、許されてかつての資産も回復したジャンヌは相変
 わらずフランス名門貴族たちやイギリス貴族などと浮名を流して優雅に暮らす。神聖ローマ帝
 国皇帝のヨーゼフ2世がお忍びでフランスにきた時など、ルーヴシェンヌ城館までわざわざ彼女
 を訪ねて来たくらい。「美女は常に女王なのです」とか言ったとか。(もちろん、本国の母親マリ
 ア・テレジア母后もフランス王妃である妹のマリー・アントワネットもカンカンになったらしいが)

 JosephII

 しかし、ついに、フランス革命勃発。彼女はイギリスへ亡命する。
 
                        
愛人のコッセ・ブリサック公爵は虐殺された。              最後の愛人ロアン・シャボー公爵は
                                   亡命しデュ・バリー夫人と連携し反革命に資金援助する。


 だが、なぜかは不明の理由で革命中に帰国して、さっそくこのフランス国王の元愛人は有無
 を言わさずに当局に捕らえられた。

 こうなることは革命下フランスの状況から火を見るよりも明らかだったはずなのに、彼女の帰
 国の理由は謎のままである。

 また、彼女のような立場の者が、捕えられれば即座にギロチン刑が確定することも・・・。

 彼女は、泣き叫び、かつての愛人だったと思しき処刑人サンソンに命乞いをする。耐え切れ
 ずにサンソンは、息子に刑の執行を代わってもらったらしい。

 
          ギロチン台上のジャンヌ...........................................連行されるジャンヌ

 そして、見るも悲惨なギロチン刑が執行される。ジャンヌは取り乱し、泣きわめき、見物する
 パリの人々の心を掻き乱した。

 しかし1793年12月7日、彼女のシンデレラ・ストーリーはギロチン台の露と消える・・・。ついで
 に記せば、ジャンヌを王室に斡旋した道楽貴族のデュ・バリーも翌年の94年トゥールーズでギ
 ロチン台に上げられる。(余談4)


寓意  ⇒  シンデレラにも色々な生きざまがある



 こうして、本物の王様がいた時代に実在したシンデレラの数々を紹介してきたが、おとぎ話と
 はまったく異質なシンデレラや、不幸なシンデレラ、大胆なシンデレラ、そして恐ろしいシンデレ
 ラがいるものである。歴史の中での人間たちは皆、今現在、私たちを取り巻いている人たちと
 同様に、完璧に素晴らしい物語のようなわけには行かない人たちばかりである。

 しかし、シンデレラ・ストーリーの基本的な条件は、すべて共通しているものであり、魔女の手
 を借りずとも、この現実の中で、実現していた話なのである。





長々しい余談コーナー




(余談1)
 エレオノールのデズミエ・ドルブリューズDesmier d'Olbreuse家は確かに、地方在住の小貴族
 である。父親のアレクサンドルAlexandre(1608-60)はやはり平貴族出のジャケット・プーサール
 Jacquette Poussardと結婚している。代々長男はアレクサンドルだが、エレオノールの兄で嫡
 長のアレクサンドルもサント・エルミーヌSainte-Hermine家の娘と結婚、次兄シャルルは、これ
 は名門ラ・ロシュフコー家の傍系の娘と結婚している。エレオノールの生まれたドルブリューズ
 城もささやかな城館である。孫たちが諸国の国王なので「ヨーロッパのおばあさん」と呼ばれる
 ようになる女性の城ではない。地元の農民から「ポワトゥーの女羊飼いちゃん」と呼ばれていた
 彼女にはふさわしいが・・・

  ドルブリューズ紋章      ドルブリューズ城館

 姉のアンジェリクが、どういう経緯か知らぬが1645年にドイツ・チューリンゲン地方のロイス・
 ウンター・グライツ伯ハインリッヒと結婚していたから、エレオノールも、フランス貴族と結婚した
 ドイツのヘッセン・カッセル方伯令嬢の女官になれたのだろう。
 いずれにしても、そこからのシンデレラ・ストーリーが凄いわけである。


(余談2)
 デュ・バリー伯爵は、1748年に歩兵将校の娘カトリーヌ・ユルシュル・ダルマ・ド・ヴェルノング
レーズ(Catherine-Ursule Dalmas de Vernongrese 1723-1775) という女性と結婚し男児(1749
年生まれのアドルフ)を得ている。ほぼ別居したままではあるが、1775年にこの妻が亡くなるま
では一応は妻帯者だった。そのため、ジャンヌ・ベキュを弟に嫁がせるしかなかった。侍従ル
ベルを通して、リシュリュー公爵という後押しもあり、国王に美女ジャンヌを斡旋すればかなり
の利益が見込まれる。その利益は身内で回さないと意味がないからである。


ヴィジェ・ル・ブラン画「手紙を折る女性」(1784) 

 このヴィジェ・ル・ブランが描いた「手紙を折る女性」だが、実はこれはこのデュ・バリー(本名
ジャン・パティスト・デュ・バリー・セレス伯爵 comte du Barry-Ceres,Jean-Baptiste )が、1777
年に再婚したマリー・アンヌ・テレーズ・ド・ラボードリ・モントーサン(Therese de Rabaudy de
Montoussin,1759〜1834)の姿なのだ。

 あのような浮気者の伯爵の奥方ではさぞ辛かろうと思いきや、ヴィジェ・ル・ブランの回想録
に、この肖像画を描いている時にモデルの伯爵夫人が劇場へ行くので馬車を貸してくれと横柄
な態度で頼まれた、そして伯爵夫人はその夜はそのままカロンヌ財務総監のところに泊まり、
スキャンダルを巻き起こした・・・と書いてある。つまり、当時の貴族階級は、夫も夫なら妻も妻
で・・・ということのようである。(ヴィジェ・ル・ブランの馬車が一晩中、カロンヌ邸に停められてい
たので、画商ル・ブラン氏の妻のこの美しい女流画家にも疑いがかかったという迷惑な話のお
まけつき)


 Elisabeth Vigee Le Brun自画像(1782)......2015年仏映画「Le fabuleux destin de Elisabeth Vigee Le Brun」より

ちなみに下がデュ・バリー・セレス伯爵夫人の浮気相手のカロンヌ財務総監肖像(なんとヴィジ
ェ・ル・ブラン画)。1784年作なので、女流画家ヴィジェ・ル・ブランは不倫中の2人を真っ最中に
それぞれ描いたことになる。

 この課税の平等化を図った財務総監の名誉のために付言すれば、この伯爵夫人との不倫
時期、彼は独身だった。初婚のマリー・ジョゼフィーヌ・マルケとは14年も前に死別し、当時は
50歳の子持ちやもめ状態。彼からすればフリーの身分。しかも下図中央のアンヌ・ローズ・ド・
ネティーヌ(彼女も前夫と死別)という魅力的な女性と88年に再婚している。(しかし、このアンヌ・
ローズ夫人の肖像画もヴィジェ・ル・ブラン作だ。どれだけこの女流画家は描いてるんだ? つい
でに下図右に本編主人公のデュ・バリー夫人画。これもル・ブラン作と・・・)


      カロンヌ財務総監        カロンヌ夫人となるアンヌ・ローズ        デュ・バリー夫人


(余談3)
 ジャンヌの母はアンヌ・ベキュ(Anne Becu 1713-1788)。父親はヴォクルールのド・ヴォーベル
ニエ某ということ。が、実はこれは「推定」に過ぎない。母アンヌはこれもまた評判の美人だが、
それゆえにかなり色々な「関係」をもってきた女性。まずは陸軍関係の商人で裕福な領主クロ
ード・ロシュ・ビヤール・デュモンソー( Claude Roch Billard-Dumonceax)の料理人となるが、実
は情婦でもあったらしい。クロード(1747生)という夭折した子もいた。その後にヴォーベルニエ
某との関係が入り、ジャンヌが生まれたことになっている。そして1749年にニコラ・ランソン
(1788没)と正式な結婚をしている。

 アンヌ・ベキュの両親は分かっている。父ファビアン・ベキュと母アンヌ・ユッソンだ。

 このファビアン・ベキュ(つまりジャンヌの祖父、1655頃-1745)がまた美男子で評判の人物だ
ったらしい。ワイン商だったが、パリにおり、あまりの評判にある伯爵未亡人が惚れ込み、世間
の風評をよそに結婚までしている。(モンディディエ伯爵夫人セヴェリーヌ・ボネ・ド・カンティニ
ー、Severine Bonnet de Cantigny, comtesse de Montdidier)


Marie-Elisabeth (dite Isabelle), marquise de Ludres.こんな裸の肖像しか見当たらない。

 娘マリー・ジャンヌを残して、この伯爵未亡人は間もなく死去。ファビアンはリュドル侯爵夫人
(1720年侯爵夫人となる)の料理人となり、そこで夫人の侍女をしていたアンヌ・ユッソンと結
婚。ジャンヌの母を生む。面白いことに、このリュドル侯爵夫人とは、あのルイ14世の愛妾とし
て、宮廷では「麗しのリュドル」と讃えられた女性。モンテスパン侯夫人との争いに敗れて、
1678年に宮廷を去った人だ。領地のヴォクルールに引退する時、ファビアン・ベキュも連れて
行った。当時まだ30歳超えたばかりの元国王の愛妾と美男の若きファビアン・・・何もなかった
かも知れないし、少しはあったかも知れないが・・・

 1743年のジャンヌの洗礼証書

 ともかく、ファビアンの娘アンヌも美しく色々と男関係があり、それぞれに子も産むという波乱
の人生を送った。ジャンヌの出生は1746年と国王に伝えられているが、これはあの道楽者デ
ュ・バリー伯爵のアイドル歌手の事務所まがいの粉飾で、実際は1743年の生まれだ。

 要は、このように、ジャンヌは、正真正銘の「氏素性も分からぬ身分」だった。

(余談4)
 ところで、法的には本当の旦那であるギョーム・デュ・バリー伯爵(comte du Barry,Guillaume)
は、1769年に兄にパリに呼び出されて、ジャンヌと書類だけの結婚をさせられた後にまた領地
に戻されたが、その後はどうなったのか? また、あの道楽者で美人局まがいのデュ・バリーに
いた本妻との息子アドルフ、あるいはその周辺の人たちは、その後どうなっていたのか?

 まずこの風采が上がらぬ退役軍人の弟ギョーム。
 デュ・バリー家はトゥールーズ周辺で1400年くらいから文書に確認がとれる貴族で、16世紀に
 レヴィニャックに移動し、そのままこの18世紀中期まで定住している。確かに由緒ある貴族だ
 が、いかんせん貧しかった。


カンタブル連隊制服

 兄は、そんな貧しい田舎を嫌って出てしまったが、この弟ギョームは軍職について、1746年カ
 ンタブル連隊中尉、58年には海軍大尉として西インド諸島などにも行っていたが、熱病で帰
 国。9軒しかない寂しい郷里レヴィニャックに戻っていた。

 狩りの獲物を食卓に供することだけが彼の楽しみで、37歳で兄の指示でジャンヌと偽装結婚
 させられるまではそんなどうしようもなく地味な日々だった。

 当然、偽装結婚だからさっさと田舎に帰されてしまうが、それでも形だけの妻から得られる収
 入・恩典は莫大で、かなり豊かな生活が実現していた。

 
      ギョーム・デュ・バリーの胸像      chateau de Reynerie

 当然、結婚はできないが、マルグリット・ルフェーブルMarguerite Lefebreという女性と生活を
 共にし、アレクサンドル・デュ・バリーAlexandre Du Barry (1769-1837)という後継者を得てい
 る。またジャンヌがパリで刑死するや、95年にはジャンヌ・マドレーヌ・ルモワーヌJeanne
 Magdeleine Lemoine (1756-1846)と入籍している。1781年に建てたレイヌリ―城館で、大革命
 も生き延びたギョームは79歳で没する(1811)。奥方は90歳まで生きた。尚、子のアレクサンド
 ルは南フランス考古学協会の創設者となっている。

 兄のジャン・パティストがトゥールーズでギロチンに果てたのは前述した。王家に寄生して生き
 ていたならず者としては、当然の帰結だろう。
 彼が本来ならば情婦にしていた美貌のジャンヌを妻として、国王の公式愛妾の夫として利益
 を独り占めにしたいところ、ラングドックの田舎にほったらかしになっていた妻がおり、それが
 出来ずに仕方なく上記の弟ギョームと偽装結婚させたわけだが、その妻との間にはデュ・バリ
 ー子爵アドルフという息子が1749年に生まれていた。

 ジャンヌもこの甥を大層可愛がっており、デュ・バリーと喧嘩して家を飛び出しても、アドルフ
 恋しさに舞い戻ったりしているくらいに愛していた。

 ジャンヌが公式愛妾になってからは、このデュ・バリー子爵の将来を築くため、引き立てるだ
 け引き立て、国王付小姓、王太子アルトワ伯の主馬頭、同スイス近衛連隊大尉などの地位を
 与え、また名家の令嬢との結婚もセッティングした。1773年名門のローズ・マリー・エレーヌ・ド・
 トールノンRose Marie Helene de Tournonと子爵は結婚する。

Rose Marie Helene de Tournon

 その翌年の1774年に国王崩御。美しくて宮廷でも評判だった新妻の子爵夫人の政略結婚は
 早くも計算が狂いだした。「デュ・バリー」の名のお蔭で、宮廷から追放されたからだ。

 しかも、子爵との間に生まれた子が77年に夭折する。そんな折に、子爵はヨーロッパの周遊
 旅行に夫婦で出発する計画を立てた。78年に夫婦は最初にイギリスに渡った。若くてハンサム
 な子爵だが、やはり血はあらそえないもの、どうにも父親似の人生が性に合っているようで、ギ
 ャンブル大好き人間。海外の社交場で遊びほうけた。

 一方、若妻は子も失い、結婚相手のお蔭で宮廷は追放されるしで、ついついその欲求不満
 の捌け口を、旅に同行したアイルランド貴族ライス伯爵との浮気に求めてしまう。


18世紀のイギリス、バースのロイヤル・クレセント・ホテル

 イギリスの高級保養地の社交場バースのロイヤル・クレセント・ホテルに宿をとったが、そこ
 で二人の関係を夫の子爵に見つかってしまう。そして、2人はクラバートンヒルで決闘に。

 11月18日夜明け。最初にピストルを撃つ権利を獲得した子爵は、ライス伯爵の太腿を撃ち抜
 いて大腿骨を砕いた。しかしその苦痛に耐えながら放った伯爵の2発目は、子爵の命を奪う。

 これなども、デュ・バリーの息子らしい最期ではある。短銃の性能が向上している次世紀初頭
 でもイギリスの決闘による死亡確率は7%程度だ。惜しい命を散らしたものである。

 サマセットのバサンプトンのセント・ニコラス教会の庭に今でも彼の墓が残っている・・・

 
イギリスのSt Nicholas教会墓地に眠る子爵。西扉のすぐ北に彼の墓はある・・・


 若妻は、帰国後、子爵の収益の権利は主張するが、デュ・バリー姓を捨てることを求め、子
 爵の死にショックを受けているジャンヌを尚のこと悲しませた。子爵夫人は、82年従兄のクラヴ
 ェソン侯爵Marquis de Claveysonと結婚して、デュ・バリーのしがらみから脱したが、9ヶ月後に
 若くして死去。25歳。夫の侯爵も4年後に32歳で他界。不幸の連鎖である。

 その他、デュ・バリー伯爵の家には、貧乏所帯だというのに3男3女の兄弟がひしめいてい
 た。そのそれぞれを語るのは長くなるのでやめておこう。


Levignac

 伯爵の妹たち2人はジャンヌの侍女としてヴェルサイユ宮にしばらく出仕したので、あのレヴ
 ィニャックの壊れかけた城で未婚のまま過ごしていた彼女らにとっては良い夢を見れたと思う。
 ただ、この一族、当時としては妙に長生きである。既婚だった長女マリーは82歳、次女ジャンヌ
 は74歳、三女フランソワーズは75歳まで生きている。上述の次男ギョームは79歳、一番下の弟
 ニコラも78歳だ。母親のカトリーヌ・ド・ラ・カーズも諸説あるが84〜5歳だ。当時としては大変に
 珍しいご長寿一家である。道楽者の長男はギロチン。その息子アドルフは決闘死。大人しく生
 きていれば、19世紀まで生きられたのに。



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