西洋史がらみの怪談集




 夏ともなれば、やはり生ビールを飲んだりスイカを食べたりするように幽霊のお話をしなけれ
 ば日本人ではない。残念ながらこの手のお話は大変に好きなのであるが、私はまったく霊感と
 いうものがなく、個人的な心霊体験を披露することは無理であり、また周囲にも信用するに足
 る経験者もなく、この点じつに殺風景なものである。

 従ってこのコーナーにふさわしく、西洋史がらみの幽霊話で紙面をうめたいと思う。中には伝
 説じみたものや教訓談じみたものもあるが、日撃者の多さや正式な記録に残っているものも多
 く、現在「霊的」なものとして表現されている様々な現象は、古代人の自然現象に対する無知
 が生んだ多くの迷信同様に、近い将来必ずや世間の認める一つの分野となり、大学の一般教
 養課程の一科目になるかも知れない。今の内に賢明に対応しておかねば後世の笑い者にな
 るかも、だ。

 
                  Chateau de Malmaison             Napoleon Bonaparte

 かのナポレオンも幽霊話が大好きで、マルメゾン館の夜話の集いなどのおりには、灯を全部
 消させて、自分は暖炉のほの明かりに身を置いて、演出効果を盛りあげた上で幽霊話に身を
 入れた。

 たまたま誰かがクスリと笑おうものなら、「この種の話を笑ってはいけない。学者の本よりもよ
 ほど信用できる話なのだから」と本気で叱責したそうてある。



 ともかく信憑性の高い心霊現象で有名なのは、やはリロンドン塔の幽霊群で、ことに名高い
 のが1536年にロンドン塔で斬首刑に処せられたアン・ブーリンの幽霊だろう。

     
.......................................................Anne Boleyn............................................................夜警のロンドン塔の衛兵

 あのヘンリー八世の二番目の王妃である。1933年ある冬の夜、立哨中の衛兵が物音もさせ
 ずに忽然と現れた白い人影に大して、規則通りに誰何したが返事がない。
 そこで接近したところ、首のないアン・ブーリン妃の亡霊であることが分かり、噂には聞いてい
 たろうが、実物に出くわしてこの衛兵は腰を抜かして逃げてしまった。

 あの観光名物のロンドン塔の衛兵、イギリスの超精鋭部隊の近衛隊員も、さすがに肝を冷や
 したらしい。
 しかし当然、この衛兵は持ち場放棄の罪を問われたわけであるが「この持ち場に亡霊が出る
 ことは既知の事実だったので、当の衛兵は譴責を受けただけだった」と上官が記録している。



 また、別の夜、立哨交代を行おうとしたところ、敷石の上に衛兵が横たわっているのが発見
 された。とんでもない職務怠慢である。さっそく軍法会議にかけられたわけだが、法廷でその衛
 兵の証言するところ、白衣の婦人が立ち現れ警備中の自分に黙って接近してきたため、やむ
 なく銃剣で一突きしたが、それが実体のない霊体であったのに驚いて卒倒してしまったという。


 
...............................................Tower of London..........................................................beefeater

 またもやロンドン塔名物の亡霊かと軍事裁判官は驚きもせず話を聞いている。証人喚間で
 法廷に立った二人の将校が、少し前の夜にやはり王妃の亡霊を確認した旨を証言したとこ
 ろ、「確かに例の亡霊だと」立証されて、この衛兵は無罪放免になった。

 
..........................................................Jane Grey......................処刑されるジェイン・グレイ

 この年代の幽霊は実に多く、イギリス女王の座をめぐっての争いの犠牲となって17歳の若さ
 で処刑されたジェイン・グレイの亡霊なども、頻繁に出没しており、1970年には観光客の面前
 に肖像画から抜け出したようなはっきりした姿で現れて、突然消えたらしい。

 1957年の2月14日、つまり彼女の403年日の命日、午前3時に11人のロンドン塔衛兵の前に
 現れた彼女の亡霊のニュースは、海を渡ったフランスの「フランス・ノワール」誌の紙面にも報
 道された。衛兵たちも大変である。
     
 Elizabeth I

 しかし亡霊とは言え、自分たちが守っているイギリス王室の先祖たちなのであるから、無礼も
 できまい。エリザべス1世の亡霊と遭遇した近衛騎兵隊長が、この4百年前の女王陛下と会話
 をしようと試みたらしいが無駄だったという。この隊長、果たして亡霊の女王を何とお呼びした
 のであろうか? 女王に一介の隊長ごときが声をかけるなど今も昔も無礼千万、だからエリザベ
 ス1世も返事をしなかったのだろう。

 
            ........  Blickling Hall         ..    城の中


 先のアン・ブーリンの兄にあたるロシュフォード子爵ジョージの亡霊も、この一族のブリックリ
 ング・ホールに出没すると言う。日暮れどきに馬に乗って駆け回るというのであるが、この子爵
 も妹アンの二日前に斬首刑に処せられているためか、乗り手も馬も首なしのままの姿らしい。

 ここで生まれたアン自身の亡霊も、何も遠くロンドンまで出張しているばかりではなく、ちゃん
 とこの生家の城にも現れている。しかも兄同様に首なしの四頭の馬に引かれた馬車に乗り、
 白衣をまとって、その膝の上には切り落とされた自分の首を大事にかかえているという。

 
...................................もちろんイメージ画像.........................................Hever Castle


 この凄絶な四頭立て馬車は城のゲートまで疾走していき、そこで掻き消えるらしい。首を失い
 命を絶たれた姿で、怨念の塊となり、懐かしい生まれ故郷へと帰っていくのであろうか。

 
  ヒーヴァ・キャッスルを訪れるヘンリー8世・右は現在の同じ場所        

 これに比べ、ヘンリー8世との恋が実った舞台であるケント州のヒーヴァ・キャッスルにクリス
 マスの晩12時の鐘が打ち終えるとすぐ現れるという彼女の亡霊は、イーデン川に架かった橋を
 ゆっくりと楽しい想い出にしたるように渡っていくらしい。
 それぞれの場にこめられた生前の思い出が亡霊の態度に反映しているのであろうか。

   
..................................父・Thomas Boleyn................兄・George Boleyn...........................Walter Raleigh


 彼女の父親トマス・ブーリンの亡霊も娘の命日になると故郷の野原を狂ったように駆け回るら
 しい。まったく哀れな一族である・・・。

 ちなみにロンドン塔では、このアン・ブーリンと、謀殺された二人の王子、それにウォルター・
 ローリー卿の亡霊は実在が保証されているという。(但しローリー卿の処刑はジェームズ2世時
 代)観光客の前にも登場するというので、夜中の衛兵のみならず、我々にも「見物」の機会はあ
 るかも知れない。


 
      ホワイト・ハウス最古の写真(1846年)              現在のホワイト・ハウス    

 確実な日撃者の多い幽霊といえば、ホワイト・ハウスに出没するアメリカ大統領リンカーンの
 幽霊もある。 1978年にAP通信が、 1980年にはUPI通信がそれぞれその事実を報じている。
 
 またルーズベルト大統領やアイゼンハワー大統領、イギリスのチャーチル首相やオランダ女
 王などがホワイト・ハウスでリンカーンの亡霊を目撃している。その他、職員や歴代大統領家
 族の証言も多々。リンカーンの在任中のそのブレーンなどの幽霊群も一緒に従えて現れるとき
 もあるらしい。これなども保証つきの幽霊話だ。「Lincoln’s Ghost」のWiKiすらある。

       
暗殺される約1ヶ月前のリンカーン最後の写真(1865,3/6) チャーチルとリンカーンの幽霊(勿論、おもしろ合成写真)

 最近では、2008年10月、ブッシュ米大統領の娘のジェンナさんが、「テキサス・マンスリー」誌
 11月号のインタビューでこんな経験を明らかにしている。その記事にはこうある。

「ジェンナさんはケネディ、ジョンソン、クリントンの歴代大統領の子供たちが使用したホワイト
 ハウス内の部屋で寝ているが、『幽霊たちがオペラを歌うのを聞いた。ある夜はその歌が暖炉
 から聞こえてきた』と真剣。1950年代のピアノ曲も聞こえてきたといい、『ホワイトハウスにはす
 ごく沢山の幽霊がいると感じる。時々あそこがとても怖くなる』と話した。ホワイトハウスに幽霊
 が出没するという噂は昔からあり、暗殺された第16代大統領リンカーンの幽霊話が有名だ」
 と。



 人の執念の有する凄まじいエネルギー。幽霊とは一種のエネルギー現象であるという説もあ
 る。人間のある種の激しい感情には、強烈なエネルギーが伴っており、時の経過によってもエ
 ネルギーが残留する。サイキックな感知能力を持つ人には、そのエネルギーの実体までが感
 得できるということだ。怒りや悲しみなどの激しい感情の発露が度を越すと、残留エネルギーと
 なってその場に残るわけだ。

 この考えでいくと納得のいく現象もいくつかある。
 
 
     ..    La Chapelle-du-Chatelard..............................................もちろんイメージ画像

 たとえば、フランスはアン県シャトラールの城の廃墟とその周囲の牧場を毎晩のように「白衣
 の婦人」の亡霊がさまようという。
 その手には血まみれの衣服が握られており、それを泉で無心に洗い、夜明になると廃墟へ
 戻っていくという。

 このシャトラールの城の歴史を調べると、16世紀の宗教戦争(内乱)の当時、この付近で激戦
 があり、シャトラールの城主は亡骸も見つからなかったほどの無残な戦死を遂げた。(1594年
 サヴォワ公旗下のトルフォール侯の軍勢に攻撃された際に討死したトレヴォー城代のジャン・
 ド・シャイイの事か?)

 家来が彼の血まみれの衣服を城で待つ夫人のもとへ届けたまでだった。それ以来、この夫
 人は気が変になり、白衣を着て戦場跡の野原をさまよい歩くようになったという。(この白衣の
 婦人の話は Lucie de Brehevilleの幽霊とか色々なバージョンでこの地方に流布している)

 その深い悲しみを伴った行動が、強烈なエネルギーとなって、映像を現場に焼き付け残留さ
 せてしまったのかも知れない。


廃  屋

 イギリスのストラットフォード・アポン・エボンの南約6キロのところにある廃墟がある。ここは少
 し前まで豪華なホテルとして使用されていたが、ある事件から客足が遠のき、結局閉鎖され廃
 墟となった。

 なぜかと言えば、宿泊客たちが相次いで、夜になると不思議な声が聞こえると騒いだためだ
 った。男の残忍な笑い声と女の叫び声・・・。こんな音声が夜毎続いてはたまらない。しまいに
 は評判となり、ある人がこの建物の歴史を調べた。ある実業家がここをホテルとして再建する
 までは、200年もの間ここは閉ざされた廃城であった。

 城の最後の記録は、17世紀清教徒革命の動乱期、王党派とクロムウェルの軍勢との城の争
 奪戦で終わっている。

 城主は王党派の伯爵で、頑強に城を守ったが力つき開城、革命派軍勢が城を占拠した。ク
 ロムウェルは降伏した敵には決して残酷ではなかったが、ここを占拠した軍勢の中にいた二人
 の将校が、伯爵の美貌の二人娘に目をつけて、強姦して殺してしまうという惨劇が起きる。

 この二人の将校は兵士の面前で処刑されたが、不幸な娘たちの無念は、到底慰められるも
 のではない。

  
....................Oliver Cromwell          クロムウェル軍鉄騎兵        クロムウェル軍兵の虐殺


 以後、彼女たちの最期の絶叫は城の石壁に染みとおり、消えることのない悲鳴として夜な夜
 な繰り返された。

 城が閉ざされ200年、ホテルとして賑やかな舞踏会や晩餐会の舞台として再び人々を迎え入
 れたわけだが、不幸な娘たちの怨念は今だその最後の絶叫をやめることがなかった。彼女ら
 の不幸な人生の最後の場面は強烈な記憶としてその場に滞留し続けており、人々の耳に音声
 を反響させたのだろう。


ウェリントン兵営(1916年の写真)

 また、バッキンガム宮殿近くのウェリントン兵営では、何人もの衛兵が、夜中に営庭を首のな
 い女が横切るのを目撃しているという。

 ある地点でその幽霊は地面の中へ吸い込まれるように消えていくという。上げ下げ式の窓を
 開ける音や灯火を求める悲しげな声など、兵営の兵隊たちは散々恐怖を味わわされている。

 その昔、ここの兵営の兵隊だった夫に殺され、首を切断された女がいたらしいが、その首が
 結局は見つからずじまいのままらしい。この首なし女の亡霊は、その事件の被害者ではないか
 と推測されている....

 
    St. James's Palace             Duke of Cumberland

 やはリロンドンのセント・ジェームズ宮殿には見るも惨たらしい幽霊が出る。それはセリスとい
 う男のもので、彼はジョージ3世の五男カンバーランド公爵の召使であった。 1810年、彼の娘
 はこの公爵の手込めにされ、懐妊、衝撃のあまり自殺してしまう。

 セリスは召使の身分ではあったが、父親としての怒りを抑えられず、ある夜、宮殿で公爵を
 後ろから思い切り殴りつけた。そのあまりの力に、公爵の脳は頭の割れ目から飛び出るほど
 で、大変な重傷となる。セリスの方は、そのまま部屋に戻ると喉を掻き切って白殺してしまう。

 その後、その部屋には、今にも首が胴体より転げ落ちそうな無残な姿をベッドの上にさらす
 セリスの亡霊が現れるようになったという。(尚、真相は不明で、すべて推測の域。セリスの妻と
 公爵との関係が原因か、同僚への妬みか、窃盗か、宗教か、同性愛かと)


An old Man in 17th-century Dress

 またもっとしみじみした幽霊話であるが、ロンドンのバークレー・スクウェア52番地の古い家屋
 の二階の窓辺には、ときおり17世紀の服装をした老紳士の亡霊が悲しげな表情で広場を眺め
 ているという。

 話によれば、昔この紳士が溺愛していた娘が駆け落ち結婚をしてしまったらしい。式を済ま
 せて落ち着いたら会いに戻ると書き置きがあった。しかしその約束は守られなかった。老人は
 娘の帰るのを夢に見ながら生涯を終えたのだろう。

 許さぬ結婚を強行した娘への腹立ちも忘れ、ただ愛する娘にもう 一度会いたいという親とし
 ての素朴な感情だけをいだきながら、ついに時うこともなく寂しく亡くなったのだろう。現在の広
 場の雑踏をいくら探しても娘が帰ってくるわけがない。

 しかしその親心の激しい執念が、その窓辺に2百年も彼の姿を焼き付けてしまったのだ。

 
.............................Martha Raye...............................................................18世紀ホワイホール海軍本部

 1779年、イギリス海軍大臣サンドウィッチ伯爵の愛人マーサ・レイは、彼女の求婚者である男
 からロイヤル・オペラ・ハウスの前で至近距離から顔を射撃され即死した。

 彼女は自分の死をどうやって納得したであろうか。

 愛人の伯爵と楽しく過ごしたホワイトホールの海軍本部内の一室(海軍大臣の部屋は2階南
 端の角)には、華やかな人生にいまだ執着する彼女の幽霊が漂っているという。

        
         William Terriss.....................コヴェント・ガーデン駅のテリスの亡霊


 イギリスでは劇場がらみの幽霊話が多いが、俳優のウィリアム・テリスがアデルフィ劇場の楽
 屋口で彼の名声を妬んだ同僚に刺殺されたのは1897年、前出のマーサ・レイ同様あっと言う
 間の人生の終わりである。

 そのためか、彼が劇場とパットニーの自宅を通うのに使っていた地下鉄のコヴェント・ガーデ
 ン駅で彼の亡霊が現れるという。あたかも、自分の死を知らぬ彼が今でも劇場への通勤を繰
 り返しているように.....ともかく、駅員の間ではすでにお馴染みの幽霊だそうだ。

 
当時の少尉...................................ロンドン・コロシアム劇場(写真1904?とポストカード1905)

 コロシアム劇場の二階正面の前から二番目の座席に現れる若い少尉の亡霊。

 彼は休戦のほんの少し前の1918年のある日戦死した。その戦死した当日の夜に早くも当劇
 場のその座席に彼の亡霊は現れている。

 その席は、最後の休暇の夜に観劇を楽しんだところなのだ。

 戦場で倒れた時、彼の胸の中にはまだきらびやかな劇場で好きな劇を満喫した記憶が鮮明
 に残っていたのであろう。もう一度あの楽しかった一夜に帰りたいという執念が、死後の魂を運
 んだのだろう。


.....Sir Charles Wyndham          アルベリー(現:ノエル・カワード)劇場

 その近くのアルベリー劇場でも、創立者であるチャールズ・ウィンダム卿(1837〜1919)の亡霊
 が、上演に先立って入場してくる観客の中に混じっており、そのハンサムで上品な生前の姿を
 とどめているという。

 Middle Temple Lane

 また夕暮れどきには薄暗く不気味なミドル・テンプル通りには、書類の束を小脇にかかえ、
 ガウンをなびかせた弁護士風の男の亡霊が出るらしい。

 大方の見当では、これは文書偽造などで巧妙に稼いでいたある弁護士の霊とのことで、彼は
 最後には終身の島流しの刑に処せられている。せっせとロンドンで活躍していた頃が懐かしい
 のだろう。(ミドル・テンプルは法廷弁護士の育成・認定機関)


1st Regiment of Foot Guards "The Grenadier Guards"


 またロンドンのグラナディアの古いバブの酒倉から酒場の裏手へ昇る階段にも、昔死んだ近
 衛兵の幽霊が決まって9月になると出るという。

 この男はここを賭博場に使っており、ある年の9月、いかさまポーカーを見抜かれて殴り殺さ
 れたらしい。

 グラナディアとはイギリスでは近衛第一連隊のこと。元々兵舎の中庭にあり、将校用の食堂
 だった。そんな過去に何らかのトラブルがあったのだろう。

 
            イングランド銀行の庭園         黒衣のサラ・ホワイトヘッドの亡霊

 イングランド銀行でも有名な幽霊話があり、それは「黒衣」のサラ・ホワイトヘッドの亡霊の話
 である。サラは19世紀の始め頃、イングランド銀行の行員フィリップ・ホワイトヘッドの妹であっ
 た。

 兄妹は大変仲が良かったが、ある事が原因で銀行を解雇された兄は、それを妹に言わず、
 生活が困ってくると小切手の偽造を始めた。ついにはそれも露見し逮捕され、絞首刑にされた
 (1812年)。

 何も知らぬ妹はある銀行員からその話を聞かされて以来、気が変になる。そして毎日のよう
 に銀行に来ては兄を探すようになった。

 銀行員たちもそんな哀れな娘を大事にしてやるが、間もなく彼女は死ぬ。しかしそれからもひ
 どく悲しげな表情で黒衣に身を包んだサラの亡霊が銀行の庭をさまよい歩く姿が目撃されてい
 るという。(余談1)



        
     Samuel Pepys              12 Buckingham Street, Strand

 あの17世紀の赤裸な日記を残したイギリス海軍大臣サミュエル・ピープスの亡霊は、バッキ
 ンガム通り12番地のある古い家に出る。そこは彼が幸福な9年間( 1679-1688 )を過ごした家
 だ。

 1953年、この家の住人が玄関広間で、彼が微笑みながら立っているのと出くわす。どことなく
 輪郭はぼやけていたそうだ。あれ? と思う間もなく彼は消えてしまったらしい。

   
................................Sir George Tryon   訓練中、僚艦キャンパーダウン号と衝突して沈むヴィクトリア号

 1893年の6月22日、海軍中将ジョージ・トライアン卿は地中海で艦隊演習を行っていた。1500
 マイル離れたロンドンの自宅では彼の妻がホーム・パーティーを開いていた。数百人の招待客
 は間もなくある人物の登場に仰天した。

 恐ろしげな顔つきで大股歩きにホールを横切り、くるりと振り向くなり忽然と消えてしまったそ
 の人物は、ほかならぬトライアン卿自身だった。地中海にいるはずの、である。

 しかし実物の卿は、丁度その頃、自分のミスで巻き起こした事故により乗艦ヴィクトリア号と
 もども海底に沈んでいたのであった。生きていた頃に執着していた場所に、こうして死後にそ
 の魂が飛来し、映像化され、生への執着が高ければ高いはど鮮明な画像となって、より多くの
 人の確認するところとなる。(この目撃談は、George Tryon卿のWiKiでも紹介されている)

 最後の最後に発っした何らかのエネルギーが、生前の姿をその場所に再生させたようだ。

生霊(もちろん合成写真)   Westminster
            

 ある瀕死の状態の国会議員が、丁度開催されていた国会の自分の座席にぼんやりとした顔
 付きで現れ、病状を知っている仲間が驚いて見ているうちに消えてしまった。

 その議員が回復したあとに、生死の境をさまよっていたはずの自分が国会の議席にすわっ
 ていたと聞いてびっくりしたという。

 人が極限の状態で発する力にはそのような現象を引き起こす作用があるのではないか。

........
          ボーリー牧師館        火災(1939)後のボーリー館(44年撤去)......Henry Dawson Ellis Bull

 イギリスはエセックスにあるボーリー牧師館は世界最高の幽霊屋敷だという。

 二百年間に1300回もの心霊現象を記録する凄まじい幽霊屋敷だ。すでに13世紀頃に修道院
 があり、そこの修道士と尼僧が駆け落ちして捕らえられ、男は首をはねられ、女は虐殺される
 という事件があったらしく、その頃からこの二人の首なし幽霊とかの伝説があった不気味な土
 地だった。

1862年にこの地に赴任したヘンリー・ブル牧師一家が、その修道院の跡地に牧師館を新築し
 て住んだのが始まりで、家族は、白い女の幽霊や真夜中に馬車の音がし、首のない黒い男が
 馬車に乗っているのを目撃したり、血まみれの少年やらずぶぬれの少女やら、灰色の修道服
 の老女やら、それに加えて様々なポルター・ガイスト現象と、徹底的に脅かされた。

 しまいにロンドンのデイリー・ミラー新聞社が取材にきて、調査団の発表により世界的に評判
 になってしまう。

 
ボーリー館敷地内の発掘調査


 最初は幽霊に驚いていたブル家の面々も、死んでからは今度は脅かす側になって幽霊とし
 て出てくる始末だ。

 ブル家は、例のアン・ブーリン王妃の家系につながる家柄だったせいか、あちらこちらに出没
 するアン・ブーリン王妃の亡霊がここへも特別出演よろしく現れる始末。

 ライフ誌やロンドン・タイムス紙のカメラマンも見事に幽霊の写真を撮影し公表され、世間で
 大騒ぎを巻き起こす。ある博士は8000万円もする電子装置や赤外線カメラや磁力計や録音装
 置を導入して、なんとBBC放送と協力してこの幽霊屋敷へ調査に入ったそうだ。

 イギリス人はそのことにそれほどの驚きは感じないだろうが、もしもNHKが幽霊屋敷の本気
 の取材を暗視カメラや定点カメラを持ち込んで実施したら、日本ならばそれだけでニュースに
 なる。(余談2)

 尚、このボーリー館の騒ぎ、最近の調査では、大掛かりな捏造も疑われているという話も出
 ているそうだ。



 先日も16世紀の「幽霊の出る」物件が高値で売買された記事があったが、概ね、「幽霊屋敷」
 には好意的なヨーロッパの人々である。幽霊つきの物件は1〜2割高く売れるらしい。
 今度はフランスの話になる。こちらは、ちょっと好意的というわけには行かない厄介な呪い系
 の話となる。

 
.....................................Montalembert...................................................もちろんイメージ画像

 フランスはドゥー・セーヴル県モンタランベールでは、十字軍時代に、ここの領主ギー・ド・モン
 タランベールの遠征の戦利品の一つが盗難され、ある娘に容疑がかけられて、中世特有の残
 虐な刑罰、つまり火あぶりの刑が行われた。後に娘は無実と分かった。

 五月になると、土手の核に座ってさめざめと泣くブロンドの娘の亡霊が日撃され、嵐の晩に
 黒い法衣をまとった男とすれちがうと、その者はその年の内に死ぬらしい。

 
           ペリニエの古い写真.......................................Lavoir de Foucombert

 やはリドゥー・セーヴル県のペリニエには、奇跡が起こると言われたフーコンベールの泉があ
 り、 1759年まではペリニエの司祭が住民をつれて詣でていた。

 しかし、月夜の晩に、この泉で、白い服を着た洗濯女たちの霊が喪服を洗っているのに出く
 わすと、不幸な出来事に見舞われるという。
   

 
........................................Allevard-les-Bains..............................サッセナージュの古い城(左)

 またイゼール県アルヴァール・レ・バンにも、出会うと不幸になる幽霊の話がある。ここのサッ
 セナージェ殿の娘アンヌは、かねてからアルヴァールのピエール卿と相思相愛の仲であった。
 しかしピエール卿はある日、父親からの政略結婚の要請を受けて仰天、様々考えた末に、ア
 ンヌを失うくらいならば修道院に入ってしまおうと決心する。

 しかし、なんのことはない、その政略結婚の相手はほかならぬサッセナージュ家のアンヌであ
 り、二人は天にも井る心地で結婚した。

 ところが、なんと、数日の後、アンヌは猪に襲われて事故死してしまった。

 ピエール卿は世捨て人となる。

 アンヌは悲しみに暮れる亡霊となり、十二月の月のない晩には、サン・ユーグのシャルトル派
 修道院の辺りをさまようようになった。この悲しみの怨霊を見てしまった者には、思わぬ不幸、
 つまり幸福を一転させ不幸の奈落へ落とす運命の非情を味わうことになるそうだ。

Louise de Budos  Duc de Saint-Simon

 また、フランスの名門モンモランシー公爵家にも不吉な女の霊の話がある。

 この女は、 1598年若くして急死したモンモランシー公爵夫人ルイーズ・ド・ビュドで、部屋の中
 で、何の外傷もなく、ただ首が百八十度ひねられた状態で死んでいた。悪魔の仕業だと当時か
 ら騒がれたものだが、宮廷でも若く美しいこの若妻の評判は高かったので、皆は悲嘆に暮れ
 た。(余談3)

 それからというもの、この当時の衣装のままの彼女の幽霊が、この家系の者が死ぬ間際に
 なると屋敷の倉庫に現れるようになった。

 彼女が怪死して一世紀近くたった頃、有名な回想録作家サン・シモン公爵も、この一族の忠
 実な執事である男から、当主夫人と当主自身が急病で亡くなった1686年に、ルイーズの亡霊
 を目撃した話を聞かされている。公爵は、この執事がいかに立派な人物かを説明し、この幽霊
 話の信憑性の高さを強調している。またサン・シモン公より半世紀早く生まれている書簡集で
 有名なセヴィニエ侯爵夫人の手紙の中にもこの幽霊のことは書かれており、すでに評判だった
 のだろう。

  
......................焼失前のチュイルリー宮殿..............Le petit homme rouge des Tuileries」を見た頃のナポレオン

 また、パリの王宮チュイルリー宮殿にも、有名な不吉な霊の存在があり、それは「チュイルリ
 ーの赤い小男」として王家から恐れられていた。

 カトリーヌ・ド・メデイシス太后(1519〜89)が、チュイルリー宮を建設する時、予定地の立ち退
 きのトラブルから、ある肉屋を殺害する。この男は太后の黒魔術に密かに協力していた人物だ
 ったので、立ち退きの腹いせに、黒魔術の秘密を世に公けにすると脅したから闇に葬られた。

以来、太后は血まみれの亡霊の出現に怯えるようになったが、「サン・ジェルマンがあなたの
 死を見届けるだろう」という亡霊の予言に悩み、結局、チュイルリー宮も「サン・ジェルマン・ロー
 セロワ教区」だったので、恐れて放棄してしまう。

   
.......Catherine de Medicis....................Henri IV.............................Anne d'Autriche................comtes d'Artois(Charles X)

 結局、カトリーヌ太后はブロワ城で亡くなるが、臨終の床で、終油の秘跡を行いにきたベネデ
 ィクト派修道士の名を聞いたら、修道士は「私の名はジュリアン・ド・サン・ジェルマンと申しま
 す」と答えたという。太后はそれを聞いて叫び声をあげ、そして亡くなった。

 それから、血まみれの亡霊は、「チュイルリーの赤い小男」Le petit homme rouge des
 Tuileries として、何度も宮殿での目撃談がレポートされることになる。

 1610年、アンリ4世は町中で暗殺されたが、その日の朝にこの赤い小男の姿を宮殿で見かけ
 ていたという。

 アンヌ・ドートリッシュ(ルイ13世未亡人)はフロンドの内乱(1648〜53)勃発の数日前にやはり
 出くわしているし、1661年、宰相マザランの死の前夜にも目撃情報がある。

 1715年9月1日のルイ14世の崩御の際も複数人が「赤い小男」を見掛けている。

 マリー・アントワネットも1792年8月10日、つまり民衆がチュイルリー宮を襲撃してくることにな
 る日の朝、廊下でこの小男と出会っている。

  
................................................焼け落ちるチュイルリー宮殿............................目撃期間が300年にもなるのに、統一的な画像のない「赤い小男」イメージ

 1815年、ワーテルローの戦の直前にナポレオンも目撃し、彼はこの戦に敗れて退位すること
 になった。

 1824年ルイ18世が崩御する前日に弟アルトワ伯(シャルル10世になる)の前に現われる。

 そして、1871年、チュイルリー宮が焼け落ちる時には群衆の前に出現した・・・

 歴史的な出来事の節々に目撃される「不吉」な存在で、歴代の権力者たちが怖がっている。

 しかし長きに渡り数多の目撃談があるのに、これといった姿形が伝えられていないのも、少し
 不思議な「赤い小男」ではある・・・



 不吉な霊もあれば愉快な霊、それどころか縁起の良い霊もいる。


             Drury Lane Theatre(18世紀)............................ドルリー・レイン劇場の亡霊

 ロンドンのドルリー・レイン劇場には、18世紀の服装に剣を吊って乗馬靴をはき、手には三角
 帽を持った「灰色の服を着た男」の亡霊が出る。

 一度だけ150人の観客の前に現れたが、多くはリハーサルの最中に出現する。D列のおしま
 いの席に現れ、そこから後ろの通路を通ってロイヤル・ボックスの壁の中へと消えるパターン。

 この男の姿が現れると、そのリハーサル中の興行が大当たりすることが多く、俳優たちはこ
 の亡霊の出現に脅えるどころか喜ぶ始末だ。何人かの俳優は舞台の上で、より効果的な位置
 に自分を導く手の気配を感じたというし、本番中にも、俳優が自分で決めた位置に立つと「そ
 れでよしよし」と優しく背中を叩かれたり......。

 1848年に、この劇場の修理工事の最中、この灰色の男の亡霊が壁の中に消えていく箇所の
 裏側で、長く未使用のままだった小部屋が発見された。その小部屋の中から、助骨に短刀の
 刺さった埃だらけの白骨体が発見された。この白骨体との関係はまだ明らかにはされていな
 い。(余談4)


    St Paul's Cathedral(1754)               内部(18世紀)

 セント・ポール寺院内のある記念礼拝堂でも、陽気な亡霊が出る。彼は牧師の姿をした小男
 で、一人口笛を吹きながらブラブラしており、人に見つかると、あわてていつも決まった壁のあ
 る箇所へ消えてしまう。

 人に見つかって逃げる幽霊も可愛いが、ある改修工事の際、係員が幽霊がいつも消える壁
 を職人に壊してもらった。すると丸屋根まで通じる通路につながる秘密の扉が発見されたとい
 う。それからプツリとその幽霊は出てこなくなった。

 まるで口笛を吹いて人の注意をひき、あわてて逃げる仕草をしては、その秘密の扉の存在を
 伝えようと努めていたかのように。

           
            Jeremy Bentham         ジェレミー・ベンサムのガラス・ケース

 おかしな幽霊といえば、功利主義哲学者ジェレミー・ベンサム(1748-1832)の話がある。

 彼は人間にとっての最高の記念像は保存された肉体だと主張し、死後、その遺骸に詰物を
 して服を着させ、防腐処理をして、マホガニーとガラスで作った気密のケースに保存させた。
 今も展示されてはいるが、さすがに頭部だけは蝋細工のものに変えられている。

 しかし最近、彼は生前の持論を捨てたのか、ケースのガラスを時々鋭く引っ掻くらしい。その
 不気味な音は、正式な埋葬をしてくれとの意思表示だと理解されている。また、彼愛用のステ
 ッキを振り回した姿で彼の幽霊が職員を追いかけ回すようなこともあるらしい。まったく自分の
 遺言での処置だと言うのに厄介な人物である。


  Ernest Christopher Dowson              ラットランドの古城

 また、人間に協力的な幽霊たちもいる。

 アーネスト・ダウスン(1867-1900)の長編詩「シナラ」はブロードウェイでも長らく公演され、マー
 ル・オペロン主演でハリウッドで映画化された。また1939年の米映画「風と共に去りぬ」の題名
 も「シナラ」からとっている。

 このダウスンが駆け出しの頃、実に奇妙な心霊体験をしているのである。それは裕福な友人
 に招かれて泊まったラットランドのホワイシャンガー城でのことであった。この城は1870年に城
 主一族断絶の後、臨時に賃貸されるようになったらしい。

 その居室のひとつでベッドに入ったダウスンは、漂う妖気に短銃を枕元に置いたという。案の
 定、部屋の隅に月明かりで透き通らんばかりの美しい娘の霊体が現れた。

 
言うまでもなくイメージ画像

 翌日、友人に尋ねると、その幽霊は初めから城に出ると評判だったらしく、18世紀に死んだ
 城主マウントバッテン伯爵の令嬢イザベラの亡霊だという。

 彼女は文学的才能に恵まれていたが、23歳のときに肺病で亡くなった。詩人としての作品も
 世に発表されているくらいなので、詩人同士で語り合わせてみようと、彼女の私室だった部屋
 にダウスンを泊まらせたという。

 彼は覚悟を決めたが、ある夜、暖炉に取り外せるレンガがあることを見つけ、ページのボロ
 ボロになったイザベラの詩集を発見した。詩集には1768年10月7日の日付があった。

18世紀の古書     イメージです

 その夜、彼女の幽霊はついに彼に語りかけてくる。

 あなたの肉体を貸して欲しいと。自分はもっと詩作に励みたかったが病で倒れ、その無念さ
 で漂っているのだ、詩人としてのあなたの肉体に宿って生前の夢を叶えてみたい、と。

 ダウスンが承知すると、イザベラ姫の霊体が接近してきて、交錯する。

 それから、彼はロンドンに帰ってそのときの体験を長編詩にまとめ、有名な「シナラ」の原型
 が完成したわけである。

 だが彼も、32歳の若さで病死してしまうのである。詩才のみならず病弱なイザベラ姫の体質
 までのりうつってしまったのであろうか。


 Rosemary Brown

 のりうつって云々の話となると有名なのが、あのローズマリー・ブラウン夫人の話だろう。

 1964年10月のある日、ロンドン郊外バルハムに住んでいた彼女は、不思議な霊気に導かれ
 て物置の古ピアノの前にやってきた。

 すると、声がする。

「私は音楽家リストだ。今からあなたにのりうつる」

 上のイザペラ姫とは違い、一方的な「憑依」宣言である。

 ともかく、その途端、ピアノなど弾いたこともない彼女の手が自然に鍵盤の上をすべり、素晴
 らしい作品を演奏し始めたのである。・・・・

 なんとも、怪しい話であるが、彼女のもとにはリストばかりでなく、ベートーヴェンやショパンや
 ブラームスなどなど音楽家たちの霊が次々と訪れ、シューベルトなどはあの未完成交響曲の
 完成部を彼女に演奏させたり、ベートーヴェンも未発表の第十交響曲を霊界からの通信で彼
 女に演秦させている。入れ代わり立ち代わりの大御所たちの降臨である。


         Beethoven    Schubert   Chopin      Liszt     Brahms

 その憑依中のローズマリーの腕前は一流ピアニストも太鼓判を押すほどであり、生前のリス
 トやショパンの演奏の違いも現代人に味わわせてくれる。

 ローズマリー・ブラウンのレコードは日本でも発売されて、絶版になった。

 私はFM放送を録音したが、なんとも奇妙なムードで聴いている。

 もしも彼女が嘘をついているのであれば、彼女はピアノの技法の達人であり、各音楽家の作
 曲技法に精通した驚異的才能のペテン師ということになろう。




 イギリス人は大変に幽霊が好きで、古い家屋敷には必ず幽霊が住みついている。生前は幽
 霊好きで、死後は、化けて出るのが好きなのかも知れない。「愉快な幽霊が出ます」などと付
 記された不動産物件案内があるほどだ。

SPR(心霊研究協会)のロゴ

 それにSPR(心霊研究協会) などといった組織があり、かなりきちんとした活動を展開してい
 る。

 この会員たちは、イギリス人らしく、何かの存在を証明しようとする場合、まずそれが存在し
 ないことを証明しようと躍起になり、それが不可能であると結論が出れば、目的は達成された
 という方式で研究をする。

 何かの心霊現象を演壇で披露すれば、やれそれは錯覚だ、幻覚だ、とまるでそれを信じない
 人々の集会のように批判されるらしい。日本人の霊能者が、批判の嵐に面食らったそうであ
 る。それほど厳格に審査し、どう考えても霊的現象としか思えないというものだけを取り上げ
 る。

  
...................王妃の霊と出会った二人のイギリス婦人..................マリー・アントワネットの亡霊(もちろんイメージ)

 この機関SPRがお墨付きを押した話は、全イギリス人に受け入れられる。それほどの権威あ
 るところらしい。

 1901年にヴェルサイユ宮殿を訪れた二人のイギリス人女性が、 トリアノンでマリー・アントワ
 ネットの幽霊を見たという話はセンセーションを巻き起こし、日本でも一冊の本になっているくら
 いだが、その巻末にこのSPRの審査報告が載っている。

「そのすべてが超常現象と言うには、証拠能力が充分とは言えない」と、細々した点を指摘して
 弱点をついている。

 まるで否定論者が皮肉っぼく論評しているかのようだ。面白い機関である。人をただこわがら
 せているだけの安っほい幽霊話の氾濫する我が国とは違い、真剣にその手の出来事を愛す
 るイギリス国民だからこそだろう。

洗濯物のしわを見て驚くの図

 1712年イギリスの「スペクテイター」誌に、 「今ほど学問・科学の進んでいなかった頃には、同
 じ自然を見るにももっと畏敬・恐怖心が強く、魔法・驚異・呪い・呪詛の恐ろしさに縮み上がった
 ものだ・・・」などと書いてある。

 これが書かれてから三百年も経とうとしているのに、基本的には当時の人々と同程度の知識
 しか持ち合わせておらず、当時の人々と同じように怖がっている現代人の我々は、もう少し真
 面目にこの種の現象を研究した方が良いのではないか。否、早く解決してしまった方が身のた
 めなのではなかろうか。

 怪談は夏の間だけかも知れないが、幽霊の出る出ないは夏に限ったことではないのだから。





余談コーナー

(余談1)
 この話を伝えるあるサイトのコメント欄に、ロサンゼルスの人からの 2012年11月13日付の書
き込みがあり、それには1991年、イギリスに旅行に行ったある晩、スレッドニードル通り(イング
ランド銀行前の通り)を散歩していると、ビクトリア・アルバート博物館に展示してあるような古風
な黒いドレスと黒いボンネット姿の女性と路上で出くわし、「私の兄を知りませんか?」といきなり
聞かれたという話が投稿されていた。
 女性と別れてから、気になり振り返るとそこには誰もなく、少し離れた場所で2人の男性がジ
ロジロこちらを見ていた。黒服の女性は忽然と消えていたから、自分が1人で話しているのを奇
妙に思ったのかもかも知れない、と彼は考えた。

 夜のThreadneedle Street

 そんな不思議な体験後に、その男性はイングランド銀行の黒衣の亡霊サラの話を知り、自分
が遭遇したあの不可解な体験との合致に驚いた、とあった。このアメリカ人は服装は古風だ
が、ふっくらとした顔つきのリアルな人間だった彼女が、自分に話し掛けた言葉“Have you
 seen my brother?”が、サラ・ホワイトヘッドの幽霊の決まり文句であることも知った。
 イギリスのWiKiにも簡単な説明があるくらいだし、この人が二度目のロンドン旅行のために当
 地のゴーストハンターツアーのガイドブックを購入した際に、イングランド銀行のサラの亡霊の
 話を知ったという説明も自然である。(ロンドンのガイドブックにはその手のものが非常に多い)
 このアメリカ人は次回、彼女にまた会えたらこう言うつもりだとコメントしている。「サラ、私が
 知っている情報を教えましょう。兄さんのフィリップはもう亡くなりました。彼を探すのは終わりに
 しましょう。あなたは先に進むべき時なんですよ」と。
 
       19世紀初頭のイングランド銀行                       Sarah Whitehead

(余談2)
 国営放送の幽霊屋敷の取材ではフランスも負けてはいない。

 1984年、「白い婦人」(la dame blancheはフランスで最もよく使う幽霊表現)の幽霊が出没する
 オーヴェルニュ地方のヴォース城chateau de Veauce の撮影・取材に国営放送TF1(TF1が民
 営化したのは1987年以降)が、研究チームをひきつれて乗り込んでいる。そして、チームの目
 の前をフワフワと白い霊体が過ぎって行く光景の撮影、また音声録音にも成功している。

 言い伝えによれば、この霊体はリュシーと呼ばれる18歳で亡くなった娘の霊との事。16世紀
 中頃、彼女は低い貴族身分の娘としてこのヴォース城に仕えていた。城主は当時リュード伯爵
 ギー・ド・ダイヨンComte du Lude,Guy de Daillon(1530-85)で、1560年頃、彼女は伯爵より求愛
 されていた。

 
..................Chateau de Veauce..........................................La Tour dite "mal coiffee"

 しかし、伯爵が従軍中、嫉妬に狂った伯爵夫人(Jacqueline Motier de la Fayette,1574没)に
 よって城の南東にある乱れ髪(mal-coiffee)塔に監禁されてしまう。夫人は結婚2年、まだ子もな
 い。1557年の兄の戦死により夫にポンジボー伯位などラ・ファイエット家の相続財産をもたらし
 た女性である。夫のリュシーに対する恋情に逆上するのも無理はない。しかしながら罪もない
 若い娘リュシーは、幽閉された塔内で飢えと寒さで無残にも死んでしまう。以来、「白い婦人」の
 幽霊が城内に出没するようになったという。

(余談3)
 Louise de Budos(1575-98)は23歳で亡くなっている。公式には脳卒中であるが、確かに当時
 から毒殺も含めて死因は色々と取り沙汰された。
 父親はポルト子爵ジャック・ド・ビュドJacques de Budos, Vicomte de Portes、母親はカトリー
 ヌ・ド・クレルモン・モントワゾンCatherine de Clermont-Montoisonで、どう見ても名門モンモラン
 シー公家に嫁ぐ家格ではない。しかも彼女は1591年に一度結婚し翌年、つまりモンモランシー
 公爵と結婚する1593年の前年に夫と死別した未亡人だ。夫モンモランシー公爵も再婚だが、
 前妻はブイヨン公爵令嬢である。貴賤結婚とまでは言えないが、貴族としての格が違い過ぎ
 る。

       
       夫のHenri Ier de Montmorency    幽霊の出没するシャンティー城館(18世紀)

 そこで、奇妙な話が噂されていた。このルイーズ・ド・ビュドは悪魔の指輪の効力で、モンモラ
 ンシー公爵を惹きつけ結婚に成功したというのだ。結婚後は宮廷入りし、その美貌で国王アン
 リ4世をも魅了した。(アンリ王は当時、ガブリエル・デストレに夢中だったので、関係は短かっ
 た)

 そして、彼女は1598年、悪魔によって殺される。借りは返さねばならないからだ。この「悪魔
 の指輪」のことを知っていた彼女の母方叔母のローランス・ド・クレルモン・モントワゾンは、亡く
 なった姪の指からその指輪を抜き取っていた。この叔母はやはり金持ちでもなく、また美貌で
 もなかったが、不思議なことに1601年、モンモランシー公爵の3人目の妻になった・・・。しかし
 彼女は恐ろしくなり、ある日、「悪魔の指輪」を池に投げ入れる。途端に、公爵は離婚の調停を
 申し出て、ローマ法王との交渉に入るのだった。なんとも不思議だが、これは史実。

              
娘のCharlotte-Marguerite de Montmorency   息子のHenri II de Montmorency

 亡くなったルイーズだが、5年の結婚生活で一男一女をもうけていた。娘はシャルロット・マル
 グリット、つまり「フランス史上の私情」でも書いたが、好色なアンリ4世を夢中にさせた若きコン
 デ公爵夫人である。また息子でモンモランシー公位を継いだアンリは、ルイ13世のもと勇将の
 誉れ高かったが、王弟ガストンの陰謀に加担、1632年斬首刑に処せられる。モンモランシー公
 位はここに終わり、姉の嫁ぎ先のコンデ家に移ってしまうのだ。

 ちなみに、回想録作家のサン・シモン公爵Duc de Saint-Simonにこの幽霊話を聞かせたの
 は執事のヴェルヴィヨンVervillon。また公爵の父は幽霊の正体と噂されているルイーズの姪デ
 ィアーヌ・アンリエット・ド・ビュド(ルイーズの弟ポルト侯の娘)と結婚している。(公爵自身の母は
 後妻のシャルロット・ド・ローベスピーヌCharlotte de L'Aubespine) またルイーズの後妻となる
 ローランスの母親はサン・シモン公の一族のルーヴロワ・ド・サン・シモン家の出でもあるから、
 まったくの他人でもない。

(余談4)
 "Man in Grey"と呼ばれるこのドルリー・レイン劇場の有名な幽霊は、このナイフの突き刺さ
 った白骨体の発見により、「アン女王時代(1707-14)のある女優の愛情を受けていた青年が、
 嫉妬した男優に刺殺され、その遺体を劇場内の小部屋に隠された」という話が囁かれるように
 なった。その青年の幽霊に違いないと。なんであれ根拠はなく推測でしかない。


...............................Anne, Queen of Great Britain...........Drury Lane theatre facade 1775

 ともかく、そんな非業の死を遂げた青年の幽霊の割にはこの"Man in Grey"、ともかく上演作
 品が大ヒットする縁起の良い存在なので、劇場のあらゆるスタッフから大歓迎されている。最
 近では 「王様と私」The King and I、「南太平洋」South Pacific、「オクラホマ」Oklahomaはそれ
 ぞれ大ヒットしたが、全てに "Man in Grey"が現われてくれた。また「ミス・サイゴン」Miss
 Saigonの長期公演では、キャストの変更がある度に現われてくれて、出演者は皆、大いに励ま
 されたという・・・

.The Dancing Years. Drury Lane, 23 March, 1939.

 1939年の「The Dancing Years」ではキャストの半分以上がステージにいる中、"Man in Grey"
 が現われて壁の中へ消えて行くのを目撃されているくらい。有名な俳優たちも含めて、劇場の
 管理者やスタッフの多くが彼を目撃しており、その存在が確かな幽霊である。




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