バウンティ号の叛乱の心理学


 1787年12月、イギリス海軍の武装輸送船「バウンティ号」はタヒチ島経由で西インド諸島に向
 かう航海に出発すべくポーツマスを離港する。タヒチで「パンノキ」の苗を積んで、それを西イン
 ド諸島のイギリス植民地の奴隷用食物として栽培するという計画の遂行が任務であった。
 艦長ウィリアム・ブライ以下46名の乗組員であるが、唯一の士官であるブライは初めての艦
 長任務だった。

 
...............................................バウンティ号(HMAV"Bounty").............................................Breadfruit(パンノキ)

 ・・・日本ではそれほど知られていない話だが、すでに6回も映画化されて、小説も含めて関連
 図書も夥しい量にのぼる有名な事件である。懲罰主義で厳格なブライ艦長の航海中の横暴
 に、人情あり正義感に満ちた副長フレッチャー・クリスチャンが船員を率いて反逆し、バウンテ
 ィ号を乗っ取るという話である。海上に放逐されたブライ艦長とそれに従う者は小さな救命艇に
 乗せられたが、航海術に長けた艦長は奇跡的に生還。帰国後に反乱を報告し、反乱者の捕
 縛に軍艦が差し向けられる。クリスチャンらは、海図にない無人島ピトケアン諸島に数人のタヒ
 チ人共々逃げ込み、そこで集団生活を始めるが、トラブルから非業の死を遂げてしまう・・・


          マーロン・ブランド(1962)            クラーク・ゲーブル(右側・1935)

 この事件はブライ艦長とクリスチャン副長の対立という点で、非人情の指揮官VS正義の副官
 というコンセプトで映画や小説が出回った。クリスチャン役の俳優陣も、エロール・フリン、クラ
 ーク・ゲーブル、マーロン・ブランドという顔ぶれだから、クリスチャン副長が悪者になるわけも
 ない。但し、歴史事実として、ブライ艦長は軍法会議でも無罪となり、その後も順調に海軍で出
 世し中将にまで昇格しているから、やはりそこは一般受けする内容に歪曲されており、ブライ
 艦長もとんだ汚名を着せられてしまった形になっている。

 
    アンソニー・ホプキンスのブライ艦長(1984)           メル・ギブソンのクリスチャン副長(同左)

 がしかし、1984年本国イギリスで制作された「バウンティ/愛と反乱の航海」は違った。アンソ
 ニー・ホプキンスが演じるブライ艦長は厳格だが、遠洋航路を指揮する者として当然の資質と
 して描かれ、個人的な特性もせいぜい軍人的な野心というこれもまた当然な側面。むしろ荒く
 れたちを統率するマネジメント能力と困難な荒海を往く航海術を習得した海軍軍人として描か
 れている。

 対するクリスチャン副長は、メル・ギブソンが演じているので、もちろんそれほど悪くはないの
 だが、どちらかと言えば、衝動的で情動的で甘々な若者としての側面がきっちりと加えられて
 いるという演出。

 
Bounty"恩恵"という意味

 これこそが、リアリティなのではないのかなと感じた。(そのかわり、歴代バウンティ映画では
 最悪の評価のようだ。観客はそんなドキュメンタルな演出よりも、勧善懲悪的なシンプルでスッ
 キリする感動を期待しているのだから無理もない。映画とはそういうものなのだ)

 
...............James Cook (1728-1779)................................................レゾリューション号(H.m.s. Resolution)

 ウィリアム・ブライ艦長は、ハワイを発見しオーストラリア、ニュージーランドまで達したキャプ
 テン・クックで有名なジェームズ・クック艦長のもとで、旗艦レゾリューション号の航海長を勤め
 たこともある筋金入りで、もともとは水兵からスタートした苦労人だった。


William Bligh (1754-1817)の肖像画3点

 「バウンティ」は武装輸送船であり、石炭輸送船をイギリス海軍が買い取り若干の武装を施し
 た215トン程度の小型帆船だった。但し三本マストの完全な帆装があり、遠洋航海が可能なの
 で今回の任務に使用されたわけで、ブライは初めて「艦指揮者」となる。(商船船長は経験あり)

 彼は懲罰主義の暴君のように語られるが、航海日誌を検証すると、むしろ懲罰は控え目であ
 り、海軍で決められた罰則のひとつ下の罰を課しているケースが多いらしい。また船員らの衛
 生面への配慮、運動不足の解消、科学的な健康管理(バウンティ号航海中に壊血病患者皆無
 という実績は海軍史上例がない)の実践者としての評価も高い。

 放逐されるブライ艦長たち

 反乱を起こしたクリスチャン副長らに放逐された後、ちんけな救命艇を操舵して海図もコンパ
 スもなく41日間かけて3,618海里(6,701km)を航海し、1人の犠牲者もなくティモールにたどり着
 いた事実は「イギリス海軍史上に残る快挙」と讃えられている。(1人だけ原住民に殺害された)

 後に64門艦ディレクター号の艦長としてキャンパーダウンの海戦(1797)では、3隻のオランダ
 艦に深刻なダメージを与えたが、自艦では負傷者7名のみだったり、56門戦列艦グラットン号
 艦長だった1801年、ネルソン提督のもとでのコペンハーゲン海戦では提督から称賛されるほど
 の活躍を見せている。


............................Battle of Camperdown(1797)................................................Battle of Copenhagen(1801)

 税関職員の息子から海の男になり、水兵からの叩き上げの経歴を踏んで、ジェームズ・クッ
 クの歴史的な最終航海にも加わり、海軍軍人として海戦でも活躍した。悲運のバウンティ号の
 失敗も、2年後に軍艦プロヴィデンス号指揮官として完遂し、パンノキはタヒチから西インド諸島
 に転送され今でも当地の一般的な食物となっている。

 ちょっとした成功物語の主人公である。

 ところが、「あのバウンティ野郎」と当時から水兵たちに言われていたし、その後の大衆小説
 や娯楽映画のせいでもなく、彼は嫌われていたのは事実なのだ。自信家であり、相手を侮辱
 することも多く、いわゆる性格に難ありという人物だったようなのだ。(Bountyは他人への寛大
 さ、自由主義という意味もあり、批判されたブライ艦長の規律主義には大変皮肉に響く)

 それゆえに自分の副官であるクリスチャン副長が離反した。彼は上級准士官であり、本来は
 士官候補生たちと艦の指揮系統を共に司る立場であり、その下に、荒くれどもの船員らがいる
 わけである。その組織が根元からポッキリと折れたのだ。

 では、このクリスチャン副長はどういう人物だったのか?


  Fletcher Christian(肖像画はない。裁判でのブライ証言では、175pの身長で肌は浅黒く髪は濃い茶色との事)

彼は元々はマククリスティン(McCrystyn)という姓のマン島の裁判官家系の一族として、カンバ
 ーランドの裕福な農場経営者の息子に生まれた。詩人ワーズワースの遠い親戚。
 同級生は「穏やかで、開放的、人道的で勇敢」と彼を評価している。

 父親が死に、家は零落し、母親は債務者監獄に入れられそうになり、彼は家計を助けるべく
 海軍に入る。そこで海尉だったウィリアム・ブライと知り合うので、映画の中のようにバウンティ
 号が初対面ではなく、すでに知己の仲だった。
 商船ブリタニア号に乗船した時に、ブライ海尉と再会し、彼は次席航海士に昇格されており
 (但しブライは彼を士官待遇とし、士官の特権を許した)、2年後バウンティ号の艦長となったブ
 ライにより准士官としてそのクルーに加わる。バウンティ号の航海途上、彼は副長に抜擢され
 るので、ブライ艦長からかなり気に入られていたようだ。

 
...........................荒海をゆくバウンティ号................................................................タヒチ到着(October 26, 1788)

 荒天のホーン岬を回避し、喜望峰回りでインド洋からタヒチに向かい、1788年10月26日によ
 うやく到着。パンノキが運搬できるほど熟するまで待機しなければならず、翌89年4月までタヒ
 チに滞在することを余儀なくした。


             Tahiti                    島ではバウンティ一行の歓迎の宴(1962映画)

 この滞在期間中に、クリスチャン副長は島の女性マイミティMaimitiと恋に落ちている。他の乗
 組員らも島では夢のような楽園生活を送り、今までの航海での苦労も忘れ去って、「今までどこ
 の寄港地でも味わったこともない」快適な月日を送る。

 バウンティ号はパンノキの苗木を積み込んで、再び1789年4月4日、喜望峰経由で西インド諸
 島へと向かう航海に出るのだが、一説によると、このタヒチでの楽園生活の月日が、船員たち
 の再び厳しい海上生活へと戻る覚悟を挫いたと言われる。

 ブライ艦長は規律意識を取り戻させようと一層厳しく命令を飛ばすし、パンノキが枯れぬよう
 乗組員への貴重な水も制限された。タヒチの生活に未練を残すのは船員ばかりではなく、マイ
 ミティへの恋慕を断ち切れぬクリスチャン副長も同様だったらしい。


楽園タヒチを出港し(April 4, 1789)、バウンティ号は再び長い航海に出る・・・

 そんな副官の軍人らしからぬ勤務姿勢に規律主義のブライ艦長は、自分が評価して取り立
 てた部下であるゆえに余計に厳しく接するようになる。船員たちの前で声高に彼を叱責・罵倒
 することも多くなり、今まで厳格な艦長と唯一親しく仲間的に接することで艦内の自分の立場を
 築いていたクリスチャン副長は、その特権的自意識を否定され、不安と混乱と激しいストレスを
 覚えていく。

                 
 厳しさが増すブライ艦長(1962映画)                悩むマーロン・ブランド、いやクリスチャン(1962映画)

 目ざとい船員らは、この優しい心根の副官が、艦長との親密さにおいて孤立し始めたことを
 利用し、共に艦長に対する不平不満を共有するような仲間に引き入れる。

 軍法会議の審問でも、帰国した船員らの証言として、明確にクリスチャン副長の反乱の原因
 を語れる者はいなかった。ただ、今までになく艦長が副長に厳しく接し始めたという状況だけは
 意見を一にしていた。

 
ブライ艦長の肖像画はやたらと多い。

 ここで分析するに、厳しい上司に対して、取り入るのが上手な中間管理職は、上司の特性を
 利用してうまく個人的親密度を増して「仲間」的になる。自分だけの特別待遇を享受しつつも、
 そういうタイプは部下にも寛大で(むしろ上司から甘く見られるゆえに寛大にも出来るのだが)、
 一般職からの人望も厚い。こうして、大変にストレスの少ない環境を築く才能がある。

 クリスチャンはバウンティ乗船以前からのブライ艦長との関係を活用し、そのような状況を艦
 内に築いていたのではないか? ポーツマスからタヒチまでの10ヶ月の辛い航海の間、彼はずっ
 とこうして自分の立場だけは安寧の環境で過ごしており、昇格までしているのだ。


                菜園の構築                   この映画(1962)でクリスチャン役のマーロン・
                                          ブランドは本当にこのマイミティ役の女性と結
                                        婚してしまう。そこまで史実を再現しなくても・・・

 ところが、タヒチで羽を伸ばし過ぎて、しかも「恋する若者」になり、加えてパンノキ菜園の管
 理という楽な任務のみで気も弛んだ。ブライ艦長は、海軍士官が唯一自分だけであり、副官ク
 リスチャンも含めて他は准士官と士官候補生という、いわば教練過程の幹部だけであり、孤立
 意識が強かったと思う。軍人生活への切り替えの早い艦長は、任務再開にあたり、右腕の副
 官の、ありがちな弛みに必要以上の危機感を覚えたのだろう。

 そこで厳しく矯正の鞭をクリスチャンに振るい、一気に目を覚まさせようとするが、クリスチャ
 ンは人間関係が巧みな者の常として、そういうストレス環境にはかなりの脆弱性を示す。この
 種のストレスが苦手ゆえに、ノンストレスな環境を無意識に作ろうとするから自然と人付き合い
 が巧みになってくるようなものだ。普通ならば「そこまでやらない」ような手段で、相手に取り入
 ろうとするので、他者からすれば「人付き合いが上手い」と評価されるが、実際はストレス環境
 を回避するために必死なだけなのである。上述した同級生のクリスチャン評価も、そのような
 結果の表面的な他者の評価なのかも知れない。

             
万年士官候補生Edward Young(ピトケアンで1800年病死) Peter Heywood(彼は正式には士官候補生心得だった。
                                            海軍に復帰して勅任艦長にまでなった)

 ブライ艦長との親密関係の崩壊(少なくとも彼にはそう思えた)によって、皆が今まで耐えてき
 た状況だと言うのに、彼はいきなりノイローゼ気味になっていく。脆弱性の顕れだ。密かに離艦
 する計画すら立てる。離艦は当然に脱走罪で死罪なので、そのためらいがあるだけだ。
 ともかく、「逃避」思考にとらわれたようだ。仲間である士官候補生も積極的に反徒と闘いはし
 なかったが、国家を捨てて海軍という組織に背くのを良しとしない者が多かった。組したのは万
 年士官候補生のエドワード・ヤングくらいのものだ。非常に親しかったピーター・ヘイウッドすら
 拒否している。「強い忠誠心」というより、軍人の普通のストレス耐性の強弱だと思う。

 クリスチャンは、この種のストレスへの耐性が脆弱だったのだ。自尊心のさという性格傾向
 が原因かも知れない。自尊心が傷つくことへの危機意識が特質的に高いゆえに、うまく人間関
 係を回して、上司とも円滑な信頼関係を築き、叱責・懲罰を受ける屈辱を回避しようとする。し
 かし、ひとたび失敗するや、皆が耐えているレベルの屈辱すら耐えられない・・・

 
ブライ艦長らを放逐し、パンノキの鉢を海にぶちまける船員ら。

 そのあげくに、彼の精神的混乱につけ込んだ船員らの「あんたについて行きますぜ」「みんな
 あんたを慕っている。あのブライ艦長とあと1年も一緒だったら殺されちまうよ」「あの艦長は狂
 っている。きっとあんたを追い詰めることに全力を注ぐだろう」等の囁きが、当直のたびに彼の
 耳に入ってくるようになり、ついに爆発、1789年4月28日、武装蜂起したクリスチャン副長と船
 員らがブライ艦長の身柄を拘束した。こうして事件が起きたわけでる。・・・

 もちろん、1789年ということで、この年の7月に勃発するフランス大革命との共通項を探りたく
 もなるが、バウンティ号の乗組員などには平等思想も特権階級廃絶の闘志もまったくない。彼
 等はともかくブライ艦長の厳しい規律主義から解放されて、タヒチの女たちのもとに走りたい願
 望があったのみだ。

 ただフランス革命の顛末のように、激しい憤懣を原動力にした対権力者闘争は確かに激しい
 インパクトを生むが、その後は無統制の権力闘争・政権闘争の坩堝となり、多くの血が流され
 て行くという同じ経緯をたどった。

 
     パンドラ号の到着(March 23, 1791)         帰路パンドラ号は座礁。艦長は軍法会議に・・・

 本国から派遣された軍艦パンドラ号が反乱者の捕縛にタヒチに到着したのは1791年3月23
 日。その頃にはタヒチ残留組14人(全員逮捕)と分かれたクリスチャン一行は海図にないピトケ
 アン諸島に、同行したタヒチ人らと共同生活をしていた。しかし主導権争いや女や酒、あるいは
 タヒチ人との仲間割れで殺し合いが続き、1808年にアメリカのフォルジャー船長の捕鯨船トパ
 ーズ号がこの島に来たときには、バウンティ号の生き残りは上級水兵だったジョン・アダムスた
 だ一人だった。(他はタヒチ女性10名と船員らとの子供20数名)

 
        ピトケアンに向かうバウンティ号             John Adams 1766-1829

 1814年にイギリス海軍のパイポン艦長がこのアダムス(彼は恩赦された)からクリスチャン副
 長の話を聞いた記録だと、島でのクリスチャンはかなり気難しくなっており、仲間らに対して専
 横的で懲罰的で無慈悲・残酷だったらしく孤立していたという。「彼が大声で非難したブライ艦
 長とそっくりそのままの人物」になっていたということは驚きだとこの艦長は語る。クリスチャン
 はストレス環境からの離脱を図り、反乱を起こしたが、結局、個人主張しかしない荒くれどもを
 統率する難しさを今度は自分が経験することになり、ブライ艦長の手本を真似るしか他はなか
 ったのだろう。結果は孤立し、争いの中で落命という無残なものだった。

 
               Pitcairn Island                         ジョン・アダムスの墓

 但し、島には他の船員らの墓はあるもののクリスチャン副長のものはなく、彼の最期の様子
 もどうしたわけか曖昧な話しか語られない。これは不自然である。前出のアメリカのトパーズ号
 とか、その他の島に接近した記録にない船舶に乗り込んでイギリスへ向かったという説が濃厚
 になってはいる。(事実、90年代にいくつかの船舶が島を確認しており、ココナッツを収穫に上
 陸した形跡もある。)
また、帰国して国王の恩赦で解放され海軍に復帰したピーター・ヘイウッドは、1808年プリマス
 のフォワ通りでクリスチャンと似た人物を見かけ呼び止めたら逃げたので、追い掛けるも見失
 ったと証言している。

 「英国人名事典」(DNB)には、「何らかの方法で島を抜け出しイギリスへ戻った可能性は高
 い」と記してあるそうだ。見つかれば裁かれる身の上だから、アダムスもその事実を隠そうとす
 るだろうし、ヘイウッドの呼び掛けからも逃げるだろう。まんざら小説的とも言えない気がする。

 尚、ピトケアン諸島には、今もクリスチャンとタヒチ人妻マイミティとの子孫や船員たちの子孫
 らが住んでいる。20世紀中のピトケアンの治安判事職は、クリスチャンの子孫と万年士官候補
 生ヤングの子孫が専有していた。左下の写真の頃は200人以上の人口がいたが、現在は50
 人足らず、島からニュージーランドへの転出が続いているらしい。
 オーストラリアのクイーンズランド州の最初の女性首相アンナ・ブライAnna Bligh(2017年オー
 ストラリア銀行協会CEO)はブライ艦長の子孫という。

          
ほとんどが船員らの子孫のピトケアン・コミュニティ(1890)............................................Anna Bligh

 働き方改革とかの時代にサラリーマンスタートする若者らは、当然にクリスチャン副長に感銘
 することだろう。しかし長くサラリーマンをやってきた中高年らはブライ艦長に共鳴する部分も
 多いと思う。また規律は遵守するが部下にも気を配るというスーパーマン系の管理者は、やや
 もすると、心理負担のあげくに精神疾患におちいったりする。どれもこれも適当にグレーゾーン
 で生きるのが一番だが、そうするとアイデンティティーが不安定になり自己嫌悪感に繋がったり
 もする。

 バウンティ号の事件は200年以上昔の話だが、人間が面倒臭い生き物であることは少しも
 変わっていないようだ。恐らくこれからも面倒臭い思いをしながら人間は生きて行き、それが
 「歴史」を形成してゆくのだろう。



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