フランス史上の私情



パリで気ままな生活を長く体験した詩人・金子光晴は自伝「ねむれパリ」の中でこう語ってい
 る。
「あけくれ、アムールとかアベック・クーシェ(一緒に寝る)とか、うわ言のように言いくらしている
 パリの人たちは、それに唱和しているエトランジェを含めて、よその見る目にはすこし、色情狂
 なのではないかと思われるほどであった」

男と女のことに関しては、国のいずこを問わず生物学的領域だから、それほどの違いはない
 ものと思うが、風俗や文化の中に、それを蔑視するか、軽んじるか、あるいは礼賛するか、重
 んじるかの別はあるかも知れない。

その点、フランスなどは、後者の国柄に属することは万人の認めるところだろう。

  
    

 歴史的に見ても、女性への情にからんだ事件は多く、それがまた国家の命運を左右するよう
 な大事件の陰に、「アムール」の感情作用、もしくはその逆、憎悪の感情作用があからさまに
 はたらいていたりする。

 歴史という堅苦しい言辞を使うと、いささか特殊な世界が思い描かれるが、所詮は歴史など
 は人の所業の蓄積であり、その「人」というものは、どちらかと言うと、単純明快な感情動物で
 あり、それらの成したる行いの集大成が、崇高な世界でありようはずもない。

 事象にスポットをあてると小難しい史論が山となるが、「人」にスポットをあてれば「ああ、なん
 だ」となる。

 色恋や個人的感情の問題など、人の人たる最たるもので、それでも結果が出てしまえば、そ
 れは立派な「歴史」なのである。




Henry IV

 1610年4月29日、フランス国王アンリ4世はスペイン領フランドル地方(今のベルギー辺り)へ
 の出兵を宣告、フランス・スペイン両国が開戦という状況が勃発した。

 これは同地方のクレーヴとジュリエの領地継承問題にフランス王国が干渉、スペインの領土
 拡大の野望に真っ向から対決する軍事行動であると、とフランスの教科書には退屈な記述が
 なされている。

 ところが、当時のこのフランス国王アンリ4世の側近たちは、誰ひとりとしてそんな大義名分
 を宣戦布告の理由だと思っていない。


戦場のアンリ王

 この11万の軍勢と1万2千の軍馬、100門の砲が動員された軍事行動の本当の理由は、王妃
 マリー・メディシスが催した謝肉祭の式典にアンリ国王が臨席したことから始まっている・・・・。


王妃マリー・ド・メディシス

 王妃は王の目の保養にと、宮廷の粒よりの美女たちを集めたバレーを上演させた。この美
 女たちの中に、14歳のシャルロット・ド・モンモランシー嬢がいた。

「そういうことに無関心な者の心までも捕らえた」と当時の記録にもある通り、この金髪の美少
 女の魅力は際立っており、アンリ王はたちどころに魅了されてしまう。
  
 
シャルロット・ド・モンモランシー嬢 婚約者だったバッソンピエール

 王は彼女がフランソワ・ド・バッソンピエールと婚約中であると知ると、王権でそれを解消さ
 せ、性的倒錯者として名高いコンデ公爵と結婚させるよう手配した。

 そうすれば、彼女を思うように囲えるからだ。
  
 そして国王は熱烈なアプローチを彼女に繰り返した。モンモランシー嬢の方では、この国王
 の好色な欲求にはまったくうんざりしており、王の思し召しに従うつもりになれない。そうこうす
 る内に、女に無関心なはずの夫君コンデ公爵がこの魅惑的な若妻にぞっこん惚れこんでしま
 った。

 そこで公爵は宮廷を去って自分の領地に住みたい旨を奏上するが、そんな申し出など受け
 入れられるはずもなかった。

夫であるコンデ公爵 

 国王のねちっこい求愛に困り果てる若妻、嫉妬に苦しむ夫・・・・

 ややあって、この二人はついに国外に逃亡という強行手段にうったえる。

 フランドルの司令官アルベール大公のもとへ逃げ込んだわけだが、ここはスペイン領なので
 亡命に等しい。すぐにアンリ王は使者としてプララン侯爵を派遣、コンデ公爵夫妻の身柄の引
 渡しをアルベール大公に要求する。しかし、大公はそれを拒絶。


 国王は全閣僚を御前に招集。
「スペインに宣戦布告だ。どうあっても、コンデの女房に会いたいのだ」と机を叩いたそう
である。

 かくして、フランス軍はフランドルへの進攻を開始した。
   

  アンリ4世の暗殺

・・・・しかし、この翌月、アンリ4世は狂信者ラヴァイヤックに暗殺され、作戦は頓挫。動
機不純のこの戦争は幸いにして終わりを告げた・・・。

 もともとが新教徒(ユグノー)から旧教徒(カトリック)に宗旨変えしたアンリ王だったが、この度
 の軍事行動は、ドイツの新教徒勢力との連携のもとにカトリックであるスペイン勢への進攻作
 戦であったために、熱烈なカトリックの修道士ラヴァイアックは、「聖なる仕事」としてアンリ4世
 を暗殺したのである。


コンデ公爵の居城シャンティー城


 一ヵ月後、コンデ公爵夫妻は帰国し、幸福な結婚生活を享受した。

 なお、歴史の流れを変えたこの刺客ラヴァイアックだが、上述の国王暗殺には理路整然
たる理由があるわけだが、真相が今ひとつはっきりしないのが事実らしい。

 Francois Ravaillac 

 様々な説の中に、妹をアンリ王に誘惑された復讐から、王を短剣の二突きで刺殺したという
 ものがある。もしそれが真実ならば、歴史がいかに私情で成り立ってしまうか驚き呆れるばか
 りだ。

 女恋しさに戦争が始まり、個人的恨みで国王が暗殺される。.....なんともご立派な歴史であ
 る。


ラ・ロシェル攻囲戦・レ島の戦い

 1627年、フランスの新教徒の牙城ともいえるラ・ロシェルが、新教国イギリスの艦隊派遣とい
 う大掛かりな支援のもと武装蜂起した。前述のアンリ4世の子ルイ13世とリシュリュー宰相は自
 ら軍を率いてこの鎮圧へ向かう。イギリスからすれば大陸進攻への足がかりと、同宗派の人々
 を支援するという聖戦でもあり、イギリスの宰相バッキンガム公爵は5千の軍勢を率いてフラン
 ス領内に乗り込んできた。

 フランスとしては、長い宗教戦争の果てにようやく新教徒貴族の首領を味方に引き入れて、
 国内動乱が沈静化してきた矢先の反乱とあって、正面きってのイギリスとの対決の様相を呈し
 ていたこの軍事行動に王国の威信をかけて臨んだ。

 スペイン王国は同じカトリック教国としてフランス支援の艦隊を派遣する。

 こうして、プロテスタントとカトリックの両国の宗教的闘争と国家利害の衝突が、このラ・ロシェ
 ルの町を舞台に展開した。

・・・しかし、そもそも1万5千もの住民の犠牲を払った後に陥落することになるラ・ロシェルの新
 教徒たちは、こんな正面きった大胆な大騒動を巻き起こすつもりはなかった。

 イギリスが彼らとフランス王国との小競り合いに便乗して大掛かりな戦争を始めたまでのこと
 なのだ。そのイギリスの国王チャールズ1世は、宰相のバッキンガム公爵の熱烈な説得の末に
 今回の出兵を決意したらしい。


 George Villiers, 1st Duke of Buckingham

 そしてこのバッキンガム公爵の「熱烈な説得」の真意は、果たして本当に、イギリスの国家利
 益なのか、あるいは新教徒の同胞救済という宗教的熱情なのか。

 とんでもない、彼の目的はまったく別だ。イキリス宰相としての立場でもなければ、新教徒とし
 ての立場でもない。35歳の美男のジョージ・ヴィリアーズとしての立場、それがすべてであった。

 彼は、前イキリス国王ジェームズ 1世の寵臣として、一介の「サー」の身分から、2年にして子
 爵、翌年伯爵位を、更に2年後に侯爵、4年後の1623年に公爵に叙され、政府の要職を歴任し
 ていた。しかしこれすべて国王の籠愛(ジェームズ王は同性愛で名高い)によるもので、政治家
 としては失敗の連続、議会の弾劾を受けることもしばしばだった。

 しかし、権勢もあり、美貌にも恵まれていたこの公爵は、女性を魅了する才覚は当代随一で
 ある。

  
  フランス国王ルイ13世     王妹アンリエット・マリー  イギリス国王チャールズ1世

 彼は1625年、ルイ13世の妹君とイギリス王チャールズの婚儀を整える目的でフランスを訪れ
 る。そしてルイ13世のお妃アンヌ・ドートリッシュと出会った。この美しい王妃は、女性恐怖症気
 味の夫君ルイ王に疎んじられており、黙々と異国(彼女はスペイン王室から嫁いだ)の官廷で生
 活していた。

             
   フランス王妃アンヌ・ドートリッシュ       アンヌ王妃とイギリス宰相バッキンガム公

 その彼女の前に登場したバッキンガム公爵は、立居振舞も優雅な素敵なジェントルマンで、
 寂しい彼女の心を新鮮な恋の躍動に満たせていく。
 公爵の方もアンヌ王妃にすっかり魅了され、外交交渉など忘れて、このアヴァンチュールに
 夢中になった。

バッキンガム公とアンヌ王妃

 王妃の側近たちも、二人が互いの情熱を確認し合う機会を与えようとしたり画策したので、こ
 のフランス王妃とイギリス宰相の関係はおおっぴらになってしまった。



共にルーベンスが描いたアンヌ王妃肖像とバッキンガム公肖像
ルーベンスはアンヌ王妃に関して、まったく画家としての修正を要しないほどの美女と評している。

ルーベンス
この肖像画が描かれたのは1625年だが、ルーベンスは後方奥の壁の彫刻にバッキンガムの肖像らしきものを描き
込んでいるという面白い説もある。本当ならばやはり評判のスキャンダルだったのだろう・・・


 数々の回想録にも語られ、後世に「事件」として伝えられ、あの「三銃士」の中でもこの二人
 の世紀の恋が陰謀と絡んで物語を進めているのは有名だ。(ラ・ロシュフコー公爵回想録に記
 されているアンヌ王妃とバッキンガム公爵のダイヤの飾り物事件については、「素敵で史的な
 三銃士」ミレディの項を参照)


フランス宰相リシュリュー枢機卿

二人の恋路はフランス宰相リシュリューの激しい憤りを買う。このフランス絶対王制確立の立
 役者で厳格にして非情な政治家リシュリューは、この時、アンヌ王妃をフランス王国の利害にと
 って危険な人物として把握していた。

・・・と、誰もが考えるだろう。

 確かに、王妃に対して憤っていたのは事実だ。しかしその憤りの真の動機は、フランス国宰
 相としてのものかどうかは疑わしい。ここでも、また、彼をアルマン・ジャン・デュ・プレシという一
 人の男として語らねばならない。

Tallemant des Reaux 

 当時の事情通のタルマン・デ・レオーによれば、リシュリューは国王の健康状態(王妃との間
 に子をもうけようとしない)を憂え、このままでは次期王位は王弟ガストンのものとなり、自分の
 地位も失われると危倶し、同じ惨めな立場が予想される王妃アンヌと手を組み、自らの手で子
 種をもうけさせ、王家の安泰を図ろう、否、謀ろうとした、という。

国王ルイ13世   王弟ガストン 


 そして彼は王妃の側近を通じて接近してくる。それは、国家の安泰とか己の身の保全とかの
 名目に男としての情欲を加味した完壁な動機であるが、いささか常軌を逸している。

 あんな不健康な王はすぐに崩御する、王妃が自分の子を身ごもり、それが王位を継承すれ
 ば、宰相として父として親身に政務に励める。しかし、こんな目出度い発想があるものか。彼の
 父は宮廷裁判所長官どまり、母は薬屋の孫娘だ。そんな血筋が王家に混じるなどという発想
 は、狂気の沙汰である。

 しかし、この狂気、あながちあり得ないことでもないのだ.....。

リシュリューの兄アルフォンス

 デュ・プレシ家は精神障害の傾向があった。彼の兄アルフォンスは自分が神であると信じて
 いた。そして彼の妹ブレゼ侯爵夫人は、自分の体がガラスで出来ていると思い込み、決して座
 ろうとしなかった。こんな兄妹をもった彼が少々滑稽な発想にとらわれたとしても仕方がない、
 という見方もできる。(余談1)

 ともかく、彼は、アンヌ王妃にそんな目論見を告白しつつ接近し、大胆に求愛した。

 しかし、王妃は彼を恋に狂ったピエロとして嘲笑したまでで、このとんでもないアプローチを一
 蹴する。

 男としての体面を大いに傷つけられたリシュリュー宰相は、その傷口も生々しいまま、パッキ
 ンガム公爵と王妃とのスキャンダルに接したわけであるから、私情も大いに作用しての対応と
 なる。

 パッキンガムは帰国の後、アンヌ王妃への恋情さめやらず、二ヶ月の後に再びフランス大使
 として舞い戻ろうとチャールズ王に申請した。ところが、リシュリューはルイ王に大使受け入れ
 を拒絶するよう懇願、フランス王国は正式にバッキンガム公爵の渡仏の拒否を表明する。


王妃に密会しに渡仏した説も・・・

 バッキンガムは恋慕に狂い、かくなる上はパリ入りを強行するしか手はないと見て、手段を模
 索。丁度、ラ・ロシェルがレ島の要塞をめぐってフランス王国と悶着を起こしている情報に接す
 るや、イギリスとしては同じ新教徒を援助すべきであるとチャールズ王に詰め寄り、「聖戦」を
 口実に遠征軍を組織、自ら陣頭に立っての出陣と相成った。

 それが、このラ・ロシェルの攻囲戦の真相らしい。

 戦闘中に捕虜となってバッキンガムの前に連行されたサン・セルヴァン殿は、彼の寝台のす
 ぐ傍らにアンヌ王妃の肖像画が飾ってあるのを目撃しており、おまけにリシュリューヘの伝言を
 頼まれている。
 その内容は、自分をフランス大使として受け入れてくれれば、ラ・ロシェルから撤退するし、対
 フランス戦も中止するというものであった。
 サン・セルヴァン殿は釈放され、この申し出をリシュリューに伝えたところ「それ以上話したら
 首をはねる」と激しくつっぱねられたという。


ラ・ロシェル攻囲戦の前線視察のリシュリュー宰相

 結局、この戦はイギリス軍の撤退と、ラ・ロシェルの開城に終わり、バッキンカムの恋の野望
 は空しく散った。

 しかし彼はその後十ヶ月に渡って大船団を組織、再びフランスヘ乗り込む準備を慎重にすす
 めた。かなりな執念である。

 ところが、出港間直の彼はジョン・フェルトンという一将校(ラ・ロシェルのレ島の戦にも中尉と
 して参加している人物)の短刀の一撃に倒れる。

 このフェルトン、妹の証言では、悲惨な戦闘での体験に悩んでいた(現代のシェルショック)と
 も、軍隊での昇進や未払い賃金等の個人的な恨みとも、またリシュリューの差し向けた刺客と
 も言われているが、ともかく二つの国家の戦争沙汰まで巻き起こしたバッキンカム公爵のラヴ
 ストーリーは終焉を迎えたのであった。

          
1628年8月23日朝、バッキンガム公は暗殺される。        John Felton




幼王ルイ14世

 このアンヌ王妃も結局のところどうにか子をもうけることが叶って(その真の父親がルイ13世
 であるか、諸説紛々のところではあるが)、ルイ13世崩御の後、ルイ14世が即位する。

 即位とは言えまだ幼王なので、イタリア出身でフランスに帰化したマザラン宰相とアンヌ太后
 の摂政政治となる。

 このマザラン宰相という男はバッキンガム公爵の面影をたたえる、というよりも瓜二つの色
 男、つまリアンヌ太后にとっては正に「タイプの男性」であった。


 Jules Mazarin

 リシュリュー宰相もすでに世になく、アンヌ太后は失われた夢をようやく取り戻したかのよ
うに、マザラン宰相と二人で王国を統治するのである。

 このマザラン、リシュリューと同じ枢機卿であり、また辣腕政治家のリシュリューからく評価
 されていた男だが、リシュリュー宰相とは大きな違いがあった。それはアンヌ太后と敵対するど
 ころか、ものすごく仲が良かった点だ。

 秘密結婚説まであるくらい・・・・

   
こんな合成画像が表紙の本まで出てる。   1632年のマザランのこの肖像だと少しバッキンガムに似ているか・・・

 しかし二人の摂政政治は、多くの貴族の反感を買い、国王には忠実であっても摂政政府とな
 ると常に大胆に反抗してくるフランス貴族の血が沸き立ってしまう。ことにマザランなどという外
 国の氏素姓も大したことのない成り上がり者が、実権を握ったのでは面白くない。

 そこで、高等法院との対立が発端で始まった反政府の暴動に、貴族たちは次々と便乗し、王
 国を二分しての大乱が始まる。これをフロンドの乱という。

 これを、歴史家は「中世的大貴族の最後の反王権闘争」だと定義づけようとする。ところがと
 んでもない。

 
 Duc de Beaufort          Duc de Longueville

 首謀格のボーフォール公爵とかロングヴィル公爵とかヌム―ル公爵とか、それぞれ肩書だけ
 で判断すれば、あたかも大貴族であるが、彼らは地方に独立的な権力など持たない新興の大
 貴族、いわば王政の中で生まれた貴族たちであり、中世的大貴族でも何でもない。王政の否
 定は自らの破滅である連中なのだ。

 歴史の流れとしては、丁度、大貴族最後の反王権闘争というのが都合良い位置づけである
 が、中身はそんなものではないのである。


フロンドの乱 サン・タントワーヌの戦い(1652年)

 ヴォルテールも、海の向こうイギリス人たちは黙々としのぎを削り合っているのに対して(イキ
 リスではピューリタン革命の最中で国王の首が落ちる)、フランス人は面白半分、笑いながら悶
 着を起こした、とこのフロンドの乱をコケにする。

 確かに、パリは大騒動で、派手にドンパチをやらかし、宮廷はパリを逃げ出したが、そこここ
 で買収や色仕掛けの篭絡やらが戦局を一変させ、あげくにすべてもとのままで鎖圧されたの
 だ。

 特色としてあげられるのは、女たちがかなり派手派手しく活躍し、反乱の主導権を握っていた
 ことであろう。


Duchesse de Longueville

 冒頭に紹介したアシリ4世が熱烈に恋した美少女シャルロット・ド・モンモランシーの娘ロング
 ヴィル公爵夫人は、ほとんど主役と言ってもおかしくない。


Duc de La Rochefoucauld

「箴言録」で名高い哲人ラ・ロシュフコー公爵は「ロングヴィル夫人の美しさ、機知、人物全体の
 魅力は溢れるばかりで、この人のためならどんなに苦しんでもいい」と絶賛し、事実_、彼は歴
 代の王家への忠節をかなぐり捨て、反軍の旗頭に立った彼女に従って戦い、喉もとに弾丸を
 受けて負傷し危篤状態に陥るのだ。恋に狂った哲人というわけだ。

 
 prince de Conde          Vicomte de Turenne

 また、この当時、フランス軍の司令官としてコンデ公爵(ロングヴィル夫人の弟)とチュレンヌ元
 帥の二人が名将の誉れ高く、人々の信望を二分していたが、後者チュレンヌ元帥は、勇将、戦
 略家として偉人の類いであった。ところが、この偉大なる元帥、反乱勃発当初、スペイン戦線
 にあり、国境を守っていたが、ロングヴィル公爵夫人の色仕掛けの誘いにまんまとはまり、何
 と、戦線をなげうって反乱軍に走ったのだ。こちらは恋に狂った名将というわけだ。


Marechal d'Hocquincourt

 また北仏ペロンヌの総督ドッカンクール元帥は、やはり反乱軍の女首謀者モンバゾン公爵夫
 人に「ペロンヌは、世にも麗しきかの人のもの」と手紙を送りつけ、逆軍の将となる。

      
Duchesse de Montbazon      Duchesse de Chevreuse    Duchesse de Chatillon

 またレーグ侯爵はシュヴルーズ公爵夫人の恋人として反乱軍に参じ、 トゥールヴィル伯爵令
 嬢はプートヴィル、リュクサンブール、バルテー、リュードなどの諸侯らを色香で幻惑、反軍側
 に引き入れた。また、王軍の将である夫が戦死したシャティヨン公爵夫人は反乱軍のヌムール
 公爵やその義兄のボーフォール公爵の愛人だったが、義兄弟同士を決闘させるトラブルを巻
 き起こし、ヌムール公爵を失う。(余談2)

 例え、イタリア出身の宰相とスペイン出身の太后との摂政政治とは言え、国王をいただいて
 いる正統な政府であることに違いはない。それに弓をひくということは大逆の重罪である。いく
 ら美女に魅せられたとは言え、お家を潰すかも知れぬ命賭けの行為なのである。にもかかわ
 らず、かくも多くの名門貴族らが、色恋に浮かれて、思慮分別を失うというのは驚異である。

それも、また、人生 ♪

 そんなシャンソンの歌声が聞こえてきそうだ。




  Versailles
    
      Louis XIV  


 フロンドの内乱当時、幼少であったルイ14世はたくましく成長し、フランスをヨーロッパの一流
 国に仕立てあげる。軍事的にも、文化的にも、すべてヴェルサイユを中心として全欧が軌道し
 た。
 ヴェルサイユの栄耀栄華の中、ルイ14世は様々な宮廷絵巻を演出し、青年期から老年
に至るまで星の数ほどの女性たちが彼の人生を美しい光輝で彩った。


 Olympe Mancini   Marie Mancini       de la Mothe-Houdancourt   Henrietta Anne Stuart

   de La Valliere        d'Heudicourt     de Gramont    de Montespan     de Thianges


  de Rohan-Chabot         de Maintenon        des Osillets           de Fontanges

 マシシニ家の令嬢たち、ラ・ヴァリエール嬢、モンテスパン侯爵夫人、フォンタンジュ嬢、そし
 てマントノン夫人、その他の束の間の恋のヒロインたち・・・。(赤字は有名)

 絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿の恋愛絵巻はおくとしよう。上のルイ14世愛妾たちの肖像画群
 の中には、リュドル侯爵夫人のような裸の肖像しかないものは除いてあるし、まだ無名の愛人
 らもいたことは想像に難くない。

 またこれらの女性たちの中には束の間のお相手も含まれるし、公式愛妾として権勢を誇った
 女性もいる。

   
                 Hortense Mancini      Charles II

 若きルイ王を魅了した最初の二人のマンシニ嬢は姉妹である。5人姉妹でマザラン宰相の姪
 たちで、夫と死別した宰相の妹ジェローラマがフランスに連れてきた。2人の妹にオルタンス・マ
 ンシニがいるが、この人はイギリス王チャールズ2世の愛妾になっている。評判の美人姉妹た
 ちだった。

 また Henrietta Anne Stuartという女性は、チャールズ2世の妹で、ルイ14世の弟オルレアン
公に嫁いだ女性。この義妹との関係はさすがに宮廷でも煙たがられた・・・。



 さて、最後の愛妾(と言っても浮気はあったが・・・)、否、多くの証言に従えば、秘密結婚をし
 た歴史の陰の王妃たるマントノン夫人が、この絶対君主の代名詞のごときルイ14世に働きか
 け、実現させた歴史的な大事件についてここでは語りたい。

 彼女は敬虔なカトリック教徒であり、それは極めて激しい宗教的な情熱を伴っていた。そして
 配偶者として老年の王を精神的にも支配した女性だった。(その簡単な生涯は「歴史の中のシ
 ンデレラたち」を参照願いたい)


宮廷画家ピエール・ミニャールにマントノン夫人の肖像を描かせるルイ14世と、出来上がりの画


 彼女の宗教的熱情は、老年の国王の弱気、つまりこの世での罪の数々に恐れを抱き始めた
 男にとって、盲目的に従うべきキリスト教徒としての免罪符であると感じたようだ。

 カトリックによる宗数の統一なくして、国家の統一はなく、この事業を成し遂げることにより、
 彼の罪も許される。・・。つまり新教徒の自由を放任した「ナントの効令」を廃止すること、国内
 の新教徒(ユグノー)たちを改宗させる大事業こそ、彼に課せられた使命である・・・・と。

 そんな強迫観念がマントノン夫人によって芽生えたのである。1685年10月18日、かくして「ナ
 ント勅令廃止」の王命が発布される。(フォンテーヌブロー勅令。1787年にヴェルサイユ勅令で
 廃止されるまで続く)

 実に20万の人口が、名門貴族から一般庶民に至るまでの人々が、この王命によりフランスを
 捨てて、国外に亡命することになり、経済的損失は計り知れない。輝かしいルイ14世の御代に
 最大の汚点を刻んだのである。




            竜騎兵                 迫害される新教徒         
            
 一人の女性の熱狂的な宗教心が、20万の人々の人生を変えた。この後、一世紀に渡れば
 50万人の運命を変えたのである。人口の20分の1の亡命者を出し、各地で強制改宗を任務と
 する竜騎兵部隊が派遣され、拷問や強制収容の嵐が席巻する。

 近代の歴史家たちは、マントノン夫人を勅令廃止の張本人として非難した。ルイ王がただ、
 その女性の思想的影響力に盲従していたがために、ブルボン王家の歴史に決定的な汚点を
 残したわけだ。

 しかし、この「ナントの勅令」、いつ、どのように制定されたのか?

 それは、1598年4月13日、例の好色な王様アンリ4世によって発布された信仰の自由を宣言
 した王令である。

 これにより、新教徒と旧教徒との長い国内動乱が終息したわけだ。

 ただ、それをアンリ王に促した立役者がまた、カブリエル・デストレという女性。

   
Gabrielle d'Estrees          Henri IV

 これもまた美しい令嬢であった。アンリ王は彼女にぞっこんであったのであるが、彼女は
自分の愛する一人息子セザールと、どうにかフランスーの資産家である新教徒貴族メル
クール公爵の一人娘を結婚させようと考えていた。
 それには宗教問題で国王と対立しているメルクール公爵との公的な和解が必要であり、
そこで王の愛情に訴えて、王国の新旧両派の和解を目論んだわけである。

 この私利私欲のおかげで、フランスは宗教的統一を実現させ、内乱に終止符をうった。

 それが、天下に名高い「ナントの勅令」、というわけだ。

 ナントの勅令にサインするアンリ4世 

 ガブリエル・デストレの猫なで声の「ねぇ、お願い」の一言が、一世紀の後、マントノン夫人の
 「ねぇ、願い」の一言でくつがえって「ナントの勅令廃止」となっただけのことである。

「歴史は夜つくられる」の好例だ。





Friedrich II

 プロイセン国王フリードリヒ2世は、1756年のある日、ある外国大使からもたらされた情報に
 驚愕する。

 8万のオーストリア軍と15万のロシア軍がフランス軍の増援を受けてプロイセンに対して総攻
 撃を開始する、というのだ。


フリードリヒ2世の閲兵

 プロイセンは軍事大国ではあったが、動員可能の兵力は11万6千程度である。先のオースト
 リア継承戦争で華々しい勝利の末、オーストリアから肥沃なシュレジエン地方を奪って、全欧に
 勇名を馳せたとは言え、人口400万の小国だ。オーストリア、ロシア、フランスの諸大国を敵に
 回しては、フランスの宿敵イギリスを味方にしたとて、苦戦は必至、暗澹たる見通しだ。だが、
 同年5月15日イギリスのフランスに対する宣戦布告によって、戦端は開かれた。

 これが、全欧を戦火にさらした七年戦争であり、終戦までには約百万もの人命が失われる一
 大戦争の始まりなのである。

 ここで、プロイセン王フリードリヒ2世が何よりも肝を抜かれたのは、二世紀に渡り角逐を続け
 てきたフランスとオーストリアの両国が、今回、あっさりとヴェルサイユ条約に調印、同盟を結
 んだことだった。

 先の戦争でも戦火を交えていたこの両国が、急に連合するなんて夢にも思わぬ成り行き、ま
 さに青天の霹靂である。
  


七年戦争の戦争画

 確かに、フランス・オーストリア同盟は、ランヴェルスマン(同盟の逆転)として全欧を驚嘆させ
 た快挙であり、当時パリにいたカサノヴァも「驚くべき出来事」とその回想録に記している。

 フリードリヒ2世が先の同盟国フランスの今回の敵対に仰天するのも無理はないのだ。

 彼は軍人王であった父フリードリヒ・ウィルヘルム1世に、音楽や詩歌を愛好する軟弱息子と
 して嫌われ、逃亡を企てて捕らわれたときなど、脱営逃亡罪として死刑を宣告されたこともあっ
 た。幸い、他国の国王の仲介によって命拾いしたわけだが、軍人気質の父親とは相容れない
 青白い青年だった。

 しかし、彼は、自らが王位につくや、父親まさりの手腕を発揮、プロイセンを一大軍事国家に
 成長させるという偉業を成し遂げる。そして、父親を上回る侵略戦争を開始、父王よりはるか
 に大胆な軍人王になったのだ。

        
          Friedrich Wilhelm I           “平和の撹乱者”フリードリヒ2世とそのプロイセン軍

 そして、今では、「平和の撹乱者」などと各国から呼ばれている始末。

 そんな超硬派な君主に変貌したフリードリヒ2世にとって、愛妾や側室とじゃれ遊ぶ他国の国
 王やスカートをはいた女王など、侮蔑の対象でしかない。ところが、今回、プロイセンを取り囲
 んだ敵対諸国はロシアにせよ、オーストリアにせよ女帝の君臨する帝国なのである。ロシアは
 エリザヴェータ女帝、オーストリアはマリア・テレジア女帝だ。後者はシュレジエン地方の争奪戦
 で大猿の仲、フリードリヒを野蛮人と呼び、国家利害の直接かかわった生涯の宿敵であり、常
 に戦争の相手である。

 しかしロシアは、プロイセンにとって、このシュレジエン地方でのオーストリアとの緊張状態が
 続く限り、敵に回したくない背後の強国。外交の限りをつくしても友好関係を保持しておかねば
 ならぬ相手だった。

 果ての知れぬ広大なロシア帝国は「戦闘に勝てても戦争には勝てない敵」なのである。

 ところが、そのロシアが、外交交渉も空しく敵に回った・・・。

 それは、ロシアが東プロイセンの領有を狙っていた側面もあるが、そんなことよりも、女帝エ
 リザヴェータのフリードリヒに対する「憎しみ」がその根底にあったのだ。


 女性蔑視のフリードリヒ

 フリードリヒは、日頃の、女性に対する蔑みから、ついつい馬鹿な小唄をつくったりしていた
 が、ロシア帝国に対する恐怖心からのストレス解消に、女帝を下僕や御者をお慰みの相手に
 している淫乱女、寝間着で歩き回ってばかりいるくせに、1万5千着ものドレスを持っているのが
 不思議、とかコケにするだけコケにしていた。

 そんな陰口を伝え聞いた女帝は、女としてこのプロイセンの兵隊男を深く忌み嫌い、15万の
 兵力で一泡ふかせてやろうと機会を探していたのである。

 舌禍とは、まさにこのことだ。

 
サンスーシ宮のフリードリヒ、女どもにイライラと・・・


 フリードリヒ2世は、「三大娼婦」とか「ペチコート1世陛下、2世陛下、3世陛下」とかの暴言も
 好んで吐いていた。三大娼婦の一人目、二人目は、言うまでもなく、オーストリア女帝マリア・テ
 レジアとロシア女帝エリザヴェータ、ペチコート1世陛下と2世陛下も、当然のこと、この二人の
 女性である。

 では、三人目、つまり三大娼婦の三人目であるペチコート3世陛下とは、誰を槍玉にあげて
 いたのか?

 それこそ、この七年戦争に際して、全ヨーロッパを驚愕させ、フリードリヒ大王を窮地に陥れ
 た「同盟の逆転」をもたらした一女性なのである。

    ロシア女帝エリザヴェータ
   
   オーストリア女帝マリア・テレジア    フリードリヒ     ポンパドゥール侯爵夫人
フリードリヒ包囲網


 ポンパドゥール侯爵夫人、彼女がこの三人目、なのだ。

 彼女は町家の出だが、その美貌と教養によってフランス国王ルイ15世の側室、つまり公式
 愛妾となった。公式愛妾の地位は、大臣や外国の大使らからも一目置かれ、宮廷を牛耳り、
 政治にも関与できる絶大な権力を掌握できる。


Louis XV , dit le Bien-Aime

 ルイ15世はルイ・ル・ビヤン・エーメ(もてもて王)と人々に呼ばれた色男、終生多くの愛妾を
 抱えてきた人物。「鹿の苑」と呼ばれた秘密館には女たちが囲われ、次々と王のお相手に供せ
 られた。そんな好色な国王であったが、ポンパドゥール夫人は、王の男としての欲望の発露に
 は目をつむり、自分は良き友、理解者、様々な娯楽の提供者としての立場を保持し、死ぬまで
 国王との特別な関係を守り抜いた賢女であった。

 大臣を追放したり、将軍を任命したり、彼女は、政治にはあまり関心のない国王に成り代わ
 って国政を仕切っていた。

 しかし、彼女は、いつ失寵するか知れぬ側室の身、そこが女帝たちとは違う。生まれも所詮
 は町家、名門貴族ではない。そんな、ぬぐい去れないハンディーがある。

 そこをうまく利用したのがオーストリア女帝のマリア・テレジアだった。

 彼女の派遣した駐仏大使カウニッツ伯爵は、慇懃に、まるで王族に接するようにポンパドゥ
 ール夫人に応対する。そして女帝は、彼女を「親友」と呼び、公私に渡って友情を傾けた。

        
          Madame de Pompadour      Graf von Kaunitz-Rietberg


 これにはポンパドゥール夫人も有頂天になった。

 それに引き換え、プロイセンのフリードリヒ2世は、生来の女性蔑視から、外交上の友好国で
 あるフランスの公式愛妾に対して、散々の悪口をたたき、自分の飼い犬にポンパドゥールと名
 付け蹴飛ばし、愚弄するような詩を作っては悦に入っているらしい。

 一個人として、こんな感情作用の働く中に、自分を「親友」と呼ぶマリア・テレジア女帝と敵対
 し、自分を「娼婦」と呼ぶフリードリヒ大王と同盟を結ぶなどという芸当は不可能だろう。

 彼女は、相変わらず親プロイセン、反オーストリア派の多いフランス宮廷の諸派を抑えて、ま
 た、ハノーヴァーでの対イギリスの闘争においてプロイセンとの同盟が必要であるという国家理
 性に反して、オーストリアとの同盟を徹底主張し、国王ルイ15世を例の「ねぇ、お願い」で説き
 伏せ、ヴェルサイユ条約の締結となったのである。そしてヨーロッパ諸国の勢力均整は崩れ、
 再び戦乱、21万のフランス軍兵が、 ドイツの戦野を進撃していったのであった。(余談3)


い代償を払うハメになったフリードリヒは以後7年大いに奮戦するのだった・・・


 七年戦争、多くの歴史家がその原因を謎とする大戦争は、かくのごとく始まったのである。

・・・この戦争により、フランスはカナダとインドの半分の植民地をイギリスに奪われ、絶大な国
 家的損失を被ることになるのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 愛があれば、憎しみもある。どちらも激しい感情の高まりであり、クレオパトラの鼻ではない
 が、人類の歴史の流れがこうした些細な問題(当人たちには大問題だが)によって向かうところ
 を変えてしまうのである。

 まったく、分厚い歴史書の難しげな論述を読むのが馬鹿らしくなるような帰結であるが、こん
 な風な要因分析の方が魅力はあるし、何より面白い。

 学位を取得したり、歴史学畑で名を成そうなどと躍起になると、近代国家成立過程に於いて
 云々とか内包せる宗教思想相克の表面化とか大陸戦争と植民地争奪の世界史的意義とか、
 論旨は学術用語に完全武装された理屈の集大成に蹂躙されつつ否定と肯定を繰り返し、古代
 から近代までを一本の整然たる歴史的真実とやらで束ねようとする。それもまた大変な難事業
 であるが、過ぎ去った出来事の集積に何を求めても空しい限りだ。

 せめて生きた人間の魂の普遍的な崇高さ、あるいは愚かさを楽しもうではないか。むしろそ
 こに一本の整然たる真理が見つかるかも知れない。



         我々が歴史から得られる最善のものは、
                それが呼び起こす感動である。
                    
                                ・・・・ゲーテ



長い余談コーナー
(余談1)
 体がガラスで出来ていると思っていたリシュリュー宰相の妹というのは、 Nicole du Plessis-
 Richelieu (1587-1635)。1617年にブレゼ侯爵ウルバン・ド・マイエと結婚しているのでブレゼ侯
 爵夫人。夫は初代ブレゼ侯爵で、スウェーデン大使(1631)も務めた軍人でフランス元帥となっ
 た(1632)。この逸話は、タルマン・デ・レオ―による。「彼女は自分がガラスのお尻を持っている
 と思っており、座りたくないと思った。 彼女はおかしな狂気の時間を過ごした。完全に正気では
 ない」と述べられている。

 Urbain de Maille, marquis de Breze (1598-1650)

(余談2)
 この決闘は1652年7月30日、パリのプチ・ペール広場でそれぞれ4名の介添人も含めて行わ
 れた。もともとは反軍の作戦会議の席上、意見の対立からボーフォール公が義弟のヌムール
 公(ヌムール公夫人はボーフォールの姉エリザベス・ド・ブルボンだが、年齢はボーフォールの
 方がヌムール公より8歳上)に手を上げたことがきっかけ。そんな対立の背景には、美貌のシャ
 ティヨン公夫人への二人の思いからくる敵愾心もあったわけだ。(公夫人の夫シャティヨン公は3
 年前にシャラントンの戦で王軍の将として28歳で戦死しているから尚更か)

        
 Duc de Nemours     Elisabeth de Bourbon-Vendome   Duc de Beaufort

 仲が悪いとは言え、反乱を起こしている最中だ、ボーフォール公は怒って決闘に及ぼうとした
 義弟に対して、謝罪して、何度も和解を申し入れたが、結局は決闘を避けられなかった。
 決闘の場に於いても、ボーフォールは「過去は忘れて、また良き友になろう」と最後の謝罪の
 申し入れをしたが、ヌムールは「黙れ、下司野郎。もはや殺すか殺されるかだ」と受け入れず、
 先に短銃を発した。それが当たらぬと見るや、剣を手に義兄に突きかかった。やむなくボーフ
 ォールが発した銃弾でヌムールは即死する。
 そして4人の介添人同士も剣を交え、ヌムール方のヴィラール侯(Villars)がボーフォール公の
 親衛隊副官のエリクール(Hericourt)を倒し、やはりヌムール方のリュゼルシュ(またはデュゼル
 シュLuzerche)も相手のリー(de Ris)を倒す。倒された二人はその日の内に死んだ。ヌムール方
 のラ・シェーズ士爵(la Chaise)、カンパン(Campan)も負傷、ボーフォール方のビュリー伯爵
 (comte de Bury)もブリエ(Brillet)も共に負傷し、伯爵は重傷だった。全体的にはヌムール方の
 勝利だが、肝心な当人が即死だから仕方ない。
 このような介添人も含んでの闘いという形式は、ルイ13世、14世時代フランスでは一般的だ
 った。もともと介添人制度とは、決闘する当直者たちの私闘が、正当に行われるかを確認する
 ための証人だったのだが、いつしか、双方の証人同士も仲間に義理立てして闘うということが
 習慣化したものである。

  
Francoisde Montmorency-Bouteville           ロワイヤル広場の決闘

 シャティヨン公夫人も義兄弟を決闘沙汰に及ばせるなど罪作りな御婦人であるが、そもそも
 この人の父親は有名なフランソワ・ド・モンモランシ―・ブートヴィルFrancoisde Montmorency-
 Bouteville(1600-27)だ。デュエリスト、つまり決闘狂で名の知れた有名人。名門貴族の出なの
 に、些細なことですぐに決闘をし、禁止令が極刑を設けてもどこ吹く風だ。1624年ポンジボー伯
 爵Comte de Pontgibaudを決闘で殺害、翌25年にもド・ヴァランセーDe Valencayとも決闘する
 は、ポルト侯爵Marquis de Portesを殺すは。そして翌26年トリニ―伯爵Comte de Thorignyを
 殺して、すぐ後にラ・フレット男爵Baron de La Fretteも傷つけ、リシュリュー宰相の逆鱗に触れ
 て(当然だが)、国外に逃亡。
 しかし、トリニ―伯の親族のブ―ヴロン伯爵Comte de Beuvronから決闘状が届き、今度は
 断った。それで、国王も宰相も帰国を許したが、ブ―ヴロンに再度挑戦されたらあっさりと応じ
 て、パリのど真ん中、ロワイヤル広場でモンモランシ―・ブートヴィルは親戚のシャペル伯爵
 Comte des Chapellesを介添人に、ブ―ヴロン伯爵はビュシー・ダンボワーズ侯爵Marquis de
 Bussy d'Amboiseを介添人として大立回り。ブートヴィルがビュシー・ダンボワーズを倒し殺す
 と、すぐにみんな引き上げた。官憲が迫っているからで、ブ―ヴロン伯はイギリスに逃亡する。
 しかし、ブートヴィルとシャペルは、今度こそはと捕えられた。

 奥方の懇願も空しく連行される。

 この決闘禁止令を小馬鹿にして無視し続けた決闘狂も、ついに名門貴族だからとの王室か
 らの温情も注がれず、奥方の国王への直訴も空しく、シャペル伯共々、グレーヴ広場で斬首と
 なった。
 ブートヴィルの凄まじくも短い人生もこうして終わったわけだが、彼は二女一男を遺し、その
 一人は上述のお騒がせなシャティヨン公夫人だが、その弟のフランソワ・アンリは後にリュクサ
 ンブール元帥としてルイ14世の侵略戦争で大いに活躍する英雄となる人物だ。また、これらの
 子らよりも長生きだった奥方エリザベス・アンジェリクも、上の画のように夫の助命は叶わなか
 ったが、91年もの長寿を全うしている。

    
 Henri II de Lorraine, Duc de Guise    Godefroi, Comte d'Estrades       Bridieu, Louis de

 もう一つ、付け加えておくと、例のシャティヨン公夫人の夫の兄モーリス・ド・コリニー伯爵も、
 ロングヴィル公爵夫人の名誉のために、ギーズ公爵に決闘を申し込んで、これもまたロワイヤ
 ル広場で、コリニー方介添人デストラード伯爵Comte d'Estrades、ギーズ方介添人ブリデュー
 侯爵Marquis de Bridieu、合せての4人で堂々と決闘、ギーズ公に深手を負わされ、治療を拒ん
 だあげくに死んでいる。(1644年)

 
 Marquis de Sevigne     Marquise de Sevigne,Marie de Rabutin-Chantal

 ちなみに、ボーフォールとヌムールの決闘のあった年の前年1651年、あの有名なセヴィニエ
 書簡集のセヴィニエ侯爵夫人の夫アンリ・ド・セヴィニエ(Henri de Sevigne)がゴンドラン夫人と
 いう愛人を巡るトラブルからダルブレ士爵(Francois Amanieu,chevalier d'Albret)と決闘して、勝
 ったは良いが、深手を負い2日後に、25歳の若妻を遺して死んでいる。彼もまたフロンドの乱の
 反軍に組していた。ダルブレ士爵は有名なダルブレ元帥の弟だが、兄のように名を上げること
 もなく、1672年、サン・レジェ・コルボン伯爵(comte de Saint-Leger-Corbon)との決闘で命を落
 としている。ついでに、6年後にはダルブレ士爵の相続者である甥のダルブレ侯爵が、ラメット
 伯爵(Comte de Lameth)の奥方と姦通し、夫に撃ち殺されている。この侯爵も子がなく、由緒
 ある領地は妻の再婚先へ流れてしまい、ダルブレ家は決闘で大損だ。

 話は戻り、夫セヴィニエ侯爵が愛人のために決闘して死に、遺された若妻も可哀相だが、こ
 のセヴィニエ侯夫人の父親だって、そもそも上述の決闘狂モンモランシー・ブートヴィルの友人
 なのだ。夫人の父はシャンタル男爵Baron de Chantalというが、1624年にブートヴィルがポンジ
 ボー伯爵を殺した決闘では、ブートヴィル側の介添人として参加しているくらい。つまり、決闘
 大好き貴族の一人なのだ。

⇒1768年列聖⇒
セヴィニエ夫人の父シャンタル男爵 男爵の母Jeanne de Chantal             Sainte Jeanne de Chantal
                      夫と死別後、修道女となり1610年修道会「聖母訪問会」創立。1641年没。

 その日、復活祭でシャンタル男爵は家族と教会で祈りを捧げていた。聖母訪問会創立者の
 敬虔なクリスチャンである「聖ジャンヌ・ド・シャンタル」の息子なのだから当然だろう。ところが、
 ブートヴィルの呼び出しにすぐさま教会を飛び出し、サン・タントワーヌ門に駆けつけて、ポンジ
 ボー伯との闘いに参加したという。復活祭に決闘騒ぎということで高等法院より訴えられ、「爵
 位剥奪、貴族身分は喪失で絞首刑、城は破壊、財産は没収、石碑に罪状を刻字し城の跡地
 に建てる」と厳しい判決文。母親は泣いたろう。しかし、ブートヴィルも男爵もすでに高飛びして
 いたし、判決内容も実行されなかった。またブートヴィルが斬首刑の直接の原因となったロワイ
 ヤル広場でのブ―ヴロンとの決闘騒ぎを起こした後も、彼はシャンタル男爵宅にまずは逃げ
 込んで身を潜めていた、というくらいの仲良しだ。聖女の息子が決闘大好きとはなんとも・・・

 
Roger de Rabutin, comte de Bussy  Marquise de Monglat,Cecile-Elisabeth Hurault de Cheverny

 加えて言えば、セヴィニエ侯夫人が、長年親交を結んでいた従兄(祖父同士が兄弟の又従兄
 だが、夫人の従姉と結婚して従兄になっている)ロジェ・ド・ビュシー・ド・ラピュタン伯爵なども、
 1638年にド・ビュスクde Buscと決闘になり、相手に重傷を負わせている。(半年後に相手は死
 亡)。翌年もシャロン夫人 dame de Chalons との恋愛で別の決闘をしている。そのまた翌年に
 はブッセ伯爵夫人Comtesse de Bussetと恋仲になるのだが・・・。(彼が戦争や恋愛や決闘など
 の人生の他に、恋人のモングラ侯爵夫人Marquise de Monglatの為に書いた「ゴールの恋人た
 ち」という宮廷スキャンダル集みたいな書物が物議をかもしバスティーユに投獄されたり、波乱
 万丈の人生を送ったことは省く)

 もうひとつ加えれば、冒頭のヌムールとボーフォールの1652年の決闘でヌムール側介添人と
 して決闘に参加、ボーフォール公の親衛隊副官のエリクールを殺したヴィラール侯の奥様
 (Marie Gigault de Bellefonds、結婚は決闘の前年の51年)は、セヴィニエ夫人の文通仲間でも
 ある。

 ちょっと関連した人たちだけを特定して拾い上げても、貴族たちは盛んに名誉だの、恋だの
 の為に決闘に及んでいることが分かる。高等法院は勿論、元帥法廷など専属の機関で様々な
 法令を発布し、かなり厳しい死刑も含んだ量刑を明示しているが、効果のほどは微妙なものだ
 った。戦時でなくとも味方同士で命を散らしている訳だから、世話のない話である。




(余談3)
 この外交革命とも言うべきフランス・オーストリア同盟の背景に、トルコ問題で対立するフラン
 スとロシアの課題解決もあった。

 ロシア女帝エリザヴェータはもともとは親仏的感情をもっていたが、トルコ帝国との闘争はロ
 シアの歴史的課題で、トルコとの友好関係を堅持するフランスとの同盟は、1775年以来の同盟
 国であるイギリスを刺激するし、ロシア宮廷内には親英派で反仏派の宰相ベストゥージェフ等
 の一派もあり、一筋縄では行かない問題が山積だった。

 そこで密使としてポンパドゥール夫人より派遣されたのが、美しい「謎の貴婦人」リア・ド・
ボーモンという人物。リアは表向きはフランス全権公使の「姪」という立場だが、公使の折衝が
 頓挫し罷免され、新大使ロピタル侯が本国を出発するや、「謎の貴婦人」は単独で暗躍する。

 謎の貴婦人リア・ド・ボーモン嬢

 まずはエリザヴェータ女帝の愛人シュヴァーロフを籠絡し、トルコ問題でフランスとこじれてい
 る女帝を説得してもらう。ロシアも「ロシア史上の私情」が有効で、これに成功。そして反仏派の
 宰相ベストゥージェフと対立する副宰相ヴォロンツォーフに取り入り、宮廷内の勢力バランスを
 崩しにかかる。そしてそれにも見事に成功する。この「謎の貴婦人」は、こうして、ロシアをフラ
 ンス同盟に引き入れたのである。フリードリヒ包囲網はかくして完成したわけだ・・・。新大使ロ
 ピタル侯がサンクト・ペテルブルクに到着する頃には、全ては決着していた。

 でも、この立役者である「謎の貴婦人」の正体は?

 「西洋史おもしろ話集」別館の第3話にその驚愕の史実が書かれている。
(TopPageから飛べますが、直接のURLは⇒ http://seiyoushi.wakatono.jp/page004.html )

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