Louise has a heart.

「ルイーズは優しい心の持ち主だ」という意味ではなく、「ルイーズは心臓をもっている」。・・・


 2015年6月2日付のフランスの日刊紙ル・フィガロ誌に以下のような記事が掲載された。


 完全な状態の宗教的な衣装を着た17世紀の貴族の非常によく保存された体を収容する鉛の
棺は、レンヌのジャコバン派修道院で予防考古学的な調査中に発掘された...

 2014年3月に修道院の聖ヨセフ礼拝堂で発見された棺に入れられた身長1m45pの遺体は、
おそらく、1656年に60歳代で亡くなったブルターニュ地方の貴族の未亡人であったLouise de
Quengoのものと推定される。 しかも彼女の夫、Toussaint de Perrienの心臓も近くで発見され
た、と火曜日(6/2同日)に国立予防考古学研究所(Inrap)の研究チームが報道機関に発表し
た。



 棺は、レンヌ市のコングレスセンター予定地の建設現場で発見された。修道院では、他の
800基の墓と、4つの17世紀の鉛の棺桶も発見されたが、それらの中は骸骨だけになってい
た。 ルイーズの棺では、「私たちはすぐにたくさんの内容量、布地、靴があることがわかりまし
た」と、国立予防考古学研究所の考古学者Rozenn Colleterは述べている。

 そしてマントの下では、「両手が十字架をつかんでいるのが見えた」 体は2回のCTスキャンと
解剖によって検死された。 「ルイーズによって、私たちは次々と驚かされました」とトゥールー
ズの放射線科医兼診察医Fabrice Dedouitは言った。 検死結果は「重要な腎臓結石」と「肺の
癒着」を明らかにしますが、ルイーズの心臓は「外科手術のい習熟度で」取り除かれてい
た。



 腐敗液によって損傷を受けた服は修復されており、一般公開される見込みだ。 当時の習慣
で修道院で人生を終わらせることを選んだ未亡人は、飾り付けのない衣装を着ていた。ケー
プ、目の粗い修道衣、麻のシャツ、コルク底の靴、羊毛のズボン、縁なし帽子数個からなる飾
り気のない服装で発見された。顔には、埋葬布が掛けられていた。


このニュースのトピックは、保存状態の良い遺体や衣服もさることながら、何より、この貴婦人
 の遺骸に、ご主人の心臓が鉛製のハート型容器に入れられて副葬されていたことである。

そう、ルイーズはハート(心臓)をもっていたのである !

 カトリック圏で魂の不滅・復活のための土葬の習慣が、ようやく改められたのは1963年第二
 バチカン公会議による「火葬」の認可からである。(それでも、ヨーロッパ・カトリック国で最も火
 葬が進んでいるフランスであっても25%、しかも都市部偏重)

土葬のお蔭でDNA鑑定が出来たりするわけだが、それはともかく、7年前に死亡した彼女の配
 偶者の心臓が彼女の棺と共に埋葬されているということは、この夫婦の愛着の証しであるとし
 て、話題となった。彼女の心臓も切除されていたので、それは夫の埋葬地(まだ未確認)に運ば
 れたと想定されている。(貴婦人が夫と死別後に修道院に入り、敬虔な宗教的生活を送り、そ
 して亡くなってそのまま修道院の墓地に埋葬されることは多い。彼女の場合、夫が死去した4ヶ
 月後の1649年12月15日に夫の心臓と一緒にこの修道院への埋葬を遺言している)

  夫の心臓が収められていた鉛製のハート型密閉容器(碑文あり)

 このルイーズ・ド・ケンゴLouise de Quengoという貴婦人について調べてみると、1584年生ま
 れで1656年3月10日死去とあるので60代ではなく72歳で亡くなっている。ロシェ領主フランソワ・
 ド・ケンゴFrancois de Quengo (1540頃-1594)とジャクリーヌ・ド・ブールニュフJacqueline de
 Bourgneuf(1550頃-1611)の間に生まれた。ケンゴ家は1390年には確認できる貴族家系であ
 り、母親の父(つまり母方祖父)はブルターニュ高等法院議長であり、その子も孫も同職に就い
 ている法官貴族で、他の子供にはサン・マロ司教もいる名家。

 彼女はブレイフェヤック士爵トゥーサン・ド・ペリアンToussaint de Perrien, chevalier de
 Breiffeillac(1649没)と結婚。心臓はこの人のものである。士爵は1649年8月30日にレンヌで亡く
 なり、サン・ソーヴ―ルのカルメル派修道院に埋葬されている。(この場所は発掘調査されてい
 ないが、ルイーズの心臓はこちらへ副葬されていると考えられている)

 2人の間に子はなかった。

 この夫のペリアン家というのは、かなり古い貴族家系なので、ここで子なく断絶というのは、当
 時の貴族夫人のルイーズとしては大きな責任を感じたものと思う。それでも、夫婦として添い遂
 げて、互いの心臓を近くに埋めて埋葬され、あの世での再会を求めているのだから、この夫婦
 は本当に愛し合っていたのだと思える。貴族間の結婚では稀有なことである。

 ルイーズの死装束は、質素な修道着であるが、1649年8月に夫と死別するまでは、いわゆる
 貴婦人として俗世で生活をしていたので、下図右のようなコスチュームを着ていたのだろう。
 (下図左は今回の発掘調査での復元絵図)

  

 18世紀にブルターニュ地方を旅したアーサー・ヤングが「荒地、荒地、また荒地・・・」と表現
 し、「フランスの地理」の中でジャン・ルキエ氏が、中心部から離れた遠隔の地、王国に併合さ
 れたのも遅く、すべての進歩が緩慢な地方、というブルターニュの地方在郷の貴族について、
詳しく知ることはなかなか難しい。

 ケルト族の名残なのか、ちょっと地名も家名も独特であるし、長く公国として独立していたせ
 いか、ブルターニュ貴族たちは中央に出て活躍するよりも、田舎の領地で昔ながらの生活を続
 ける傾向が強かったらしい。ルイーズも地方の名門の長女とはいえ、かなり地味な生活をして
 いたものと思われる。

  
 
 ジャコバン派修道院の発掘現場と作業の模様とセンター

 そもそも彼女の棺が発掘されたのは、レンヌのジャコバン派修道院の建物の地下基礎部分
 に地中杭を入れて生コンで補強し、敷地に近代的なセンターを併設する大工事の、事前発掘
 調査によるものだった。この修道院は15世紀から18世紀、巡礼と埋葬の中心地であり、発掘
 作業によって多くの棺が出てきたわけで(最終的には1380基)、そのひとつが彼女のものだっ
 た。

 
                     トンケデック城の昔と現在

 ただ、彼女にとって幸いだったのは、彼女の2つ下の弟ルネ(余談1)がトンケデック城を取得
 (1636)して、トンケデック伯爵となっていたこと(6つ下のもう一人の弟ジャックは1627年のラ・ロ
 シェル攻囲戦で37歳で戦死している)、そして、ルネの子孫のルネ・アンドレが革命時代に亡命
 途上で逮捕されながらも釈放され辛くも生き延び、一度は売却した城が彼の未亡人に再販さ
 れて戻ったこと(1828)、そして彼らの子孫が80人もいて、またその中に俳優のギョーム・ド・トン
 ケデックのような有名人がいたことだった。

(トンケデック・ケンゴ家の子孫サイトを見ると、現代の子孫らは全て1771年生まれのジョゼフ・
 マリーJoseph-Marie de Quengoから生まれた3人の男子から派生した各分家らしい。そのジョ
 ゼフ・マリーも父ジョゼフ・スコラティクJoseph Scholastique(1727-87)が3回目の結婚で得た男
 子。(他に五女あり) ちなみにその父ジョゼフ・スコラティクは四男坊で、上の兄3人は世継なし
 だったので家督を継いだ人。家系を繋げるのも大変なのが分かる)

 
Guillaume de Tonquedec  彼と彼の父はルイーズの埋葬先の問題に大いに活躍した。

 では、今度は2015年9月22日付のル・フィガロ誌の記事を見てみよう。


 その遺体は2014年6月に考古学的発掘調査中に発見された。17世紀のブルターニュ貴族か
ら生まれた有名なコメディアン(ギョーム・ド・トンケデック)の祖先は、明日、トンケデックの墓地
に埋葬されます。 イベントは町の誇りです。

 トンケデック市長のJean-Claude Le Buzilierは、ル・フィガロ誌に次のように語った。 「昨年7
月23日の市議会で、ルイーズ・ド・ケンゴの遺体の受け取りが満場一致で議決されました。決
議内容を家族が受け入れたとき、それは私たちにとって本当の喜びでした。それは必然的に、
また観光客の利益にもなるであろう特別な出来事です」

17世紀のブルターニュの高貴な一族に生まれ、コメディアンのギョーム・ド・トンケデックの輝か
しい先祖であるルイーズ・ド・ケンゴの遺体は、Cotes-d'Armorにある彼女の家族の土地に明
日埋葬されます。 「彼女の弟が城を手に入れ、町の名前を苗字にしたところだ」と、当地の記
者に、パトリック・ド・トンケデック(ギョームの父親)とピエール・ド・ケンゴ(従伯父)は語った。

 所縁の地であるレンヌとか先祖らと同じ教会墓地とか色々な案があったが、法律上の問題
もあり自治体との交渉もあったが、トンケデックの一族の80人の子孫たちは、インターネットで
今回の墓地で合意に達した。

 


 こうして、ルイーズは、1636年に弟ルネ・ド・ケンゴが購入した城のあるトンケデックに二度目
 の埋葬をされた。(式典の模様はYouTubeでも見られる)
 生前に彼女が弟の所城と領地を訪れたかは不明らしいが、360年の眠りから覚まされてCT
 スキャンや検死解剖までさせられたわけだから、縁ある人々の魂と共に眠る二度目の埋葬地
 で安息を取り戻していることを願わずにはいられない。

 


余談コーナー

(余談1)
 トンケデック及びロシェ伯爵ルネ・ド・ケンゴComte de Tonquedec et du Rochay,Rene de
 Quengo(1586-1644)。1616年ロシェの相続人シルヴィー・デピネーSylvie d'Espinay, dame du
 Rochayと結婚した。
 1625年生まれた長男のルネ・ド・ケンゴ(トンケデック及びロシェ士爵後に伯爵chevalier puis
 comte de Tonquedec et du Rochay.1703没。つまりルイーズの甥)は、書簡集で有名な同じくブ
 ルターニュ貴族のセヴィニエ侯爵夫人の関係で彼女の書簡集に名が登場している。

 Marquise de Sevigne

 1652年6月当時、彼はパリにおり、セヴィニエ侯爵夫人のリュエル(サロン)に出入りしていた
 が、昨年夫を決闘で失った26歳の未亡人である美しい侯爵夫人に恋していたらしい。同じく彼
 女に恋心を抱いていたロアン公爵と大喧嘩をしたという記録がある。

 そもそも彼はフロンドの内乱で親戚にあたるロアン公の味方として反軍につくと宣言していた
 が、彼は結局マザラン宰相の政府側についた。こんな恨みもあり、そこに侯爵夫人に対するラ
 イバル心も加わり、両者はあわや決闘沙汰というところまでヒートアップした。しかし侯爵夫人
 が東奔西走して事を収めて、この2人の恋する男らを和解させた。(セヴィニエ侯爵夫人は誰と
 も再婚しないが)

 この騒動の時はまだルイーズは彼の伯母さんとして存命だったことになる。

 彼は1659年、パリ大司教の妹シモーヌ・ド・ペレフィクスSimone de Perefixeと結婚した。


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