16世紀フランス宮廷スキャンダル集




 いつの時代にも、女性週刊誌みたいな内容は、人々の関心を呼ぶようで、ことにその時代の
 中心的な世界での男と女のスキャンダルは喜ばれてきた。さしずめ今で言うなら、芸能界やハ
 リウッドにあたるものが、当時は「宮廷」だろう。


Pierre de Bourdeille, seigneur de Brantom.................La Vie Des Dames Galantes

 ここに紹介するのは、ブラントームという一貴族が、宮廷スキャンダルを中心としたうわさ話を
 収集し、世間に匿名で公表した「ダーム・ギャラント」という小話集で、16世紀のフランス宮廷が
 おおよその舞台になっている。「艶婦伝」などと訳される。

 著者のブラントーム自身がピエール・ド・ブールデイユ(1540-1614)という名の貴族出身で、宮
 廷出入りもしており、自分が身を置いていた社交界で耳をそばだて、うわさ話の輪の中に飛び
 込み、あれこれと聞きまくった話を、書斎でせっせと紙に書きとめて、まとめ上げたものが、こ
 の「ダーム・ギャラント」である。


 映画化された「ダーム・ギャラント」(1990) 

 とんでもない話が山のように収集されており、「さる高貴な姫君」とか「とある名家の若君」とか
 名こそ伏せられていたが、後世の熱心な研究家たちの努力のおかげで、そのうわさの主人公
 らの本名はすでに暴かれており、ブラントーム氏のおかげで、姫君や若君たちは長く歴史に恥
 をさらすはめになった。後世に残されたお澄まししたポートレートや威厳に満ちた肖像画も、こ
 れでは形無しである。

 ただひとつ忘れてはならないのは、この16世紀という時代が、後のブルボン王朝時代の社交
 界のように、まだまだ紳士淑女たちが洗練されてはいないということだ。それを念頭に置いて
 読まないと、その泥臭さや血生臭さに驚いてしまう。

 

 冒頭でブラントーム自身が述べているように、宮廷のスキャンダルをすべて書き連ねたらパ
 リ会計検査院の文書全部をもってしても足りぬとのこと。

 それもそのはずで、当時のご婦人方は、なかなか積極果敢に殿方との艶事、秘め事に臨ん
 でいるからだ。でも、それが自由恋愛OKの風潮だったから、と早合点しては大間違い。一歩間
 違えば、本当に命を落とす危険を孕んでいたという時代背景なのである。

 だから、血生臭いスキャンダル話が多く、かなり現代人には衝撃的だ。それでも、ご婦人方
 は殿方を誘惑し、殿方たちはせっせと愛人の元へ通う。そんなさまも、また、ひとつの驚きでも
 ある。

 ともかく、危険と隣り合わせは百も承知のスキャンダラスなご婦人方、なかなか積極的で強気
 で、男などなめられたものだった。



Costume de dame 16eme siecle

 たとえば、ある極めて身分の高いご婦人だが、その愛人をある冬の夜ベッドに招いた。寒い
 中、寝巻のまませっせと馳せ参じた男は、不覚にもすっかり冷え込んでしまい、ご婦人のベッド
 の中で体を温めている内に夜が明けてしまったという不始末。

 以来、この男、社交界でまったくのつんぼはじき、ご婦人方の相手にされなくなったとのこと。


 またある高貴な婦人とある貴人が少々艶っぽい話に花を咲かせていた。
 貴人が自分の精力自慢をしきりにするので、ではそれがホラか真か今夜試してやる、という
 話になって、その夜、婦人のベッドに。しかし気張りすぎたのか全然の役立たず。

 即座にベッドから追い出され、以来、その貴人はペストのように忌み嫌われたそう。ペストと
 はひどい話だ。


 このように、夜の情欲への奉仕をしそこなった男たちは、ことごとく恥辱にまみれている
ところを見ると、女性の上位がうかがわれるというものだ。

16世紀のベッド
 
 宗教戦争の内乱期、武勇の誉れ高かったとある城代だが、とある貴婦人の館に宿泊するこ
 とになった。城代は旅の疲れからぐっすりと寝入ってしまったが、明け方、ふと目覚めると、そ
 の貴婦人が自分のベッドからそっと出てゆくのが見えた。

 どうやら、夜の内に彼女は自分のベッドの中に忍んで来ていたらしい。

「二度と得られぬ絶好の機会を、あたらお逸しになられましたわね」と彼女は城代に捨て台
 詞。・・・城代は己が身を絞首刑にしたくなるほど悔しがったらしい。


 これほど、女性が積極的であれば、世にスキャンダルの種はつきぬというものである。

 
召使からこっそり渡される恋文

 ところで、彼女たちは、自分の夫らをほっとらかして、せっせと自由気ままに情人と遊びほう
 けていたのかというと、それがまったく違うのだ。上述したように、違うどころか、これらの情事
 は、命賭け、だったのだ。

 文字通り「命賭け」だった。


Costume d'homme 16eme siecle

 当時、妻を間男に寝取られた亭主のことを、「コキュ」といって、世間からは馬鹿にされたもの
 だ。およそ名誉を重んじる貴族階級となれば、このコキュの汚名は、しっかりと晴らして当然の
 屈辱で、妻の情事が世間の噂ともなれば、雪辱のために命を奪ってしまうケースも多かった。

 まだそういう時代の名残のある世相。殺されたって文句も言えぬご時世だったのだ。

 当然に、陰惨な結果を招いたスキャンダルも多い。「おまえなんか、殺してやるぅ」ではなく、
 本当に殺してしまうわけだ。



 ラ・ゲルシュ子爵ルネ・ド・ヴィルキエという宮廷人(国王の主席侍従官・1580年パリ総督)は、
 長い間、その妻(フランソワーズ・ド・ラ・マルク)に思い勝手に遊ばせておき、最後に堪忍袋の
 緒を切ったのか、ある夜、妻を寝室に呼んで楽しげに談笑し、それが終わると短刀でいきなり
 刺し殺した。

ヴィルキエ夫人の殺害(1577)

「殺人」ともなればさすがの宮廷人も身の破滅かと思いきや、そんな時代でもない。本人は失っ
 た名誉を挽回できたとご満悦。

 本来ならば、妻の相手の男どもも決闘なりで殺してしまうところだが、相手を割り出してみた
 ら、優に一個小隊ができあがるほどの人数となり、こればかりは断念したらしい。(彼はルイー
 ズ・ド・サボ二エールと再婚したが、今度は模範的な夫婦だったとの事。名誉のため付け加え
 ておく)


 また、この大義名分を悪用するしたたかな貴族もいた。この貴族も、長い間、妻の「豪
遊」を大目に見ていたが、なんのつもりか、いきなり「許せぬ」とばかりに殺してしまう。

 相手の男は国外に逃亡して難を逃れた。ところが、その貴族、妻を亡き者にした後で、自分
 は情婦と再婚。コキュの汚名雪辱にかこつけた身勝手だったわけだ。


1580年宮廷舞踏会

 またこんな話もある。浮気者の妻に毒を与えて殺し、その情夫も人手を使って片付けたある
 大公がいた。その大公の娘がある公爵に嫁いだところ、母親の血をひいたか、これもまた浮
 気な女で、公爵以外の男との間に子まで作ってしまう始末。

 これでは、夫の公爵も怒り心頭だ。そこであわてたのは父親の大公の方。自分がその浮気
 者の妻を成敗したように、娘も夫の公爵の手にかかるのは時間の問題だからだ。

 そこで、大公は、護衛つきの船団を派遣して、武力をもって娘を引き取りに向かわせた。つい
 でに、不義の子とはいえ孫となる子供も確保。これも身勝手といえば身勝手な話だ。
   



映画のモンソロー伯爵夫人  Comtesse de Montsoreau Francoise de Maridor    de Bussy d'Amboise    
 
 しかし、したたかなご婦人方も負けてはいない。社交界ではごくありふれた不倫ごときで、命
 を奪われてはたまったものではない。

 モンソロー伯爵夫人(フランソワーズ・ド・マリドル)などは、とうとう不義密通が夫に露見する
 や、夫と交渉。そして、情夫のビュシー・ダンボワーズ伯爵を呼び出して、夫の手先の者の手に
 掛けて殺させてしまった。愛人を犠牲にして、自分の命はとりとめたという事例。(余談1)


 夫の長旅からの不意の帰還で、情人との不倫現場をおさえられてしまったあるご婦人は、愛
 人を窓から逃がす一方で、剣を抜いて踏み込んできた夫を、晴れの寝化粧に純白の寝着姿も
 艶やかに、甘い言葉で許しを乞うて、まんまと夫の腕に中に。多分、ベロを出していたことだろ
 う。

Comtesse de ChateaubriantFrancois Ier
 
 また、シャトーブリアン伯爵夫人などは堂々たるものだ。女房が男と密会していると知り、夫
 は剣を手に現場に踏み込んだ。すると、女房の浮気相手の男は、ひるみもせずに夫を一喝し
 た。「無礼者め、首をはねるぞ!」・・・・相手の男は、国王フランソワ1世だったのだ。(余談2)


Duc de Guise,Francois Ier de Lorraine....Duchesse de Guise,Anne d'Este-Ferrare....................Henri II

 また、ギーズ公爵家のような名門ともなれば、たとえ相手が国王でも黙ってはいられない。フ
 ランソワ・ド・ギーズ公は、国王の命令で長々と遠征軍の総大将として外国へ飛ばされていた。

 それも、国王アンリ2世が美しいギーズ公爵夫人を寝取ろうとする計略からだった。

 帰国後、公爵は国王が自分の妻を寝取ったことを聞き及び、至極当然に怒り狂う。
 そのさまを見て、夫人は危険を察知。

 そこでこう言い放った。「それもこれも遠征でのあなたのていたらくが原因なのですわ。陛下
 はひどくご立腹で、私はあなたの身の破滅をお救いすべく、女の一番大切なものを陛下に捧げ
 たのですから」と。

・・・ということで、この件は円満におさまったらしい。


アンリ3世時代の宮廷舞踏会

 ギー・ド・シャティヨンの妻マルグリット・ド・ナミュールというご婦人は、夫よりもはるかに裕福
 な王弟オルレアン公爵が相手だった。シャティヨン家も名門貴族であり、この妻は、夫から金銭
 をしぼれるだけしぼっては、公爵に貢いでいた。

 可哀相に、さすがのシャティヨン殿も家計が逼迫してくる。そこで、ブロワ伯爵領という実入り
 の良い封土を売却することになった。

 オルレアン公はちゃっかり、シャティヨン夫人から貢いでもらった金でそれを買い取る。シャテ
 ィヨン殿は、こうして、妻にしぼりとられた財産を、ぐるりと巡って取り戻したわけだ。馬鹿を見て
 いるのは本人のみとは知らずに・・・

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 2009年公開されたWilliam Shakespeare肖像画

 凶暴な夫もいれば、したたかな女房たちもいたものである。そういえば、強気な女房に手を焼
 きながらも、おだてたりなだめたりしている亭主の姿を描いた、シェイクスピアの「じゃじゃ馬な
 らし」が書かれたのも、この時代のことだ。


ランブイエ侯爵夫人のサロン(1611-65)

 ともかく、女性たちの地位がこの次の時代には確立されていく。ランブイエ侯爵夫人宅のサロ
 ンを先駆として、様々なサロン文化の花咲く中で、男たちは女性に詩歌を捧げ、定められた儀
 礼を重んじながら紳士的に接するようになるのだ。(余談3)

marquise de Rambouillet,Catherine de Vivonne

 もはや、ご婦人方に認められないような殿方は、社交界ではつまはじきにされる時代がくる。
 女性に対する粗野な蛮行も次の世代ではお仕舞いということだ。

 それでも、現代にいたるまで変わらないのはスキャンダルの歴史。また、いつの時代におい
 てもスキャンダルのねたを集めては世に提供する者がおり、それを聞いて喜ぶ人たちの姿も
 変わらない。



長い余談コーナー

(余談1)
 このモンソロー伯爵夫人、アレクサンドル・デュマの小説の題材になるほどであるから、史実
 も波乱にとんだ人生を送っている。
 まず彼女はリュセ男爵ジャン・ド・コエムBaron de Luce,Jean de Coesmesと1573年に結婚し
 ているが、この若男爵は18歳で翌年リュジニャン攻囲戦で戦死してしまう。(後に再婚するモン
 ソロー伯爵の兄ジャンは、この戦いで新教徒に対する残虐行為で名を馳せ、モンソローを男爵
 領から伯爵領に昇格させた人物)
 そして彼女は19歳で未亡人になる。(ついでにこの若男爵の母親アンヌ・ド・ピスルーは余談2
 のデタンプ公夫人の姪)

余談の余談Anne de Pisseleu, dame de Luceは余談2のデタンプ夫人の姪

 すでに美貌の若妻で評判だったとみえ、すぐに名門若君らが求婚者として名乗りをあげる。
 未亡人となって1年の1575年、ラ・ロシュフコー家の次男で18歳の若君ランダン殿のシャルル・
 ド・ラ・ロシュフコー Charles de la Rochefoucauld, Seigneur de Randanは、彼女の止めるのも
 聞かず彼女のいるラ・フルロニエール城に200の供回りを率いて乗り込もうと勇んだ。しかしラ
 イバルのジャン・ド・ボーマノワールJean de Beaumanoir (後ラヴァルダン侯爵marquis de
 Lavardin)も黙っていない。30騎の手勢と共にそれを追い、ペルシュでランダンの若君に相まみ
 れると、短銃でその頭を撃ち抜いて殺してしまう。後年フランス元帥、イギリス大使となる人物
 も若い頃は無茶をしたものだ。


   Jean de Beaumanoir......................................映画「La Dame de Monsoreau」(1998・露)よりモンソロー夫人

 ランダンを寵臣としていた国王アンリ3世は、すぐにボーマノワールを処罰すべく乗り出すが、
 後にアンリ4世となるナヴァール王がガスコーニュ領内に匿ってくれて彼は助かる。(彼は 3年
 後にネグルプリッス女伯爵カトリーヌ・ド・カルメインCatherine de Carmaing, comtesse de
 Negrepelisseと結婚することになる)


....................................................Chateau de Montsoreau...........................................A.デュマの「モンソローの奥方」(1846)

 そんな若君同士の殺傷事件まで引き起こしたあげくに、翌年の1576年、モンソロー伯爵シャ
 ルル・ド・シャンブComte de Montsoreau,Charles de Chambesと結婚したわけだが、そのあと
 に、この1579年に謀殺される王弟寵臣ビュシー・ダンボワーズLouis de Clermont d'Amboise,
 seigneur de Bussyの事件を起こしたことになる。まったく罪作りな美女である。

    
 Louis de Clermont d'Amboise1549-79....................................Chateau de La Coutanciere(1699)
............................................................................................ビュシー・ダンボワーズが殺されたラ・クータンシエール城
 
 1846年デュマによって、ビュシー・ダンボワーズとモンソロー伯爵夫人フランソワーズ・ド・マリ
ドルの秘め事はラブロマンスとして世に広まったが、地元モンソローには「ビュシー・ダンボワー
ズ小路」とか「フランソワーズ・ド・マリドル通り」などあり、それらが交わる地点が「恋人らの愛
のシンボル」になっているようだ。史実はもう少し現実的で殺伐としているのだが・・・


       現在のモンソローの城と町                モンソローのマップ

(余談2)
 このシャトーブリアン伯爵夫人の後釜として国王フランソワ1世の愛妾となったのは、母后の
 侍女だったアンヌ・ド・ピスルー・デイイAnne de Pisseleu d'Heilly (1508-1580)で、国王は彼女を
 パンティエーヴル伯爵と結婚させて、夫にデタンプ公爵位を授けた。

 ある日、夫のデタンプ公爵がブラント―ムの母方叔父のラ・シャテイニュレイ殿フランソワ・ド・
 ヴィヴォンヌ Sgr de La Chateigneraie,Francois de Vivonneに「どうですか? 私がつけているよう
 な立派な勲章を貴公も欲しいとは思わぬか?」と偉そうに自慢した。そこで、短気なこの叔父さ
 んは「貴殿のように、奥方の穴竅(身体にある穴の意)のお蔭で勲章をもらうくらいなら、私は塚
 穴に入った方がましだ(死んだ方がましだ)」と返したと言う。

 それもそうである。公爵の祖父はジャンヌ・ダルクと共にフランスの救国の為に戦った元帥だ
 ったが、その元帥すら公爵位など授からなかったものを、この三代目は、奥方の夜の手柄で、
 公位だの、その御自慢の勲章だのを授かったのだから。

 ちなみにこのデタンプ公爵夫人は国王との関係を散々に利用し身内に多くの利権をもたらせ
 ていたが、国王が崩御すると宮廷を追放され、デタンプの公爵位も剥奪されてしまった・・・

       
Duchesse d'Etampes, Anne de Pisseleu d'HeillyDuc d'Etampes,Jean de Brosse

(余談3) 
ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌは、粗野で野卑なパリの風俗を洗練されたもの
に転化するため、自宅で文化人・貴族らを集めてのサロンを開催。フランスを野蛮で乱暴な男
社会から礼儀と教養を重んじる風雅でギャラントな社会へと改革した才女。
 本編で紹介してきた「ダーム・ギャラント」の著者ブラント―ムは、彼女の父親世代。つまり、
わずか一世代での大改革というわけだ。

>>>>>>>>>>>>>>
 Marquis de Pisany,Jean de Vivonne>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Marquise de Rambouillet,Catherine de Vivonne

 皮肉なことに、ランブイエ夫人の父ピサニ侯爵(彼女は一人娘)はヴィヴォンヌ家で、ブラント
―ムの母親アンヌもヴィヴォンヌ家で同じ。ランブイエ侯夫人の6世代前のギョーム・ド・ヴィヴォ
ンヌ(1360-1413)はブラント―ムの母方4世代前のルノー・ド・ヴィヴォンヌ(1365-1418)の兄であ
る。(厳密に言えば、ギョームの娘マリーがランブイエ夫人の直系先祖のユーグ・ド・ヴィヴォン
ヌと同家傍系同士で結婚し繋がっている)

 Pierre de Bourdeille, seigneur de Brantome

 まだまだ男社会の蛮風が色濃い時代の宮廷に出入りして、スキャンダルを面白おかしく後世
に伝えたブラント―ムと、フランス宮廷をエレガントなフェミニストの社会に転換した立役者のラ
ンブイエ侯夫人が先祖を一にしている者同士であるとは、なんとも面白い偶然である。





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