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本邦初訳 フランス革命ギロチンリスト@1793年〜94年4月


 これから長々とフランス革命期にパリでギロチン処刑された2795人の全リストを公開する。
 1794年6月〜7月にやはり処刑者数が激増しており、3ページに集録人数が大体均等になる
よう振り分けた為に、期間の方は妙に偏ってる。最後のBなんて1794年7月だけで900人にな
ってしまっている。ロベスピエールのテルール(恐怖政治)のピークに、テルミドールの反動で政
権が倒れて、今度は粛清していた側が一網打尽で粛清されたのが94年7月なので、この時期
の処刑者数が跳ね上がるのは仕方ない。
 「本邦初訳」としたが、そもそも、こんなリストはフランス人以外に関心はないので、誰も訳出
しなかっただけである。

 

 テキストは1911年パリで出版された「アルフォンス・ピカールとその後継者たる息子オーギュ
 スト・ピカールのコレクション」(1869年創業のフランスの 出版社)による、「パリ革命裁判所の犠
 牲者リスト」。国王ルイ16世処刑から時系列に列挙されており、巻末にはアルファベット順での
 索引が出来るようになっている。

 下記の前文がある。

 パリの革命裁判所の犠牲者のリストを処刑の年代順に作成しました。

注意事項。

 裁判所市民記録主任登録官、Rathelot氏はパリの自治体の登録簿から2795人の死亡証明
書をセーヌ県に提出し記録を保管した。原本が1871年の内乱の間に焼失したこれらの文書
は、国王ルイ16世、王太子と革命裁判所の判決の後にパリで処刑された2793人の死亡証明
書を含んでいます。
 犠牲者の記録には、氏名、年齢、職業、または出身地などの重要な情報が確認できます。ま
たこれらの死刑執行を時系列に保存することも重要な意味があります。但し、写しに含まれる
情報には、乖離と不正確さがあります。 原本が焼失しているので、その誤りが写し間違いなの
か原本の記録者の根本的なミスなのかを区別することは不可能でした。 このような状況下で
は、一部を補正することや修正することを試みることは無駄に思えました。

手書き原本

 1871年のパリ・コミューンの内戦のときに政府の施設が焼け落ち、多くの記録が焼失してしま
ったが、その中から復元された記録物もある。また、登録簿は全て主任登録官(もしくは指示を
受けた下位の登録官)により写しが作成され、市役所の保管庫、もしくは裁判所にそれぞれ蔵
置される。原本が焼失しても写しが残るようになっている。確かに前文にある通り、誤記載も散
見されるが、それが写しの作成時に発生したものか、元々の裁判所の誤記載なのかは今とな
っては分からないのも無理はない。
 それはそのままに記載しておく。また「革命暦」なるものが1792年9月22日より公用されたが、
それらの記載は省き、通常の暦だけにしてある。

 また正しいスペルではなく、革命裁判所の書記が発音で記入したのか、所々、正確な綴りが
なされていないが、それはそのままにして(酷いものは修正)、分かる限りは正確な綴りを挿入
した。犠牲者の肖像や、近親の肖像等も、出来る限り探して掲載してある。

 例によってこのHPソフトではフランス語のアクサン記号が出力されないので、訳出に「ん?」と
思ったら、それはアクサン記号が原文に付いていたのだな、と思って下さい。





1793年1月21日

1. ルイ・カペー CAPET (Louis), 39歳。フランス最後の国王。ヴェルサイユ生。
(Louis-Auguste de France 1754-93 在位1774年5月10日-1792年9月21日。
処刑台でルイ16世は上衣を脱ぐ旨を指示されると、このままでも問題ないのではないか?と
返した。それが決まりであると言うと、国王は自ら手を貸して上衣を脱いだ。手を縛る際も、同じ
ことが繰り返された。説明すると王は抗うことなく直ぐに従った。
太鼓の連打が続いていたので、「太鼓は鳴り続けるのか?」と尋ねた。処刑人は「分からない」と
応えた。国王は処刑台で何か演説をしようとしたのか前に進み出ようとしたが、禁止されている
と告げると、従容として所定の位置に導かれていった。
そして明確な口調で「我が人民よ、私は無実のまま死ぬのだ」と声を発した。そして処刑人らの方
に振り向いて「皆さん、私は告発されたすべての罪に関して無罪です。私はただ、私の血が、フラ
ンス国民の幸福の固めとなることを祈るばかりです」と言葉を残した。
国王は我々にも意外なほどの平静さと勇気を示した、と処刑人シャルル・アンリ・サンソンは、
「テルモメートル・デュ・ジュール」誌の主筆デュロールの「国王処刑時の実際の状況」についての
問い合わせに対して返事を書き、上記内容は1ヶ月後の2月21日付で同新聞に掲載された)

 Louis XVI

1793年1月25日

2. アレクシ・ルイ・ロジェ ROGER (Alexis-Louis), 31歳。布商人。パリ生。
(アッシニア紙幣の偽造に関与した罪で処刑。
パリ公文書保存記録に、1788年7月10日付で布商人Alexis Louis ROGERが最近死亡した妻
Marie Anne CHARDONの代わりにAlexis Jean ROGER{2歳10ヶ月}の保護者として承認された
とある。また別資料で、布商人Alexis Louis ROGERとMarie Anne CHARDONの息子Alexis
Jean ROGERが1785年8月15日生まれである記録もあり、更に別資料でサン・トノレ通り在住の
布商人Alexis Louis ROGERの妻Marie Anne CHARDONが1788年7月1日に死去したことを確認
できる記録あり)

1793年2月16日

3. ミシェル・テリエ THELLIER (Michel), 45歳。材木商。
(アッシニア紙幣の偽造に関与した罪で処刑。靴下の旅商人ともあり)

4. アントワーヌ・ヴィヨーム WILLAUME (Antoine), 39歳。大工。ラ・コートLa Cote生。

1793年3月2日

5. ピエール・プーレ POULET (Pierre), 古着商。
(アッシニア紙幣の偽造に関与した罪で処刑)

1793年3月27日

6. ジャン・デュラン DURAND (Jean), 52歳。画家。 シャントソ゛ンChantezon生。

1793年4月6日

7. ジャン・グイヨ GUYOT (Louis), デモ―ランDesmaulansと呼ばる。42歳。アロンAllons生。
(La Charente県Allaux在住の元貴族、とあり。
亡命者のGuyot-Desmaulansは処刑時に、サンソンに「このギロチン台が国王の処刑にも使
われたのか?」と聞いた。「刃だけは交換されている」とサンソンが答えると、この人は恭しく跪
き、ギロチンにキスをしたという)

1793年4月11日

8. ニコラ・ルティエ LUTTIER (Nicolas), 42歳。 砲手。サン・ディジエSaint-Dizier生。
(国王連隊の元擲弾兵。第6師団の砲兵。第102連隊志願兵ともある。
「私には国王の死に報いる魂があり、国王はまだ存在し、再びよみがえるだろう。フランスは
共和国にとって大きすぎ、国王の死により、フランスは失われた」等と反革命的な発言をした)

1793年4月15日

9.フィリベール・フランソワ・ルクセル・ブランシュランド ROUXEL-BLANCHELANDE (Philibert-
Francois), 58歳。イル・シュー・ル・ヴァンIles-sous-le-Ventの軍司令官。ディジョン生。
(ブランシュランド子爵フィリベール・フランソワ・ルクセル・ド・ブランシュランド Vicomte de
Blanchelande,Philibert Francois ROUXEL de BLANCHELANDE 1735-93
ラ・シュヌレLa Chennelay連隊歩兵中佐Claude ROUXEL de BLANCHELANDE 1670頃-1740と
Catherine Francoise BRACONNIERの長男。33年にすでに結婚していた姉と、姉か妹かが一
人いた。姓名未詳の女性と結婚し、息子を得る。{⇒2360 Jean-Philibert-Maurice ROUXEL
de BLANCHELANDE 1775-94 は父親の将官補佐官をしていて、やはり処刑}
この人は79年オーセロワ連隊少佐としてマルティニークに派遣。81年イギリスからトバゴを奪い
84年まで当地の総督。革命で帰国し、家族のもとから離れたくないと希望するも、90年サント・
ドミンゴの総督となり再び赴任。当地で反革命勢力を支持し{誤解であるとする説もあり}、解任、
逮捕、処刑された。処刑時には護送車から元気よく飛び降りて、死を恐れる様子もなかった)

 Philibert Francois Rouxel de Blanchelande

1793年4月21日

10. ジャン・クランシャン(通称サン・タンドレ) CLINCHAMPS, dit Saint-Andre (Jean), 58歳。
ラ・トリニテ小修道院院長。モンビゾMontbizot生。
(アントワーヌ・ジャン・ド・クランシャン・サン・タンドレ ANTOINE-JEAN de CLINCHAMP-
SAINT-ANDRE 1738頃-93 メーヌの古い家系の生まれ。モンビゾMontbizot教区テルトル城
館Chateau du Tertreに生まれる。サン・トロペのシトロン司教の教区長。知性豊かで革命政府
告発本「真の友へ」を発行し、パリのボーヴィリエ夫人宅で逮捕。彼に有利な証言をしようとし
た者を制し「かつて哀れな者がイエスを裁いたように、この者たちは信者を裁く信仰心のない
者たちなのです」と発言し、即刻死刑の判決が下った。竜騎兵大尉ヴォージュール伯爵と海軍
大尉ブレール侯爵marquis de Belairと一緒に4月20日処刑とあるが、この記録では4月21日。しか
もヴォージュール伯は12にあるが、ブレール侯は見当たらないが後者と思われる)

11. ガブリエル・デュギニー DUGUINY (Gabriel), 30歳。海軍士官。ナント生。
(Gabriel DUGUINY 通称デュブレールDubelair  元侯爵で海軍大尉。亡命者として処刑。
前者の説明中の「ブレール侯爵」とはこの人のことだろう。Bel-Airであればべレール)

12. アンヌ・イヤサント?・ヴォージュール VAUJOURS (Anne-Hyacimhe), 47歳。竜騎兵大尉。
パリ生。
(ヴォージュール伯爵アンヌ・イヤサント Comte de Vaujours, Anne-Hyacinthe 1745-93 1761
年12月23日、近衛銃士として軍務に就く。73年騎兵大尉、78年竜騎兵大尉、84年デュルフォー
ル竜騎兵大尉、88年、フランシュ・コンテ猟騎兵大隊長に任命。92年2月中佐、同年7月竜騎兵
第3連隊大佐。パリに住んでからは、普通の市民として、ビエーヴル通りの国民衛兵隊に勤務
したが、隣人に貴族で王党派と告発されてしまった。
「ヴォージュール大佐は、処刑日になると『この式典は何時ごろに終了するのだ?』ときいた。『午
後2時だ』と答えがくると『おお、残念、いつもなら食事の時間だ』と返し、『しかし少し早く食べると
するか』と言い、刑場への出発時には食事をしていた。呼び出されると『もう一口、食べさせろ』と
応じたという)

1793年4月27日

13. マリー・マドレーヌ・マルタン MARTIN (Marie-Madeleine), 26歳。古物商。ヴェルサイユ生。
(Petit-Pasの妻。偽アッシニャ紙幣の配布に関与した者として処刑)

14. フランソワ・ルノー RENAULT (Francois), 30歳。ムーランMoulins生。
(同姓同名者で商人で偽アッシニア紙幣の製造に関与したとして処刑された者がいる)

1793年4月28日

15. フランソワ・ブーシェ BOUCHER (Francois), 38歳。歯科医。メニル・ウードMenil Eude生。
(メヌレーヌMenulene生まれとも。40歳とも。また歯科医で薬草医とも。パリでの反革命家として
処刑された。
この初期の頃の処刑の逸話を伝える資料に、「ある歯科医は」とあるので、この人のことと思
われる。刑場への出発の時もvive le Roi !{国王万歳 !}を叫び、広場に到着時もvive le Roi !と
唱え、そして処刑人に向き直ると「さぁ、さっさとギロチンにかけろ」と言ったという)

16. デジレ・シャルル・マンゴ MANGOT (Desire-Charles), 21歳。 御者。 パリ生。
(自分は王室再興の活動の首領であると公言したため処刑)

1793年5月2日

17. アントワーヌ・ジュゾー JUZEAU (Antoine)
(23歳。アングレーム生まれ。商人。亡命者として処刑。アングレームの羅紗と絹布の裕福な
商人の息子、とある。1769年3月16日生まれともあるので24歳か。また、「Antoine Juzeauと
Jeanne Boilaudの息子とある)

1793年5月4日

18. ジャン・ニコラ・ブレアル BREARD (Jean-Nicolas), 54歳。海軍事務官。ロシュフォール生。
(Jean Nicolas BREARD 1757頃-93 36歳前後ということになる。20同様、後者の妻{155}と関係
していた。仕事としては後者の手先として活動していた。Rochefort-sur-Mer生まれ)

19. ポール・ピエール・コリー KOLLY (Paul-Pierre), 53歳。元徴税請負人。パリ生。
(コリー男爵ピエール・ポール・ド・コリー Baron de Kolly,Pierre Paul de KOLLY 1751頃-93
父親は1739年サミュエル・ベルナールの遺言執行者となったパリの宮廷銀行家Jean Pierre
de KOLLY。母親はCASTELLA某。
スイス出身の宮廷出入りの銀行家。商業銀行監督官。革命政府の金融政策の推進をしつつ
亡命政権に資金援助をし、仲間の前者や後者共々捕らわれた。
妻は1779年結婚した155。妻は前者・後者ともに関係していたが、夫として黙認していたようだ。
妻との間にArmand Pierre Marguerite de KOLLY 1781生 がおり、1800年Marie Augustine
DUPONTと結婚している)

20. フランソワ・オーギュスト・ルノー・ド・ボーヴェー RENAUD de BEAUVAIS (Francois-
Auguste), 34歳。元侯爵。騎兵将校。コンスタンティノープル生。
(マザ伯爵フランソワ・オーギュスト・ルノー・ド・ボーヴォワール Comte de Maza,Francois Auguste
 Renaud de BEAUVOIR 1758-93 Comte de Mazuとも。
国王の元親衛騎兵。オスマン・トルコへのフランス国王の使節員の息子でリュクサンブール軍団
の中尉。
恐らく1710年亡くなったコンスタンティノープルの社交界にいたJean-Francois Regnardの孫である
と推定されるらしい。
上記コリーの夫人Madeleine Francoise Josephine de Rabec{155}の愛人。この人は銀行家コリー
の執事をしていた。コリーも2人の仲を認めており、夫人がこの人の子を身籠っていることを知
っており、その妊娠を理由に刑の執行を延期させるよう勧めた。夫人は7ヶ月後、出産後、処刑
された。二人の関係は1789年頃からのものだった。系図では91年生まれの Theodore de
BEAUVOIRが二人の間にいるが、没年がなく、夭折したのかも不明であり、今回の妊娠について
の詳細は不明。
また、コリー夫人とこの人は一緒に住んでおり、Petites-Ecuries-du Roi通り{そこの39番地のアパ
ルトマンはコリー夫人の所有で息子に継承されている}やBoulogne-sur-MerのPuits-d'Amour通り
である)

1793年5月9日

21. ルイ・アレクサンドル・ボーリュー BEAULIEU (Louis-Alexandre), 36歳。シャルトル生。
(ルイ・アレクサンドル・ド・ボーリュー Louis Alexandre de BEAULIEU 1757-93
父親は羅紗商人でシャルトルの役人Simon-Pierre de BEAULIEU 1741以降没。母親は姓名
不詳。この人の結婚記録は系図にはない。
アルトワ伯のスイス衛兵将官補佐官で元竜騎兵大尉Jean-Francois RIVIER-MAUNY{後者}の
共犯者として敵{あるいは亡命者とも}との内通を行って、亡命した罪で処刑)

22. ジャン・フランソワ・ヴァンサン・ルヴィエ・モーニー REVIERS-MAUNY (Jean-Francois-
Vincent), 40歳。竜騎兵大尉。ドゥーイDouy生。
(ルヴィエ・ド・モーニー伯爵ジャン・フランソワ・ヴァンサン・ド・ルヴィエ・ド・モーニー Comte de
Reviers de Mauny,Jean-Francois-Vincent de Reviers de Mauny 1752-93  Eure-et-Loirの
ChateaudunのLa Madeleine生まれとも。
父親はナヴァール連隊大隊長Comte de Reviers de Mauny,Jacques de Reviers de Mauny
1701-80。母親はMarie Madeleine de Milleville 1728-1803。
三男の長男。弟はJean Charles 1754-1818とJean Francois 1760-1842。
王立士官学校生徒から78年Gustine竜騎兵連隊大尉、歩兵中佐、アルトワ伯近衛スイス衛兵
将官補佐官。
74年シャルトルでMichelle Louise Marie Florence Ollivier 1751-78と結婚し一男Jacques Marie
Francois 1778-1847をもうけ、この子は後にナポレオン軍に仕え騎兵少佐となり、子孫たちは
伯爵位を継承しつつ軍人・名士を輩出し現在に至っている。尚、このJacques Marie Francoisが
1814年結婚したAmelie Foullon de Doue 1779-1857は、1789年7月22日パリの民衆に娘婿のパリ
知事Berthier de Sauvignyと共に虐殺されて首を晒された財務卿Joseph Foullon de Doueの孫娘
である。
没年を94年とする系図もあり年齢を42歳としているが93年処刑で9月30日生まれなので40歳。
Jean-Honore Francois Reviers-Maunyともあるが、系図は上記。前者と共に敵{あるいは亡命者}
との内通罪と亡命の罪で、1793年4月3日廃兵院近くのbarriere de Sevresで逮捕・処刑された。
罪状として亡命した両親を援助したともあるが父親は80年に亡くなっており、母親か義両親か)

......................父・Jacques de Reviers de Mauny 
Jean-Francois-Vincent de Riviers de Mauny

1793年6月17日

23. ボンヌカレール BONNECARRERE, 47歳。日雇労働者。マメールMamers生。
(ボンヌ・カレール Bonne Carrere。女日雇労務者で夜9時に居酒屋cabaretで勤務。
フランソワ・コレFrancois Collet未亡人。偽アッシニャ紙幣の配布に関与した者として処刑)

24. ルイ・アンリ・デュペレー DUPERRAY (Louis-Henry), 27歳。外科医。トンネール生。
(偽アッシニャ紙幣の配布に関与した者として処刑)

1793年6月18日

25. ギヨーム・モーリス・ドローネー DELAUNAY (Guillaume-Maurice), 57歳。元海事代官。サ
ン・マロ生。
(ギョーム・モーリス・ド・ローネー・ド・カレイユ Guillaume-Maurice de Launay de Carheil 1737-93
サン・マロ海事審判所所長。サン・マロ港代官。国王評定官。ブロワ上級評議官。
父親はサン・マロ検事で国王評定官Guillaume Pierre de Launay 1700-71。母親はMarie Claire
Gilette Mousset de Villeneuve 1714生。{93年時点では存命}
性別不詳も含めて9人の兄弟姉妹がおり、その長男。34年生まれの姉Marie Claire Louise、42年
生まれの弟Julien Louis、48年生まれの妹Claire Francoise以外は夭折か早世。しかしこの3名に
ついても没年も詳細も不明。
18世紀半ばに財を成したサン・マロの船主の一族で、ラ・ルエリー、エロー・ド・セシェル等とも縁
続きの家系。
1762年Saint MaloにてJeanne Marie Guillaudeu 1741-1831と結婚。一男三女をもうけた。下記の
手紙の中で「妻と子供たち」と書いているので、生没年不詳の娘3人の内の何人かは存命だった
と思われるが、詳細は不明。93年時点で長男Guillaume Marie 1773-1834はパリにいたようで、
手紙の宛名人の妹{正しくは義姉}にその引き取りを頼んでいる。この長男は99年に結婚し、一女
をもうけ、その一女は1820年結婚し20世紀に至る二女二男をもうけている。
この人はヴィケールリー通りの自宅で逮捕。処刑前の最後の手紙では、妹テレーズ・ギョーダン・
デ・バサブロン宛に、不幸な妻と子供ら、そして老齢で気弱になっている母を慰めること、自分の
財産は没収されてしまったこと、パリの息子を引き取って欲しいこと等を頼んでいる。
オリヴィエ・ブラン「最後の手紙」の中ではテレーズ・ギョーダン{Guillaudeuなので「ギヨドゥー」だろう}
・デ・バサブロン夫人について妹とあるが、上記の系図には見当たらず、妻Jeanne Marie
Guillaudeuのかなり年上の姉、つまり義姉のTherese Pelagie Guillaudeu 1728-94であると思われる。
この義姉は47年Claude Marie Vincent des Bas Sablons 1713-68と結婚しているので合致する。
後継者なしで未亡人になっていたようなので、息子の引き取りも頼めるわけだ。しかし、この義姉も
翌年6月20日には処刑されてしまう。{⇒1551。敬虔な信者でサン・マロの「神の摂理の館」の監督者
として慈善事業を行いBon-Secoursの聖女と呼ばれた女性})

義姉・Therese Pelagie Guillaudeu  

26. アンジェリク・フランソワーズ・デジーユ DESILLES (Angelique-Francoise), ローラン・デク
ロ・ド・ラフォーシェRolland Declos de Lafauchaisの妻。24歳。サン・マロ生。
(アンジェリク・フランソワーズ・デジーユ・ド・カンベルノン Angelique Francoise Desilles de
Cambernon 1769-93
ラ・ルエリー侯の反革命活動ブルトン協会に参加し処刑。陰謀に資金提供したと訴えられた。
夫の弟Francois Victor Desclos de La Fonchais{コンティ連隊大尉として91年死去}の妻Anne-
Marie de Razes d'Auzances 1760生 が1200リーヴルの資金提供をした本人であるが、それを
自供せずこの義妹を救った。{義弟の妻だが年齢は上} ラ・フォス・アンガンの祖父母の城館
{Chateau de La Fosse-Hingantは母方祖母のTrublet家が1656年に領有した城館}で、叔父{33}と
二人の姉妹と共に逮捕された。
父親は元リムーザン連隊士官、近衛銃士隊員、船主、ラ・ルエリー侯の会計係だったChevalier
 de Cambernon,Marc Pierre Francois Desilles 1733-94。母親はサン・マロ市長の娘Dame de
Closriviere,Jeanne Rose Michelle Picot 1733-1822。この母の弟Pierre-Joseph Picot de Closriviere
 1735-1820は、テルール期もパリに潜伏して活動したイエズス会司祭で作家として精神的指導者と
なり、イエズス会復活を主導した聖職者として名高い。もう一人の弟は33。
三女一男の末子。オリヴィエ・ブランの著書では{著書の訳出では}、「亡命貴族のそれぞれ妻だった
妹たち」とあるが、どの系図でもこの人は末子。
長姉Jeanne Julie Michelle 1766-1848は結婚記録はないが82歳、次姉Marie Therese 1768-1858
は86年結婚し、90歳まで生きている。{二人の姉妹らも収監されていたが、無罪となったとある}
兄は「ナンシー事件」{1790年8月31日、貴族将校と兵士との衝突にラ・ファイエット旗下のブイエの
部隊が介入した事件}でナンシーのスタンヴィル門{スタンヴィル伯が1784年ヨークタウンの戦で亡く
なったナンシー市民の記念碑として建てた}近くでブイエ部隊に抵抗する兵士らの大砲の発砲を阻止
しようとし負傷、2ヶ月後に死亡し政府より「ナンシーの英雄」と称えられた歩兵連隊中尉Andre Joseph
 Marc Desilles 1767-90。{この兄はナンシー高等法院法官帽部長Jean Charles Ferdinand de Fisson
du Montetの長女Victoire du Montetと婚約中だった。この婚約のお陰でこの兄の唯一の肖像画が
残された} また上記のスタンヴィル門は彼の英雄行為を称えて「デジーユ門」と改名された。
 この人は1787年父親{Rene Bonabe Desclos 1709-67}が自分の父と同じ近衛銃士隊員だった
Jean-Roland Desclos de La Fonchais 1762-1837{海軍中佐Capitaine de fregateで91年渡英した}
と結婚し、一男Adolphe 1788-1869をもうけている。この子は1830年に結婚し一男をもうけ、1869年
81歳で没している。また下記の最後の手紙では「子供たち」となっていて、他系図には詳細なく「子
は二人」ともあり、義理の姉妹{前述の義妹?}に託している。
最後の手紙が残されており、二人の姉妹には、孤児になってしまう自分の子らの母親になってくれと
頼んでおり、何度も姉妹らに別れの言葉を綴っている。
今一通は義理の姉妹{前述の義妹Anne-Marie de Razes d'Auzances?}宛で、やはり子供らの母親に
なってやってくれと頼んでいる)

兄・Andre Joseph Marc Desilles  
母方叔父・Pierre-Joseph Picot de Closriviere

27. ジャン・パティスト・ジョルジュ・フォントヴュー FONTEVIEUX (Jean-Baptiste-Georges), 34
歳。元ジェヴォーダン猟騎兵将校。リュールRure生。
(ジャン・バティスト・ジョルジュ・カマース・ド・フォントヴュー Jean-Baptiste-Georges Camasse
 de Fontevieux 1759頃-93 ストラスブール生まれとも。
父親はJean Baptiste Camasse de Fontevieux 1730頃-93頃。母親はMaria Helena Chesal。
父はストラスブール劇場の俳優の息子だったが、妹Maria Johanna Francisca {Marianneと呼
ばれた} Camasse 1734-1807がバイエルンとファルツの侯位をもつDuc de Deux-Ponts,
Christian IV de Deux-Ponts-Birkenfeld 1722-75に見染められヴェルサイユで秘密結婚{1757年
9月3日、カトリック神父のFoliot von Zweibruckenによる。それまではForbach伯爵夫人として
公爵の愛人、その子供らは私生児とされ、公爵の死後に公表。マンハイム選帝侯の宮廷のフラ
ンス演劇団のダンサーをしていた16歳のMaria Johanna Franciscaと出会い恋した公爵との関係
はすでに9年経っての結婚だった}、この影響で評議員、終身年金、Bischweiler城の居住権を与
えられていた。{この叔母Maria Johanna Franciscaは、革命で財産は失ったものの、ナポレオン
宮廷でジョゼフィーヌ皇后と親しくなることで返り咲いている。尚、夫だったDuc de Deux-Pontsは
ポンパドゥール夫人の仲間だった。また彼女はディドロと親しく交友していた。72年から84年まで
彼女に仕えていた料理人Nicolas Appertは缶詰の発明者で名を残している。またジョージ・ワシン
トンへ宛てた1779年3月25日付のこの人の推薦状なども残っている。在仏中のフランクリンとも
親しく交わっていた}
 兄Carl Jacob Camasse de Fontevieux 1752頃生 は76年と81年にストラスブールで結婚している。
姉Maria Stephana 1752生、兄Francois Etienne 1753生、弟Francois Joseph 1768生 については
詳細不明。
この人は長く軍職につきアメリカ独立戦争に従軍。フランクリンの推薦状をもっており、1779年2月
付でフィラデルフィア議会に宛てた手紙では、自分を中尉として義勇兵として受け入れ、その俸給
400ドル以外は何も要求しないと書いており、要求は議会の承認を得た。この人はアメリカで
ラ・ルエリー侯の部隊に編入され、その14年後の91年にロンドンで侯爵と再会し、ブルターニュの
反革命活動にその副官として加わった。この人は同時にドイツのブラウンシュヴァイク公の副官
でもあり、反乱軍はドイツ軍と連携した。コブレンツにも度々入り、またDuc de Deux-Pontsの命
令書により、アメリカにも渡って活動した。
しかし迂闊にも、革命政府に情報を流していたシェヴテル・ラトゥシュに気を許し陰謀の諸情報を
話してしまう。これにより、ラ・ルエリー侯の活動の全てが露見し、自身も含め多くの仲間が捕ら
われることになった。シェヴテルChevetelの裏切りが分かった時に危険を察知し国外へ亡命しよう
としこの人は逮捕された。
この93年6月18日付の最後の手紙が残されている。パリに住む愛人コーシイ嬢に宛てられたもの
である。今まで他者に施した善行、自分を裁く者たちを許す言葉、また「遅かれ早かれ時の鎌は、
すべての人の頭を払い、ならしてしまうのだから」また再会出来るだろう、心からの感謝を捧げる、
人生を大切にしてくれ、と書かれている)

 
叔母・Maria Johanna Francisca Camasse 叔母の夫・Duc de Deux-Ponts,Christian IV de Deux-Ponts-Birkenfeld

28. ニコラ・ベルナール・グルー・ド・ラ・モット GROULT DE LA MOTTE (Nicolas-Bernard),50
歳。海軍大佐。サン・マロ生。
(1730-93 処刑時63歳。
旧国王軍幹部に新政府への宣誓を求めた法が施行された際に退役した元海軍大佐。ラ・
ルエリー侯の本拠地ラ・フォス・アンガンから1キロ程のサン・クロンブに所有していたラ・モット
館に居住しており、反革命活動に資金提供したとして有罪判決となった。
この日、つまり93年6月18日付の最後の手紙が残っている。
一通は、サン・マロの食料品店コンクドー宛で、弟にも、母にも、妹にも、その繊細な心を思うと
自分の処刑の知らせは手紙に書けないので、伝えて欲しいと依頼している。ドゥー・モットやサン・
クロンブの領民にも皆を愛していたと伝えてくれと書いてある。父親に自分は潔白で清らかな心
のまま断頭台にかかると伝言を頼んでいるので、父母弟妹らは健在なようだ。もう一通はブレスト
の知人宛で、他の友への伝言を託している。
GROULTという名はNormandie、Manche、Calvados、Seine-Maritimeに分布しているノルマン
系の名前。北欧での語源は解明されてはいない。1718年没のPierre GROULT de La MOTTE
はMagnanville領主で会計院のMaitre ordinaire。Magnanvilleは中西部イル・ド・フランス)

29. ジョゼフ・ガブリエル・フランソワ・ラモット・ラギヨマレー LAMOTTE-LAGUYOMARAIS
(Joseph-Gabriel-Francois), 50歳。元貴族。コントComte生。
(ジョゼフ・ガブリエル・フランソワ・ド・ラ・モット・ド・ラ・ギヨマレー Joseph Gabriel Francois de La
Motte de La Guyomarais 1744-93 ブルターニュのTregon生まれ。
反乱者ラ・ルエリー侯の死体をラ・ギヨマレー城館の敷地内に埋葬したとの情報を入手した
Lalligant-Morillonら委員たちは、遺体を掘り起こし、その首を切断し、銃剣の先に突き刺した。
その首をこの人の家族を監禁している城内の居間にもって行き、夫人{31}の足元に転がした。
「これがラ・ルエリー侯の頭でないと否定するか?」と問うとこの人は「もう否定はしません。この臆
病者 ! ケダモノめ ! 今の行為がそれを充分に証明している」と答えた。そして、妻と二人の息子
共々逮捕・連行された。父親もだと思われる。{Lalligant-Morillonは後に同じ運命を辿る。⇒2008}
父親はLa Ville-es-Comtes領主Joseph Amaury de La MOTTE-GUYOMARAIS 1721-93{下記}。
母親はDame de La Guyomarais et de la Ville-es-ComtesであるFrancoise Sainte Le FRUGLAIS
{Toussainte Le FRUGLAISとも}1720-62以前。ラ・ギヨマレー城館は1569年Mathurin Le Fruglais
が所有し、後18世紀にこの家の所有となっているとあるので、この結婚による婚資だったのだろう。
1745年生まれの妹Victoire Francoiseがいたが夭折か没年・詳細不明。
 この人は1763年Dame de Mainville,Marie Jeanne MICAULT de MAINVILLE 1741-93と結婚し、
五男二女をもうけている。共に城館から連行のは末息子の二人AmauryとCasimir。
長男Joseph Francois 1764-95は海軍大尉で91年亡命、キブロンでHector連隊副官として銃殺。
次男 Edouard Olivier 1769-1844は海軍少尉だったが亡命しコンデ軍に従軍、1814年ランバルで
結婚し、ブルターニュのPlenee-Jugonで74歳で他界。三男Felixはコンデ大公家の小姓となり、亡
命し、没年不詳だがNieuportにて亡くなっている。二人娘の内、長女 Marie Hyacinthe Pelagie
1766生 は98年ランバルでFrancois Constant COUPPE des ESSARTSと結婚している。次女
Agathe Julie 1771-1833はルイ18世、シャルル10世の王室近衛隊大尉Joseph Marie de La
MOTTE ROUGE 1770-1848と結婚し、後に陸軍少将、国会議員となるJoseph Edouard de La
MOTTE ROUGE 1804-83の母となった。
尚、この二人の娘らは、連行されなかったので、使用人らの手を借りて庭に遺棄されたラ・ルエ
リー侯の頭を城館の礼拝堂の祭壇の下に隠した。何年か後に城館に戻って来て、その間、廃墟
同然だった礼拝堂の祭壇の下を確認したが、侯爵の頭は見付からなかった。1877年、礼拝堂の
あった場所でそれは発見され、取り出すと灰化し骨の断片だけとなったが保存されている。
今日、ここは私有地だが、アメリカ合衆国大使館によりラ・ルエリー侯の碑が建てられている。
また親たちと共に連行された末の二人の息子らは、ラ・ルエリー侯の活動とは直接に関係は
なかった、あるいは処刑年齢未達として無罪となった。しかしサント・ペラジーに収監されたまま
だった。Amaury 1774生 は間もなく解放されたが第15猟騎兵連隊への入隊を命じられる。彼は
侯爵の陰謀とは無関係だと判定されたが、実は侯爵の伝言を周辺の関係者に伝える役目で
活動していたことを、通報者のCheftelもPerrinも知らなかった。彼は脱走し、ヴァンデのシャレット
の反軍に参加、初戦で戦死して果てる。末子のCasimir Francois 1776-1843は93年12月23日まで
収監されたままだったが、その後、兄と同隊に配属させられた。兄が脱走した際、共に川を馬で
渡ったが、彼は失敗した。彼は後にAnne Josephine Jeanne de LA GOUBLAYE de NANTOIS
1781-1870と結婚し一男二女をもうけている。
この下に80年生まれのCharlotte Marieと82年生まれのSevere Marieという妹が二人いたと記録
されているが前者は夭折、後者は92年早世している。
 この人と妻は処刑時に≪ vive le roi. ≫を叫んで亡くなった)

孫・Joseph Edouard de La MOTTE ROUGE  

番外・ジョゼフ・アモーリー・ド・ラ・モット・ギヨマレー Joseph Amaury de La MOTTE-GUYOMARAIS
 1721-93
La Ville-es-Comtes城館の城主であり領主。上記の父親。同日に同罪でパリにて処刑。
1758年Saint Castの戦いでの英雄の一人。La Ville-es-Comtes城の損害のため4000
リーヴルの賠償金を受け取っている。

30. フェリクス・ヴィクトル・ロケ LOQUET (Felix-Victor), 34歳。元貴族。フージュレーFougerais生。
(フージュレー侯爵ヴィクトル・フェリクス・ロケ・ド・グランヴィル Marquis de Fougerais,Victor
Felix Loquet{Locquet} de Grandville 1758-93 ラ・ルエリー侯の侍医シェヴテルの密告による
93年3月3日の捜索で、侯爵への資金支援を約束した者のリストが発見され、その中に名が
あり逮捕。
処刑後、その館や財産は没収され、幼少の息子2人が残される。96年8月市議会はこの息子ら
に館の所有権を回復させるが、2人の息子は短命で、ロケ・グランヴィルの家名は絶えた・・・と
あるが、次男のAristide Locquet de Grandville 1791-1853は下院議員となる政治家で、現在
のグランヴィル城館を建てた人物だ。長男Achille 1789生 も、La Tour-Bouvetの領有権を兄弟
合意のもと売却し、弟がグランヴィル城建設の敷地を購入したのに対してChateau de La Riviere
を購入している。
1785年ボーフォール伯爵の娘Victoire Josephe Marie Gouyon de Beaufort 1767-92と結婚して
いるが、息子は2人共に上記の通り成人している。また義父となるボーフォール伯爵は1547で94年
6月ギロチンとなっている)

次男・Aristide Locquet de Grandville  

31. マリー・ジャンヌ・ミショー MICHAULT (Marie-Jeanne), ラモット・ラギヨマレーLamotte-
Laguyomaraisの妻。50歳。ランバルLamballe生。
(マリー・ジャンヌ・ミコー・ド・マンヴィル Marie Jeanne MICAULT de MAINVILLE,Dame de Mainville,
1743{41、38とも}-93 29の妻。家族に関しては29説明参照。
父親は弁護士Francois MICAULT de MAINVILLE 1707-68。母親はJeanne Guyonne BATTAS
du CHENE。二女四男の次女。兄弟姉妹は夭折か早世している模様。
29と1763年ランバルで結婚している。
革命裁判所で外国との連絡、とりわけ亡命していた上の息子らとの連絡をとっていたことを認めて
おり、法廷を去る時に≪ vive le roi. ≫と声をあげたという。
最後の手紙が残されている。ランバルのミコー宅に住む娘らの一人に宛てられたものである。
お父様と私は天国へ、待ち望んだ祖国へ、確実に入る機会を得ましたと書かれており、あとは細々
と未払いの支払いの詳細を記し託している)

32. テレーズ・モエリアン・ドフージェールMOELIEN DEFOUGERE (Therese), 30歳。レンヌ生。
(テレーズ・ジョゼフィーヌ・ド・モエリアン・ド・トロジョリフ Therese Josephine de Moelien de
Trojolif 1759-93
父親はブルターニュ高等法院評定官{1755-1789}で士爵、Trojolif{Tronjoly}領主Sebastien Marie
Hyacinthe de Moelien 1732-93{2月14日} 母親はLa Belinaye子爵の娘Perrine de La Belinaye
1730-72。四女一男の次女だが、長女Marie-Madeleine-Victoire 1758生 はSaint-Georges de
Rennes修道院に入る。弟のCharles 1761-1802はErneの大学に入る。{Anne 1764-86という妹
については不明。父親は「私には4人の子供がいます。男の子と女の子3人です」と書いている}
母親の死後、妹のRenee Louise Marieと1773年6月フジェールの母方祖父の元へ預けられた。
祖父Vicomte de La Belinaye,Armand 1696-1777はまだ健在。{祖母Marie Therese Frainは66年
に没している} 四女二男がいたが、弟{この人の母方の叔父}Maurice-Rene-Armand de La Belinaye
1739-94は1645。姉{この人の母方の伯母}Therese de La Belinaye 1729-1808はMarquis de La
 Rouerieの母である。
1782年美しく成長したこの人はJulie de ChateaubriandとComte de Farcyのコンブールでの結婚式
に出席した。その時のこの人の美貌にシャトーブリアンは圧倒されている。
アメリカ帰りの英雄従兄のラ・ルエリー侯に魅了され、才気活発なこの人は関係を深めていく。侯爵が
Marquis de Saint Briceの娘Louise Carolineと結婚し半年後に死別{1786年。この時、この女性の治療
をしていたのは、後に裏切者となる侯爵の侍医シェヴテル}した時も、ラ・ルエリー城で侯爵の身の回り
の世話をした。革命後、その反政府活動に加担していく。共にコブレンツに行き、ベルトの中にアルトワ
伯の白紙委任状を隠して帰国したりした。しかし彼女は侯爵の侍医シェヴテルを信用してしまい、
侯爵がラ・ギヨマレー城館で病死し、そこに埋葬されたこと等を話してしまい、事件が政府に露見するに
至った。機転をきかせ協力者名簿は焼却し、多くの味方の命は救った。
処刑時、34の若いPontaviceにキスをし、軽蔑の眼差しを裁判官らに注いだ彼女の様子を共和派の
新聞は称賛さえし、群衆はその美しさを口々に三嘆していたという。
この人は従兄ラ・ルエリー侯の愛人ではなく、アメリカ人のジョージ・シャフナーGeorge Schaffner
少佐と婚約していたという。少佐はアメリカ独立の恩人ルイ16世の救済の為、フランスに渡り、陰謀
に組した。露見し、この人らが逮捕された時はロンドンにいた。またフランスへ渡り、ヴァンデ軍に従軍、
存分に恋人の復讐を果たし、94年ナントで亡くなる。またラ・ルエリーの副官であるLouis de La Haye-
Saint-Hilaireとの関係も深かったという。この人が断頭台に立つ前にその髪の束を送った相手は
シャフナーではなくこの若き副官だったからである。{この髪房はChateau de La Hayeに現在も保管
されている}
この人の最後の手紙が残されている。それは1645の説明中にある母方叔母Anne Pauline de La
Belinaye{1731-96。修道院を買い取り貧民の教育・救護施設を創設した女性}に宛てたものである。
死刑判決は私には何ほどのものではありません、何故なら捕らえられて以来味わった辛酸の数々で
人生にはほとほと嫌気が差していたから。殆ど喜びをもって死に就くので悲しまないで下さい、いつか
皆で一緒になりましょう、というものだった)

従兄・Marquis de La Rouerie,Armand-Charles Tuffin 1751-93  

33. ミシェル・ジュリアン・アレン・ピコ・リモグロー PICOT LIMOGLAUS (Michel-Julien-Alain),
59歳。サン・マロ生。
(ミシェル・ジュリアン・アラン・ピコ・リモエラン Michel Julien-Alain Picot-Limoelan 1734-93
父親はMichel Julien Picot de Closriviere 1695-1742。母親はMarie Therese TRUBLET 1706-44。
一女三男の長男。姉は26の母。弟Pierre-Joseph Picot de Closriviere 1735-1820は、テルール期
もパリに潜伏して活動したイエズス会司祭で作家として精神的指導者となり、イエズス会復活を
主導した聖職者として名高い。
ラ・ルエリー侯の反革命活動ブルトン協会に参加し逮捕・処刑された。組織の会計係をしていた。
サン・マロの名家の長男として資産の大部分を相続しており、これにナントの有産階級出の妻{下
記}の富も加わって裕福だった。セヴィニャック近くのリモエラン城館を取得すると、以後はリモエラ
ンを名乗った。
1765年Renee Anne ROCHE 1740頃-1825頃と結婚し、三男二女をもうける。次男Joseph-Pierre
Picot de Closriviere{長年Joseph Pierre Picot de Limoelan de Closriviereと呼ばれている} 1768-
1826は王立士官学校卒業後、父親であるこの人と共にラ・ルエリー侯のブルトン協会の反革命活
動に参加、革命後は1800年Pierre Robinault de Saint-Regeantと共にナポレオン暗殺計画に参加
し、22人を爆死させたが失敗しアメリカに逃亡、サウス・カロライナのチャールストンにいたサント・
ドミンゴからの亡命者の為の司祭となり、以後、自分の行いの赦しを乞う為、Closriviere神父として
La Visitation修道院で過ごした人物で、又、ミニチュアール製作者としても作品を多く残している。
 この人の93年6月18日付コンシェルジュリーで書かれた「最後の手紙」が残されており、それは
ブルゴーニュに住む娘たちに宛てたものだった。人生の最後の瞬間までおまえたちを愛していた、
そしてお母様を慰め、言うことに従ってくれと書かれている)

次男・Joseph-Pierre Picot de Closriviere  
弟・Pierre-Joseph Picot de Closriviere

34. ルイ・アンヌ・ポンタヴィス PONTAVIS (Louis-Anne), 36歳。元アルマニャック連隊将校。
モントゥールMontour生。
(ルイ・アンヌ・デュ・ポンタヴィス Louis-Anne du Pontavice 1766{65とも}-93 ラ・ルエリー侯の従弟。
1777年ドジエ・ド・セヴィニーの貴族証明を受けて王立士官学校入学。83年入隊。1786年
アルマニャック連隊中尉、90年駐屯地ソワソンにて市民宣誓。91年大尉。同年5月休暇申請が
通らず辞任。パリで2〜3ヶ月滞在の後、フジェールや父親の田舎家であるLa Brancheで隠遁
生活を送る。1793年3月30日、パリで逮捕。Francoise du Pontaviceの夫Rene Tuffin de La
Rouerie{ラ・ルエリー侯の叔父}を通して従兄だったラ・ルエリー侯と共謀し反革命活動に従事、
27のフォントヴューに従って外国にも渡っていた。3月15日にフォントヴューと共に逮捕されるが、
警察は亡命の証拠をつかめず、一度は釈放。国内に継続的に居住していた証明と良民証の提示
が出来ないという理由だった。そしてラベイに収監され、3ヶ月後に処刑。最後のお別れで、
テレーズ・ド・モエリアンからキスされたのはこの人。
父親は士爵Rene Laurent du Pontavice 1730-94頃。母親はSuzanne Anne de La Villette 1743生。
四男二女の四男とも長男とも、また三女二男の長男ともある。1765年生まれの兄Paulは聖職者で
93年フジェールで28歳にて早世。74年La Branche生まれの妹Adelaide Louiseは結婚記録はないが
1809年35歳で亡くなっている。他は夭折か没年・詳細不明。
この人は1790年Soissons{上記の駐屯地だ}でElisabeth Louise Personと結婚、二女をもうけるが、
長女は92年に夭折しており、下記の手紙に「今年の3月26日に女の子を産み、彼女{妻}の慰めに
なっています」とある通り、Elisabeth Rosalie Edouard{系図では4月25日になっているが洗礼日か}を
もうけていた。この娘はパリで生まれているので、父親が逮捕された時、一緒にいたと思える。{この
人は3月15日に逮捕され、一時釈放され改めて30日に再逮捕されたから、出産時には立ち会えた
かも知れない} この娘は1811年同族のComte du Pontavice du Bois Henry, Armand Eusebe Jean
Rene du Pontavice 1791-1860と結婚し一女を得たが1824年31歳で亡くなる。
妻エリザベト・ルイーズ・ぺルソンの父ニコラ・ジョゼフはサン・ルイ勳爵士でバスティーユ襲撃時
に亡くなっている。オルレアン公狩猟場監督官でもあった。
この人の「最後の手紙」はパリの友人バルザックと父親に宛てたものだった。前者宛の手紙には
自分の乳児を抱えた妻への心配とその世話を依頼している。財産は妻と義母名義に変更済みだ
から、心配しないようにとある。また父親宛の手紙には、やはり妻のことを託しており、また母親と
妹たちと叔母様に宜しくとある。母親の没年は不詳だが、この時期は存命だったことが分かる。
十字軍の騎士Roland du Pontaviceの一族との関連性は証明されていないが、ポンタヴィス家は
13世紀の所領の名前に由来する一族で1400年に貴族証明を得ている一族。1771年、86年、88年
にhonneurs de la courの栄誉も受けている)

35. エリクス・アレクサンドル?・ヴィクトル・トゥボー・ドラショーヴネー THEBAULT-
DELACHAUVENAIS (Elix-Alexandbe-Victor), 22歳。収税吏。ランバル生。
(29らがラ・ギヨマレー城館のラ・ルエリー侯の遺体埋葬が露見し逮捕された際に共に連行
されたテボー・ラ・ショーヴィネ Thebaut La Chauvinaisだろう)

36. ジョルジュ・ジュリアン・ジャン・ヴァンサン VINCENT (Georges-Julien-Jean), 48歳。通訳。
サン・マロ生。
(Georges-Julien-Jean Vincent 1743{45とも}-93 ラ・ルエリーの協力者。{オリヴィエ・ブランの著書
には1760-93とあるが、裁判所の処刑時年齢記録や系図の生年からして上記が正しいと思われる。
特に、45年6月19日生まれとある資料が正しければ誕生日の1日前に処刑されたことになり、年齢
は表記の通り48歳である}
サン・マロ生まれでギロチン刑死しているので、間違いなく該当。
サン・マロ・オランダ海事委員会の通訳官。ラ・ルエリー侯の主要人物と常に連携しており、その
何人かをジャージー島に渡航させたり、金品での援助を行っていた。
父親はGeorges Vincent 1703-79。母親はAnne Marie Derocq 1751没。{母親不詳とも}
三女一男の長男。長姉Helene Anne Charlotte 1738生、次姉Anne Marie Perrine 1741-71、
妹Therese Thomasse 1748-1812、皆それぞれ結婚し子をもうけている。
この人は73年Anne Antoinette Ninette Binel de La Chantelerais 1744-1805と結婚し、娘Anne
Helene Antoinette Jeanne 1776-1814{あるいは息子Jean Marie 1781頃-1859頃}をもうけている。
但し、下記の手紙では「子供たち」と複数なので、どちらもいたのかも知れない。妻を不詳にしてい
る系図もある。尚、娘の方は結婚し子をもうけている。
最後の手紙が残されている。サン・マロの「ビネル・ヴァンサン夫人宛」なので、妻の名はAnne
Antoinette Ninette Binelで合っている。
内容は「私の愛しい最愛」の妻と「愛しい」子供たちに対する惜別の思いである。「この不幸な人生が
終わっても、この世で大切だった人たちの思い出と共にいられるのなら、私は墓の彼方に、私が愛し
い子供たちと同じようにきみに捧げてきた、このうえなく優しい愛情をもっていきたい」)

1793年6月19日

37. ジャン・フランソワ・ベルローズ BELLEROZE (Jean-Francois), 31歳。靴屋。パリ生。
(偽のアッシニア紙幣の配布の罪で裁かれた靴屋との記録しかない。公的記録は処刑時のもののみ。
処刑時の記録は6月19日付だが、他の二次史料では5月19日とかになっているものもあり)

1793年7月13日

38. ジャック・ブールドラサール BOURDELASALLE (Jacques), 43歳。ワックス洗浄屋。
(Jacques Broue{Roue、Brouとも} de La Salle。オルレアン生まれ。オルレアン国民衛兵大隊副司令
でもあったが、93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と
急進派が対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件
への関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

39. ジョゼフ・イポリート・アドリアン・ビュイセ BUISSET (Joseph-Hippolyte-Adrien), 25歳。商人。
(Joseph Hyppolite Adrien BUISSET 1793年パリにて死。両親不詳、詳細不詳としか系図にはない。
Joseph-Hippolyte-Adrien Buissotともある。オルレアン国民衛兵猟兵で商人。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

40. フランソワ・ブノワ・クーエ COUET (Francois-Benoit), 50歳。取引仲介人。
(オルレアン国民衛兵隊猟兵。取引仲介人。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

41. ジョゼフ・アンリ・セレ・デュヴィヴィエ CELLET-DUVIVIER (Joseph-Henri), 39歳。商人。
(ジエ・デュヴィヴィエGillet-Duvivierとも。オルレアン国民衛兵隊擲弾兵。靴下商人。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

42. ジャック・ニコラ・ジャケ JACQUET (Jacques-Nicolas), 25歳。
(オルレアン国民衛兵隊擲弾兵中尉。le jeuneと呼ばれていた。
1797年刊の「フランス革命中の犯罪史」にはオルレアン生まれ、無職、27歳、7月12日刑死
とあるが、7月13日が正しい。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

43. シャルル・フィリップ・モンヌリーヴ MONNELIVE (Charles-Philippe), 30歳。商人。
(シャルル・フィリップ・ノンヌヴィルCharles-Philippe Nonnevilleとも。オルレアン国民衛兵隊大隊長。
年金生活者ともあり。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

44. ジャン・パティスト・プーソワ POUSSOI (Jean-Baptiste), 42歳。
(ジャン・バティスト・プーソ Jean-Baptiste Poussotとも。
後者クネルの伝記「Un musicien orleanais sous la Terreur : Jean-Baptiste Quesnel, 1755-1793」
{1910年}の中の注釈には、オルレアンの徴兵に応じ、オルレアンの軍代官となった、とある。そこ
にはPoussotとなっている。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

45. ジャン・パティスト・クネル QUESNEL (Jean-Baptiste), 38歳。音楽家。
(「恐怖政治下のオルレアンの音楽家Jean-Baptiste Quesnel 1755-1793」という本が1910年
C. Migaultによって著されている。サント・クロワの合唱団に熱心で、1776年から93年はオルレアン
の声楽音楽家として活動していた。シャルトル生まれ。父親は「擲弾兵」と渾名されていた人物
で、ダリーグルd'Aligre議長の衛兵をしていた。{ダリーグル侯の狩猟地番人。1781年この人が
結婚する頃にはすでに他界}。母親はJeanne Lebret。長男だった。
15歳でシャルトル大聖堂の少年合唱団員となり、74年50リーヴルの賞金を獲得している。この頃
の音楽指導者は、かのMichel DELALANDEだった。
76年オルレアン大聖堂の声楽音楽家となる。週12リーヴル、年間624リーヴルの並みの給与
である。81年5月Marie-Catherine Timonierと結婚。
86年大聖堂の「高貴な音楽家」であるFrancois MERY が低い身分のこの人に侮辱を受けたという
苦情が記録されているので、幾分、激しい気性だったと見られる。
下記の事件の時はたまたま夜勤の警邏当番だった。事件後自宅で逮捕されている。
93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある)

46. イアサン・モンクール IASSIN-MONCOURT, 39歳。
(ピエール・オーギュスタン・シャルル・タッサン・モンクール Pierre-Augustin-Charles Tassin-
Montcourt 羊毛商人。三部会オルレアン・バイイ裁判区選出貴族議員。
Pierre Augustin Charles Tassin de Montcourt 1754-93 オルレアンのSaint-Donatien生まれ。
父親はオルレアン公爵領河川森林改革総監督官Charles Francois Tassin de Charsonville
{又はTassin de Montcourt} 1723-1804。オルレアンの実業家で多くの資産を有した裕福な人物。
1754-57までオルレアン市長にもなっている。また画家Jean-Baptiste Perronneauの保護者で、下画
は1766年彼が描いた肖像画。母親はMarie Anne Colas des Francs 1727-70。
 タッサン家は14世紀の終わりにはこの地方で知られていた一族で、1429年ジャンヌ・ダルクと共に
オルレアンの解放に加わったと言い伝われている。砂糖の精製の商業活動により17世紀にはオルレ
アン有数の富を築いている。18世紀を通じて「オルレアンの砂糖」は名高かった。槍試合で有名なモン
ゴメリー家やデュルフォール・ロルジュ家の領地を買い取り土地・城館の資産を増やしている。
三女五男の長男。長姉Marie Anne 1750-1807はオルレアンで結婚し二女一男をもうけている。次姉
Marie Hortenseは1819年結婚記録なしで没している。弟Guillaume Athanase Tassin de Villiers 1756-
1836はオルレアン副市長で、帝国商工会議所総評議官となる。弟Robert Louis1758-95は聖職者。
弟Louis Francois Regis Tassin de Beaumont 1761-1806は86年結婚し一女をもうけている。弟Pierre
Aignan Stanislas Tassin de Montaigu 1762-1849は騎兵連隊大尉、妹Pauline Marie Justine Fortunee
1764-1834は結婚記録なし。
この人は80年Felicite Elisabeth Le Clerc de Douy 1764-1846とオルレアンで結婚し、一男二女を
もうけている。
長男Charles Francois Tassin 1783-1851は、上記の叔父Guillaume Athanaseの娘{つまり従妹}Marie-
Rose-Aimee Tassin de Villiers 1793-1865と結婚し、共に成人する二女をもうけている。次女の夫となる
Napoleon-Frederic-Theodore Thomas 1803-68の家に下掲載の画二点が「義父母」として保存されて
いるようで裏面にその旨の記銘があるらしい。{「義父」であるこの息子の画は、年代的に少し古いよう
な気もするが}
長女Anne AglaeTassin 1785-1842は1803年親戚のオルレアン商人と結婚し一女をもうけている。
次女Adelaide Tassin 1789-1861の結婚記録はない。オルレアンで生まれ同地で没している。
 93年3月16日国民公会議員Leonard bourdonがオルレアンに派遣された際、穏健派と急進派が
対立する渦中の路上で国民衛兵や市民に襲われて負傷する事件があったが、この事件への
関与者として告発されている。「3月25日、26人のオルレアンの国民衛兵および商人に対して
逮捕状が作成され、5月5日それらの内13人は、コンシェルジュリーに投獄。6月28日、7月12日の
革命法廷で裁かれ9人に死刑判決、ギロチンで 1793年7月13日処刑された」とある。
428の伯母の嫁ぎ先のタッサン家や827、826のタッサン家とは違う。この人はTassin de Charsonville系
でタッサン家では本家筋である)

 ...........................................父・Charles Francois Tassin
Pierre Augustin Charles Tassin

 
長男・Charles Francois Tassinとその妻・Marie-Rose-Aimee Tassin de Villiers

1793年7月14日

47. フランソワ・グイヨ GUYOT (Francois), 36歳。古物仲買人。 モーノワMaunois生。
(偽アッシニャ紙幣製造事件に関与した為に処刑)

1793年7月17日

48. マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー CORDAY (Marie-Anne-Charlotte), サン・サテュル
ナン・リニュレSaint-Saturnin-Lignerets生。
(1768-93 ジャン・ポール・マラーの暗殺者。
父親はラ・フェール歩兵連隊中尉Jacques Francois de CORDAY d'ARMONT 1737-98。母親は
Charlotte Marie Jacqueline de GAUTIER des AUTHIEUX de MESNIVAL 1737-82。{祖父のJacques
 Adrien de CORDAY d'ARMONT 1704生 は95年90歳で亡くなっている}
劇作家コルネイユの五代目の母系子孫。{上記の祖父Jacques Adrien de CORDAY d'ARMONT 1704-
95の母親Francoise de FARCY 1682-1765が、劇作家ピエール・コルネイユの娘Marie Francoise
CORNEILLE 1642-1721とアランソン会計院財務部長・国王評定官Jacques Louis Adrien de FARCY
士爵の娘、という家系。曾祖母がコルネイユの孫娘、ということ}
兄Jacques Alexis 1765-1809は1803年結婚し一男をもうけた。姉Jacqueline 1767-74は早世。弟
Charles-Jacques-Francois 1769-95は92年Brabantに亡命、亡命軍に参加、キブロン作戦でオーレイ
の戦いに参加、ソンブルイユや165人の兵士と共に銃殺されている。妹Eleonore 1770生 は夭折か詳
細なしだが、妻の死に対処できなくなっていた父親により彼女は「妹と一緒に」カーンの修道院に入れ
られたので、この妹であると思われる。
{以下、日本語WiKi編纂より}
その美貌から、暗殺の天使と呼ばれた。最後は断頭台へと消えたが、その途上の彼女の儚さに恋した
男性も多かったという。{後を追うように4ヶ月後、「彼女と同じギロチンの栄誉を受けたい」と熱望して
処刑された154のアダン・リュクスのような者もいた}
三大古典詩人の一人、コルネイユの子孫である貧乏貴族の娘として、ノルマンディー地方ヴィムティエ
近郊サン=サチュルナン=デ=リニュリ (Saint-Saturnin-des-Ligneries) に生まれたが、母と死別した
13歳のときに修道院に入った。 読書を好み、ルソーなどを読む物静かな女性であったと言われている。
特に、プルタルコスの『対比列伝』や、先祖コルネイユの著作を好んだという。やがて、革命政府により
修道院が閉鎖され、シャルロットは叔母のブルトヴィユ{ブルトヴィルBretteville}夫人{Madame Le
Coustellier de Bretteville-Gouville}のもとに身を寄せた。
 革命を過激に推進するジャコバン派を嫌悪し、ジャコバン派との政争に敗れたジロンド派を支持する
ようになる。カーン市に滞在中、パリでの抗争に破れ逃亡してきたペティヨンやバルバルーらジロンド派
議員との接触の後、フランスのためにマラーの殺害を計画した。
1793年7月9日、叔母の家から、パリに単身上京した。7月13日、人民のために門戸を常に開いていた
マラーを訪ね、彼らに対して陰謀がめぐらされていると言って傍に近づいた。皮膚病を患っていた
マラーは、浴槽からそれを聞いていたが、彼女が隠し持っていた包丁で心臓を刺され絶命する。
彼女はその場で逮捕され、17日、革命裁判で死刑の判決を受け、その日のうちにギロチンによって
処刑された。{WiKi以上}
下画はダヴィッドの弟子で国民衛兵隊中尉でもあったドイツ系のHauerによるもので、処刑直前の
彼女を描いたものだが、この時も彼女は普通に世間話を画家と交わし、画家も付き添いの憲兵も、
その時が処刑前の一時であることを忘れたという。
またフーキエ・タンヴィルは裁判で彼女に好意的な態度をしていた部下のモンタネを長々と叱責してお
り、執行命令を出すのも忘れ、そのため、画は滞りなく完成する時間的余裕を得た。
 処刑人サンソンは処刑所までの搬送車の中で、何度も彼女に目をやっていた。回想録に彼はその
時のこと書き残しているが、彼女のその美しさによるものではなく、彼女が精神的に挫けてしまうその
一瞬を心配してのものだったという。しかし、彼女は二時間もの間、ついに平静さを保ち続けたと感服
している。
またシェニエ{2532}も「きみだけが雄々しい人間であり、人類の為に復讐を遂げた」と長詩を捧げた。
処刑後、ギロチンの台座の下に潜んでいた男が彼女の首を掲げて、その頬に平手打ちをしたが、見
物人たちは男に怒声を浴びせ掛け、男は捕らわれ処罰された。{処刑人助手がこの暴挙を行い、サン
ソンは即刻、その助手を解雇したという話もあるが、それはサンソンは否定している。実際はギロチン
台の修理大工のLegrosという人物らしい}
またマラー暗殺の動機を当時の「世紀の好み」として、恋人の復讐劇とする噂も出ていた。例えば、89
年カーンでブルボン連隊少佐として勤務していたHenri de Belzunce子爵 1765-89など、高慢で市民
から嫌われていたが、暴動で虐殺され、首はもちろん身体を切り刻まれた。彼女はこの子爵の恋人
だと揶揄されたりもしている。また南仏生まれで魅力的なジロンド派の追放議員Charles Jean Marie
Barbaroux 1767-94{ボルドーでギロチン刑}なども、彼女との恋仲が噂されているが、どれも見当違い
であるという)

 .........................
Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont.................................恋人と噂されたが根拠ないVicomte de BelzunceとBarbaroux

49. ルイ・シャルル・マレルブ MALHERBE (Louis-Charles), 20歳。カーンCaen生。
(ルイ・シャルル・ド・マレルブ Louis Charles de MALHERBE 1773-93 元歩兵士官の貴族。
父親は国王近衛軽騎兵Jean Francois Pierre de MALHERBE 1819以降没。母親はMarie Elisabeth
Dorothee de NEUVILLE。
弟にFalaiseの国民衛兵中尉Louis Pierre Auguste de MALHERBE 1819以降没 がいる。
亡命者として処刑された。カーン出身であるし、前者シャルロット・コルデーとの関係あると思われるも
不明。但し住まいはパリ。Casimir Perier「La Jeunesse de Charlotte Corday」{1862}の中で、著者の
母方親戚の老女が若き日のシャルロット・コルデーと文通しており、その内容の紹介の中で1792年3月
に彼女からその友人に送られた手紙の文中に「Malherbe夫人と一緒にMalmonte夫人が地方に行って
しまい、私は誰に頼れば良いか分かりません」という一文がある)

50. ジャン・パティスト・モロー MOREAU (Jean- Baptiste), 26歳。パン屋。パリ生。
(1786年11月10日付で、パリのパン屋Jean Baptiste MOREAU、Marie Anne SPICQUE、死亡により、
子供PierreとJean Baptisteの後見人を解除するというパリの公文書がある。しかし該当年でこの人
は19歳前後だから、これが当人に関わる記録かは断定できない。別公文書には、1780年5月26日付
の公証人Pierre PAULMIERの記録にJean Baptiste Morauの妻Marie Anne Spicqueの死後の目録が
ある。もしかしたら両親という可能性もある)

1793年7月20日

51. エティエンヌ ETIENNE, 30歳。仕立屋。
(エティエンヌ・ペコ Etienne Becot ?
オテル・ド・ソワソン跡地に1767年に完成した円形ホールは中庭を木製の円天井で覆う工事が
行われ83年完了、パリの中心部に穀物と小麦粉の貯蔵施設Halle aux blesが誕生した。そこが90年
Section Halle-aux-Blesとなった。そこに居住者として、1793年仕立屋エティエンヌ・ペコEtienne Becot
という者がおり、「99番地。以前はOrleans通りに居住。リエージュ生まれで9年前にパリに転入。93年
1月〜3月までSection Halle-aux-Blesの身分証明書、93年2月21日同地区の"Cartes blanches"{革命
委員会により地区で発行される身分証明書の種別}を登録、93年7月20日まで」とある。93年7月20日
はこの人の処刑日である。また、ただ「ETIENNE」のみの処刑者で、パリ在住石切り工taille de pierre
{仕立屋はtailleur}はアッシニア紙幣の偽造で逮捕、処刑されているが、処刑日は1793年5月17日の
日付)

1793年7月23日

52. ジョゼフ・マズリエ MAZELIER (Joseph), 30歳。 ムザックMezac生。
(Mazellierとも。王室ピエモン連隊の元大尉で貴族。カステル・ジャルーCastel-Jaloux在住。亡命者
として処刑。騎兵とある。どの資料も上記以外の情報はなし)

1793年7月25日

53. コクロー・ボワベルニエ COQUEREAU-BOISBERNIER, 64歳。元貴族。アンジェ生。
(フランソワ・シャルル・コクロー・デュ・ボワベルニエ Francois-Charles Coquereau du Boisbernier
1729-93 元ヴェルマンドワ歩兵連隊士官。アンジェのSainte-Croix教区生まれ。
父親はアンジェの大地主で次席検事のBoisbernier領主Francois-Charles Coquereau。母親はMarie
-Renee Poulain de Cintre。{同世代にHenry Pierre Marie Poulain de Cintre 1728-90やHenry Rene
Poulain de Cintre等がアンジェにいる}
1759年Chateau du Boisbernierの教会でChevalier du Boisbernier, Jean CoquereauとAnne Menage
の娘で従妹Marie-Anne-Francoise-Perrine Coquereau du Boisbernierと結婚。ヴェルマンドワ歩兵
連隊で士官だったが、革命勃発時はアンジェのBoisnet通りに居住していた。
93年3月17日Chateau d'Angersで逮捕されPetit Seminaireに移送されたが5月20日には釈放。
ヴァンデ反乱軍がアンジェに駐屯した1793年6月17〜25日の間、同都市にいた。6月17日にヴァンデ
軍が刑務所から解放したCongrier司祭のRoyne,Sceaux-d'Anjou司祭のPeltierは7月2日に
Savennieresの彼のChateau de La Forestrieに匿われた。7月9日Fabrefonds将軍の革命軍にアンジェ
の自宅が捜索され、夫人が受け取ったばかりの夫からの手紙を押収する。「アンジェの家には何も
残さず、Savennieresに来るように。自分は森の中に隠れる」と書かれていた。それと同時にNoelletの
聖職者Chauvelier神父のChateau du Boisbernierで提供された隠れ家への感謝の手紙{1791年付}や、
スペインに逃げたLa Jaille-Yvonの司祭の手紙{1792年12月10日付}、同じNoelletの検察官Bazinからの
感謝の手紙{1793年6月27日付}等も押収されてしまう。
この人は逮捕され7月10日に尋問された。夫婦は収監された。この人は続いてコンシェルジュリーに
移送される。そして宣誓拒否の僧侶、貴族、狂信的女性を擁護した罪と反乱軍への協力により処刑)

1793年8月1日

54. ピエール・モーリス・コリネ COLLINET (Pierre-Maurice), 39歳。元貴族。元中将。エピナル
Epinal生。
(ピエール・モーリス・コリネ・ド・ラ・サール Pierre-Maurice Collinet de La Salle 1753-93
ド・ラ・サール・シューヴィルde la Salle Chouvilleと呼ばれていた。Epinalの代官。
父親はJoseph Gabriel Collinet de La Salle 1716-1804。母親は LorraineとBaroisの森林長官の娘
Baronne de Redoubte,Marguerite Redoubte 1725-63。四男二女の次男。
兄Charles Francois Joseph 1751-1804以降 は侯爵ともあり、Dompaire -La-Vievilleの総督で72年
Anne Julienne Antoinette de Launoy 1756-1840と結婚、四男一女をもうけた。
妹は74年Claude Charles Nicolas de Launoy 1748-1830{長兄の妻の兄}と結婚し、一男一女を得る。
弟Gabriel Louis 1757-1847は78年ションベール竜騎兵連隊少尉、戦時国王経理官で78年Marie
Sophie Contenot 1761-1838と結婚、三女二男を得た。他の兄弟姉妹は生年のみ。
この人は78年Sainte-CroixでTherese Josephine Regnier de Chonville 1756-1831と結婚したが、
どちらかが綴り相違か? 93年当時、2男2女がいるが、一番下の娘は生まれたばかり。子供らは
成人しても早世しており、末男のCharles Nicolas Edouard Antoine 1786-1862だけが結婚し一女を
もうけている。
亡命者へ資金援助したとして処刑されたが、「義姉妹」に1040リーヴル送ったとある。妻Therese
Josephine Regnier de Chonvilleには、72年Louis Joseph Bazelaireと結婚している姉Charlette 1753-
1844と妹で91年Jean Charles Thiebaut de Valentinと結婚しているAdelaideがいる)

1793年8月2日

55. ジャン・パティスト・クロード・トゥールティエ TOURTIET (Jean-Baptiste-Claude), 66歳。元貴族。
オルレアン生。
(Lowendal連隊に所属していた。オルレアン近くのBeaugency生まれとも。地方住民の恐怖心を煽り、
共和国の転覆、王政の復活を企んだ罪で処刑とある。その他、de Tourtierも含め情報なし)

1793年8月7日

56. アンドレ・ジューア JOUAS (Andre), 32歳。憲兵。アヌネイAnnenay生。
(ジョナス Jonasとも。元フランス衛兵隊員。第29師団の騎馬憲兵。国王処刑の報に触れた際に、
パリのカフェで多くの人を前にして、腕を振りかざして共和国への奉仕を否定した。そしてまた国王
処刑の復讐のためルーアンに行くとある市民に公言した)

1793年8月14日

57. シャルル・ジョゼフ・レスクイエ L'ESCUYER (Charles-Joseph), 49歳。野戦総監。アンクール
Haincourt生。 ⇒アニクールHagnicourt(シャンパーニュ・アルデンヌ)
(ダニクール侯爵シャルル・ルイ・ジョゼフ・ド・レスクイエ Marquis d'Hagnicourt,Charles Louis
Joseph de L'Escuyer 1741{43とも}-93 国王軍野戦総監。革命軍准将。
父親は士爵Antoine de L'Escuyer 1705-68{1729年ポワトゥー連隊歩兵大尉}。母親はClaude Ange
Louise Beatrix de Montguyon 1721頃-43。{父親は死別後Antoinette Gabrielle Angelique de
Chartognesと再婚している}
どの系図でも見る限り兄弟姉妹はいない。
ベルギーで軍事経歴を始め、野戦総監、騎兵大将major generalとなる。92年、革命政府がプロイ
セン・オーストリアと開戦するとフランス軍に参加。騎兵大尉、次いでアルゴンヌで中佐となる。後、
デュムーリエによって北部軍の憲兵騎兵指揮官・准将となった。
しかしデュムーリエが謀反し、公会議員らを捕縛した事件に連座{デュムーリエが残したフロックコート
のポケットに彼の手紙が見付かり嫌疑が濃厚になった}、権限を剥奪されて逮捕される。同じく貴族
ゆえにデュムーリエとの共謀を疑われ逮捕されたFerrand将軍は、なんとかテルミドール反動まで
ギロチンを免れたが、この人は、貴族でもあり、息子は亡命しているし、デュムーリエとの共謀容疑
への抗弁も空しく処刑となった。Hagnicourt村の中心にあった彼の城館も破壊された。
結婚は、4回もしくは3回で「関係」が1回と諸説あり、子供の名と母親名も入りくりが見られる。
関係{あるいは結婚とする資料もあり}として国王軍擲弾兵大尉の娘Angelique-Francoise de
Champagneとの間にGabrielle Angeliqueという一女あり、1805年ロンドンで Robert Adairという英国人
と結婚している。1762年Jeanne Marie Francoise de Saint-Quentin 1764没 と結婚し一女Antoinette
 Gabrielle Angeliqueをもうけ、この娘は79年コンデ軍の将校となるBaron du Bois d'Escordal,Nicolas
Francois Marie 1795没 と結婚し一男二女をもうけている。この夫は息子と弟と共に90年亡命し、トリ
ノのアルトワ伯に加わり、コンデ軍の将官補佐となるが、オランダのBeterzielで負傷し、共和国軍に
捕らわれ銃殺されている。65年頃Louise Christine Henriette Rose du Rochevetと再婚、一男 Ponce
 Antoine 1768生 をもうけた。この息子は王軍に仕え竜騎兵大尉となり、90年亡命しコンデ軍に従軍
している。73年王室工兵隊大佐Baron de Bezangeの娘Marie Lamy de Bezange 1753-1833と再婚し、
四男一女をもうけた。長男Pierre Louis Marc Charles 1774生 は、フロッテ指揮下のノルマンディー
での反革命軍に従軍している。次男Charles Marc 1776-96{95とも}はコンデ軍に従軍。三男Charles
{Charles Bernard?}はde Villelongue de Vigneux嬢と結婚している。四男Ponce Antoine Eugene
はVicomte de Cramailleの次女Louise d'Avennesと1811年に結婚している。長女Angeliqueはde
Frenoyと結婚している)

1793年8月27日

58. アントワーヌ・ボルディエ BORDIER (Antoine), 40歳。運搬人。ヌヴェール生。

59.アルマン・ジュール・ブルモン BREMONT (Amand-Jules), 30歳。請負人。 ヴージエール
Vouziers生。
(乗合船請負業。アッシニア紙幣の偽造に関与し処刑。セーヌ・エ・マルヌのChampigny生まれとも。
恐らく61の仲間。61内容参照。8月17日Nicolas-Francois Meaux de Saint-Marcという人物が恩赦
を申し立てているが公会に否決されたとある。この人物は62の兄弟の内の一人と思われる)

60. ジャン・フランソワ・ユールトー HEURTAUX (Jean-Francois), 29歳。製車工。アルクイユ
Arcueil生。

61. ジャン・ドミニク・ロキーユ・リュータール LIEUTARD (Jean-Dominique-Roquille), 37歳。文
学者。メッツ生。
(ジャン・ドミニク・ロキーユ、通称リュータール。リュートーLieutaudとも。偽アッシニャ紙幣に関与
した罪。
⇒ジャン・ドミニク・ロキーユ・リュートー Joseph Dominique Roquille Lieutaud 1756-93 文学者で
戯曲の作者。428のPoupart Beaubourgによる告発で後者Meaux de saint-Marc, Juillet de
Sermesse{? Sermesseはブルゴーニュの町}, Villot de Richemont{?}と共に逮捕され処刑される。
父親はJean-Baptiste Lieutaud 1725生。母親はRoquille{もしくはRauquille}某。
庶子である。父親の正式の妻は1782年{57歳だが}に結婚したMarie-Claire Catherine Lieutaud
1751生 で、Jean-Baptiste Lieutaudという息子がいる。
英語作品の翻訳をしている。Champignyの偽造者{Bremont, Juillet他}の仲間、とある。恐らく
Champigny生まれの59のAmand-Jules Bremontなどのことだろう。Juilletは不明)

62. ローラン・モー・サン・マルク MEAUX SAINT-MARC (Laurent), 36歳。貿易商。パリ生。
(シャルル・ローラン・モー・ド・サン・マルク Charles Laurent Meaux de Saint-Marc 1757-93
Champignyでの偽アッシニャ紙幣に関与した罪で処刑。前者共犯。
両親の姓名も結婚相手の姓名も不詳。兄弟として二人は確認されている。Nicolas Francoisは1788
年Marie-Madeleine Hiardと結婚しており、Francois Isaacはパリの金融商でAmelie Francoise Serret
と結婚している。
 59の恩赦申し立てをしたNicolas Francois Meaux Saint-Marcは兄弟なのだろう)

63. ルイ・ジョゼフ・ヴァロン WALLON (Louis-Joseph), 42歳。 外科医。ドリニーDorigny生。
(1781年6月30日付のパリの公文書記録に、「外科医Louis Joseph WALLONとGenevieve Henriette
CHARLESとの結婚」の記録あり)

番外・有名なキュスティーヌ将軍、Comte de Custine, Adam Philippe 1740-93は8月28日パリにて処刑だが、このリストにはない。
息子は284にあり。

1793年9月4日

64. クロード・ローラン LAURENT (Claude), 19歳。兵士。ラングルLangres生。
(Haute MarneのLangresには同時期のLAURENT姓が散見される)

1793年9月6日

65. ジョルジュ・ミシェル・オーモン AUMONT (Georges-Michel), 42歳。代訴人。ルーアン生。
(1751-93。9月5日処刑とも。ルーアンの陰謀の共犯者として処刑された法律家。王党派弁護士で
国王に有利になる署名活動をルーアンの人々に求めた。ルーアンのLa Rougemare広場18番地
在住で、広場と自宅で反革命集会を開き、多くの市民を巻き込み、署名台を用意し、白い徴章を
身に着け、国民徴章を市民から剥ぎ取り、それを踏みにじった。自由の木も倒して燃やした。また
70のル・クレールの印刷し配布した反革命的住所録{VIVE LE ROIと書いた後に市民に署名させた
}の草案者であるとされる)

66. フランソワ・ボルタン BOLTINS (Francois), 21歳。大工。 ブードヴィルBoudeville生。
(フランソワ・ボッテ Francois Bottaisともあり。La Boissiere de Saint-Martin-le-Blanc在住の製粉
業者とも。69のアンリと共に敵対する市民らに過激な行動をとりながら活動していた)

67. ピエール・ドラロンド DELALONDE (Pierre), 22歳。 奉公人。ドヴィルDeville生。
(ルーアン在住。ラ・ルージュマール広場での反革命的群衆の一人。ジャコバンクラブ員である市民
Rupalleyに暴力をふるい、エコール通りまで追いかけて、彼を吊るそうとした)

68.ジャック・ユドリーヌ EUDELINE (Jacques), 32歳。奉公人。カンポーCampeaux生。
(ルーアン在住。白い徴章を着け、ラ・ルージュマール広場で杖や傘や棒で通行人を脅し、国民徴章を
着けた人を追い回し、それを引きちぎり踏みつけたという。市民Decrenyの使用人)

69. ジャン・パティスト・アンリ HENRY (Jean-Baptiste), 通称ラシャンブルLachambre。 18歳。仕
立屋。オーマールAumale生。
(通称La Chambre。65のオーモンの反革命的集会に積極的に参加し、多くの市民に署名を奨め、
署名台の横に立ち、字の書けない人の手伝いをし、国民衛兵隊が集会を解散させようとすると、
VIVE LE ROIを叫んで、逃げる市民を罵倒した。また、ラ・ルージュマール広場の「自由の木」を鋸で
切り倒した、という。白十字の看板をつけた衣服仕立屋を営んでいた)

70.ジャック・ル・クレール LE CLERC (Jacques), 32歳。ルーアンのクロニック誌代表。ウール県生。
(印刷販売業。上記の者たちのラ・ルージュマール広場での反革命集会での草案を印刷。また主宰
するクロニック誌の記事は、Dumoulinetという者の記事を載せたまでと主張したが、そのような人物
は見付からなかったので、この人自身が起稿したものと断定された。
ウール県のPont-Audemer出身。

71. ジョゼフ・フランソワ・モーベール MAUBERT (Joseph-Francois), 18歳。奉公人。シャンジュ
ノトーChanjenoteux生。
(1月11日のラ・ルージュマール広場での反革命集会に加わっていた一人で、国民衛兵がオーモン
の自宅に来た時、ことさら大声でVIVE LE ROIを叫んで抵抗した。弁護士Guillebeauの使用人)

72.オーバン・メリメ MERIME (Aubin), 34歳。御者。サン・トーバンSaint-Aubin生。
(オーバン・メリメ Aubin Merime 奉公人。元王妃連隊大尉だった市民Derval-d'Angevilleの馭者。
1月12日のラ・ルージュマール広場での反革命集会で、徴章を外すよう市民らに強要し、仲間と共に
拒む市民らを追い駆け回した)

1793年9月7日

73. ジャック・コンスタン・トンデューティ・ラバルモンディエール TONDUTI LABALMONDIERE
(Jacques-Constant), 42歳。中尉。ルーアンLouhans生。
(Touanne生まれとある。ジャック・コンスタンタン・トンデューティ・ド・ラ・バルモンディエール Jacques
Constantin Tonduty de La Balmondiere 商人で歩兵中尉。亡命者として逮捕・処刑。
植民地部隊の将校登録記録に、Jacques Francois Tonduty de La Balmondiereあり。1761年3月13日
Bage-le-Chatel en Bresse生まれ。1781年8月16日砲兵員数外候補生、1782年9月1日王室砲兵隊
員数外第二中尉、1783年5月25日第二中尉、1784年11月1日または1785年4月29日、植民地王室砲
兵第二大尉、1792年7月サント・ドミング赴任。
LouhansとBage-le-Chatelは30〜40キロの位置関係)

1793年9月8日

74. カトリーヌ・ルイーズ・オノリーヌ・リュファン RUFFIN (Catherine-Louise-Honorine),エドー
Hedouの未亡人。31歳。仕立屋。ルーアンRouen生。
(Drieuの妻とも。⇒Jacques-Francois-Thomas Hedonの未亡人で、元Pelletier商人であるPierre-
Louis Drieuxの妻。Petit-Molevrier在住。婦人服業。
上記のラ・ルージュマール広場での反革命集会の時、解散を命じにきた国民衛兵に対して、暴言
を浴びせて、拳を振り回した。裁判時、妊娠を主張するも、検査の結果、それは否定され刑は執行
された)

1793年9月11日

75. ジャン・シャルル・バン BAIN (Jean-Charles), 40歳。執達吏。アングランドIngrandes生。
(Mayenne et Loire県アンジェに住んでいた執行官huissier。反革命容疑で逮捕・処刑。原文
にも出生地はIngrandesとなっている。フランス西部Nouvelle-AquitaineのVienneの町、もしくは
同じく西部のMaine-et-Loireの町であるが、居住地だったアンジェに近いのは後者)

76. ジャック・コーヴェ CAUVET (Jacques),料理人。 サン・ピエールSaint-Pierre生。
(偽アッシニャ紙幣に関与した罪にて処刑。行政権執行記録にはJacques Cauvetの処刑の為の
軍の出動は9月10日となっている)

1793年9月13日

77. クロード・フランソワ・ベルジェ BERGER (Claude-Francois),65歳。ラ・シャリテLa Charite生。
(La Charite小郡のLa Ferte-sous-Jouareの生まれ。土地所有農民cultivateur proprietaire。ニヴェ
ルネ出身者処刑一覧には名がある)

1793年9月19日

78. フランソワ・ビネ BINET (Francois), 25歳。ジャルJarr生。
(偽アッシニャ紙幣に関与した罪で処刑。国立公文書館の資料では1793年9月18日に、この人と
80の処刑の為の軍の出動要請記録が残っている)

79. ルイ・レヴェク LEVEQUE (Louis), 58歳。モルテン選出議長。モルテンMortain生。
(ルイ・ルヴェク・ド・サン・バルテレミー Louis LEVEQUE de SAINT-BARTHELEMY 1735頃-93
ノルマンディーのMortain郊外のRocher生まれ。{作家Jerome David Salingerは一兵士として
激戦地ユタ・ビーチからの上陸作戦を生き抜いてフランスを転戦、このMortainでのドイツ装甲
師団との1944年8月の「モルテン血戦」でPTSDとなったと娘に語っている}
所有している土地Saint-Barthelemyはモルテンと4キロ程度の場所。モルテン選出議長{1760〜
1780}であった。また亡命者の代理人をしており処刑の原因となった。
父親はモルテン・バイヤージュ裁判区の林野監督官で国王評定官Nicolas LEVEQUE du VERGER 。
母親はMarie-Anne d'ARCLAIS de MONTAMY 1745没。1782年没の兄でルーアン高等法院弁護士
で国王評定官だったNicolas II LEVEQUEがいた。この兄には58年結婚したMarie Anne RAQUIDEL
1723-75との間に一女がいた。
この人は1759年MortainでMarie Anne Francoise GRIHAUT 1740頃生 と結婚し、やはり一女 Marie
Anne Charlotte 1763生 がおり、85年国王評定官Augustin Claude Richard de POLINIERE 1753生 と
結婚、Louis Marie Arsene de POLINIERE 1786-1845をもうけている。別に息子とPepin du Feugeray
夫人となった娘もいたようである。
息子の義父はAntoine Chaudeboisで、亡命が懸念されるこの人の息子を共に捜索するよう命じられ
ていたが、息子は見付からなかった上、この義父も亡命者支援容疑で逮捕された。カーンの反革命
勢力とも連携していたと疑われている。上記娘のLouis Marie Arseneも逮捕・拘留されている。しかし
93年6月20日にChaudeboisが、7月24日に娘は無罪釈放となった。しかし家宅捜索で没収された1793
年1月21日付の手紙で1200リーヴルを亡命者の息子へ送ったとされこの人は執拗に審問される。
パリに移送される際もCoutances通過時に、丁度当地で起きていたジロンド派の反乱で解放されそう
になるが、それも革命裁判所の心証を悪くさせただけの事件だった。8月16日パリに着くとすぐにコン
シェルジュリーに収監された。裁判の席の発言によると息子は33歳で89年に結婚・独立をしていると
ある。また弁護人は息子から要求された1200リーヴルもこの人は拒否している、と語った。しかし、
結局は死刑判決となってしまった。
尚、この「息子」については、娘のみ系図もあるが、載せている場合は生没年不明でJean-Louis-
Francois LEVESQUEとあるのみ。Comte de Saint-Barthelemyと名乗っていたようだが、その肩書は
正式なものではなく、またその後、生き延びたかも不明とある。
国立公文書館の資料では1793年9月19日に、この人の処刑の為の軍の出動要請記録が残っている)

80. フランソワ・モティエ MOTTIER (Francois), 47歳。行商人。パリ生。
(MOTTIETとも。78同様、偽アッシニャ紙幣に関与した罪で処刑。
国立公文書館の資料では1793年9月18日に、この人と78の処刑の為の軍の出動要請記録が残って
いる)

81. アントワーヌ・ソワイエ SOYER (Antoine), 50歳。煙突掃除夫。ルーアン生。
(上記のルーアンの1月12日のラ・ルージュマール広場での反革命集会の参加者で、自由の木を
引き倒して燃やす時、国民衛兵が駆け付けるまで、火起こしをしていたとある)

1793年9月23日

82. アントワーヌ・マッソン MASSON (Antoine), 41歳。司祭。
(St Germain-Duplainの宣誓司祭。あるいはSaone-et-LoireのSaint-Sernin-du-Plainの司祭とも。
ヴァンデ協力者として処刑。1752-93
1752年6月20日生まれで1793年9月23日パリで没したAntoine MASSON 41歳は恐らく該当する。
生まれはブルゴーニュ、コート・ドールのCorcelles les Arts。
父親はPierre MASSON 1717-94{Corcelles les Artsで死去}。母親はClaudine MONTHELIE 1713-59。
四女五男の五男。長姉Anne 1738-1814は二度結婚しているが子の記録はない。長兄Pierre 1740-
99は78年結婚し一男一女を得ている。次兄Francois 1745-1805は78年結婚し三男を得ている。姉
Josephe 1747-97も結婚しているが教区が違うのか子の記録はない。兄Jean Louis 1748-1825は
91年結婚し一男三女を得ている。兄Louis 1751-1804は1801年結婚し一女一男を得ている。妹Marie
1756生も結婚しているが子の記録はない。{次姉Jeanne 1743生 は生年の記録のみ}
系図には生没年・婚姻等の記録以外の詳細が一切ない)

83. ルイ・ルネ・メルレル MERREL (Louis-Rene), 47歳。農夫。リニエールLignieres生。
(LignieresはCentre-Val de Loireの町。スイスにもあり)

1793年9月24日

84. ルイーズ・アンジェリク・カトリーヌ・リカール RICART (Louise-Angelique-Catherine), 56歳。
フェカンFecamp生。
(Louise Angelique Catherine Ricardとも。1737{38とも}-93 ノルマンディーのFecamp生まれ。
父親はJean Louis Alexandre Ricard 1696-1771。母親はMarie Magdeleine de Martonne 1705-55。
一男三女の次女。父の再婚相手との間に異母弟が二人いる。
サン・ルイ騎士で歩兵大尉のEtienne Lefebvre{Lefevre Tisset} 1709生 の未亡人。
娘Louise Anne Suzanne{Anne Madeleine Francoise Lefebvreともある系図あるも、WiKiではLouise
Anne Suzanne Lefebvre} 1760生 はバイイの後任のパリ市長Jerome Petion de Villeneuve 1756-94
と結婚している。この夫はジロンド派としてロベスピエールと対立、93年6月に逃亡し、Buzotと
Barbarouxと潜伏。Barbarouxは捕らわれ処刑、Buzotとこの夫は自殺した。自殺前の最後の手紙は妻
に宛てられている。一人息子{つまりこの人の孫}Louis Etienne Jerome Petion 1783-1847は帝国に
仕え、第21竜騎兵連隊の大隊長となっている。尚、夫Petionを失った後、この妻{娘}は、イギリス政府
に仕えた代理官で自由主義者でベネズエラ生まれのFrancisco Mirandaと関係している。
この人の処刑は逃亡中の娘婿Petionへの報復的な要素があったという)

 娘婿・Jerome Petion de Villeneuve  

1793年9月26日

85. ルイ・フランソワ・セザール・ルカルボニエ LECARBONNIER (Louis- Francois-Cezar), 38歳{58歳}。
ラルーヴェLalouvet生。
(通称Lamorsangliere。CalvadosのPont-ChalierのAumour生まれとも。所有地に居住していた元貴族。
亡命者として処刑。ヴァンデの反徒とも。
バス・ノルマンディー、カルヴァドスのル・カルボニエ・ド・ラ・モルサングリエール Le Carbonnier de La
Morsangliere家は現在も続く家系であり、生没年不詳のLouis Francois Cesar Le Carbonnier de La
MorsangliereはLouis Le Carbonnier de La MorsangliereとJeanne Therese Le Grix de Neuvilleの
息子で、1776年Fatouville-Grestain{Haute-Normandie}でMarguerite de Larcher 1795没 と結婚して、
Louis Rene Le Carbonnier de La Morsangliere 1780-1840をCalvadosのBonneville-la-Louvetで生ん
でいる。革命裁判所記録のこの人の出生地は上記の「Lalouvet」で合致。
しかし別系図ではLouis Francois Cesarは1733年生まれともあり、処刑年齢を58歳とすると近くなる。
38歳はスキャン相違である可能性もある。ただスキャン以前の活字資料にも「38歳」とある。
但しその別系図では父親Louisは1717年生まれともあり、Louis Francois Cesarは16歳の時の子となっ
てしまうので、どこかに錯誤があるようだ。{母親Jeanne Therese Le Grix de Neuvilleの没年は1798年と
なっているが、姓はLe Grix de Belleuvreとなっているし、また生年は1729年としている系図あり}
妻の没年は同様に1795年だが名はMarie Marguerite Larcher。息子Louis ReneはEugenie Felicite
Hebert de Montignyと結婚し、息子Eugene Louis 1818頃-1907をもうけ、次世代に五男五女を残して
いるので、その後継が現在に至っていると思われる。
但し、これらの系図のどれにもLouis Francois Cesar Le Carbonnier de La Morsangliereの没年も、
処刑の事実も記されているものはない)

1793年10月1日

86.ピエール・ユベール・ブルドー BREDAUX (Pierre-Hubert), 27歳。軍曹。モンティニーMontigny生。
(ピエール・ユベール・ブリドー Pierre-Hubert Bridouxが正しい。1765-93 第6ノール猟兵連隊軍曹。
Nord県Montigny-en-Ostreventの出生記録に、1765年11月3日生まれのPierre Hubert Bridoux
あり、父の名はFrancois Joseph Bridoux。母の名はMarie Rose Gueumetとある。記録によっては28
歳とあるが、この生年月日であればこの記録の27歳が正しくなる)

87. フランソワ・ジヨ GILLOT (Francois), 28歳。兵士。 サン・カンタンSaint-Quentin生。
(フランソワ・ジヨ・マリー Francois GILLOT-MARIEとも。第6ノール猟兵連隊兵士。反逆扇動者として
処刑)

88. ジャン・パティスト・グーボ GOUBOT (Jean-Baptiste), 32歳。店員。サン・カンタン生。
(ジャン・バティスト・グーべ Jean Baptiste Goubetとも。共和国の新兵を転用し、また敵の進軍を
助ける行為をしたとして処刑。カンブレー在住の店員)

89. ジャン・パティスト・ルロワ LEROY (Jean-Baptiste), 28歳。音楽教師。
(86のブリドーに雇われた共犯者として処刑)

90. ミシェル・ムニオン MENION (Michel), 28歳。兵士。 トゥールTours生。
(ミシェル・メニオン Michel Menion 第6ノール猟兵連隊兵士。軍楽担当。カンブレー在住。反逆扇動者
として処刑。
Indre-et-LoireのToursの結婚記録に、1791年10月3日、Pierre MenionとFrancoise Ragueaultの息子
Pierre Michel Menion 26歳がPierre Duperayの元妻だったMagdeleine Mieuche 30歳と結婚、とある。
出生地と年齢が合致している)

1793年10月2日

91. ルイ・リュ― LIOU (Louis), 35歳。骨董商。パリ生。
(ルイ・リヨン Louis LION 偽アッシニャ紙幣に関与した罪で処刑)

1793年10月3日

92. ピエール・ラングル・ショーベック LANGLES CHOEBEQUE (Pierre), 62歳。市長。カッセルCassel生。
(ピエール・フランソワ・ラングレ・ド・ショーベック Pierre-Francois Lengle de Schoebeque 1730-93
元フランドル高等法院評議員。カッセルの城と町の首席評議員。
父親はフランドル海事総監補Francois Joseph Antoine LENGLE 1708-71。母親はSchoebeque領主の
娘Marie Anne Louise MAES 1709-41。{父親は1728年Angeline Thecle de GHYSELBRECHTと結婚して
おり、母親とは再婚}
Lengle de Morincourt姓を名乗る兄がおり、サン・ルイ騎士、工兵大佐としてキブロンで銃殺されている。
1752年カッセルの弁護士でブルジョワの娘Marie Antoinette Therese Boeye 1734-1807と結婚し、一女
Marie Anne Therese 1753-1832をもうける。この娘は1780年近衛銃士Augustin Thomas Joseph LIOT
de NORTBECOURT 1750-1811と結婚、一男を得ている。この娘婿の為に、この人は貴族家系の証明、
近衛銃士の職の買収を行っている)

1793年10月4日

93. ピエール・シャルル・マリー・ルブラン LEBRUN (Pierre-Charles-Marie), 55歳。軍収入検査官。
トゥールーズ生。
(ピエール・フィリップ・マリー・ルブラン Pierre-Philippe-Marie Lebrunとも。軍馬検査官inspecteur des
remontesとも。白い徴章をつけてヴァンデの反徒を支援したとして処刑。51歳とも)

1793年10月6日

94. ジャック・ベランジェ BELLANGER (Jacques), 41歳。牛追い。リューReux生。
(カルヴァドスのPont-Chalier小郡在住。ヴァンデの反徒に与した罪で処刑。93年10月5日付でこの人と
後者の処刑の為の軍の出動要請記録が残っている。後者とは双子の兄弟。ある証言者によれば、
二人は断頭台上で「共和国万歳」と叫んでいたという)

95. ピエール・ベランジェ BELLANGER (Pierre), 41歳。牛追い。リューReux生。
(カルヴァドスのPont-Chalier小郡在住。ヴァンデの反徒に与した罪で処刑。93年10月5日付でこの人と
前者の処刑の為の軍の出動要請記録が残っている。前者とは双子の兄弟。ある証言者によれば、
二人は断頭台上で「共和国万歳」と叫んでいたという)

96. ジャンヌ・シャルロット・リュトー RUTAUT (Jeanne-Charlotte), 22歳。ソルールSoleure生。
(ジャンヌ・シャルロット・ド・リュタン Jeanne-Charlotte de Rutant 1771-93 貴族。
La Meurthe県Sancerre生まれともあり。系図はロレーヌのSaulxures-les-Nancy生まれ。{Saulxures-les
-Nancy城館生まれ} この城館は1730年代にロレーヌ公近衛連隊長で胸甲騎兵大尉Claude-Marcel
de Rutant伯爵による。この伯爵は彼女の伯父。2019年Pascale Debert著の「シャルロット・ド・リュタン
の短き生涯」La courte vie de Charlotte de Rutantという本が出版されている。
共和国に敵の進軍を支援するための諜報活動をしたとして処刑。1793年4月24日に上記の城館にて
逮捕される。Saulxuresの住民らがフーキエ・タンヴィルに嘆願書を送ったにも関わらず、「亡命した
婚約者と通謀していた」として処刑された。89年ナンシーに駐屯していた国王連隊将校と婚約していた
という。
父親はハプスブルグ家支配下のトスカーナの皇帝に仕える秘書官だったSaulxures領主Pierre Louis
 de RUTANT 1731-99。母親はロレーヌ改革reformes総検査官の娘Marie Sebastienne CHENEAU
1730頃-76。父親は1779年伯爵となっている。
姉Augustine Marie Louise 1767-94以降 は、アイルランド人Georges BRYAN 1776以前-94以降 と94年
ナンシーで結婚している。1852年時点で子孫がまだアイルランドに確認できる。兄Andre Louis Leopold
 de RUTANT 1769-1851は革命中はライン軍に従軍、ビロン将軍の補佐官となり、「Spireの英雄」と
呼ばれるに至るが、ビロン将軍の裁判により逮捕され、テルミドール反動まで収監されていた。Comte
 de RUTANTとなり、1802年国王軍中将Marquis de Renepontの娘Anne Francoise Octavie de PONS
 de RENEPONT 1775頃生 と結婚し、五男を得ている。
94年10月20日に姉と結婚するGeorges BRYAN{O'BRIENとも}はこの人の父親と共に収監されていた。
この人が特殊インク{熱すると文字が浮き出る}で「エクス・ラ・シャペルのアンリエットおば様」宛に書か
れた日常的な手紙の裏面に亡命貴族のことや敵軍の動静、摂政{プロヴァンス伯}の声明文について
等を記した容疑で逮捕された時に、共に逮捕されていた。しかしその後共々釈放されている。あるサイ
トへの寄稿に「私はGeorges BRYANの子孫に当たる」と書かれているので、現代にも続いているようだ。
 父親はナンシーで拘留されていたが、不当な司法手続によるこの拘留は、娘{この人。彼女はパリに
移送された}の弁護の証言も出来ずに、また花の盛りのまだ子供の娘に助言も癒しも与えられない、と
当局に陳情書を提出している。しかし返信はなかった。
 この人は刑執行の3時間前に兄のアンドレに最後の手紙を残している。父親の側で父を慰めてくれ、
弁護してくれた人、駆け付けてくれた郷里の人々への感謝の言葉を託す、また今回のことで悲しい思
いをさせたことへの謝罪、また自分を死罪にした人たちを赦し、大切な自分の髪束を一房送る、と記さ
れている。「生は、不安と不幸と労苦と憂いと苦しみの寄せ集めに過ぎぬ。死は決して大いなる不幸
などではない!」という詩に慰められるとあり、… Adieu, Adieu pour toujours, Adieuと結ばれている。
この処刑日当時は兄アンドレはリシュリュー通り在住)

両親と恐らく兄・Andre Louis Leopold  
Portrait (Pierre-Louis de Rutant Seigneur de Sauixures?), et Marie-Sebastienne de Rutantとある。

1793年10月7日

97. アントワーヌ・ゴルサ GORSAS (Antoine), 40歳。議員。
(アントワーヌ・ジョゼフ・ゴルサ Antoine-Joseph Gorsas 1752-93 著述家、1792年Seine-et-Oise選出
議員。
父親は靴屋Jean-Baptiste Gorsas。母親はMarie-Anne Perier。
弟Jean Baptiste 1755頃-1814がおり、79年Elisabeth Cacaultと結婚している。弟は国王の徴税執行
部隊の隊長をしており、税務管理官だった。
 この人は75年Marie-Madeleine Roudier 1751頃生 とヴェルサイユで結婚、一女Marie Honorine
Euphemie 1779-1835をもうけている。またBrigitte Mathe 1760頃-1833と関係し一女Antoinette
Brigitte Sophie Mathe 1789-1846をもうけている。これら娘たちは成人し結婚している。
 ささやかな出自であるが良い教育を受けており、パリで個人家庭教師となる。そしてヴェルサイユに
庶民も貴族も通える学校を設立。社会風刺的な詩の作成を行い、生徒らを腐敗させたとして88年ビセ
ートルに収監される。これが彼の革命精神の高揚をもたらせた。
短い旅行の後にヴェルサイユに戻り、le Courrier de Versaillesにより89年10月4日の近衛兵の饗宴を
痛烈に批判し反君主制的活動を行う。92年6月と8月の蜂起や9月虐殺でも活動を承認したが、この頃
より暴力的活動に反対を示しジロンド派に接近する。
 92年9月10日、セーヌ・エ・オワーズ選出議員となる。
過激化する活動の抑止を求め、マラーと対立。国王裁判には永久追放を支持。過激派との対立は、
彼の印刷機の破壊と家族への危険をもたらす。93年6月2日ジロンド派議員の告発がなされると、Buzot
に加わるためノルマンディーに逃亡、ジロンド派蜂起が敗北した後はブルター二ュに潜伏したが、彼は
白昼堂々とパリの愛人Brigitte Mathe宅を訪問、10月6日逮捕され、翌日処刑となる。処刑台にて「私の
妻と子ら、そして支持者らに言う。私は無実だ。私の死は復讐されるだろう」と言った)

 Antoine Joseph Gorsas

98. ジャン・パティスト・フランソワ・ギシャール GUICHARD (Jean-Baptiste-Francois), 48歳。司祭。
コシュレルCocherel生。
(1745-93 Seine et MarneのCocherelに45年10月9日に生まれる。従って処刑時は47歳。
父親は税務監察官で郵便事業管理官、プロヴァンス会計法院秘書官、評定官Francois Guichard
1715-97。母親はBonnesvalynの財務官の娘Marie Jeanne Angelique Fournier 1723-85。
八男四女の長男。{系図によっては次男} 兄弟姉妹で夭折・早世は6名で、他は成人。兄弟らは司法
官や郵政事業の官吏となっている。但し末弟Louis Georges Honore 1765生 は1777年に聖職者となり
革命で亡命、復古期にルイ18世の家令intendant des tablesをしている。
この人は1777年Saint Bathelemy en Beaulieuの司祭となった。パリ大学の芸術監督、ソルボンヌの博
士。モー司教によりSaint Bathelemy en Beaulieuの司祭に任命されたのは79年とも。この人は宣誓を
表面的に行ってはいたが王党派のままだった。教区住民もこの人を認めておらず、Fasquelle未亡人
が苦情を申し立て、1793年9月20日、地区集会で解任要求される。国王を殉教者として崇め、王の死
の為の説教で住民を涙させ、また宣誓司教としての宣誓書を読むことを拒否したと市会議員Jean-
Baptiste Maryから告発される。そしてこの人は即時パリへ移送され、革命裁判にかけられ処刑)

1793年10月8日

99. アンリ・デュパン DUPIN (Henry), 55歳。輸送監督。 サン・ランベールSaint-Lambert生。
(1738-93 Saumurの郵便馬車監督官。Maine-et-LoireのSaumur生まれとある。サン・ランベールは
居所とある。
父親はHerce Dupin。母親はMarthe Allard。
1764年Loudunのバイイ裁判所書記官の娘Anne Charlotte Cremiere 1739生 とLoudun Martrayにて
結婚し、Emilie、Henriette、Victoire、Polyxene、Feliciteをもうける。
姪のGenevieve Cremiereの立会洗礼を受けて、1766年ソミュールの商人として記録される。93年ソー
ミュールの郵便馬車監督官となる。同年6月に同地がヴァンデ軍に占領された際に、砲兵輸送用に
雄牛を提供した行為が、革命政府に反革命行為として見做されて逮捕・処刑)

 Henry Dupin

1793年10月11日

100. ジャン・ジャック・バルボ BARBOT (Jean-Jacques), 40歳。学校教師。
(Blois生まれ。パリ在住の教師。反革命的著作物の作者であると推定された。
尚、退役中佐でヴァンデ軍の勇敢なる将校のJean-Jacques Barbot 1756-1845ではない)

101. アレクサンドル・フランソワ・デシャネ DESCHANETS (Alexandre-Francois), 28歳。骨董商。パリ生。
(偽アッシニャ紙幣でFrancois Renaudはかなり多くの人と結びついていたが、その関連で50リーヴルの
偽アッシニャ紙幣の製造人のこの人の存在が発覚した)

1793年10月16日

102. マリー・アントワネット・ロレーヌ・ドートリッシュ LORRAINE D'AUTRICHE (Marie-Antoinette), ルイ・
カペ―の未亡人。38歳。
(Marie-Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche 1755-93 元フランス王妃。
「有罪ですって? 王妃も国王と同じように有罪ですって!」
王妃が公会の全員一致の有罪判決を受けた報に接して、処刑人シャルル・アンリ・サンソンの妻マリー・
アンヌは叫んだ。
「もう沢山! 私たちの手の上に、そして子供らの手の上に、無実の血が流れるのは、もう沢山!」
 続けて叫ぶ妻にシャルル・アンリ・サンソンは返した。
「血にまみれるのは私や息子{息子アンリは助手役}の手ではなく、それを命令した責任者らの手にだ。
彼らは人類に対して、そして神に対して、その償いをしなければならないだろう」
「見事な線引きね、シャルル!」妻は夫に言った。「私が国王陛下の処刑の日にどんなに苦しんだかを
あなたが御存知だったら、二度目の殺人に加担などなさらないはずだわ」
 10月16日午前7時、シャルルアンリ・サンソンはコンシェルジュリーの王妃の元に赴く。
「お早いこと、ムシュー。もう少しお待ち頂けませんか?」と王妃は言う。
「いいえ、マダム。私は命令に従わねばならないのです」シャルル・アンリは言った。
 しかし彼は「この処刑に対する処刑人の感情をあからさまに表出」した態度を示して、王妃を護送車へ
と連れていく。手を縛った綱は、地面に垂らしたままで、また護送馬車に乗せるときも「裁判所というより
もヴェルサイユ宮殿みたいな恭しさ」を示したという。
 王妃は最後の手紙で王妹エリザベトに書いたように、政府が差し向けた宣誓僧のジラール師には言葉
も掛けない。しつこく話し掛けるジラール師に処刑人は黙るよう促した。
 革命広場までの道程の途中で十字架を掲げて待機していた故国王の司祭長ピュジェ神父を見留める
と王妃は限りない喜悦の表情になり、その最期の祝福を受けた。
 シャルル・アンリ・サンソンはその哀悼の念ゆえに、ギロチンの執行を息子アンリに任せた。
 断頭台に上がる時に誤って処刑人の足を踏んでしまった王妃は「御免遊ばせ、ムシュー。わざとした
わけではありませんことよ」と謝ったという。
 処刑台上で、王妃が遠くチュイルリー宮の方を見遣って、一度二度ため息を吐いた時、サンソンは
出来る限りの時間、刑の執行を控える配慮をした。
 もちろん、護送中も民衆からの野卑な言葉と流行歌が飛び交っていたが、革命の恐怖のシンボルで
あったギロチンの処刑人は、その傍らで王妃の最期に深い情を示し、畏敬の念をもって接していた)

 Marie-Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche

1793年10月17日

103. ジャック・アイロンHAIRON (Jacques),46歳 仕立屋。ディクス・シュル・ビルDix-sur-Bill生。
(古着屋とも。偽アッシニャ紙幣に関与した罪で処刑)

1793年10月18日

104. ピエール・ジェルマン・ラルマン LALLEMAND (Pierre-Germain), 43歳。 代行業。パリ生。
(1750-93 亡命者の代理人をしており、逮捕・処刑に至った。
1789年5月12日パリにてブルジョワの娘Marie Madeleine CHARLESと結婚している。両親も含め
それ以外の情報なし)

105. ジャン・パティスト・二クロー NICLAU (Jean-Baptiste), 31歳。擲弾兵。シャヴネー・ル・
シャトーChavenay-le-Chateau生。
(もしくはNiclot。出身は後者同様にロシュフォールで、居住がChavenay-le-Chateauともあり。
後者ともに第29連隊擲弾兵{元王室王太子連隊が91年改名}。王室再興のシャンソンを歌い、発言
をした罪で逮捕・処刑。1782年付のJean Baptiste NICLOTとその配偶者Marie Madelaine MOREAU
のパリでの公的記録があるが、年齢的・地理的に別人だろう)

106. ジョアサン・ピシュラン PICHELIN (Joachim), 36歳。擲弾兵。ロシュフォール生。
(前者ともに第29連隊擲弾兵{元王室王太子連隊が91年改名}。王室再興のシャンソンを歌い、公会
の退廃と解散について発言をした罪で逮捕・処刑。
⇒Joachim PICHELIN 1756-93 ロシュフォール生まれで93年10月18日パリにて36歳没。父親は
父親は肉体労働者Jacques PICHELIN。母親はCatherine PAULAIN。
1776年アングレームで召使女Antoinette PIEDFROID 1750生 と結婚。妻は95年Joseph RIBONDIN
1746生 と再婚している。
生年・没年月日、出身地、死亡地すべて合致しているので本人に間違いなかろうが、職業は
羊毛職人Peigneur de laineとなっており、処刑死については系図には言及されておらず)

1793年10月19日

107. ポール・フランソワ・ジョゼフ・クラリーヌ CLARINE (Paul-Francois-Joseph), 62歳。婦人帽店。
アルマンティエ―ルArmentieres生。
(ポール・フランソワ・ジョゼフ・クラリッス Paul Francois Joseph Clarisseとも。ノール県アルマンティエ
ール生まれ。リールを敵に引き渡そうとした罪にて処刑。58歳ともあり。アルマンティエールにはクラ
リッス家は多々あり、同年代の同系と思しきものもあるも、この人の名は見当たらず。
アルマンティエールの町はオーストリア軍との間で争奪戦が展開されたが、その際に、敵軍に呼応し
反革命行動をとった。事件の経緯は109の孫が1876年に書物として発刊しており参照)

108. アントワーヌ・フランソワ・ジョゼフ・ドレットル DELETTRE (Antoine-Francois-Joseph), 54歳。
商人。アルマンティエ―ル生。
(1739-93 アントワーヌ・フランソワ・ジョゼフ・ドルトレ Antoine-Francois-Joseph Deletreとも。52歳とも
あるが複数資料が54歳とある。
後者の孫が1876年に発刊した「革命期アルマンティエールの歴史」の中にはアントワーヌ・ドレットレ
Antoine Delettreとある。
尚、系図もドレットレDelettre。父親は商人で市助役Jacques Joseph Delettre 1703-63以前。母親は
ブルジョワで助役の娘Marie Jeanne Theste 1703-73以前。
九男三女の八男。兄弟たちは商人、聖職者になるも77年には没しており、他は夭折・早世、唯一の息
子となっている。姉妹らも唯一成人した姉Marie Anne Joseph Claire 1729生 も結婚記録ないまま81年
頃に52歳で没している。
Constance Josephe Sabine Bernardine Bocquetと結婚し、三男三女をもうけている。長女Lucille
Guislaine Josephe 1773-1854は92年結婚し三女二男をもうけている。三男Eloye Antoine 1776生 は
98年結婚し一子をもうけている。他は夭折。
後者参照)

109. ペルラン・ギー・ジョワール JOIRE (Pellerin-Guy), 53歳。アルマンティエ―ル生。
(1740-93 ペルラン・ギー・ジョサール Pellerin-Guy Jossartともあるが、Joireが正しい。市役人。
45歳ともあるが53歳で正しいようだ。市役人は具体的には徴税官。食料雑貨、書店経営。
後に「革命期アルマンティエールの歴史」{1876年、リール}を著し革命期のこの事件について詳述した
Abel Joire 1813-92はこのPelerin-Guy Joireの孫で、本書表紙に祖父であるこの人の生年が1740年
4月30日と明記してある。
アルマンティエールの町はオーストリア軍との間で争奪戦が展開されたが、その際に、敵軍に呼応し
反革命行動をとった。6月16日深夜に自治体は市内ブルジョワ11名を逮捕、9月15日の逮捕者も
含めて15名が裁判にかけられた。1名外科医のEtienne Dufraisnoyは逃亡し、国境付近で射殺された。
そして108〜110の4人に死刑判決。その財産も没収されたとある。
⇒ 父親は鞣革商人でアルマンティエールの徴税官Guy Joire 1713-45。母親はAnne Joseph Wavrin
1711-45。
父親は再婚で前妻との間に成人した一女と夭折した一女がいた。
この人は長男で、弟と夭折した妹がいた。弟Nicolas Theodore Joseph 1742-74は商人となり1760年、
Catherine Anne Francoise HOVIN 1735頃-1800以降 と結婚している。
この人は1760年11月11日(弟は二週間後の同年11月25日に結婚している)に洗濯業の娘Eleonore
Elisabeth Lucie MattelinATTELIN 1743-99と結婚、八男七女と性別不明の一子をもうけている。
長男Jean-Baptiste 1762-1827は食糧品商人となり、結婚記録はない。次男Guy 1763-1837は香料
商人となり、93年に結婚している。長女Marie Agnes Augustine 1763-1837は結婚記録はなく、書籍商
を自ら営んでいる。三男Pierre Francois Alexandre 1767-1827はパン屋となり、93年結婚している。
五男Ignace Francois Pelerin 1778-1845は蜜蝋商人となり、1809年結婚しており、四男をもうけているが
上記の「革命期アルマンティエールの歴史」を1876年発表しこの人の回想録として事件を記録したAbel
Joire{リール医学部教授で医師Abel Jean-Baptiste Joseph Joire 1813-92}はこの長男である。六女
Adelaide Sophie Aimee 1781-1839は結婚記録なく、アルマンティエールで生まれ、誕生日の一日後に
58歳でアルマンティエールで没した。他は夭折か早世。
この人は断頭台上で見物人の一人に励ましの声を掛けて、その者に金時計を手渡したという)

110. ピエール・フランソワ・マランジー MALINGIE (Pierre-Francois), 56歳。帽子商人。アルマンティ
エール生。
(ピエール・フランソワ・ジョゼフ・マランジエ Pierre Francois Joseph Malengie 1736-93 2月13日生ま
れなので57歳。60歳とする資料もあるが57歳が正しい。
父親は商人Nicolas Druon Malengie。母親Anne Marie Rambry 1699-1768。四女一男の長男。
3人の姉、1人の妹は夭折。この人だけが成人し、1758年Catherine Therese Joseph Capelier 1736-80
と結婚、一男二女をもうけた。長男は夭折するも、娘二人は成人。長女Aime Catherine Joseph 1760-
1833はビール醸造業の Louis Joseph Lescornez 1755-97と1783年結婚し三女四男をもうけている。
次女Marie Ignace 1766-1837は94年1月9日にEdouard Ghesquier 1768-1852と結婚、子の記録はない。
逮捕・処刑に経緯は前者説明参照)

1793年10月23日

111. ジャン・ブリュール BRULE (Jean), 32歳。司祭。
(1755-93 ジャン・バティスト・ブリュレー Jean-Batiste Brusleとも。Nogent-le-Rotrouの司祭。38歳とも。
またNogent-le-Rotrouの Saint-Laurent教区の宣誓司祭とある。93年8月パリで逮捕。反革命的発言に
よるもの。1790-91年助任司祭とも)

112. ピエール・イポリート・パストーレル PASTOUREL (Pierre-Hippolyte), 43歳。司祭。
(Pierre-Hippolyte Pastourel。アンジューのSaint-Hilaireの司祭。サン・ティレールの属するソーミュール
地区を反徒に占領されることに賛同した罪。ヴァンデの反徒の支持者)

1793年10月25日

113. ピエール・クロード・ジャンソン JANSON (Pierre-Claude), 20歳。砲手。パリ生。
(Pierre-Claude JeansonもしくはJanson。パリ在住でリヨン生まれ。監督官で現在はLanoy中隊砲手。
22歳とも。マリー・アントワネット王妃の裁判に際してこの人は「公会は泥棒の巣窟だ。王妃は勇敢な
女性だ」と発言したらしい)

114. レミー・マルタン MARTIN (Remy), 市役所吏員。シャンルヌイユChampreneuil生。
(Champeneuil自治体の役人。ワイン生産業で材木伐出人。革命と自由の転覆を見たいと演説で発言
したという。Seine-et-OiseのChampceuilともある。ChampeneuilもSeine-et-Oiseとあるが、該当の地名
がない。Champreneuilはこの裁判記録に記載された資料のみ。1550年代の貴族Gilles Boullardは
Champeneil在住のChampcueil領主とあるので、どちらも地名としてあるのか。
コニャックで有名なRemy Martinは、1695年ルイヤックRouillacで生まれた同名のワイン生産業者だっ
た創業者の名に由来するが、この人のChampeneilとかChampcueilの地とは全く離れている)

1793年10月26日

115. ピエール・ドグール DEGOULLE (Pierre), 29歳。 刃物職人。オーリヤックAurillac生。
(de Goulleでも該当なし)

116. ピエール・ジルディ GILEDY (Pierre), 38歳。刃物職人。フロランスFlorence生。
(原本もGiledyとなっているも、該当なし)

117. シャルル・マリー・ジャントン JEANTON (Charles-Marie), 25歳。砲兵。パリ生。
(1793年の「Compte Rendu Aux Sans-Culottes de la Republique Francaise」の中には、Charles-Marie
Jeantonは93年10月18日に殺人罪とある。他には何らの記録もなし)

118. ジャン・パティスト・マイヤール MAILLARD (Jean-Baptiste), 40歳。旅商人。ディエーヴィル
Dieville生。
(1793年の「Compte Rendu Aux Sans-Culottes de la Republique Francaise」の中には、Jean-Baptiste
Maillardは93年8月16日に殺人罪とある。その他には何らの記録もなし)

119. ジョゼフ・ペルティエ PELLETIER (Joseph), 43歳。ワイン商。アンジュー生。
(1793年の「Compte Rendu Aux Sans-Culottes de la Republique Francaise」の中には、Joseph
Pelletierは93年8月16日に殺人罪とある。その他には何らの記録もなし)

120. ロリス(ルイ?)・リシャール RICHARD (Lolis⇒Louis?), 25歳。古物商。ヴィトーVitaux生。
(ロリスでは記録なし。ルイでは3件あるも、すべて処刑日は94年2月〜3月で別人。従って該当なし。
1793年の「Compte Rendu Aux Sans-Culottes de la Republique Francaise」の中には、Louis Richard
は93年8月16日に殺人罪とある)

121. ミシェル・シエーユ SCIELLE(Michel), 32歳。ピック連隊兵士。フォントノワ・ル・クーヴェ
Fontenoy-le-Couvet生。
(姓氏でも連隊名regiment des Piquesでも出生地名でも、処刑リスト以外の資料にこの人の名を見出す
ことは出来ない)

122. ピエール・トゥファン TUFFANT (Pierre), 35歳。eglaneur(?), ジョーエJoue生。
(Pierre TUFFAIならいるが、処刑日は94年1月である。出生地Joueは、Loire-AtlantiqueのJoue-sur-
ErdreやIndre-et-LoireのJoue-les-Tours等ある。1911年発行版のリストの原本にも、eglaneurも含めて
全く同様の記載となっている。"Compte rendu aux sans-culottes de la Republique francaise"の中には
1793年8月16日に殺人罪{前出の者たちと同様}とあり、通称Tourangeauとあり)

1793年10月27日

123. シャルル・ルイ・アンティブール ANTIBOUL (Charles-Louis), 40歳。議員。サン・トロペSaint-Tropez.生。
(1752-93 Varのサン・トロぺ生まれの弁護士にして商人。父親は船舶の大尉Capitaine de batiment
だったCharles Antoine Antiboul。母親はMagdelene Aubert。1750年生まれの兄Pierre Bernardがいた。
5月20日生まれなので、処刑時は41歳。
1789年以後Varの議員、1792年9月6日にジロンド派として議席を得る。
ルイ16世の裁判で、有罪に投票し、拘束に投票。
1793年2月21日、海軍委員会のメンバーである彼は、Andre Jeanbon Saint Andreによって告発された。
フランス海軍が敵方の物資を積んだ中立船を拿捕する法令を担当する。
1793年4月13日、彼はマラーに反対票を投じる。
1793年6月にコルシカ島に派遣され、彼は反乱軍によってマルセイユで捕らえられ、国民の代表の尊厳を
損なったとしてAndre Jeanbon Saint Andreの動議で、1793年9月7日に逮捕、処刑された)

124. ルイ・アントワーヌ・ラロシュ LAROCHE (Louis-Antoine), 司祭総代理(grand vicaire)
(ルイ・アントワーヌ・ラロシュ・ド・フォントニーユ Louis-Antoine Laroche de Fontenilles 元Agen司教の助任
司祭vicaireで元貴族。アジャンの司祭総代理{grand vicaire}とも。Lucienne在住。処刑時34歳。亡命者の
代理人として処刑。
ナヴァール連隊大佐Louis Antoine de LA ROCHE-FONTENILLES 1697-1755などはMarquis de Fontenilles,
de Montluc, Cessac, Cazillac, Comte de Courtenayである。
La Roche de Fontenilles家はビゴールの古い騎士の一族。1677年のMarquis de Fontenilles,Francois de La
Rocheによるランブル家の相続人Charlotte de Ramburesとの結婚によりピカルディーに定着した。
Haute-GaronneのFontenillesは14世紀から革命までこの一族の所領。ルイ14世により男爵領から侯爵領
となる。同地の侯爵は1793年革命で亡命しており、帰国後はピカルディーのChateau de Ramburesに落ち
着いた。しかしどの系図にもこの人は見当たらず。フォントニーユとアジャンも遠い)

125. ピエール・マンヴィエール MAINVIELLE (Pierre), 28歳。議員。アヴィニョン生。
(他のジロンド派議員と共に10月31日に処刑された中にJacques Paul Agricol MinvielleもしくはMainvielle
1764-93、アヴィニョン生まれがおり、この人は別資料ではJacques Pierre Agricol MinvielleもしくはMainvielle
ともなっていて、このリストの10月31日処刑者の中に入っていない。WiKiでは上記Paulの方で処刑日は10月
31日。また単にこのリストのようにPierre Mainvielleとなっている資料も多い。系図はすべてWiKiと同じで、また
Pierreとの混同についても触れられていない。同一と見なす。
父親は商人のPierre Laurent Minvielle。母親はTherese Fontaine。弟Jean Joseph Gabriel 1768-1802
がいるが、弟は商人で市長であった。{98年3月アヴィニョン自治体の議長、1802年に自殺}兄弟ともに結婚
記録はない。
父親同様に絹商人となっていたが、90年3月アヴィニョン自治体の役人となる。革命軍将校から議員に選出。
国民衛兵将校で代議士でもあった弟とSabin TournalとNicolas Lescuyerと共にアヴィニョン自治体の主導権
を掌握する。 1791年8月16日の法王の宮殿に収監された容疑者の虐殺事件{法王派により殺害された同志
Nicolas Lescuyerの復讐のため、裁判なしでの殺害を主張し実行した。またこの人の妻をからかって逮捕
されたというLa Rapatioleのような事件外の犠牲者もいた}により弟含む関係者共々逮捕されるが、1792年
3月26日恩赦された。92年9月全国大会で議員に選出されるが、翌93年4月に一般保安委員会からの訴えで
兄弟共々逮捕。1793年6月16日釈放。しかし同年10月30日、バルバルーの陰謀の共犯者として再逮捕され、
翌31日処刑、とある。尚、著書「Dupratが起こした告発に対する抗議」{1793}の著者名はJacques Pierre
Agricol Minvielleとなっている)

1793年10月30日

126. ジャン・ジョゼフ・ソーニエ SAUNIER (Jean- Joseph), 38歳。議員。リュサックLussac生。
(ジャン・ジョゼフ・ソーニエ Jean-Joseph Saulnier{Saunierとも} 1754-1793
 Haute VienneのLussac-les-Eglises生まれ。 Loire et CherのChotel-Dieu-de-Blois{Hotel-Dieu-de-Bloisの
誤記と思われる。このHotel-Dieu-de-Bloisについては下記}在住の司祭。
1790年12月20日の法律により、宣誓の拒否による逮捕。
J. Gallerandの「恐怖政治下のブレゾワの殉教者・司祭ジャン・ジョゼフ・ソーニエ 1754-1793」Un martyr
blesois sous la Terreur, Jean-Joseph Saunier, pretre 1754-1793という1921年出版の書物がある。blesois
はブロワ周辺のことで、ブロワのSaint-Laumer de Blois修道院は昔Saint-Lomerとかhotel-Dieu de Bloisと
呼ばれた時期あり、革命中はその建物を破壊より守るためhotel-Dieu{慈善院}として機能し斯く呼ばれてい
た。処刑記録とこの書物に関連する記録しかない。また「議員」とは全く記載なし)

1793年10月31日

127. ジャック・ボワロー BOILLEAU (Jacques), 39歳。アヴァロンAvallon生。
(ジャック・ボワロー・ドーソン Jacque Boileau d'Ausson 1751-93 治安判事で公会議員。
革命前は地元の弁護士。91年アヴァロンの治安判事となる。92年9月6日、ヨンヌの国民公会議員選出。
反マラー派でジロンド派。国王死刑には反対。北方面派遣軍に参加し、帰国後再びマラー批判を展開。
ジロンド派議員への起訴に含まれ逮捕、そして処刑される。
ボナパルト主義者で五百人会議員{98年〜99年}となるJean Edme Boilleau 1738-1814の弟。この兄は
弟の後任としてヨンヌ選出議員を依頼されるも、弟の殺害者らと議席を同じくすることを拒否した)

128. ジャン・パティスト・ボワイエ・フォンフレード BOYER FONFREDE (Jean-Baptiste), 27歳。貿易商。
ボルドー生。
(1765{66とも}-93 父親はボルドー商人Pierre BOYER FONFREDE 1742以前-67以降{88-92の間に逝去
とも}。母親は協業関係のボルドーの商家の娘Marie Angelique JOURNU 1735-67以降。{母親の兄
Bonaventure JOURNUの息子、つまりこの人の従兄Bernard Journu-Auber 1745-1815は船主として
活躍し、父親を国王秘書官にし、また立憲君主派としてボルドーの牢Fort du Haに収監されていたが革
命を生き延び、後に帝国爵位を授爵し、またルイ18世の元で貴族院議員となる}
弟にFrancois-Bernard Boyer-Fonfrede 1767-1845がいる。実業家としてトゥールーズの綿工場経営者、
銀行家としても活動するがナポレオン戦争で凋落、1814年からは政治活動に転じ、息子やこの人の子
Henri Fonfredeと共にトゥールーズの王家の正当性を主張する一派の牙城を築く。
この人は富裕な商家の娘Jeanne Justine DUCOS 1767-1820{134の妹}と1786年結婚し、二男二女を
もうけた。次女Marguerite Clementine 1790-1876は86歳まで生きたが結婚記録はない。長男Jean
Etienne Henri 1788-1841はボルドーのjournal La Tribuneの創設前からの編集者でリベラル派の政治・
経済の文筆家として活躍し、上記のように叔父Francois-Bernardとの活動、また母方叔父Jean Francois
 Armand DUCOS 1778-1851とアメリカに事業を拡張したりする。
ボルドーの主要な商家に生まれた。サント・ドミングのプランテーションとボルドーの交易船の船主でも
あった。にも拘わらず奴隷制に反対し、フリーメイソン会員でもあった。革命初期からボルドーで精力的
に講演を行い、ボルドーの選出の公会議員となる。9月虐殺を非難し、国王の死刑には反対し、マラーを
糾弾した。以下のジロンド派議員らと共に政権闘争に敗れて処刑となる。
134の義弟。この134の甥は海軍・植民地大臣{1851-55}となるJean-Etienne-Theodore Ducos 1801-55
また2010年のSusanne Alleynによる歴史ミステリー「Palace of Justice」に義兄にして友Jean Francois 
DUCOSと登場している)

..............................................長男・Jean Etienne Henri
Jean-Baptiste Boyer-Fonfrede.................96年にFrancois- Andre Vincentにより描かれた"Portrait de Madame Boyer-Fonfrede
et son fils"は未亡人となった妻・Jeanne Justine Ducrosとその息子・Jean Etienne Henriとされている。WiKiでは弟のFrancois-
Bernardの項に掲載されているが、美術資料ではMadame Jeanne-Justine Boyer-Fonfredeとあるし、92年結婚の弟にはまだこの
ような子はいない。「憂鬱な表情と凍った微笑」はこの女性の(夫処刑という)暗い過去を物語るとある。

弟・Francois-Bernard Boyer-Fonfrede一家   
従兄・Bernard Journu-Auber

129. ジャン・ピエール・ブリッソ BRISSOT (Jean-Pierre), 39歳。議員。シャルトル生。
(1754-93 文筆家、ジロンド派指導者。
父親はシャルトルのSt Saturnin教区の裕福な宿屋経営者Guillaume BRISSOT 1711頃-79。母親は靴職
人親方の娘Marie Louise LEGRAND。系図では六女八男の六男とある。兄弟姉妹のすべてが恐らく夭折
か早世している。弟Simon Antoine 1752-87以降 のみ、79年にJouyの助任司祭pretre vicaireとなり、87年
シャルトルの慈善院の神父となり、没年が不詳なので断定できない。
この人は1782年Marie-Catherine Felicite Francoise Dupont 1759-1818とイギリスで結婚、一男Jean
Jerome Anacharsis Brissot 1791-1859をもうけ、この子は軽騎兵士官からパリのワイン商となり、Marie-
Jeanne Adelaide Vigneulleと結婚し一男を得、その一男もまた結婚している。WiKiの文中では下記にある
通り、ロンドンで翻訳家だったFelicite Dupontと結婚して三人の子を当地で育てたとある。系図には子の
記載ないものばかりで、唯一記載あるものも、上記の通り一子となっている。
 シャルトルで宿屋を営む家庭に誕生。シャルトル近くに父親が所有していた地Ouarvilleを当世の流行に
そって英語風のWarvilleとし記名に加えBrissot de Warvilleとも名乗る。13番目の子であった。先祖は代々
菓子職人だったが、父親は仕出し料理人を名乗っていた。
シャルトルのcollege Pocquetで学び法務書記官になるべくシャルトル、そしてパリで働く。しかし文学の道
に進みたくロンドンに渡り、当地で多くの文学記事を発表、定期刊行物の出版まで行った。そして翻訳家
 Felicite Dupont 1759-1818と結婚、ロンドンで3人の子を育てる。
作家として知名度は上がりパリに戻るとMercure de FranceやCourrier de l'Europe他の記事を執筆する。
フランス政府と王妃に対して非常に挑発的なパンフレットPasse-temps de Toinetteを公表し、バスティーユ
に投獄。84年9月に釈放。
85年のヨゼフ皇帝への公開書簡による論争で再び渡英。当地で黒人奴隷廃止論者らと交わり、88年帰国
するとミラボー、クラヴィエールと共に黒人友の会を設立した。この会はイギリスでは映画「アメージング
グレース」の主人公で奴隷制廃止の熱血議員William Wilberforceにより成長していく。90年と91年に同会の
会長もする。88年にアメリカの奴隷制廃止論者と会うべく渡米。フィラデルフィア議会のメンバーとも親しくな
る。アメリカの理想こそフランス政府に必要だと主張。89年アメリカ芸術アカデミーの外国名誉会員となる。
家族と共にアメリカに移住するつもりでもあったが、革命勃発によりそれは叶わなかった。
89年から93年までPatriote francaisの編集者として活躍、演説の名手としてパリ自治会、立法議会、国民
公会の議員を務めた。ロベスピエールが嫌うジロンド派を率いる。
コンドルセ侯やトマス・ペイン、エティエンヌ・デュモンと91年LeRepublicain誌刊行。
ルイ16世の裁判では、死刑に反対、国際政治の駒としての利用と大規模な王党派の反抗を危惧した。
オーストリアとプロイセンの革命政府への宣戦により、開戦を主導。
戦争による疲弊によりモンタニャール派などの反対政党からの攻撃を受ける中、革命の暴走と過激化を
抑止すべく闘争する。
1793年5月下旬の会議では武装サン・キュロットとアンリオの国民衛兵により議会は包囲され、退任要求が
なされた。6月2日、ついに他のジロンド派議員は逮捕。この人はからくも逃げ延び、反革命派が活動するノ
ルマンディーのカーンに向かう。途中故郷のシャルトルを通過する時に捕らわれてパリに連行。10月30日、
死刑判決。翌日の執行日の護送車ではラ・マルセイエーズを歌っていたという)

 Jacques Pierre Brissot

130. シャルル・アレクシ・ブリュラール・シルリー BRULLARD-SILLERY (Charles- Alexis), 57歳。議員。
パリ生。
(シルリー侯爵、ジャンリス伯爵シャルル・アレクシ・ブリュラール・ド・シルリー Marquis de Sillery,Comte
de Genlis,Charles Alexis Brulart de Sillery 1737-93
父親はMarquis de Genlis,Charles-Pierre Brulart 1706-53。母親はピカルディーの古い貴族Marquis de
Dromesnilの娘Louise-Charlotte de Hallencourt 1711-42。一女三男の次男。ジャンリスはHauts-de-
FranceはAisneにある土地。Brulart家は元々はシャンパーニュのマルヌ出身と推定される旧家。シルリー
系が本家だが、1770年に分家のジャンリス系{この人の系}に継承され、この人の死と共にこの家は断絶。
姉Anne Josephe Charlotte Angelique 1731生 と夭折か。兄Charles Claude 1733生 はMarquis de Genlis
となり、WiKiでは1763年亡くなる前に中将となったとあるが、系図によれば65年de Riotor de Villemur 某
と結婚している。別系図では擲弾兵大佐で1810年死去とある。「ジャンリス」の名は兄がピカルディーに
所有する土地から名付けられたとあるから、63年死去か? 弟はLouis Marie 1738生 で、歩兵将校として
亡くなったとだけあり。
1763年ブルゴーニュの旧家Marquis de Saint-Aubinの娘Stephanie Felicite du Crest de Saint-Aubin 1743
-1830と結婚。妻の叔母であるモンテッソン侯夫人(実質的なオルレアン公夫人。但し愛人関係は66年、公
との貴賤結婚は73年)の仲介だった。妻の父親Pierre Cesar du Crestは1763年死去なので、夫の兄が上記
のように63年死去とすると、結婚はその同年となる。但し妻には弟で継承者のCharles Louis du Crest 1747
-1824がいる。またモンテッソン夫人は「妻の叔母」といっても、母方祖母 Marie-Josephe Minard des Alleux
1769没 が母方祖父と死別後に再婚したLouis Beraud de La Haye de Riouとの娘がモンテッソン夫人である
から、母親の異父妹という関係である。
但しこの結婚に至る話として別説{夫人の回想録}もあり、この人がインド派遣軍従軍していたおり、乗船して
いた船舶が攻撃され、22人の将校の内、Capitaine d'Acheとこの人だけが生き残り、ダシェ大尉により救われ
たが、この戦いで弱冠20歳で中尉から大尉に昇進したもののイギリス軍の捕虜となった。Lanceston{オース
トラリア・タスマニア}に連行されたが、そこに妻の父Marquis du Crest de St-Aubinがやはりサント・ドミンゴの
帰りに英国捕虜となっており、両者は対面。父親のもっていたハープを弾く娘の肖像画に若きシルリーは
惚れ込み、関係が始まったとある。しかし、すでに両親なくこの人らの面倒を見ていた元外相の叔父Marquis
 de Puisieux{Louis Philogene Brulart 1702-70 ブリュラール家の本家筋シルリー系だが、継承者なく、分家
ジャンリス系であるこの遺子らの保護者となった。シルリー系はその死と共に絶え、ジャンリス系に継承され
るも、それもこの人の死で断絶}が、裕福なde Lamothe家の令嬢を娶らせようとしたが、それは無理であった。
しかし、後にこの妻をオルレアン公家に紹介し、シャルトル公夫人の女官、この人をシャルトル公近衛大尉に
したのはモンテッソン夫人である。上記の保護者Marquis de Puisieuxの娘Adelaide Felicite{Marquis de
Courtanvauxの未亡人だったが子なし}が85年に亡くなると膨大な資産とシルリーの称号が入ることになった。
 二女一男をもうける。長女Caroline Charlotte Jeanne Seraphine 1765-86は80年ブリュッセル生まれの
Marquis de Becelaere de Lawoestineと結婚し、二女一男をもうけた。しかし、長男の出産時に21歳で亡くなっ
た。次女Edmee Nicole Pulcherie 1767-1847 は84年Comte de Valence, Jean Baptiste Cyrus Adelaide de
Timbrune 1757-1822と結婚して、一男二女をもうけているが、別にPrince de Chimay,Francois Joseph Philippe
 de Riquet de Caramanとの間に一子Auguste Pittaud de Forges 1803-81をもうけている。Prince de Chimayは
1805年にはあのタリアンの愛人だったTheresia Cabarrusと結婚している。この次女の夫は夫で、革命軍将軍
だったが、93年にデュムーリエに近かったこともあり亡命し、帰国後は帝国に、また復古期も議員などしているが、
元はモンテッソン夫人の愛人の一人でシャルトル竜騎兵大佐、オルレアン公侍従の地位、またこのEdmee
Nicole Pulcherieとの結婚も世話されていたのである。19歳も年上のモンテッソン夫人と密会{膝枕をしていた}して
いた時に急にオルレアン公が帰ってきてしまったという事態もあったが、「公爵様、私を助けて下さい」とにこやか
に声を掛けるとヴァランス伯をどけて「この人はPulcherieに夢中で絶対に結婚したいと言うんです」と危機的状況
から脱したという。そしてモンテッソン夫人宅の教会で二人は結婚する。
長男Casimir Charles Philomene Brulart 1768-73。また90年生まれのCasimir Baeckerは夫人により養子と
したベルリン生まれの子で{82年に別居しているからこの人の養子ということではない}、後にプロイセン国王の
優れたハープ奏者となったという。
 妻は文筆家でもあり回想録も残している。この人は妻の美貌ゆえの社交活動や文芸活動を阻害することは
なく、妻は158のオルレアン公の愛人でもあった。つまりモンテッソン夫人の夫オルレアン公ルイ・フィリップ1世
の子の愛人となったわけである。公との間にPamela Caroline Stephanie Anne Sims 1773頃-1831とFortunee
Elisabeth Herminie Compton 1777頃-1822という娘もいた。
1782年に妻とは別居。妻は革命時はスイスからベルリンに亡命した。
 この人は海軍大佐、野戦総監となっていたが、89年三部会貴族議員となり、92年ソンム選出国民公会議員。
妻の愛人であるオルレアン派を支持していた。デュムーリエの共犯者オルレアン公との関係で93年4月5日に
リュクサンブール牢に収監。ナンシー事件での軍事規律について非難され、ジロンド派との濃密な関係はなか
ったが、ジロンド派議員らと処刑される。王妃の理髪師Leonard-Alexis Autieによれば「神の創造物の中で最
も柔軟性のある生き物。その妻は彼よりも男っぽかった」と表現された。
1716のCharles Alexis Descharmes-Silleryはデュムーリエ{あるいはダンピエール将軍}の将官付副官で19歳で
処刑されているが、「ブリュラール・シルリ―氏の私生児」とある。この人の子なのだろう)

   ..................................
Comte de Genlis,Marquis de Sillery,Charles Alexis Brulart  妻・Stephanie Felicite du Crest de Saint-Aubin
長女・Marquise de Becelaere de Lawoestine,Caroline Charlotte Jeanne Seraphine

次女・Comtesse de Valence,Edmee Nicole Pulcherie  
娘婿・Comte de Valence,Jean-Baptiste Cyrus Adelaide de Timbrune de Thiembronne de Valence

131. ジャン・ルイ・カルラ CARRA (Jean-Louis), 50歳。議員。ポンヴェルPontvel生。
(1742-93 ブルゴーニュのPont-de-Veyle生まれ。文筆家、革命政治家。
父親は領主権委員Claude Carra 1705-49。母親はMarie-Anne Colas 1718生。母親は死別後、52年に Antoine-
Marie Pahinと再婚し3人の子を得ている。
二男四女の長男だった。妹で長女のLuce 1743生 は聖女訪問会の修道女となっている。弟で次男 Philiberte 1744
-67は22歳で早世するが結婚し一女をもうけていた。他の妹らは夭折か。末弟も11歳で死去。
生没年不詳のAnne Bouynとの結婚記録があるも、後継者はなかった。
マコン大学在学中に窃盗で投獄歴あり。1768年から69年ダルジャンソン侯の書記官。スイス、イギリスと旅に出て
またルーマニア公国のモルドバでは借金のためにまた投獄されたりもしている。76年ワルシャワを訪問後帰国。
ブルトゥイユ男爵の保護により王立図書館ん勤務。
革命後は文筆家としても活躍し、92年のジャコバンクラブでの演説で名を馳せる。
ルイ16世に関しては、外国の王族が即位するよりも国王が王位にいることを主張。
同年ジロンド派の指導者の一人としてSaone-et-Loire選出議員として公会に入る。町のブルジョワにより構成され
ていた国民衛兵にかわり、大衆による兵組織を主張。それがサン・キュロットとなった。ロベスピエールには敵対し、
ブリッソの派閥に入る。ローラン大臣の推挙で国立図書館管理者となる。マラー、クートン、ロベスピエールから
攻撃されて他のジロンド議員らと共に逮捕・処刑された)

 Jean-Louis Carra

132. シャルル・レオノール・デフリッシュ・ヴァラーゼ DESFRICHES-VALAZE(Charles-
Leonore), 42歳。議員。アランソン生。
(シャルル・エレオノール・デュフリッシュ・ヴァラーゼ Charles Eleonor Dufriche-Valaze 1751-93 公会議員。
父親はアランソンの弁護士Nicolas Dufriche des Genettes 1692頃-1758。母親はFrancoise Le Sergent
1722頃-55頃。三人兄弟の末子。
父親は母親とは1741年に結婚しているが、22年にMarie Marthe Plet de La Barre 1700頃-40頃と結婚しており、
その間に生まれた異母兄に当たるNicolas 1730頃-1803{ルーアン高等法院弁護士}の子供{つまり異母甥}は、
Rene-Nicolas Dufriche des Genettes 1762-1837で、ジロンド派が没落するとルーアンに逃げていたが、ナポ
レオン軍の主任医師として高く評価され、Baron Desgenettesとなり、防疫にも成功、またロシア戦線では、捕虜に
なったが多くのロシア兵の治療に当たっていたことをロシア皇帝に感謝され、コサックの護衛付きでフランス側に
引き渡されたということもある。また復古期にも科学アカデミー会員となり、パリ10区区長、アンヴァリッドの主任
医師になる等、最後まで活躍した人物。
長兄Christophe Francois 1742-95は、GenettesとMadelainesの領地を継承し、ルーアン高等法院弁護士で革命
裁判所判事となり、71年結婚し一男ニ女をもうけている。95年本人はベルギーの軍隊で亡くなっている。次兄の
Charles Nicolas Guillaume 1747-1808はやはり高等法院弁護士で、オルヌのMortagneの民事裁判所判事で、
73年結婚し、三女二男をもうけている。ドルーの裁判所判事ともあり、94年3月逮捕され投獄、零落した一家は
ドルーの農民らの提供する食糧で食いつなぎ、テルミドールで解放されたとある。その長男{つまりこの人の甥}
Charles-Eleonore Dufriche des Genettes 1778-1860は、両親の反対を押し切って聖職者となり、革命中のミサ
も強行、両親は当局を恐れてSaint-Lomerに退去した。{94-95年の冬、ドルーのサン・ピエール教会} 追放され
たが帰郷後は神学校に通い1803年司祭となり、革命政府と同じようにナポレオンも恐れず、法王に忠実な聖職
者となり、la confrerie du Tres-Saint et Immacule Coeur de Marieの創設者となる。
 この人は77年Anne Charlotte de Broe 1752-1814と結婚。一男一女をもうけた。長男Eleonore Anne Christophe
 Zoa 1780-1838は1830年のアルジェリア征服に際しての工兵司令官で陸軍少将となる。Baron de Valaze。
長女Charlotte-Anne 1785生 は1809年Noel Narcisse Francois Romain Le Tellierと結婚し、准将で議員のCharles
 Romain Letellier-Valaze 1812-76やフロベールとの文通で有名な女優Edmee Le Tellier 1817-91{この女性は
上記の聖職者Charles-Eleonore Dufriche des Genettesの妹の息子Charles Roger des Genettesと結婚したので、
Mme Roger des Genettesとして有名}の母となっている。
初めて軍隊に入り1774年に将校として退任。法律を学び弁護士となった。84年Traite des lois penalesを出版、
農学と政治経済に従事する。
革命が始まるとアランソンの管理者となり、反君主制の新思想の熱心な支持者となり、1792年に公会議員に
選出され、ジロンド派に加わる。
ルイ16世に対する告発に関する報告書をまとめるよう割り当てられ、王を処刑することに投票。
他のジロンド派と共にコミューン、その後マラーを非難し、モンタニャール派との政権闘争で闘う。
革命裁判所により死刑判決を受けると、隠し持っていた短剣で自分自身を刺した。傍らのブリッソが「おい、きみ、
動揺しているのか?」と尋ねると「いいや、死ぬところだ」と答えたという。
死体は処刑されるジロンド議員らと共に護送車に乗せられ、共に葬られた。従って、ギロチンにはなっていない。
2年後、未亡人と子供たちは年金の受給を許可された。
1966年アランソン市庁舎の修復工事{市庁舎は1783年、アランソン公邸跡地に建設されたので、当時は新築の
建物}の際に、天井裏から297枚のチラシで出てきて、それは1793年のCharles Eleonor Dufriche-Valazeのもので、
「私は告発者もいないのに、理由もなく逮捕された」と書かれていた)

 Charles-Eleonor Dufriche de Valaze.................................................................................................................................................
長男・Eleonore Anne Christophe Zoa

甥・Charles-Eleonore Dufriche des Genettes   
異母甥・Rene-Nicolas Dufriche des Genettes

133. ガスパール・セヴラン・デュシャテル DUCHASTEL (Gaspard-Severin), 27歳。議員。ロシュフォール生。
(Gaspard-Severin Duchastel 1766-93 本来はdu Chastel。公会議員。
父親はポワティエ財務局長Jacques-Francois Duchastel 1734-88。母親はFrancoise Thomas des Touches 1731頃
-93{1月23日ポワトゥーのCersayにて死去}。一女二男の次男。du Chatel家はChouze-sur-Loireの旧家。
長姉は夭折か。兄Jacques Francois 1760-89は故郷で29歳で早世。
この人の結婚記録はない。
父親の弟Louis-Charlesの息子(つまりこの人の従弟)Louis Claude du Chastel 1772-1850は革命戦争、ナポレオン、
ルイ・フィリップ治下に活躍した野戦総監である。
この人はポワティエで学んだ後に国王近衛隊gardes du corps du roiに入隊する。「高い背丈、屈強な体躯、優雅な
顔立ちは人々の目を惹きつけた。カルラ{131}は公会で彼の隣席だったが、その曲がった身体と大きな頭と無造作
な衣装は彼の美しさと対照的だった」とAlphonse de Lamartineは表現している。様相には他にも多くの賛美の記録
が残っている。
父が亡くなるとLa Pinarderie, La Serreの領地とBouille-Saint-Paulとその付属地Rochefou及びLe clos de La
Relandiereの領主権を継承する。{厳密には父逝去の翌年に兄が他界した後だろう}この人はこれらの領地運営の
ためにすぐに退官し、Cersayに戻った。
革命勃発で90年11月15日Deux-Sevresの管理者となる。またThouarsの国民衛兵指揮官に任命される。
北部で反乱が起こり、92年対ヴァンデ軍の委員となると同年8月24日Bressuire近くで勝利をおさめた愛国者の先頭
に立っていた。そして92年9月国民公会のDeux-Sevres選出議員となる。
ルイ16世裁判では退位・追放に投票。
93年4月、マラーの弾劾に賛成。ジロンド派が逆に失墜すると、この人はカーンへの逃亡者に加わることを選択。
ナントからカンペールに向かい、ボルドーに入りフィラデルフィアに亡命しようと試みたが、1793年10月24日逮捕。
パリへ連行されコンシェルジュリーに収監。主訴は国王の死刑に反対したことだった。この人は亡命者の無実の子
らを擁護したことについて誇りに思っていると言っている。また「裏切者に死を」の怒声の中、この人は黙って瞑想
しており、穏やかに断頭台上に登ったそうである)

134. ジャン・フランソワ・デュコ DUCOS (Jean-Francois), 28歳。議員。ボルドー生。
(1765-93  商人。公会議員。128の義兄。
父親はボルドーの富裕な商人Jean Etienne Ducos 1730-1812。母親は樽製造業で成功した船主でサン・ドミンゴの
土地保有者である商人の娘Marie Lavaud 1742-1825。五男三女の長男。
妹Jeanne Justine 1767-1820は128のジャン・バティスト・フォンフレードの妻となる。弟Jean Francois Henri 1775-
1854は商人となり、この人の未亡人Jeanne Agathe Lavaudと96年結婚し一女二男をもうけ、長女のDenise Nanine
1796-1885は妹Marie Jeanne Josephineの長男Jean Etienne Henry Gentyに嫁いでいる。 弟Jean Francois 
Armand 1778-1851はボルドー南東61キロのLa Reoleの副知事、知事室評議員となり、結婚し四男をもうけ、長男
Jean Etienne Theodore Ducos 1801-55は海軍・植民地大臣{1851-55}となる。妹Marie Jeanne Josephine 1779-
1817は1805年輸送船船長Jean Dominique Gentyと結婚し、二女一男をもうけ、夫共にマルティニークに渡り、夫と
死別後、同島にて再婚している。他の兄弟姉妹は夭折。
 この人は1790年母方従妹Jeanne Agathe Lavaud 1772-1831と結婚し、一男一女をもうけた。長男Jacques Jean 
Emile 1791-1816は25歳、長女Jeanne Marie Adele Minette 1792-1804は12歳で早世している。妻は上記の通り、
96年弟Jean Francois Henriと再婚している。
 この人は貿易をナントで学び、政治と哲学に関心を抱く。立法議会議員に選出され、ジロンド派ではあるが、モンタ
ニャールに近い立場をとる。1792年9月国民公会の議員に選出され、ジロンドとモンタニャールの橋渡し的な立場を
とる。国王裁判では死刑投票する。ラ・ファイエットとは激しく対立。マラーとは親しく、1793年6月2日の追放を免れる。
しかし10月3日Amarにより告発されて逮捕。他のジロンド議員らと運命を共にした。処刑を待つ間、この人は「公会
は共和国の不可分性について忘れてしまったようだ」と言ったという。
またMontfort-en-Chalosse生まれでLandes選出の公会議員となり、やはり国王に死刑投票し、ジロンド派追放に
賛同した平原派議員Pierre Roger Ducos 1747-1816は一般にRoger-Ducosとして別せられる。
またこの人は、2010年のSusanne Alleynによる歴史ミステリー「Palace of Justice」に義弟にして友Boyer-Fonfrede
と登場している)

 Jean-Francois Ducos   甥・Jean-Etienne-Theodore Ducos

133. ジャン・デュプラ DUPRAT (Jean), 42歳{⇒32歳}。議員。アヴィニョン生。
(Jean Duprat 1760-93 絹商人。アヴィニョン市長。公会議員。処刑時32歳である。
父親はJean-Andre Duprat。母親はMarie-Anne Legier。
四女二男の次男。長姉Marie Francoiseはカルメル派修道女として1850年死去。兄Jean Etienne Benoit 1752-1809
は91年まで法王の部隊の大佐だったが、この弟共に虐殺に参加、後ナポレオン軍に仕えてワグラムで戦死。凱旋門
の19列目に名が刻まれている。姉Marie Therese 1760頃生 は81年 Joseph Francois Reynard-Lespinasse 1755生
と結婚し四男二女をもうけた。{この四男二女に結婚等の記録はないが、末子Joseph Eugeneのみ結婚、七女六男を
残している}妹Marie Francoiseも長姉Marie Francoiseと同様カルメル派修道女となり、長姉と同じ1850年に死去。
 この人にはどの系図にもないが、妻のような立場の恋人がいたようで、テルミドール反動後、政府はこの「妻子」を
援助したとある。
90年6月、アヴィニョン市長に選出。1791年10月16〜17日に発生したアヴィニョンのLa Glaciereの虐殺{法王派の虐殺}
に関与した疑いがある。{この後の92年に市長選出ともある} 92年7月16日〜92年9月立法議会議員。92年9月〜93年
10月までBouches-du-Rhone選出の国民公会議員。
ジロンド派となるも、国王裁判では死刑に投票した。
処刑時、アヴィニョン時代からの同志である125のマンヴィエールの横で共にラ・マルセイエーズを歌っていた)

136. クロード・フォーシェ FAUCHET (Claude), 49歳。議員。ドルヌDorne生。
(Claude Fauchet 1744-93 聖職者{憲法宣誓Calvados司教}。立法議会、国民公会議員。
父親はブルゴーニュのDornesの商人で大土地所有者Nicolas FAUCHET 1704-81、母親はAnne LEGIER。父親は
再婚で前妻Jeanne GACHOT 1691-1735との間に異母姉Jeanne FAUCHET 1728-68がいた。この異母姉は1750年
Antoine DECANTE 1717-75と結婚し二男一女をもうけた。
パリのSaint-Roch教会の助任司祭となりルイ15世治下のショワズール大臣の兄弟Marquis de Choiseulの子らの家庭
教師となる。これは幸いして、ブールジュ大司教Georges-Louis Phelypeaux d'Herbaultの司教総代理、後にブルター
ニュのMontfort-Lacarreの神父にして国王の説教師の地位にのぼった。85年オルレアン公の葬儀、86年大司教
Michel Phelypeaux{?}の葬儀を執り行う。88年ある宴席で自分の新しい思想を語り、それが原因で国王の説教師から
除名された。{恐らくフリーメイソン思想への教会の合一を目指したものと推定}
89年バスティーユ攻撃の際には、自らサーベルを手に暴徒を誘導。7月14日の犠牲者の葬儀も執り行った。国民衛兵
の三色旗を祝福し、9月に自治体委員に選出され、90年10月に引退。 その冬 ≪ Confederation universelle des Amis
 de la Verite ≫を主宰し教会の再編を試みた。
1791年5月カルヴァドスの宣誓司教に選出。続いて立法議会、国民公会の議員にも選出。熱狂的な人々を不安視し、
ジロンド派に接近する。国王裁判には追放に投票。処刑には抗議した。司祭の結婚とカトリック崇拝の維持に反対、
妻帯した司祭が自分の教区で権限を制限されたことに抗議した。国王の処刑と教会の改革法への反感でジロンド色
が濃くなっていく。 Chabotによりカーンの反革命派との関係、シャルロット・コルデーへの加担{愛国者Adrienne
Lebourgeoisという者が、このパリを知らぬシャルロットが同郷の司教であるこの人により公会に導かれたという憶測から
のものに過ぎない}を告発され、これに関しては釈放されたが、1793年10月のジロンド派議員検挙でコンシェルジュリー
に収監。そして処刑される)

 Claude Fauchet

137. アルマン・ジャンソネ GENSONNE (Armand), 33歳。⇒35歳 議員。ボルドー生。
(Armand Gensonne 1758-93 立法議会議員、公会議員。処刑時35歳。
父親はギュイエンヌの王軍主任外科医でサント・ドミンゴで財を成したJean-Baptiste Gensonne。母親はジロンド県
裁判官の娘Marie Tranchere 1724生。
兄弟姉妹の記録はない。
1784年海軍大尉の娘Marie-Desiree Leysson 1839没 と結婚し、一女三男をもうけた。長女Marie Jeanne Desiree
1784-1812は1805年ボルドーの公証人Nicolas Guillaume Mailleretと結婚している。85年から87年にかけて生まれ
ている男子3名については夭折か生年記録しかない。{末子Jacquesに関しては1787頃-96頃ともある}
ギュイエンヌの高等法院弁護士、自治体の主席検事{1790}となり、91年立法議会議員に選出されブリソネを支持し
ジロンド派となり、黒人解放の黒人友の会に入会。8月10日事件の暴徒の有り様に危機感を覚える。92年公会議員、
9月虐殺を非難。国王には死刑投票。93年3月21日議長となる。しかしジロンド派中、この人は最も穏健であった。
ロベスピエールによりデュムーリエとの共謀を非難され、またかねてから対立していたパリ自治市会からも非難され、
93年6月2日逮捕。この時、かつて8月10日事件の折にこの人が命を救ったある憲兵gendarmeにより、逃亡するチャ
ンスを与えられた。しかしこの人は「私は自分の運命に抗うつもりはありません。自分に正直に行きます。有権者らは
私を選出しました。ですから私は彼らが与えてくれたこの職のまま死ぬ必要があるのです」と断ったという)

 Armand Gensonne

138. ジャック・ラカーズ LACAZE (Jacques), 42歳。議員。リブルヌLibourne生。
(ジャック・エネ・ラカーズ Jacques Aine Lacaze 1752-93 公会議員。処刑時41歳。ギュイエンヌのLibourne生まれ。
父親は商人Francois-Aime Lacaze 1715-93(Libourneにて没)。母親はJeanne Fontemoing 1796没。
六女八男の次男として生まれるも生誕時には長兄夭折後なので長男。長姉Marie 1748生 はJean Detronと結婚
している。次姉Francoise 1750-75は結婚記録なく25歳で早世している。妹Jeanne Catherine 1756-1830も系図に
は結婚記録はない。弟Joseph Lacaze 1758-91は33歳で早世。弟Jean-Jacques 1763-1804は94年にMarie-
Catherine Decazes 1779-1804と結婚し3子をもうけている。他は夭折か早世。
この人は1780年Jeanne Victoire Mathieu de Boissac 1758-82と結婚し、二男を得ているが共に夭折か。また妻も
次子出産年に24歳で亡くなっている。
リブルヌの商人だったが、91年ジロンド県管理者となる。1792年9月9日にジロンド選出国民公会議員となる。貿易
委員となり塩漬け肉の輸出禁止などを行う。
国王裁判では追放に投票。93年4月マラー起訴に投票。6月2日29名のジロンド派議員が逮捕された中には含まれ
なかったが、この逮捕に抗議し、またリブルヌ世論に悪影響を及ぼしたとしてAmarに告発、逮捕され、運命を共に
することになった。処刑時は他の者とラ・マルセイエーズを合唱していたという)

 Jacques Lacaze

139. マリー・ダヴィド・アルバン・ラスールジュ LASOURGE(Marie-David-Albin), 31歳。議員。アングレーAngle生。
(マルク・ダヴィド・アルバ・ラスールス Marc David Alba Lasource 1763-93 Marc-David Albaが本名で、Lasourceもし
くはLa Sourceはプロテスタント司祭としての通称名。但し本人は革命中それを名乗り続けていた。
父親は富裕な商人Cesar Alba de Lasource{各系図でもde Lasource又はLasourceとなっている}。母親はAnne Esther
 Amalric d'Hugonin 1727-1812以降。三男三女の三男。
長兄Jean 1754-1817は二度結婚している。長姉Esther 1756生 は1781年結婚している。次兄Louis Cesar 1759-98は
製造業を営む治安判事だったが、結婚している。妹一人は夭折か生年のみ。末子である妹Henriette 1774-1815は
結婚記録なしでアングレーで生まれ同地にて没。
この人は1787年Jeanne Antoinette Catherine de Galtier de Laroque 1774以前{65年とも}-87と結婚し、一男をもうけ
るも出産時か、1787年同年に妻子を失っている。91年ナヴァールの騎兵大尉の娘Jeanne Antoinette de Noir de
Cambon 1752-1836と再婚。子の記録はない。
Languedoc-Roussillon-Midi-PyreneesはTarn県のAnglesのLe Crouzet生まれで、スイスのローザンヌの神学校で学ぶ。
カルヴァン派の牧師となる。革命後、1791年8月30日-1792年9月20日はTarn選出の立法議会議員。1792年9月3日
-1793年10月31日国民公会議員となる。また93年4月18日-5月2日は同議会議長。
92年7月立法議会議員の時、かつて崇拝していたラ・ファイエットを危険人物として起訴する提案をした。
公会議員時は戦争支持派としてジロンド派に近づく。国王裁判では死刑に投票。公会議長になるまでの1793年1月24日
〜1793年4月は保安委員会委員だった。ダントンを非難しマラー、ロベスピエールと敵対する。
1793年6月2日逮捕、そして処刑。最後まで他の議員らと歌を歌っていたという)

 Marc David Alba Lasource

140. クロード・ロマン・ローズ・デュペレ LAUZE-DUPERRET (Claude- Romain), 46歳。議員。アルル生。⇒アプトApt生。
(クロード・ロマン・ローズ・ド・ペレ Claude Romain Lauze de Perret 1747 - 93 立法議会議員、公会議員。
父親はPierre de Labecede de Lauze de Perret。母親はMarie Rose Estienne。兄弟姉妹の記録はない。
元々はCevennes出身の貴族家系。祖父のClaude Romain{系図には父親まで}はSaint-Etienne市長で国王評定官を
しており、この人もその地の女性と結婚している。Saint-Etienne-Vallee-Francaiseの近くのChateau de Perretを所有
しており、de Perretと名乗っている。
この人はSaint-Etienne-Vallee-Francaiseで1771年Suzanne Madeleine Angelique de Valmalete du Couste de Solieges
 1746-80{父親はトゥールーズ在住のCrest領主。祖父はラングドックの国王評定官でラングドックの商務長官Directeur
 General des affaires)と結婚し、二男四女をもうけた。長男Pierre Joseph 1772-1864はNimes王立裁判所弁護士で、
97年二度目の結婚をしている。1814年この父親についての名誉回復を訴えたDenonciation au Roi, et a l'opinion 
publique, d'iniquites et d'attentats commis sous le Prefet de Police Duboisの著者。二度の結婚に子の記録がなく、
WiKiにある「息子と孫娘」が名誉回復の活動をしたとある中の「孫娘」がこの人の娘なのかは不明。
長女Suzanne Marie Adelaide Louise 1773生 は96年結婚し一男をもうけた。四女Jeanne Marie Ursule 1778-1851には
結婚記録はない。Francetteと呼ばれていたとある。
 この人はAix議会の弁護士、Saint Etienne de Valfrancisque市長となり、Bouches du Rhone選出の立法議会議員、国
民公会議員となり、ジロンド派議員となる。1793年1月9日保安委員会委員となりモンタニャール派の強い反発を受ける。
国王裁判では追放に投票。 1793年4月11日議会会期中に剣を抜いてマラーとその仲間を脅すという事件も起こしてい
る。 1793年7月14日シャボによる告発でシャルロット・コルデーとの共犯容疑について尋問されるが、一度は釈放、しか
し同容疑により再逮捕されると収監。他のジロンド派議員らと運命を共にした。長女アデライドと末娘Francette{上記の
四女Jeanne Marie Ursule}に援助金が93年11月30日1500リーヴル支給されている。
ヴォクリューズ県アプト{Apt}の生まれだが、Aptの自治体は革命百周年の1889年、国民庭園Jardin publicとセニョン門
Porte de Saignonの間をローズ・ド・ペレ散歩場cours Lauze de Perretと命名した)

 アプトの高級陶器Claude Romain Lauze de Perret

141. ピエール・ルアルディ LEHARDY (Pierre), 23歳。⇒35歳。議員。ディナンDinan生。
(Pierre Lehardy 1758-93 2月10日生まれなので処刑時35歳。医師、公会議員。
医師からブルターニュのモルピアンのJosselin地区検察官となり、1792年9月5日にモルピアン選出国民公会議員と
なる。そしてパリ保安委員会委員となる。国王裁判では、国民が新憲法を承認するまで国王の身柄は拘留し、後に
他のブルボン党派と共に追放と投票した。 1793年4月13日マラーの弾劾に投票。6月2日逮捕、10月3日起訴。そして
処刑となる)

142. ブノワ・レテルプ・ボーヴェー LESTERP-BEAUVAIS (Benoit), 議員。 フロラックFlorac生。
(Benoit Lesterpt-Beauvais 1750-93 三部会議員、公会議員。リムーザンはHaute-VienneのLe Dorat生まれ。43歳没。
父親は弁護士で主席検事Francois Lesterpt de Beauvais 1702-53。母親は国王評定官の娘Dorothee Corderoy du
Tiers 1717-88。兄がおり、Jacques Lesterpt 1745-1831もこの弟と共に三部会議員となり、立法議会議員となる。Dorat
の裁判所長となるため帰郷。92年9月2日に公会によりHaute-Vienne選出の主席議員を命じられ95年2月27日迄在席。
{他資料では95年2月27日に弟の替わりにHaute-Vienne選出の公会議員に任じられた、とも}
500人会を経て95年10月26日Haute-Vienne刑事裁判所判事となり1811年引退している。
この人は1785年Marie Bigaud de Beaulieu 1766-1829と結婚し二男をもうけた。長男Alexis Lesterpt de Beauvais 1786-
1848は、騎兵中隊長となり、結婚し一男一女をもうけている。次男Charles Francois Pierre Lesterpt de Beauvais 1789-
1849も結婚し一女一男をもうけ、長男Henri Felix Suzanne 1835-98は伯爵となっている。
この人はBasse-Marcheの弁護士を経て、兄と共に三部会議員となる。1792年9月2日国民公会Haute-Vienne選出議員。
ジロンド派となる。国王裁判では、敵が国内へ侵入した場合は議会・立法機関の議決のもとで死刑と主張。1793年1月
19日執行猶予に投票する。清算委員、財務委員代理となる。マラーの起訴に投票。
リヨン近くのSaint-Etienneの武器工場の監督官となるが、穏健派を疑われ、リヨンの反乱共謀容疑をLe Carpentier
から訴えれた。そして逮捕・処刑となる。
一族はオート・ヴィエンヌのChateau de La Chabroulieを所有している)

143. ジャン・フランソワ・マルタン・ガシェリー MARTIN-GACHERY (Jean-Francois), 39歳。⇒38歳。議員。パリ生。
(ジャン・フランソワ・マルタン・ガルディアン Jean-Francois Martin Gardien 1755-93 Indre-et-LoireのChateau-
Renault生まれ。公会議員。
父親は王室公証人で税務検察官 Alexandre Gardien。母親はJeanne Baudruau。兄弟姉妹の記録はない。
この人はFelicite Marguerite Louise Lendormyと結婚し一女Marie Eugenieを92年もうけている。ただ「4人の子供」と
記されている資料もあり。拘留中、妻は彼との「4人の子供」も共にして欲しいと当局に依頼したそうである。
シャトー・ルノーの弁護士であったが、90年4月の手紙に残っているように当初は革命に批判的だった。しかし考えが
変わり92年9月6日アンドル・エ・ロワール選出の公会議員となる。最初はモンタニャール派に近かった。90年のナンシー
事件の鎮圧に際して国王がブイエ侯へ送った祝福の手紙を取りあげ、事件の原因に国王がいると主張。地元シャトー・
ルノーの王室主義者の逮捕に動く。
その後、ジロンド派へ加わり、国王裁判では拘束と追放に投票。危険な扇動者であるマラー弾劾を支持。
12人委員会に入り、ジャコバンとの対立は顕著になる。ブロワ自治体での反革命派との関係を告発され、論争になる。
しかしジロンド派の没落により、他の議員らと共に処刑されてしまった。
処刑議員の中で最も美声だったこの人は、刑場への歌を一番熱心に歌っていたという)

144. ピエール・ヴィクテュルマン・ヴェルニョ VERGNIAUX (Pierre- Victurmen), 31歳。議員。リモージュ生。
(Pierre Victurnien Vergniaud 1753-93 弁護士、立法議会、国民公会議員。処刑時は40歳。
父親は鉛管と錫加工商で王軍の御用商人Pierre Vergniaud 1717-90。母親は富裕層の娘Catherine Baubiat 1708-86。
一女三男の長男。姉Marie1751-1836はリモージュ市長になる実業家Francois Alluaud 1739-99と結婚し12人の子供をもうけ
た。弟Guillaume Henri 1764-1844は高等法院、革命政府の弁護士。もう一人の弟Francoisは夭折か。
この人は1793頃、Adelaide Rosalie Adele Sauvan 1775頃-1810と婚約している。この婚約者は94年12月、軍医 Jean-
Joseph Sueと結婚し一男一女をもうけた後に離婚し、1803年アカデミー会員で文学者のGabriel Jean Baptiste Legouve
1764-1812と再婚、一男をもうけ、この子Ernest 1807-1903もアカデミー会員となっている。
この人は裕福な商家の生まれだったので、若くしてイエズス会の古代言語学者の教育を受けて生涯古典を愛した。テュルゴ
ーがこの地方の知事だった頃、父親の知人で、テュルゴーの前で詩の朗読をし才能を認められ、後援の元にパリの College
 du Plessisに入学した。その後、しばらく方向性を失い、演劇を書いたり、サロンに出入りしたりし父親を失望させた。その後
知人らの奨めでボルドーで法律を学び弁護士となる。
その時に姉の夫Francois Alluaudから大変に援助してもらっている。乱交と幼児殺害で訴えられたMarie Berigaudの事件で
彼女の無罪を勝ち得て名を馳せた。また90年のAllassac村での祝辞に騒ぐ農民に対する貴族の発砲騒ぎ、そして治安維持
で駆け付けたBriveの国民衛兵Pierre Durieuxが農民に味方し裁かれた事件でも見事に弁護し、その名声は全国的になる。
 91年8月、立法議会議員に選出されてパリに行き、議員としての政権闘争の場に入る。
基本は立憲君主制支持だったが、ヴァレンヌ事件後は王政を激しく否定した。しかし9月虐殺の後の過激化には危惧。国王
裁判は死刑に投票したが、ジロンド派との関係を強めていく。「国民の代弁者ダントン、雷の声のミラボー、魂のヴェルニョ」
と呼ばれた。しかし公会の陰謀を公にし、ロベスピエールと対立。穏健派として非難される。 1793年6月2日の逮捕の際は、
前日にそれから逃れ、約一ヶ月は監視下に置かれ、7月初めにラ・フォルスに収監された。この人は毒物を所持して牢内に
持ち込んだがそれを使用することはなかった。処刑時、ラ・マルセイエーズを歌い、最後に断頭台にのぼった)

 Pierre Victurnien Vergniaud

145. ルイ・フランソワ・セバスティアン・ヴィジェ VIGER (Louis-Francois-Sebastien), 36歳。⇒38歳 擲弾兵。議員。ルロジエ
Lerosier生。
(Louis-Francois-Sebastien Vigee{Viger} 1755-93 Maine-et-LoireのLes Rosiers-sur-Loire生まれ。弁護士、公会議員。
父親は商人でHubinieresの領主Pierre Sebastien Viger 1720頃-85。母親は主任外科医の娘Francoise Marthe Lepage。
妹Francoise Marie Viger 1757頃-1825がいた。彼女はDame des Hubinnieresと呼ばれ、1774年Gilles Andre Toussaint 
Tessie de La Motte 1748-1811と結婚、この夫はブルジョワで弁護士でLes Rosiers-sur-Loireの市長。三女四男を得る。
この人は1781年Francoise Testu 1762生 と結婚、子の記録はない。
21歳で弁護士となる。90年アンジェの代表検察官procureur-syndicとなり、91年立法議会議員補。92年5月辞任後はMaine
-et-Loireの義勇兵第2大隊に入隊。92年9月20日ヴァルミーの戦いに参加。93年4月27日Maine-et-Loire選出国民公会議
員となる。{辞任したLouis-Charles-Auguste Dehouliereの後任として}
穏健派としてジロンド派議員となる。12人委員会の委員。93年6月2日では自宅拘禁。6月8日サン・ジュストの報告で解放の
希望が出たが、10月3日の起訴に含まれ、他議員と共に処刑されている。1797年7月27日付のLothringer神父による手紙
によると死の前にこの人は告解をしたと明言されている)

1793年11月1日

146. ニコラ・ルロワ LEROY (Nicolas), 23歳。⇒29歳。憲兵。ヴェルサイユ生。
(元資料も29歳とある。Seine et Oise在住のgendarme national、ヴェルサイユ生まれの29歳、等の記録のみ)

1793年11月2日

147. アンドレ・デシャン DESCHAMPS (Andre), 44歳。時計師。
(Andre Deschamps フォーブール・サン・ドニ在住の時計職人で、自宅地区のカフェ{cafe Chevanes}で、反共和国的な
発言をし国王の必要性を説き、市民Marage他のすべての隣人らを非難したとして告発された)

148. ピエール・ゴンドアン GONDOUIN (Pierre), 37歳。馬商人。ヴィムーティエVimoutiers生。
(1756-93 ノルマンディーはOrneのVimoutiers生まれ。馬商人、系図では両親等は不明。偽アッシニャ紙幣の発行に関わ
ったとして処刑されたとある。
Vimoutiers生まれのPierre Gondouinあり、職業は「商人」とのみあり、父親は日雇人夫Laurens Gondouin 1780以降没。
母親はAnne Andrieu 1780以降没。{両親は共に1780年2月1日以降没とあるので、この人の婚姻80年2月1日には存命が
確認されているという意味だろう}。この人は80年商人の娘Angelique Colas 1756生 と郷里Vimoutiersにて結婚、子の記録
は系図にはない。妻は97年洗濯屋Jacques Louis Jean Baptiste Chervelsと再婚している。
また別系図には同姓同名者で、すべて年代未詳でAnne Angelique Coloと結婚した後、Illisible某と再婚し Jean Pierre
Isidore Gondouin 1782生 をもうけ、この息子はリネン洗濯業を営み、1807年Vimoutiersにて同地方Pontchardon生まれ
のHenriette Marie Catherine Lallemand 1780生 と結婚している。この系図のPierre Gondouinの生地は未記載で、死亡
地のみHaute-NormandieのEureのBernayとあり、パリでの処刑ではない。ただ息子の生地はVimoutiersとあり、また初婚
の妻の姓氏もAnne Angelique Coloとあり、前出者の妻Angelique Colasとの類似が見られる)

149. ジャン・シモン・ラ・コンブ・ピュイギュロー LA COMBE PUYGUERAUD (Jean-Simon), 33歳。ジロンド地区行政官。
ボルドー生。
(Jean Simon Lacombe PuygueraudもしくはPuigueyraud ジロンド県{ボルドー地区とも}の軍事安全委員会委員。それ以外
は系図も他資料も見当たらず。後二者らと同じ委員会委員。ボルドーはジロンド派の本拠地であり、タリアンやイザボーが
軍隊を率いて乗り込み粛清にあたっている。約5000名が逮捕され、市長で軍事委員会委員長に任命されていたFrancois-
Armand de Saige 1734-93等は10月23日ボルドーにて処刑されている)

150. ギョーム・ル・モワーヌ LE MOINE (Guillaume), 37歳。ジロンド地区行政官。ボルドー生。
(ギョーム・アントワーヌ・ルモワーヌ Guillaume Antoine Lemoine 1756-93 
1777年ボルドーの高等法院弁護士。92年10月28日ボルドー地区議長。共和国安全人民委員会委員。93年8月6日法の
保護を外され処刑に至る。前者や後者と同様のジロンド県軍事安全委員会militaire de salut public du departement de la
Girondeの委員ともある。ボルドーはジロンド派の本拠地であり、タリアンやイザボーが軍隊を率いて乗り込み粛清にあたっ
ている。約5000名が逮捕され、市長で軍事委員会委員長に任命されていたFrancois-Armand de Saige 1734-93等は10月
23日ボルドーにて処刑されている。
最後の手紙を残している。それはヴァロワ通りヴェルサイユ・ホテルにいるラフォン宛で、相手を「デュアイエ」と呼んでいる。
ボルドーの郷里の父と妹たちのことをお願いしている。すぐにボルドーへ行き、彼らの側にいてやってくれと)

151. ガブリエル・ヴォルナゼル VORNASELLE (Gabriel), 43歳。ジロンド地区行政官。ボルドー生。
(ヴォルムゼル男爵ガブリエル・ド・ロション・ド・ヴォルムゼル Baron de Wormeselle,Gabriel de Rochon de Wormeselle
{Vormeselleとも} 1750-93 QueyssacのChateau du Mas生まれ。国王近衛軽騎兵。三部会貴族議員、地区行政官。
父親は竜騎兵大尉Baron de Wormeselle,Francois Honore de Rochon de Wormeselle 1714頃-96。母親はBaron de
Charmailの娘Marie Marguerite de Trevey 1714生。
Rochon家は17世紀より明確な記録があり、それ以前は二次的な資料による確認となるが、Rochon de Lapeyrouse家
としてオーヴェルニュを発祥の地とする12世紀以来の貴族で、DordogneのBergerac近くCleransの判事で弁護士の
Guillaume de Rochonの息子で国王侍従Jacquesの子でChamilly騎兵連隊軽騎兵、後にNuits総督となったFrancoisが
1675年Dame de Vormeselle,Jeanne Claire d'Hayninと結婚したことにより始まる家系である。このFrancoisの曾孫がこの人
となる。
この人は三女二男の長男。姉Francoise 1749-1806は1770年アンギャン歩兵連隊大佐で1780年国王軍准将となる同系の
 Louis Bonaventure de Rochon de Lapeyrouse 1719-92と結婚し{30歳も年上だが}、二女一男をもうけた。弟Alexis Gabriel
1756-1842は同じく近衛軽騎兵となり、後にアンギャン連隊、ラ・クーロンヌ連隊所属となる。85歳でベルジュラックにて亡く
なったが死亡証明には「退役大佐、サン・ルイ騎士、独身」とある。
この人は1779年、 Bas-Medocの司令官での娘でその継承者Dame de Romefort, Marie Anne de Sudre des Ardouins
1755生 と結婚、四男四女をもうけた。長男Jean Martin 1781-1854は爵位を継ぎ、海軍士官となりフリゲート艦艦長となるも
結婚記録はない。四男Pierre Marie Pantaleon 1790-1811は海軍士官候補生となるが、イギリスの捕虜となり、スコットラン
ドのエジンバラにて21歳で没している。四女Anne Antoinette 1792生 は、1815年近衛軽騎兵の息子Jerome Marie Etienne
 Philibert d'Aux de Lescout 1788生 と結婚している。子の記録はない。他は夭折。
この人は1789年三部会貴族議員に選出されるが、革命理念を遵守しボルドー憲法友の会に入る。1790年メドックの
Begadanの治安判事となり、92年10月14日に県の管理者に任命され、人民委員会の部局責任者である軍事委員会の委員
長となった。ボルドーの人民委員会が中央に抵抗を示した件で下記のようにタリアンら議員が派遣されての逮捕・連行が
なされ、前二者らと共に処刑された。
ボルドーはジロンド派の本拠地であり、タリアンやイザボーが軍隊を率いて乗り込み粛清にあたっている。約5000名が逮捕
され、市長で軍事委員会委員長に任命されていたFrancois-Armand de Saige 1734-93等は10月23日ボルドーにて処刑され
ている。
この人は最後の手紙を残している。それはタンプル通り一番地のヴォルムゼル夫人宛で、「深く愛してきた妻よ、私はきみ
への沢山の愛情を抱いて死んでいく」とあり、自分のことを忘れないで欲しい、子供たちに自分をいつまでも覚えているよう
にしてくれ、そして可哀相な子供らのために生きて欲しい、財産は没収されたが大した財産ではない、涙を拭いて、後は子
供らのことだけ考えて生きていってくれ、と綴られている)

1793年11月3日

152. マリー・オランプ・ドグージュ DEGOUGE (Marie-Olympe), 38歳。女流作家。モントーバン生。
(マリー・オランプ・ド・グージュ Marie Olympe de Gouges 1749-93 劇作家。女優。女性民権指導者。本名はMarie Gouze。
父親はモントーバンの裕福な肉屋親方Pierre Gouze 1716-50。母親はモントーバン取引所の弁護士で布商人の娘Anne
Olympe Mouisset 1714-1784以降。この母親は大変に美しい女性でMarquis de Pompignan,Jean Jacques Le Franc de
Pompignan 1709-84の愛人であり、この人の真の父親はこのポンピニャン侯であると言われ、多くの系図もそれにならっ
ている。当時のモントーバンの人々は皆、それを認識していたらしい。母親はポンピニャン侯と関係した後、夫と死別して
Dominique Raymond Cassaigneau 1729頃生 という人物と1753年再婚している。最初の夫との間に、この人にとっては
異父兄弟となる三子あり、異父兄としてJean Gouze 1740-93以前 は、92年自主的に入隊し93年以前には死亡している。
異父姉としてJeanne Gouze 1741-92は医学博士と結婚し二女一男をもうけパリで没している。異父妹Jeanne-Marie 1749
生 は、恐らくはこの人同様にポンピニャン侯との間の娘{であれば実妹だが}で、没年等の詳細は不明である。
ポンピニャン侯爵はChateau de Cayxの生まれで当地の所有者。{1640年に婚姻により当城がル・フラン家の所有となる}
ポンピニャンの土地は父親が1709年購入。父親はモントーバン租税会計財務法院長だったが、この侯爵は婚姻により、
より裕福となり、文芸活動に人生を捧げ、科学と芸術のアカデミー会員でもあった。
この人は平民の出自を嫌い、1765年モントーバンでモントーバン総督de Gourgues氏の料理人Louis-Yves Aubry 1740以
降-1773以前 と結婚すると、母の名をとり、姓氏は父のGouzeと夫が仕えていた総督の名を混合してde Gougesを名乗り、
夫と死別後は社交界への出入りを目的としてパリに上京した。{夫との子Pierre Aubry de Gouges 1766-1803は、革命初期
にはMarie-Hyacinthe Mabilleと同棲しテルール後に結婚、少なくとも5人の子をもうけている。この息子はナポレオンにより
旅団長に任命されフランス領ギアナの首都カイエンヌに1802年一家で移っているが、数か月後に37歳で病没。妻はマルセ
イユ出身の事務官と再婚するが、ポルトガルにより1809年占領されたギアナから逃れる。しかし帰国途上の海路、船上にて
病没し海に葬られる。息子らは帰仏し、所帯をもち、長女Genevieve Hyacinthe Aubry de Gouges 1793-1853はイギリス
将校、次女Charlotte Olympe 1796-1856は裕福なアメリカ人の上院議員に嫁いでいる。アメリカやタスマニア、オーストラ
リアに残る子孫らは家族の肖像画や記録類を保有している}
 この人は夫の他にヴェルサイユの海軍・植民地局の管理官JacquesBietrix de Rozieres 1739生 とも関係しており、一女
Julie Bietrixをもうけるも89年以前には夭折している。また文筆家でフリーメイソンで92年にはパリ市会の事務総長をしてい
るChevalier de Cubieres,Michel de Cubieres-Palmezeaux 1752-1820とも関係している。{この士爵の元の愛人は、アレクサ
ンドル・ド・ボーアルネの伯父であるボーアルネ伯と結婚した女詩人で劇作家のMarie Anne Francoise Mouchard} この士
爵との関係は結婚としている系図もある。子の記録はない。
 この人はパリの姉の元に入り、上京。富裕な商人の愛人となったりし、モンテッソン侯夫人のサロン等に出入りし、ブリッソ
やコンドルセなど政治家、作家と親しく交わり、その美貌を有利に活用した。その後に文筆活動を開始すると、口述筆記で多
くの作品を発表、革命前からコメディー・フランセーズで上演されている。奴隷制に反対し黒人友の会の活動もしている。革
命後はコンドルセ侯夫人のSophie de Grouchyを通じて穏健派でジロンド支持だったが、国王の弁護を公会に申し出たこと
もあり、王党派嫌疑がかかる。また女権運動に反感をもつ人々からも弾圧された。1793年7月20日、ロベスピエールを批判
するポスターを貼っている時に逮捕。弁護士の欠席による自己弁護しかない裁判の後に死罪確定し、妊娠の申し出も却下、
処刑される。2003年パリ3区に「オランプ・ド・グージュ広場」設置。2016年19区に「オランプ・ド・グージュ通り」、同年国会議事
堂ブルボン宮に彼女の胸像が設置、2019年ボルドー・モンテーニュ大学はその円形広場にこの人の名を冠した。
 ライン方面軍将軍である息子に対して最後の手紙が残されており、自分の潔白と死刑に至るまでの経緯、政府の不正な
処置を訴えているが、それらのことは忘れなさいと書いてある)

 Marie Olympe de Gouges .........................実父・Marquis de Pompignan

  息子・Pierre Aubry de Gouges  
息子の嫁・ Marie-Anne Hyacinthe Mabille 孫娘・Genevieve Hyacinthe

1793年11月4日

153. マリー・マドレーヌ・クートレ COUTELET (Marie-Madeleine), 32歳。ジャコバンの印刷屋。ランス生。
(Marie-Madeleine Coutelet 1761-93 系図にはMadeleine Jacqueline Coutelet 1758-93ともある。
父親はランスのパン職人親方Nicolas Coutelet 1727生。母親はランス生まれのJeanne Marie Quicheron 1721-91。
市民ランバンが93年10月6日、ボールペール区委員会にこの人の姉で704のマリー・ルイーズ・クートレを亡命貴族との内通
容疑で告発した。この姉は麻糸工場の経営者ヌヴェグリーズの未亡人で、サン・ジャック通りと現在のスフロ通りの間に
工場があり、その中に居住していた。妹であるこの人は独身で、同工場内に住んでいた。告発当日の夕方、委員らはこの
工場内の住居に踏み込んだが、階を誤り、妹のこの人の元へ行ってしまい、そこで押収した手紙の中に、パン不足、アッシ
ニャ紙幣批判、王妃擁護、政府批判の内容がランスの叔母宛の手紙の写し{写しではなく未発送の手紙だと主張}に書かれ
ており、逮捕されてしまう。姉はその日は解放されている。この人は午前三時にコンシェルジュリーへ移送された。
最後の手紙が残されている。「ジャコバン製紙工場ヌヴェグリーズ夫人様方クートレ様」とあるので、両親は姉のところに同
居していたのかも知れない。愛を語り、我が身の潔白を語り、最後の別れの言葉が綴られているが、「私たちの子供が幸せ
でありますように」と書かれている。この人は「独身で同製紙工場で働いている」とあるが。
また処刑名簿には職業がimprimeur aux Jacobins、つまりジャコバンの印刷屋とある)

154. アダン・リュクス LUX (Adam), 27歳。議員。
(1765-93 マインツのフランス併合を求める為にフランスに派遣された哲学博士。ライン公会議員。
マインツ選帝侯領Obernburg am Mainにて農家の息子として生まれた。貧しい家庭ながら両親はこの人をマインツ大学に
進学させて18歳で哲学博士号を取得。系図には両親の名は未詳となっている。マインツの裕福な商家の家庭教師をしなが
ら生計を立てていたが、その商家Dumont家の娘との婚姻により、マインツ近くライン川右岸にKostheimの土地を購入でき、
そこで崇拝するルソーの教えに従って農作業をしつつ自然な生活をした。
1792年10月22日にフランス革命軍がマインツを攻略すると、革命理念に共鳴した臨時政府と革命議会ライン公会は、マイン
ツ共和国の樹立を宣言、当地をフランス領とし、この人もその政府の議員となる。自領のKostheimでこの人は「国民投票」を
行い、フランス革命政府に編入される可否を問うたが、223人中反対は2名のみだった。
1793年3月21日、他の二人の議員{内一人はキャプテン・クックの航海に同行した植物学者で作家のGeorg Forster}と共に
フランスに派遣され、正式な調印を行った。しかしあくまで当時のジロンド政府の革命理念への共鳴であり、サン・キュロット
とジャコバンの急進化には反対の立場であった。加えて、93年7月にプロイセン・オーストリア軍がマインツを包囲・開城させ
てしまい、帰国は保留となってしまう。そんな時、マラー暗殺事件が起きた。そこでシャルロット・コルデーによるマラー暗殺に
対して賛同するパンフレットを出し彼女をヒロインとして称賛。たちまちこの人は逮捕された。von Wedekindはこの人の行為
をシャルロット・コルデーへの恋慕の末のものとして弁護しようとしたが、この人はその弁護手法を拒否した。
 この人は明らかに処刑を望んでいたようである。そこで刑場に連行される彼女に魅了されて「これまで経験したことのない
激しい感動で私の心は一杯になった」と書き記し、彼女に続いて同じ断頭台で処刑されることを熱望、「今度は私にギロチン
の栄誉を与えて欲しい。ギロチンはもはや祭壇でしかないのだから」というこの人の主張は彼女へ対する真実な思いからの
ものである可能性が高い。目撃者Kernerによれば、「断頭台に彼はまるで演壇にでも立つかの如く上がっていった」という。
同時代のドイツ人作家Johann Paul Friedrich Richterは「ドイツ人は彼を決して忘れないだろう」と記した。またフランス革命
200周年に、ツヴァイクがこの人の生涯を描いた劇の断片が発見されている)

 Adam Lux

1793年11月5日

155. マリー・フランソワ・ジョゼフィーヌ・ドラベク DERABEC (Marie-Francoise-Josephine), 35歳。サン・マロ生。
(マドレーヌ・フランソワーズ・ジョゼフィーヌ・ド・ラベック Madeleine Francoise Josephine de Rabec 1757-93
父親は東インド会社役員でVicomte de PortpillyでもあるJacques de Rabec 1790没。母親はMadeleine Marie de Rabec
1738-79。恐らく一人娘。
初めの結婚は1775年Francois Rene Jacques de Foucaud 1754頃-77、ロリアンの貿易商だった。一男Rene Francois
Auguste 1777生 をもうけるも夫とは死別。この息子は革命中は母共々収容されていたが、後に1830年Brehand-
Montoncourの市長となり、1810年には結婚もしている。
1779年にスイス出身の銀行家Baron de Kolly,Pierre Paul de Kolly 1751頃-93{⇒19}と再婚。この結婚で二男を得ている。
長男Armand Pierre Marguerite 1781生 は、革命中は前出の異父兄と収容されており、兄共々、ラ・フォルス牢の下水溝で
母の処刑前にその髪の房を受け取っている。1800年パリで結婚して子孫を残している。Douanes管理官であった。二人の
異父兄弟は、母親の処刑時に見物の群衆を掻き分けて母に近づこうとしたという。次男Alphonse Edouard Pierre Hippolyte
 1787生 は、詳細は未詳である。
またこの人は夫の執事である20のFrancois Auguste Regnard de Beauvoirとも関係しており、一男Theodore 1791生 をもうけ
ているが、この息子は妊娠の申告によって収容された施設で母のもとにいた。その後の詳細は未詳。
「三人の子らはジャコバン派のフェリエールに引き取られた」とある。
また海軍経理官で夫コリーの投機仲間であるJean Nicolas Breard{⇒18}とも関係していたという。
亡夫コリーにも勧められて愛人ボーヴォワールとの子を妊娠していると申告し、夫や愛人らが処刑された93年5月4日の刑執
行を延期されたが、9月に流産したことを隠し、その後に「灰色の服で質素で中流階級の服を着た」未知の男性との関係に
より再度の妊娠をしたと申告した。保健官は流産はおろか妊娠の兆候もないとして今回の処刑となった。
最後の手紙を残している。一通は息子らに宛てられたもので、自分に対する愛情への感謝と幼い弟を宜しく頼むことを書き
残した。今一通は姪のリヨンのサン・ドミニク通り在住のモイスー夫人宛で、従兄弟にこの夫人かその妹へ子らを託すよう頼
んであるので、子供らを宜しくお願いしますという内容。しかし前記したように、ジャコバン派のフェリエールという人物が引き
取ったとあり、この人物が従兄弟なのかは不明。
この人は断頭台上で感情の制御が出来なくなり、刃が落ちる前から長く叫び続けたという)

 Madeleine Francoise Josephine de Rabec

1793年11月6日

156. アントワーヌ・ブルース(通称ラングドシアン) BROUSSE (Antoine), dit Languedocien, 30歳。錠前屋。ソラージュSolage生。
(サン・キュロット地区サン・ヴィクトル通り在住。錠前屋。反革命的な発言を地区委員により告発された。尚、サン・キュロット
地区は92年8月にこの名に改称。最初Saint-Nicolas-du-Chardonnet地区と呼ばれ、後にJardin-des-Plantes地区、そして
このサン・キュロット地区になり最後にまたJardin des Plantes地区に戻ったセクシオン)

157. ピエール・クースタル COUSTARD (Pierre), 52歳。議員。レゴアルンLegoarn生。
(アンヌ・ピエール・クースタル・ド・マッシ Anne Pierre Coustard de Massi 1741-93 サント・ドミングのSainte-Rose de
Leogane生まれ。近衛銃士、立法議会、国民公会議員。
父親はサント・ドミングの民兵士官Pierre Coustard 1698{99とも}-1749。母親はAnne Avoye Agathe Duvivier 1708頃-41。
二男三女の次男{末子}。
長兄Guy Pierre 1724-1794{93とも}はサント・ドミングの暫定知事、野戦総監で、ショワズール竜騎兵から近衛銃士、
革命軍軍将、ナポレオン軍にも従軍したGuy Coustard de Saint-Loの父親となる。姉Louise Therese 1733生 は、初婚
の相手と死別後87年サント・ドミングの民兵司令と再婚している。最初の夫と間に一女があった。姉Marthe Charlotte
1740-87は75年、元王軍将校だった外科医と結婚している。
サント・ドミングの海賊flibustiereを起源とする一族の生まれ。
この人は1768年Ursule Marchand 1742頃生 と結婚し一男六女をもうけている。しかし次女Victoire Marie 1773-91が
18歳でナントで没しているのみで他は夭折か。
この人は本国に渡り、国王親衛騎兵、そして近衛銃士{黒毛銃士}となる。64年ナントに銃士として駐在。68年に当地にて
上記の妻を娶っている。しかし妻はLeoganeの同郷の一族である。また75年生まれの子Anne Pierre Louisの名付け親として
従兄弟の王室ロレーヌ連隊騎兵大尉Pierre Jacques Coustardとかの名があるので、本国の親族は多かったと思われる。
71年〜73年元帥法廷の中尉。68年頃からは執筆活動に励み、詩とか風刺作品も発表している。
84年にはOratoriens学校のMouchet神父と熱気球に乗ったりしている。
1789年7月19日ナントのChateau des ducs de Bretagneが開城しナント市に鍵を引き渡した事件では愛国者の先頭に立って
いた。国民衛兵大佐となり憲法友の会のナント支部の有力者となる。
91年Loire-Inferieure選出の立法議会議員となる。92年9月国民公会議員となり、ジロンド派となる。国王裁判では追放に
投票する。
1793年4月にナントへ派遣、6月にジロンド派議員の検挙が実施され、パリには戻らずこの人はヴァンデの反徒に対するナ
ント防衛戦に参加し勝利する。それにもかかわらず、起訴され、ナントにしばらく潜伏するが、10月に逮捕、ナント溺死刑で
名高い公会議員Carrierはこの人をパリに連行。オルレアン公と同日に処刑された)

158. ルイ・フィリップ・ジョゼフ・エガリテ (Louis-Philippe-Joseph), 46歳。議員。サン・クルー生。
(オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世・ジョゼフ Duc de d'Orleans,Louis Philippe II Joseph 1747-93
父親はオルレアン公ルイ・フィリップ1世 1725-85。母親はコンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・
ブルボン・コンティ 1726-59。夭折した姉と、ブルボン公{後1818年コンデ公}ルイ・アンリ・ジョゼフ 1756-1830に嫁いだ妹
ルイーズ・マリー・テレーズ・バティルド 1750-1822がいた。
母親は醜聞の絶えない奔放な性格で、画家フランソワ・ブーシェ、スービーズ大公、リシュリュー公、サックス元帥、ベルニス
枢機卿、ローウェンダール元帥、スコットランド貴族メルフォール伯等の愛人がいたとされる。その為、革命期、この人は
「自分はオルレアン公の息子ではない」と主張したこともある。{父親と容姿が似ていたので認められなかった}。
父親は母親と死別後73年モンテッソン侯夫人と秘密結婚した。
妹はコンデ公の息子ブルボン公と結婚したが、1777年の謝肉祭の仮面舞踏会で、王弟アルトワ伯の愛人の仮面を取り、伯
に殴られた。義父コンデ公はアルトワ伯に謝罪を要求したが無視され、伯と夫ブルボン公の決闘事件{結果は介添人に
より中断}はこの妹によって起きたものである。{1830年の7月革命で、甥でこの人の長男ルイ・フィリップがシャルル10世として
即位していたアルトワ伯を倒し、この事件は半世紀後に決着する}
尚、ブルボン・コンデ家はこの妹の一人息子ルイ・アントワーヌが1804年ナポレオン暗殺容疑で処刑されていたので、1830年
の夫の不審死{首吊り自殺を偽装した殺害と疑われている}により断絶した。
1769年、ルイ14世とモンテスパン夫人の曾孫パンティエーヴル公の娘ルイーズ・マリー・アデライド・ド・ブルボン・パンティエー
ヴル 1753-1821と結婚。この妻は兄ランバル公ルイ・アレクサンドル 1747-68{あのランバル公妃の夫}が子なく早世したため
莫大なブルボン・パンティエーヴル家の相続人だった。この妻は夫の革命思想には共感していなかった。夫の処刑時も、
看守が驚くほどの冷静さを示し、94年釈放されるとドイツに渡り、亡命者らの世話にあたった。96年次男・三男が釈放される
とアメリカへ渡り、97年オルレアン家の国外退去命令でスペインに渡った。息子らは、母の移住したスペインへ向かう途上、
イギリス船に拿捕され、キューバから渡英することになってイギリスに定住する。1814年帰仏したが、長男の即位を見ること
なく病没。
夭折した二女を含め三女三男をもうける。長男Louis Philippe 1773-1850は後の七月王政の国王となったルイ・フィリップ1世。
革命前から革命思想に共鳴しており、革命後はジャコバン・クラブに入会し革命軍に入隊。しかしデュムーリエの傘下で従軍
し共に謀反に参加。しかしパリへの進攻へは同調せず、父親の処刑でスイスへ亡命していた。1814年ナポレオンの失脚により
共に亡命していた妹のアデライドと帰国した。次男はDuc de Montpensier,Louis-Antoine-Philippe d'Orleans 1775-1807で、
91年16歳で兄の連隊の少尉となり、その後、兄の補佐官となる。Jemmapesの戦いで将官補佐となる。国王裁判では父で
あるこの人に死刑投票を思い止まらせようと試みたが無駄だった。1793年4月に一族の逮捕で、マルセイユのSaint-Jean要塞
に収監。そこで後に死因となる結核を患う。97年2月弟、母親と渡米し長兄と合流。1800年欧州に戻りイギリスに定住し、当地
で没。弟のボジョレー伯も前年にマルセイユで共に罹患した結核により死亡している。1800年イギリスでMoira初代伯爵の娘
Charlotte Adelaide Constantia Rawdonとの結婚を申請するもプロヴァンス伯の認可が得られず断念している。Dentend夫人
だったFrancoise Barbaroux 1761-1822という女性との間にマルセイユ生まれのJean-Antoine-Philippe Dentend 1797-1858
という息子がいて、オルレアン公家の公証人となり子孫も残している。双子の姉の死去により唯一の娘となった長女Louise
Marie Adelaide Eugenie 1777-1847は、92年教育係で父親の愛人でもあったジャンリス夫人とベルギーに亡命し、その後
スイスの修道院に匿われた。ドイツ、スロヴァキアを転々として、1801年スペインで母親と同流。1814年母親と共にパリに戻る
とパレ・ロワイヤルでサロンを主宰し、兄のために自由主義派の取り込みに奔走。1830年兄ルイ・フィリップが国王となると、
マダム・アデライドと呼ばれるようになる。常に兄国王の助言役となった。贅沢を嫌い質素に生活し、亡くなった2ヶ月後の兄の
没落は見ないで独身のまま生涯を終えている。植物画家としての評価も高かった。三男Louis Charles 1779-1808 は、Comte
de Beaujolaisとなり、次兄である前者と同じように渡米し、その後にイギリスに渡った。イギリスでは酒浸りの生活を送り1804年
イギリス海軍に入るも、フランス沿岸での偵察任務をしたが余計に結核は悪化。長兄ルイ・フィリップは病状改善を図り、ジブラ
ルタル、シチリア、マルタへの航海に同行してくれたが、マルタ島到着後2週間で没した。結婚はしていない。
この人は他にも愛人が多く、1760年頃にComtesse de Genlis, Felicite de Genlis{130の妻。1743-1830}とも関係し、Pamela
Caroline Stephanie Anne 1773頃-1831とFortunee Elisabeth Herminie 1777頃-1822という二女がいた。{異説あり}それぞれ結婚
して子をもうけている。また1780年頃にはあの植物学者ビュフォンの息子{2126}の妻Comtesse de Buffon,Marguerite Francoise
Bouvier de La Mothe de Cepoy 1767-1808との関係でVictor Leclerc de Buffon 1792-1812という息子ももうけていた。この母親
はビュフォンの息子と93年{94年1月14日とも}に離婚すると、この人との息子を一人で育てたが、98年に再婚すると、息子をイギ
リスにいるこの人の子ルイ・フィリップらの元へ送った。1800年ロンドンに着いたこの息子は異母兄であるルイ・フィリップの世話
を受け、寄宿学校に入れられた。1807年迄出生の秘密はこの息子には明かされなかった。その後、この息子はイギリス軍に入隊、
第7歩兵連隊中尉となり、19歳でスペインのBadajoz包囲戦{駐屯していたフランス守備隊に対するイギリス・ポルトガル軍の攻城戦}
で負傷し戦死した。
この人の愛人の中でもイギリス王太子により紹介され1786年にパリに渡った弁護士の娘グレース・ダリンプル・エリオット 1754
頃-1823は名高い。本国でも評判の王党派だったが、恐怖政治下でもパリに残り、この人との関係により投獄。デュ・バリー夫
人と同じ雑居房に入れられた。テルミドールで釈放、その後もフランスに留まり、ナポレオンとの噂もあったが、資産家として
Ville-d'Avrayで没している。
{以下、日本語WiKiより編集}
ブルボン家の分家{ルイ13世の弟・オルレアン公ガストンは後継者なく、ルイ14世は弟フィリップに公位を与え、その4代目がこの人}
の一つであるオルレアン家は、フランス王国の5%が領地である有数の富豪であった。公爵はその財力をもって王位を狙う野心家で、
高等法院と王権との争いに介入して宮廷と対立し、革命前に最初に国王に逆らったことで自由主義貴族の代表となった。ルソー
に傾倒していたことでも有名。
王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷し、その政敵であったことでも知られる。
バスティーユ襲撃事件を誘発し、フランス革命が勃発すると歓迎してフィリップ・エガリテ(Philippe Egalite、平等公フィリップ)を
自称した。息子はシャルトル公爵およびオルレアン公爵を継承し、七月王政の王となったルイ・フィリップ1世である。
オルレアン公ルイ・フィリップ1世とコンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン・コンティの間にサン・
クルーで生まれる。モンパンシエ公、シャルトル公となり、1769年、ルイ14世の庶系の曾孫娘ルイーズ・マリー・ド・ブルボン・
パンティエーヴルと結婚し、1785年に父の死によってオルレアン公となった。{それまではシャルトル公である}私生活は放蕩
かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の
溜まり場にもなった。{パリ市警は公爵の私有地への立ち入りは出来なかった。一応、公爵のスイス衛兵により「酔っ払い、過
度に猥褻な服装の女性、ボロ着の者」の立ち入りは拒否されてはいた}
1771年にはフランス・フリーメイソンのグランドマスターとなり、二年後にフランス・グラントリアンを創設した。
アメリカ独立戦争を支持し、首飾り事件が起こるとそれをマリー・アントワネットを攻撃するのに利用した。彼は2度の名士会の
代表として宮廷の決定に反対した。多くの裁判管区の貴族から全国三部会に選ばれた彼は、早くから第三身分に加担し、
1789年6月25日には進歩的貴族46名の先頭に立って国民議会に合流して、貴族の反乱を主導した。バスティーユを占領する
ことになる民衆は、彼の宮殿パレ・ロワイヤルから行列を組んで出発した。
政敵ラ・ファイエットに敗れて一時イギリス使節となったが、1790年7月に帰国した。立法議会ではミラボーと結んだが、1792年
8月10日事件で王権がなくなり、共和制が宣言されると、元次期国王候補者の彼はうさんくさい目で見られ、それを打ち消そう
と国民公会でも最左翼に位置したり、貴族称号を廃止し「平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称したりした。88年から
89年の冬にこの人は貧民の避難所を提供し、食糧を配布したり確かに貧しい人々への慈悲深さは評判だった。1793年1月
18日、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。国王は「親族が私の死刑に投票したことは苦痛だった」と言っている。
1793年3月27日、デュムーリエ将軍が息子ルイ・フィリップと共に革命政府(国民公会及び公安委員会)の打倒とオルレアン家
王位擁立を謀って失敗すると、フィリップ・エガリテはジロンド派によって、息子が祖国を見限ったことや共和制転覆の嫌疑を
受けて告発された。そして4月3日に逮捕され、国王一族とともにマルセイユのサン・ジャン城に幽閉された。彼はルイ16世に
代わって王位に即こうとしたとの容疑を否認したが、パリの革命裁判所で財産を没収され、11月6日の夕刻、革命広場の
断頭台で処刑された。46歳没。遺骸はマドレーヌ墓地に埋葬されたが、後に墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリ
に移送されている)

........
Duc d'Orleans, Louis Philippe II Joseph.................父・Louis-PhilippeT母・Louise-Henriette de Bourbon-Conti 妹・Louise-Marie-Therese-Bathilde d'Orleans


 ................................................................長男・Louis Philippe..................次男・Louis-Antoine-Philippe 長女・Louise Marie Adelaide Eugenie 三男Louis Charles
妻・Louise Marie Adelaide de Bourbon-Penthievre

159. ピエール・ゴンディエ GONDIER (Pierre), 36歳。両替商。ニエーヴルのサン・トノレ教区生。
(ピエール・ユルシュル・ゴンディエ Pierre Ursule Gondier 1756-93 ブルゴーニュのニエーヴル県Saint-Honore-les-Bains生まれ。
株式仲買人Agent de change。30歳とも37歳ともあり。56年10月生まれだから37歳となるが。
父親は同県Villapourcon出身Gabriel Marie Gondier 1719-76 Thard領主。母親は国王評定官で同県Chateau-Chinonのタイユ
収税官の娘Marie Anne Dameron 1732-80以降。七女三男の長男。
他の兄弟姉妹はすべて同県Onlayで生まれている。しかし生年の記録のみで、全員夭折なのか詳細未詳なのか不明。子はこの人
のみの系図もある。五女三男や七女二男とする系図もあり、それによれば、57年生まれの妹Julietteのみ83年Chateau Chinonで
Pierre Francois Millinという弁護士と結婚している。
またこの人の結婚記録はない。父方叔父Gabriel Gondier 1723-56はFragny領主で歩兵将校で、結婚し一女をもうけ子孫を残して
いる。同じく父方叔父Jean Baptiste Gondier de La Vallee 1724-87もReugnyのブルジョワとして結婚、二女一男をもうけ娘らは結婚
し子孫を残している。叔母Francoise Gabrielle Gondier 1726-88も結婚している。
この人は、パンの買い占めの罪で逮捕された。奉公人の証言には、このパンは、隣家の雌鶏les poulesのために食卓に置いていた
ものだとある)

160. ジャン・ニコラ・ラロック LAROQUE (Jean-Nicolas), 73歳。モルタン副代表(subdelrgue de Mortain)。タンシュブレTinchebret生。
(ジャック・二コラ・ド・ラロック Jacques Nicolas de Laroque Manche県のMortain{もしくはMortagneとも}の元副知事の元貴族。
MortainもMortagneも共にノルマンディー。モルターニュ生まれとしている資料もあり。バスティーユ陥落と革命機関を批判するシャン
ソンとローマ法王の宣誓聖職者に対する法王書簡を所持していたと、サンソンの「フランス革命回顧録」にはある)

161. ジャン・ルパージュ LEPAGE (Jean), 36歳。屋根職人。モルサックMarsac生。
(他の処刑者リストにも該当者が見当たらない。但し系図にはLoire-AtlantiqueのMarsac-sur-Donに1757年に生まれたJean Lepage
がある。没年は未詳だが、生年は36歳処刑とすると合致する。父親はFrancois Lepage 1723-90はモルサックの農夫で靴職人。
1747年Loire-AtlantiqueのDervalでMarie Chambilly 1728頃-89と結婚し、四女八男をもうけた。この人は六男。次姉Julienne 1766-
1810は89年モルサックで結婚し五男三女をもうけている。姉Lorance 1748-1838は95年結婚している。他は夭折かこの人も含め
生年のみの記録となっている。Marsac-sur-Donは1793年の人口調査当時1135人の住民数なので、必ずしも同一とは断定できない。
但し、教会記録に基づいた系図であれば、他地域に移動した他の場所で死亡した者の記録は欠落する。幼少期に同地で没すれば
没年の記載があり、この人の兄弟姉妹も夭折者も含め5人の没年記載がある。この人含め7人は没年記載はなく、他所へ移動した
か生後間もなく同一年内に死去したかであり、この人がパリに出て屋根職人となり、何らかの事情で処刑され、パリの共同墓地に
埋葬された場合も、生年のみの乏しい記録になるから、可能性の否定は出来ない)

1793年11月8日

162. シモン・フランソワ・ラマルシュ LAMARCHE (Simon-Francois), 35歳。アッシニヤ紙幣印刷局長。パリ生。
(シモン・フランソワ・ド・ラ・マルシュ Simon Francois de La Marche 1754-93 アッシニャ紙幣造幣局総管理官。
92年8月10日から93年6月13日までアッシニャ紙幣製造責任者の地位にあった。この人は着任すると総監督官を4回替えたり、検査
官を2倍にしたり、現場に混乱をもたらした。また賃金体系も変更し従業員らの不満を買い、かつ紙幣の製造方法も変えた。93年2月
5日にタリアンにより委員会で非難されている。一度はすぐに釈放されると、次は8月10日事件時にチュイルリーの国王の元にいた、
と告発される。また亡命者への資金供給のためにこの人が横領したとも疑義り、逮捕・処刑された。この人の上司である財務大臣の
Etienne Claviere 1735-93は、同じく亡命者との共謀・横領の罪で告発され、12月8日にコンシェルジュリー内で食事の際に入手した
食卓ナイフで心臓を突き刺して自害。その報を受けた妻も服毒自殺を果たした。
ロラン夫人{後者}は、ラマルシュという名の彼女と一緒に死の宣告を受けた男が同時に処刑台に上ったのであるが、土気色の顔をし
激しく震えているのを夫人は見て「お先にどうぞ。少なくとも私の血を見る苦痛をあなたに与えずに済むでしょうから」と言ったという
記録があり、この人のことだろう。本来は夫人が先だったが、彼女の主張により処刑人は屈服し、執行はこの人が先になった)

 護送車上のロラン夫人とラ・マルシュ(中央)

163. マリー・ジャンヌ・フェリポン PHELIPON (Marie-Jeanne), 39歳。ロラン元大臣の妻。
(マリー・ジャンヌ・フィリポン Marie-Jeanne Phlipon 1754-93
父親は彫刻家Pierre Gatien Phlipon 1724-87。母親は小間物師の娘Marguerite Bimont 1703-75。
7人兄弟姉妹だったが、唯一成人した。
パリ南東のアルパジョンで生まれたが、父親は仕事で成功し、また独学で教養を身に着けた人物でパリのquai de l'Horlogeに
住居を構えた。絵画や美術の素養を娘に与え、母方叔父のBimont神父がラテン語を教え、早熟で理知的な少女となる。1765年5月、
Neuve-Saint-Etienne通りのAugustines de la Congregation Notre-Dame修道院に入るが、母親の死により修道院を出て家に戻り、
父親を助けた。すでにルソー主義者となっており勉学に励んだ。74年ヴェルサイユ宮に祖母の知人を訪ねに赴き、そこで貴族の平
民身分に対する蔑みに心傷つき、彼女の共和主義思想への傾倒を促す。その美貌と教養により多くの求婚者を紹介されたが、
全て父親に断った。76年Gomicourt夫人の紹介で高名な経済学者Jean-Marie Roland de La Platiere 1734-93と出会う。20歳も年上
の厳格な学者だったが、彼は若く利発な娘と恋に落ちた。しかしこの人の父親の反対で80年まで結婚は据え置かれた。ロラン家は
かつて貴族身分だったが、18世紀に至るまで何の肩書もなかった。84年数週間、この人はパリに滞在して、夫の家柄の貴族証明を
取得している。夫はVicomte de La Platiereである。
結婚後は内務省で働く夫の仕事の補佐、学術記事の協力、工場検査官の報告書作成に協力した。
娘Marie Therese Eudora Roland 1781-1858も生まれ、この人はこの頃より植物学への関心を強める。
リヨンの勤務となり、その北30キロのVillefranche-sur-Saoneの夫の父親の生家で義母がまだ住んでいた家に定住し娘の教育に注力
するが、自分に比べて学習能力が遅いことに嘆いている。またこの結婚生活の中でイギリスやスイスに旅し見聞を広めている。
革命後の91年、田園でののんびりした生活に終止符を打ち、政治家として台頭する夫に従い再びパリに戻る。そこでサロンを開き、
ブリッソ、ペティオン、ロベスピエール等を招いた。1792年3月23日夫が内務大臣となると、オテル・ド・カロンヌでまたサロンを開き、
ジロンド派議員らであるBarbaroux, Brissot, Louvet, Petion, Buzotらを招いた。特にFrancois Buzot 1760-94とは恋仲だったと言わ
れている。彼はジロンド逮捕時に逃亡し、後にペティオンと共に小麦畑で自決する。
内務省はこの人が陰で仕切っていると言われ、ダントン、ロベスピエール、マラーへの攻撃はこの人の影響下にある議員らにより
過激化していった。ジロンドの女王とまで言われた。92年イギリスに亡命した貴族との通信により告発されたが、公会で見事に自己
弁論し議員らに拍手された。しかし、当時、この人は、身の危険を感じ、常に短銃を身近に置き、サン・キュロットらに急襲された場合
に備えて自決する用意をしていたという。1793年1月21日に夫ロランが、国王処刑への抗議、または諸派からの攻撃に疲れて辞任
するが、この人は政治活動をやめなかった。
93年5月、ロベスピエールの反攻が始まり、ロラン元大臣が糾弾されると、この夫はルーアンへの逃亡に成功する。しかし夫人である
この人はパリに留まることを決める。その回想録ではこの決意の根拠は明記されていないが、恐らくは自分を逮捕する法的根拠は
ないと確信していたものと思われる。しかし1793年6月1日の早朝に自宅で逮捕され、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の監獄に収監
されてしまう。その監獄暮らしでは多くの特権が認められ、多くの訪問者があり、友人の博物学者Bosc d'Anticは植物園から定期的
に草花を届け、補佐役のSophie Grandchampは隔日で訪問した。恐らく書簡はその後に逃亡したジロンド議員や夫ロランにも届け
られたものと思われる。この人は英語を勉強し、部屋にはピアノすら搬入された。6月24日、逮捕に法的欠陥があったと釈放された
が自宅に入る寸前に再逮捕され、今度は過酷なサント・ペラジー牢に収監されてしまう。この人は、夫ロランよりも、恋人Buzotの身
を案じていたという。夫ロランが計画した、訪問者と服を交換して脱獄するという計略にも従わなかった。やがて開かれた公判では
「夫の政治活動に妻である私は関与できず、その責任はない」と主張するが受け入れられずコンシェルジュリーに移送され、死刑が
確定。
この人の威厳に満ちた態度を見て、護送中の沿道は普段と違い静まり返っていたそうだ。ある地点で「ギロチンへ! ギロチンへ!」と
残忍に叫ぶ一団がいたが、彼女は「この通り、今、行くところです」と声を返し「私をそこに送った者たちも、すぐに同じ場所へ送られる
でしょう。私は無実のまま処刑されますが、その者たちは罪人として処刑されるのです。そして、あなた方は、その者たちにも、同じよう
にギロチンへと囃し立てるのでしょうね」と続けたという。
ギロチン台のもとでこの人が言ったという有名な ≪ O Liberte, que de crimes on commet en ton nom ! ≫「ああ、自由よ、その名の
もとでどれだけの罪がなされたことか !」は、詩人ラマルティーヌの創作だといわれている。
また前者への声掛けについては前者参照。
逃亡していた夫は、この妻の処刑の報に触れて自殺して果てた。11月10日寒い秋の夜、隠れ家のあるルーアンを出てパリへの泥
だらけの街道を進み、Chateau de Coquetotへと向かう小道へそれると、彼は「この遺体は高潔で正直に生きた者の屍です」と書置
きを残し剣で自決した。Coquetot城館に一時運ばれ身元確認された後、遺体は誰も料金を負担しなかったので、そのまま棺も墓標
もなく道端に埋葬された。1908年、彼の遺体をパンテオンに移葬すべく一帯が探索されたが、遺骨は発見されなかった。
残された一人娘Marie Therese Eudora Rolandは友人だった博物学者Louis-Augustin Bosc d'Antic 1759-1828の庇護の元に入る。
この人物は逃亡したジロンド議員のルーヴェを救い、バルバルーの回想録を保管している。ボスクは、この娘に恋情を覚えて、年齢
差を顧みず妻としたいと手紙に書いているが、娘本人は母親と父親の二の舞いを踏みたくなく、関係を解消する。ボスクはそれを受
けて政府の派遣使節に加わり1796年7月渡米する。96年12月13日、植物学者Anselme-Benoit Champagneux 1774-1845の弟Pierre-
Leon de Rosiere de Champagneux 1777-1864と結婚し、二女をもうけ、曾孫のPaul TAILLET 1843-1905はカイロ領事となっている)

............................................................夫・Jean-Marie Roland de La Platiere
  Marie-Jeanne Phlipon......................................................................................................................................................................................娘・Marie Therese Eudora Roland

1793年11月9日

164. オーギュティーヌ・コネタブル CONNETABLE (Augustine).
(オーギュスティーヌ・マドレーヌ・コネタブル Augustine Madeleine Connetable Lucienの妻。
国立文書館及び革命裁判所記録に93年1月24日偽アッシニャ紙幣製造で死刑判決のChristian Joseph Connetableの妹{姉?}ともあり。
同日Jacques-Louis Bertsilly, Jacques-Francois Bocquillon, Charles-Francois Geoffroy等の名と共にこの人の名もあるが。Christian
Joseph Connetableはパリに住む家具職人とある。「Connetable ,Augustin-Magdelaine-Saint-Lucien」とある資料もあり。妊娠の申告
で執行延期になっていたのか。この日は女性ばかり刑執行されている)

165. ヴィクトワール・ジラール GIRARD (Victoire), 22歳。 果物屋。
(処刑リストには11月9日付として上記の内容そのままで記載されている。1780年5月12日の記録で、パリ、Saint-Sauveur教区のサン・
ドニ通りの故人の未成年の娘として登録記録がある。
1793年Compte-rendu aux sans-culottes de la Republique francaiseにはAssassinat,Victoire Girardとある。つまり、計画殺人、暗殺の
罪である。判決は93年3月2日。当該リスト冒頭には「パリ及び他の刑事法廷に於いて、偽アッシニャ紙幣製造、計画殺人の罪で死刑判
決を受けた日付とアルファベット順のリスト」とあり、偽アッシニャ紙幣製造が計画殺人罪と同等に扱われている)

166. マルグリット・ルフラン LEFRANC (Marguerite), 38歳。洗濯屋。 ヴザンVezin生。
(1793年Compte-rendu aux sans-culottes de la Republique francaiseにはAssassinat,Marguerite Lefrancとある。つまり前者同様に
計画殺人罪。判決は10月10日とある。1775年5月17日のパリでの御者Jean Francois Ecouchardとの恐らくは結婚記録、93年7月4日
パリでのAntoine Bourgeoisとの結婚記録等あるが、どれもありがちな姓氏ゆえ同一とは言い難い。やはり妊娠申告で執行延期となっ
ていた人なのか)

167. マルグリット・タングリー TINGRY (Marguerite), 33歳。レモネード売り。ソワッソン生。
(Marguerite Tingry, Montvalの妻。レモネード売り。偽アッシニャ紙幣の配布の罪により処刑。Conseil executif provisoire, Convention,
Comite de Salut publicの記録では後者と共にan II, 18 brumaireつまり93年11月8日付でその処刑のための軍隊の出動要請が出され
ている。Histoire generale et impartiale des erreurs, des fautes et des crimes commis pendant la revolution francaiseの中では93年
1月13日付での死刑判決となっているので、やはり何らかの理由での執行延期なのか)

168. マドレーヌ・ヴィニュルーイユ VIGNEREUIL (Madeleine), 32歳。ヴィルフランシュ生。
(Madeleine Vignereuil, Guerinot{通称Lebrun}の妻。偽アッシニャ紙幣の配布の罪により処刑。Conseil executif provisoire, Convention,
Comite de Salut publicの記録では前者と共にan II, 18 brumaireつまり93年11月8日付でその処刑のための軍隊の出動要請が出され
ている。夫のGuerinotはゲリノ。やはり、93年2月の判決のようなので執行延期者だったのか)

1793年11月11日

169. ジャン・シルヴァン・バイイ BAILLY (Jean-Silvain), 58歳。パリ市長。パリ生。
(Jean-Sylvain Bailly, 1736-93 天文学者、三部会議員、パリ市長
父親はルーブル宮の絵画管理官で画家Jacques Bailly 1701-68。母親は郵便・駅馬総検査官の娘Marie Cecile Guichon 1706-73。
バイイ家は代々著名な画家を輩出している。祖父Nicolas Bailly 1659-1736も宮廷画家で国王所蔵絵画の管理官、現在も作品が
残っている。曾祖父Jacques Bailly 1629-79も宮廷画家でミニチュア画家で絵画・彫刻アカデミー会員。
二女二男の長男。1733年生まれの姉Marie Cecileは殆どの系図で夭折か詳細なしになっているが、金融家Jean Francois Badebat
という人物と結婚したと記録している系図もある。しかし恐らくは下記の妹Edmeeと混同しているものと思われる。弟Paulin Bailly
1741頃-1822頃 は外務省職員となっている。Maitre des postes de la courともあり、1783年パリにてMarie Louise Emerentienne
Douesy 1741頃生 と結婚し一男Jean Baptiste Bailly 1780-1846を残し、後に郵便馬長官となり、結婚し子孫を残し、その曾孫は
Jean Sylvain Bailly de Villeneuveという。40年生まれの妹Edmeeは金融家Jean-Francois Batbedat 1728頃-88と結婚し、7人の子を
もうけており、一男一女は成人し結婚し、それぞれに子を残している。
1787年Jeanne Le Seigneur 1735頃-1801と結婚。妻はRaymond Gaye 1735頃-87以前 という高等法院弁護士の未亡人であり再婚。
しかしこの妻は夫に貢献し夫の全盛期にあっても控えめに行動していた。唯一パリ大司教による祝日の祭典で公の席に現れ、ラ・ファ
イエット夫人と大聖堂に同行したくらいであった。夫処刑後La Sourdiere通りの家で寂しく過ごしているのを測量士をしていた従兄弟が
助けた。またナポレオンから2000フランの年金の受給を受けた。子供の記録はない。
以下は日本語WiKi編集。
はじめ画家を目指し、劇作なども行ったが、ラカーユの影響で天文学の道に進んだ。1759年に出現した、ハレー彗星の軌道の計算など
を行った。1763年にフランス科学アカデミーの会員になり、1783年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。木星の衛星に関する
著書や、天文学の歴史にかんする著書を著した。
フランス革命によって、天文学の研究は中断させられた。1789年の三部会に選出され、テニスコートの誓いの議長を務めた。
バスティーユ襲撃の後、フレッセル虐殺の翌日1789年7月15日にパリ・コミューンの最初のパリ市長に選ばれたが、シャン・ド・マルスの
虐殺事件でデモを鎮圧するために国民軍に発砲を命じたため人気を失い、1791年11月16日に解任され、ナントに隠遁した。{93年7月
Melunにて出頭を命じられ、マリー・アントワネット王妃裁判への出廷を命じられるも、不利な証言を拒否し、王妃擁護の証言のみした}
1793年末{11月9日から10日にかけて}に逮捕され、反革命分子としてシャン・ド・マルスで処刑された。{革命委員らは、シャン・ド・マルス
、当時はChamp-de-la-Federationと呼ばれていたが、バイイが責任を問われた虐殺での犠牲者の血とバイイの血を混ぜたくない為、
その左隅の溝を隔てた場所に処刑台を設置した。そこで青ざめて震えているバイイに群衆は「バイイ、震えているのか?」と野次ると、
この人は「いいや、ただ寒いだけだ」と応答したとサンソンの記録にある。また処刑場所、遺体が置かれた場所には現在、記念碑や
案内板が設置されている}
友人で詩人だったSimon-Pierre Merard de Saint-Just 1749-1812は1794年12月、ロンドンでバイイの歴史的称賛物を出版した)

 Jean-Sylvain Bailly.....................................................................妻・Jeanne Le Seigneur 

170. フレデリク・カルプ KALB (Frederic), 28歳。士官。 パリ生。
(フレデリク・ド・カルブ Frederic de Kalb 1765-93  カルブ男爵。Salm-Salm連隊士官。92年7月28日亡命。帰国後、死刑判決。
父親はBaron de Kalb,Jean de Kalb{Johann von Kalb} 1721-80。母親は銀行家の娘Anna Elisabeth Emilie van Robais 1748-85。
二男一女の長男。妹Anne Marie Caroline 1767生 はJean-Luc Geymuller 1751-99と結婚し、二男一女をもうけた。弟Elie 1768-1834
{1769-1835とも}はRoyal Deux-Ponts連隊士官だったが男爵となり、Marie Elisabeth Charlotte Elise Signard d'Ouffieres 1768-1859と
1807年カーン近郊Herouville-Saint-Clairにて結婚し、一男一女{男児は夭折}をもうけ、娘は結婚し現在に至る子孫を残している。
父親はドイツのHuttendorfにて農民の子として生まれ、兄弟らも農民であったが、本人はLoewendalドイツ連隊に勤務しフランス軍に
入る。フランドルのオーストリア継承戦争で軍功あり、七年戦争で中佐、叙勲、男爵位を授かる。64年退役し、布製造業相続人の娘
である上記Anna Elisabeth Emilie van Robais{父親はパリの銀行家Pierre van Robais 1694-1767。van Robais家はコルベールにより
フランドルから招かれた高級布製造業者で王室御用達としてフランスで繁栄した一族で金融業者としても大富豪となっている}と結婚し、
Milon-la-Chapelle城館を購入。1768年ショワズールの命で渡米、植民地の不満度の調査にあたる。1777年ラ・ファイエットとアメリカ派
遣軍に加わり、少将となる。ジョン・アダムスの宮廷への紹介状を書く。メリーランドとデラウェアの部隊の指揮にあたり、カムデンの
戦{1780}で乗馬が撃たれ落馬し、立ち上がるところを三度狙撃される。補佐官Chevalier du Buyssonも重傷を負う。負傷したカルブに
面談したコーンウォリスは彼に謝罪し、3日後に死亡。ジョージ・ワシントンもカムデンの彼の墓に後に墓参している。独立戦争へのその
貢献は多くの称賛を浴びており、地名、記念碑が多くあり、今も名が残っている。
この人は子なく死亡。結婚記録もない。母方一族はペロノーやヴィジェ・ルブランによる肖像画幾点かが残っている)

父・Johann von Kalb  
母方従伯父・Theophile van Robais 1732-99

171. ニコラ・ジャン・ロワ ROY (Nicolas-Jean), 34歳。奉公人。ダンバルDamballe生。
(パリの公証人・市民Paulmierに仕えていた奉公人。32歳とも。meurthe県Dombal生まれとも。王国の再建を謀った発言により処刑。
雇い主の公証人・市民Paulmierはヌムール生まれのパリの公証人Charles Pierre Paulmier 1750-1809か。1782年10月22日から1804
年4月18日までの公的記録等が残っている)

1793年11日12日

172. ニコラ・フランソワ・バルテレミー BARTHELEMY (Nicolas-Francois), 司祭。ロンシャン Longchamps生。
(1752-93 ヴォージュのSenongesの元司祭。反革命罪で処刑。41歳とある。スノンジュSenongesの教区公記録にこの人が裁判所で
死刑判決を受けた旨の記録がある。
Senongesは1793年人口調査で452人の自治体。Mirecourt近く。生地のロンシャンはNeufchateau近くとある。
ルーアンの陰謀に関連したとある)

173. アンリ・ルイ・デュシェーヌ DUCHESNE (Henry-Louis), 58歳。執事。パリ生。
(ルイ・アンリ・デュシェーヌ・ド・ヴォワロン Louis-Henri Duchesne de Voirons 1737-93 執事、経済学者。
1724年4月30日生まれとする系図もあり、生地はオート・サヴォワのBoegeとも。DucheneもしくはDuchesneとも。
父親はJean Pierre Duchesne 1701-80。母親はサヴォワのAllinges伯領裁判所弁護士の娘Sabine VIGNET 1701-86。
七女九男の次男。長姉Jeanne Baptiste Francoise 1721生 はサヴォワのBoegeで結婚し四女をもうけている。弟Jean Claude 1725生
は修道士、妹Anne Josephte 1727-94はMelanで修道女となり、弟Guillaume Joseph 1734-94はSaint-Cergue{現スイス}の司祭、
妹Jeanne Marie Josephte 1735-1804は弁護士と結婚し六女六男をもうけBoegeで没している。弟Francois Antoine 1740-1813は
地元で二度結婚し一女をもうけジュネーヴで没している。弟Claude Joseph 1744生 はカプチン僧となっている。他は夭折か詳細なし。
系図にはこの人の結婚記録はないが、同日判決者の中にFrancoise Dethorreという小間物女商人が、「デュシェーヌの妻」として記載
されている。この女性の後にAntoine Dethorreという小間物商人も記載されているが、両人の処刑記録はなく無罪判決で放免された
のか。
マリー・ド・サヴォワ{1771年、王弟プロヴァンス伯と結婚。91年亡命}の執事{経理官}に74年就任し、経済政策についての出版物を
革命初期に多数発刊している。トリノ・アカデミー会員でもあった。王党派であることを証明するメダルや肖像画等を所持しており逮捕
されるが、自己の無実を主張することもなく、逮捕に憤りを示すばかりで、この人を救おうとする人々の努力を全て無駄にしてしまった
という)

174. ルイ・グリピエール GRIPPIERE (Louis), 43歳。タバコ商。オーベクール Haubecourt生。
(Compte-rendu aux sans-culottes de la Republique francaiseには、偽アッシニャ紙幣に関連した罪で逮捕処刑とある。Dictionnaire Des
 Individus Envoyes a la Mort Judiciarement, Revolutionnairement Et Contre-Revolutionnairement Pendant La Revolutionには、やはり
偽アッシニャ紙幣の罪で処刑されたパリ在住のタバコ商とある。どの資料も出生地はHaubecourtとある。系図はない)

175. ニコラ・ポワゾ POISOT (Nicolas), 26歳。憲兵。パリ生。
(革命フランスと姉妹共和国となっていたオランダの「バタヴィア共和国」の義勇部隊バタヴィア軍団Legion bataveの兵士とある。フランス
指揮下で戦っていた。Johannes Lambertus Huberの指揮のもと93年10月Neerwindenで敗北、その後、フランスに併合される。
この人は偽アッシニャ紙幣製造に関わり逮捕・処刑とある)

1793年11月13日

176. マリー・シャルル CHARLES (Marie), 62歳。アンジェ生。
(あらゆる資料に該当しそうな名がない。しかし1793年11月11日〜14日判決affaires jugees. 21-24 brumaire an IIの名簿に170のKalb、
171のRoy、173のDuchene、後者Dodet、178のPoirier、179のBrunet、182のManuelと列記されている中に、シャルChasleの未亡人
マリー・フォンテーヌ・メルヴェ Marie Fontaine-Merveが記載されている。またFrancois Fontaine-Merveの未亡人Marie Chasle、アンジェ
生まれで62歳で、La Fleche居住の元貴族がLa Flecheの館で逮捕されたという記述がBulletin Du Tribunal Criminel Revolutionnaireの
中にあり、出身地・年齢が合致している。旧姓と夫名が入りくりしているだけである。この記録ではスペル相違で旧姓で記載され夫の名が
欠落していると思われる。系図で見ると、夫はマリニェMarigne領主で、サン・ルイ騎士でブルゴーニュ騎兵連隊士官である Francois
Fontaine de Merve 1784没。この人の正式名はMarie Aimee Le Febvre de Chasle{系図では両親や生没年は不詳}。一男あり、Charles
Francois 1765生 はサン・ルイ騎士の大佐で、Claude Genevieve Adelaide Charlotte Geroult Maccarthy 1766生 と結婚している。亡命
者一覧にCharles Francois Fontaine de Merveの名がある。亡命者一覧にはAugustin de Morand未亡人Dame de Fontaine de Merve,
Louiseという名もあるが、これはこの人の義兄の娘で、下記のSuzanne某の姉である。
夫の長兄、海軍大佐Rene Marie Michel Fontaine de Merve 1725頃-80{La Fleche生まれ。79年就役のフリゲート艦La Capricieuseに乗船
しており、Finisterre岬で追撃された英国海軍フリゲート艦の44門艦Prudenteと40門艦Licorneとの戦いでLebreton de Ransanne艦長戦死
の上、撃沈された戦いで戦死}の息子である海軍大尉Charles Marie Fontaine de Merve 1742-95は、キブロン上陸時の負傷で戦死して
いる。またやはり夫の次兄Christophe Henri Damienの娘Suzanneは1766年以降この人の同系のLe Febvre de Chasle某と結婚している。
別資料に国王秘書官Jacques Charles LefebvreとAimee Boylesve de La Maurouziereの娘、アンジェ生まれのClaude Honoree Lefebvre
de Chasles 1727-1803は父親の領地であるLa Lande-Chaslesにて1750年Andre Pissonnet de Bellefondsと結婚し、娘Marieの夫Rene Le
Bault de La Moriniereは91年ドイツに亡命し95年Essenで没しているとあり、このClaude Honoree Lefebvre de Chasles等はかなり近い関係
であると推察できる)

 義兄の息子・Chevalier de Merve,Charles Marie Fontaine de Merve  

177. ルイ・ドデ DODET (Louis), 36歳。奉公人。シャルルヴィル生。
(Louis Dodet 「亡命した公爵」の部屋付き従者valet de chambreとある。元奉公人で32歳とする資料もあり。亡命者や国内の内通者との
共謀犯と告発され逮捕。告発者の発言が正当であると証明されて死刑となる)

178. ベルトラン・ポワリエ POIRIER (Bertrand), 67歳。法律家。リシュリュー生。
(ベルトラン・ポワリエ・デ・ブールネ Bertrand Poirier des Bournais 1726-93 高等法院弁護士、国王評定官、シノンのトゥーレーヌ元帥法廷
陪席判事。
父親は国王評定官でリシュリュー徴税区議長で副官Francois Poirier Des Bournais 1696-1754。母親はMarguerite Veronique Richard de
Piolan 1706-82。二男七女の長男。
妹Marguerite Genevieve 1731-95はリシュリューで生まれ同地で没している。妹Louise 1732-75も結婚記録なし。妹Marie Anne 1737-
1817は1758年リシュリューでGuillaume Francois de La Motheと結婚し三女一男をもうけた。弟Alexis Prejean 1741-1800はLa Tour de
Brouの領主で郷里で1789年Marie Charlotte Drouin de Parcayと結婚し二女三男をもうけた。{1793年L'Ile-Bouchardで結婚し、二女を
もうけたとも}他は夭折か早世で詳細がない。
この人は1750年Saint-Vincent de L'OratoireかMirebeauでリシュリューの税務次席検事の娘Marguerite Hippolyte Ragonneau 1724-83と
結婚、三男一女をもうける。娘は恐らく夭折。長男Jean Bertrand Poirier 1750-1826は、1777年大審院で評議員を勤め、91年8月亡命。
亡命政権の指令で政治活動の準備のためにフランスに戻り、マルゼルブとこの父親と連絡を取り合う。親子は逮捕されるが、この父親は
処刑されるも、長男は釈放された。釈放後はシノンに隠遁する。ソミュールでヴァンデ軍が勝利すると、王党軍に参加し砲兵将校となる。
ラ・ロシュジャクラン戦死後はストッフレーの部隊に入り、あらゆる共和国との和平条約を拒否、最後はイギリスに渡り、ロンドンで従軍
回顧録を書いた。1800年ナポレオンより帰国許可が出て、シノンに引退。後は平和に暮らした。1777年Therese Pomponne Amielh des
Pantenaisと結婚し一男Francois Camille Auguste Bertrandを残している。
次男Francois 1754-73はChinonかAigues Mortesで19歳で没している。
三男Pregent Louis 1756-1845はBaugeの執行管理官controleur des actesとなり、1787年Dierreで国有財産総管理官の娘Marie
Catherine Gatian de Clerambault 1757頃-1850と結婚し、一女をもうけた)

1793年11月15日

179. ガスパール・ジャン・パティスト・ブリュネ BRUNET (Gaspard-Jean-Baptiste), 58歳。イタリ
ア派遣軍総司令官。ヴァランサルValensales生。
(ガスパール・ジャン・パティスト・ド・ブリュネ Gaspard-Jean-Baptiste de Brunet 1734-93 元中佐。元イタリア方面軍司令官。
父親は竜騎兵大尉でプロヴァンスのManosqueの総督のサン・ルイ騎士であるJean Baptiste de Brunet。母親はAnne Rose de Salve。
兄弟姉妹の記録は系図にはない。
1765年Marie Joseph de Coniglianoと結婚し、Jean Baptiste 1763-1824をもうけた。この息子は父親の処刑にも関わらず94年革命軍の
師団長となり、ドイツ、植民地を転戦しナポレオン軍で少将となっている。
この人は小貴族身分で1755年砲兵隊に入り、同年11月ロレーヌ近衛連隊中尉となる。その後に歩兵隊として七年戦争を戦い、59年
同連隊の大尉、2ヶ月後に少佐となる。61年〜62年ドイツで戦い、73年サン・ルイ騎士。77年擲弾兵中隊を指揮し、78年オーソンヌ連隊
の少佐、翌79年中佐となる。{若きナポレオンのオーソンヌ滞在は1788年から91年}革命後は91年に野戦総監となって一度引退するが、
モンテスキュー将軍の要請で復帰。アンセルム将軍旗下で92年イタリア方面軍で暫定の陸軍司令官となった後に旅団長となった。
93年5月〜8月にビロンの後任として総司令官となる。7月17日のSaorgioの敗北の責を問われ、また派遣委員とも対立し、8月6日バラスと
フレロンにより逮捕、パリのアベイ牢に収監、トゥーロンの裏切りの交渉に対する派遣委員の命令に従わなかった、そしてリヨンとマルセイ
ユの反革命活動と共謀していたという2つの理由で死刑判決を受けて11月8日にコンシェルジュリーに移送。そして処刑)

 Gaspard Jean-Baptiste de Brunet

180. ガブリエル・キュシー CUSSY (Gabriel), 54歳。議員。カーン生。
(ガブリエル・ド・キュシー Gabriel de Cussy 1739-93 財務官で政治家。
父親は商人Gabriel marie de Cussy 1702-55。母親はAnne Dupont 1761没。二男一女の次男で末子だが、兄姉は夭折の模様。
 1792年CaenにてMarie-Anne Fleuriau de Bellemare 1761生 と結婚するも子の記録はない。
カーンの造幣局管理官から89年三部会議員となる。92年国民議会のカルヴァドス選出議員として、国王に追放・投獄に投票。
6月15日まで公会に残っていたが、退いた後のカルヴァドス選出議員Charles-Gilbert RommeとClaude-Antoine Prieur-Duvernoisとが
代わりに逮捕されるという動議がなされ、心配したこの人はカーンに赴き、ノルマンディーで起こったジロンド派追放に反対する人々の
反乱における7月のBrecourtの戦いが敗北に終わると、ブルターニュからボルドーに入り、当地で逮捕される。逮捕を不当とする請願
がなされるも無効とされ、ジロンド派として処刑される。
1761年ルイ・ピエール・ドジエによりノルマンディー、バイユーの貴族として認められているが、同じノルマンディーのクータンスの貴族
キュシーの2372、2373との関係は未詳)

 Gabriel de Cussy

181. ピエール・ジルベール・ドヴォワザン GILBERT DEVOISINS (Pierre), 元パリ高等法院部長。パリ生。
(ヴィレンヌ侯爵ピエール・ポール・ジルベール・ド・ヴォワザン Marquis de Vilennes,Pierre-Paul Gilbert de Voisins 1748-93 
パリ高等法院法官帽部長。
祖父は次席検事で国王評定官Marquis de Villennes, Pierre Gilbert de Voisins 1684-1769。父親は国務評定会議国王評定官で高等法
院部長評定官Pierre Paul Gilbert de Voisins 1715-54。母親は国王付建築家Jules-Robert de Cotteの娘Marthe Marie de Cotte
1718-80。母親の父親はルイ14世主席建築家Robert de Cotte 1656-1735の息子Jules-Robert de Cotte 1683-1767で祖父・父の職を
継承し建築家となり自らも国王付建築家となった人物。マンサールの甥でもあり、結婚により宮廷の官職を複数継承し、王立建築アカデ
ミー顧問でもある。子供たち{この人の母親の兄弟姉妹}も、長男Jules-Francois de Cotte 1721-1811は国王評定官となり、長姉の
Marie-Suzanneも大審部部長評定官に嫁ぎ、娘Louise Suzanneはルイ16世死刑投票をし93年1月20日に市中で暗殺された「革命の最初
の殉教者」Louis-Michel Lepeletier de Saint-Fargeauの母親である。
 Gilbert de Voisins家は南部出身の古い貴族家系。1118年に十字軍の時から確認できる。Gilbert de Voisins家となった分家は1322年に
確認され、フランシュ・コンテからイル・ド・フランスに定住した一族。
 この人は1767年シャトレの次席検事となり、同年大叔父Roger Francois Gilbert de Voisinsの後を継いでパリ高等法院首席書記官、
1774年12月パリ高等法院法官帽部長となった。義父からも領主権や様々な権利・土地を継承し、それらを国王に売却し、かわりに他の
土地や権利を取得した。1776年120万リーヴルで購入したベルガルド城Chateau de Bellegarde等もある。91年1月{2月とも}ベルギーの
Tournaiに妻と子と亡命するが、1792年4月の初めに単身で帰国。92年〜93年の半年まで国内の色々な場所を旅したがロワレLoiret県
の管理検察官から亡命の事実を告発され、1793年3月18日に逮捕。内務大臣により釈放されたが、10月17日に再逮捕。ベルガルドから
コンシェルジュリーに移送され、1ヶ月後に処刑された。財産も国有化されてしまった。
1768年野戦総監でポルトガル大使Comte du Merle, Baron d'Ambert, Charles Louis du Merle de Beauchampの長女Anne Marie du Merle
 de Beauchamps 1751-1801と結婚。{この妻は629のAdelaide Marguerite du Merle de Beauchamp 1752-94の姉である}
一男一女あり、長男Pierre Paul Alexandre Gilbert de Voisins 1773-1843は、革命中はコンデ軍に従軍、Duc d'Uzesの補佐官をしていた。
帰国後は父と共に投獄されていたJacques Claude Beugnotの取り立てでナポレオンに受け入れられ、1815年パリ裁判所初代議長、国務
議員、帝国伯爵となり、ルイ・フィリップによっても貴族院議員職、軍職を与えられた。95年にCharlotte Digneron de Beauvoir 1802没 と
結婚し、曾孫が作家のMarie Auguste Gilbert de Voisins 1877-1939である。
長女Anne Marie Marthe Gilbert de Voisins 1801没 は1795年Vicomte d'Osmond,Marie Joseph Eustache d'Osmond 1756-1839と結婚し
一男をもうけている)

祖父・Marquis de Villennes, Pierre Gilbert de Voisins  
長男・Pierre Paul Alexandre 義父・Comte du Merle 母方祖父・Jules-Robert de Cotte

182. ピエール・マニュエル MANUEL (Pierre), 40歳。議員。モンタルジ生。
(ピエール・ルイ・マニュエル Pierre-Louis Manuel 1751-93 作家。元市会検察官、元国民公会議員。
父親はアルプス・オート・プロヴァンスのEnchastrayes出身の麻布商人Pierre Manuel 1717-99。母親はMagdeleine Durand 1730-1800。
二男二女の長男。弟Jean Anne Michel 1763生 は1796年MontargisでMarie Madeleine Hamelin 1770生 と結婚している。妹のMarie
1770頃-1827は1791年MontargisでEdme FAUCHON 1756頃-1836と結婚し一女二男をもうけている。妹Madeleine Claireは1774年やはり
MontargisでFabien Merlinと結婚している。
この人の結婚記録はない。
モンタルジのBarnabites大学で学んだ後にSensの神学校に進み、聖職者を志していたが1774年パリに出て、その道は断念した。パリで
金融業者の家庭教師となる。そして歴史的エッセイ、哲学書、批評を出版し警察に逮捕、1786年2月3日から4月7日までバスティーユに
投獄された。「退屈以外の不便はない」とこの人は投獄中の状況を話しているが、パリ警察組織に対して恨みは抱いた。
革命勃発に際して大きく貢献し、暫定市会の警察管理官、出版部門の管理官となり、自らが管理する立場となり、ジャコバン・クラブに参
加する。91年9月パリ市会の検察官となる。ボーマルシェのオランダでの横領を非難し逮捕したりしている。
市長Petionの右腕として活躍。民衆がチュイルリー宮の国王の寝室まで押し寄せた1792年6月20日の騒ぎの指導者の一人。8月10日事件
ではパリのコミューン結成に大きな役割を果たす。9月虐殺では数人囚人を救出した。{これには疑義があり、個人の借金の為に救出した
Mme de TourzelとJean-Jacques Duval d'Epremesnilは必要だったから、ともある} なんであれこの人は自身をうまく弁護し、国民公会議員
に選出された。そしてサン・ルイ勲章を衣服の染みと廃止申請し廃止としたが、ヴェルサイユ宮の売却提案は否決となった。
 常に国王と密接に関係していたせいか、この頃よりこの人の国王に対する姿勢は一変し、92年12月にはジャコバン・クラブからも除名さ
れている。処刑裁判では追放刑に投票した。そして死刑が議決されるとこの人は辞表を叩きつけて議会から去ってしまう。そしてモンタルジ
へ引退した。
1793年8月20日、モンタルジにて逮捕。国王を救おうとした罪と共和国に対する共謀罪で処刑された)

  Pierre Louis Manuel

183. アルベール・マリー・ロメ ROME (Albert-Marie), 63歳。准将。ヴェルノンVernon生。
(ヴェルヌイエ侯爵アルベール・マリー・ド・ロメ Marquis de Vernouillet,Albert Marie de Rome 1730-93 1753年ラ・ロシュフコー騎兵連隊
大尉。1759年リエージュ義勇連隊Volontaires Liegeois中佐、1793年革命軍准将。
一族はノルマンディーの法官貴族。15世紀のルーアンのブルジョワであるMartin-Laurent Romeが確認できる。祖父Louis de Romeは
ノルマンディー高等法院法官帽部長評定官。父親はヴェルヌイユVerneuil連隊隊長、元帥法廷補佐官Marquis de Vernouillet, Marquis
de Rome, Louis Pierre de Rome 1670-1747。母親はバクス地方ナヴァール王国貴族の末裔で会計院院長の娘Anne Charlotte
d'Irumberry de Salaberry 1702頃-70。この母親はあのリシュリュー公1696-1788の愛人リストの中にあるMadame de Rome、もしくは
Marquise de Vernouilletに該当するのか? もしくは、前者がこの母親で、後者はこの人の夫人{後出}なのだろうか。大体のリシュリュー
公の愛人らの生年はこの母親と同じ世代ではある。しかし、この人の夫人のように1730年代生まれの女性もおり、公爵の愛人層は
恐ろしく幅広い。
この母親の長兄Charles Francois 1695-1750の長男でブロワ会計院院長Charles Victoire Francois d'Irumberry de Salaberry 1733-94は
541。つまり541の従兄となる。Irumberry de Salaberry家については541参照。{母親の父、つまり母方祖父は1710年会計院院長となった
Charles d'Irumberry de Salaberry 1659-1734}
 この人は二女二男の次男。長姉 Marie Anne Louise 1720-82は生没年のみで詳細がない。次姉Anne Louise Hermine 1726-82は
Poissy僧院のドミニコ派修道女。長兄Andre Charles Louis 1728-59はMarquis de Vernouilletを継承しラ・ロシュフコー騎兵連隊中佐、
Surger騎兵連隊中佐としてミンデンの戦いで戦死。1750年Henriette-Marie-Edmee Berthelotと結婚していたが子はなかった。そこで、
侯爵位をこの人が継いだ。ちなみにこの人の所属していたリエージュ義勇連隊もミンデンの戦いに参加している。この人がドイツを転戦
した時期は57年〜59年であり、同連隊中佐に昇格したのも59年であるから、この人もミンデンの戦いに参加していたのかも知れない。
この人は1759年Marie Nicole Dionis des Carrieres 1739-1820と結婚しているが、子の記録はない。
また愛人との関係も明らかにされており、1765年ベルリン生まれの踊り子Marie Angelique Pelin 1748-1825{この踊り子はこの時期を同じ
くしてPrince de Contiとも関係している}、1770年Anne Marie Xavier Mathieu 1747-1802との関係、彼女はオペラ座の踊り子で、直前まで
Duc de Lauzun,Armand-Louis de Gontaut Biron{⇒274}と関係しているし、また541の従弟Charles Victor Francois とも64年頃関係してい
た。同じ70年頃にやはり元々Prince de Contiと関係していたMlle Davidという女性と関係し、前のAnne Marie Xavier Mathieu嬢は
Chevalier de Bezonsに譲っている。1773年Mlle Dumonsiという女性と関係しているが、この女性は以前はPrince de Rohan-Guemene
1745-1809の愛人だった。
Vernouilletが侯爵領となったのは1723年ルイ15世により、父の代から。戦死した兄を経てこの人で三代目。 父親の代の1719年から20年
にかけてVerneuil, Vernouillet、Chapetの土地を封土とし、Chateau de Verneuilを中心としたVernouillet侯爵領を形成。1720年頃には
Chateau de Vernouilletも建てられた。1773年、つまりこの人の代で侯爵領も城館もRandon de Lucenayに売却され、後に1781年Tautest
 du Plain士爵に譲渡される。
 この人は1743年ラ・ロシュフコー騎兵連隊に入り、45年大尉、57年〜59年ドイツで従軍し、マルタ騎士となり、59年リエージュ義勇連隊の
中佐となる。62年サン・ルイ騎士。80年Chateau-Porcien総督、歩兵准将。革命を経て、91年野戦総監。92年ブロワの国民衛兵司令官だ
った時に、公安委員会から町をヴァンデ軍に明け渡そうとしたと容疑をかけられ6月に辞任。パリに連行されて死刑判決。後者を運ぶため
に準備されていた護送車を見て、苦痛の一夜から逃れたいからすぐに自分を処刑台に運んでくれと頼み、判決の日の夜に処刑された)

父・Marquis de Vernouillet, Louis Pierre de Rome  
母方祖父・Charles d'Irumberry de Salaberry

1793年11月16日

184. ジャン・ニコラ・ウーシャール HOUCHARD (Jean-Nicolas), 53歳。北方面軍将軍。フォルバッハForbach生。
(Jean Nicolas Houchard 1738-93 54歳処刑。モーゼル地方フォルバッハ出身。王軍士官、革命軍北方面軍司令官。
父親は税関職員から食品管理の税務管理官となったJean Bernard Houchard 1717-77。母親はSarregueminesの皮なめし工で執行官の
娘Marie-Elisabeth Knoepffler 1718-51。三男六女の長男。妹Anne Marguerite 1743-1811は64年、92年にSarrebourgにて二度の結婚を
している。末妹Jeanne Marie 1751-95はSarrebourgで亡くなっているが詳細はない。他の兄弟姉妹は夭折か名と生年のみで詳細なし。
この人は1780年Sarrebourgで公証人の娘Catherine Elisabeth Henriet 1745生 と結婚し、一男二女{二男二女とも}をもうけた。長男Jean
Nicolas 1780生 は文筆家ともあるが二男二女の資料では次男Josephが文筆家とあり、どちらにしても子孫なしとある。Josephは生没年
も不詳とある。{その資料には3人の子があり、と記しながら4人の記載がある}次女Marie Anne Louise Suzanne 1785-1826は1806年
Sarrebourgの治安判事Jean Baptiste Felix Jordyと結婚し四女をもうけている。長女は夭折している。この人処刑の数年後に、「息子と他
人々により名誉回復が行われ、パリ凱旋門にはその名が刻まれた」とあるので、少なくとも息子の一人は健在だった。
 この人は16歳でロワイヤル・アルマン連隊に入る。1760年少尉、70年中尉となり76年にブルボン竜騎兵連隊中尉としてでコルシカ島に
派遣され大尉{79年}となる。コルシカでパオリの反乱軍とのPonte Novuの戦いでサーベルの一撃を頬に受け、口に銃弾を受けて、顔面を
負傷したのである。81年サン・ルイ騎士。
革命思想に共鳴しており、革命後は革命軍勤務。キュスティーヌの旗下で猟騎兵連隊大佐となる。93年4月モーゼル軍総司令官となる。
そして同年8月キュスティーヌ{8月28日処刑だがこのリストからは欠落}にかわり北方面軍総司令官となる。この人はキュスティーヌを尊敬
していたし、彼の最も近い副官だったが、キュスティーヌは北方面軍全体の指揮は、この人の力量では難しいと判断していた。その判断
は正しかった。しかしながらこの人は、キュスティーヌ処刑の悲報に落胆しつつも9月ヨーク公のイギリス軍からHondschooteの激戦の末
にダンケルクを包囲から解放する。だが、兵士の疲弊を考慮してか、この人はイギリス軍への追撃を行わなかった。政府はこの作戦ミス
を糾弾し、9月24日に「冷酷な熱意」と言われたモーゼル選出議員で北方面軍に同行していたNicolas Hentzの告発で解任され、リールで
逮捕された。パリの裁判所で主宰のデュマがこの人を臆病者と呼んだ際に、この人は自らの服を引き裂いて、数々の戦傷痕が広がる
その胸を見せ「陪審員である市民諸君、私の答えはそこに書いてある通りだ」と叫んだ。口がサーベル傷で避けて発音が難しい上に、ド
イツ語とフランス語の混ざった言葉で答弁したが、判決は死刑。しかし、この人は自分を臆病者と呼んだデュマに対する怒りだけを繰り
返していたという。そして「兵士の不敵さと無実の男の静けさ」で断頭台に上った、という。
数年後、息子と他の人々による尽力で、この人の名誉は回復され、その名はパリ凱旋門の三列目に刻まれている)

 Jean Nicolas Houchard

1793年11月17日

185. ジャン・パティスト・クラヴォー CLAVAUX (Jean-Baptiste), 24歳。騎兵将校。タフTaffe生。
(Jean-Baptiste Claveaux 騎兵第6連隊将校 偽アッシニャ紙幣関連で逮捕・処刑。Clavauxとも)

186. ピエール・ヴィマール VIMARD (Pierre), 27歳。骨董商。カーン生。
(カーンには同時代に同姓の者が散見はできる。しかし、限られた処刑者リストの中にしかこの人は確認できない)

1793年11月18日

187. ピエール・シャルル・デュパルク DUPARC (Pierre-Charles), 67歳。大尉。シャン・ブーシェChamp-Bouche生。
(廃兵院の恩給大尉で、以前のテュイルリー宮の臨時の検閲官。サン・ジェルマン・アン・レイ近くのChamp-Bouchi生まれとある。
パリ在住でエルヴェシウス通りの近くルーヴォワ通りに住んでいた。8月10日事件で熱心な王党派市民の一人だったとルペルティエ
地区革命委員会から告発された。
1765年9月27日付でパリのSaint Germain L'Auxeroisにて廃兵院士官Pierre Charles DuparcとMarie Nicole Soretの記録があるが、
不動産目録の確定Cloture d'inventaireをしている。1768年1月11日のパリの告知で廃兵院士官Pierre Charles DuparcとMarie Nicole
Soretのものがある。1774年1月15日付でMarie Nicole Joretの寡夫Pierre Charles DuparcとJean Baptiste JourdeauとGenevieve Nicolle
Neeとの娘Marie Jeanne Jourdeauとの結婚記録がある。Marie Nicole Joretは前出のMarie Nicole Soretの誤記だと推定される。なぜなら
JとSの大文字の錯誤。他の1766年1月15日付の記録に、grand audiencier de Franceの主席書記官Jean Baptiste Jacques Sourdeauの
兄弟である故Jean Baptiste SourdeauとGenevieve Nicole Neeの娘で未成年のMarie Jeanne Sourdeau嬢の保護者選定の記録があり、
この記録との照合でもJとSの取違だと思われるから。
整理すると恐らく1765年の不動産目録の整理記録の頃に、この人はMarie Nicole Soretと死別しており、1774年1月15日にJean Baptiste
SourdeauとGenevieve Nicolle Neeの娘Marie Jeanne Sourdeauと再婚していると思われる。
また前出の{再婚相手の亡父の兄弟}Jean Baptiste Jacques Sourdeauは1785年から1803年の間に死去で、audienciers de Franceの秘書
官だがその娘 Anne Josephine Charlotte 1766生 の1785年2月17日パリ、Saint-Eustache教区でのPierre Charles Bonnefoy{1732生 国王
従者で王妃家具総管理官、トリアノンの守衛でプロヴァンス伯部屋付き従者}との結婚式に、花婿の兄弟Antoine Bonnefoy{国王・王妃付
士官}等と共にサン・ルイ騎士のPierre Charles du Parcとして立ち会っている)

188. フランソワ・プリ PRIX (Francois), 42歳。退役軍人。ボーヴェー生。
(通称サン・プリSaint-Prixとある。「invalide」とだけあるが、廃兵院の退役軍人の意味か。元徴兵官で廃兵院で共和国の年金受給者として
パリのSaint-Nicaise通りに住んでいた。92年8月10日事件での王国を再興せしめんとした反革命行為により逮捕、処刑された)

1793年11月22日

189. ガブリエル・ニコラ・ボワギヨン BOISGUYON (Gabriel-Nicolas), 35歳。副参謀。シャトーダンChateaudun生。
(ガブリエル・二コラ・フランソワ・ド・ボワギヨン Gabriel-Nicolas-Francois de Boisguyon 1763-93 副参謀。系図では58年生とも。
父親はChateliersの領主で1750年9月25日付で国王の叔母Adelaide de Franceの従者になった平貴族Gabriel Andre de Boisguyon 1717-86。
母親はBertaudier領主で王室鷹狩係officier de la Grande-Fauconnerie du roiの娘Anne Marie Erneste Cuperly de Jasny。一男一女の
長男。妹Marie Marguerite Therese 1760生{63年生説だと姉になる}はEtienne Jacques Rene de Guibert 1727-1806と結婚。革命時には
亡命している。尚、WiKiでは93年11月21日に革命広場にて30歳でギロチンとある。
この人の結婚記録はない。
この人は1773年11月1日、アルトワ伯夫人の小姓となり、75年首席小姓となっていた。1776年10月29日の手紙によると、La Fere歩兵連隊
少尉となっている。野心的な人物でパリへ行くことを希望すると母親はLanneray近くのHaloyereの土地をこの人に与えた。パリではブリッソ
{シャルトル大の同級生}を始めとして多くのジャーナリストと交友、新しい思想に染まりジャコバン・クラブ員として活動。92年1月外国との戦争
を主張。第21歩兵連隊の少尉として作戦に参加する。5月にはラ・ファイエットを非難しデュムーリエを支持、フランスを無政府状態に導くであろ
うロベスピエール派を糾弾した。92年7月にはBrissotとGorsasのジロンド新聞に寄稿している。9月、将軍補佐官の副官として北方面軍に派遣。
10月8日には大佐となる。93年ブレストの将軍補佐官に昇格。Jean-Michel Beysser{581}の右腕となり、ヴァンデ軍と戦う。しかしMachecoulで
Charette de La Contrieの反軍に敗れる。Saumurの軍事委員会でこの件で降格させられ、Prat大佐とMachecoulに駐屯し 1793年6月11日に
10倍近くのヴァンデ軍の攻撃に敗れると、解任されパリに呼び戻された。6月14日パリ着と同時に逮捕、リュクサンブール牢に収監。上官や
友人Prat大佐の証言にも関わらず有罪判決が下る。{WiKiにはこうあるが、他資料では、1793年10月末にLaReoleで逮捕とあり、その間は、
1793年7月13日に上官のBeysserと共にブレスト海岸部隊から解任されてから9月14日、何人かのジロンド派とボルドーへ向かい、La Roseeと
名乗り後者と行動を共にしている}
断頭台上で、この人は処刑人サンソンに「今日はあなたにとっては幸いです。私がここでどうすべきかよく分かっていることを知って、あなたは
驚くでしょう」と声を掛けたという。
このリストもそうであるが、系図や他資料も58年生説をとっており、WiKiは63年生説。{他資料も同説あり}。シャトーダンのSainte-Madeleine
教区の資料では1758年5月27日に生まれ、同日に洗礼を受けたとある)

190. ジャン・マリー・ジレー・デュプレー GIREY-DUPREY (Jean-Marie), 24歳。図書館係員。 パリ生。
(Jean-Marie Girey-Dupre 1769-93 国立図書館の文書保管係。政治批評家にして詩人。パリのRichelieu通り在住。
ルーアンの一族の家庭に生まれる。パリのLisieux大学にて学ぶ。1789年からブリッソと提携し愛国者に近い存在として活動。「政治ジャーナリ
ズム」の創始者の一人とも言える存在。91年2月La Legende Doreeは「使徒言行録」 ≪ les Actes des Apotres ≫への返答としての詩的な風
刺批評だった。裁判での国王擁護の姿勢はマラーにより攻撃されることになった。
Le Patriote Francaisという新聞の前者との共同編集者。逮捕の危険を回避するために、同志であるブリッソの元へ避難しようとパリから
エヴルーに逃亡した。エヴルーで Salle, BergoinそしてLesageらと合流しカーンに向かう。そしてPetion, BuzotそしてGuadetと一緒にカーンを
去り、ボルドーに向かう。93年10月ボルドー着。ボルドー鎮圧に派遣されたIsabeauとTallienにより同市は制圧、そして逮捕されるが、ジロンド
派議員らとの連絡、反乱軍との同行について否認している。あくまで商売の為の行動だと主張している。
マシュクールの敗北で解任された前者がボルドーへ向かった道程でLanoueと名乗り前者と行動を共にしている。二人の行動よりもその書物
によってフランスの自由を脅かしたと糾弾された)

1793年11月24日

191. ティエリー・カポン・シャトー CAPON CHATEAU (Thierry), 71歳。准将。パリ生。
(クロード・アントワーヌ・カポン・ド・シャトー・ティエリー Claude Antoine Capon de Chateau-Thierry 1722-93 軍人。Capponと記されることも。
高等法院弁護士Nicolas Pierre CaponとJeanne Dambonsの息子としてパリに生まれる。
1746年1月25日付パリの記録に、「国王の銃士Antoine CapponとMagdelaine Julie Poupart du Coudray。二人の未成年の子供、Antoine
GuillaumeとJulie Magdelaine」とあり、1770年3月12日付のパリの記録では、「士爵、ポワトゥー連隊大尉とその亡き妻であるMadelaine Julie
Poupart du Coudrayの未成年の娘であるJulie Madelaine Capon de Chateau Thierry」という公文書がある。1746年の時点で未成年でも24年
後の70年には成人であると思うが、70年の記録にもJulie Madelaineは「未成年の娘」fille mineureとある。少なくとも、70年にはすでに他界して
いる妻Madelaine Julie Poupart du Coudrayがおり、Antoine GuillaumeとJulie Madelaineの一男一女がいたことは確認できる。
 この人は1741年8月2日に近衛銃士隊第一中隊に入隊。46年Rohan-Rochefort連隊大尉となっている。56年七年戦争でPort-Mahonの戦い
で軍功ありサン・ルイ騎士となる。Contadesの義勇部隊を率いてドイツの戦役に参加、59年Furstenbergで二発の銃弾で負傷した。61年
Soubise軍の副司令官としてラインで戦い、64年ポワトゥー連隊に移る。
 革命後の89年7月Saints-Peres地区{90年に革命的48地区に変えられた}の軍事委員代表となり、地区の国民衛兵大隊指揮官になる。
91年初め、place de Louis XIV地区{92年12月からはGuillaume-Tell地区、後に Mail地区もしくはPetits-Peres地区に変名)の委員の二番目
になっており、第40歩兵連隊の中佐となった。1791年7月25日、第102歩兵連隊の指揮者となると同時にパリの第1〜3の義勇部隊の指揮者
ともなった。このため、オー・ド・フランスのVerberieの教練地を設けた。1792年10月26日、モーゼル軍の大佐となり、1793年3月8日に准将に
昇格。93年6月1日に参謀本部の再編成に伴い、高齢のため停職となる。
1793年11月23日、この人は1792年6月20日、王政の復活を求める内戦を先導し、「自由の木」を切り倒したと告発されて同日処刑されたと
ある。つまり処刑日は11月23日となっている。またこの人が教練地を設営したVerberieのWiKiでは92年6月25日「自由の木」を植樹したとある)

192. クレマン・シャルル・フランソワ・ラヴェルディ LAVERDY (Clement-Charles-Francois), 70歳。検査将官。パリ生。
(ガンベ侯爵クレマン・シャルル・フランソワ・ド・ラヴェルディ Marquis de Gambais,Clement Charles Francois de L'Averdy 1723-93 パリ高等
法院評定官、財務総監{1763-68}。
父親は弁護士Clement Francois de L'Averdy 1695-1754。母親はElisabeth Jeanne Mahieu 1700頃-24。24年生説もあり、母親は出産で亡くなっ
たのか。23年生としても生月は11月である。兄弟姉妹の記録はない。父母の結婚月は23年8月である。
この人は1751年ラシャ商人で国王秘書官の娘Catherine Elisabeth Devin de Fontenay 1733頃-1809と結婚。{この妻の弟Jacques Devin de
Fontenay 1734-1817の長男で金融家のMarquis de Fontenay,Jean-Jacques Devin de Fontenay 1762-1817は後にタリアン夫人となるTherese
 Cabarrusと1788年結婚している[亡命に際しフランスに留まることを主張した夫人と離別]}。
 購入したGambais侯爵領は100万リーヴルの価値があったという。Gambais侯爵領にはChateau de Neuvilleがあり、政界引退後ここでこの人は
暮らしているが、この城館はルイ14世首席侍医Antoine Vallotの所有だったが、次男Marquis de Neuville et Gambais, Jean-Baptiste Vallot{近
衛隊大尉。ヴァロ医師の子供らには医師がいない}から国王首席従者でルーヴル総督Francois Louis de Nyertに1690年売却。その娘で相続
人のMarie Agnes{パリ高等法院評定官Charles Francois Henri de Revolの妻}が夫と死別後の1765年この人に城館と3000ヘクタールの土地を
40万リーヴルで売却した。
四女をもうけた。長女Catherine 1753生 は1770年Arnauld-Barthelemy de Labriffe 1740頃-76と結婚、一男二女をもうけている。{長男のPierre
Arnaudは、貴族でありながらも革命軍将としてヴァンデ軍と戦ったJean Baptiste Camille de Canclaux 1740-1817の娘Josephine de Canclaux
1785-1849と結婚している}次女Paule Melanie 1758生 は1776年陸軍中将Marquis de Sesmaisonsの次男で近衛中尉のVicomte de Sesmaisons,
Louis Henri Charles Rogatien de Sesmaisons 1751-1830と結婚、三男一女をもうけた。{長男Louis Humbert 1777-1836はpair de Franceになる
軍人にして政治家。次男Claude Gabriel Clement Rogatien 1779-1864は野戦総監となる軍人。長女Elisabeth Marie Modeste 1783頃-1855は
2013の次男Vicomte de La Tour-du-Pin Chambly de La Charce,Henry de La Tour du Pin Chambly de La Charce 1783-1866と結婚している}
67年生まれのElisabethは夭折か、系図にもない場合がある。四女Angelique 1767-1843は1783年三部会貴族議員となるMarquis de Belbeuf,
Louis Pierre Francois Godart de Belbeuf 1757-1832{91年亡命しコンデ軍に入る}と結婚し一女一男をもうけた。{長男Antoine-Louis-Pierre-
Joseph Godart de Belbeuf 1791-1872はpair de Franceになる政治家}。
 この人は1761年8月にイエズス会への攻撃が起きた時、パリ高等法院評定官として第一調査室におり、イエズス会への徹底した調査で名声を
博した。1763年12月14日財務総監となる。訴願審査官や地方長官を経験しないで高等法院評定官からいきなり財務総監になるのは珍しい事例
で後任の財務総監テレーも同じ。従ってこの人は地方長官の地方都市後見権を抑制する改革を行っている。知的で道徳的な人物であったが、
行政も財政の知識もなかった。ショワズールと組んで1764年7月に穀物取引の障害を取り除いたが、かえって価格高騰を招いた。そして、小麦
の商取引から不正利益を得たと非難されて、1768年10月1日に突然に解職される。以来、政治から退くが、革命期に旧体制下の金融業者への
告発に関与している。
64年碑文のアカデミー会員となり、学者としてジャンヌ・ダルク裁判の未知の資料d'Urfe原稿とOrleans原稿を発見した。90年にアカデミーから
出版されている。革命期、かつて特定的な穀物業者への利権のために穀物の提供が操作され国民の飢餓を招いたとする旧体制下の政府の
陰謀への関与を告発されて処刑された)

娘婿・Marquis de Belbeuf, Louis Pierre Francois Godart   
孫・Claude Gabriel Clement Rogatien de Sesmaisons 孫・Antoine-Louis-Pierre-Joseph Godart de Belbeuf

1793年11月25日

193. ジャック・ニコラ・カルトロー CARTEREAU (Jacques-Nicolas), 54歳。石鹸製造。パリ生。
(ジャック・二コラ・カルトロー・デ・ゾルモー Jacques Nicolas Cartereau des OrmeauxまたはDesormeaux 商人。
1787年3月24日付パリの公記録で、Marie Angelique Godinとの間のLouis Marie 12歳, Marie Jeanne 11歳, Pierre Denis 6歳の子らの保護者
として記載されている。また1791年1月13日付の記録では、未成年者の親・亡くなった配偶者とあり、Jacques Nicolas Cartereau des Ormeaux
の名とMarie Angelique GODINI {判読不明で?マークが付いているが、原本はiの点がずれているだけに見え、Godinと思える}の名があり、1775年
1月17日生まれのLouis Marie Cartereau des Ormeauxの名が記録されている。87年の記録で列記されている子らの中の12歳のLouis Marieの
生年と合致するので、同じ家族の記録と思われる。
別記録{有罪判決者の記録}に1774年7月12日パリの銀細工師の娘Marie Angelique Godinと結婚とあるので符合する。その資料には、この人は
パリの商人の息子で1776年、その母親が亡くなった年にはセーヌ・エ・マルヌのSaint-Severin de Chateau-Landon教区内のLorroyにあった製
鉄所に関係者だったとあり、Chateau de Neronvilleに住んでいたともあるがNeronvilleはChateau-Landon近郊の土地だが、城館の記録は見当
たらない。
Bulletin Du Tribunal Revolutionnaireの中には、Jacques Nicolas Cartereau Desormeauxは石鹸製造業とある。砲手のGuillaume-Antoine
Goissetとワイン商Claude-Vivant Douheret等が共犯者で、偽の証明書を所持し、共和国の領土を亡命者や外国人により危険に晒したと)

1793年11月27日

194. アントワーヌ・ニコラ・コリエ・ラマルリエール COLLIER LAMARLIERE (Antoine-Nicolas),47歳。北方面軍少将。グリュイGruy生。
(ラ・マルリエール伯爵アントワーヌ・二コラ・コリエ・ド・ラ・マルリエール Comte de La Marliere,Antoine Nicolas Collier de La Marliere 1745-93
Collier家は、イギリス出身。最初にフランスに帰化したのはLouis Collierで、1415年ヘンリー5世のもとで多くの戦いに参加、フランスのSenlis
近くにに定住。分家はオランダやフランドルに高い地位をもっている。1644年3月30日没のFresnoyとLa Marliereの領主で国王秘書官Germain
Collierがおり、その息子たちのソワッソンの住人としてPlessis-Brion領主Nicolas Collierが1667年8月に貴族として確認でき、兄弟のLa Marliere
領主Francois Collierが1668年最高国務会議にいる。
父親は近衛銃士第一中隊将官補佐官Theophile Antoine Collier de La Marliere 1698-1748で前出Germain Collierの曽孫にあたる。母親は
Marguerite Le Blond 1704-51でDame des Ormeauxと呼ばれているが前者との名の類似は偶然か。Seine-et-MarneのOrmeaux生まれである。
 七男四女の末子で七男。次兄{長兄は夭折}Antoine Theophile 1728-96はMeaux大聖堂の教会参事会長。長姉Marguerite Victor 1730-94頃
は1766年Michel Jean Baptiste de Belly de Bussy 1705-81と結婚し一男をもうけている。兄Louis Charles 1735-99はMarquis de La Marliereで
近衛銃士隊員で騎兵中佐、62年 Francoise Nicole Elisabeth de Chavigny 1737-1801と結婚し二男三女をもうけている。兄Louis Philibert 1742
-62は若くしてサント・ドミンゴで亡くなっている。他の兄弟姉妹は夭折か詳細なし。
 この人は1779年パリでプロヴァンス伯夫人の女官で教育係補佐になるMarie Francoise Elisabeth Foucart d'Olympies 1756-1845{1746年生ま
れで没年不詳とする系図も}と結婚している。この妻は第3代カリニャーノ公 1690-1741とMarie Vonzart 1705頃生{あるいはMariette Thauziat
1762没}の庶子Catherine Amedee de Savoie-Carignan 1729生{あるいは1733-1823} とモンペリエ要塞都市代官Comte d'Olympies, Isaac
Nicolas Foucard d'Olympies 1714-84の娘でジョルジュ・サンドの父方祖母Marie Aurore Dupin de Franceuil 1748-1821の友人だった。またジュ
ノーの妻で後にバルザックの愛人となるDuchesse d'Abrantes 1784-1838とも歳の離れた友人だったともいう。
  一女Marie Amedee Josephine Jacqueline "Fanny" 1780-1861をもうけ、1804年Etienne Louis Constance d'Huteau 1753-1834と結婚し一男
一女をもうけている。
この人は1756年7月22日に王立士官学校に入校。ラ・マルリエール伯爵となる。プロヴァンス伯の猟犬指揮官の官職に就く。モンペリエ会計院
参事官で三部会貴族予備議員、国民公会エロー県選出議員となるCambaceresの友人だった。1791年11月6日中佐、92年2月5日第14歩兵連
隊大佐となる。北方面軍に配属となり、1792年8月25日デュムーリエにより暫定野戦総監、1792年9月7日に野戦総監となる。リールに駐屯し、
Miranda旗下でベルギー北部師団を指揮し、Valence旗下で93年3月22日アルデンヌ軍参謀総長となる。1793年5月5日にDampierreにより
少将に昇格、Raismesの戦いに参加した。{ダンピエール侯は負傷死し、敗北} その後、Lavaletteとの対立で1793年7月22日解任。革命裁判所
にかけられて、従兄弟フーキエ・タンヴィル{系図的つながり不詳。WiKiには「従兄弟」とあり。フーキエ・タンヴィルが74年シャトレに職を得る時に
「親戚のabbe Collier de La Marliereが12000リーヴル貸した」とある資料あり}に死刑判決を下された。妻はロベスピエールの足下に身を投げて
恩赦を乞うたが無駄だった。
現在に至るもCollier de La Marliere家は続いているが、兄Louis Charles等の子孫)

義理祖父・Duc de Carignan,Victor-Amedee de Savoie-Carignan  

1793年11月29日

195. ピエール・ジョゼフ・バルナ―ヴ BARNAVE (Pierre-Joseph-Marie), 32歳。議員。グルノーブル生。
(アントワーヌ・ピエール・ジョゼフ・マリー・バルナーヴ Antoine Pierre Joseph Marie Barnave 1761-93 高等法院評定官、国民議会議長。
父親はグルノーブル高等法院弁護士Jean Pierre Francois Barnave 1712頃-87頃。母親はMontelimar{Drome}要塞都市隊長、ノルマンディー
連隊大尉の娘Marie-Louise du Pre de Seigle de Presles 1735頃-1793以降。母親は高学歴の貴族身分だったとある。
 二男三女の長男。弟Jean Pierre Cesar 1763-84は工兵中尉だったが20歳でパリで亡くなっている。妹Jeanne Francoise Adelaide 1764生 は
1802年になってから幾何学者Jean Francois Honore Dumolard 1775生 と結婚している。但し夫に関しては、この兄弟である公証人Honore
Dumolard 1774-1807とか異説あり。{どちらにしても、この夫の兄Joseph Vincent Dumolard 1766-1819はグルノーブルの弁護士から91年
立法議会イゼール選出議員となり、ラ・ファイエット支持派として亡命し、後に五百人評議会議員ともなった人物}妹Claudine Charlotte Julie
1766生 は1796年イゼール県森林副検査官Christophe-Etienne Saint-Germainと結婚している。妹Marie Therese Hyppolite 1767生 は1783年
竜騎兵中佐{97年} Baron de Barral,Charles-Joseph de Barral 1755生 と結婚し、一女一男を得て、長女Alix Claudine Olympe de Barral 1786-
1871は1810年にベルニス枢機卿の縁者Vicomte de Marsac,Henri Benoit de Pierre de Bernis 1779-1843と結婚している。夫の兄Comte de
Bernis, Alexandre de Pierre de Bernis 1777-1845の1806年結婚した妻はPrince de Rohan-Rochefort, Prince de Montaubanの娘でDuc de
Montbazonの姉であるArmande Louise de Rohan-Rochefort 1787-1864である。
 一族はユグノーで、地元のカトリック系学校に通えず、母親が教育した。1769年6月26日、劇場でバルナーヴの父母が座っていたボックス席
からの退去をClermont-Tonnerreより命じられ、それに異議を唱えて抵抗した為にブルジョワ層と貴族、議会、軍を交えての騒動に発展、公演
は中断されるという事件があった。この時に母親が味わった辛酸が息子のこの人に及ぼした影響を大きい。グルノーブルで法律を学び、1780年
Orange大学で弁護士資格取得。 1788年6月7日の屋根瓦の日の影響を強く受けて革命的になっていく。ドーフィネ選出第三身分議員選挙に出て
その雄弁を称賛される。1789年5月5日三部会議員となり、立憲君主制を支持した。ミラボーと討論できる唯一の人材だった。バスティーユ後、
王室を救済することで大衆の混乱的暴走を食い止めようと尽力。ミラボー派の貴族政治家Jacques Antoine Marie de Cazalesと1790年8月、議
論の末に決闘となり負傷しながらも勝利するということもあった。{カザレスは1792年8月10日事件後に亡命し亡命軍に入る}
1790年10月国民議会議長に選出。政敵ミラボーが1791年4月2日亡くなった際には「弁論のウィリアム・シェークスピア」と彼を称えた。
教会の土地を解放し所有の制限、年収の制限を課し、貴族への課税、民衆と同等の法律下に入りその特権を廃止、但し経済的な意味で、植民
地の奴隷解放には反対した。この人はこれらの政治改革に国王も協力することで国王の維持を目指した。
しかしヴァレンヌ逃亡事件で、王室をパリへ連れ戻す委員に選ばれたこの人は、王一家と同行する中で王室への親しみがより強まっていく。そ
れ以降、王室の苦痛を和らげる為に尽力し、国王への不可侵性の維持を強化した。またジャルジェーを介してマリー・アントワネット王妃との通
信を始めたりもした。王妃もこの人の率直さや強さや秩序回復への気持ちを高く評価し、オーストリア大使に手紙でその雄弁ぶりを称賛し、また
秩序の結果として王権の回復しかこの人の考えからは見られないと書いている。ただ、王妃はこの人を魅了して、感情的な支配を試みただけ
という説もある。いずれにしても、この人はヴァレンヌ以降、明確に王室擁護派となった。
ヴァレンヌ逃亡以降、この人は王室は誘拐されて国外へ連れ去られたとして擁護に努めたが、国民の不信感は国王廃位へと向かってしまう。
一部議員が採択し国王廃位の国民投票へと動き、投票に集まった民衆を威嚇射撃したシャン・ド・マルスの虐殺事件{1791年7月17日}以降、
この人らのフイヤン派{共和党の台頭したジャコバン派より分離。ジロンド派とは立憲王政支持色が強く分かれている}はその勢力を弱め、議会
の解散を前に、この人は故郷のグルノーブルへ引退した。しかし8月10日事件の後にテュイルリー宮で発見された機密文書{国王の錠前屋
Francois Gamainの裏切りで鉄扉の国王秘密キャビネットの所在が密告された}により、この人と王室の通信記録が暴露され、1792年8月15日
立法議会で告発、滞在していた実家で逮捕されグルノーブルで10ヶ月間投獄。後に各所に移送された後に1793年11月コンシェルジュリーに
収監。牢中で書かれたこの人のDe la Revolution et de la Constitutionは1843年まで公表されなかった。処刑時、この人は断頭台に上がると
処刑人に頭を差し出して「これが私が自由のために行ったことへの代償なのだ!」と叫んだという。
この人は1792年頃、「租税法院長の娘」と結婚したが子はいなかったとある系図もある。他の系図には結婚記録はない)

  Antoine Pierre Joseph Marie Barnave(右は1785年頃のLouis Marie Sicardによるミニチュアール)

196. マルグリット・ルイ・フランソワ・デュポール DUPORT (Marguerite-Louis-Francois), 39歳。元司法大臣。パリ生。
(マルグリット・ルイ・フランソワ・デュポール・デュテルトル Marguerite-Louis-Francois Duport-Dutertre 1754-93 弁護士、元司法大臣。
父親は文学者で教授で歴史作品の作者Francois Joachim Duport-Dutertre 1714-59。母親はCharlotte Baltie 1806没。兄弟姉妹の記録なし。
父親はサン・マロ生まれの作家で、入会していたイエズス会を去って定期刊行物の発行に従事、1751年イングランド史大要、54年有名な
陰謀・革命の歴史、53年Marquis de Chouppes回想録等の著作あり。
 この人は1782年Therese Marguerite Petit 1804没 と結婚しているが、子の記録はない。
 Duport-Dutertre家は18世紀初頭はSaint-Malo-Saint-Servanに居住しており、上位の中堅層に属する家柄だった。しかしアンジューの古い
貴族家系とも言われ、1620年Saint-Brieuc司教を輩出したアンジューの旧家Porc de Vezins家との結びつきも考えられた。18世紀、Duport家は
いわゆる司法貴族に属している。家系にはルイ14世弟オルレアン公の衣服係侍従だったFrancois du Portがおり、その子Hyacinthe-Jerome
Duportは1690年パリ会計院首席評定官、{その息子Nicolasも1722年同職に就くが子孫なし}、もう一人の子Louis Mathieu Duportはパリ高等法
院評定官。世代は下りFrancois-Mathieu Duport 1718-94はパリ高等法院評定官で94年4月に処刑{⇒655}。その子の1759年生まれのAdrien-
Francois Duportは78年パリ高等法院評定官となり、89年三部会パリ貴族議員となるが、フイヤン派に入り、パリ刑事裁判所所長となるが8月10日
事件後に逮捕・収監、釈放されスイスに亡命、テルミドール後に帰国するも97年のフリュクティドール18日クーデタで亡命、1798年スイスの
Appenzelで没しているが、この人とかなり近い行動である。しかし、この資料でDuport-Dutertre家とこのDuport家が連続的に書かれているものの、
その関連・接点が未記載で、個々の系図もすべて繋がらない。
この人は1777年パリ高等法院弁護士となるが、バスティーユ襲撃に参加、パリ市会委員に選出された。後に市会の検察補佐官に任命される。
ラ・ファイエットの推薦で1790年11月 21日、Jerome Champion de Ciceの後任として司法大臣に任命された。{Ciceは大司教だったので聖職者
市民憲法宣言後に辞任。翌年に亡命}
 穏健でフイヤン派に所属していたが、ジロンド派Jean Marie Rolandからの攻勢により1792年3月23日に大臣職を辞任。私生活に戻る。
しかし92年8月10日事件以降、憲法と国民の安全に対する陰謀に加担したとの容疑で告発。前者やベルトラン、ラメット、デュポルテイユ等と
共に逮捕。コンシェルジュリーに収監されて、マラーの好意的な対応にも関わらず処刑となり、バルナーヴと同日に処刑された。判決が読まれ
るとこの人は「革命は人を殺し、歴史は人々を判断するだろう!」と声をあげたという。
 ギロチンへの護送車の上のこの人は毅然としており、尊厳のある態度で処刑に臨んだという証言がある)

 Marguerite-Louis-Francois Duport-Dutertre

197. ブノワ・グランデル GRANDEL (Benoist), 31歳。時計職人。ブールジュ生。
(ジャン・ローラン・ブノワ・ド・グランデル Jean Laurent Benoit de Grendel 1762-93 Degrandelとも。時計職人、時計商。
ノール県Borre{ブールジュとは全く離れている}生まれとも。
父親はPierre Jacques Joseph de Grendel 1718-84{1720-86とも}は、Borreの助役{主任司祭で助役とも}。母親はMarie Petronille Duymes
1722-67{あるいはPetronille Jacqueline Duyme 1722-67}。六女八男の七男。
姉Jeanne Florentine 1743生 は1772年Pierre Leon Vercruiceと結婚している。兄Pierre Jacques 1750-1827は農夫となり76年BorreでJeanne
 Therese Canipel 1756-1812と結婚、一男一女をもうけている。姉Anne Catherine Benoite 1752-75は73年Joseph Benoit Loreele{あるいは
Joseph Alexandre Augustin Leurele 1746-94以前 と結婚、一男を得ている。
この人は1787年Victoire Reine de Grendel 1768-1814以降{あるいは1763-1799} と結婚し、一男Pierre Louis Benoit 1789-1866をもうけ、
この子は結婚し現在に至る子孫を残していく。{現在の子孫がサイトで先祖の足跡確認をしているが、その人まで系図は繋がっている}
妻は死別後の翌年の94年5月に亡夫の姉Anne Catherine Benoiteの息子Pierre Joseph Benoit Leurele 1773-1808と再婚している。
この人は1793年1月11日に反革命容疑で逮捕されている)

198. マリー・テレーズ・ヴェルヴィッヒ VERVICH (Marie-Therese), 46歳。古文書学校教師。モールフィールドMoorfeld生。
(マリー・テレーズ・ヴェルヴィッシュ Marie Therese VervischあるいはVerwieth。HazebrouckとVerwischの教師。後者の姉。
Moorfeldはドイツ、リューネブルク近郊。ベルギーの西フランドルのMoorslede生まれとある資料もあり、こちらの方が正しいと思える。Moorslede
には同時代のVervisch姓は多々あり。但し該当する系図はなし。
Hazebrouckはフランドルで、現在はHauts-de-FranceのNord県の自治体。ベルギー国境近くでダンケルク、リール、アラス、カレーの近く。
1678年ナイメーヘンの講和でフランスに併合。1792年3月9日、憲法上の司祭の到来に対して祝賀会を開催した記録あり。93年9月、184の
Houchardによるダンケルク解放戦、Hondschooteの戦いが近隣で起きている。
弟である後者の「余所者である憲法上の司祭」としてのオーストリア皇帝支持容疑の事件に巻き込まれたものと思われる)

199. ピエール・ヴェルヴィッヒ VERVICH (Pierre), 45歳。司祭。 モールフィールド生。
(ピエール・フランソワ・ドミニク・ヴェルヴィッシュ Pierre-Francois Dominique Vervisch 1748{49}-93 あるいはVerwieth。1792年から93年まで
Hazebrouckの憲法上の司祭。前者の弟。
Moorfeldはドイツ、リューネブルク近郊。ベルギーの西フランドルのMoorslede生まれとある資料もあり、こちらの方が正しいと思える。Moorslede
には同時代のVervisch姓は多々あり。但し該当する系図はなし。
この人はカプチン派とある。
Hazebrouckはフランドルで、現在はHauts-de-FranceのNord県の自治体。ベルギー国境近くでダンケルク、リール、アラス、カレーの近く。
1678年ナイメーヘンの講和でフランスに併合。1792年3月9日、憲法上の司祭の到来に対して祝賀会を開催した記録あり。93年9月、184の
Houchardによるダンケルク解放戦、Hondschooteの戦いが近隣で起きている。
聖職者の市民憲法が引き金となって紛争が起きたとして、この人の事が紹介されている。
憲法上の司祭と違憲の司祭{大多数}と司祭個人との紛争が起きる。
「侵入者」{この人が他所生まれだからか}の司祭ピエール・ヴェルヴィッシュへの反対により、オーストリアの王族と共犯者への友好関係がある
として告発されギロチン刑に処せられた、とある。別資料にもヨーゼフ2世支持者とある。1793年12月4日、状況はさらに過激化し、この人の
教会は閉鎖され、革命軍の分遣隊によって略奪され町の多くの礼拝堂が破壊され、その廃墟が競売にかけられた、とある)

200. ジャン・ヴァンジュノ VINGENOT (Jean), 56歳。軍輸送部長。ゴンドルクール Gondrecourt生。
(GondrecourtはMeurthe-et-Moselle県のGondrecourt-AixとMeuse県のGondrecourt-le-Chateauとがある。しかし、この人物に関しては、
同種の処刑リストに同様の説明のみで登場するだけであり、上記以上の詳細についての記述は見当たらない)

1793年11月30日

201. ルイ・オーベール、通称フリニーAUBERT dit Fligny (Louis), 28歳。クーロミエCoulommiers生。
(ルイ・オーベール・ド・フレニー Louis Aubert de Fleigny 1765-93 系図の多くが66年10月生まれとしており27歳処刑とある。元貴族。
リヨネ歩兵連隊大尉で23年勤務しサン・ルイ騎士のジャン・パティスト Jean-Baptiste Aubert de Fleigny 1712-94.9/9と国王顧問官の娘アンヌ・
ヴェイエ・ド・ヴォー Anne Veillet de Vaux 1738-88、9/20以前 との息子。
父親は65年クーロミエ市長{90年迄}になっており、クーロミエの歴史についての回想録を残している。それは1770年から1780年頃までにかけて、
多くの歴史的事実に対する私見と地図、当時の使われなくなった言語、そして自らの伝記を書き記したもので、クーロミエ市に関する最初の
歴史書Memoire sur la ville de Coulommiersとして今でも出版されている。
 また、この父親の兄{この人の伯父}であるJean Noel Aubert de Fleigny 1703頃-91頃の娘{つまりこの人の従姉} Henriette 1742頃-1812は1762年
国王近衛Gedon Alexandre Pierre Quatresolz de La Hante 1734-93と結婚し二女一男をもうけているが、この夫も93年11月30日にパリにて処刑
されているとある。後者ら同族と思われるQuatre Solz de Marolles家の者が処刑されている日なので、恐らくこのリストからもれていると思われる。
しかし、Gedon Alexandre Pierre Quatresolz de La Hanteの処刑は93年11月30日にパリのBarriere-du-Troneで執り行われたと系図複数にあり、
他の処刑者一覧にも同様の記載するものもあるが、Barriere-du-Troneは92年8月10日以後はPlace du Trone-Renverseと改名され、ここに
ギロチン台が設置されたのは94年6月13日〜同年7月28日であり、平均一日30人、期間中合計1306人が処刑されたとある{WiKi}。そうであれば、
この人物がこの日に処刑されているのはおかしくなる。この時期のギロチン台はPlace de la Revolution{93年5/11〜94年6/9}である。ただ、後者の
資料の関連で、11月29日に革命裁判所に出廷した面々は、Marolles夫人{後者}とその息子Charles{204}、Quatre Solz de La Hante氏、Aubert de
Fleigny氏{この人}、Le Bas司祭{222}、Leuillot修道院長{206}、Cagnye司祭{203}、Reboure氏{207}、Limenton-Chassy氏{205}となっている。同日の
被告にGedon Alexandre Pierre Quatresolz de La Hanteが含まれている。
 この人はBois-Trotignon領主で1788年Marie Justine Augustine Jeanne Mondollot 1768-1828 と結婚、娘Cesarine Marie Aubert de Fleigny 1789-
1852がいた。娘は1807年Etienne Thomas de Maussion de Cande 1772-1834と結婚し、その長男Alexandre Ludovic 1815-74は軍人からクーロミエ
市長となっている。
この人は1ヶ月の拘束の後にRozoyからパリへ移送され、君主制の復活、共和国に対する陰謀の罪でコンシェルジュリーに収監、処刑される。
 セーヌ・エ・マルヌ県の小市クーロミエ{93年調査で人口3600人}は、すでにルイ16世の裁判中の92年2月に行われた地方選挙で保守派が議席を
占めていた。王党派ではないが、穏健な人々である。そこで、市は反革命的な活動が盛んになって行く。農産物取引の価格上限の設定や、宗教
的な建造物の撤去等、不満が高まっていた矢先で、国民公会に対する反発は強まる。ジャコバンの地方協会の集会なども開けなくなり、「プロイ
センやオーストリアと手を組んでジャコバンどもの首を切り落としてやる」等とおおっぴらに叫ばれる状況となる。報告を受けた国民公会は騒ぎを
扇動したとして主任司祭と貴族数家を捕らえてパリでギロチンに処した。また市長プレヴォら15名の人々もパリに移送されて処刑された。
Prevost de La Plumasserie,Blancheton,Deltombe,Igonnet,Merlin,Maulnoir,Martin,Ogier de Baulny等の面々がパリに移送され処刑されているが、
このリストでは340〜347)

202. ルイーズ・マドレーヌ・シャルロット・バランタン BARENTIN (Louise-Madeleine-Charlotte), 46歳。カトルソーCatresousの妻。ラモットLamotte生。
(ルイーズ・マドレーヌ・シャルロット・ド・バランタン・ド・モンシャル Louise-Madeleine-Charlotte de Barentin de Montchal 1747-93 204の母親。
父親は親衛騎兵スコットランド隊旗手、騎兵准将、フランドル親衛騎兵副隊長Marquis de Montchal, Vicomte de La Mothe,Charles Jean Pierre de
Barentin de Montchal 1705-63。母親はパリ高等法院評定官の娘Louise Madeleine Bertin de Vaugien 1715-93。この母親も同日革命広場で
78歳で処刑されたとあるがリストにはない。88年8月17日74歳で没とする系図も一つだけあるが、他の殆どは没年記載なしか93年没となっている。
革命広場で処刑と明記されているものもある。しかし11月29日に革命裁判所に出廷した面々は、Marolles夫人{この人}とその息子Charles{204}、
Quatre Solz de La Hante氏、Aubert de Fleigny氏{前者}、Le Bas司祭{222}、Leuillot修道院長{206}、Cagnye司祭{後者}、Reboure氏{207}、Limenton-
Chassy氏{205}となっている。同日の被告にこの母親の名は含まれていない。また死刑判決者にも含まれていない。Nicolas de Largillierre 1656-1746
が夫妻の肖像を描いている。
Barentin de Montchal家はブロワの司法貴族の家系。フランドル地方長官や司法長官、パリ高等法院次席検事、租税法院長を輩出している。
 三男三女の末子。長兄は近衛中尉、騎兵大佐で中将となるVicomte de Montchal, Charles Paul Nicolas 1737-1823で、1756年Comte de Boissieux
の娘Jeanne Marie Dorothee de Combres de Bressolles 1740-1816と結婚し一男一女をもうけている。次兄Charles Louis 1739-1815は騎兵大尉で
Marie Antoinette de Beaufort 1748頃-1817 と結婚している。長姉Marie Louise Charlotte 1740-1816は1754年Comte du Crozet de Cumignat,
Francois Florimond du Crozet de Cumignat 1725-80と結婚し、次姉Marie Madeleine Charlotte 1744生 は1765年、ロスバッハやミンデン他で七年
戦争を戦った大佐で91年亡命後は亡命軍で戦い、97年野戦総監となるComte de Verneuil,Seigneur de Moran et Malicorne, Paul Francois de
Maulmigny 1735-1801と結婚し六子をもうけている。{このMaulmignyまたはMaumigny家のChateau de Verneuilは革命に関わらず一家に継承された}
一番下の兄Charles Antoine Louis 1746-1824{1814とも}は近衛銃士黒毛隊、マルティニック連隊大尉で結婚記録はない。 この兄弟姉妹とすでに
長姉が結婚していたComte du Crozet de Cumignatの肖像画はCharles-Marie Caffieriにより1764年に描かれた。
 この人は1769年近衛銃士准将{近衛銃士第一中隊准将補佐官とも}でクーロミエ刑事民事の代官で後にマロール市長{1800-04}となるSeigneur de
 La Mothe,Nicolas Michel Quatre Solz de Marolles 1733-1818と結婚、四男をもうけている。夫は革命中はRozay-au-Brie地区議長でマロール市長
で、91年8月31日立法議会のSeine-et-Marne選出議員。会期終了後引退。
長男Charles Nicolas 1770-93は204で母親と同日処刑。次男Balthazar Charles 1775-1852はRozayの治安判事{1824-27}、Chateau de Courtavrel
の所有者で1801〜02の間にAglae Elisabeth Prondre de Fleurange 1779-1819と結婚、一男一女をもうけた。{この長男の最初の結婚により生まれ
た長男が作家Victor Quatre-Solz de Marolles 1836-1912}三男Antoine Charles 1777生 は夭折。四男Charles Stanislas 1780-1845はCatherine
Eleonore Verneaux 1766-1830と結婚し一男を得る。1828年農業機器の発明による5年間の特許申請をしている。またMarolles市長を父に継いで
1804年から1824年まで務めレジオンドヌール勲章拝受。
Quatre-SolzはQuatre-sousとかCatresousとかの表記もあるので発音はカトル・スーか。
次男Balthazar Charlesの孫Victor Quatre-Solz de MarollesがLes lettres d'une mere: episode de la terreur, 1791-1793{「ある母親の手紙、恐怖
政治下の出来事 1791-93」パリ1901年発刊}の作者であり、曾祖母であるこの人が愛する人の幸せに人生を捧げ、恐怖政治下の犠牲者である
ことを公開した。
革命派のLe Roy de Montflobertがクーロミエの市長となり、中央のジャコバンに協調する方針で地元の保守派と対立している頃、宣誓司祭で
ありながらも教区民の評判も良いJean Pierre Le Bas司祭とも対立していた。ル・ロワが信者の子供たちに「人間の権利の宣言」を唱えさせる
競技会を開き、ル・バ司祭は怒り信者らと退場した。この一件でル・バは処刑候補に入る。{彼は宣誓司祭だったが、後に宣誓拒否聖職者らと
共にギロチン台に送られる} 203のCagnye神父と206のLeuillot神父{前者は宣誓拒否聖職者}だったが、この人と頻繁に手紙のやりとりをして
おり、前者は子供らの家庭教師でもあった。地方都市では恐怖政治下でも敬虔なキリスト教徒が多く、聖職者らとの交わりは続けられている。
 この時期、この人の子供らの中で唯一成人していた長男Charles Nicolas{204}は、91年4月に士官としての承認を得ていたが、彼はかつての
仲間らのようにコンデ軍に加わるかの悩みを抱えていた。革命軍に入隊すれば仲間と戦うことになる。叔父は亡命を奨めたが、父親は反対した。
しかしうまい具合にSaint-Domingueの反乱でBearn連隊が派遣されることになり、彼は旧友らと戦うことなく入隊出来た。
夫が立法議会議員に選出されると、この人もパリのVerneuil街とBac街の角の住まいに転居する。見知らぬ人々の中での生活だが、この人の
ささやかな関心事はCagnye神父に馬を売却するような些細な出来事だった。クーロミエの様々なニュースが最大の関心事だが、この人は子や
前出の神父らにパリの政情など伝える手紙の交信をする。夜10時に帰宅する多忙な夫を尊敬し、パリの風情を嘆き、末子Charles Stanislasの
家庭教師を探し、91年〜92年の手紙にはそのような細やかな日常的なことと夫から伝え聞く議会の情報が綴られている。夫はフイヤン派とジャ
コバンの中間の立ち位置だったが、地方人の素朴さから国王への称賛も手紙には書かれていた。立法議会が92年9月解散すると、マロールに
戻り、Saint-Domingueから帰還した長男とも再会する。しかし革命法廷の裁判官としてフーキエ・タンヴィルから承認されたル・ロワは、分遣隊を
派遣してChateau de Marollesのこの人と夫と長男を逮捕した。夫は直ぐに釈放。告発内容は手紙に書かれた反愛国的な願い、亡命者への
共感、国王への惜しみない賞賛だった。この分遣隊はLe Bas, Leuillot, Cagnye, Aubert de Fleigny他も逮捕する。その後もクーロミエの人々は
ル・ロワにより逮捕されるが、全て終わらぬ内にテルミドール反動となり、この男自身が95年5月7日ギロチンに送られた。
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については前者参照)
 ................................母・Louise Madeleine Bertin de Vaugien 
Louise Madeleine Charlotte de Barentin de Montchal
父・Marquis de Montchal, Charles Jean Pierre de Barentin

兄・Charles Antoine Louis  
姉・Marie Louise Charlotte 姉・Marie Madeleine Charlotte 義兄・Comte du Crozet de Cumignat

203. ジャン・パティスト・シャルル・カニエ CAGNIE (Jean-Baptiste-Charles) , 59歳。司祭。モンディディエMontdidier生。
(Jean-Baptiste-Charles CagnierもしくはCagnie、Cagnye。Saint Mard教区司祭。宣誓拒否聖職者。フランス北中部セーヌ・エ・マルヌ県
La Ferte-Gauche近くのSaint-Marcの元司祭ともあり。前者の家の家庭教師もしており、革命期もよく文通していた。前者が議員になった夫に
随行してパリに行っている間に、その馬の世話などをし、馬を買い取ったりしている。前者ら一家が逮捕された折に他所で共に逮捕された。
系図等にすべての綴りでも該当はない。
クーロミエ事件の関連。クーロミエ事件については201参照)

204. ニコラ・シャルル・カトルスー CATRESOUS (Nicolas-Charles), 23歳。士官。マロールMarolle生。
(シャルル・二コラ・カトル・スー・ド・マロール Charles Nicolas Quatre Solz de Marolles 1770-1793 202の長男 第15歩兵連隊士官、Rozay地区
第一大隊中尉。{第15歩兵連隊は旧ベアルン連隊}
パリ高等法院の法官や軍人を輩出したQuatre Solz家の、Marolles-en-Brieに16世紀来一族の居住する城館をもつ分家に属する。
Quatre-SolzはQuatre-sousとかCatresousとかの表記もあるので発音はカトル・スーと思われる。
父親は1769年近衛銃士准将{近衛銃士第一中隊准将補佐官とも}でクーロミエ刑事民事の代官で後にマロール市長{1800-04}となるSeigneur de
 La Mothe,Nicolas Michel Quatre Solz de Marolles 1733-1818。母親は前者。父親は革命中はRozay-au-Brie地区議長でマロール市長で、91年
8月31日立法議会のSeine-et-Marne選出議員。会期終了後引退。
四男の長男。弟Balthazar Charles 1775-1852はRozayの治安判事{1824-27}、Chateau de Courtavrelの所有者で1801〜02の間にAglae Elisabeth
 Prondre de Fleurange 1779-1819と結婚、一男一女をもうけた。{この長男の最初の結婚により生まれた長男が作家Victor Quatre-Solz de
Marolles 1836-1912} 弟Antoine Charles 1777生 は夭折。末弟Charles Stanislas 1780-1845はCatherine Eleonore Verneaux 1766-1830と結婚し
一男を得る。1828年農業機器の発明による5年間の特許申請をしている。またMarolles市長を父に継いで1804年から1824年まで務めレジオン
ドヌール勲章拝受。{母方祖父母については202参照}
弟Balthazar Charlesの孫Victor Quatre-Solz de MarollesがLes lettres d'une mere: episode de la terreur, 1791-1793{「ある母親の手紙、恐怖
政治下の出来事 1791-93」パリ1901年発刊}の作者であり、曾祖母である母{202}が愛する人の幸せに人生を捧げ、恐怖政治下の犠牲者である
ことを公開した。
91年4月に士官としての承認を得ていたが、この人はかつての仲間らのようにコンデ軍に加わるかの悩みを抱えていた。革命軍に入隊すれば仲間
と戦うことになる。叔父は亡命を奨めたが、父親は反対した。しかしうまい具合にSaint-Domingueの反乱でBearn連隊が派遣されることになり、彼は
旧友らと戦うことなく入隊出来た。立法議会が92年9月解散すると、両親はマロールに戻り、Saint-Domingueから帰還したこの人は両親と再会する。
しかし革命法廷の裁判官としてフーキエ・タンヴィルから承認されたル・ロワは、分遣隊を派遣してChateau de Marollesのこの人と両親を逮捕した。
父親は直ぐに釈放。告発内容は母親がこの人や他の仲間への手紙に書いた反愛国的な願い、亡命者への共感、国王への惜しみない賞賛だった。
この分遣隊はLe Bas, Leuillot, Cagnye, Aubert de Fleigny等、前者や後者らも逮捕する。
母親はこの人を亡命させてコンデ軍に入隊させなかったことを後悔したが遅かった)

母・Louise-Madeleine-Charlotte de Barentin de Montchal  
母方祖父・Marquis de Montchal, Charles Jean Pierre de Barentin 母方祖母・Louise Madeleine Bertin de Vaugien

205. オーギュスタン・フランソワ・フィリベール・リマントン LIMENTON (Augustin-Francois-Philibert), 53歳。司祭。パリ生。
(オーギュスタン・フランソワ・フィリベール・リマントン・ド・シャッセ、もしくはシャッシー Augustin Francois Philibert Limenton de Chassetもしくは
Chassiy,Chassy 1739-93 パリ生まれの貴族で司祭。
Saint Remy de la Vanneの教区聖職者で司祭。革命裁判所検察資料公文書に元司祭、元貴族のLazare Philibert Limentonがある。系図も該当
なし。Coulommiers事件関連と処刑者リストに名が出て来るのみ。
クーロミエ事件の関連。クーロミエ事件については201参照)

206.オーギュスタン・ロエーヨ  LOEILLOT (Augustin), 70歳。司祭。ピエールクール生。
(オーギュスタン・リュイヨ Augustin Leuillot 1724頃-93 司祭。生地はPrecourt、Pierrecourt、Piencourtともある。
Saint Remy de la Vanneの憲法司祭。やはりCoulommiers事件関連と処刑者リストに名が出て来るのみ。系図には、ノルマンディーのSeine-
MaritimeのPierrecourtに1791年生まれのClaude Augustin Leuillot、Marie Adelaide Leuillotの兄妹{姉弟}等がある。別系図にはこのClaude
AugustinはPierrecourt自治体のLongueroy村の農夫とある。また可能性として、ノルマンディーのSeine-MaritimeのPierrecourtに1724年2月5日に
生まれたAugustin Leuillotは没年不詳で、同地にて1713年11月21日に結婚したCharles LeuillotとElisabeth Mauger{Maugyとも記録} 1760没 の三男
がいる。長兄はCharlesでMarie Francoise Sellierと結婚し、Claudeをもうけ、この子は76年PierrecourtでMarie Anne Le Francoisと結婚してMarie
Adelaideと1791年生まれのClaude Augustinをもうけているので、上記Claude Augustin Leuillot兄妹{姉弟}の父親だろう。次兄のAnthoine Leuillot
 1718-19は夭折。そして三男のこの人物は1724年2月5日Pierrecourtで生まれた以外の記録はなくなっている。93年11月30日時点では69歳では
あるが近い。パリで処刑されてラ・マドレーヌ墓地に葬られているので、生地の教会記録には残らないとすると、可能性はある。年齢はどの資料も
70歳もしくは71歳ではあるが、Pierrecourtが10の村落で形成されていて93年当時も541人の人口であったことを加味すると、可能性はある。しかし
特定は難しい。
202のQuatre Solz de Marolles夫人と文通をしていた。法律に反して結婚や洗礼記録の登録を続けていた。1793年2月10日から1793年10月6日まで
の28に及ぶ記録があり、Saint Remy de la Vanneの自宅で押収された。1574年以降の記録は自治体に返還したと証言していた。
クーロミエ事件の関連。クーロミエ事件については201参照)

207. ジャン・アントワーヌ・ルブール REBOURS (Jean-Antoine), 57歳。フォンテヌブロー生。
(Jean Antoine Rebours 1737-93 代書人。フォンテヌブロー生まれでクーロミエ在住。
系図にはフォンテヌブロー生まれの Jean Antoine Rebours 1738年12月16日生 がいる。没年は不詳になっている。父親はHenri Laurent Rebours
{通称La Brie}で、1734年から38年まで王室催事部狩猟官をしており、51年狩猟監督官となっている。その父も FontainebleauとMeauxの道路監査官
で1742年催事部員となっている人物。母親は王室建具監督の娘Marie Therese Chenuel 1702生。四女六男の五男。
1730年から46年にかけて生まれた兄弟姉妹はすべてフォンテヌブロー生まれだが、39年に8歳で同地で夭折した長男以外は、この人物も含めて
生年の記録のみ、没年の記録はない。別系図にフォンテヌブローで没したJean Rebours{やはり通称はLa Brie} 1642頃-1715がおり、職業も狩猟官
であり、息子Francois Gaspard 1679-1743も王室催事部狩猟官で生没地はフォンテヌブローで、フォンテヌブロー城管理官の娘Marie Jeanne
Dorchemer 1686-1761と結婚した。その娘Marie Madeleine 1708生 は1741年結婚し{その長男はまた狩猟官の娘と結婚している}、家系は途絶えて
いる。恐らく、この二つの系図はどこかで繋がっているものと思われる。
 この系図の五男坊であるJean Antoine Reboursは生地は合致し、生年も近く、代々の王室催事部の家柄からして転地先クーロミエでの反革命活
動に組したとしても自然ではある。
クーロミエ事件の関連。クーロミエ事件については201参照)

1793年12月2日

208. ニコラ・エーメ・オーブリ AUBRY (Nicolas-Aime), 24歳。学校教師。クーロミエ生。
(ピエール・二コラ・エーメ・オーブリ Pierre Nicolas Aime Aubry 1770-93 息子の方、とある。寄宿学校の教師。Aimeではなくaine{長男}ともある。
処刑記録の原本にはNicolas Aime Aubryとなっている。クーロミエにAubry姓は散見されるが系図はなし。
反革命の狂信者として逮捕・処刑された。国の代表を冒涜し、王国の再建を謀る傾向のある声明を発表したとある。
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については201参照)

209. セバスティアン・モーデュイ MAUDUIT (Sebastien), 49歳。仕出し屋。パリ生。
(Sebastien Mauduit ワイン仕出し商人。パリのPoissonniere大通り在住。40歳とも。デュムーリエの謀反に同調するセクションの中にあり、有罪
と認められたため処刑。
パリの公記録に1761年9月28日、パリSaint Laurent{Poissonniere大通りと同地区}菓子職人親方で仕出し屋Sebastien MauduitとMarie Charlotte
Traversの未成年の4子であるSebastien、Marie Antoinette、Genevieve、Marie Josephの記録がある。しかし1761年は49歳としても17歳であり、
もしかしたら、この未成年の子らの中のSebastienが該当しており、父親同様に仕出し業に就いたのかも知れない。1739年11月7日付の公記録
にもパリの菓子職人親方として審査員を行ったSebastien Mauduitの記録あり。{この日はある職人の息子が徒弟奉公を始める審査会のような
ものが開かれて親方たちが審査員を務めている}父親か。系図はなし)

1793年12月3日

210. ギョーム・ジャン・フラマン FLAMANT(Guillaume-Jean), 57歳。靴職人。
(Guillaume-Jean Flamandとも。  1736-93 店舗持ちの靴屋。
系図にはFlamantであり。パリはLa potterie通り生まれ。靴職人親方。
父親はパリのブルジョワで靴職人親方Dominique Flamant。母親はMarie Jeanne Tribou。
二男三女の長男。伯父や従兄弟にも靴職人親方がいる。
妹Marie-JeanneはパリSaint-Eustache教会にて1767年Michel Nicolas Charlierと結婚し一男をもうけている。1785年Jacques Bechetと再婚している。
妹Marie-Anne 1757没 は1754年同教会でJacques Patarと結婚している。弟LouisはパリSaint-Barthelemy教会{この教会は1730年と1736年に再建築
工事が始まり、1772年ルイ16世は完成を命じたが革命で作業は中断。91年売却・取壊となった}で1781年Catherine Adamと結婚した。妹一人は夭折
か詳細なし。
 この人は1779年La lingerie通りに居を構え、Charlotte Bernard 1830没 と結婚し、一男二女をもうけた。 娘二人は1800年、1801年に15歳と16歳の
歳頃に早世している。長男Jean-Charles-Louis 1779-1857は、パリ公記録に出生記録が残っているが、後に靴商人となり、1802年Marie Augustine 
Legey 1780頃-1843と結婚し二女を得ているが、他にリンネルの女工Josephine Thomassin 1803以前に没 との間に一男Jacques Hippolyte Flamant
1801-53をもうけ、この息子は第9軽装歩兵連隊大尉となって、1847年レジオンドヌール勲章を拝受。
 この人はContrat-Social地区にて靴の配給において不正を働き処刑されたとある)

211. バルテレミー・スードル SOUDRE (Barthelemy), 52歳。軍御用商人。ランダウLandau生。
(Barthelemy Soudre。靴屋ともある。靴の共和国軍納入業者ともあり、それが正しかろう。Anjou Thionville通り在住。不正な製造・供給をした罪で
処刑された、とあるから前者との共犯かも知れない。系図等はなし)

1793年12月4日

212. アントワーヌ・ピエール・デュフレーヌ DUFRESNE (Antoine-Pierre), 32歳。免許医。プカンヴィルPecanville生。
(アントワーヌ・ピエール・レオン・デュフレーヌAntoine Pierre-Leon Dufresne 1762-93 保健官。 バス・ノルマンディーのピコーヴィルPicauville、
ペコーヴィルPecauville生まれとも。
父親は耕作物の商人Antoine Dufresne 1733-82。母親はBonne-Anne-Jacqueli Pontus 1733生。六男五女の長男。長姉Bonne Anne Catherine
 1758生 は1782年Jacques Bernardin Mauduy 1760頃生 と結婚し一男をもうけている。次姉Louise-Francoise Florentine Dufresne 1760-1840は
1780年に耕作人で牧畜業者Jean-Baptiste Louis Davarend 1754-1812と結婚し一男をもうけた。弟Jean-Louis 1763-1844は牧畜業者となり1796
年FresvilleでMarie-Louise Mangon 1777-1856と結婚し五男二女をもうけた。夫婦の墓はFrevilleに今も残っている。妹Marie-Ursule-Agathe 1769頃
生 は1793年10月に牧畜業者Jean-Vincent Le Marquand 1768生 と結婚し一男をもうけた。妹Catherine 1777生 は1791年Guillaume-Theodore Gisle
と結婚している。弟Jean-Francois Dufresne 1771-1856は1797年Madeleine-Marguerit Le Vavasseur 1769-1811と結婚し二男一女をもうけている。
弟Charles-Antoine Dufresne 1773-1829は海軍大尉{1788年}となりサン・ルイ騎士で聖霊騎士、シェルブールで亡くなっているが、1798年シェルブー
ルでMarie-Madeleine Groult 1773-1829以降 と結婚、二男をもうけ、下の息子Jules Antoine Auguste 1809-85は土木局技術官となりレジオンドヌー
ル勲章を受けていて、その子Jules Louis 1840-1902も知事としてレジオンドヌール勲章を受けている。末弟Jacques-Joseph-Barnabe 1780-1846は
農民で1810年Veronique Marie Antoinette Touzard 1789-1851と結婚、一女を得ている。他は夭折。
この人は1792年女市民Joly{名はどの系図も不詳}と結婚しているが、子の記録はない。名前不詳で一子ありとする系図もあり。
この人はサント・ドミンゴの保健官で92年帰国しパリのGallin通り852番地に住んでいた{?}。93年11月8日に共謀罪で逮捕、 "Journal des guillotines"
では11月9日ギロチンとあるが、この人の「最後の手紙」が残されている。日付は12月3日だからこのリストの処刑日が正しい。
 この人は92年6月2日アンティル諸島で数年暮らした後に「軍医」としてボルドーに帰国。それは結婚が目的だった。93年サント・ドミンゴ時代の友人
パロー氏{サント・ドミンゴの港町カプ在住}に宛てた手紙に軽率にも、結婚生活は満足だが、サント・ドミンゴを離れたことを後悔しており、パリでは
毎日ギロチンで大量処刑されており、ここでは同胞に首を切られそうだと書いた。今一通には、サント・ドミンゴでの無政府状態の迫害や人間の残忍
さから逃れたと思ったら、ここ本国は「巨大なギロチン以外の何物でもなく、強者が弱者を殺戮している」と非難、「アメリカなみに不幸な状態だ」とも
表現した。その手紙が告発の原因となった。
最後の手紙で、まずガリヨン通り852番地在住の「ジョリ様」に「あなたの気の毒な娘にお渡し下さい」とあるので、この住所は妻の実家か? 手紙には
僕は君に相応しい夫ではなかった、しかし君を愛していた、ただひとつの心残りは君を抱き締めることができないこと、自分を忘れないでくれ、自分の
災いがお父さんに及んだら許してくれ、君は人里離れた場所で暮らしてくれ、そしてもう涙で手紙が濡れてしまい筆を置く、そして「明日の10時か11時
迄にコンシェルジュリーに移されるだろう。さようなら、さようなら、永久にさようなら、永遠にさようなら」と結ばれている。そして自分の両親{系図では
父親は82年没だが、母親は没年不詳}に手紙で知らせてくれと依頼し、もう一通同封した手紙をシャルブール海軍主計官ル・フルドレ宛に送りつけて
くれとある。そのル・フルドレ宛の手紙は「うけろ、極悪人、僕の最後の挨拶を。僕はおまえさんが故意にやったのかどうかは知らない。おまえさんが
ならず者だとは知っているが、こんな極悪人だとはなかなか信じられぬ。ただ言えることは、僕を断頭台に送ったのは、僕がおまえさんに託した手紙
であるということだ。もし極悪な所業でないとすれば、今度はおまえさんの番がすぐにやってくるだろう。さらば。デュフレーヌ」と怒りの手紙であり、サ
ント・ドミンゴへの手紙がこのル・フルドレというシェルブールの主計官に託され、それが当局に告発されたものだと分かる)

213. エティエンヌ・ピエール・ゴルノー GORNEAU (Etienne-Pierre), 20歳。内務省職員。パリ生。
(Etienne Pierre Gorneau 1773-93 内務省職員。
父親はパリ高等法院弁護士で尚書局報告官Joachim Pierre Gorneau 1748生。母親はClaire Angelique Dufraine。祖父Joachim Gorneauは徴税
請負人Bouretの秘書をしていた。兄弟にPhilippe Joachim{夭折か生没年、詳細不明}、弟に歩兵大尉になるHonore Marie 1782-1856がいるが、
後述する「最後の手紙」の中に、兄や妹の記述がある。パリで洗礼を受けてボルドーに住み、その地で公証人見習いをする。1793年初めにパリに
移り、叔父の紹介で内務省に入る。父親にはCharlotte Christoph Therese Gorneau 1752生 という妹とCharles Gaspard Gorneau 1755生 という
弟が系図にはあるが、この叔父の仲介であるかは詳細不明につき分からない。
 この人は同僚たちへ共和国制度の軽蔑を隠そうとせず、軽率な通信も友らと交わしていた。あたかも保安委員会事務局に匿名での密告が多く
寄せられていた最中でもあり、手紙の一通が押収されて逮捕の原因となってしまう。93年7月3日、国民公会治安委員会に身柄を拘束され尋問を
受ける。ボルドーの友人セリに宛てられた手紙で、ボルドー派遣委員のトレイラールとマチュー両委員への軽蔑、マラーや各区の「勇者」らへの侮蔑
が記されパリの悲惨さを不快と語っていた。7月6日家宅捜査、書類押収命令。同日サント・ペラジー収監。フーキエ・タンヴィルに宛てられた陳情書
も効は奏さなかった。ラ・フォンテーヌの「蛙の寓話」になぞられた議員らへのあてこすり、恐れを知らぬ亡命貴族らが署名した「ラ・マルセイエーズ」
の歌のパロディ等が押収され、三週間後有罪が確定する。父親の努力も胸打つ陳情書も無駄だった。
93年12月4日付のクロワトル・サン・メリー452番、父親のゴルノー宛ての最後の手紙では、パパや家族のみんなを抱擁できないままこの世を去ろう
としていることが唯一の未練で、20歳の年齢での軽率な罪の償いとして恐れることなく死んでいきます、兄さんと協力して、幼い日に大変に優しい愛
をもって育ててくれた父・母の行く末の支えになりたかった、と書かれている。そして兄に、僕たちの弟の面倒を見てくれ、たった一人の妹の将来の
ことを託している。デュシスの詩編を引用して、人の死の定めを語り、母が自分がその運命を受け入れつつ死んだことをもって、自分の死を諦めて
くれることを願い、死を待つことがそれほど恐ろしいことではないと書く。従兄弟のデュピュイに牢獄に借りた品々{簡易ベッド、マットレス、書物の詳
細}を看守のブシュロに頼んであるから取りにくるよう伝言も依頼している。そして父にこの手紙を子々孫々に伝えくれ、自分の存在を忘れないよう
懇願し93年12月4日正午から1時の間、あるいは11時に革命広場で自分が死んだということを伝えてくれと書き、ラテン語で「死により永遠の命へと
移行する者」と記し結んでいる。
系図には残念ながら、Etienne Pierre Gorneauの名は省かれてしまっているが、この手紙は家族の手には渡らなかったものの革命裁判所の押収物
ファイルに保管され、その公開により彼の存在は広く知らされた)

1793年12月5日

214. アマン・ギー・シモン・ケルサン KERSAINT (Amant-Guy-Simon), 52歳。パリ生。
(ケルサン伯爵アルマン・ギー・シモン・ド・コエトナンプラン Comte de Kersaint,Armand-Guy-Simon de Coetnempren 1742-93 海軍軍人で議員。
 父親は艦隊司令官で海軍大佐Comte de Kersaint,Guy Francois de Coetnempren de Kersaint 1703-59。母親は商人の娘Jeanne Armande
Marguerite Eustachede L'ecluse 1723-91。四男四女の長男。
妹Suzanne Jeanne Armande 1743-1807は1764年王軍海軍大佐Anne Rene Augustin de La Landelle 1802没 と結婚。弟Guy Joseph 1746-97は海軍
大尉となり、Elisabeth Pitoisと結婚{?}、次いで1784年Claire Dufilholと結婚している。弟Guy Pierre 1747-1822は後述。Agathe Jeanne Francoise
Halna du Fretay 1767生 と結婚している。妹Alexandrine Gabrielle 1751-1824は 1772年海軍大尉Baron de Courcy,Alexandre Potier de Courcy 1725-
77と結婚し、死別後の1782年海軍大佐Charles Rene Louis Bernard de Marigny 1740-1816{91年海軍准将、この人と海軍のほぼ同期。1814年海軍提
督。ヴァンデの将Gaspard Augustin Rene Etienne Bernard de Marigny 1754-94の祖父と祖母が兄妹もしくは姉弟である又従兄弟}と結婚。革命中は
この夫の又従兄弟との混同で家族共々逮捕されていたが、証明が出来て死刑は免れた。弟二人は夭折し、末妹Armande Charlotte 1755-75以降 は
1775年Jean Francois Aube de Bracquemont 1775以降没 と結婚している。{つまりこの夫婦は結婚式以降の記録がないということ}
 この人は1772年MartiniqueのSainte LucieでClaire de Paul d'Alesso d'Eragny 1743-1815し一女Claire Louisa Rose Bonneがいる。この娘は後述。
この妻に宛てられたアメリカ亡命中の1795年11月9日付のジェファーソンからの手紙が残っている。Marquis d'Eragny,Francois d'Alesso 1643-91が
ルイ14世によりアンティル諸島に派遣され、総督となり、子孫が定住、マルティニックの大地主一族となったが、その子孫。
この人は1755年、すでに活躍していた父ケルサン伯爵同様、海軍に入隊。Mac Nemara艦隊の義勇兵としてブレスト海軍に入隊、57年父の艦船に
勤務中に尉官に抜擢。AngolaとAntillesの作戦に参加。l'Amethyste号、ついで1760年l'Opale号で護衛任務で西インド諸島に行く。67年La Lunette号
の指揮を任されモロッコの参戦参加。1768年La Belle-Poule号で西インド諸島に行き、70年海軍大尉。71年マルティニックのLe Rossignolの司令官と
なる。76年〜77年La Favoriteを指揮し、78年l' Iphigenieを指揮。このフリゲート艦でドルヴィリエ伯の旗下マンシュ海峡で作戦従事、78年32門艦の
船長としてイギリス海軍の20門艦{HMS Lively}を捕獲、同年西インド諸島のSaint Lucia沖でイギリス海軍18門艦スループ船{HMS Ceres}を捕獲した。
79年Comte de Guichen旗下でもロドニー提督のイギリス艦隊と戦いコルベット艦を拿捕している。82年には遠征隊の指揮をとった。
技術的な問題に多くの改善点を見出し、この人は戦後渡英して海軍の改革技術の習得に努める。84年Le Reflechiの指揮官として、様々な船体改良
を試みたが、この人の提案は拒否されてしまう。1789年12月16日海軍辞任。
革命時、彼は貴族身分だが民衆側につく。そして海軍の再編案を国民議会に提出した。91年セーヌ県の管理官、そして91年立法議会ジロンド派議員、
ついで92年公会議員。92年海軍准将。93年副提督(海軍少将)。しかし彼は国王処刑には反対し、9月虐殺を非難した。また意見の撤回を求められる
も、この人は拒否して議員辞任。マラーと対立したことも致命的となった。亡命は拒否し、93年10月2日にVille-d'Avrayで逮捕、そして処刑された。
弟のGuy Pierre de Coetnempren de Kersaint 1747-1822は革命前は海軍大佐、革命期90年亡命し、亡命軍に入り、1803年帰国し復職、海軍准将等
についた。また娘Claire Louisa Rose Bonne de Coetnempren de Kersaint 1777-1828は、父処刑後に亡命し、アメリカ、スイス、イギリスに向かったが、
ロンドンでDuc de Duras, Amedee-Bretagne-Malo de Durfortと1797年結婚、1808年帰国後はデュラ公夫人として文学サロンを開いた。
ロンドンで知り合ったシャトーブリアンも加わり、スタール夫人も親しく、文学的キャリアには無頓着だったが、その作品は順次世に出ている。人種的、
性的な平等を説き、フェミニストの先駆的存在として史上に名を残した。デュラ公との娘はタルモン大公に嫁いでいる。
コエトナンプラン家はブルターニュの名家で、13世紀ルイ9世の十字軍にも参加した先祖が確認できている。またこの人はCoetnempren de Kersaint
の分家。また海軍大佐の308はCoetnempren de Kerdournant系)

 .......................................................................
 Comte de Kersaint,Armand-Guy-Simon de Coetnempren de Kersaint.................................................................................................................義弟・Charles Rene Louis Bernard de Marigny
..........................................................................................娘・Claire Louisa Rose Bonne de Coetnempren de Kersaint....弟・Guy Pierre de Coetnempren de Kersaint

215. ジャン・ポール・ラボー(通称サン・テティエンヌ) RABAUD (Jean-Paul), dit Saint-Etienne, 50歳。国民公会議員。ニーム生。
(ジャン・ポール・ラボー・サン・テティエンヌ Jean-Paul Rabaut-Saint-Etienne 1743-93 国民公会議員
父親は1787年の寛容令以前のユグノー秘密集会牧師だったPaul Rabaut 1718-94{ニームで死去}。母親はMadeleine Gaidan。
一女三男の長男。長姉は1741年ニームで生まれるも名も含み詳細不明。「愛する妻が今朝10時に女児を出産した」との記述が残っているのみ。
弟Jacques Antoine Rabaut-Pommier 1744-1820は牧師となり、92年-95年公会議員、95年-1801年総裁政府下の元老院議員となる人物。兄のこの
人と同様ローザンヌ神学校で学びマルセイユの牧師となる。後にナポレオン軍の軍将となるPierre Cabrol de Mouteの姉妹であるElisabeth Cabrol
と91年結婚し、二男をもうけている。革命前は天然痘ワクチン接種の普及に尽力。革命後に政界入りし、公会議員となり、兄のこの人のジロンド派
寄りだった。しかし国王の死刑には憲法承認がされるまで一時投票。1793年6月2日の暴動{アンリオが国民衛兵率いてジロンド派逮捕を要求}には
抗議に署名している。10月14日に兄と共に逮捕されそうになるが共々逃亡したが、12月4日に二人は逮捕。他のジロンドと共にコンシェルジュリーに
収監されたが、この人はテルミドール迄処刑を免れた。父親も12月5日にニームの城に収監されたが、処刑は免れた。釈放後議員に復帰し、1795年
10月8日兄の復権承認の際には演壇より賛辞を述べた。ナポレオンにも賛同し戴冠式に出席している。それゆえ1816年プロイセンに亡命するも、国
王処刑投票は死刑判決に含まれていなかったので王政復古で帰国。牧師の仕事にはつかずに2年後に没する。
もう一人の弟Pierre-Antoine Rabaut-Dupuis 1746-1808は、商人をしていたが92年地区管理官・治安判事となる。ニームの検察官Courbisと対立し、
93年に逃亡。テルミドール後に舞い戻り、元老院議員となる。目立たない議員ではあったが長年在職。1803年レジオンドヌール勲章拝受。1808年、
ニームを通過した騎兵隊に牽かれた馬に轢かれそうになった少年Gache{後のガール県局長⇒ Simon Joseph Gache 1800-68、1844年Gard県局長
就任だと思う}を助けようとして転倒し死去する。結婚記録はない。
 この人のサン・テティエンヌはニーム近くの小さな土地に由来。この人はローザンヌの神学校でプロテスタントの教えと法律を学び、1764年11月11日
父の助牧師となる。プロテスタントの法的権利の復活を求めラ・ファイエット侯やマルゼルブ大臣や高等法院司法官らと接触し、1787年11月7日、プロ
テスタントはカトリックに改宗することなく市民権を回復できるという「寛容令」発布に至った。
1788年牧師を辞め、三部会議員となる。ジュ・ド・ポームの誓いを行い、プロテスタントとユダヤの自由を主張。「これは寛容ではなく、自由だ」と説く。
次いで憲法制定会議に参加し憲法の策定に参加。立法会議議員にはなれないのでその間は革命史の正確な著述に専念。国民公会で再び議員と
なると、ジロンド派となる。国王の戦争中の拘束、その後の追放に投票した。1793年2月7日議長に選出され、マラーの起訴を要求。しかし6月2日の
暴動後のジロンド逮捕でPeyssacと逃亡。発見され弟と共に逮捕。この人は処刑となった。1795年10月8日、名誉回復が行われ、処刑を免れ議員に
復活していた弟の賛辞がこの人に捧げられた。
 この人は1768年NimesかDurfortでElisabeth Boissiere{Pourquierともあるが、この姓は母親の姓で、Boissiere姓の男性との関係以前に生まれた娘と
する系図がある} 1741頃-93と結婚している。妻はパリで死去で月日はない。姓名不詳の一子があったとする系図もあり)

 Jean-Paul Rabaut Saint-Etienne......................  
父・Paul Rabaut 弟・Jacques Antoine Rabaut-Pommier 弟・Pierre-Antoine Rabaut-Dupuis

216. ジャック・オーギュスト・ラッセー RASSAY (Jacques- Auguste), 69歳。野戦総監。パリ生。
(ラッセー士爵ジャック・オーギュスト・オーベール・ド・ラッセー Chevalier de Rassay,Jacques Auguste Aubert de Rassay 1732-93 野戦総監
処刑時61歳。生地はLanguedoc-RoussillonのHeraultのFraisse-sur-Agoutともある。Chateau d'Usclatxで生まれた、とある。
Aubert du Petit Thouars de Rassay家はポワトゥー、トゥーレーヌ、ラングドックの一族。軍人として奉仕し貴族に列せられた家系で、1711年に
サン・ジョルジュの領主ジョルジュ・オーベール{この人の父}によるものであり、ジョルジュ・オーベールはdu Petit Thouars, de La Forest, de Rassay,
de Fournieuxの領主でもあった、とあるが、13世紀のJehan Aubert 1276没 に至るまで代々の騎士身分である。Aubert de Rassayの他、Aubert
de Foix,Aubert de Saint-Germain,Aubert du Petit Thouars,Aubert de Boumois等の分家が枝分かれしている。一族には、ルエルグ連隊大尉だった
Gilles-Louis-Antoine Aubert du Petit Thouars 1727-70とDame de Boumois,Marie Gohinの息子でアメリカ独立戦争に参加して、ナポレオン軍の
アブキール海戦で英雄的に戦死したAristide Aubert du Petit-Thouars 1760-98、その兄で名高い植物学者Louis Marie Aubert du Petit Thouars 
1758-1831、また妹のPerpetue du Petit Thouars 1765-1805は三部会議員のNicolas Bergasse 1750-1832と結婚している。この兄弟姉妹らは、この
人の父の異母兄の孫たち{つまり従兄の子供たち}なので従甥、従姪である。この兄弟姉妹の更に従甥に当たるナポレオン期から王政復古の海軍の
副提督Abel Aubert du Petit-Thouars 1793-1864がいる。{父親のAbel Ferdinand Aubert du Petit-Thouars 1769-1829もサント・ドミンゴから帰国する
と逮捕され、テルミドールまで収監されている}この副提督は子はなく妹の子Abel Bergasse du Petit Thouarsを養子としたが、この人物も海軍士官
となり、幕末の日本で戊辰戦争に参加、土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件{堺事件 1868年}による土佐藩士処刑に立ち会った。
父親はVaubrecourt歩兵連隊中佐Jean Baptiste Auguste Cesar Pierre Aubert du Petit Thouars de Rassay 1694-1754。母親は Francoise
Magdeleine de Calmel du Gazel。二女二男の次男。
長姉Anne Magdeleine Julie 1727-1805は生涯独身だった。Poitou-CharentesのCharente-MaritimeはFontcouverteにて78歳で没している。次姉は
1728年に夭折か生年のみ記録。長男である兄Auguste Cesar Joseph 1729-1802はGondrin連隊中尉となり、1743年Vaubecourt連隊に転属し、
ドイツ各地の戦を転戦、1755年Rouergue連隊中尉となり、ずっと戦場にいる。そんな最中の1760年、Royal-Comtois連隊大尉の娘Marie Anne des
 Landes de Linieres 1726頃-1802と結婚し二男二女をもうけるも、男子継承者は2人共に夭折している。{但し、1762年生まれの長男 Jean Jacques
 Auguste Josephを夭折ではなく、Amiens執政官で王室家具係官の娘Marie-Jeanne Francoise Adrienne Aveneaux 1753-1827と結婚しており、この
妻が95年に別の男性と再婚している、とかルイ16世の野戦総監で、94年にギロチン刑死し、あとに亡命していたde Louraine姓の妻との一人娘が
残された、とかしている資料もあり} 長女のHenriette Radegonde1766-1824は祖母{この人の母親}の親族であろうCalmel du Gazel家に嫁ぎ継承者
を生んでいる。次女のMarie Therese Charles 1767頃-1830は独身だった。
 この人は1779年ヴェルサイユで国王取次係官の娘Charlotte Francoise Pallas 1752頃生 と結婚している。{父親Jacques Francois Pallasは取次官
としてテュイルリー宮で勤務中、92年8月10日の襲撃で死亡している} 子の記録はない。
 1759年歩兵大尉。ルイ16世の野戦総監。反革命により処刑される。
 この人の異母だが従妹であるComtesse du Petit Thouars, Marie Madeleine Suzanne Aubert du Petit-Thouars 1740-1823は、女伯爵でGilles-Louis
-Antoineの一番下の妹だが、Salles-en-Beaujolaisの貴族教会参事会員で、常に貧しい人々に恵み、又教会の協力者だった。また王室主義者で、
ヴァンデ農民を多く救済した。ヴァンデの指揮官LescureやLa Rochejaqueleinも彼女の元を訪ねた。そんな状況下で当然ながら、住んでいたPetit-
Thouars近くの小さな城館で長兄Louis Henry Georges 1724-94と共に逮捕されトゥールに収監。長兄は牢内で死去。ロベスピエールが失脚すると
住民らが伯爵夫人の釈放を請願し解放される。夫人は自分のお金で呼んだ医師で人々を治療し、自ら服を直した。1823年Chateau de Saint-
Germain-les-Landesで彼女が83歳で亡くなると、全住民が涙を流したらしい)

従兄・Gilles-Louis-Antoine Aubert du Petit Thouars  
従甥・Louis Marie Aubert du Petit Thouars 従甥・Aristide Aubert du Petit-Thouars

1793年12月8日

217. ジャン・パティスト・ノエル NOEL (Jean-Baptiste), 65歳。議員。ルミルモンRemiremont生。
(Jean-Baptiste Noel 1727-93 国民公会議員。
ブルジョワ階級の上位の家庭に生まれる。父親は商人Joseph Noel。母親はAnne-Marie Durand。
1750年ナンシー高等法院の法廷弁護士となり、54年ルイ16世の叔母であるChristine de Saxe女大修道院長により、この地方で最も名誉ある
ルミルモンの貴族教会参事員大法官に任命され、「Seigneur de Bains」の肩書を授与され、Christine de Saxeの顧問となる。88年ロレーヌ地方
議会議員、89年ルミルモン地区代表検事、90年ルミルモン自治市として同職を継続し、92年国民公会Vosges選出議員となった。法務委員として相続
に関する法案に携わっていた。ダントンに対しロランを擁護し、台頭するパリ市会への攻撃等で政敵は多かった。国王裁判は棄権し、その理由として
息子の戦死による心的負担をあげている。また裁判では国王の処刑は共和国の敵対者を刺激するのみだと主張している。ヴォージュ選出議員たち
のPoullain-Grandprey、Souhait、Perrinは死刑を要求し、Bresson、Couhey、Ballandは亡命または抑留を要求している。
また派遣議員のLeonard Bourdonが93年3月オルレアンで穏健派に襲撃され負傷した事件で、蜂起に加担しているジロンド議員にこの人の名が
含まれていた。93年10月、複数のジロンド派議員の逮捕命令が出された同日中にこの人はパリから逃亡。11月22日、スイスまであと一時間のところ
で逮捕。ルミルモン地区のTillotの農民で市吏Jean-Baptiste Morelという偽身分証を所持しており、Saint-Hippolyteに連行され、そこで身分を告白
した。処刑場への護送車の中で、取り乱すデュ・バリー夫人{221}を元銀行家たち{218-220}らが落ち着かせようとしている中、この人は、恐怖政治下
で生き長らえることの難しさとこの世を去ることの幸福を達観していたという。ただ民衆に対する最後の演説は出来ず、民衆のVive la Republiqueの
叫びで掻き消されてしまっていたという。
1752年8月22日、法廷弁護士時代にArches裁判区の土地所有者Jean Robert JacquelとBarbe Catherine Vanessonの娘Therese Sabine Jacquel
とルミルモンにて結婚し14人の子をもうけている。息子の一人は21歳でヴォージュ大隊の擲弾兵として国境で戦死している。
系図はなく、子供らの詳細は不明)

 Jean Baptiste Noel

218. アントワーヌ・オーギュスタン・ヴァンデンイヴェル VANDENYVER (Antoine-Augustin), オランダの銀行家。
(Antoine-Augustin Vandenyver 1764頃-93 29歳 生まれはパリ。パリ、ロワイヤル通りの銀行家。
父親はアムステルダム生まれの銀行家Jean-Baptiste Vandenyver{220}。母親はパリの両替商の娘Marie-Anne Charlotte Pignard 1802没。
一女二男の次男。兄は後者。姉Anne Francoise 1759頃-91{1802没とも}は1778年パリで高等法院弁護士でショワズール伯執事の息子で国王
評定官で海軍総財務官Cesar Villeminot 1749-1807と結婚して二女三男をもうけ、現代まで子孫を残している。
 この人はパリ高等法院弁護士の娘Marie Barbe Joseph Emilie Bonnemain 1768-1835と結婚し、一女Emilie 1787-1846がおり、この娘は1809年
Bourgesで戦争委員でレジオンドヌール勲章拝受者の文学者Gervais Pierre Touchard-Lafosse 1780-1847と結婚、子孫は現代に至っている。
デュ・バリー夫人の担当者としてオランダやイギリスに出掛けたことによって起訴された。
Henri Gaubertは1946年に「銀行家たちが取り乱すデュ・バリー夫人を落ち着かせようと努力していた」と記述している)

娘・Emilie Vandenyver  
娘婿・Gervais Pierre Touchard-Lafosse

219. エドム・ジャン・パティスト・ヴァンデンイヴェル VANDENYVER (Edme-Jean-Baptiste), オランダの銀行家。
(Edme Jean Baptiste Vandenyver 1760頃-93 32歳とも33歳とも。デュ・バリー夫人の銀行家。
1789年作成の公証人Charles Nicolas Duclos du Fresnoyによる財産目録の公記録にはパリ、Saint-Eustache教区Vivienne通りの銀行家とある。
父親は銀行家Jean-Baptiste Vandenyver{後者}。母親はパリの両替商の娘Marie-Anne Charlotte Pignard 1802没。
一女二男の長男。弟は前者。姉Anne Francoise 1759頃-91{1802没とも}は1778年パリで高等法院弁護士でショワズール伯執事の息子で国王
評定官で海軍総財務官Cesar Villeminot 1749-1807と結婚して、二女三男をもうけ、現代まで子孫を残している。
 この人の結婚記録はどの系図にもない。
Henri Gaubertは1946年に「銀行家たちが取り乱すデュ・バリー夫人を落ち着かせようと努力していた」と記述している)

220. ジャン・パティスト・ヴァンデンイヴェル VANDENYVER (Jean-Baptiste), 66歳。オランダの銀行家。アムステルダム生。
(Jean-Baptiste Vandenyver 1726-93 67歳とも。しかし12月22日生まれなので66歳が正しいと思う。デュ・バリー夫人の銀行家。 van den Yverとも。
父親はPhilip van den Yver 1755没。母親はAnna Theresa de Kamer 1733没。Antoine Francoisという弟が一人いたが、生没年含め詳細記録なしの
系図が多いが、1750年アムステルダムでAnna Maria Beerninkという女性と結婚したと記録する系図が唯一あるが、子の記録はなし。
 この人は1757年パリでパリの両替商の娘Marie-Anne Charlotte Pignard 1802没 と結婚し、一女二男をもうける。息子らは前二者。長女Anne
Francoise 1759頃-91{1802没とも}は1778年パリで高等法院弁護士でショワズール伯執事の息子で国王評定官で海軍総財務官Cesar Villeminot
 1749-1807と結婚して二女三男をもうけ、現代まで子孫を残している。
 妻の他にAnne Marguerite Delahaye de Grandval 1756-1822との間に認知していない娘Anne Marguerite Delahaye 1791-1871{パリ生}がおり、後に
南米CaracasでMadame Bonplandと名乗っていたこの娘の冒険物語を作家Alain Couturierが2013年に発表している。
 処刑時、サンソンに「最初にマダム、そして私、次に私の息子たちを。父親が息子たちの処刑を見ることは駄目だ」と声を掛けた。Henri Gaubertは
1946年に「銀行家たちが取り乱すデュ・バリー夫人を落ち着かせようと努力していた」と記述している。
 1929年にルノーが最初の自動車工場を建てることになる、かつてIle de Sevresと呼ばれていたパリのIle Seguinを所有していたが、処刑で没収され
ている)

221. ジャンヌ・ヴォーベルニエ VAUBERNIER (Jeanne), デュ・バリの別居中の妻。42歳。ヴォークリュール生。
(マリー・ジャンヌ・ド・ヴォーベルニエ Marie Jeanne de Vaubernier 1743-93 処刑時50歳。
Du Barry、Becu、Melle Lange、Quantigny{Cantigny}とも通称されている。父親は推定となるがJean Jacques Gomard de Vaubernier 1715-1805又は
1719-48とも。この父親は天使修道会修道士で不義の子となるが、そもそも政敵ショワズールが広めた噂に起因する父親で真偽不明。母親は
Comtesse de Ludreの料理人の元パリのパン職人Fabien Becu{通称QuantignyもしくはCantigny、パリで評判の美男だったこのファビアンは、未亡人
Comtesse de Montdidier,Severine de Cantigny 1655頃-84と結婚しており、その死後に斯く名乗り、リュドル伯夫人に仕えた}の娘・料理女Jeanne
Becu 1713-88。この母親は父親不明の状態で子連れでパリに出て陸軍御用商人デュムーソー家の料理女となり、デュムーソーの部下二コラ・
ランソンと結婚したが、デュムーソーの情婦だった。この商人は彼女の連れ子のこの人を可愛がり、サントール修道院寄宿学校で9年間の修業を
させてくれる。15歳で寄宿学校を出ると、美容師見習い、徴税請負人ラ・ガルドの未亡人の女中等となり、17歳の時に洋装店「ラビーユ」の売り子
となる。美貌ゆえに高貴な客を引き込み評判となり、二年後にデュ・バリー伯爵と知り合うことになる。{⇒このHPの「歴史の中のシンデレラたち」参照}
 ルイ15世の愛妾となるに至る前に、この人の情夫であるJean du Barry d'Esbats 1723-94は、弟Guillaume du Barry d'Esbats 1732-1811と1768年
偽装結婚させ、この人を「貴婦人」に仕立て上げるわけだが、この兄弟の父親はAntoine du Barry d'Esbats 1676-1744で、イル・ド・フランス連隊大尉
でサン・ルイ騎士の退役軍人。母親はCecile-Therese de Lacaze。Jean du Barryが自称していたようなアイルランドのバリモア伯家の出身ではなく
五代さかのぼってもナヴァール公家の家令である。Jean du Barryの末弟Jean Baptiste Guillaume Nicolas du Barry 1742-1820はChevalier du Barry
でComte d'Hargicourtと呼ばれ、アルトワ伯スイス衛兵大尉や王室シャンパーニュ騎兵連隊大佐などしているが、これは義姉であるこの人の
お陰だろう。{この末弟の妻Louise Michelle Elisabeth de Fumel 1749-94は2月1日ボルドーで母親Marie-Elisabeth de Conty d'Hargicourtと共に
ギロチン刑。父親Comte de Fumel,Joseph de Fumelも同年7月27日にボルドーでギロチン刑となる} 
この人により、仲介者で情夫のJean du BarryはComte du Barry-Ceresとなり、夫となったGuillaumeもComte du Barry,de Roquelaureとなる。
またこのJean du Barryは既婚者でこの人を弟に嫁がせねばならなかったわけだが、妻は1748年結婚したUrsule-Catherine Dalmas de Vernongrese
であり、その間に息子Jean-Baptiste Adolphe du Barry d'Esbats 1749-78がおり、この人はこの甥を事のほか可愛がり、名門のRose Marie Helene
de Tournon 1756-85と結婚させていたが、イギリスで決闘死している。{前掲「歴史の中のシンデレラたち」余談参照} 
 この人が関係した人々は、1758年パリにて、理髪師Charles Lametz。59年パリ、訴願審査官Francois Pierre de Delay de La Garde 1712生、59年
パリ、徴税請負人Nicolas de Delley de La Garde de Blancmesnil 1709-83{前者の兄}、62年パリ、Duc de Richelieu 1696-1788、63年パリ、Jean
Baptiste du Barry 1723-94、64年パリ、Comte de Fitz-James 1743-1805、65年パリ、海軍財務官でアルトワ伯会計監督官Charles Pierre Maximilien
 Radix de Sainte-Foy 1736-1810、66年パリ、オルレアン竜騎兵連隊中尉Gabriel-Barthelemy de Vigier d'Orcet 1733-81、67年パリ、ナルボンヌ大司教
 de Dillon{Arthur-Richard Dillon 1721-1806、62年にナルボンヌ大司教就任、のことだろう}、68年Guillaume du Barry と結婚、69年国王ルイ15世の
愛妾となる、76年Louveciennes, 英国議会議員Henri Seymour 1729-1807、82年Duc d'Aiguillon 1720-88{前出Duc de Richelieuは曾祖父の兄の子に
当たる}、85年Louveciennes, Duc de Brissac 1734-92、年代不詳、王室馬匹御用商人のAntoine Saincere、年代不詳、ルーアン森林総管理官 Baron
 deMonville,Francois Nicolas Henri Racine du Jonquoy 1734-97。{このリストには最後の愛人とされるDuc de Chabot,Louis-Antoine-Auguste de
Rohan-Chabot 1733-1807が入っていない}
 この人の処刑の状況はこのHPの「歴史の中のシンデレラたち」を参照。尚、義兄であり情夫だったJean du Barryは革命後は国民衛兵隊に入り、
Saint-Sernin部隊の大佐となっていたが、93年逮捕され、94年1月17日トゥールーズのplace de la Liberte {現在のplace du Capitole}でギロチンの露と
消える。彼はAnne de Rabaudy de Montoussin 1759-1834と再婚していたが、この妻のことも「歴史の中のシンデレラたち」参照。
またJean du Barryは公式愛妾としてこの人が宮廷入りする際に、目付役して未婚の妹らを田舎から呼び寄せて、この人の侍女として側に置いた。形
ばかりの夫Guillaumeの妹だから義妹だが10近くは年上のFrancoise Claire du Barry 1733-1809は"Chon"と呼ばれ、国王からも好かれていた。{長姉
のMarie Elisabeth 1726-1808はPierre Filhouzeと結婚。持参金のない貧しい貴族子女として、この人と次姉Bischiと呼ばれたJeanne-Marie-Marthe
1727-1801は未婚なので、宮廷に呼び寄せられた}ルイ15世崩御後、この人共々宮廷から放逐され、彼女は「もはや私には求婚者はいない。陛下の
崩御の翌日、私の魅力はすべて消えたのです」とこの人に言った。革命後93年11月9日故郷トゥールーズで逮捕され収監。辛くもギロチンは逃れ、
釈放されるとルーヴシエンヌ城館に行き、隠してあった国王のメダイヨンとこの人のダイヤを取り戻し、76歳で亡くなった)

 ...... 
Jeanne Becu, Comtesse du Barry ...................夫・Guillaume du Barry d'Esbats 甥の妻・Rose Marie Helene de Tournon 
義妹・Francoise Claire du Barry
義兄の後妻・Comtesse du Barry de Ceres,Anne de Rabaudy de Montoussin

1793年12月9日

222. ジャン・ピエール・ルバ LEBAS (Jean-Pierre), 50歳。司祭。モーMeaux生。.
(Jean-Pierre Lebas 1743-93 Coulommiersの司祭。モー生まれでクーロミエ在住。
革命派のLe Roy de Montflobertがクーロミエの市長となり、中央のジャコバンに協調する方針で地元の保守派と対立している頃、宣誓司祭で
ありながらも教区民の評判も良いこの人とも対立していた。ル・ロワが信者の子供たちに「人間の権利の宣言」を唱えさせる競技会を開き、
この人は怒り信者らと退場した。この一件でこの人は処刑候補に入る。この人は宣誓司祭だったが、宣誓拒否聖職者らと共にギロチン台に
送られたわけだ。11月29日に革命裁判所に出廷した面々は、Marolles夫人{202}とその息子Charles{204}、Quatre Solz de La Hante氏、Aubert de
Fleigny氏{201}、Le Bas司祭{この人}、Leuillot修道院長{206}、Cagnye司祭{203}、Reboure氏{207}、Limenton-Chassy氏{205}となっている。
{Quatre Solz de La Hante氏とはGedon Alexandre Pierre Quatresolz de La Hanteで処刑とあるも、リストからもれている}
クーロミエの北西20キロ程度のモーにはルバ姓が同時期多く散見されるが同一人物は確認できない。石工親方で同名のJean Pierre Lebas 1720-86
{生没地Meaux}がおり、この人の生まれた1743年にモーにてAnne Prunel 1717頃-1786以降 と結婚{4月23日}し、44年頃長女Marie Catherineをもうけ、
生年不詳の長男Nicolas Victorもその後にもうけている。長女は68年、長男は78年にそれぞれ結婚している。この両親が妊娠により結婚し年内に出産
したとしたら、同名でもあり長男としてこの人を生んだとも仮定は出来る。子供らの誕生の記録ではなく、結婚の記録により確認されているのみなので、
この人は聖職者として独身で、クーロミエに移住し、パリで処刑・埋葬となれば、記録には残らない)

1793年12月10日

223. ミシェル・ジョゼフ・ブーシェ BOUCHET (Michel-Joseph), 30歳。仕立屋。ルミルモンRemiremont生。
 (Michel-Joseph Bouchet 上衣の仕立屋。普仏戦争でドイツに併合されたmeurthe県{1790年成立、ロレーヌのナンシー中心}のRossicourt{原文の
活字判読困難で不明。該当地名不見当}の生まれとある。また同県Resicourtともあり。Thionville通り在住の上衣仕立屋。{Thionvilleはロレーヌで92年
オーストリア軍と亡命貴族軍からの攻撃から町を防衛したことを記念して命名されたパリの地区。攻撃側にかのシャトーブリアンもいて負傷}この人の
出身地とは縁のある地区名。しかし、処刑一覧の関係のみに名の残っているだけで、詳細は不明。物資の供給に際しての不正の罪、とある。225
同様の犯罪内容につき225内容参照)

224. アンドレ・ブーリヨン BOURILLON (Andre), 30歳。仕立屋。バルセローヌ(アルプス)Barcelonne (Alpes)生。
(Andre Bourillon 無職とあるリストもあるが、上衣仕立屋で前者同様に物資の供給に際しての不正の罪、ともある。Basses AlpesのBarcelone生まれ。
前後の処刑者にはTailleur d'habitsとあるが、この人のみそれがない資料もある。ただ「共和国に対する裏切り行為」により処刑と。パリ、Beaubourg
通り在住。後者同様の犯罪内容につき後者参照)

225. シャルル・アントワーヌ・ピナール PINARD (Charles-Antoine), 32歳。仕立屋。 ランセーLincay生。
(Charles-Antoine Pinard 1762-93 seine et oiseのSaint-Aubin自治体のLimoy生まれともある。上衣の仕立屋。
1793年12月、軍の経理部から告発された。予め取り決められ経理部により承認されていた品質より粗悪な衣類を納品したという告発内容。千着もの
軍服が一着百リーヴル相当の値段で取引されたので、納入業者らとの結託によるこの不正で、この人はかなりの利益を得ていたという。軍経理部
からもフィリップ・リゴーPhilippe Rigaudという者がこれら不正業者との共犯で処刑されている。
ある警察の密偵はこれらの人々が刑場へ運ばれて行く時、「革命広場でこれらの人々は共和国への呪いの言葉を吐いていた。民衆はそれを聞いて、
更に納得していた。なぜなら、極悪人か貴族たちでなければ、このように叫びはしないからだ」と述べている。
 この人は恋人に最後の手紙を残した。それには、自分は無実であり、曇りなき良心を持ったまま死ぬ、祖国防衛の為に死にたかった、と。そして、
お腹の中の子が男の子であれ女の子であれ、共和国の主義に則した育て方をし、僕がいつも愛していた両親を抱き締めてあげて、いつまでも僕の
面影を忘れないでくれと。{パリ、ロラトワール通り141番地メゾン・デュ・ボネ7階、プレヴォ様宛}
少なくとも30人を下らない人々が、この時に裁判所に召喚されて有罪となっており、罪状は、「軍需物資輸送における不正操作」、あるいは「納入担当
官の買収」。納入品は、薪から運搬車、砲兵用の馬匹、糧食、葡萄酒、短靴、軍用衣類にわたっていたとあるが、この日のリストには軍用衣類の関係
業者しか載っていないようだ。前出の軍経理部Philippe Rigaud 1758-93{94とも}もまた、最後の手紙を残しているが、このリストに名がない。このリゴー
は、系図があり、生没年は1762-94になっており、Isaac Pierre RigaudとMarie Perasの息子で、兄にJean Cyrille 1750-1824とPierre Augustin 1760-
1835、他がおり、手紙の時点{93年12月9日}では、この人の生地モンペリエに父親は健在で、母親はすでに亡くなっている。手紙は兄宛であり、系図に
ある二名の兄のどちらに宛てられたものかは不明だが、パリのブラン・マルトー通り近くのサンジュ通り7番地に住んでいる。「愛する兄弟である
「シリル、オーギュスト、そしてソフィーを私の代わりに抱き締めてあげて」と文中にあるので、系図の二人以外にもう一人兄がいて、その人に宛てられ
たものかも知れない。それを根拠に系図も上記二名の兄の他に「Frere Aine」と書かれているのだろう。しかしソフィーという妹か姉も名があがっている
のだが、系図にはない。また正確にはオーギュストではなく、系図にはオーギュスタンとある。またこのリゴーは既婚で、トゥールーズのタンプル通り
在住の妻である「リゴー夫人」宛てに今一通の手紙を残しており、文中で「子供ら」にも言及しているから、子も複数いたようだ。
 またリゴーもブランの「最後の手紙」では処刑日は94年となっているが、手紙日付は共和歴2年Frimaire19日つまり1793年12月9日であり、文中に
「明日はもう私はいない」とあるので、このリストの処刑日93年12月10日が正しいと思える。この人の手紙も同日付であり、同様にこのリストの処刑日
が正しく没年は93年だろう)

226. アントワーヌ・プージョル POUJOLLE (Antoine), 31歳。仕立屋。サラSalas生。
(プージェルPoujel、Pougeolともある。エロー県Salas生まれでパリ、Lavandiere通り在住。上衣仕立屋。Antoine Poujel 21歳とある資料も多い。どちら
にしても系図はない。Antoine Pougeol、無職とある資料もあり。 前者同様の犯罪内容につき前者参照)

227. ジャン・ジャック・サル SALLES (Jean-Jacques), 40歳。宝石商。ムードンMoudon生。
(Jacques Salles、通称デッサールDessallesとも。スイスのMondon生まれともあるがMoudonもスイスである。パリ、Saint-Thomas-du-Louvre通り在住。
この日の人々の告発内容から、この人も軍需用品納入に関係する不正の罪に問われたものと思われる。軍服の御用商人。bijoutierは宝石商の訳出
でなく、「装身具商人」であろう)

1793年12月12日

228. ルイ・ベルナール・マルグリット・エスクール ESCOURS (Louis-Bernard-Marguerite), 68歳。騎兵大尉。ボフBof生。
(ルイ・ベルナール・マルグリット・デスクール Louis-Bernard-Marguerite d'EscoursもしくはDescours 1725-93 元騎兵大尉。Grenelle地区Grenelle-Saint
-Germain通り在住。 Lot et Garrone県のLisbois生まれとも。 Chevalier d'Escoursともある。Lot-et-GaronneのMonsempron-Libos生まれ。
デュ・バリー夫人裁判の証人で友人。銀行家Vandenyver{218〜220}とも20万リーヴルの取引があった。かつて小姓を勤め、後に騎兵大尉となり、
ブリサックの代理人として陰謀の罪で処刑。
91年1月10日、ブリサック公が開いた宴会に呼ばれパリに赴いていたデュ・バリー夫人の留守宅・ルーヴシエンヌ城館に空き巣が入り、高価な宝石類
が盗まれ、その容疑者がロンドンで逮捕されると、夫人はブリサックの副官だったこの人と四人の召使と宝石商を連れてロンドンに渡った。そしてロン
ドン生活を三か月送り、その地に愛着を感じ、後に恋人ブリサックの虐殺の一ヶ月後、当地に亡命することになる。亡命先から不用意に帰国し、告発
され革命裁判所に出頭したデュ・バリー夫人の証人にこの人は呼ばれている。恋人のロアン・シャボーに資金提供したこと、ヴァンデ党に援助金を
提供したことはこの人も認めたが、夫人の弁護に努めた。そこで怒ったフーキエ・タンヴィルによりその場で逮捕されてしまった。この逮捕で、夫人に
概して好意的だったルーヴシエンヌの住民らの証言は委縮してしまったという。
 系図はなく、家系、親族関係の詳細は不明⇒Louis Marguerite Bernard Escourreで系図あり。1725-93。父親は高等法院弁護士Jacques Escourre
1754没。母親はJudic Gourdon。二男一女の次男。兄はCuzorn領主でvaraine du Louvre代官で海軍供給長官のPierre Escourre 1700頃-67。1749年
パリでMarie Etiennette Alexandrine Dahonと結婚している。子の記録なし。姉は257のJacques Etienne Labondieの母親Julie Francoise Escourre 1723生。
騎兵大尉で憲法衛兵隊la garde constitutionnelle{ブリサック衛兵隊とも呼ばれ、国民衛兵隊となるまで数ヶ月のみ存在。1792年5月29日解散}の中佐。
結婚の記録はない。別系図では二男二女の次男とあり、長兄Pierreは変わらないが、姉はAnne 1702-27、Christine 1712生 とあり、共に結婚記録なしで、
Julie Francoiseの記録がないものもある。その系図もこの人の結婚記録はない)

229. カトリーヌ・アルブール HALBOURG (Catherine), 32歳。自称インド女性。イールLille生。
(Catherine Halbourg 売春婦fille publiqueとある。 Saint Nicaise通り在住。34歳とも。 偽インド女faiseuse d'indienne? ≪ Vive le Roi ! Vive la Reine !
Vive Louis XVII ! ≫と叫んだというが、それに対する証拠は不確かだった。しかしCharbonnier委員には「はっきり言いますが、共和国は自由では
ありません。ルイ17世を望みます。私は国王を愛しています!」と明言したという。フーキエ・タンヴィルは「専制主義は常に共和国風俗の敵だ」と言い、
「売春宿は反革命派の者どもがピットからもらった金で悪名高い快楽を買う場であり、逃げ場である」としてこの人を死刑にしたという。革命的道徳の
名のもとに処刑された。エグレEgleと呼ばれていたとある。他にアミアン生まれのSevin未亡人Claire Loriotという30歳の売春婦も裁判にかけら
れている。マリー・アントワネットとの共謀関係とされている。この容疑を問われた時、この人は「それは素晴らしい。あなたはウィットに富んでいる。
あなたが『カペー未亡人』と呼ぶそのお方と共犯だなんて。私は街角で生計を立てている貧しい女、彼女の台所の皿洗いにも及ばぬ貧乏な女です」
と返した。瞬き一つせずに死刑判決を聞いていたが、財産没収が宣告されると議長に「この泥棒!」と叫んだ。処刑前、「悪魔たちと共に葬られたくない」
と恐れおののいていたこの人にEmeryが祝福を与えると、この人は悦び平静を取り戻し、「鳥のような軽さで」護送車に飛び乗ったという)

230. マドレーヌ・ヴェルナン VERNIN (Madeleine), 57歳。ムーラン生。
(マドレーヌ・ヴェルナン・デーグルポン Magdelene Vernin d'Aigrepont 1741-93 処刑時52歳。後者の妹。
父親は士爵で国王評定官、ブルボネ総徴税区財務官Jacques Vernin d'Aigrepont 1691-1754。母親はCatherine Le Breton 1707-79。
Vernin d'Aigrepont家はMoulins城代でAigrepont, Origny, Roze, Breuil, Cornillyの領主家系だが、17世紀より主席検事、高等法院弁護士、国王評定官
などを輩出している司法一族。 Aigrepontの相続人との結婚で城や領地を得たJacques Verninとあるので、この父親だろう。
四女二男の末子。長姉Gabrielle Marie 1729-96{1725-93とも}は1762年Michel Toussaint de Cadier du Bouy 1700生 と結婚し一女を得ている。次姉は
夭折。長兄Pierre 1732-97は総財務官だったが、革命後も93年にムーランの財務局長となるが、58年Bignyバイイ裁判所検事の娘Jeanne Giraudon
1739-77と結婚し、四女八男をもうけ、長男のAndre Achille 1761-1805は85年海軍大尉になっていて、三男Jean Jacques 1765-1818は革命でアメリカ
はルイジアナへ亡命し、当地に定住しアメリカの分家の祖となった。{この人の子孫が現在家系を調査している}次兄は夭折、姉Marie Gervaiseは後者。
後者の亡命した息子に資金を貸付していたという告発されている)

231. マリー・ジュヌヴィエーヴ・ヴェルナン VERNIN (Marie-Genevieve), フレモンFremontの未亡人。55歳。ムーラン生。
(マリー・ジェルヴェーズ・ヴェルナン・デーグルポン Marie Gervaise Vernin d'Aigrepont 1739-93 処刑時54歳。前者の姉。
父親は士爵で国王評定官、ブルボネ総徴税区財務官Jacques Vernin d'Aigrepont 1691-1754。母親はCatherine Le Breton 1707-79。
Vernin d'Aigrepont家はMoulins城代でAigrepont, Origny, Roze, Breuil, Cornillyの領主家系だが、17世紀より主席検事、高等法院弁護士、国王評定官
などを輩出している司法一族。 Aigrepontの相続人との結婚で城や領地を得たJacques Verninとあるので、この父親だろう。
四女二男の三女。長姉Gabrielle Marie 1729-96{1725-93とも}は1762年Michel Toussaint de Cadier du Bouy 1700生 と結婚し一女を得ている。次姉は
夭折。長兄Pierre 1732-97は総財務官だったが、革命後も93年にムーランの財務局長となるが、58年Bignyバイイ裁判所検事の娘Jeanne Giraudon
1739-77と結婚し、四女八男をもうけ、長男のAndre Achille 1761-1805は85年海軍大尉になっていて、三男Jean Jacques 1765-1818は革命でアメリカ
はルイジアナへ亡命し、当地に定住しアメリカの分家の祖となった。{この人の子孫が現在家系を調査している}次兄は夭折し、妹Magdeleneは前者。
この人は1767年Chateau d'Aigrepontの教会で国王近衛隊旗手の息子でサントンジュ歩兵連隊大尉で歩兵参謀となる貴族Pierre Joseph Martin de
Fremont 1727-79と結婚、二男をもうけた。長男Vincent 1772-1817は1780-87Effiat王立軍学校に在籍、87年ピエモン連隊少尉、革命で亡命、コンデ
軍に所属、Baschi軽騎兵部隊の義勇騎兵伍長となり、98年ロシアのアンギャン竜騎兵少尉となって負傷もし、1802年恩赦で帰国、l'Orne猟兵連隊大尉
となって、1815年サン・ルイ騎士。1803年Madeleine Seguin du Bouchatと結婚し、一男一女をもうけ子孫は現代に続いている。次男Andre Achille 1777
-1859は、 Marie Rose Secretain de Neuvilleと結婚し一女をもうけている。この一女はこの人の兄Pierreの孫Pierre Achille Vernin d'Aigrepontと1819年
に結婚しており、息子Marie Andre AchilleはComte d'Aigrepontとなっている。
「二人の息子がおり、一人は亡命し」とあるので、長男だと思われるが、「亡命した息子に」資金を送金していたと告発された)

1793年12月14日

232. グザヴィエ・ブルノー BRUNEAU (Xavier), 65歳。元検察官。モーブージュMaubeuge生。
(フランソワ・グザヴィエ・ブルニョーもしくはブニョー Francois-Xavier BruniauもしくはBuniau。 Francois Xavier Buniau 1743-93で系図あり、Maubeuge
生まれで93年12月15日パリの「グレーヴ広場」で52歳で処刑とあり。サンソンの回想録や他資料では55歳ともあり。
父親はNicolas Buniau。母親はMarie Francoise Fevrier。1778年MaubeugeでFrancoise Henriette Francoisと結婚している。弟Jean Baptiste 1745生
がおり、1785年CerfontaineでMarie Marcelline Maireau 1732-1806と結婚している。別系図で父親と思しきNicolas Francoisがあり、1704-77、生没地は
共にMaubeuge、農民Fermierで、1739年Mairieuxで農民censierの娘Marie Francoise Fevrier 1714-88以前 と結婚し、Emmanuel Augustin Buniau
1759生 という息子がいて、この息子は農民censierで、1788年Neuf-Mesnilで農民censierの娘Angelique Henriette Pelagie de Harvengt 1763生 と結婚
している、とあり、この人や弟Jean Baptisteの記載はない。
元Maubeugeのプレヴォ裁判所検察官。白い帽章Cocardeを着用し、またそれを多数の人々に配布し有罪とされた。
Nord県Avesne小郡Maubeuge在住でAvesne裁判所で1790年制定された無償弁護人defenseur officieuxを勤めていた)

233. ルイ・マリー・フロラン・デュシャテル DUCHATEL (Louis-Marie-Florent), 66歳。元フランス衛兵隊大佐。スミュールSemur生。
(デュ・シャトレ公爵、シレー・シュル・プレーズ侯爵ルイ・マリー・フロラン・ド・ロモン・ダロークール Duc du Chatelet,Marquis de Cirey sur Blaise,
Louis-Marie-Florent de Lomont d'Haraucourt 1727-93 外交官、軍人。Semur-en-Auxois生まれ。
父親は中将・総督Marquis du Chatelet,Comte de Lomont,Florent Claude du Chatelet 1695-1765。母親はGabrielle Emilie Le Tonnelier de Breteuil
1706-49。母親はルイ14世治下の外交官Louis Nicolas Le Tonnelier de Breteuil 1648-1728の娘でChateau de Cireyにヴォルテールを招き、その愛人
とも言われ、自身も数学者にして物理学者、著述家として高名な「デュ・シャトレ侯夫人」。
一女二男の長男だったが、姉Gabrielle-Pauline 1726-1754は1743年ナポリ名門貴族Duca di Montenero,Alfonso Carafa 1713-60と結婚し、夭折した
一男をもうけているが、28歳で没した。弟は夭折している。また母親はJean Francois de Saint-Lambertとも関係があり、1749年に夭折した女児を
もうけていたともある。{このサン・ランベールはルソーの恋人Elisabeth Sophie Francoise "Mimi" Lalive de Bellegarde 1730-1813とも関係している}
 ロレーヌ公フレデリク1世の息子Thierry de Lorraine以降の13世紀の分家に始まる家系。
1752年Marquis de Faudoasの娘Diane Adelaide de Rochechouart-Faudoas 1732-94{⇒697}と結婚。しかし子はなく、妻の妹Zephirine Felicite
1734-1776とその夫Marquis d'Antigny, Comte de Ruffey,Francois-Jacques de Damas d'Antigny 1732-1811の四男一女の長女Diane Adelaide
1761-1835を養女とした。この養女は1777年Comte de Simiane,Charles Francois de Simiane 1750頃-1787と結婚し、同年プロヴァンス伯夫人の女官
となり、グルネル通りのオテル・デュ・シャトレ{現・労働省}に君臨、評判の女性でラ・ファイエット侯の愛人となる。1783年、彼女の肖像を描いていた
ヴィジェ・ルブラン夫人は、その画を見るためにラ・ファイエット侯が自宅に来ていたと書き残している。ラ・ファイエットのもう一人の恋人Comtesse
d'Hunolsteinはこの関係が始まると社交界を去り修道院に入っている。彼女はラ・ファイエット夫人とも交友している。また夫はラ・ファイエットと共に
アメリカに渡っている。しかし同性愛者で、1787年に狩猟中の事故で亡くなったが、自殺とも噂されていた。彼女は再婚しなかった。革命中は投獄
されたが無事に生き延びた。Lewis Turkと結婚しアメリカに渡ったMary 1783頃-1843とBarnard Charles McNallyと結婚したAdelaide 1799頃生 の
母親とする系図もあるが「父親はフランス革命で殺され、母親はイギリスに亡命しアイルランド貴族と再婚し、娘らはカナダに渡り、兄弟に嫁いだ」
としているが、実際のDiane Adelaideの史実に反した内容であり、この系図は内容が怪しい。
 また、子なく養女までもらったこの人夫婦の間に実はPaul du Chateletという男子がおり、オーセールから近いブルゴーニュの農民に金を渡して、
革命中にこの幼児を隠密裏に逃がしたという話もある。系図にもPaul Marie de Lomont d'Haraucourtとして載せているものもある。しかし当時60歳を
越えている、この人の夫人が出産することには無理がある。しかし93年9月の逮捕中、この件で非難されていることも事実ではある。この子はPaul
Chateletと改名して逃げ延びたとある。
 この人はルイ15世の義父Stanislas Leszczynskiの宮廷でQuercy連隊大佐{1746}、ポーランド国王侍従となり、Lunevilleに住んだ。54年Navarre連隊
大佐となり、後に国王連隊擲弾兵中佐となり67年大佐となる。Semur-en-AuxoisとToulの総督となり、すぐに野戦総監となった。61年ウイーン大使と
なり、68年にはイギリス大使。70年シャトレ公位を授爵。
1787年イル・ド・フランス地方議会の議長。88年フランス衛兵隊大佐となり、プロイセン式の懲罰的軍事規律を導入する。しかし、貴族将校たちの教育
は怠り、貴族将校たちは相変わらず部隊を下士官に委ねていた。89年7月のアベイ事件もこの人の不人気によるところが大きい。それゆえ、同月の
12日にこの人は民衆に追われて捕まるところだったが、フランス衛兵隊の一部隊によって救出されている。しかし2日後のバスティーユ襲撃事件では
周知のようにフランス衛兵隊は命令に背き民衆に加勢するのであった。
 この人は1793年12月13日に投獄されたが、12月3日、アミアンからSainte Pelagie牢に移送された時、病気で死にかけていた。アミアンで財産没収を
免れる為にガラス片を飲み自殺を図り、コンシェルジュリーでは壁に頭を打ち付けて自殺を図った。その後もナイフでの自殺を試みている。14日の刑
執行後、その財産は没収された)

.................... 
Duc du Chatelet,Louis Marie Florent de Lomont d'Haraucourt 父・Marquis du Chatelet,Florent Claude
母・Gabrielle Emilie Le Tonnelier de Breteuil 養女・Diane Adelaide de Damas d'Antigny

234. ピエール・ジャック・シャルル・ポルシュー PORCHEU (Pierre-Jacques-Charles), 32歳。海軍勤務。モーブ―ジュMaubeuge生。
(ピエール・ジャック・シャルル・ポルシェ Pierre-Jacques-Charles Porcher  Marquis de Bouthillierの奉公人ともあり。Eure-et-Loir県のScnonches
{Seconges、Senongesとも}生まれとも。パリのForest通り在住。亡命の罪で有罪とあり。海軍省勤務でモーブージュ生まれとは、このリストにしかない。
公証人Rene Francois Fourcault de Pavantのパリの公記録に、1793年10月8日付でPierre Jacques Charles PorcherがMarie Louise Dupartと結婚
した、とある。また1793年12月18日付の同公証人の公記録に両者の「放棄Renonciation」記録がある。
Marquis de BouthillierとしてはMarquis de Bouthillier-Chavigny de Beaujeu,Charles-Leon 1748-1818がおり、ルイ13世時代にリシュリューの忠臣で、
またフロンド派として戦った外交官Leon Bouthillierの子孫で、ピカルディ連隊大佐から89年三部会貴族議員となり、90年野戦総監となりヴァレンヌ後に
政府に忠誠を立てるも諸事件に失望し1791年10月4日コブレンツに亡命、ブロイ旗下でコンデ軍を指揮している)

1793年12月15日

235. ジョゼフ・ブルーエ BLOUET (Joseph), 56歳。門衛。ウーヴィルHouville生。
(Joseph Blouet {Jacquesではなく、とあり} 1737-93 Duc de Montmorencyの館の管理人conciergeで同地に在住。
陰謀の罪により処刑とある。モンモランシー公の執事Jacques Serpaud、同公の会計士Jacques Husson-Chancourtも共に加担しているとあり。{後二者
であろう} 「モンモランシー公」としてはAnne Charles Sigismond de Montmorency-Luxembourg 1737-1803は89年イギリスへ亡命、Mathieu de
Montmorency 1767-1826は93年スイスへ亡命、Anne-Alexandre-Marie-Sulpice-Joseph de Montmorency 1747-1817も亡命、Anne-Adrien-Pierre de
 Montmorency 1768-1837も亡命、Anne Leon II de Montmorency-Fosseux 1731-99も亡命等。仕えていた公爵の推定は237参照⇒推定は正しかった)
Houville-en-Vexinはノルマンディーにある1793年当時人口210人の町。また別資料ではOuville生まれともあり、Ouvilleもノルマンディーのマンシュ県。
但し、また別資料にはHouville,Moselle県ともあり、これがMoselle県のOnvilleの誤記であれば、1736年生まれの{1793年当時57歳}のJoseph Blouetの
系図がある。錠前親方で時計職人の四男一女の末子で、生年のみ記録あり。
「最後の手紙」が残されている。91年リエージュ近郊に隠退していたAnne Leon II de Montmorency-Fosseuxと連絡を取り合っていた237は、亡命者
財産の没収の法令を受けて公家の財産をベルギーへ持ち出す手配をしており、この人は造幣局に接収されることになっていた公家の銀食器を大量
に一族の館に隠蔽していた。それが露見しての逮捕となった。サン・マルク通りのメゾン・ド・モンモランシー在住のアデライドと呼ぶ自分の妻に、ドヴィ
リエ氏を頼れ、自分の母親を慰めて、息子に我が身の潔白を話し「それより他の伴侶をもつことは望まない」と伝えてくれ、友達のマイヤール夫人が
家に受け入れてくれるだろうから幸せに暮らしてくれ、等と書き記している)

236. ジャック・ユッソン・ショークール HUSSON-CHAUCOURT (Jacques), 57歳。会計士。ヴィゴリVigory生。
(ジャック・ユッソン・シャンクール Jacques Husson-Chancourtとも。前者・後者とモンモランシー公の陰謀に加担とあり。モンモランシー公の経理士。
56歳ともあり。Journal general de la guerreには27歳ともあるが誤記だろう。
Haute-Marne県のヴィニョリーVignory生まれで、同公爵の館に在住。モンモランシー公についてはの前者参照。仕えていた公爵の推定は後者参照。
Jacques Husson-Chancourtは系図があるが、「高等法院弁護士でモンモランシー公の館の執事で経理士」とだけ記され、Chatellenie de Courtalain
{CourtalainはEure-et-LoirのMontmorency-Fosseux家の領地}の書記で公証人でCourtalain民兵少佐となるAntoine Thenaisie 1730生 とMadeleine
Repeyの1787年の結婚の立会人として署名している者として記録が残っている。1785年6月14日には「弁護士」として記録がある。モンモランシー家の
関係での結婚立会なのだろう)

237. ジャック・スポー SEPAUD (Jacques), 55歳。アングレーム生。
(ジャック・セルポー Jacques Serpaud 1738-93 前二者らとモンモランシー公の陰謀に加担とあり。Neuve Saint-Marc通り在住。高等法院弁護士。
モンモランシー公の元執事intendant。56歳ともあり。
Neuve-Saint-Marc通りは1784年サン・マルク通りを延長した通りの部分で、新サン・マルクNeuve-Saint-Marc通りと呼ばれるようになっていた。この
サン・マルク通りにはHotel de Montmorency-Luxembourgがあり、当時はDuc de Montmorency,Anne Francois de Montmorency-Luxembourg 1735-
1761の娘婿Anne Leon II de Montmorency-Fosseux 1731-99が1785年以降Duc de Montmorencyとして住んでおり、革命中亡命し、1799年亡命先の
ミュンスターで亡くなっているので、この人の所在地からこの公爵に仕えていたものと思われる。{後述・この推測は合っていた}
91年リエージュ近郊に隠退していたAnne Leon II de Montmorency-Fosseuxと連絡を取り合っていたこの人は、亡命者財産の没収の法令を受けて
公家の財産をベルギーへ持ち出す手配をしており、235は造幣局に接収されることになっていた公家の銀食器を大量に一族の館に隠蔽していた。
1793年12月6日付で「最後の手紙」が残されている。サン・マルク通り167番地のセルポー嬢宛の短い手紙で、おまえの可哀相な父親は勇気をもって
死んでいくよ、愛しい娘よ、幸せになっておくれ、おまえはそれに値する、友人たちがおまえに親切にすることを懇願する、私の不幸な仲間たちも、
おまえに最後の別れを告げている、ドーフィーヌ通りの私たちの友に会って助言を受けなさい、とある。
パリの1770年11月1日付公記録に、高等法院弁護士Jacques Serpaudと未成年妻Marie Francoise Forgetは、1766年10月30日の手紙と結婚により、
未成年後見を解く、とある。1794年1月21日付のパリ公記録には、Jacques SerpaudとMarie Francoise Forgetの離別の記録が残っている。しかし1785
年3月17日付の記録には、「15歳の未成年Philippine Victoire Serpaudの両親であるパリ高等法院弁護士Jacques SerpaudとMarie Francoise Forget
は、母親の死去に伴い父親を後見人として選定する」という記録があるので、94年1月の記録は内容の詳細が不明。93年12月6日付の処刑前の娘へ
の手紙にも、母親のことに触れていないし、この85年の記録の通り、その頃に亡くなっているのかも知れない。93年当時には娘Philippine Victoireは
23歳になっているが、まだ「セルポー嬢」なのだろう。尚、この85年3月17日の記録には、未成年Philippine Victoire Serpaudの母方叔父{伯父}として
パリ高等法院弁護士Louis Francois Forget、父方叔父{伯父}{つまりこの人の兄弟}の元徴税請負人Philippe Jacques Serpaud、母方叔母{伯母}の夫
高等法院検察官Nicolas Francois Labitte、母方叔母{伯母}のMadeleine Victoire Forgetとその夫で元greffier du BatimentのJean Claude Ingres
de Monthulin、母方従兄弟の食品商Jacques Denis Piebot、母方従兄弟の高等法院弁護士Jacques Piebot、本人従兄弟{つまりこの人の甥}である
建築家ArchitecteのJean Louis Sylvain Bourgeois、代理後見人等の協議に参加している。
また1770年12月11日付のアングレームの検察官Jean RigaillaudとMarguerite Rose Boussironの息子FrancoisとJacquesの洗礼式の立会人として、パリ
高等法院弁護士Jacques Serpaudとその妻Marie-Francoise Forgetとその姉妹Marguerite Serpaud{Lhomandie氏の妻}が署名している。
パリ高等法院弁護士録Histoire des avocats au Parlement et du barreau de Parisには、Jacques Serpaudの名があり、その注釈に「革命で断頭台」と
あり)

1793年12月16日

238. ジャン・メルシオール・コルネ・フォンテル COLNET FONTEL (Jean-Melchior), 36歳。大尉。ナンシー生。
(ジャン・メルシオール・コルネル・フォンテ Jean-Melchior Colnelle Fontetとも。 第101歩兵連隊中佐ともあり。どちらかの名前でリストが二分して
いる。またJean-Melchior de Collemel de FontetもしくはBaron de Fontet,Jean Melchior de Collemelとしての生存証明が1781年-94年の公証人記録
にある。
 16世紀Aptのブルジョワジー出身の一族Cortasse家は17世紀には公証人からプロヴァンス議会弁護士となり、弁護士Francois Cortasseの息子で
Comte de Sablonetと呼ばれたChristophe Cortasse de Sablonetは軍人として成功し72年マルティニック連隊大佐、Fort-Royalの王の代官等任命され、
88年野戦総監となるも、93年公会に対するリヨンの蜂起に参加し6月21日に負傷し死没する。その娘Jeanne Charlotte Beatrix de Cortasse de
 Sablonet 1764-1845は78年、ナンシー生まれでCouronne連隊士官でChevalierのJean Melchior Collenel de Fontet 1756-1824以前 と結婚している。
この夫は12月7月生まれで93年のこの処刑日には37歳だが、出身地も名前もほぼ合致する。革命での処刑の事実が系図では把握されていないよう
だが、恐らくこの人物と同一だと思われる。父親は法律家で平貴族のPierre Charles Melchior Collenel de Fontet 1738-1801。母親はJeanne Marie
Francoise Marquet 1738-1811。三男一女の次男で、長兄はPierre Francois Charles 1756-59は夭折。妹 Marie Francoise 1759-1833は1777年
NancyでAnhalt連隊{後のSalm-Salm連隊}士官で後に軍管理官intendant militaireとなるMarie Jacques Louis Zaiguelins d'Alternach 1749-1817と結婚。
弟Charles Pascalは1760年生まれという記録のみ。祖父Charles Francois Collenel 1701-77以前 は1746年ロレーヌ会計院主席検事となった人物で
「男爵」とあり、別系図に「Fontet男爵領の領主」とあるのでFontet男爵なのだろう。また上記のCortasse家の資料では、Jeanne Charlotte Beatrixの
夫はRoyal-Liegeois連隊大尉、後に第101歩兵連隊の「大佐」となり、リヨン蜂起でVaise地区司令官だった義父{Christophe Cortasse de Sablonet}と
共に戦い、逮捕。パリに連行されて1793年12月16日に処刑された、とあるので、これも合致。コルネルの表記が記録により色々だが、前出のBaron
de Fontet生存証明も、同男爵領領主である祖父の適男の長男{兄は夭折}なので、この人のものとして間違いないだろう。
子の記録は系図にない。
 第101歩兵連隊は1787年Royal-Liegeois連隊として編成され、91年第101歩兵連隊となった。当時の大佐もしくは旅団長は下記。
1791年: Jean de Ternant (Colonel)
1791年: Charles-Joseph de Sames (Colonel)
1793年: Miollis (Chef-de-Brigade)
1795年: Venoux (Chef-de-Brigade)
つまり、Cortasse家の資料にある「大佐」は「中佐」の誤りと思われる。また同一の連隊{91年に改称}で大尉から革命後に昇格したことになる)

239. ジャン・ジャック・クロード・ヴィゾン VISON (Jean-Jacques-Claude), 37歳。魚屋。ディエップ生。
(ClaudeもしくはJean-Jacques-Claude Vison 魚問屋の商店店員。Moulins生まれとも。アール市場の管理をしていて、いつも暴言を吐いており、
共和国の利益に反するとして有罪宣告されたとある。
同時代にもDieppeにはVison姓が散見されるが、該当する家系はなし)

1793年12月17日

240. ジャン・パティスト・ジブラン GIBLAIN (Jean-Baptiste), 43歳。仕立屋。サン・タンドレ・ラマルシュSaint-Andre-Lamarche生。
(Jean-Baptiste Giblin 上衣仕立屋。faubourg Saint-Denis通り在住。Evreux{ノルマンディー}近くSaint Andre Lamarche生まれ。該当する系図なし。
パンテオン地区の軍服変更に伴い3000リーヴルの不正取引をした罪で告発された。
Antoine Demachi, J.-Baptiste Giblin, Jacques Louis Tonnelier及びBernard Marie Lemonnierの処刑のために軍の出動要請が出ているのは93年の
12月16日となっている)

241. ベルナール・マリー・ル・ムーニエ LE MEUNIER (Bernard-Marie), 33歳。理髪師。サン・タンドレ・ラマルシュ生。
(ベルナール・マリー・ルモニエ又はルムーニエあるいはムーニエ Bernard-Marie Lemonnier又はLemeunie、あるいはMeunierとも。 鬘師。
パリはボールペール地区生まれで、同地区の革命委員。系図は見当たらず。
Antoine Demachi, J.-Baptiste Giblin, Jacques Louis Tonnelier及びBernard Marie Lemonnierの処刑のために軍の出動要請が出ているのは93年の
12月16日となっている)

242. ニコラ・レミー・ルスル LESURE (Nicolas-Remy), 59歳。治安裁判所判事。ヴージエVouziers生。
(Nicolas-Remy Lesure 1734-93 Nicolas-Remy Le Sureとも。治安判事でSainte-Menehouldバイヤージュ裁判区代官、三部会第三身分議員から
憲法制定会議議員。ArdennesのVouziers生まれ。
Sainte-Menehouldはヴァレンヌ逃亡時の国王一家が最初に発見された町。その後、国王一家の馬車はSainte-Menehouldの宿駅長ドルーエの追跡
によりヴァレンヌで拘束される。
 父親はPaul Lesure 1694-1764。母親はSeuil{Seuil-d'Argonne?}の判事で市長{もしくは公証人}の娘Catherine Hainguerlot 1697{96}-1766。六女五男
の五男。姉Marie Catherine 1721-1801{この姉の記載ない系図もあり} は1748年VouziersにてClermont-en-Argonneバイヤージュ裁判区の弁護士
Francois Chemery 1720-54と結婚、四女一男をもうける。姉Catherine Henriette 1729-71以降 は1755年Vouziersにて士官Claude Louis Morel
1731-71以降 と結婚し二男をもうけている。姉Marie Margueritte 1731-1815はVouziersで生まれ、Sainte-Menehouldで83歳で没しているが、結婚記録
はない。他の兄弟姉妹は夭折か生年の記録のみ。この人は五男なれど唯一成人した男子かも知れない。
結婚記録はない)

243. アントワーヌ・マシ― MACHY (Antoine), 30歳。食糧雑貨商。パリ生。
(アントワーヌ・ドマシー Antoine Demachy 食糧雑貨商で軍装委員。パリのPantheon-Francais地区{元のSt Jacques通り}で生まれ、ノールとヴァンデ
軍の軍装委員。陰謀罪により有罪となる。MachiともDemachiとも。
1788年2月8日パリの公記録に、未成年Marc Victor Lepotの両親であるSt Sulpice教区の食糧雑貨商Marc LepotとMarie Julie Demachy、母親死去
により夫が未成年Marc Victorの後見人となる、とあり、同パリの公記録に、同未成年児の母方叔父{伯父}でSt Germain l'Auxerrois教区の食糧品雑貨
商Victor Demachy、St Barthelemy教区の当該未成年児の母方叔母{伯母}夫妻の宝石商Jean Francois LeconteとMarie Victoire Demachy、St Benoit
教区の母方大叔父{大伯父}である食糧雑貨商Antoine Demachy、母方従兄弟でSt Sulpice教区の元薬学学校長Jacques Francois Demachy、母方
大叔父{大伯父}でSt Barthelemy教区司祭のJacques Henri Durville、St Sulpice教区の母方大叔父{大伯父}のブルジョワであるJean Francois Durville
が後見人に任命されている。パリの有産階級と思しき一連のDemachy家が当時散見されるが、該当する系図がないものの、この公記録の中の
食糧雑貨商Antoine Demachyは恐らくこの人で、上記のような親戚がいたものと思われる。
革命期ギロチン処刑の画なども描いている元王室アカデミー会員画家Pierre-Antoine Demachy 1723-1807は大工の息子である。
Antoine Demachi, J.-Baptiste Giblin, Jacques Louis Tonnelier及びBernard Marie Lemonnierの処刑のために軍の出動要請が出ているのは93年の
12月16日となっている)

244. ジャック・ルイ・トヌリエ TONNELLIER (Jacques-Louis), 33歳。桶屋。パリ生。
(Jacques-Louis Tonnelier 糸小間物商人で軍装委員。St Jacques通りの食料雑貨店ともあり。前者との共犯として有罪となったとあるので、同じく
ノールとヴァンデ軍の軍装委員だったと思われる。別資料には、Duplessis学校の脇のSt Jacques通りの糸小間物商で、ヴァンデ、ウール、ノール軍
の軍装委員とある。
恐らくこの人のものと思われる系図があり、Jacques-Louis Tonnelier 1760-93、職業及び処刑について言及なしで、33歳にて死去とのみ。1786年パリ
にてCharles-Abraham PoulainとHenriette-Marie Gueret{共に職業・生没年等詳細不明}の娘Louise-Irenee Poulain 1762頃生 と結婚。二男一女を
もうけ、長男Charles-Louis 1787生 はパリのMontorgueil通り53番地の慈善院l'hotel-dieuの医師となり、不明女性との結婚により、1810年生まれの
一女を得ている。この名不詳の一女はHemey某 1810頃-59と結婚し一女一男をもうけ、男子はやはり医師となっている。次男Jean-Baptiste 1788生
はFosses-Saint-Germain通り14番地にて帽子店を営み、1815年パリにてLouise-Germaine Henain 1798-1871と結婚、一男一女をもうける。長男は
名不詳で「J」のみ、1815-91で森林と治水の管理官となり、姓氏不詳の女性と結婚し二男を得ている。長女 Marguerite-Caroline 1816-1901は1840年
生理学教授でl'Ecole veterinaire de Maisons-Alfortの医師と結婚し三女をもうけている。この成人した三女も医師と結婚しているので、この人の子らは
医学系の家系になっているようだ。末子で長女のSophie 1789生 は、Quai des Grands Augustins 25番地の書籍商Charles Verdiere 1783生 と結婚し、
二女をもうけている。
また妻であるLouise-Irenee Poulainはこの人と死別後の1797年パリにて夫と同業の糸小間物商人Francois-Joachim Rousseau 1766-98と再婚し、
一男一女をもうけているが、この夫も第二子を身籠っている時に32歳で早世している。
Antoine Demachi, J.-Baptiste Giblin, Jacques Louis Tonnelier及びBernard Marie Lemonnierの処刑のために軍の出動要請が出ているのは93年の
12月16日となっている)

1793年12月18日

245. ジャン・マリー・ル・コント LE COMTE (Jean-Marie), 28歳。聖職者。オータン生。
(Jean Marie Lecomte  1766-93 Autun教区の宣誓聖職者。
聖職者の市民憲法の誤りについて反対していた。1790年聖職者に叙階されたが、1年以上オータンに隠棲していた。隣人に告発されて93年9月14日に
逮捕。Domine salvos fac regem et reginam{中世より王室の賛歌とされたモテット}という碑文の刻まれた指輪と遺物と思しき黄色の絹の物体、小さな
メダリオンが住処より押収された。聖堂破壊の推進者だったオータン市長で元貴族で元聖職者でもありフーキエ・タンヴィルの通信者でもあるVictor
de Lanneauはすぐに、この人を、指輪の碑文と手紙の写しから反革命の共謀者として告発しパリに送った。
同時代にオータンに同姓家系散見されるも、該当する家系はなし)

246. ジャン・パティスト・ペイル PEYRE (Jean-Baptiste), 37歳。司祭。トゥールーズ生。
(Jean-Baptiste Peyre 1756-93 聖職者、Noisy-le-Grandの元宣誓司祭。ノワジー・ル・グランはイル・ド・フランスのセーヌ・サン・ドニ県{1968年成立、
当時のセーヌ・エ・オワーズ県}。
1790年8月J.M. Grenteが教区司祭となり、この人は助任司祭として就任。90年7月採択された聖職者の市民憲法は90年12月に議会により法執行され、
91年1月〜2月に各聖職者に宣誓が要求された。91年10月Grente司祭がその座を去り、この人が司祭不在下で職務を代行。1792年5月に宣誓司教
としてNoisy-le-Grandの司祭に就任。Grente司祭の宣誓拒否の書面は残されていないが、恐らくは拒否したものと思われるらしい。この人は、就任後
埋葬と結婚の記録のための公務員となるが、人望が厚く、町の評議会がこの人の家で開催されるほどだった。{法令には反している}93年10月13日に
町の監督委員にcitoyen Peyreが任命されている。しかし容疑者法の制定で、10月16日に市民Boulanにより「狂信的反革命貴族」として告発され、教区
市民に対する法王崇拝の祈りの奨励、聖歌隊の百合の花で飾られた旗の掲揚、革命的祝い事の拒否、亡命していたFrancois-Louis Desreaux{2224}
の偽の証明書の発行の容疑を問われた。1793年10月19日に逮捕され、革命裁判所は告発者の証言を全面的に認め、この人を反革命的人物として
処刑する。該当する系図はなし)

247. ルイ・アンリ・ヴァルレ VARLET (Louis-Henry), 20歳。軍用車庫責任者。シゾールSisole生。
(Louis-Henri Varlet 元検察官見習いでFranciade{現サン・ドニ}の軍用運搬物集積所責任者。26歳とも。サン・ドニ在住。Pirsol生まれとも。
サン・ドニの軍用集積所に於いて、勤務していない従業者の水増しや騎乗靴等の不正管理で陰謀罪に問われた。
Henry Louis Varletの処刑のために軍の出動要請が出ているのは93年12月16日となっている)

1793年12月19日

248. イニャース・トゥーサン・コーヴェイ COUVEY (Ignace-Toussaint), 44歳。訴追官。ディズニDisny生。
(Ignace-Toussaint Couvey Cambray裁判所の訴追官{Accusateur public。革命中、治安判事が告発起訴を兼任。警察の監視官でもあり、各裁判所
に2名設置}。共和国の敵との通謀容疑。Couvetともある。いずれにしても該当する系図もないし、内容同一の資料のみであり、出生地のDisnyも不明。
93年12月19日FayelとCouvetの処刑の為の軍の出動要請が出ている)

249. ルイ・ジル・カミーユ・ファイエル FAYEL(Louis-Gille-Camille), 40歳。治安裁判所判事。ドルーDreux生。
(Louis-Gilles-Camille Fayel 治安判事でパリ高等法院検事。Roi de Sicile地区{92年8月Droits-de-l'Homme地区に改名}の治安判事で、パリ警察吏員。
サン・ジェルヴェ教区18番地のEcousses通り在住。42歳とも。12月19日処刑のこの名簿原本には45歳とあり。1803年7月21日付のパリ公記録に、
「Charenton通り121番地在住Louis Gille Camille Fayel未亡人Barbe Bazilleによる、パン屋Jean Jerome Paillartへの家屋賃貸契約」がある。1807年2月
14日にはこの未亡人Barbe Bazilleの財産整理の目録が作成されている。1821年5月7日にAnne Louise Antoinette SeuratとパリのSaint-Nicolas-des-
Champs教会で結婚している同姓同名のLouis Gilles Camille Fayelがいるが、関係は不明。
93年12月19日FayelとCouvetの処刑の為の軍の出動要請が出ている。Fayetとある資料もあり)

250. アンヌ・クロード・タラゴン TARAGON (Anne-Claude), 39歳。大尉。ボンヌヴァル生。
(アンヌ・クロード・ド・タラゴン・ドモンヴィル Anne Claude de Tarragon d'Omonville 1754-93 貴族、軍人。Eure et LoirのBonneval生まれ。
父親は近衛銃士第二中隊少佐補{sous-brigadier}で士爵Alexandre de Tarragon d'Omonville 1705-60{1734年近衛銃士となり、1745年5月11日少佐補の
時にFontenoyの戦いで負傷。48年引退しBonnevalに定住}。母親はAnne Marguerite {Anne-Marieとも} Le Comte de Marolles 1714-68{1705頃-78とも}。
Tarragon家はOrleanaisの1485年確認出来る貴族家系。
一女三男の三男。
 長姉Marie Anne Marguerite 1733-1807は修道女となりSaint Avit de Chateaudunのペネディクト派修道院院長となった。長兄 Jacques-Alexandre
1735-1800{1795頃とも}は騎銃兵大尉でプロヴァンス伯に仕え、79年初代Marquis de Tarragonとなり、ドイツのHamburgで没した。73年パリの
St Gervais教会で近衛銃士の娘Anne Francoise de Beaurepaire 1747-1821と結婚、三男一女をもうけ、三男Anne Eugeneが侯位を継いでいる。
次兄Jean Remy 1742-1804 は、ディロン師団の少佐でサン・ルイ騎士でTarragon士爵を名乗り、西インド諸島GuadeloupeのPort-Louisで1780年、
Anne Babin 1759-1822と結婚、一女五男をもうけている。{81年生まれの長女以外は、本国Chateaudunが出生地となっている}四男のArmand Jean
Louis Henry 1791-1873が1838年にVicomte de Tarragonとなっているが、従兄Anne Eugeneが子なく同年没したからだろう。{このArmand Jean Louis
Henryの長男のLeonce Louis Charles 1813-97はMarquis de Tarragonで名高い鳥類学者}
 この人は1772年5月5日ナヴァール連隊少尉となり、1776年6月7日ドイツ戦で中尉、1779年10月20日大尉。Sainte-Lucie, La Grenade,Savannah,
Saint-Christopheの戦いに従軍、1782年4月12日の海戦で負傷。この負傷でこの人は「足を引き摺っていた」とある。83年サン・ルイ騎士となる。
メッツに居住、1793年8月9日第6連隊大尉の時に逮捕された。
海戦での負傷は戦列艦Le Jason乗船時で上記82年4月12日の英海軍とのSaintesの海戦{艦長Jean-Isaac Chadeau de La Clocheterie士爵は戦死}
で、同月19日のMona海峡での海戦で同艦は英海軍に拿捕され英海軍64門戦列艦Argonautとなっている。
メッツの第6歩兵連隊の士官で元貴族身分の者は疑いの目で見られており、特にこの人はBouille侯の亡命軍への参加を希望する手紙を所持して
おり、また亡命した兄{次兄は亡命していないので長兄だろう}との通信もしている。1793年6月19日Moselleの刑務所に送致され、7月5日軍事刑務所
から司法裁判所に送られて、そしてパリに送られた。コンシェルジュリーで長く収監された後に裁判となる。{上記の8月9日逮捕の記述はパリ送致の
日付か?} 押収書類もあり「革命思想に共鳴したものの、党を暴力的と非難し、93年憲法を忌み嫌った」とされ、処刑となった。
結婚記録はどの系図にもない)

 Anne Claude de Tarragon d'Omonville .............父・Alexandre de Tarragon 
{この肖像画の髪型から果たして父親Alexandre 1705-60のものか不明} 甥・Armand-Jean-Louis-Henri

1793年12月22日

251. マルグリット・ベルナール BERNARD (Marguerite), 50歳。奉公人。オルレアン生。
(マルグリット・ベズナール Marguerite Besnardとも。 1751-93 42歳とあり。オルレアン近くChessy{Charsyとも}教区生まれ。女召使の身分で、
sainte Blandine de l'Orleanais{Blandineはアウグスティヌス帝時代のリヨンのキリスト教女殉教者でリヨンの守護聖女。それをオルレアンに転用した
表現か不明?}。
Les martyrs de la foi pendent la revolution Francaise{革命期、信仰の殉教者たち}という書物の中に、「彼女は過酷な環境下でも高潔な女主人から
離れることなく悦びを共にした」とある。仕えていたその女主人とは修道女Marie-Anne Poulain{254}である。オルレアンのFaubourg de Bourgogne通り
に254と共に住んでいた)

252. ジュリアン・デルヴィル DHERVILLE (Julien), 67歳。聖職者。
(ジュリアン・デルヴィル Julien d'Herville 1732-93{処刑時61歳となるが} 宣誓拒否聖職者。Chateau-du-Loir生まれでオルレアン在住。57歳とも。
銀製の十字架、銀製のハート、水晶の遺物のついたリボン、「魔法のパン」の入った丸い箱を所持している狂信者として処刑されている。イエズス
会士とある。254のオルレアンのFaubourg{Faubourg de Bourgogne通り}の家に匿われていた。
発音記号付きでデルヴィレDerville、エルヴィレHervilleともあり)

253. ジャン・パティスト・ロールティエ LHORTIER (Jean-Baptiste), 33歳。靴屋。シャルニーCharny生。
(ジャン・バティスト・オルティエ Jean-Baptiste Hortier 通称ブルギニョンBourguignon  パリ近くLa Chapelleの靴職人。53歳ともあり。
共和国軍に不正な粗悪品を納品した罪により処刑。通称のBourguignonは「ブルゴーニュ人」の意味。
1707年生まれのJean Baptiste Hortierは、1756年二度目の結婚時、ブルゴーニュのヨンヌのCharnyに居を構える靴職人。同じヨンヌのSepeauxにて、
二人目の妻の日雇人夫の娘Marie Bertrand 1719生 と同年10月7日結婚している。子の記録はこの系図にはないが、死別した前妻Elisabeth Sapin
との間には一女Marie Hortier 1751頃-1831がいたとする系図あり。年代的には53歳としても一世代前になるが、この同姓同名者が比較的晩婚であり
後妻との間に1756年の少し後に息子をもうけていたと仮定すると、同じ靴職人でCharnyに住んでいた経緯もあり、父親かも知れない)

254. マリー・アンヌ・プーラン POULIN (Marie-Anne), 48歳。修道女。パリ生。
(Marie-Anne Poulain 1746-93 オラトワール会派修道女。「無職」としている資料もあり。Poullinともあり。
251の女主人。オルレアンのFaubourgに共に住んでいた。252を家に匿っていた。「1746年パリで生まれたMarie-Anne Poulainはオルレアンの修道院の
修道女となり、この町に住んでいた」と資料にあり。12月21日処刑とする回想録あり。{Memoires du Comte Dufort de Cheverny}
オルレアンのFaubourg de Bourgogneの家に召使女{251}と年輩の宣教師{252}と他の聖職者5名と共に住んでいたとあり。修道院撤去後もオルレアンに
住み、聖職者の市民憲法に抵抗する牙城となっていた)

1793年12月24日

255. カロリーヌ・ガスパリーヌ・アダン ADAM (Caroline-Gasparine), グラヴァンGravanの未亡人。41歳。年金生活者。ベルリン生。
(マドレーヌ・カロリーヌ・ガスパリーヌ・アダン Madeleine Caroline Gasparine Adam 1752頃-93 Gravantの妻。
父親はナンシー生まれだがプロイセンのフリードリヒ2世に仕えた彫刻家Francois Gaspard Balthasar Adam 1710-61。ナンシーの有産階級の家柄であり、
祖父の代から彫刻家で名高く、ローマ賞で2位になりローマに行き、1747年から60年、フリードリヒ2世に仕えて、その作品はサン・スーシー宮の庭園にある。
父親の兄ら{Lambert Sigisbert Adam 1700-59、Nicolas Sebastien Adam 1705-78}も彫刻家で名高く、ヴェルサイユやパリに作品が残っており、姉{この人
の伯母}Anne Adamはやはりプロイセン王に仕えた彫刻家Thomas Michel 1705生 と結婚し彫刻家Claude Michel 1738-1814の母となっている。
母親はトスカーナ大公の居殿・庭園の管理官の娘Charlotte Gervais 1729{〜33}-1822。二女の次女。姉はMarie-Catherine Gaspard 1751以降-99。詳細
記録はない。
 この人は1768年パリのSaint Severinにてセーヴル焼の高名な陶芸家Louis-Francois Gravant 1738頃生 と結婚。Louis Francois Gravaudとも呼ばれる。
子の記録なし。処刑時には「未亡人」となっている。処刑時ショセ・ダンタンのサント・クロワ通り在住。
 フリードリヒ王の肖像画と彫刻の後ろに隠されたルイ16世の肖像画を所持していた。1785年付のフリードリヒ王への手紙の写しもあった。その手紙には、
自身のことを王の下僕sujetteと呼んでいた。またルイ16世の「悲劇的な死」を悼むパンフレットや、オーストリア、プロイセン人との通謀容疑、等により逮捕
処刑に至った)

伯父・Lambert Sigisbert Adam  
伯父・Nicolas Sebastien Adam

256. ジャック・ジュヌヴィエーヴ・ラフォッス LAFOSSE (Jacques-Genevieve), 28歳。糸小間物商。ソワッソン生。
(Jacques-Genevieve Lafosse 1765頃-93 支給服管理部のラシャ御用商人で糸小間物商mercier et fournisseur de draps a l'administration de
l'habillement。パリのSt-Martin通り在住。共和国に雑多な供給品を納品するにあたり、詐欺・買収行為を行った罪にて逮捕・処刑された。
系図にはSoissons生まれの糸小間物商人Jacques Genevieve Lafosse 1765頃-93が両親・結婚等詳細不明として記載されている。また1791年1月24日付
パリ公記録で、St.Nicolas des Champsにて、ラシャ製造業Jacques Genevieve de LafosseとMarie Francoise Victoire Benoistの未成年児Auguste Edme
de Lafosseの記録がある)

257. ジャック・エティエンヌ・ルルートル LELOUTRE (Jacques-Etienne), 44歳。海軍参事官。デュラヴェDuravet生。
(判決者一覧の順序からジャック・エティエンヌ・ラボンディ Jacques Etienne Labondie 海軍弁務官のことと思われる。LoutreもしくはLe LoutreはJeanの名
で判決者にいるが名のみならず判決時期が異なり、職業も違う。また系図にはジャック・エティエンヌ・ヴィクトル・ド・ラボンディJacques Etienne Victor de
Labondie 1749頃-93、海軍弁務官Commissaire de la Marine、士爵、Lot県カオールCahors生まれ{Duravelは同地の地名、もしくは教会名であり、この人
の記録が残っているから、生地になっているのだろう}がいる。この系図の人物は、父親はGrimard及びLa Gibertie領主で士爵のGaspard de Labondie。
母親は高等法院弁護士の娘Julie Francoise Escourre 1723生。この母は228のLouis-Bernard-Marguerite d'Escours{ブリサック補佐官}の姉になる。
二女二男の長男。長姉Marie Louise Magdelaineは高等法院弁護士でカオール裁判官、刑事初審裁判所代官Bertrand Laulanie 1737生 と結婚、三男四女
をもうけている。弟Jacques Victorは聖職者でVillefranche-de-Rouergueの修道院長となる。アジェノワのBelbeseの神学博士ともある。妹Francoiseは詳細
記録なし。
 この人は1775年CahorsでCahors初審裁判所弁護士で首席検事、士爵の娘Anne Antoinette Gabrielle de Regourd 1756頃生 と結婚し、一男Jean
Jacques Victor 1782頃-1837をもうけている。この息子は中佐でBeaujolais駐屯大隊司令官の娘Antoinette Dorothee de Montalembert 1783-1860と結婚
し五女一男をもうけている。
デュバリー夫人のルーヴシエンヌの取り巻きの一人で、92年12月、夫人が盗まれた宝石を追って渡英した時の同行者でもある。他にブランカ公夫人、デギ
ヨン公夫人等もおり、すべて侍女とかで渡航許可を得ていた。後者もそんなデュバリー絡みの仲間だろう。海軍弁務官だった職歴から渡航許可証の発行
に役立つので引き込まれた模様。この協力が命取りになった。
パリのBouloi通りhotel de Suede在住だった。 Chevalier de La Bondieとする資料もあり)

258. ドニ・モラン MORIN (Denis), 49歳。デュ・バリー夫人従者。オートゥイユAuteuil生。
(Denis Morin デュ・バリーの従僕。Auteuilのブドウ栽培者の息子で、何人かの女性の従僕をした後、1769年6月5日よりデュ・バリー家に仕えた。4年後に
夫人への私的奉仕を始めることになったと供述している。夫人の貴金属の盗難事件で多くの証言をしている。Jacques Folage de Morgan大佐からの手紙
11通等も残っている。前者と共に行政委員のもとに派遣されて、夫人についての嘆願を行った。ルーヴシエンヌの住民たちの逮捕への反対活動に同情
した検察官Goujonの意向もあったが、しかしGreiveによる執拗な告発を前に、それらは聞き入れられないばかりか、前者と共に逮捕・処刑となってしまう。
 Auteuilには同時代の系図あり、Seine-MaritimeのSaint Crespin生まれのVivien Morin 1813没 がこのAuteuilで1786年Marie Catherine Pracheと結婚し、
以後Auteuilで二女一男をもうけている。1787年夭折した息子はDenis Vivien Morinという。姉二人も同地で亡くなっていて、長姉の子らも同地で生まれてい
るので、この地に定住したものと見られる。AuteuilのMorin姓の系図は他には見当たらない)

1793年12月25日

259. シモン・マリー・ジャン・アラール ALLARD (Simon-Marie-Jean), 57歳。司祭。グランGrand生。
(ジャン・マリー・アラール Jean-Marie Allard 1736-93 Angers教区聖職者、Maine-et-LoireのSaumur小郡Bagneux司祭。MayenneのCraon生まれとも。
王国再建の陰謀に関与した罪。1791年憲法への宣誓を行っていたが、聖職者の市民憲法に対して「誓いを立てるならば立ち去るだろう。誓いを立てる
聖職者は侵入者だ」と公言しており、またヴァンデ軍がソーミュールを占領{93年6月}した時は宣誓を撤回し、自分の教会で旧体制下の習慣でうつ伏せ
になって、ルイ17世と王族と司教を讃えたという。
現在のBagneuxのSaint-Pierre教会は1868年建立で、この人のものではなく、13世紀建立の小さな教会が独立した教区として存在しており、それがこの人
の教会。{現在は外観がかなり荒れ果てている}この人が最後の教区司祭で、死後60年この教区は消滅。「Bagneuxの古い教会に立ち寄る際、私たちは
1793年のクリスマスの日にパリでギロチンにされた最後の司祭、ジャン=マリー・アラール神父の記憶を呼び起こします」ともある)

260. ミシェル・ブール BOURG (Michel), 63歳。マルゼレーシュMalzereiche生。
(Michel Bourg 日雇人夫 MalzereicheはモーゼルのMetzerescheのことか? 後者と同郷なので、やはり敵の侵入時に武器のありかを教えたものと思わ
れる。またMoselleのMetzerescheの公文書にはMichel Bourg、Bernard Kourtz、Michel Kourtz、「フランス革命で処刑」とある)

261. ミシェル・クールト COURTH (Michel), 48歳。織工。マルゼレーシュ生。
(ミシェル・クルツ Michel Kourtz 織工 MalzereicheはモーゼルのMetzerescheのことか?
この人と後者は資料により共にKourtz{MetzerescheのBernard et Michel Kourtz}ともある。Michel Bourg, Michel Kourtz et Bernard Hourtzとしている資料
が多いが。またMichel Kourtz,織工,48歳,Met-zereche生まれ、Michel Kourtz,織工,敵が領土に入った時に武器のありかを教えたと。Bernard Courtz et
Michel Hourtzとする資料もあり。またMoselleのMetzerescheの公文書にはMichel Bourg、Bernard Kourtz、Michel Kourtz、「フランス革命で処刑」とある。
 また「ナポレオン戦争中の軍採用記録」に、Michel KourtzとSuzanne Spiegelの息子でMoselleのMetzcrecheで1783年生まれたNicolas Kourtz、1805年8月
5日から1805年12月20日、第4歩兵連隊、とある。身長は173センチとも)

262. ベルナール・ウルツ HOURTZ (Bernard), 57歳。屋根職人。マルゼレーシュ生。
(Bernard Hourtz 藁ぶき屋根職人。前者と同郷なので、やはり敵の侵入時に武器のありかを教えたものと思われる。55歳、57歳ともあり。
MalzereicheはモーゼルのMetzerescheのことか?
この人と前者は資料により共にKourtz{MetzerescheのBernard et Michel Kourtz}ともある。Kourtz,Bern,MoselleのMetzereche生まれの藁屋根屋、と。
Michel Bourg, Michel Kourtz et Bernard Hourtzとしている資料が多いが。Bernard Courtz et Michel Hourtzとする資料もあり。またMoselleのMetzeresche
の公文書にはMichel Bourg、Bernard Kourtz、Michel Kourtz、「フランス革命で処刑」とある。
ナポレオン戦争中の軍採用記録に、Metzerescheの南東数キロのBoulay-Moselleが生誕地のBernard Courtzは1776年8月27日生まれで、父親は同じく
Bernard Courtz、母親はMarie Bocquetで、1803年9月25日から1804年4月27日まで第20歩兵連隊配属とある。{原本判読困難なるも身長159センチか?})

263. シャルル・オーギュスト・プレヴォ・ラクロワ PREVOT-LACROIX (Charles-Auguste), 42歳。海軍大佐。ルイスブール(アメリカ)生。
(シャルル・オーギュスト・プレヴォ・ド・ラ・クロワ Charles-Auguste Prevost de La Croix 1751-93 海軍大佐 海軍大尉とかRochefortの海軍委任官僚とも
あり、また系図では没年不詳とか92年41歳でギロチンとかあり。Rochefort在住の海軍大佐で、三色徽章を踏みつけ、白色徽章を着したとして有罪となった
とある。
父親は国王評定官で海軍委任官僚Jacques Prevost de La Croix 1715-91。母親はLouisbourgの評定官の娘Marguerite Therese de Cararot{Carrerot}。
父親の祖父{この人の曾祖父}Robert Prevostはパリの裕福な銀行家で1705年世襲制の国王秘書官の官職を購入することで一族に世襲貴族の称号を
もたらした。父親{この人の祖父}のPhilippeはブレストに転居し、ブルターニュ食糧管理官で財務官となり、1714年貴族の娘Marie-Gabrielle-Elisabeth
L'Estobec de Langristainと結婚して「平貴族」と呼ばれている。この父親は1749年から1755年までLouisbourgの行政官をしているので、この人はその地で
誕生したのだろう。この父はChoiseulによりLouisbourgでの不正を疑われ1763年逮捕されたこともあるが、警視総監Sartineにより無実を証明し釈放され、
以後はSartineの保護下で身の保全を図っている。68年財務委員としてコロシカ島にも派遣されている。74年海軍大臣となったSartine、後任のCastriesに
より地位を保っているが、多くの非難も受けていた。
三女三男の三男。長姉Antoinette Josephe 1747生 は夭折か詳細記録なし。長兄1749年生まれのJacques-Marie-Andreは陸軍士官となるが1783年に戦死。
次兄Louis Anne 1750-95はChevalier de Langristinと呼ばれ、植民地部隊士官から海軍委任官僚となり、95年にはジロンド選出議員となるも選挙無効となり
数週間後で亡くなっている。WiKiにはLouisbourg生まれで97年10月17日パリ没とあり。妹Marguerite Josephe Adelaide 1752生 はシトー会修道院の修道女
Dame de choeurとなり、末妹Renee Victoire 1753生 は1774年Lorientで海軍委任官僚Louis Toussaint Joseph Archinと結婚しているが子の記録はない。
この人は1751年4月19日生まれとはあるが、生誕地の記載もなく、没年も前記したように、没年不詳とか92年41歳でギロチンとかになっている。結婚の記録
もない。
 帝国男爵のJean-Francois de Bourgoing 1748-1811と1786年結婚した妻で、レカミエ夫人を介してシャトーブリアンの友だったサン・ドニ・レジオン・ドヌール
女学校管理者Marie-Benoite-Josephine Prevost de La Croix 1759-1838はGaspard-Antoine de Prevost de La Croix{1770年頃作製の肖像画あり}の娘だが
この家系との接点が系図上確認できない。このレジオン・ドヌール女学校管理者の家系は遡るとブルゴーニュ高等法院首席検事の家系で、16世紀からの
軍人家系でもあり、この人のパリやブルターニュを基点とするブルジョワ系家系とは別家なのか?)

264. エティエンヌ・テシエ TESSIER (Etienne), 55歳。貿易商。フレイトーFleith生。
(Etienne TeissierもしくはTeyssier 貿易商。処刑簿元本はFleith生まれEtienne Tessier 55歳となっている。共和国の敵との通信を続けていて有罪判決。元
貿易商人Negociantとあり。
公証人Jean Gabriel Joseph Hordell L'Epineの記録に「M. EtienneTessierからM.Jean Antione Dluinへの50quarreauxの土地の売却。1782年7月6日」あり。
また、パリ公記録{1530-1792のパリ、Saint-Eustache教区民の洗礼・結婚・埋葬記録}1782年3月2日付で父親はNegociantのEtienne Teyssierと母親
Marguerite Garreyによる出生地パリのJean Louis Teyssierの登録があり。
系図はなし)

1793年12月26日

265. ニコラ・ゴモ GOMOT (Nicolas), 41歳。パン屋。ブーラールBoulard生。
(Nicolas Gomot パン屋。Saint-Jacques通り在住。出生地は処刑簿原本には(Seine et Marne県の)Boulardとあるが、資料により「Bouleursか?」とある。
Bouleursは同じくSeine-et-Marne県の自治体。一方、資料によればBoulardはSeine-et-Marne県のMeaux自治体の管轄内とあるが、見当たらない。
パンに混ぜ物をしてfalsificateur、その独占を図った罪で有罪となり処刑された。出生地を変えても系図はなく、同じ内容の資料のみ)

266. ヴィクトル・イアサント・ラ・ロック LA ROQUE (Victor-Hyacinthe), 30歳。海軍大佐。カンペルQuimper生。
(イアサント・ヴィクトル・ド・ラ・ロック・トレマリア Hyacinthe Victor de La Roque Tremaria 1760-93 商船船長Capitaine de commerce。海軍大佐ともあり。
 ラロック・トリマリア{トレマリア}Laroque Trimaria{Tremaria}とも。後者、2334の弟、2335の兄。元貴族。32歳ともあるが60年7月18日生まれなので33歳。
de La Roque de Tremariaとする系図もある。
父親はJean Baptiste Francois de La Roque Tremaria 1725-1803。母親はQuimper市長で民兵大佐の娘Marie Francoise Corentine Huchet de Kerourein
{Kerourainとも} 1723-71。この母の父のカンペル市長任期は1732-34と1742-47。五男五女の五男。
長兄は後者267。長姉Jeanne Marie Therese 1752-1831は改革派ベネディクト会Calvairienneの修道女。次兄Guillaume Francois 1754-1817は1791年から
1808年迄Chateaulinの市長{1791〜94、1800〜1808とも}。Kergoatのノートルダム聖堂に墓がある。1784年と96年に二度結婚し、計三男四女をもうけている。
兄Felix Marie 1756生 はカプチン修道僧。姉Marie Therese 1758-83はカンペルに生まれ同地で24歳で没している。「兄弟の医師が看取る」とあるので後者
だろう。姉Floride Josephe 1759-94は2334。妹Marie Francoise Marguerite 1762-94は2335。Conen de Saint-Luc親娘らカンペルの人々と同日に処刑されて
いる。他は夭折。系図にはChateaulin市長になった次兄以外一律に結婚記録がない。2334、2335に関しては「無職の独身女性」とある。また両親とこの次兄
だけの系図もある。
2324Victoire-Emilie Conen de Saint-Luc作製のヴァンデのハートの徽章を着けていた。共和国の外部の敵と共謀し有罪。兄弟で処刑。
兄で医師である後者がカンペルのベネディクト修道院(長姉のJeanne Marie Thereseのところ)に患者の治療に立ち寄った時に、そこに91年7月9日来、避難
していた2324Victoire-Emilie Conen de Saint-Lucの一家がおり、彼女の作製した聖心を表す徽章を感謝をこめてもらい、弟のこの人の分ももらっていた。
1793年3月兄弟で逮捕された際に、この徽章について作製者の名を話してしまい、彼女の逮捕につながった。この人はロリアンの艦隊司令官をしていたが、
反革命的文書が押収され、兄に従って蜂起するという容疑が確定。徽章はその仲間の記だとされた。実際には、後者とこの修道院の尼僧である姉に頼まれ
て彼女はいくつか渡しただけであった。この人と兄は「革命来、兄弟は常にFinistere県とMorbihan県の陰謀の指導者で、ヴァンデの乱の集結の証が、この
徽章である」とフーキエ・タンヴィルは断じた。そして1793年10月10日に彼女も逮捕されるに至った)

267. アレクサンドル・マリー・ラ・ロック・トレマリア LA ROQUE-TREMARIA (Alexandre-Marie),42歳。医師。カンペル生。
(アレクサンドル・マリー・ド・ラ・ロック・トレマリア Alexandre Marie de La Roque Tremaria 1751-93 医師。医学博士。元貴族とある。
de La Roque de Tremariaとする系図もある。トリマリアTrimariaとも。
父親はJean Baptiste Francois de La Roque Tremaria 1725-1803。母親はQuimper市長で民兵大佐の娘Marie Francoise Corentine Huchet de Kerourein
{Kerourainとも} 1723-71。この母の父のカンペル市長任期は1732-34と1742-47。五男五女の長男。
妹Jeanne Marie Therese 1752-1831は改革派ベネディクト会Calvairienneの修道女。弟Guillaume Francois 1754-1817は1791年から1808年迄Chateaulinの
市長{1791〜94、1800〜1808とも}。Kergoatのノートルダム聖堂に墓がある。1784年と96年に二度結婚し、計三男四女をもうけている。弟Felix Marie 1756生
はカプチン修道僧。妹Marie Therese 1758-83はカンペルに生まれ同地で24歳で没している。「兄弟の医師が看取る」とあるのでこの人だろう。妹Floride
Josephe 1759-94は2334。弟Hyacinthe Victor 1760-93は前者。妹Marie Francoise Marguerite 1762-94は2335。Conen de Saint-Luc親娘らカンペルの人々
と同日に処刑されている。他は夭折。系図にはChateaulin市長になった弟以外一律に結婚記録がない。2334、2335に関しては「無職の独身女性」とある。
両親とこの弟だけの系図もある。
前者、2334、2335の兄。2324Victoire-Emilie Conen de Saint-Lucのヴァンデのハートの徽章を着けていた。共和国の外部の敵と共謀し有罪。兄弟で処刑。
2324Victoire-Emilie Conen de Saint-Lucの逮捕との関係は前者参照)

1793年12月27日

268. フェリクス・ダニエル・バルロワ BARROIS (Felix-Daniel), 49歳。店員。ノジャン・ル・ロトルーNogent-le-Rotrou生。
(Felix-Daniel Barrois 軍の衣服供給部係員。パリのTiquetonne通り124番地在住。
1791年7月17日のシャン・ド・マルス事件{国王一家のヴァレンヌ事件で廃位請願運動を起こした議会に対し、多くのジャコバンからの離反を招いた。劣勢を
挽回すべくジャコバン派は市民による署名活動で廃位を決すべくシャン・ド・マルスに民衆を集めたが、これに対してバイイとラ・ファイエットは国民衛兵を
差し向けて威嚇・解散させた。威嚇発砲だったが、「虐殺事件」として世に広まり、ラ・ファイエットの人気の凋落を招いた}で、市民の虐殺に関与した罪で逮捕
処刑された。後者の「最後の手紙」中にあるように、恐らくこの人も発砲した国民衛兵隊の一人だったと思われる。
系図等なし。処刑記録のみ)

269.アマブル・オーギュスタン・クレマン CLEMENT (Amable-Augustin), 32歳。パリ生。
(Amable Augustin Clement 1761{59}-93 33歳、34歳とも。Augustin Amableとも。時計商。パリのSaint-Gervais教区l'Orme Saint-Gervais通りの時計商。
系図には誕生月日はなく59年生まれと。「最後の手紙」の注釈には1761年3月7日生まれとなっている。「最後の手紙」の中で本人が「32歳と8ヶ月と20日の
生涯」と書いているので、61年生まれと思われる。モンマルトル通り在住とある。「パリの時計職人」にはSaint-Eustache教区モンマルトル通りの時計職人
兼修理士とあり、親兄弟もそれぞれ記載あり。父親は有名な時計職人Thomas Hommetの友人とある。Clement家は代々の時計職人で一族で同業。
父親は時計職人親方Fiacre Francois Clement 1777没。母親はMarie Madeleine Boulanger 1776没。伯父のClaude Clementも時計職人親方。もう一人の
伯父{叔父}のAnne Clement 1712-46の作品等は今も残っている。一族はパリの近接の地域で開業していた。
一女三男の次男。長姉Madeleine Genevieve 1757生 は1781年パリで画家Louis Pierre Baudouin{末弟Fiacre Francois Nicaiseの結婚の公記録立会人には
Louis-Pierre Baudoinとあり}と結婚している。長兄AnselmeはパリのSaint-Sauveur教区Saint-Denis通りの時計商。系図では生没年不詳となっているが、
「パリの時計職人」で1821年Bourg-l'Abbe通りにいたようなので、少なくともその頃迄は存命。弟Fiacre Francois Nicaiseも時計職人となり、系図には1752年
パリでMarie Elisabeth Amardと結婚、とあるが、パリ結婚公記録にこの女性と同人とのものがあり、日付は1782年10月15日で、それが正しいと思われる。
またその国立公文書館の結婚公記録には、妻は「士官」の娘とあり、本人はすでに時計職人親方で、Saint-Laurent教区のFaubourg Saint-Martin通りの
居所の記載あり。この人も長兄と姉夫婦共々立会人をしている。
 この人の結婚記録はなし。前者と同罪。
 一兵卒として国民衛兵隊に入隊。91年7月、前者と同じ「シャン・ド・マルス事件」に派兵された。この人は告発者によると「野蛮な大胆さで4人殺した」と自慢
しており、Contrat-Social区委員会によって訴えられた。この人はまた「有意義な議決事項を笑いものにした」「愛国者を侮辱しに区の会合にきた」「若者に
軍隊への入隊をするなとそそのかした」等の言動が指摘されており、しかも自宅にシャルロット・コンデーの肖像画があったともあり、逮捕に至る。
ギロチン台への護送車出発直前の12月27日午前7時半にコンシェルジュリーで「人々」に宛てられた手紙が残されている。
 そこには自分を告発したレズロLezerotを、共に同じ事件の同じ立場で同罪{他の者らと同じことをした}なのに、我が身を守るべく、他者を告発した人物と
して非難している。この卑しい行為に対して、恨みを持たずに道を示して自分は死ぬが、彼が同じ道を辿ることを願うと。何故なら彼は事件で同じ罪を犯して
いる上に、仲間を告発してその罪から逃れたという二重の罪を犯しているからだと。自分は32歳と8ヶ月と20日の生涯を閉じるが、これが89年来革命に尽くし
てきた者の報いなのだ、そして「ただ従い、それがどうなるかも分からずにただ従ったが為に死んでいく不運な人間を{これを読む人々が}哀れんでくれるよう
お願いしたい」と綴る。そして、指揮官は無実であると明言するとある。「同じ大隊のバロンBaronと呼ばれる者が私と一緒に断頭台に行くことになるだろう。
しかし人が祖国の為に死ぬ時、これこそは名誉の舞台である」と書かれているが、このBaronという人物は前者Barroisのことか?
 また以下のような四行詩が最後に加えられている。
 「その恋人の心に 不滅であることをやめぬだろう 祖国のために死するときには そしてわれが最後に口にするは懐かしき汝が名であろう」
 この人の結婚記録は系図にはないが、恋人がいたようである)

270. ルイ・ダンクール DANCOURT (Louis), 50歳。軍輸送監督官。パリ生。
(ルイ・ダンクール・デマレ Louis Dancourt Desmarets 1743-93 アルプス軍補給管理官。パリ生まれでMontmartre通り在住だが、グルノーブルで逮捕された
時はサンリスに住んでいた。元徴税請負人の管理人で、アルプス軍輜重運送管理官とあり。物資流用、汚職prevaricateurの罪に問われている。
「Les guillotines de Picardie」という処刑者リストに、1743年2月27日パリ生まれとあり。その資料にはDancourt-Desmarestとあり。
1784年5月15日付のパリ公文書にパリのブルジョワとしてLouis Dancourtとその従兄弟Dominique Dancourtの名がある。その他の記録、系図等はない)

1793年12月28日

271. フレデリク・ディートリヒ DIETRICH (Frederic), 45歳。ストラスブール市長。ストラスブール生。
(ディートリヒ男爵フィリップ・フレデリク・ド・ディートリヒ Baron de Dietrich,Philippe-Frederic de Dietrich 1748-93 スイス・グリゾン通訳秘書官{1771}、
王室鉱山・森林委員{1784}、王室アカデミー会員{1786}、ストラスブール市長{1790-92}
父親はComte du Ban de La Roche, Jean de Dietrich 1719-95。母親は銀行家の娘Amelie Anne Dorothee Hermanny 1729-66。四男の次男。一族は16世紀
にロレーヌからストラスブールに宗教的理由{プロテスタントだった}で移住したブルジョワ一家。同市の評議会議員等を輩出。特にDominique Dietrich 1620-94
はルーヴォワからパリに召喚され、ルイ14世による名誉と財産の条件を示されたが拒否し追放されているような、市でも名高い人物。また鉄鋼業主・銀行家
として代々の名家である。父親はオーストリア継承戦争、七年戦争で王室に資金提供し、2000トンの鉄の抽出、300人の鉱夫を含め1500人の労働者を雇う
実業家であり、1761年ルイ15世より兄と共に士爵位、62年オーストリアのフランツ1世から男爵位を授かっている。50年Reichshoffen城を建立。これらの財産
は息子のこの人がスイスへ亡命した段階で固有化されてしまい、全てを失って亡くなる時、この父は「多くの雇用創成により貧しき人を豊かにし、私はそれに
よって何ら非難されることなく財産を築いた」と言い残したという。
 長兄Jean 1746-1805は騎兵大尉でサン・ドミングのDouanes管理官となり、一族のサン・ドミング製鉄所を設営し、1768年StrasbourgでLouise Sophie de
Glaubitz 1751-1806と結婚、二男三女をもうけているが、長女Louise de Dietrich 1774-1832は、ルージェ・ド・リールが後に「ラ・マルセイエーズ」としてフランス
国歌となる「ライン軍軍歌」をこの人の前で披露した際に、クラヴサンを演奏している「市長の姪」である。{クラヴサン奏者は市長夫人とする説もあり}
弟Jean Henri 1749-53、末弟Rodolphe 1763-64は夭折している。
 この人は21歳の時にバーゼルの富豪の娘で14歳のLouise Sybille Ochs 1755-1806を紹介され1772年ストラスブールで結婚、バーゼルに住んだ。妻は多彩
でフランス語、歴史、地理、音楽に通じていた。78年にはストラスブールの銀行家の家でモーツァルトに会っている。また後に有名となるライン軍軍歌{オースト
リアへの宣戦を記念し、1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、レセプション用に同市駐屯部隊の工兵大尉ルージェ・ド・リールがこの人によって依頼され
作曲したという「ライン軍軍歌」。後にラ・マルセイエーズとなり、1795年7月14日国歌となる。作曲者ルージェ・ド・リールも立憲君主派として逮捕、テルミドール
まで収監、この曲を献呈されたライン軍司令官リュクネールも処刑⇒286、依頼者のこの人も処刑という革命の象徴とされたこの曲の皮肉}を、クラヴサン
演奏用に編曲したのはこの妻である。また実際にこの歌を唄ったのはこの人であり、クラヴサン奏者は姪Louise de Dietrichとも言われるが、この妻であると
する資料もある。革命期はこの妻もブザンソンで自宅軟禁されていた。
兄Pierre Ochs 1752-1821{この人の義兄}は大革命に共鳴したバーゼルの司法長官でスイスの共和国Republique helvetiqueの樹立に貢献した人物。
 四男{一女}をもうける。長男Jean Albert 1773-1806はFritzと呼ばれ、ケレルマン部隊の猟騎兵中尉となり、また父ディートリヒ家の事業の管理、1806年Bas
Rhin評議会議員、ライン河・森・島の管理官となり、1801年{1799年とも}Louise Amelie de Berckheim 1776-1855と結婚、三女二男をもうけた。この妻は夫と
死別後にその事業を立て直した稀代の女実業家となり、その三男Albert Maximilien Frederic 1802-88は鉄道事業により有数の実業家として成功する。
長女Louise Sophie 1774-1832は音楽家となり、1803年ストラスブールで銀行家Antoine Scipion Perier 1776-1821と結婚、二男一女をもうけている。{但し、
この系図は間違いで、この長女Louise Sophieは兄の娘であると思われる。つまり「姪」。「ライン軍軍歌」の画の中でクラヴサン奏者をしている女性で、「市長
の姪」とある。女流音楽家となっているので、当時から演奏が達者だったのだろう。他系図では兄Jeanの娘Anne Louise Sophie 1774-1832となっている}
三男Gustave Albert 1775-1800は、革命期はキュスティーヌ旗下で従軍、後に結婚して評議会議員となっていたが、25歳で早世。母と兄は「人生は残酷だ」
と悲しんだという。次男、四男は夭折。
 1771年父親が購入した通訳秘書官の仕事により年間半年はパリで過ごす。またプロテスタントでは難しい準国家官職である王室鉱山・森林委員の仕事で
ほとんどパリに滞在し、父親の事業とは離れて生活し、鉱物学への情熱を仕事に活かして活動できた。夫人はパリでサロンを運営。この人もテュルゴー、
コンドルセとも親しみラヴォワジエとの研究と執筆、ラ・ファイエットとの親交は下の息子{四男のPaul Emile 1792-99}の名付け親になってもらうくらいだった。
しかし革命の気運高まりで世情が悪化すると、息子二人はライン河反対岸のGottingenに送ったりしている。89年5月にこの人はアルザスに戻り、新しい思
想を支持、89年7月21日、バスティーユ襲撃に呼応したストラスブール市庁舎襲撃を目撃、翌年に同市の初めての憲法宣誓市長に就任した。政治思想は
立憲君主制だったが、「美徳以外の区別をしないこの法律を祝福しよう」と民主主義への移行に尽力する。
 1792年6月20日、8月10日の事件に抗議し、しかも非宣誓聖職者を保護し、ラ・ファイエットとの共謀容疑もあり告発され、義兄Pierre Ochsの家のある
スイスのバーゼルに避難し、その後、父親がストラスブールで投獄され、財産が接収されるに及んで帰国。12月23日逮捕されブザンソンの刑務所に収監。
そこでは釈放されるが、中央のロベスピエールにより93年3月パリへ召喚された。
 1793年8月から10月は王妃と同じコンシェルジュリーに収監されていた。「共和国への陰謀の加担者で最も危険な人物」としてこの人は裁かれて12月29日
{WiKiではこの日付}に処刑された。
この人はフーキエ・タンヴィルに「あなたは私の裁判官ではなく拷問官だ。正義を行う意志も力もない」と言ったという。
「最後の手紙」には、牢内で作曲したり編曲した楽譜を息子らに捧げ、幼い弟らと貞潔な母親を守り、復讐など考えずに生きて行ってくれと書かれている。そ
していつか自分の無実は証明されるだろうと約束している。
1795年8月23日、国民公会は革命の英雄としてディートリヒの名誉を回復させた)

  
 Philippe-Frederic de Dietrich ........................................父・Jean de Dietrich .............母・Amelie Anne Dorothee Hermanny ........妻・Louise Sybille Ochs ..............長男・Jean Albert

 
「ライン軍軍歌」の披露 椅子の人物がディートリヒ、奏者は姪とも夫人とも。 .........ディートリヒ夫妻と長男 .........................................義兄・Pierre Ochs .......長男妻・Louise Amelie de Berckheim

272. ピエール・マリー・トンデュ(通称ルブラン) TONDU (Pierre-Marie), dit Lebrun, 39歳。元外務大臣。ノジャン生。
(ピエール・アンリ・エレーヌ・マリー・ルブラン・トンデュ Pierre-Henri-Helene-Marie Lebrun-Tondu 1754-93 Noyon生まれとある。1789年8月成立のリエージュ
共和国{91年リエージュは司教領復活}の革命家。外務大臣{1792年8月11日}、国防大臣{1792年10月}。政治執筆家。
 父親はノワイヨンのブルジョワ{高等法院弁護士とも}でSaint Martin教区教会管理者、多くの事務所の所有者であるChristophe Pierre Tondu 1730-82。
母親はElisabeth Rosalie Lebrun 1733-1805。一女四男の長男。この人の姓もTondu-Lebrunとする資料も多い。
妹Rosalie Ursule 1755-1822はノワイヨンで生まれ同地で72歳で没している。宿舎のシーツ・タオル業者として記録があるが、結婚の痕跡はないとある。
弟Charles Christophe 1757-93以前 も結婚記録なし。弟Achille 1759-87は、1778年から1782年までパリ天文台で教育され、トルコに派遣されたChoiseul
 Gouffier大使に同行し、1785年と1787年にConstantinopleやPeraで天文測定をし、Constantinopleで28歳で没したという。早世だが、その功績は称えられ、
WiKiにも名が載っている。末弟Augustin Charles Henri 1762-82は、兄のこの人同様にルイ・ル・グラン学院で1780年と1781年の2年間、法律の勉強をして
いたが82年20歳で没した。
 この人は1783年リエージュでMarie Jeanne Adrienne Cheret 1762-1848と結婚。三男四女をもうけた。長男 Jean-Pierre Louis 1784-1852 は詳細不明。
長女Josephine Barbe Marie 1786-1848以前 は、1809年パリで薬剤師でBailly市長のNicolas Denis Moutillard 1785頃-1862と結婚し、一男一女をもうけた。
三男Theodore Charles Gilbert Joseph 1788-1861は初等教育検査官{画家ともある}となり、1829年パリでAgnes Marie Charlotte Leguere 1788-1850と結婚、
一女を得ている。子孫は現代まで続いている。次女Francoise Charlotte Henriette Marie 1789-1871は1808年パリでCharles Andre Defransure 1777-1831
と結婚、子の記録はない。三女Isabelle Victoire Civilis Jemmappes Dumouriez 1792-1876は1813年パリで弁護士Nicolas Hippolyte Regley 1785-1838と結婚
し一男一女をもうけている。デュムーリエが名付け親となった娘である。息子Christophe-Adrien Regley de Koenigsegg 1823-1903は准将で伯爵。四女
Sophie Minerve 1794-1883は父処刑年の2月13日に誕生している。1817年パリでAntoine Jean Elisabette Francois Juvenal Chauvet 1780-1856と結婚、
二女をもうけている。夫は中佐でレジオンドヌール受勲者。
 この人はノワイヨンの大学からパリのルイ・ル・グラン学院に入学。科学分野を専攻する。80年父親の死で経済難となり、この人は聖職者となって、同学院
の教師の道に進んだので abbe Tonduと呼ばれるようになる。1777年パリ天文台に入り、79年迄、数学と観測に従事。{天文台に入った弟Achilleと観測室の
小さな部屋に同室していた}
 その後、不明瞭な理由により79年天文台を去る。2年間の軍隊生活の後、この人はフランスを離れてリエージュ公国にPierre Lebrunの名で入り、数多くの
定期刊行物をリエージュで出版しているJean-Jacques Tutotの元で編集者となる。この頃、同地で結婚もしている{1783}。85年6月、Jacques-Joseph Smits
と共同で独立し、支配者リエージュ司教Cesar-Constantin-Francois de Hoensbroeckに敵対する情報誌の発刊を始めた。リエージュ市民権を取得後、同地
で89年起きたリエージュ革命に参加。91年司教がオーストリアの後援により復帰すると、リールに亡命した。
伝聞によればこの頃デュムーリエと親交を結んだともある。家族とパリに移り、情報誌の発行に従事する中、外務省の第一省員となり、デュムーリエを介して
ジロンド議員らと交わっていく。1792年8月11日に暫定執行委員会の外務大臣に就任。その頃誕生した娘にデュムーリエに名付け親になってもらいCivilis-
Victoire-Jemmapes-Dumouriezと名付けている。Joseph Servan辞任後92年10月に暫定的な国防大臣。
 しかしデュムーリエ事件で彼との共謀が疑われた29名のジロンド議員と共に逮捕されるところ、93年9月なんとか逃れる。しかし家族がいるので、リエージュ
市民Pierre Brasseurの名でパリに潜伏する。しかし保安委員Louis Heronにより1793年12月24日に逮捕。そして12月27日処刑された)

 Pierre-Henri-Helene-Marie Lebrun-Tondu

1793年12月31日

273. シャルル・マリー・バルル BARRE (Charles-Marie), 28歳。収税吏(receveur)。オルプHorp生。
(シャルル・マリー・ピエール・バルレ Charles-Marie-Pierre Barre 1765-93  元Lassay地区御用金aides収税吏receveur。マイエンヌ県Hors生まれとあるが
Le Horps。Lassayは同じマイエンヌ県のLassay-les-Chateauxのこと。
恐らく同一と思われる系図あり。没年や処刑の経緯はないが、地元の教会記録から作製された系図とすればパリで処刑され共同墓地埋葬であるから生年、
洗礼記録のみとなる。他資料「1793年3月1日革命・軍事委員ClementのLassay-les-Chateaux到着、最初の訴問と処刑」に、Charles-Marie-Pierre Barreは
元Lassay市長Jacques-Mathurin Barreの息子という記載あり、系図と合致するし、生年からの年齢も処刑リストにある職業、大方の出生地の綴りも合致。
 但し系図にはCharles Marie Barreとあり。65年3月29日にLe Horpsで誕生し翌日30日に洗礼。父親は医学博士Mathurin Jacques Barre 1727-94。母親は
Francoise Renee Anne Jary des Loges 1738-83。この母の兄Rene-Francois Jarry-Desloges{WiKiではこの綴り} 1736-1814は軍人でドイツの作戦に参加、
トゥールの採用担当官の後にマイエンヌ元帥法廷の少尉。91年サン・ルイ騎士となりマイエンヌ騎馬警察大尉となる。92年2月の同地の労働者の暴動を武力
鎮圧しようとした罪で投獄されるも逃亡、97年4月五百人委員に選出されるもクーデタで無効となった、という人物。
三男二女の末子。次兄Rene Francois 1759-1805は1796年LassayでMarie Rose Bignon 1769生 と結婚している。長姉Francoise Marie Mathurine 1761-1836
は1787年LassayにてEtienne Michel Hebert de La Gauterie 1761-1834と結婚、二男二女をもうけている。息子はAngersで医学博士となっており、娘はLassay
の治安判事と結婚している。次姉Marie Charlotte 1763生 は1791年LassayでLassay王室裁判所弁護士で同小郡治安判事、マイエンヌ県議会行政官Denis
Jahan de Lisletと結婚し一男をもうけている。長兄は夭折。
この人は陰謀の共犯者ということで逮捕・処刑されている。Lassay自治会により拘留されていて、体調不振でDoue市民・軍事病院に入院していた父親も、94
年1月3日に同病院にて逝去している。{DoueはDoue la Fontaine自治体} 親子は連邦主義者{革命後半期にジロンド派の活動と結びついた為に反革命派と目
された}として93年9月初頭に収監されていた。親子を告発した軍事革命委員会のAccusateur public{公的告発人}Jean-Baptiste Volclerや裁いたマイエンヌ
軍事革命委員会委員長Jean Clementは、同じように翌年94年2月2日に、Lassay-les-chateauxにて人々に"La Petite Emigree"と呼ばれ親しまれている美し
い娘Francoise Gandriau 1775-94を告発し・裁き、3月6日Lassayにてギロチンに処した。彼女の悲劇の物語は現代にも伝わっており、碑が建てられ、書物が
刊行され、その霊廟には今も花が供えられている)

274. アルマン・ルイ・ビロン BIRON (Armand-Louis), 46歳。共和国軍総司令官。パリ生。
(ゴントー侯爵、ローザン公爵、後にビロン公爵アルマン・ルイ・ド・ゴントー・ビロン Marquis de Gontaut {1758}、Duc de Lauzun {1766},Duc de Biron{1788},
Armand-Louis de Gontaut Biron 1747-93
父親はDuc de Gontaut, Charles Antoine Armand de Gontaut-Biron 1708-98。母親はAntoinette Eustachie Crozat du Chastel 1727-47。母親の妹Louise
 Honorine Crozat du Chastel 1737-1801は外相Duc de Choiseul 1719-85の妻。またローザン公位はあのモンパンシェ公夫人の恋人で名高いDuc de
Lauzun,Antoine Nompar de Caumont 1632-1723の死去で姪である祖母に渡り、その夫{この人の祖父}Duc de Biron,Charles Armand de Gontaut 1663-
1756にもたらされた。父親は兄の元帥Louis Antoine 1701-88の死去により、兄の遺志によりビロン公位を継承、しかし息子であるこの人に譲位したが、
この人が先に処刑死したので改めて継承した。父親は亡命者名簿に1792年10月29日登録されているが亡命はしていない。 1794年12月6日付で同名簿
から削除され、パリで98年逝去している。夫人を19歳で失い、息子夫婦も革命で失ったが、この父は再婚せず90歳まで生きた。父親は六男八女の六男
だったが、長兄・三代目ビロン公のFrancois Armand 1689-1736は47歳で没し、その息子も四代目ビロン公として公位継承一年で1737年20歳で死没、次兄
Anne-Julesは1689年にすでに早世していた為に、三男Jean Louis 1691-1777が五代目ビロン公となるも、聖職者だった為に後継なく、四男で元帥となる
Louis Antoine 1701-88が兄死没後に六代目ビロン公となった。だが、結婚{妻は1773}していたが子なく、五男Charles Armand 1703-32は聖職者で、しかも
すでに28歳で他界していたので、末弟である六男であるこの父親が、四男の遺志で七代目としてビロン公位を譲受したが、息子であるこの人に譲渡{八代
目ビロン公として}、しかし私生児は多かったが継承者のない息子であるこの人の処刑で先に死なれて5年間またその死までビロン公となっている。
父親本人も妻を19歳で亡くし再婚せずにこの人だけが子であった為、Saint-Blancard系のHenry Armand de Gontaut 1746-1826がMarquis de Gontaut
Bironとして称号を継いでいる。
 妻は66年の結婚の6年前に、祖母のリュクサンブール元帥夫人と旅先でルソーに会い、美貌を絶賛されている1751のMarie-Amelie de Boufflers。14歳の
誕生日の数ヶ月前に、1761年1月にフランス衛兵隊入隊、の連隊に加わり、後に伯父ビロン公爵の旗下で旗手。64年2月中尉、66年2月に副官。66年2月
に19歳で上記アメリーと結婚するが、ルソーが絶賛した彼女の慎ましさがこの人にはうんざりする「内気」となり、夫婦はほぼ別居。子供はいない。公爵は
美男のローザンと言われていたが、以後、他の多くの女性と関係していく。中でもマリー・アントワネットのお気に入りとなり、恋人と噂される。67年に大佐。
69年、コルシカ島で勇猛果敢に戦った。76年に王室竜騎兵連隊の指揮官。78年、ブルターニュのシャテル男爵領を、 ロアン・ゲメネの大公アンリ・ルイ・
マリー・ド・ロアンに売却したが、経済的には困窮。82年10月、破産状態に。アメリカ独立戦争参加。80年3月ロシャンボーの指揮下で竜騎兵准将。81年
10月のヨークタウン包囲戦の重要なグロスターの戦に活躍。 ルイ16世に ヨークタウンの勝利のニュースを届ける名誉を得た。83年6月にようやくフランス
に戻った。84年野戦総監。 89年ケルシーの貴族議員。オルレアン公の党派に入る。自分自身をビロン将軍と呼ぶようになった。92年1月中将となり、その
後7月陸軍大将。最初に北方面軍 、次にライン軍。92年-93年と連戦し勝利。93年5月からラ・ロシェル戦線で国内のヴァンデ軍の制圧任務につき、Saumur、
Parthenayで戦勝するが、敵に対する寛容さが政治不信を招き、辞任を申し出たことに対して、公安委員会によって反逆罪で告発、そして逮捕・処刑。
 彼の回顧録は1747年から1783年までの範囲であり、過去2世紀を通じて、マリー・アントワネットとの関係について論争を巻き起こしている。
 記録に残っている限りでも20人以上の女性との関係があるが、その中の一人で1772年頃関係したドニーズ・ビュアール{915}はオペラ座の踊り子で、間に
生まれた子供Louis Pierre Marcel Le Tellier{925}も94年5月10日に母と共にギロチンに果てている)

 ........
Duc de Biron,Armand-Louis de Gontaut Biron フォンテーヌブロー庭園のビロン公
妻・Marie-Amelie de Boufflers 母・Antoinette Eustachie Crozat du Chastel 祖父・Duc de Biron,Charles Armand

275. ピエール・フランソワ・ルネ・フォルゼル FOLZER (Pierre-Francois-Rene), 27歳。元貴族。ポワティエ生。
(Pierre Francois Rene Folzer 元貴族 Louviers生まれとあり。1784年付公文書に、Saintonge駐屯大隊少尉Pierre Rene Francois de Folzerが植民地での
雇用を求めて解雇されたとある。別資料ではVienneのVandoeuvre住まいの農夫cultivateurであるPierre Francois Folzerは陰謀罪で逮捕・処刑とある。また
別資料でも「貴族、農夫と主張」ともある。ヴァンデの反乱軍の進撃を歓迎し、兵士や士官らの動揺を助長した陰謀の罪のようだ。NormandieのCalvadosの
Vandoeuvreともあり、現Vendeuvreのことか。
⇒Pierre Francois Rene de Foltzer 1767-93であろう。この人物は系図あり、PoitiersのSt-Hilaire-le-Grand生まれ。93年12月31日パリでギロチン刑で死去。
26歳。Saintonge歩兵大隊の中尉とある。父親はJoseph Charles Jacques de Foltzer 1721生 で、Angoumois連隊駐屯地司令中佐で聖霊騎士でサン・ルイ
騎士。母親はIrenee Dubois de La Guignardiere。この父親は1774年Vendeuvre-du-PoitouでLa Chalonniere領主の娘Marie Anne Thibault de La Carteと
再婚している。またこの父親は1761年6月23日付「パリ高等法院管轄下ポワティエ管内王室管轄公記録」に名が残っており、「Bresse歩兵連隊第一大尉
premier capitaineでサン・ルイ騎士Joseph de Folzerとその妻Neree Duboisは、彼らとDubois嬢とその兄弟姉妹、義理の兄弟姉妹の為に、農家Julien Betus
に対して、年間300リーヴルの割合で農場賃料の2年分の延滞金を支払った」とある。{原本ではJulien Betusはlaboureurとなっており、恐らく手広く農地を所有
して賃料をとっていた身分であると推定できる。laboureurから農地を借りて農業を営む農民を18世紀半ばより農夫cultivateurというが、処刑名簿のPierre
Francois Rene Folzerが、元貴族、自称農夫cultivateurと名乗っているのは、零落した貴族のこういう家庭事情からかも知れない}
兄弟姉妹の記載はなし。
 この人は年月日不詳でVendeuvre-enPoitouにてSaint-Leger領主の娘Marie Jeanne du Chesne de Saint-Leger 1726-91と結婚しているが、この妻は再婚
で91年に死亡した時は65歳、記載事項に誤りなければ41歳も年上である。当然に子もなく、死別後にこの人は、処刑年の93年2月11日、Chatelleraultで
Berry連隊中尉、Foix砲兵連隊士官で士爵の娘Jeanne Henriette de Mondion 1770生 と再婚した。この妻は六女五男の六女だが、末子である五男の
Louis de Mondionは、Louis de Mondion de Chassignyといい、両親が三人の兄弟と共に革命による宗教排撃によって亡命すると、15歳のこの五男はパリの
寄宿学校に一人取り残され、ヴァンデの反乱の報に接すると学校から抜け出して偽名を使って93年5月5日にThouarsに赴き、反軍に合流。
La Rochejaqueleinはこの若者を高く評価、「モンディオンの小さな騎士」を気に入る。Lescureは彼を将校として各地を転戦、多くの活躍を見せるも、捕らわれ
て94年1月Angersにてギロチンに処せられたという。
 妻は結婚の年の年末にこの人を処刑で失うと、1795年にLouis Marc Anselme Lesuire 1755頃生 と再婚し一女をえている。
 10ヶ月余りの結婚期間で子の記録はない)

276. アガト・ジョリヴェ JOLIVET (Agathe), グラヴォGravau未亡人。 37歳。ボージュー生。
(Agathe Jolivet バローBareauの妻, クレシーCrecyの未亡人ともあり。 1756-93 無職。リヨン近くの小さな町Beaujeu生まれ。
20歳の頃、リヨン出身の弁護士Zacharie Bareauと結婚。不幸な結婚で同居に耐えず、82年頃パリに移住。離婚が難しい時代であり、夫から逃れるために、
リヨンの法律家Zacharie Crecyの未亡人という偽りの名乗りでパリで生活する。古物商を営んでいた模様。93年5月の居住証明書では、quai de l'Ecole{1868
年quai de l'Ecoleはquai de Bourbon、quai du Louvreとquai du Louvreとして一本化され地名は消滅している}の4番地にすでに6年間居住しており、納税もして
おり、安定した生活を送っていたとある。
 Bac通りとSevres通りとLa Chaise通りの間にある{現在の百貨店Bon Marcheの近く}、Petites-Maisons病院の神父の一人にLouis-Charles de Faverollesと
いう男が1786年頃いた。彼は軍学校を出て軍人となっていたが、健康理由で退役し、聖職者となっていた30歳前後の人物で、この二人は恋愛関係となり、
職業柄、兄・妹という名目で上記のquai de l'Ecoleの4番地の住居に同棲していた様子。
 神父は革命で憲法に宣誓したので、病院の修道女らから拒否され、91年、彼は軍人であった過去を思い出し、デュムーリエの軍隊に入隊、この人と離れ
離れの生活に入る。92年3月デュムーリエは彼を将官補佐官とし、次いで通信隊責任者となっている。この恋人がこの人のもとを去ったのは、宣誓拒否によ
る職場での軋轢以外には、2人の事情があったらしい。ヴァルミーの戦いが終わり、プロイセン軍が撤退した頃にこの人が恋人へ送った手紙には、Garde-
Meubleの王室宝石類の盗難事件で犯人が処刑されたとの話題を革命的見地で書いている。この人は革命崇拝者でもなく、恋人に対して「私も政治的に
少しは理性的に考えるようになっていますから、あなたも満足なさるでしょう」と書いている。革命に対する姿勢の相違等もあった様子である。
 しかし作戦が終わり彼がパリに戻ると再会する。93年2月にPyrenees-Orientales軍の飼料検査官に任命され任地に赴任すると、この人はクレシー未亡人
としての証明書で、パリから故郷Beaujeu、そしてリヨンに向かい、トゥールーズで恋人の元へ行く。
 飼料検査官として上司のBoucherによってパリに政府との交渉に派遣された恋人は、返ってくると態度を急変させたBoucherに解任され、元貴族として非難
され、バイヨンヌに出頭して公会委員Monestierの尋問を受けることになった。元貴族で元聖職者で、しかもデュムーリエの元部下であり、国王裁判で国王に
同情する伯父からの手紙、従兄弟Saint-Andreからはブリュッセルに亡命したある若者に帰国できる証明書の発行依頼の手紙、バイイやラ・ファイエットのメ
ダイヨンの所持、それらの致命的な「証拠」が押収される。また亡命者の帰国の手助けの経緯には、この人に宛てられた手紙も含まれていた。その手助けを
したという証拠はないが、革命政府にとっては「亡命者との接触」だけでも充分に有罪となった。そして二人は共に処刑されるに至る。護送車から降りると、二
人はキスをしたともあるが、この恋人は281のHenriette-Louis-Charles Faverollesのことだろう。処刑日が違う。
 93年5月の証明書では、162センチの身長、髪・眉は茶色、中鼻、丸顎、小さな口、楕円形の顔とある。
系図では両親不詳となっており、 処刑時38歳、処刑日は94年1月1日、夫の詳細もなくZacharie-Barranと離婚したとあるのみ。他には、BeaujeuのSaint-
Nicolas教区住人に、1763年付でパリのワイン委託販売商人Francois Jolivetがおり、皮鞣し商人でボージューのブルジョワの娘 Antoinette Claudine
Georgerat 1728-1803と1746年Saint-Nicolas教区で結婚している。三女一男がおり、三女がMarie Agathe Claudine Jolivetである。但し1750年10月9日生まれ
で没年は不詳、他の記載事項もなし。長姉は夭折、次姉Marianneは1748年生まれという生年のみ、また弟Pierreも1752年生まれとのみあり、詳細不明)

1794年1月2日

277. シャルル・アントワーヌ・フランソワ・ボンヌフォワ BONNEFOY (Charles-Antoine-Francois), 32歳。軍事委員。ヴェルサイユ生。
(Charles-Antoine-Francois Bonnefoy 1761-94  軍事委員。元ヴェルサイユ宮国王大侍従官取次係。1789年Jean-Andre Nolの引退で、王室酒杯係第一
従者となる。
父親はルイ16世主席給仕頭秘書官兼大侍従官取次係Huissier du grand chambellan et secretaire du 1er maitre d'hotel du RoiのAntoine Francois
Bonnefoy 1729-98。母親はMarie Louise Michaut。四男二女の三男。代々国王の側仕えの官職にある一族。また叔父Pierre Charles Bonnefoy Duplan du
Charmel 1732-1824は、国王従者で王妃のプティ・トリアノン家具保管執事をしており、王妃の訴訟中に家具目録を廃棄して訴追を防いだが、テルール中は
テルミドールまで15ヶ月投獄されており、後1809年にBaron du Charmelとなっている。
長姉Louise Marguerite 1755生 はヴェルサイユに生まれ、1787年同地にて小間物商Alexandre Cocquebert (de Touly) 1759-1837と結婚。子の記録はなし。
他の兄弟姉妹は夭折、もしくは生年のみ。
 この人は1785年Versaillesでヴェルサイユ王女室官吏の娘Josephine Francoise Quatremereと結婚し、一男Charles Therese 1787-1851をもうけている。
妻は死別後Jean Gavetという人物と再婚している。息子は結婚記録はないが「子供なし」と記載あり。
 不正取引と汚職の共犯者として告発されたが、旧体制中の職業が問題視されたようである)

叔父・Pierre Charles Bonnefoy  

278. アントワーヌ・ルイ・シャンパーニュ CHAMPAGNE (Antoine-Louis), 42歳。教会参事。 マルサンMarsins生。
(アントワーヌ・ルイ・ド・シャンパーニュ・ド・ルールプ Antoine-Louis de Champagne de Lourps 1751{50}-94 貴族で、Troyes大聖堂教会参事会会員の聖職者、
Dijon司教総代理。MarneのMorsains生まれ。処刑日は後者と同日だが1月3日ともあり。
Antoine Louis de Champagne de LourpsとMarie Anne Taillandierの息子。この人の曾祖父Longeville, Thoulotte,Lourps領主Jean de Champagne de Longeville
の長兄Charles de Champagne de LourpsはBaron de Lourpsである。Seine et Marneの現在のLongueville chateau de Lourpsの貴族家系。Lourpsの地はルイ
11世の秘書官Jean Legouxが1479年所有していたが、その子孫Claude Legouxが1610年にLonguevilleの領主Robert de Champagneに嫁ぐことによりこの家系
の領地となった。17世紀から18世紀初頭にかけてこれらLonguevilleやLourps等の所領は売却され、1763年にはMarquis de Fera de Saint-Phalleの手に渡る。
{革命後もこの侯爵の家系がChateau de Lourpsを維持し、1850年に至るも同城に居住している}
 系図や資料でも、この人の両親について生没年すらも不明であり、この人は聖職者であるが、兄弟の記載なく、そもそもこの人が聖職者であることも記載
はない。ただEcuyer{平貴族}とあるのみで、生没年もなし。両親の結婚が1744年1月9日とあるのみ。兄がいてもおかしくない。ただAntoine de Champagne de
 Lourpsだが系図の父親名とMarie-Anne Taillandierの母親名が資料にある両親名と合致しているから本人と断定可能ではある。しかし後者の系図にあるよう
に、後者の母親の弟{後者の叔父}であるという内容とは合わない。後者の系図では後者の祖父de l'Hotel某と祖母de Champagne某の結婚により、後者の母
Marie Madeleine Delhotelとなぜか母方姓を名乗っているAntoine-Louis Champagne 1794没 が生まれたとある。
 1789年cahiers du clerge{議会への三身分毎の要求書の聖職者版}の作成の起草に参加し、革命の抗議に参加、Troyesの最初の犠牲者であるClaude Huezt
{Claude Huez? Troyes市長でシャトレ裁判所刑事代理官 1724-89}の葬儀を取り仕切る。Troyes自治体の会議に参加して、92年憲法への宣誓を行った。しかし
ルイ16世が有罪とされると、態度を変えて、Adresse au peuple francaisとObservations d'un patrioteという二つのパンフレットを出版し非難。危険を察知して
トロワを去ると、NeuvyとマルヌのBarbonneにいる姉妹の家に、後にVilliers-Saint-Georgesの司祭の元に、そしてSaint-Martin-du-BoschetのMaricourt家、
最後に1793年9月1日にLa Ferte-Gaucherの後者の元へ避難する。後者は義弟Etienne Robert Naret{Narret。1749-1819。1774年Beton-Bazochesの司教
代理、1777-1819年Cerneux司祭}に教えを受けていたので15年来この人を知っていた。そして1793年11月30日にこの家で逮捕。この人は1793年6月14日に、
亡命者と見なされている。同日の家宅捜査で反革命的な通信文、書物が押収されている。「La Ferte-Gaucherにある彼の姪Mme Narret宅で亡命者リストに
登録された彼は発見され、姪と共々逮捕された」とあるので、後者の系図中の母方の叔父であるという意味が理解できるが、両親の名はその系図とは違う。
また、Francois-Alexandre de La Chenaye-Aubert著「Dictionnaire de la noblesse」第四巻{1772刊}に、Jean de Champagneの紹介を「今日聖職者をしている
1752年頃生まれのLouis Antoine de Champagneの曾祖父である」とあるので、ここに掲載した系図が正しいと思われるし、また兄が間にいたとしても1772年
の同書発行年の1772年にはすでに他界していたものと推測できる。
「民衆の主権を冒し、自由を奪い、内戦によって国家を混乱させる陰謀があったと宣言する。市民を武装させ、アントワーヌ・ルイ・シャンパーニュは王室再建
につながる文章を作成して配布することで、この陰謀に参加したことは明らかだと判断される」とフーキエ・タンヴィルは述べた)

279. マリー・マドレーヌ・クレティアン CHRETIEN (Marie-Madeleine), マレMaretの妻。35歳。シュヴリエChevrier生。
(Marie-Madeleine Chretien、Narretの妻。1758-94 Marie-Madeleine Narret Chretienの妻としている資料もあるが誤り。無職。32歳ともあり。系図では離婚
した妻で35歳{3月7日生まれ}。ChevrierはAuvergne-Rhone-Alpes地方Haute-Savoie県の自治体、1793年当時住民は260人と記録あり。系図にはSeine-et-
MarneのChevru生まれとある。ChevruはSeine-et-Marne県の自治体で1793年人口調査では476人の住人。関係者との地理的な繋がりでも、こちらが正しい
と思われる。
 La Ferte Gaucherに居住し、宣誓拒否の聖職者の亡命に手を貸し、また反革命的パンフレットの配布の援助の罪とある。{前者のことなら、前者は92年憲法
宣誓はしている}
 父親はChevru司令所の衛士Antoine Chretien 1725頃-74以降。母親はMarie Madeleine Delhotel 1726頃-1774以降。母親の姓はde l'Hotelで、その父親 de
l'Hotel某{この人の祖父}は、de Champagne某{この人の祖母}と結婚し、Marie Madeleine Delhotel{この人の母}と弟Antoine-Louis Champagne 1794没 を生んだ。
この弟がなぜ母親の姓を名乗っているかは不明だが、前者ではないかと思われる。つまりこの人と前者は叔父・姪の関係ということになる。{系図には詳細は
書かれていない}しかし年齢が近過ぎるし、別資料にある前者の両親の名はAntoine Louis de Champagne de LourpsとMarie Anne Taillandierである。{前者参}
 この人は1774年ChevruにてBeton-Bazochesの国民衛兵司令Vincent Augustin Naret 1747-1815と結婚、1793年3月28日にMontceaux-les-Provinsで離婚。
一女一男がいた。長女Marie Madeleine Rosalie Naret 1779-1827はMontceaux-les-Provinsで生まれ、1797年同地でAndre Zacharie Griotteray 1775-1846と
結婚し、三女三男をもうけており、その子孫は20世紀へと続いている。長男Vincent Antoineは1781年夭折。
 夫Vincent Augustin NaretはSeine-et-MarneのBeton-Bazochesで1793年4月30日に商人の三女Marie Rose Bureau 1772-1812と再婚して二男をもうけて、
1815年生地と同じMontceaux-les-Provinsで没するが1797-1813まで同地の市長となっている。その末子Edouard Naret 1800-75はアメリカで医学博士に。
前者シャンパーニュ{叔父ともある}がトロワから避難した際に、1793年9月1日にLa Ferte-Gaucherの自宅に匿う。義弟Etienne Robert Naret{Narret。1749-
1819。1774年Beton-Bazochesの司教代理、1777-1819年Cerneux司祭}に教えを受けていたので15年来、前者を知っていた。そして1793年11月30日にこの
家で逮捕。この人もその14歳の娘も、前者の2ヶ月間の滞在は証言させられた。前者は1793年6月14日に、亡命者と見なされていた。同日の家宅捜査で反
革命的な通信文、書物が押収されている。「La Ferte-Gaucherにある彼の姪Mme Narret宅で亡命者リストに登録された彼は発見され、姪と共々逮捕された」
とあるので、系図中の母方の叔父であるという意味が理解できるが、両親の名は上記の系図とは違う。また最初の尋問で、前者を叔父ではないと証言して
いるともある。処刑日は前者と同日だが1月3日ともあり)

280. フランソワ・ジャン・ルイ・デュトランプロワ DUTREMBLOY (Francois-Jean-Louis), 34歳。運送業。モンディディエ生。
(ジャン・ルイ・デュ・トランブレー Jean Louis du Tremblay 1758-94 運輸管理部管理官、パリの金融仲買人。Montdidier生まれで、パリで1月2日処刑。
汚職にて告発された。「ピカルディ ギロチン刑一覧」に名がある。Francois-Jean-Louis du TremblayもしくはDutremblaiとする資料もあり)

281. アンリエット・シャルル・ルイ・ファヴロール FAVEROLLES(Henriette-Charles-Louis), 36歳。飼料検査官。パリ生。
(アンリ・エティエンヌ・シャルル・ルイ・ド・ファヴロール Henri Etienne Charles Louis de Faverolles 1758-94 {処刑簿元本にはHenriette-Louis-Charles
Faverollesとある} 元貴族、聖職者、後にデュムーリエの将官補佐官。93年2月にPyrenees-Orientales軍の飼料検査官。系図はSaint Benoit生まれ。9月
生まれなので35歳で処刑。{原本には36歳と書かれている}
 父親はLouis Rene de Faverolles 1709生。母親はMarie Anne Lelarge。兄弟姉妹の記録なし。高祖父はBaron de Blereで小厩舎侍従、国王侍従官をして
おり、曾祖父が士爵でノルマンディー連隊大尉、大伯父がやはり士爵で擲弾兵大尉、La Londe連隊大尉、Bouhier連隊中佐で死亡地がChateau de Domecy
なので貴族家系と思われる。{この大伯父はDomecy-sur-le-Vault領主とあるが、ブルゴーニュのChateau de Domecy-sur-le-Vaultは1695年に亡くなった
所有者Longuevilles de Domecy家よりこのFaverolles家に渡り、1748年Michel-Auguste de Denesvreに売却されたとあるので、この大叔父Francois Antoine
 de Faverolles 1675-1748の死亡により売却されたものと思われる}
 276のAgathe Jolivetの恋人で、「Bac通りとSevres通りとLa Chaise通りの間にある{現在の百貨店Bon Marcheの近く}、Petites-Maisons病院の神父の一人
にLouis-Charles de Faverollesという男が1786年頃いた。彼は1772年軍学校入学、軍人となっていたが、身体問題で退役、聖職者となっていた30歳前後の
人物で、この二人は恋愛関係となり、職業柄、兄・妹という名目でquai de l'Ecoleの4番地の住居に同棲する。この神父は革命で憲法に宣誓したので、病院
の修道女らから拒否され、91年、彼は軍人であった過去を思い出し、デュムーリエの軍隊に入隊、この人と離れ離れの生活に入る。92年3月デュムーリエ
は彼を将官補佐官とし、次いで通信隊責任者としている」とある人物と同一と思われる。また上記の経歴内容は系図より年代を補完してあるが、1762年8月
26日La Fleche王室学校入学という記録も系図にはあり。
 作戦が終わりこの人がパリに戻ると276と再会する。93年2月にPyrenees-Orientales軍の飼料検査官に任命され任地に赴任すると、恋人はクレシー未亡人
としての証明書で、パリから故郷Beaujeu、そしてリヨンに向かい、トゥールーズで恋人のこの人の元へ来る。
 飼料検査官として上司のBoucherによってパリに政府との交渉に派遣されたこの人は、帰ってくると態度を急変させたBoucherに解任され、元貴族として
非難され、バイヨンヌに出頭して公会委員Monestierの尋問を受けることになった。元貴族で元聖職者で、しかもデュムーリエの元部下であり、国王裁判で
国王に同情する伯父からの手紙、従兄弟Saint-Andreからはブリュッセルに亡命したある若者に帰国できる証明書の発行依頼の手紙、バイイやラ・ファイ
エットのメダイヨンの所持、それらの致命的な「証拠」が押収される。また亡命者の帰国の手助けの経緯には、恋人276に宛てられた手紙も含まれていた。
その手助けをしたという証拠はないが、革命政府にとっては「亡命者との接触」だけでも充分に有罪となった。そして二人は共に処刑されるに至る。護送車
から降りると、二人はキスをしたともあるが、恋人276とはこのリストでは処刑日が違う。しかし系図には1月1日にパリにて死亡とはある。この系図は唯一の
もので、そこにある経歴から上記の内容と合致ので本人と思われるが、処刑の事実には言及されていない)

282. ピエール・ジョアシャン・ヴァンシャンピュット VANCHEMPUTTE (Pierre-Joachim), 34歳。聖職者。パリ生。
(ピエール・ジョアシャン・ヴァンクランピュット Pierre-Joachim Vancleemputte 1759-93 Saint-Nicolas-des-Champs教区教会付聖職者。Van Cleemputteとも。
この人は1791年宣誓拒否している。
 父親はパリのブルジョワで仕立屋Pierre-Joseph Van Cleemputte{発音記号付でヴァン・クレアンピュット} 1740-88以前。母親はMarie Anne Catherine
Wargnier 1740-88以前。父親はScholastique Thuillierという女性と再婚している記載あり。{1788年11月10日付パリ公記録にも、故Van Cleemputteの二番目
の妻としてScholastique Thuillierの名がある} Van Cleemputteはベルギーに著名人多く、その家系だろう。
 三男二女の次男。長兄Pierre Louis 1758-1833は建築家でEcole des Beaux-Artsの教授。1789年パリで金銀細工親方の娘Marguerite Flore Lenfant
1806没{他資料には1770-1806}と結婚。二女二男をもうけ、子らは皆1808年から25年にかけて結婚している。長男Antoine Henri 1792-1858も建築家となって
おり、建築アカデミー会員、次男Lucien Tirte 1795生 も建築家で1825年、宮廷の建築家の称号を授与された。恐らく妻と死別後にAntoinette Louise Persin
1783頃-1875と再婚し、三女一男をもうけており、息子Charles 1816-65も建築家となっている。この長兄の系図は、最初の妻と二番目の妻の子らの記載が
交錯しているものも他にある。次男のこの人はパリのSaint-Nicolas-des-Champs教区の聖職者とあり1759年の生年のみが記載。兄弟らも同教区の生まれ
なので地元の聖職者。弟Alexandre Joseph 1763生 はパリでMarie Marguerite Boitelle 1767頃生 と結婚、三女一男をもうけている。1788年パリ公記録には、
橋と道路局の局員とある。妹Catherine Antoinette 1812没 はAntoine Louis Francois Heuzetと結婚。この夫は1788年公記録には、国王の錠前師で王室建
築請負人とある。子の記録はない。末妹Angelique Josephe{パリ公記録にはAngelique Josephine} 1765-89は23歳で早世している。 Catherine Antoinetteを
末妹としている系図もある。
 この両親は1789年8月に、生存している四人の子らに以下の財産を遺した。フランドルのLisle近くの4つの家と附属する土地、領主権、財産。Gatinoisの
Gondreville教区Olibonの土地、領主権に伴う財産、Fontainebleau近くのHericyのPontgerville教区の家と資産。Saint-Denis近くDuignyの屋敷と別棟。 l'Isle
Saint-Denis, Genevilliersとその周辺の資産、BonneuilとGonesseの2つの家と別棟、である。
 恐らく系図の記載内容の出典ともなっているだろうパリ公記録は以下。{推測している兄弟関係等は上記の系図で確認済}
1789年パリ公記録に、パリの聖職者でP J VancleemputteとA C Wargnierの息子とある。同日付の同記録にAlexandre Joseph Vancleemputteという橋と道路
局局員が、同じ二人の息子とあるので、兄弟だろう。また同じ記録にパリの建築家Pierre Louis Vancleemputteなる人物も、同記録のCatherine Antoinette
Vancleemputte{パリの錠前製造親方Antoine Louis Heusetと連記なのでその妻だろう。尚、系図では発音のままHeuzetとなっている}も同二人の息子・娘と
あり、これらも兄弟姉妹だろう。
同日付同記録にはPierre Joseph VancleemputteとAnne Catherine Wargnierはパリのブルジョワとある。
他の1788年11月10日付パリ公記録には、これらの兄弟姉妹が列記されている。この記録に父母の死亡が確認されるので系図では共に1788年以前没となっ
ているのだろう。また1788年11月10日のこの記録は、これら兄弟姉妹らが、まだ未婚だった末妹Angelique Josephine{前出}の親権からの解放に伴う記録で
あると推定。上述の1789年12月8月のパリ公記録は、同年3月28日に死亡した末妹Angelique Josephineに関するものと推定。
 この人はGouletの妻の住居を礼拝堂に使用したことを否定、そこにあった品々の所有も認めなかった。時々見かけた別の司祭のものであると主張したが、
自分が時々、告白や聖体拝領をしたことは認めた。パリの裁判所は他の女性らの反革命的犯罪の意図は認めなかったが、この人の意図は反革命的である
として起訴した。これは、革命裁判所が多くの場合、宗教的行為に関して女性は宗教心からのものと認め、男性は「反革命行為」として処断された事例。文中
の「Gouletの妻」は、94年1月1日〜1月4日判決一覧の中にこの人と共に記載されており、「Gouletの妻Louise-Marguerite Leroy及び婦人服店縫子Marie-
Francoise Maureは無罪放免」とあり、この人は「死刑」となっている。自然な宗教心は女性には認められ無罪ともなり、この人のような宣誓拒否聖職者は、
「反革命罪」に問われて死刑と、あまりに大きな違いが判決されているわけである)

1794年1月4日

283. ピエール・ジョゼフ・ドロテュエ・クレール・ラドヴェーズ CLERC LADEVEZE (Pierre-Joseph-Dorotuee), 49歳。中佐。パリ生。
(ピエール・ジョゼフ・ドロテー・ド・クレール・ド・ラ・ドヴェーズ Pierre Joseph Dorothee de Clerc de La Deveze 1744-94 Herault県PierrerueのChateau du
Tendonで12月30日に生まれたので49歳。Chateau Tendon Saint-ChinianはLanguedoc-Roussillonのワインの銘柄。王室主義者として処刑。1792年8月9日
の夜にテュイルリー宮の国王の元に集結して陰謀を企てた罪。一族は常に専制政治の手先であったとされている。
 家柄は16世紀Olargues執政官Philippe de Clercから始まり、貴族家系との婚姻、そして祖父の代からの軍歴で貴族として認められた一族。しかし1666年に
 Jean de Clercは不当に貴族身分としての行為をした罪で罰金刑に処されている。しかしこの人の祖父・父と輝かしい軍歴により貴族身分を維持した。
父親は王軍准将Jean Francois de Clerc de La Deveze 1713-48{Berg-op-Zoom攻囲戦の疲労が原因で死亡}。祖父Pierre Paul de Clerc de La Deveze 1667
{67とも}-1747も王軍中将でSaint-Chinian総督。祖母はBaron de Pardailhan{但しトゥールーズ高等法院評定官であり、モンテスパンの家系はPardaillan de
Gondrin}の妹Madeleine de Portes de Pardailhan 1671生。母親はMarie-Renee Lucrece de La Tour du Pin Montauban 1715-1804。
祖父の代からMarquis de La Deveze。
 三男{貴族事典では四男一女}の三男{同事典では四男}。長兄Pierre Paul Rene Francois{資料では1736年3月17日生まれ}はMadeleine Angelique de La Tour
 du Pin Montauban1740-83{系図では1733年結婚とあるが、これは両親の結婚年。資料では1763年3月24日にこの従妹と結婚したとあり}と結婚している。
Marquis de La Deveze。1750年小厩舎小姓、後に歩兵連隊大尉。ルイ16世治下、息子の一人が海軍士官学校に入学する際の貴族身分の証明では、その高
貴な家系との結婚や父・祖父の輝かしい軍歴にも関わらず、王室系図学者Cherinにより拒否されて、1787年のカストリー元帥宛の手紙では、すでに亡くなって
いる祖父・父の軍歴はもはや継承されず、その貴族証明の利益を認められないとしている。系図には一女のみ記載あるが夭折している。しかし貴族事典には
1766年生まれの双子Diomede-Francois-Henri{Comte de Clerc}とAuguste-Rene{Vicomte de Clerc}がいて、他に夭折した息子と二人の娘がいたとある。他系
図では三女四男あり、Diomede-Francois-Henriが子孫を残しており、三男のFrancois Octave Raoul 1809-92は国会議員。尚このDiomede-Francois-Henriは
1804年Genereuse Emilie de Sade 1774-1848と結婚しているが、この妻の姉Laure de Sade 1772-1849はかのサド侯の息子Donatien 1772-1849の妻。
次兄Pierre Paulは1746年7歳で夭折、と系図にはあるが、貴族辞典には、次兄はPaul-Rene-Francois-Madeleneとなっており、La Deveze士爵で「海軍尉官」
Enseigne de Vaisseauとなっている。{他資料では「1737年頃生まれ」とあり}そして同事典では三男はMarie-Francois-Rene 1741生 でLozeron士爵と呼ばれた
ロレーヌ近衛連隊大尉。海軍公記録にはChevalier de Ladeveze,Marie Rene Francois de Clerc、植民地部隊中佐1773〜79、とあり、同記録には後述するこの
人の公記録も「アフリカ・セネガル義勇軍指揮官」として登場する。そして四男がこの人で、Beaufort士爵と呼ばれてプロヴァンス連隊中尉、とあり。また妹の
Therese-Francoise-Pauline-Madelene 1750生 がおり、1761年に海軍大尉Comte de Rion,Francois-Hector d'Albertと結婚とある{この生年・結婚年は他資料だ
が、11歳で結婚?}。またこの妹は1740-1823とする資料もあり、そうであれば、この人の姉で、結婚年では21歳である。一女を残している。
 他資料では四男であるこの人の名があり、1744年12月31日生まれのAbbe de La Devezeと呼ばれていた、とあり軍歴は書かれていないのもある。
 系図ではこの人の結婚記録はない。死亡も1794年1月3日パリにてとあるのみ。Seine et Marneのフォンテヌブロー住まいで、革命裁判所で死刑判決となった
とする系図もある。
 またlivois.comの系図ではChevalier de La Deveze,Paul Francois Rene Madeleine de Clerc de Ladeveze 1737-93 ギロチン刑、55歳。Marie Francois Rene
 de Clerc de Ladeveze 1741-93はギロチン刑、51歳。とあり、またPierre Joseph Dorothee de Clerc de Ladevezeは1744-94で50歳でギロチン刑と四兄弟中
の長兄以外が全員ギロチン処刑となっている系図もある。確かに他の系図でもこの二人の兄の没年は共に93年とあるが、末弟のこの人のように革命裁判所
により死刑判決という記述はない。また共に没した月日も場所もない。いずれにしても、この兄たちは、パリでの処刑リストには名がない。
 他の表記としてはPierre-Joseph-Dorothee-Clair LadevezeもしくはClair-Ladevezeとも。また歩兵中尉とも無職とも。
他系図にregiment de cahartres infanteries大尉とあるが、cahartresはシャルトルChartresの誤植か?
 また海軍公記録に、ラドヴェーズ士爵ピエール・ジョゼフ・ドロテー・ド・クレールChevalier de Ladeveze, Pierre Joseph Dorothee de Clerc、アフリカ義勇軍、セ
ネガルの指揮者major commandant1783〜86年という記録もある。同記録に前出の兄の記録も残されている。
「La Deveze士爵で元中佐」としている資料もあるが、この人も植民地部隊では中佐だったのかも知れない)

284. ローラン・ルイ・フィリピーヌ・フランソワ・キュスティーヌ CUSTINE (Laurent-Louis-Philippine-Francois), 25歳。大尉。パリ生。
(アルマン・ルイ・フィリップ・フランソワ・ド・キュスティーヌ Amand Louis Philippe Francois de Custine 1768-94 Renaud Philippe Louis ArmandともRene Louis
 Armandとも。またMarquis de Custineともある。
 このリストからは欠落しているが93年8月28日に処刑された父Comte de Custine,Adam Philippe de Custineの将官補佐官として、父親の弁護を試みたが、
「あなたのような息子が父親と共謀していないわけがない」と共謀容疑で告訴され、逮捕されてしまい、処刑に至った。
 キュスティーヌ家はベルギーのWalloon、Ardennes、Lorraineの一族で、1414年に確認されるJehan de Custineはすでに高貴な身分となっている。
marquis de Custineの侯位は1719年ロレーヌ公によりChristophe de Custine 1755没 に授与されたが、その息子Marc-Antoinede Custine 1757没 の代で消滅
しているとあるので、この人がMarquis de Custineと随所の系図で書かれている所以は不明。
 父親は上記のComte de Custine,Adam Philippe de Custine 1740-93で、フランス王軍将校として七年戦争に従軍{61年Schomberg竜騎兵大尉}、ロシャンボ
ーのもとにアメリカ独立戦争に従軍しヴァージニア作戦やヨークタウンの戦いに参加し、帰国後は82年Toulon総督、Rouergue歩兵連隊大佐、そして革命時は
メッツ代表の三部会貴族議員、1791年10月陸軍中将として軍務に復帰して「口髭将軍」として親しまれ、ヴォージュ軍最高司令官として、1792年の9月から
10月にかけて、シュパイアー、ヴォルムス、マインツ、そしてフランクフルトを次々と制圧し、布告文によって革命の宣伝をし、貴族と聖職者に重税を課し革命
に貢献するも、プロイセン軍の反撃で撤退し、反逆罪を問われるもこの時はロベスピエールの弁護で免れたが、北方面軍に配属後もオーストリア軍の攻勢に
消極的で再度の敗北、パリに弁明に帰ったところで逮捕され、敵との共謀罪に問われ今度は処刑されてしまった人物。
母親はパリ高等法院訴願審査官の娘Adelaide Louise Celeste Gagnat de Longny 1747-71。
一男一女の長男で、妹Adelaide Philippine 1770-1861は90年宮廷式部長官Marquis de Dreux-Breze,Henri-Evrard de Dreux 1762-1829と結婚。この夫は
父親の後任として宮廷式部長官職を1781年から1792年まで継承し、93年スイスに亡命している。あの89年6月22日、第三身分議長バイイに着帽したまま慇懃
無礼な態度で「国王の命令をお聞きにならなかったのか?」と言い、ミラボーに「きみは国民議会に議席を持つ者ではない。それなのにその発言に従えと言う
のか? 我々は国民の意志でここにいる。銃剣に力によらぬ限りここを立ち去ることはない」と激語を投げられた人物。一女三男をもうけ、長女Clementine
Henriette Philippine 1791-1878は野戦総監で国王侍従となるBaron de Montaynard 1770-1845と結婚。長男Scipio 1793-1845は侯位を継ぎ、軍人から王政
復古で式部長官の職位を継承。次男Emmanuel Joachim Marie 1797-1848は大尉・将官補佐官で兄の死後に侯位を継承。三男Pierre Simon Louis Marie
1811-93はムーラン司教。
 王妃連隊騎兵大尉だったが、革命後の92年6月ベルリン全権大使となるが、ベルリンのフランス公使館の公文書をスペインの公使に引き渡してしまう。上記
のように、父親の将官補佐官をしていた93年8月、父親との共謀罪で逮捕。この人の手紙の内容が革命裁判所でも証拠となり、この人が父親の反革命の企図
を知っていた内容となっていた。
 裁判の間、公衆はこの若者に同情して「気の毒な若者」と話していたそう。その髪を添えた妻への「最後の手紙」では、妻の行く末を心配し、その優しさを求め、
また子供らを託し、自分を死に追いやった人々を赦し、「またいつの日か、きみと会いたいと思いつつ別れる」と書き記している。
 この人は1787年海軍大将Comte de Sabranの娘Louise Delphine Clemence Marie Louise Eleonore de Sabran 1770-1826と結婚。義父逮捕時この妻は義妹
Dreux-Breze夫人とLes Andelysにいたが、子供を義妹に委ねるとパリに取って返した。この妻の美貌は当時から有名で、義父の裁判時は毎日法廷に通い
その傍らで恩赦を乞う姿が評判だったという。またこの妻は夫に対しても、看守の娘にお金を渡して、着替えを用意して脱獄させる手配をすることで貢献した。
しかし夫は妻と看守の娘にそのような危険な真似はさせられないと断る。自宅拘禁からこの妻も義父と夫であるこの人と同じカルム牢に投獄されたが、ロベス
ピエールの失脚まで処刑は免れ、解放後はジョゼフ・フーシェ{ナポレオン下で大臣となるが、当時はこの妻の恋人の一人}の尽力で財産を回復し、95年子供
とロレーヌに定住した。この妻にはFrancois Antoine de Boissy d'Anglas , Francisco de Miranda等の他にも恋人がいたらしい。また獄中でもボーアルネと親密
になっていたが、共に解放されたその夫人のジョゼフィーヌとも親交を保っていた。またシャトーブリアンとの親密であり、1803年彼の助言でChateau de 
Fervaquesを購入し、そこでサロンを開いている。また絵画にも造詣があり、ヴィジェ・ル・ブランからも評価されていた。1912年その回想録が出版されている。
 二男をもうけ、長男Adam Francois Gaston 1788生 は夭折。次男Astolphe-Louis-Leonor 1790-1857はMarquis de Custineとなり、1821年Marquis de
 Courtomerの娘Leontine de Saint-Simon de Courtomer 1803-23と結婚し一男Enguerrand 1822-26をもうけている。このAstolpheは同性愛者だったが、妻子
を大変に愛していた。外交官となり軍隊にも入り、タレイランとウイーン会議にも出席したが、1824年10月28日に恐らくは若い兵士に声を掛けた為に暴行事件
に合い、それを機に同性愛者としての醜聞が広まってしまう。ノルマンディーのFervaques城に隠棲。その後、再びBalzac、Hugo、Chopin、母の愛人だった
Chateaubriand、Musset、George Sand、Lamartineらと交わり社交界に復帰。母と同じ年に子を幼くして失ってから信仰心を強める。スペイン旅行により旅行記
に目覚め、ロシア旅行の記録は文学史上に名高い)

  ......................................
Amand Louis Philippe Francois de Custine................................................父・Comte de Custine,Adam Philippe(父も93年8/28パリにてギロチンだが、このリストには8月28日の処刑者がいない)
妻・Louise Delphine Clemence Marie Louise Eleonore de Sabran 息子・Astolphe de Custine

 
妹・Adelaide Philippine 義弟・Marquis de Dreux-Breze

285. クロード・ルイ・カネ・デュゲー・マランジュ DUGUAY-MARANGE (Claude-Louis-Canet),67歳。検事代理。パリ生。
(クロード・ルイ・カネ・デュ・ゲ・ド・マランジュ Claude-Louis Canet du Gay de Marange 1727-94 パリのSaint Louis生まれ。1月24日生まれなので66歳。
元パリ租税法院主席検事補、元Rennes火刑裁判所主席検事。共和国内外の敵と共謀した罪で処刑。
 父親はTancraiville領主で平貴族のDenis Canet Dugay。母親はCharlotte Francoise Gruet。{Canet-Dugay姓は、パリのブルジョワである祖父Denis Canetが
同じくパリのブルジョワの娘・祖母Jeanne Dugayと結婚したことによる} 兄弟姉妹の記録はこの系図にはないが、他系図と組み合わせると、少なくとも兄二人と
姉一人が確認出来る。
  この人は1778年パリのSaint Nicolas des Champsで国王給仕頭Maitre d'hotel du roiの娘Louise Marie Delavigne 1759-1841。子の記録は系図にはない。
 妻は死別後の1795年、パリ会計院傍聴官・国王評定官の息子である国王侍従官Antoine Jacques Patu 1758-1836と再婚している。
 また別系図で生地・生年月日は同一、没年不詳のClaude Louis Canet Dugayの系図では1717年生まれの兄Denis Martinと19年生まれの兄Denis Francoisが
記録されており、両者共に没年も内容も不詳となっている。つまり三男の末子という記録となっている。ちなみに父親Denis Canet Dugayは生没年不詳だが、
アルザス司法府給金出納官とある。また1795年8月28日付のパリ公記録にClaude Canet-Dugayの相続者として、パリ市民Elisabeth Denis Tremault、同相
続人として市民Leclerc de Lesseville某とその妻Canet-Dugay某の名が記録されている。{この人は78年9月、51歳の時に結婚しているので、子がいても95年で
はまだ未成年である} Elisabeth Denis Tremaultとは恐らくVendome生まれのElisabeth Denis de Tremault 1751-1829のことで、サン・ルイ騎士でルイ16世の
近衛銃士{noirの方}だった人物。複数の系図を参照すると母親がDenise Francoise Canet du Gay 1778没{1720生とだけある系図もあり、総合すると1720-78
となるか。また1755没とする系図もあり} あるいはCanet des Gayとある。そしてその母親の両親はN. Canet du GayとCharlotte-Francoise Guietとあり、綴字の
多少の相違はあっても、この母親はこの人の姉と推定できる。系図ではこの母親の兄弟姉妹は、平貴族で1751年国王評定官だったDenis-Martin Canet du
Gay 生没年不詳、Elisabeth Canet du Gay 生没年不詳、とあり、前記のパリ公記録にある1717年生まれの兄Denis Martinの名が確認できる。
 また他の相続人であるLeclerc de Lesseville姓の者は、恐らくパリ高等法院評定官でマルタ騎士で革命中は亡命していたAnne Charles Guillaume Leclerc de
 Lesseville 1755生 と思われる。この人物は1783年Eure-et-LoirのTrancrainvilleでDame de Trancrainville,Francoise Marie Rosalie Canet Dugay 生没年不詳
と結婚している。このTrancrainvilleはこの人の父親が領主をしていた地であり、このFrancoise Marie Rosalie Canet Dugayについては複数系図が生没年・両親
等を不詳としているが、60年前後の生まれとすれば、この人の姪か娘だが、この人の結婚が78年だから前者である可能性が高い。
相続者として甥であるElisabeth Denis de Tremaultとか姪らしきFrancoise Marie Rosalie Canet Dugay夫妻が記録されている点から、晩婚ゆえ子はなかったの
かも知れない)

286. ニコラ・リュクネール LUCKNER (Nicolas), 72歳。フランス元帥で大将。
(Johann Nikolaus von LucknerもしくはNicolas de Luckner 1722-94  1月12日生まれなので71歳。
 父親は宿屋と醸造所経営者で市会議員Samuel von Luckner 1683-1730。母親はMaria Franziska Billich 1690-1736。六男二女、あるいは六男一女の五男。
長兄はJosef Abraham 1709-65はOsterreichのAggsbachで56歳で没している。次姉はMaria Klara 1713-47。次兄Wolfgang Samuel 1715-94はバイエルンの
Koetzingで没している。兄Johann Wolfgang 1717-84。兄Franz Bonaventura 1719-48は28歳で早世。弟Franz Joseph 1724-94は1749年Anna Maria Huber
と結婚後、姓氏不詳の女性と再婚し一男をもうけている。{94年に高齢ではあるが三兄弟が亡くなっている} 他は夭折か全体的に詳細なしで内容が不詳。
 この人はJeanne Cuijpers 1725-89と結婚し、二男二女をもうける。{他にCatherine Schwarzkopfという生没年・詳細不明の女性との間にJeanne de Renckul
とSamuel de Renckulという一女一男がいたとあり}
 長男Nicolas 1750-1824はComte de Luckner{Graf von Luckner,Nikolaus}となり、デンマーク評議会員で、1799年SchleswigのHusbyでAdamine de Wedell
{Adamine Gottlobine Grafin von Wedel-Wedelsborg}1760-1832と結婚、三女三男をもうけ下記の第一次大戦で活躍した海軍士官Felix von Luckner伯爵の
曾祖父となる。父処刑一年後に議会が名誉回復を決議し、元帥杖と任命証書を返還したのはこの長男に対して。長女Jeanne 1753-1810は1772年Holstein
のBlumendorfでJoseph de Maltzan 1735-1805と結婚、三子をもうけている。次女Sophie 1759-1847はFrederic-Louis de Molkte 1745-1824と結婚し一女を
もうけた。次男Ferdinand 1762-1815はハーグ駐在デンマーク大使となり、Hedwige de Broembsen{Hedwig Grafin von Bruman}と結婚し二男一女をもうけた。
 以下日本語WiKi、英語版、フランス語版内容を編集。
 この人はバイエルン東部のヒャムChamで市民の家に生まれた。パッサウPassauのイエズス会の修道院に入れられたが、やがてそこを抜け出してオランダ
軍の騎兵隊に加わった。その後ハノーファー軍に加わり、フリードリヒ2世のもと軽騎兵隊の指揮官として対フランスの立場で七年戦争を戦う。
 ロスバッハでの有能さと七年戦争中の功績を認められて1763年6月20日、フランス軍に中将として仕官した。1778年にルイ16世によって男爵になり、1784年
デンマーク王から伯爵の爵位を授けられる。
1789年、フランス革命が勃発すると、革命政府を支持し、1791年に陸軍元帥に列せられた。92年陸軍大臣ナルボンヌは国会で「リュクネールは発音よりもフラ
ンスの心を持っている」と発言した。1791年から92年5月にかけて、ライン方面軍司令官に任命される。
4月24日、フランスがオーストリアに宣戦布告したとの一報がもたらされた。ルージェ・ド・リール大尉はライン方面軍の行進歌として『ライン軍のための軍歌』
{Chant de guerre pour l'armee du Rhin}を作詞作曲し、司令官のリュクネールに献呈した。後にこの曲がフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』となった。
92年5月、ライン方面軍司令官から北方軍司令官となったリュクネールは、フランドルのメナンやコーリックを攻略したが、逆にリールを喪失した。1792年8月、
ラファイエットが亡命した後、リュクネールはシャロン=アン=シャンパーニュの予備軍の司令官に降格された。国民公会はさらに彼の解任を考え、ピエール
・コデルロス・ド・ラクロにリュクネールを補佐するか、あるいは取って代わるように命じた。リュクネールは抗議のためにパリに向かった。しかし、ここで政府
に逮捕され、革命裁判所によって斬首を宣告された。1794年1月4日、リュクネールはパリでギロチンにかけられ、71歳で亡くなった。
  一年後、議会はリュクネールの名誉回復を決議。長男のGraf von Luckner,Nikolausに元帥杖と任命証書を返却する。これらの品々は1967年まで家族らの
手元に保管され、現在はパリ軍事博物館にある。
 出生地のヒャムCham市では、毎日12:05時、リュクネールを記念して、市庁舎のカリヨンが『ラ・マルセイエーズ』を演奏する。
 第一次世界大戦中に有名な仮装巡洋艦SMS Seeadler{1916-17}を指揮したドイツ海軍士官であるFelix von Luckner伯爵 1881-1966の高祖父{長男Nicolas
の三男Ferdinandの三男Heinrich Ludwig Wilhelm Georg 1833-1919の子}。またドイツ空軍少将Nikolaus Ferdinand Henry Ernst Otto von Luckner 1894-1966、
その弟ドイツ国防軍少将Wolfgang Alexander Wilhelm Hermann Graf von Luckner 1896-1971の先祖{長男Nicolasの三男Ferdinandの次男Carl Friederich Erich
 Alexander 1830-79[上記Heinrich Ludwig Wilhelm Georgの異母兄]の孫たち}でもある)

 Nicolas de Luckner .......................................................玄孫・Graf von Luckner,Felix von Luckner 
子孫・Wolfgang Alexander Wilhelm Hermann von Luckner

287. ボナヴァンテュール・ジャン・ジョゼフ・ミヤール MILLARD (Bonnaventure-Jean-Joseph), 46歳。地主。トロワ生。
(ボナヴァンテュール・ジャン・バティスト・ミヤール Bonaventure-Jean Baptiste Millard トロワの元検察官で代訴人。45歳とも。
 王党派脱走兵に弾薬を与えた罪で逮捕された。
1789年のTroyesとBarsur-Seineのバイイ裁判所管区三部会請願書にJean-Baptiste Finot, Nicolas Jaunon, Nicolas-Remi Niore, Edme Simon, Jean Charmantier,
Jacques-Edme Bouquet, Alexandre-Claude Paynと共に名がある)

1794年1月5日

288. ジャン・パティスト・エラール HERARD (Jean-Baptiste), 43歳。石鹸製造業。レテルRhetel生。
(Jean-Baptiste Herard 石鹸製造、piques御用商人。48歳とも。Ardennes県Rhetel{元マザラン公領の中心地}在住。1650年フロンドの乱でのRethelの戦いで
有名。93年当時人口4,512名。
共和国の敵軍の勝利に貢献、同胞を危険に晒した罪、また供給業者としての不正により処刑された。
公記録に同名者あるが、多い姓のため断定できず)

1794年1月6日

289. ジョゼフ・ベトー BETTAU (Joseph), 38歳。御者。サン・フレンボーSaint-Fraimbaut生。
(処刑簿原本にもJoseph Bettau フランス北西部Orne県Saint Fraimbault生まれ。しかし判決簿にも記載なく、その他の資料にもなく、系図もなし。処刑リストに
上記の項目のみの記載あるだけ)

290. マリー・ベトー BETTAU (Marie), 32歳。労働者。サン・フレンボー生。
(処刑簿原本にもMarie Bettau フランス北西部Orne県Saint Fraimbault生まれ。しかし判決簿にも記載なく、その他の資料にもなく、系図もなし。処刑リストに
上記の項目のみの記載あるだけ)

291. アンヌ・マンガン MANGIN (Anne), ベトーBettauの妻。 39歳。製糸工。フレモジFremoj生。
(Fremoy生まれとも。前二者らのどちらかの妻であるが、Fremoyはコート・ドール県で、オルヌのSaint Fraimbaultとは遠い。pileuseともあるがfileuse{製糸女工}。
前二者ら同様に、判決簿にも名がなく、その他資料、系図にも該当する者なし)

1794年1月7日

292. クロード・オーギュスタン・アンベール IMBERT (Claude-Augustin), 30歳。オート・ソーヌ行政官。ル・ピュイLe Puy生。
(Claude-Augustin Imbert Haute-Loire県の公会派遣の行政官。偽造旅券所持の罪で処刑。パリのMaubuee通りに在住。議会に任命された法科学生とある。
Le Puy-en-Velay{かつてはLe Puyとのみ呼ばれていた}はオート・ロワール県の自治体。
1792年9月のオート・ロワール県議会の保存議会文書に、Le Puy市長や検事等の職業にある7人の議員とその予備議員としてClaude-Augustin Imbert-Dupuy
の名がある。但し議席にはつかなかったと補足あり。
Le Puy-en-Velayの「革命の犠牲者」に職業は農業としてClaude Augustin Imbertの名がある。{但し17 messidor an II、つまり94年7月5日とある。判決簿の記載
は94年1月6日〜10日の欄に死刑とあり}
このリストにHaute-Saone行政官と記載されているのはHaute-Loireの誤記だろう)

1794年1月8日

293. カトリーヌ・ブタンジェ BETHINGER (Catherine), ラヴィオレットLavioletteの妻。39歳。商人。ブリュッセル生。
(Catherine Josephe Antoinette Bedtinger 1756頃{54とも}-94 Courtraiの商人。夫に告発され、敵との通謀罪で逮捕・処刑。
 夫はCourtraiで毛織物商を営んでおり、この妻同様にフランス革命を解放者として歓迎していた。93年3月にベルギーから避難した際に、Lilleに定住するよう
に勧められ、財産の一部を持ち出したが、残りの財産が危険だと聞き及び、この人は友人のJoseph Mandrillon{300}からBrunswick公とプロイセンのFrederic
大公の推薦状をもらって、それを取り戻すべく帰国した。そして帰ったところでMandrillon共々逮捕されて告発された。{Courtraiは当時、フランス革命軍と対仏
同盟軍との主戦場で、93年9月のCourtraiの戦いで革命軍は敗れている。翌94年5月のCourtraiの戦いで革命軍が奪還している。リールはフランス領内。従って
この時期では国外亡命に匹敵する行為、もしくは敵軍との通謀を疑われても仕方ない行為となろう} 300参照。ブリュッセル生まれでヴェルサイユ在住とも。
1772年ベルギーにてCourtrai生まれのAugustin Joseph Xavier Laviolette 1816没 と結婚し、三女一男をもうけた。夫の長兄Jean Augustin Josephはフランドル
評議会とダンケルク大法廷の弁護士をしている。系図にはこの人の両親は不詳になっている。
 長女Julie Josephe Jeanne Antoinette 1849没 は1795年か96年にBruxellesで王立タバコ工場管理者Henri Joseph Alexis Playoult 1769生 と結婚し一女を
もうける。次女Marie Therese Josephine Antoinette 1774-1847は1794年か95年にBruxellesでヴェルサイユの軍事代官Intendant MilitaireであるBaron Robinet,
Charles Marie Robinetと結婚し一男三女をもうけ、ヴェルサイユで亡くなっているが、長男Baron Robinet,Charles Felix Napoleon 1811生 は准将。三女Marie
Charlotte Antoinette Josephine 1863没 はLouis Francois Perregauxと結婚し二男二女をもうけた。長男Francois Joseph Antoine Augustin 1776頃-1813は、
Saratoff総督とあるが、1812年にロシアのSaratovをフランスが侵略した時の総督か? 1813年6月5日にロシアのPetroskinで亡くなっているし。
 判決簿にはBedtingerの妻Catherine Laviolette 無職、とあるが1777年に送られたAugustin Lavioletteから妻Catherine Bedtingerへの手紙という書物があり、
またHistoire du Tribunal revolutionnaire de Paris avec le Journal de ses actesという書物にも、ベルギーの西フランドルのCourtraiの元商人Lavioletteの妻
Catherine Bedtingerとあるので、このリストの記載が合っていると思われる。
ブリュッセルの公記録にCatherine J A Bedtingerの出生と洗礼記録があり、1754年2月3日とある。この記録が本人のものであれば、このリストの処刑時39歳
は正しいことになる。Catherine Josephe Antoinette Bedtinger 1754生 としている資料もあり。また1月7日処刑とする系図や資料もある。
 死刑宣告を受けたばかりの時、この人はパリのHotel Grange Bateliereにいた夫に手紙を書いている。(ブラン「最後の手紙」ではない)
 そこには、「あなたは私の無実を証明するためにダントンへ送ったあなたの可哀相な父親は来ていないようです。あなたの無実の母親を守って下さい」とあり、
また愛するAngeliqueは釈放されました。{原本の注釈には、Rousseの妻Marie-Madeleine Ferriereのこと、とあり、確かにこの人と同日の判決で、Ferriere未亡人
Marie-Madeleine Derousseという女性が釈放されている}公会に言って、私がどれだけ無実かを話して下さい。公会への無実を証明するための猶予の申請を
同封してあります。夫の嫉妬に煽られて愛する家族と離れ離れにされ、その不平等に苦しみの声をあげました、私の無罪判決は、夫の腕の中に私を戻すことで
待ちきれません。---それを必要としている子供たちにこの可哀相な母親を戻してあげて下さい、愛されるに値する妻を夫に元に、と書いてあります。あなたは
父親であり夫であるのです、その心にそれを問うてください。私はあなたの{公会への}懇願に値します」と記されている。これを見ると、300のJoseph Mandrillon
と一緒に帰国した行為に夫が嫉妬して、共々告発したとも推測できる)

294. カミーユ・カピサンシー・ボローニュ BOLOGNE (Camille-Capisinchy), 78歳。ラングルLangres生。
(ボンヌクール侯爵シャルル・カミーユ・ド・ボロー二ュ・カピスッシー Marquis de Bonnecourt, Charles Camille de Bollogne Capissuchy 1717-94 元貴族で騎銃兵
大尉。シャルル・カミーユ・ド・カピズッチ・ボローニュ Charles Camille de Capizuchi-Bologneとも。
 Penthievre騎兵連隊に入隊し、1735年に大尉任官。結婚{1745}後は森のあるEcotの地で狩猟に明け暮れて穏やかな生活を送る。6年間の幸せな結婚生活
だったが、51年妻を出産で亡くす。{後述の次女Marguerite Francoiseの出産時} 悲しみでEcot{現・Ecot-la-Combe}の地を引き払い、Thivetに移る。以来、たま
に狩猟で悲しみを紛らわす姿を見掛けるだけとなった。1781年長女Monique Marie Charlotteの結婚後{次女は74年結婚しており、長男は73年25歳で早世して
いる}、子供たちが去ると、この人はMaracの森の真ん中のMalvoisinと呼ばれていた土地に質素な住居を立てて、Beauvoisinと地名を変えて孤立した生活を始
めた。この人は男爵と呼ぶが実際は女性である相手を伴侶とし、老いらくの恋の生活に入る。1787年パリに旅行した時に、偶然に従弟のJean-Baptiste de
Bologne士爵{後者}と神父のNicolas Vincent de Bologne師{296}と出会う。{この二人は他系図で確認、前者は甥で、後者296は従兄弟の子} 二人は慎ましい生活
をしていたので、この人は二人に年金を支払った。革命初期に、特に南部気質で活発なNicolas Vincent de Bologne神父の過激な意見に影響され、また手紙の
やりとりもし、また発刊物の協力もした。しかしそれらの手紙の写しが原因となり、反革命家との共謀、侯爵の身分を違法に名乗ったとして、後二者共々、逮捕・
処刑となった。
 また1754年、この人はClefmontの森での狩猟の帰りに、名高い密輸業者Louis Mandrin率いる300人〜400人の群れと遭遇し、マンドランは「あなたはボローニュ
侯ですね。軍隊では最高の将校の一人です。是非、少しの間、この部隊を指揮してくれませんか?」と言われ、この人は喜んで30分ほど指揮を代わり、その後に
厚く挨拶してマンドランと別れた。翌日、差出人不明の沢山の密輸タバコとイギリスの高級レースが届けられたという逸話がある。
 父親はトゥールーズ騎兵連隊大尉二代目Marquis de Bonnecourt,Camille Antoine de Bollogne Capissuchy 1686-1745。母親はAnne-Francoise de Cultz de
Deuilly 1727没。この結婚で一族はCemboing男爵領を得ている。一男一女の長男。{他系図では三男二女の長男で一男一女は夭折}この父の肩書にBaron
d'Ecotとある系図があるが、1735年伯母{叔母}であるElizabethから継承したseigneurie d'Ecotのこと。系図によっては、弟Jean Honore 1724-52がおり、この
弟はMarie Signoretと結婚し一男Antoine 1743-1805をもうけたとある。また別系図ではアントワーヌの他に夭折含めて三男、合計四男をもうけ、末子Jean
Baptiste 1752-94が後者となる。つまり従兄弟ではなく甥だ。
 妹Anne Antoinette 1720-98は1740年LangresでLouis de Foudras 1710-56と結婚、一女二男をもうけている。
 Capissuchy{Capizucchi、Capizuchi、Capisuschi、Capisucchiとも}家はイタリア・ロマーノ地方の貴族の家系。Bologneの綴字は、この家系もBollogneと記される
ように、他にBullen, Bulen, Bullan, Bulloyne, Bouleyne, Bulleyn等の変異を見せて各国に伝わり、イギリスでは王妃Anne Boleynが有名。イギリスから17世紀には
アメリカ各地に広がっている姓。Haute-MarneにBologneという自治体もある。
 この人の家系は16世紀にプロヴァンスで成立したイタリア・ボローニャのCapizucchi家の子孫の家柄。しかし系図で一番古いPierre de Bollogne Capissuchyは
生まれはイタリア北部Emilie Romagne地方の首都Bologneであるが、1480年にAlpes de Haute ProvenceのBarcelonnetteで結婚しており、以降はBarcelonnette
に定住しているようだ。他の資料でもCapizuchi家のフランス起源は、このPierreのBolonaise分家の設立である、とある。16世紀に祖先の発祥地から家名をとり
Bologneを名乗り、一族は連隊長、総督、国王顧問官、国王給仕官を輩出しつつ栄えていきBonnecourt、Poinson、Sarrey、Andilly、Poiseul、Vesaignes、Fresnoy
を領有、296が名乗っていたLe Planも同様である。1647年には一族の娘の一人がComte d'Ambonville,Alexandre de Choiseulに嫁いでいる。
 この人の祖父Pierre Gaston de Bollogne Capissuchy 1652-98が軽騎兵大尉でアルザスの作戦での軍功と1685年のフォンテーヌブロー王令への署名{新教徒
だったので改宗だろう}によりBonnecourt, Thivet, PoinsonそしてAndillyに侯爵領が設定された。また1768年Marquis de Bologneが認められ、1774年と1780年に
更新されてもいる。Choiseul , Choinou, Maracq等も領有。
 この人で三代目Marquis de Bonnecourtだった。妹Anne Antoinette 1720-98はFoudras家に嫁いでいる。この人の次女もまた同家に嫁いでおり、同家は男子
継承者がいなかったこの人の相続人となっている。
 この人は1745年MeuseのChassey-BeaupreでComte de Choiseulの娘Francoise-Antoinette de Choiseul-Beaupre 1718頃-51と結婚し、二女一男をもうけた。
{この年のフォントノワの戦にこの人は従軍している}
 資料には男子継承者はなしとあるも、Luneville親衛騎兵士官となったCharles Joseph 1748-73が他の系図にはある。但し25歳で亡くなっている。また更に別の
系図では加えて1749年生まれのCharlesがおり、Metz連隊砲兵大尉でサン・ルイ騎士となっている。没年はない。二男二女だったのかも知れない。長女Monique
Marie Charlotte 1746-1811はPoulangyの女子教会参事会員で、1781年Vicomte de Messey, Ignace Paul Simon de Messey 1749生 と結婚し{彼女は35歳の
晩婚だった}、一女一男をもうけ、長女はColigny-Chatillon家に嫁ぎ、長男はBassompierre家から嫁を娶り、合わせて26人の曽孫に恵まれている。次女の
Marguerite Francoise 1751-94は、姉より早く1774年従兄{この人の妹の息子}で王室ピカルディー連隊騎兵大尉Alexandre Henri de Foudrasと結婚し、二女三男
をもうけた。この夫は91年亡命し、92年亡命軍に加わっているが、妻であるこの次女が94年11月7日亡くなっているのはドイツのヘッセン地方Hanauなので亡命
先で没したと思われる。またこの夫は死別後の96年ポーランド生まれのMarie Antoinette de Schlegenbergと再婚するが、次男のLouis Theodore Auguste de
Foudras 1800-72は名高い小説家となり、その狩猟小説は有名だが、そのモデルとなった人がこの人で、戦争と狩猟と恋の物語が展開している。{父方祖母の
兄にもあたる。つまりこの人の妹でLouis de Foudrasに嫁いだAnne Antoinette 1720-98の孫がこの作家}
 この人はJe donne mon ame a Dieu, mon coeur au Roy et mon cul a la republique !{私は魂を神に捧げ、心は国王に捧げ、そして共和国にはケツを捧げる!}
と言い残したという)

妹の孫・Louis Theodore Auguste de Foudras  

295. ジャン・パティスト・ボローニュ BOLOGNE (Jean-Baptiste), 41歳。ラ・ローズLa Lauze生。
(ジャン・パティスト・ カピスッチ・ド・ボローニュ Jean Baptiste Capisucchi de Bologne 1752-94 元聖職者の士爵で、フランス衛兵隊士官もしくは軍曹。84年3月
6日付のパリ公記録では、Embrun司教管区の助祭補佐とあり、92年5月31日付Saint-Sulpice教会記録では同司教管区の聖職者とある。前者の甥。系図には
スイス衛兵隊の軍曹とある。Barcelonnette裁判区のLa Lauze生まれ。4月20日生まれだから処刑時41歳。
教会記録にはJean Joseph Capissuchy de Bollogne。パリの婚姻関係の公記録にCharles-Louis-Alexandre de Bollogne-Capizuchi、1787年5月20日生まれは、
フランス衛兵隊軍曹Jean-Baptisteの息子という記載がある。
 父親はJean Honore Capisucchi de Bologne 1724-52{前者の弟}。母親はMarie Anne Signoret。四男の末子。
長兄Antoine 1743-1805は1764年Alpes-de-Haute-ProvenceのJausiersでVictoire Fortoul 1743生 と結婚、四女二男をもうける。次兄Jean 1744生 は未詳女性
と1765年結婚し一女をもうけた。47年生まれの兄は夭折か詳細なし。
 この人は1792年ParisのSaint-Sulpice教会でAnne Charlotte Bocquetと結婚し、一男Charles Louis Alexandre Capisucchi de Bologne 1787-1847をもうけたと
あるから、上記のパリの公記録の内容と合致する。尚、この息子は姓氏不詳の女性と結婚し一女Blanche Josephine Fidelite 1825-66をもうけた。
 系図には「スイス衛兵隊軍曹」とあるが注釈には、パリに住むフランス衛兵隊の元士爵の将校とある。外部の敵と通謀した陰謀者として1794年1月6日死刑
判決とあるが、同じ注釈には、94年1月8日ではなく1月18日に前者と共に逮捕されたとある)
 
296. ニコラ・ヴァンサン・ボローニュ BOLOGNE (Nicolas-Vincent), 33歳。聖職者。デュプランDuplan生。
(二コラ・ヴァンサン・カピスッチ・ド・ボローニュ Nicolas-Vincent Capisucchi de Bollogne 通称デュプランDuplan  Bicetre助任司祭で聖職者。 1760頃-94
 父親はJean Baptiste Capisucchi de Bollogne 生没年不詳。母親はMarie Signoret。母親は前者の母親と姻戚だろう。祖父のAntoine Capisucchi de Bollogne
1739没は、294の伯父で、初代Marquis de Bonnecourtの次男である。つまりこの人は294の従兄弟の子という関係であり、資料にあるような「従弟」ではない。
 二男の次男。兄Joseph 1792没 は、第103連隊Eguilly中隊中尉だった。
 Barcelonette小郡のDuplanに生まれ、Bicetreの助任司祭としてパリに在住。{Bollogne Capissuchy家はseigneur du Planでもあった}革命裁判所で3年間禁止さ
れている侯爵や士爵の称号を使った手紙の保持と蜂起を企図した罪で1794年1月6日に逮捕。
 294が1787年パリに旅行した時に出会い、年金を支給してもらった。南部気質で活発な性格で、革命当初から反政府活動を行っており、294との手紙の写しや
刊行物の協力によって、前二者らを巻き込み、共々処刑されるに至った)

297. ジャック・ジロー GIROUARD (Jacques), 36歳。印刷業。シャルトル生。
(Jacques Girouard 1757頃-94 Jean-Joseph Girouardとも。判決簿にはJoseph Girouard。
1789年から1792年8月10日までの「Gazette de Paris」の印刷者。君主主義者の定期刊行物の印刷者として、また反革命の兆候を印刷したとして、革命裁判所
から死刑判決を受ける。1794年1月9日執行とある。36歳とも。未亡人は1794年9月-95年9月まで事業を継続した。
Marie-Nicolas-Silvestre Guillon、Auguste-Louis Bertin d'Antilly、Jean-Baptiste Helie、Johann Heinrich Meibom、Patrice-Gabriel Bernard de Montessus Rully、
Donatien Alphonse Francois de Sade、Francois-Louis Suleau等の著作を出版していた。
出版印刷業者一覧にもJacques Girouardで名があり、1757?-94とあり、1790年には「国王の言葉」「教会財産売却についての論文」など発刊している。
革命によって解放されたサドは、1791年に彼の小説の印刷をこの人にに委託しました。 1793年、出版物がまだ日の目を見ていなかったとき、この人は王党派
の定期刊行物であるGazette de Parisを印刷したことで告発され逮捕された。この人はその同じ年の1月にギロチンとなり、サドは1794年12月に解放され、
封印された出版を再開することができた。 1795年8月、この人の未亡人は密かに小説の印刷を終えた。そこでこの著作「アリーヌとヴァルクール、または哲学
小説」は、下に「フランス革命前バスティーユ牢にて執筆」と付記され、1795年ジロー未亡人図書、と表紙に印刷されている。{94年12月に解放とあるが、93年
12月に反革命容疑で投獄されていて、テルミドールで恐怖政治が終焉し、94年10月にようやく監視委員会がサン・ラザール牢の彼を釈放させた}
 この人は、反革命的貴族の作品と恥知らずで反革命的である猥褻さに彼の出版を捧げたとしてギロチン刑となった。このような道徳感で共和党員になることは
あってはならない、と。そもそもパリ・ガゼットの印刷が問題視されていた)

298. ジャン・ルブーフ LEBEUF(Jean), 38歳。製本屋。パリ生。
(Jean Lebeuf  製本業者。
判決簿には名がない。後者のようにGazette de Parisの予約者が判決簿に並んでいるし、前者の関連業者としての処刑かと感じたが、資料には1794年1月6日、
偽アッシニャ紙幣製造の罪で処刑された製本業者とある。系図はなく、パリ公記録にも同姓同名者はいるが、多い姓なので特定困難)

299. マリー・エドメ・ルロワ LEROY (Marie-Edmee), フーシェFeucherの妻。 50歳。婦人装飾業marchande de modes。
(Marie-Edmee Leroy Feucherの妻{恐らくFeuchereが正しい}  悪名高いDurosoy(Barnabe Farmian Durosoy 1745-92 詩人・劇作家・小説家。1789年王室主義
者の刊行物Gazette de Parisを発刊。革命で初めて処刑された政治評論家)の作製したGazette de Parisの定期予約購読者eceveuse des abonnementsとして、
その印刷業者の297と同時に死刑判決を受けた。
 パリの公証人Jean Denisの公証記録に1764年6月3日付のFrancois Joseph FeuchereとMarie Edmee Leroyの結婚記録がある。この場合、夫はジャン・
ジョゼフ・フーシェルとなる。また資料にも定期予約購読者Francois Joseph Feuchereの妻Marie Edmee Leroy...とあるので、1764年のこの結婚記録が二人の
ものであることは間違いない。他には夫名も含めて系図・資料はない。国立公文書館の革命中の資料としてはFeuchereの妻Marie Edmee Leroiとして記録
されている。
 尚、Gazette de Parisは1789年10月から92年8月10日まで発行された王党派新聞。Chalons-sur-Marne司教Anne de Clermont-Tonnerreによって編集され、
「愛国心、歴史、政治、美術に捧げられた作刊行物」として世に出る。サン・トノレ通りの王室厩舎の向かいに事務所があった。その出版主旨の反対者により
90年に襲撃されている。manifeste de Brunswickなども印刷された。92年8月10日事件の翌日に編集者Barnabe Farmian Durosoy{上記}が逮捕されて終わる)

300. ジョゼフ・マンドリヨン MANDRILLON (Joseph), 51歳。行政委員。ブールBourg生。
(Joseph Mandrillon  1743-94 オランダ商人とあるが、アムステルダムのフランス人銀行家。行政評議委員。Auvergne-Rhone-AlpesのAin県Bourg-en-Bresse
生まれ。Bourg-en-BresseにはJoseph Mandrillon通りがある。同地は革命中3回も改名されたが革命後にBourgの名に戻り、en-Bresseが加えられたのは1955
年以降である。パリのNeuve Saint-Eustache通り在住。8月6日生まれなので処刑時50歳。293参照。
 commissaire du pouvoir executif{行政評議委員}は、92年9月より派遣が開始され、93年4月公会により廃止、同年12月に全員引き上げとなった軍事監視・
諜報機関。この人は93年3月にリールに派遣されている。293のCatherine Josephe Antoinette Bedtingerがベルギーからリールに避難したのと同時期である。
前線での軍事諜報の委員が、そこで彼女にベルギー行きの手伝いをすべく、敵将であるBrunswick等の推薦状を手配した、あるいはベルギー入りに同伴した
となれば、告発されても仕方ない行為となる。事実とすればかなり大胆な行動である。
 父親は建具職人親方Etienne Mandrillon。母親は Claudine Guereux。兄弟姉妹・結婚記録は系図になし。
 革命前にアメリカを訪れて、以後アメリカの動静に強い関心をもっいた。アムステルダムからジョージ・ワシントンに宛てた1784年6月11日付の手紙が残って
おり、ニューヨーク在住の友人である商人のEbenezer Brushからジョージ・ワシントンの肖像画をもらったこと{この肖像画は不明}は自分とその家族にとっては
あなたへの敬愛の記念碑であること、またアメリカでの業績を個人的な通信で確認している。{90年6月30日の手紙で、ワシントンの業績が公的に報道される
ようになったので、私的通信でのやりとりを中止することを書き送っている} またワシントンはMount Vernon{ヴァージニア州の彼の私邸のあった所}から1784年
11月25日に返信を書いており、感謝の手紙をこの人に送っている。また1788年8月29日付のワシントンによるMount Vernonから宛てられた手紙では、この人を
あなたは世界的な愛国者で、アメリカ合衆国の大義に対してあなたの行った努力に感謝します、とあり、マサチューセッツ事件で敵側報道が広めた醜聞に対し、
この人の行った努力に感謝を表明している。1784年この人はワシントンの特徴について以下のように述べている。「堂々とした体躯で、高貴でバランスの取れた
開放的で落ち着いた表情ですが、印象的な特徴はありません。彼から離れると、立派な男の記憶だけが残ります」(Joseph Mandrillon、1784)。
 革命勃発でパリに戻り{まだ89年アムステルダムで結婚の立会人などしている}、立憲王党派貴族らと親しく交わり、Brunswickとの通信を告発され処刑された
とある。293の財産確保のために、Brunswickの推薦状を依頼し、共にベルギーに旅した経緯により、293の夫にその妻共々告発されたが、Brunswickとの通信は
反革命的な意図ではなく、この夫人{293}の為のものだったのかも知れない。しかし軍事諜報機関の委員{行政評議委員}としての派遣先での斯様な行動{上記}
が危険なことであるのは言うまでもない。
  文学者ともあるのは、84年〜91年に書かれたアメリカ事情やベルリン旅行記やオランダ革命や愛国心についての著書が多々発表されているからだろう。
 アムステルダムに銀行支店を開設し銀行の設立を目的に渡米したとある。またシンシナティ協会への加入を熱望しており、議会が資格審査における支障を
取り除いてくれると期待していた。Bourg en Besseのアカデミー会員で、アメリカ哲学協会会員で、オランダ王立科学協会会員として1785年から94年まで外国人
会員となっている。
 Societe des Cincinnatiのフランス人会員の中にこの人の名はない。1787年5月18日付のシンシナティ協会総会報告書に、マンドリヨン氏の申請の却下が
記録されている。{Proceedings of the General Society of the Cincinnati, 1783-1902}
下の肖像画はchateaux de Versailles及びTrianon所蔵のJoseph Mandrillon 1743-1794のものであるが、「革命中の人物・旅行者・作家」として分類されている)

 Joseph Mandrillon

1794年1月11日

301. アドリアン・ラムーレット LAMOURETTE (Adrien), 52歳。ローヌ地区司教。フレヴァンドFrevande生。
(アントワーヌ・アドリアン・ラムーレット Antoine-Adrien Lamourette 1742-94  Pas-de-Calais県Frevent生まれ。5月31日生まれなので51歳。
 父親は職人Jean Francois Lamourette 1707生。母親はJosephe Bardou。九男一女の五男。
 長兄は夭折か生年以外の詳細なし。次兄Antoine Francois 1733生 はFreventで1756年Jeanne Francoise Lariviere 1732〜34生 と結婚し、二女二男を
もうけている。弟Constant Louis 1745生 は1782年FreventにてCatherine Facheと結婚、一男をもうけている。弟Jean Baptiste 1746生 は1784年Henriette
 Facheと結婚している。他の兄弟姉妹は夭折か生年のみの記録だけである。
 慎ましい職人の家に生まれ、1759年ラザリスト会に入る。69年司祭となる。アラスの第一助任司祭premier vicaireとして1772年、メッスのラザリスト神学校
の哲学教授となる。4年後トゥールのラザリスト神学校に転勤し、伝統的神学に疑問を感じ、啓蒙思想と宗教の調和を目指す。後に球戯場の誓いで合流する
第一身分議員Henri Gregoire神父なども学生として影響を受ける。1776-77年勤務するも、教授らと対立しラザリスト会を去り、人口357人程度のHaute-Marne
のOutremecourtの司祭となる。84年トゥール教区に入る。83年からはパリに住み、Chaillotの礼拝所守chapelainとなり、著書の刊行を始めた。貧しい信者を
圧し潰すような教会の繁栄を糾弾する。無神論の哲学者と闘う一方で自然と宗教を愛するルソーを支持し、高位聖職者らの特権の制限を主張した。そして
1787年アラスのアカデミーに入った。
 89年革命が勃発すると、バスティーユ襲撃を擁護し、ユダヤ人の平等を主張し、教会財産の世俗化を求めた。ミラボーと協力し、聖職者の市民憲法への宣誓
が革命の原則と同様にキリスト教の原則とも両立すると主張。1791年3月2日自らがリヨンの憲法司教となる。同年11月立法議会のRhone-et-Loire選出議員と
なり、演説で初めてキリスト教民主主義の表現を使った。1792年7月7日の会期中、祖国は危機にあり、議会で論争が展開している中、彼の奨めで「ラムーレット
・キス」le baiser Lamouretteで、敵対する議員同士が敵同士で抱擁しキスをした。
 92年9月虐殺に抗議し、ジロンド派と連携しリヨンの連邦主義反乱を支持したため、1793年9月29日にリヨンの近くで逮捕され、パリに移送され、革命法廷に
よって裁判にかけられ、死刑を宣告された)

 Antoine-Adrien Lamourette

302. ピエール・マノエル MANOEL (Pierre), 53歳。 サント・リュシー島司令官。ラ・サール生。
(エティエンヌ・ド・マノエル Etienne de Manoel 1740-94 植民地参謀部員の軍人。Sainte-Lucie島{西インド諸島の仏植民地。現・英領}の行政官。
7月5日生まれなので53歳。LanguedocのSalle生まれとある資料もあるが正確にはLasalle。
 父親はLa Graviere領主Louis de Manoel 1708-73。母親はCatherine Teule 1710生。{この女性は長男のみの母親で、姓名不詳の後妻がこの人以下の四男の
母親だとする別系図もあり}
 五男の次男。{上記別系図では兄Louis 1738-1817は異母兄となる} 兄Louis 1738-1817は de Manoel de La Graviereを名乗り、1771年Jeanne Boissiere 1817
以前没 と結婚し、三女三男をもうけ、郷里Lasalleで没している。この子孫はManoel Saumaneとして現在に至るまで続いている。弟Charles-Louis 1741-1819は
1782年LasalleでCatherine Donnadieu 1749-94と結婚し、一女をもうけ、郷里Lasalleにて没しているが、後記にあるように工兵将校になっている。またLasalle市長
にもなっている。94年没の妻も同じくLasalle没。弟Pierre 1743-91は後記にあるようにドイツ大使館に勤めたが、結婚記録はない。末弟Francois 1746-80は
Manoel de La Graviere de Vegobreを名乗り、下記のようにアメリカで戦ったが、やはり結婚記録はない。また長兄Louisと三男Charles-Louisの妻子が入りくりして
いる系図もあり。
 この人の結婚記録はない系図が多いが、Louise de Savinという女性と結婚していたとする系図あり、子の記録はなし。
 この人の一族はラングドックの貴族家系。1558年のPierre Manoel以来の血統証明があり、三つの分家に分かれた。この人は1718年貴族となった「Blaquiereと
La Graviere」系に生まれた。
 この人の親兄弟の何人かはHainaut連隊に奉仕した。弟Louis Charles 1741-1819は工兵将校で、もう一人の弟Pierre 1743-91はドイツ大使館勤務、三番目の
弟Francois de Manoel de La Graviere de Vegobre 1746-80はHainaut連隊大尉としてアメリカで戦い、独立戦争でも最も流血の多かった戦いの一つSavannahの
戦い{1779年9月16日-10月18日}に参加している。{80年1月29日没だがアメリカのSavannahを没地としている系図もあり}
 この人は1779年Hainaut連隊将校から少佐に任官。82年グレナダの副司令官、サン・ルイ騎士、歩兵大佐となり、84年Sainte-Lucieの特任司令官、89年に
同島の臨時司令官となった。
 79年のグレナダ占領時、フランス軍の前衛部隊の副司令官として名を馳せたとき、Hainaut連隊の大隊を率いていた。その後、副司令官となる。グレナダを
イギリスに、Sainte-Lucie島をフランスに戻した1783年の和平で、この人はSainte-Lucie島の特任司令官になる。1789年4月のLa Borie{Baron de La Borie,Jean
 Zenon Andre de Veron de La Borie 1733-89 1783年7月19日着任、89年4月14日没}の死後、Gimat{Jean-Joseph Soubader de Gimat 1789年6月21日-1792年
6月3日在任}が着任するまで植民地の指揮官の職務を引き継ぐ。1790年、マルティニークの騒動{83年マルティニークの総督に着任したダマ子爵は、国王の権威
を維持し奴隷制廃止に抵抗して共和国と対立、暴動を鎮圧して植民地の治安を回復}の最中に、この人はDamas総督の努力を支援するために当地に赴任。 
この人は立派な活躍を見せた。「騒動中、常にM. de Damasと一緒にいて、氏にとって無限に役に立ちました。彼は一貫して住民の運命を共有しており、彼は
植民地運営に値しました」とある。1794年1月、パリの革命裁判所がこの人を「共謀者」として死刑に処した。「フランスに戻った彼は共和国との戦いを続けていた
わけである」とある。
 系図注記にアメリカ独立戦争でMarquis de Saillans,Charles Henri d'Estaing海軍中将{771}指揮下のフリゲート艦La Guerriereに乗船していたとある。この海軍
中将はこの人の弟Francoisも参加したサバンナの包囲戦の敗将でもある。
 ウィンドワード諸島Iles du Vent中将Vicomte de Damas,Claude Charles{771}への1784年2月29日付報告書に、元グレナダ司令官Manoel氏がSainte-Lucie島
総督のLa Borie氏と経理監督官Masse氏と共にSainte-Lucieをマルティニーク総督府から離脱させる行政改革を推進しているとある)

1794年1月12日

303. ジャン・ジャック・デュラン DURAND (Jean-Jacques), 33歳。モンペリエ裁判所長。モンペリエ生。
(ジャン・ジャック・ルイ・デュラン Jean-Jacques-Louis Durand 1760-94 モンペリエ初代市長{1790-93}。弁護士、モンペリエ会計租税財務評議官。
5月4日生まれなので33歳。90年2月28日{1月25日とも}に市長就任。93年10月23日には後任Jean-Pierre Gasが着任している。
 父親はモンペリエの仲買人で同市の取引所長でルイ16世によって1789年4月30日貴族に列せられたRaymond de Durand 1719-89。母親はJeanne-Marie
Plagniol。父親は1773年から1774年の冬にラングドックを飢饉から救ったことで評価され、貴族叙任に至った。Seteに出張所、MarseilleとPalermeに子会社、
Perpignanに支店を出店して父親は親から引き継いだ「フランソワ・デュランとその息子」商社の事業を拡大した。この人自身Aleyrac,Lunel-Viel,Saint-Justの
領主でもある。また父親は最初にElisabeth Bourdetという女性と結婚歴があったが、子の記載はない。
 兄弟姉妹の記録は系図にはない。
 この人は1785年Marquis de Saint Mauriceの末娘Pauline de Barbeyrac de Saint-Maurice 1766頃-1844と結婚。妻の兄Marquis de Saint Maurice, Charles
de Barbeyrac de Saint-Maurice 1754-1834は89年三部会貴族議員で旧体制派議員で1793年家族と亡命している。他の兄Chevalier de Saint Aunes Saint
Maurice,Joseph Henri 1760頃-1832も91年亡命している。
 三男一女をもうけた。長男Louis-Marie-Raymond 1786-1837はポーランドのフランス領事となりレジオンドヌール叙勲、スペインのバルセロナ生まれのMaria
 Dolores Josepha Cutitta 1792頃-1843と結婚、二男をもうけた。長女は夭折か生没年含め記載なし。次男Aime Joseph Hippolyte 1790-1817は1816年
Montpellierでモンペリエ仲買人でインドの工場主の娘Suzanne Eugenie Joseph Martin-Portales 1792-1871と結婚したが、子の記載はなし。このAime Joseph
Hippolyteは不動産所有者として記録されているが、母親のJeanne-Marie Plagniolはモンペリエ近くのVendargues{93年人口426人の自治体}に何かしら縁があり
{Vendarguesの歴史を調べている人が18世紀の住人にCatherine Plagnolという女相続人を見付けている}、またこの妻も父親が革命後に
Vendarguesに資産を購入し、二人の娘が相続するが、その一人が妻のSuzanne Eugenie Joseph Martin-Portales。妹Francoise Charles Anne Caroline{1878没}
はSalvans夫人。妻は実父と27歳で早世した夫の死後も家族のための礼拝堂を建てたり、町の新教会建設に多大な寄付をし敬虔に過ごした。1846年St Thomas
-de-Villeneuve女子修道会が運営する学校の土地を寄贈している。またVendargues墓地にある大きなDurand礼拝堂に、この妻は夫や妹夫婦と、また一族の
関係者と共に眠っている。この夫婦には子はなく、妻の甥が遺言書により資産を相続している。
 末子で三男Jean-Aime-Marie-Paulin 1793-1873は不動産所有の賃貸業者で、スペイン王カルロス3世勲章叙任騎士{1771年カルロス3世の王令により設立。
スペイン王家への貢献への報償}。結婚記録はなし。この末子が未記載の系図もある。
 この人はリヨンのオラトリオ会、ついでモンペリエで法律を学び、1783年年齢規制免除を申請して訴願審査官の職を購入。88年12月Puissantの部長職を購入
する。まだ28歳だったが部長職への就任の許可は国璽尚書より下される。89年個人費用で水道橋を建設し、川を迂回させて都市の溝の埋め立てを行う。
  1790年1月25日、モンペリエの市長。{2月28日とも}1793年5月31日以降、連邦主義の主要な指導者の1人となる。人民議会の中央委員会の委員長となる。
1793年7月9日、公会でジロンド支持者として告発され、Cambaceresがこの人を弁護し成功するが、翌年、市長の職務を放棄したこの人をVoulland議員が再び
告発する。この人は二名の憲兵と妻と共にパリに向かう。パリに到着すると妻共々逮捕状が出ており、この人はラ・フォルスに投獄された。一般安全委員会の
審問後はコンシェルジュリーに移された。妻は妊娠していたのでSaint-Thomas-du-Louvre通りで自宅拘禁となる。{系図に記載されている子らは末子でも93年
に生まれているから、この時の妊娠に該当する子は少なくとも系図にはない}妻は拘禁を解除されるとRodezに強制居住させられた。そしてモンペリエで1844年、
78歳で亡くなった。
この人は1794年1月12日、死刑を宣告され処刑された)

 Jean-Jacques Louis Durand ....................................次男・Aime Joseph Hippolyte Durand   
義兄・Marquis de Saint Maurice, Charles de Barbeyrac de Saint-Maurice

1794年1月13日

304. ベルナール・オーギュスタン・ダブザック DABZAC (Bernard-Augustin), 51歳。大尉。パリ生。
(ベルナール・オーギュスタン・ダブザック・ド・ベルガルド Bernard-Augustin d'Abzac de de Bellegarde 1742-94 元貴族。元第11連隊大尉、又はLa Marine連隊
{1635年リシュリューによりCardinal-Duc連隊として編成、翌1636年La Marine連隊に改名。革命下で第11歩兵戦列連隊となる}大尉。
8月27日生まれなので51歳。Bernard Augustin d'Abzac de La Boissiereともあり。La Foret, La Boissiere,Puymegue領主。Nouvelle-Aquitaine、Dordogneの
Le Bugue生まれとある。
 Abzac家は12世紀半ばより知られており、1287年以来の証明をもつ貴族家系。13世紀にすでに騎士で男爵。La Douze, Reilhac, Mayac, Limeyrac, Barriere,
Pressac & Bouzan, Villars & Saint-Pardoux, Lastours, Bigaroque, La Feuillade, Sarrazac, Campagnac, Bellegarde, Cazenac, La Serre, Falgueyrac, Chanloubet,
Badefols, La Prade, La Greze, Montastruc, La Boissiere, Puymege, La Juvenie等の分家がある。La Douze系が本家筋で17世紀初頭より侯爵位あり、同時代で
は8代目Marquis de La Douze,Jean-Louis d'Abzac de La Douze 1729-94{12月Perigueuxにて没}が近衛銃士隊第2中隊にいる。この人の家系はLa Boissiere系。
但し16世紀にLa Boissiere系はBellegarde系を統合している。
 父親はMarquis d'AbzacともあるPierre d'Abzac de de Bellegarde 1693以降{1725頃とも}-1771。母親は近衛銃士でMarquis de Barriere,Marquis de Vern,
Comte de Roussille, Baron de Lastoursの娘Madeleine Georgette de Taillefer 1711頃-52以降。三女四男の次男。
 長姉Antoinette Marie Therese 1736頃-1826以降 は亡命している。1795年59歳没とする系図もある。兄Alain Xavier 1741頃-1825は士爵でMarie Angelique de
Fleurans 1741以降-1761以降 と1774年にCastillonnesで結婚、共に88歳前後までの長寿だったが子はなかった。弟Gabriel Joseph 1743頃-1780はLa Forest
領主で「旧La Marine歩兵連隊中尉」とある。士爵。1780年海軍の造船所、兵器庫、港のあったBretagne,MorbihanのPort-Louisで没している。この人を1745年頃
の生まれとして、Gabriel Josephを兄とする系図もあり。d'Abzac de La Foretと名乗っていた。結婚記録はなし。妹Marguerite Jeanne 1745頃-89{83頃、90とも}は、
没年も色々だが、結婚記録もなく、但し各系図にはNouvelle-Aquitaine,Dordogne, PerigueuxのSaint Frontという没地だけは明記されている。一つの系図は1789
年8月20日にこの地で没したという明確な記載もあり。妹Henriette Anne 1747頃-1798{90とも}も、結婚記録はなく、トゥールーズで没していることは確かなようだ。
末弟Henri Venance Augustin 1752-1835はComte d'Abzacとなり、Puymege領主、Auxerrois歩兵連隊大尉からアメリカ戦役で中佐となりサン・ルイ騎士叙勲、
革命後はSaintes国民衛兵隊大佐となり、ウィンドワード諸島{Iles du Vent}の司令官となるも亡命し、ブルボン公の亡命軍に入っている。1777年{75年とも}
Martiniqueにて王室海軍士官の娘Louise Rose de Cacqueray-Valmenier 1756-1813と結婚し、五男二女をもうけている。Chevalier de Puymegueを名乗り、
d'Abzac de Puymegeと名乗っていた。レジオンドヌール勲章受勲。Vicomte d'Abzacともある。次男はMarquis d'Abzacとなり、その称号を子に継承させている。
 この人は1780年もしくは79年Dame d'Abzac,Marie Francoise Julie de Pressac des Egaux{もしくはde Pressac du Lioncel、Pressac de Lille de Lioncel} 1758-
1833と結婚し、二女{又は一男一女}をもうけた。長女Marie{Marie Melanide Francoise} 1781生 は1807年Francois du Monteil de Donzillac 1780頃生 と結婚した。
子の記録はない。次女Melanie 1785-1865はFrancois Frederic de Monteil 1770生 と結婚、士官になるAlain Xavier Edouard 1810-73をもうけ20世紀へ子孫を伝
える。但し、長女Marieと次女Malanieは同一としてMarie Melanide Francoiseとしている系図もあり、その場合は上記の二人のMoteilは同一人物で、子はAlain 
Xavier Edouard以下を記載している。また一女一男とする系図には、姓氏不詳の男子がおり、姓氏不詳の女性と結婚して、Charles Henri d'Abzac 1818頃生 を
もうけたとある。
  妻は1794年以降にFrancois Antoine Cesar de Maletという人物と再婚している。
 この人は航海からトゥーロンに帰港したら、船から降りるよう下士官・兵士たちの代表者から通告され、この兵士らの要請を軽蔑し、艦長からの命令にしか従
わないと返答した。そこで逮捕されPerigueuxに連行される。市の監視委員会で審問を受けて、頑なに拒否を続けた。この人は92年9月10日マルセイユのSaint-
Nicolas要塞にいつも出向いていたと話し、船上では軍務に関する法規しか知らなかったと主張。結局、亡命者との通信と亡命者への資金送金の容疑で告発
されるに至る。いくつかの町と船舶を敵に引き渡そうとしたと。有罪とされ処刑となる)

305. ジャン・ドクールシャンDECOURCHAMP (Jean), 23歳。副官。(パリ国民衛兵砲兵隊将官補)パリ生。

306. ヴナンス・ドーガド DOUGADOS (Venance), 30歳。カプチン僧。カルカッソンヌ生。

1794年1月16日

307. ジャン・バッセ BASSET (Jean), 18歳。かつら師。ミュラMurat生。

308. ジョゼフ・マリー・コエトナンプラン COETNEMPREN (Joseph-Marie), 38歳。海軍大佐。モルレーMorlaix生。
(ジョゼフ・ド・コエトナンプラン・ド・ケルドゥールナン Joseph de Coetnempren de Kerdournant
海軍大佐で、1784年Port-LouisでMlle Dufilholと結婚、6人子を残す。Port-Louisで1788年生ま
れたJoseph de Coetnempren de Kerdournantは1822年海軍大尉になっている。
214のComte de Kersaint,Armand-Guy-Simon de Coetnemprenも有名な海軍一族だが、互い
に古いブルターニュ貴族家系で13世紀に遡れる同族であり、214はCoetnempren de Kersaint系。
この人はCoetnempren de Kerdournant系。この家系は20世紀初めまで続いていた)

309. アンリ・ルイ・ドヴェルヌイユ DEVERNEUIL (Henry-Louis), 30歳。海軍参事官。ブレスト生。

310. ピエール・デュゴルノー DUGORNEAU (Pierre), 30歳。法律家。ボルドー生。

311. トゥーサン・デュプレッシ・ジュヌダン DUPLESSIS-GENEDAN (Toussaint), 29歳。海軍大佐。ヴァンヌVannes生。

312. クロード・オリエ HOLLIER (Claude), 39歳。助任司祭。スールSeurre生。
(1755-94 ブザンソン教区の神父から84年ボルドー大司教の秘書、ボルドーの憲法宣誓の司教
の元でVicaire Episcopal。詩人でもあった。
恐らく、2660のPhiliberte de TURIN 1734-94と Jean-Philibert OLIER de TOUQUIN 1718生 の次
男。次男は系図ではボルドーのGrand Vicaireで、生年は不詳で94年1月14日没、とある。兄に
Baron de La Gorge,Philippe OLIER de LA GORGE 1755-1800以降 がいた)

313. エリザベト・フランソワーズ・ルミル LEMILLE (Elisabeth-Francoise), 28歳。パリ生。

314. ギョーム・ルミル LEMILLE (Guillaume), 43歳。かつら師。ベルネーBernay生。

315. カトリーヌ・オルゴン ORGON (Catherine), フルニエFournierの妻。 48歳。ミュラ生。

316. ジャン・ピエール・テイタール TEITTARD (Jean-Pierre), 41歳。憲兵隊中尉。リオンRiom生。

1794年1月17日

317. ジャック・ルイ・ボヌイユ BONEUIL (Jacques- Louis), 22歳。軍曹。シュヴルーズChevreuse生。

318. ヴィセック・ドラテュード VISSEC-DELATUDE, 元アルトワ連隊高級将校。ヴェルダン生。

1794年1月21日

319. マリー・エティエンヌ・カトルメール QUATREMERE (Marie-Etienne), 42歳。商人。パリ生。

320. ジャン・クロード・ティボー THIBAUT (Jean-Claude), 49歳。農夫。プレールPresle生。

1794年1月22日

321. マリー・アントワーヌ・ベルナール BERNARD (Marie-Antoine), 38歳。議員。ガドネーGadenay生。

322. ベルナール・サール SALLES (Bernard), 30歳。フェランダンPhailindin生。

323. ジル・ティフェーヌ THIPHAINE (Gille), 68歳。 農民。プレールPresle生。

1794年1月23日

324. テオドール・ルイ・ルフェブヴル LEFEBVRE (Theodore-Louis), 49歳。学校教師。サン・タキランSaint-Aquilain生。

1794年1月24日

325. ローラン・ミゴ MIGOT (Laurent), 竜騎兵大佐。リュネヴィルLuneville生。

326. ヴィクトル・メルシオール・トゥーロン・ランボー RIMBAULT (Victor-Melchior-Toulon), 30歳。行政委員。トゥーロン生。

327. ニコラ・ルーアール・ベルナール ROUARD-BERNARD (Nicolas), 42歳。市吏。モンタルジ生。

1794年1月26日

328. セバスティアン・モンド MONDOT (Sebastien), 聖職者。ラ・フレシュLa Fleche生。

329. ジャック・フランソワ・カンタン QUENTIN (Jacques-Francois), 45歳。法律家。バンシーBency生。

1794年1月27日

330. ピエール・デュラン DURAND (Pierre), 50歳。年金受給者。ムーラン生。

1794年1月28日

331. ピエール・エリー・フェルラン FERRAND (Pierre-Elie), 57歳。兵長(chef de brigade)。カストリ生。

332. ルイ・ジャン・ジョッセ JOSSET (Louis-Jean), 48歳。軍事委員。パリ生。

333. カミーユ・ロッジ ROSSY (Camille), 65歳。 准将。アジャクシオAjaccio生。
(カミーユ・ド・ロッジ Camille de Rossi 1727-94 下記兄と同じく43年王室コルシカ連隊旗手、
46年中尉、56年大尉。63年サン・ルイ騎士。{ここまでは兄よりも早い}91年第91歩兵連隊大佐。
92年アルプス方面軍の野戦総監。93年少将。93年恐らくは下記の兄と共にだろう、パルセロン
ネットで逮捕。{兄は逃亡}94年1月29日に処刑されている。{この記録では28日になっている}
兄はアントワーヌ・フランソワ・ド・ロッシ 1726-1800で、1745年王室コルシカ連隊の旗手、47年
中尉 、59年大尉。63年サン・ルイ騎士。72年中佐、同年に大佐。88年野戦総監。90年ビロン不
在下でコルシカ司令官。92年中将。93年アルプスでパロセロンネットの防衛中に逃亡し、除名。
95年退役が認められて死去。2035Hyacinthe de Rossi 第4騎兵連隊、旅団長で、兄弟とある
が処刑時の年齢が50歳とあり、かなり年下の弟になる)

1794年1月29日

334. ルイ・アンリ・フランソワ・マルセ MARCE (Louis-Henry-Francois), 63歳。共和国軍中将。シノン生。
(Louis Henri Francois de Marce 1731-94)

1794年1月31日

335. カトリーヌ・ドニーズ・ジャンヌ・ドタック・ベルクール DETACQUE-BELLECOURT(Catherine-Denise-Jeanne) ゴットロー・ビラン妻。35歳。パリ生。
(ビラン男爵夫人カトリーヌ・デニーズ・デスタ・ド・ベルクール Baronnes de de BILLENS,Catherine Denise d'ESTAT de BELLECOURT 1764-94
父親はWerneter連隊騎兵中佐Joseph Dominique de BELLECOURT 1766没。母親はBaronne d'Estat,Jeanne Louise Catherine Voidet 1780没。
1780年スイス衛兵士官Baron de BILLENS,Tobie GOTTRAU 1738-1825と結婚。子はなし。
姉Emilie Lucrece d'ESTAT de BELLECOURT 1759-1816、兄Angelique Michel d'ESTAT de
BELLECOURT 1761-94{630}がいた。(他にAugustine Josephine、94年ロンドンでスペイン宮廷の
銀行家Juan Antonio Caresseと結婚、がいる)姉Emilie Lucreceはスペイン外交官でルイ16世
救出の為に200万の資金を活用して暗躍していた人物Jose Ocariz 1750-1805と通じていた{98年
にパリで結婚。夫の活動に報いルイ18世より6000フランの年金が与えられた}。反革命的な自由
主義の集まりに兄弟姉妹で出入りして人脈を増やしていた。この人はイギリスの銀行家 William
Herriesの兄弟スコットランド生まれのWilliam Ker{85年からGrammont通りにBoyd金融商を構えて
いる}と少なくとも92年以来は愛人関係で、国際金融市場とのパイプを繋いでいた。陰謀が露見す
ると姉は辛くもロンドンに逃れ、兄夫婦{妻は641}とこの人は逮捕されてしまい処刑された。ちなみ
に愛人のWilliam Kerは93年夏の終わりにパリを出てアミアンそして北に向かい国外脱出した。
この人はTaitbout袋小路のアパルトマンにJean-Baptiste-Emmanuel RoettiersやMarquis de
Charrasとその妻{Roettiers de Chauvigny家生まれ}等と住んでいた)

 兄Angelique-Michelと。Vigee Le Brun画(1768-69)

336. ジャン・パティスト・ランベール LAMBERT (Jean-Baptiste), 39歳。公証人。オータン生。

337. ジャン・パティスト・エマニュエル・ロエティエ ROETTIERS (Jean-Baptiste-Emmanuel), 45
 歳。元暴君の侍従。パリ生。(Jean-Baptiste-Emmanuel Roettiers de La Chauvinerie 1748-
 94)

338. アンヌ・ジャンヌ・ロエティエ・ラ・ショージニー ROETTIERS LA CHAUSSIGNY (Anne-
 Jeanne), シャラスCharrasの妻。パリ生。 (Marquise de Charras,Jeanne Roettiers de La
 Chauvinerie 1753-94)

1794年2月1日

339. ジャック・ババン BABIN (Jacques), 34歳。リニャックLignac生。

340. マリー・フランソワーズ・フランケ FRANQUET (Marie-Francoise), ラトンブLatombeの妻。クーロミエCoulommiers生。
(最後の手紙P270参照
セーヌ・エ・マルヌ県の小市クーロミエ{93年調査で人口3600人}は、すでにルイ16世の裁判中の92年2月に行われた地方選挙で保守派が議席を
占めていた。王党派ではないが、穏健な人々である。そこで、市は反革命的な活動が盛んになって行く。農産物取引の価格上限の設定や、宗教
的な建造物の撤去等、不満が高まっていた矢先で、国民公会に対する反発は強まる。ジャコバンの地方協会の集会なども開けなくなり、「プロイ
センやオーストリアと手を組んでジャコバンどもの首を切り落としてやる」等とおおっぴらに叫ばれる状況となる。報告を受けた国民公会は騒ぎを
扇動したとして主任司祭と貴族数家を捕らえてパリでギロチンに処した。また市長プレヴォら15名の人々もパリに移送されて処刑された。
Prevost de La Plumasserie,Blancheton,Deltombe,Igonnet,Merlin,Maulnoir,Martin,Ogier de Baulny等の面々{以下}がパリに移送され処刑されている。
201〜もその関連)

341. シャルル・ジャン・ルイ・イゴネ IGONET (Charles-Jean-Louis), 40歳。クーロミエ生。
(最後の手紙P270参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については前者参照。

342. ギョーム・マルタン MARTIN (Guillaume), 63歳。医師。ラヴールLavours生。
(最後の手紙P278参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照。

343. ウージェーヌ・フランソワ・モールノワール MAULNOIR (EuGENE-FRANCois), 50歳。治安判事。グールジヴァンGourgivant生。
(最後の手紙P275参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照。

344. ピエール・メルラン MERLIN (Pierre), 29歳。代訴人。シュイプSuipe生。
(最後の手紙P273参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照。

345. シャルロット・ノワレット NOIRETTE (Charlotte), ブランシュトンBlanchetonの妻。 29歳。クーロミエ生。
(最後の手紙P270参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照。

346. エティエンヌ・テオドール・オジエ・ボールニー OGIER-BAULNY (Etienne-Theodore), 46歳。元貴族。クーロミエ生。
(エティエンヌ・トマ・オジエ・ド・ボールニー Etienne Thomas Ogier de Baulny 1747-1794 近衛銃士隊第一中隊員。最後の手紙P279参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照)

347. フランソワ・ジョゼフ・トゥーサン・プレヴォ PREVOT (Francois-Joseph-Toussaint), 45歳。市吏。
(最後の手紙P273参照
小ヴァンデと言われたクーロミエ事件については340参照。

1794年2月3日

348. ファニー・アマン AMANT (Fanny), ジュアノーJouhanneauの妻。27歳。小売。カーン生。

349. モーリス・ブルイヨ BREUILLOT (Maurice), 38歳。商人。サン・モーリス生。

350. シャルル・ニコラ・デュグロ・デュフルノワ DUGLOS-DUFRENOY (Charles-Nlcolas), 60
 歳。公証人。モンコルネMoncornet生。

351. エドム・アレクシ・ジレ GILLET (Edme-Alexis), 53歳。医師。シャロンヌCharonne生。

352. ルイ・ニコラ・パイヨ PAILLOT (Louis-Nicolas), 44歳。農民。トロワ生。

353. ニコラ・パラン PARENT (Nicolas), 37歳。農民。シャロンヌ生。

354. クロード・ジョゼフ・オジエ OGIER (Claude-Joseph), 73歳。元王室顧問官。パリ生。

1794年2月5日

355. マリー・ガブリエル・シャプ CHAPT (Marie-Gabrielle), ペイサックPaysacの未亡人。 60
 歳。元侯爵夫人。ラクシヨンl'Action生。
 (マリー・ガブリエル・シャプ・ド・ラスティニャック・ド・ラクシオンMarie Gabrielle Chapt de Rastignac
 de Laxion 1731{34}-94  父親はペリゴール中将Marquis de Laxion,Charles CHAPT de
RASTIGNAC de LAXION 1693-1762。母親はMarie Jacqueline Eleonore d'AYDIE de RIBERAC
1741頃没。兄ばかり5人いる。すぐ上の兄Chevalier de Chapt, Louis Jacques 1730-64 は1748年
マルト騎士になった同日に近衛銃士第一中隊に入ったが、決闘にて落命している。曾祖父
Marquis de Laxion, Jean Francois 1602-56 もPouquet de Chanteracとの決闘で落命している。
1746年Marquis de Paysac,Joseph Francois du Mas 1723頃-86 と結婚。二女五男を得た。一男
一女が成人したが12人の孫が生まれている。
次兄Armand Anne Auguste Antonin Sicaire 1727-92 はアルル司教総代理で国民議会議員だ
ったが、92年9月虐殺でサン・ジェルマン・デ・プレで殺害された)

兄・Armand Anne Auguste Antonin Sicaire de CHAPT de RASTIGNAC 

356. ジャン・パティスト・ルイ・クールトネー COURTONNET (Jean-Baptiste-Louis), 28歳。
 軍食糧補給官etapier、ボーモンBeaumont生。

357. ニコラ・ロラン・モンジュールダン MONJOURDAIN (Nicolas-Roland), 37歳。税関副監督。
 ラ・ロシェル生。

1794年2月6日

358. エリザベト・ガン GAND (Elisabeth), ローラゲLauraguaisの妻, 56歳。元伯爵夫人。パリ
 生。(Elisabeth-Pauline de Gand-Merode-Isenghien 1737-1794 ,comtesse de Lauraguais)

夫・Louis Leon Felicite de BRANCAS-LAURAGAIS(1733-1824) 

359. アンリエット・フランソワーズ・ミシェル MICHEL (Henriette-Francoise), マルブフMarboeuf
 の未亡人。55歳。ナント生。
(Marquise de Marboeuf, Anne-Henriette-Francoise Michel 1738-94
1757年竜騎兵大佐Jacques Auger, Marquis de Marboeuf 1730-89と結婚。 ナポレオンの父の友人でボナパルト家の保護者だったコルシカ総督
Comte de Marbeuf,Louis-Charles Rene de Marbeuf 1712-86の長兄Marquis de Marbeuf, Claude Francois Marie1702-46の長男がこの人の夫。
389、390、391らは共犯者。シャンゼリゼに邸宅所有。プロイセン・オーストリア軍を引き入れる為の陰謀を企て、食糧を蓄蔵していた罪で処刑)

.............................................................................................................................................................................................................................
Arrestation de Mme. de Marboeuf et de sa fille(マルブフ夫人とその娘の逮捕).............. ............................................................................................................................................義叔父・Comte de Marbeuf

360. ジャン・パティスト・モアン MOHAND (Jean-Baptiste), 50歳。軍事委員。パリ生。

361. ジャン・ジョゼフ・パイヤン PAYEN (Jean-Joseph), 49歳。アヴィニョン生。
(359 マルブフ夫人の財産管理人)

362. フィリップ・ジョゼフ・プティ PETIT (Philippe-Joseph), 44歳。司祭。

363. ピエール・ルイ・ピエール PIERRE (Pierre-Louis), 68歳。代理業。アヴィニョン生。

1794年2月7日

364. クロード・フランソワ・クールトー COURTAUT (Claude-Francois), 70歳。司祭。パッソン・
 フォンテーヌPasson-Fontaine生。

365. ニコラ・パスカン PASQUIN (Nicolas), 36歳。暴君の妹の下僕。サン・ミシェル生。
(王妹エリザベトの従者。正しくはマルヌ県のサン・ミエルSaint-Miel出身)

1794年2月8日

366. ルイーズ・マドレーヌ・バイヤール・デコンボー BAYARD-DESCOMBEAUX (Louise-
 Madeleine), 57歳。シェルヴィルCherville生。
(Louise Madeleine Baillard des Combeaux 1736-1794 後者の姉。⇒「トルースボワ伯爵
の冷酷」参照。)

367. ジャン・ジャック・バイヤール・トルースボワ BAYARD TROUSSEBOIS (Jean- Jacques),
 サヴォワ連隊大佐。シェルヴィル生。
(トルースボワ伯爵 Comte de Troussebois,Jean Jacques Baillard de Troussebois 1740-1794
  前者の弟。娘は751。娘と駆け落ち結婚したベルシーズ466の亡命を密告。娘婿は逮捕され
 るが、自らもトリノでの亡命者との接触を疑われ逮捕・処刑された。⇒「トルースボワ伯爵の冷
 酷」参照。)

(上記2人の弟ジャン・セザール・マルシャル・バイヤール・ド・シェルヴィルJean Cesar Martial
 Baillard de Cherville 1745-94、及びこれら兄弟姉妹の母親ルイーズ・マドレーヌ・ド・トルース
 ボワLouise Madeleine de Troussebois 1716頃-94が同日処刑されているが、この記録には記
 載がない)

1794年2月10日

368. アンヌ・アンリエット・ブーシュラン BOUCHERIN (Anne-Henriette), 47歳。元男爵夫人。パ
 リ生。
(ティボー・ヴァクセンThibault-Waxeinの未亡人。レクスール男爵夫人Baronne de Lexure。パリ
 生まれでヴェルサイユ在住)

1794年2月13日

369. レジェ・ニコラ・フールキエ F0ULQUIER (Leger-Nicolas), 36歳。ニエーヴル議会議員にし
 て検事。クラムシーClamecy生。

1794年2月14日

370. ピエール・ジャン・オーベール AUBERT (Pierre-Jean), 45歳。司祭。

371. ピエール・ジャック・ドボーヌ DEBEAUNE (Jean- Jacques), 貿易商。アムステルダム生。

372. アントワーヌ・ベルナール・ドルス DORSE (Antoine-Bernard),検察官。ディジョン生。

373. ジャン・パティスト・ドルス DORSE (Jean-Baptiste), 36歳。 裁判所書記。ディジョン生。

374. フランソワ・メティヴィエ MESTIVIER (Francois), 43歳。公証人見習。ラ・シャペル・サン・マ
 ルタンLa Chapelle Saint-Martin生。

375. ジャック・アンリ・ウィダンフェル WIEDENFELD (Jacques-Henry), 27歳。エクス・ラ・シャペ
 ル生。

1794年2月15日

376. ガブリエル・プランシュ PLANCHUT (Gabriel), 35歳。ニーム生。

1794年2月17日

377. ヴィヴァン・ジャン・パティスト・ショード CHAUDOT (Vivant-Jean-Baptiste), 42歳。公証
 人。パリ生。

378. アントワーヌ・オーギュスト・デシェルビエ・レタンデュエル DESHERBIER-LETENDUAIRE
 (Antoine-Auguste), 准将。ロシュフォール生。
(レタンデュエル侯爵アントワーヌ・オーギュスト・デシェルビエ Antoine Auguste Desherbiers,
marquis de Letanduere 1749-94)

1794年2月19日

379. フランソワ・ゴスネ GOSSENAY (Francois), 25歳。幕僚。シャロン・シュル・ソーヌ生。

1794年2月20日

380. ピエール・アントワーヌ・ショワソー CH0ISEAU (Pierre-Antoine), 65歳。 請負人。エトリク
 レEtriclay生。


381. ルネ・フランソワ・フーコー・ラヴァン FOURCAUT-LAVANT (Rene-Francois), 44歳。公証
 人。アルジャンタンArgentan生。

382. フランソワ・ジルボー GIRBAUD (Francois), 37歳。仲買人。テュレンヌ生。

383. フェリクス・ジャン・パティスト・リュイ LUYT (Felix-Jean-Baptiste), 76歳。ローヌ生。

384. ジョワシャン・ポスティーユ POSTIL (Joachim), 47歳。飼料引渡人。フランカステルFran-

castel生。

385. ジャン・パティスト・ヴァンサン VINCENT (Jean-Baptiste), 62歳。ワイン商。ヴェルマント
 ン Vermanton生。

1794年2月21日

386. クロード・モルテ MORTET (Claude), 58歳。コンデ郡監督官。クールセル・ラ・モンターニュ
 Coursel-la-Montagne生。

387. ジェルマン・ティフェーヌ THIPHAINE (Germain), 製粉業。プレールPresle生。

388. ジャン・パティスト・ティフェーヌ THIPHAINE (Jean-Baptiste), プレール生。

1794年2月22日

389. ジャン・カポット・フイイード FEUILLIDE (Jean-Capotte), 竜騎兵大尉。
(ジャン・フランソワ・カポ・ド・フイイード Jean-Francois Capot de Feuillide 1750-94 王妃竜騎兵連隊大尉。伯爵を自称していたが爵位はない。
父親はNerac市長で弁護士、Albret公領の森と治水の管理官Francois Capot de Feuillide 1703-79。母親はNerac公証人で平貴族の娘Anne Esther de Bartouilh
 1718-85。五男十四女の三男。
 長兄Bertrand 1735-93の詳細はなし、ボルドーで死去。次姉Jeanne Dorothee 1740-93は1757年NeracにてLouis Lesueur de Peres 1712-80と結婚し、三女
二男をもうけている。三姉Henriette Irene 1741-1819は1755年CondomにてMichel Jaubert 1722-85と結婚、三男三女をもうけ、長男Francoisはフランス銀行
総裁、次男Guillaume AugusteはSaint Flour司教となっている。弟Jean Gabriel 1754生 は医師となり1777年ハイチのMirebalaisでMarie Jeanne Budan de Bois
 Laurentと結婚し一女一男をもうけた。他の兄弟姉妹は夭折と思われる。
 Marbeuf侯爵夫人{359}のプロイセン・オーストリアを引き入れる陰謀に加担し、夫人の両軍の為の食糧貯蔵に手を貸していた罪と後二者らを救う為に、証人
を買収した罪で告発された。
 1781年ParisでEliza Hancock 1761-1813と結婚。80年代初頭のフランス宮廷では非常に魅力的な将校の一人とされていた。一男Hastings 1786-1801をもうけた
が、妻と子は90年に生国イギリスに亡命し、所有する財産を保持するためにこの人は残り、事業を行っていた。
 妻であるEliza Hancockは、インド生まれのイギリス人で1765年両親と共にイギリスに移住、79年にフランスに定住。{系図にはマリー・アントワネット王妃の女官
ともあるがWiKiにはない} この人の母親Philadelphia Austen 1730-92は、「高慢と偏見」の作者で名高いイギリスの女流作家ジェイン・オースティン 1775-1817の
伯母。{ジェインの父George Austen 1731-1805の姉}つまり、ジェインの従姉にあたる。 またこの人の死後、この妻はジェインの兄Henry Thomas Austen 1771-
1850に求愛されて1797年ロンドンで再婚したので、ジェインの義姉にもなっている。非常に二人は親密で、1813年に亡くなる時もベッドの横にジェインが付き添っ
ていた。Mary Crawfordなど彼女がモデルとなっている登場人物も多い。またジェインはこの従姉の夫が処刑されたことで、フランス革命の恐ろしさを身近に知っ
ていたという。
Henry Thomas Austenは妻とその継子Hastingsによるこの人の財産の相続権を求めたが、この人の資産は兄弟姉妹に分配され、兄弟姉妹らはそれを売却した)

妻・Eliza Hancock  
義父・Tysoe Saul Hancock 1723-75 義母・Philadelphia Austen 妻の従妹で義妹・Jane Austen

390. クレマン・マンガン MANGIN (Clement), 28歳。酒保商人。メジエールMezieres生。
(Clement Mangin 後者の息子。この親子を救う為に証人を買収したとして前者は逮捕された。プロイセン・オーストリア軍を引き入れる359の陰謀に加担。

391. ニコラ・マンガン MANGIN (Nicolas), 50歳。荷車賃貸業。メジエール生。
(Nicolas Mangin 貸馬車業の経営者。前者の父。この親子を救う為に証人を買収したとして前者は逮捕された。プロイセン・オーストリア軍を引き入れる359の
陰謀に加担。

392. ニコラ・マルタン MARTIN (Nicolas), 40歳。教会参事会員。スパンクールSpincourt生。

393. ルイ・ドミニク・オーギュスタン・プレディクール PREDICOURT (Louis-Dominique-
 Augustin), 39歳。公証人。

1794年2月23日

394. ジョゼフ・ガネ GANET (Joseph), 38歳。かつら師。ジロークールJiraucourt生。

395. ジャン・ジャック・ドルトマン DORTOMAN (Jean-Jacques), 51歳。准将。モンペリエ生。

1794年2月24日

396. エティエンヌ・トマ・モーシオン MAUSSION (Etienne-Thomas), 43歳。ルーアン知事。パリ
 生。 ( Etienne Thomas de MAUSSION 1750-1794 )

1794年2月25日

397. エリザベト・バルブロン BARBERON (Elisabeth), 41歳。年金受給者。ショフィChoffi生。

398. マリー・ジャンヌ・バルブロン BARBERON (Marie- Jeanne)。

399. バルテレミー・バンボネ・ラロシュ BINBOMET LAROCHE (Barthelemy), 23歳。兵士。クー
 ルムニーCourmeny生。

400. アンドレ・デュサブル DUSSABLE (Andre), 53歳。公証人。サール・リブルSarre-Libre
 生。

401. シャルル・ジェルル GERL (Charles), 34歳。フォルバックForbach生。

402. ジャン・セバスティアン・アンツ HANTZ (Jean-Sebastien), 42歳。治安判事。サール・リブ
 ル生。

403. ジャン・マテュー・エリス HELIS (Jean-Mathieu), 30歳。治安裁判所書記官。ヴィッセン
 Wissen生。

404. ガスパール・カシミール・アンリ HENRY (Gaspar-Casimir), 40歳。司祭。サール・リブル
 生。

405. ジャン・オンブールジェ HOMBOURGER (Jean), 68歳。商人。シュムリーChemery生。

406. エティエンヌ・クロード・マルメ MARMET (Etienne-Claude), 67歳。暴君の叔母付の元貴
 族。ブールジュ生。

407. ジャック・マルタン・プロカン PLOQUIN (Jacques-Martin), 28歳。聖職者。ダグニエール
 Dagueniere生。

408. ジャン・ピエール・シャルフ SCHARFF (Jean-Pierre), 61歳。サール・リブル生。

409. バルブ・シュミット SCHMIT (Barbe), ガローGalhauの未亡人。 39歳。サール・リブル生。

410. ギョーム・シュミット SCHMIT (Guillaume), 50歳。鞣し職人。サール・リブル生。

411. マリー・バルブ・スーティ SOUTY (Marie-Barbe), ドレイズDreizeの妻。 41歳。サール・リブ
 ル生。

1794年2月26日

412. ジャン・パティスト・フェルマネル FERMANEL (Jean-Baptiste), 糸小間物商人。グルネル
 (ウール県)Grenelle生。

1794年2月27日

413. ジュリエンヌ・グルムー GREMOUX (Julienne), 41歳。サン・クレマンSaint-Clement生。

414. エマニュエル・ニコラ・フランソワ・ラ・リューユ LA RUELLE (Emmanuel-Nicolas-
 Francois), 30歳。大尉。サリュプレーSalubrey生。

415. クロード・モロー MOREAU (Claude), 35歳。軍事輸送請負業者。トンネール生。

416. ピエール・プノン PENON (Pierre), 42歳。パン屋。グラニーGaragny生。

1794年3月1日

417. ノエル・デシャン DESCHAMPS (Noel), 41歳。法律家。コミューヌ・アフランシCommune-
 Affranchie生。

418. ローラン・ヴェイリュ VEYREUT (Laurent), 検察官。ドンジーズDonzize生。

1794年3月2日

419. ルイ・ビユール BILLOURS (Louis), 33歳。木靴製造者。ジェンJain生。

420. ルネ・ピエール・アンジュボー ENJUBAUT (Rene-Pierre), 30歳。マイエンヌ検事総長。ラ
 ヴァルLaval生。

421. ピエール・ジャン・ジュールディーユ JOURDILLE (Pierre- Jean), 30歳。暴君の弁護士。
 シャトー・ゴンティエChateau-Gontier生。

422. ジャン・ルイ・ラロック LAROQUE (Jean-Louis), 39歳。北方面軍准将。アングルAngle
 生。

423. ジョゼフ・ラヴァル LAVAL (Joseph), 46歳。密猟監視人。サン・ティエボーSaint-Thiebaut
 生。

424. ニコラ・ルクール LECOURT (Nicolas), 59歳。蹄鉄工。ドナンDonnant生。

425. ピエール・マズール MAZURE (Pierre), 57歳。ジューイJouy生。

426. ピエール・ミシュノワ MICHENOY (Pierre), 51歳。農夫。ショワジー・アン・ブリ―Choisy-en
 -Brie生。

427. ピエール・モンターニュ MONTAGNE (Pierre), 78歳。司祭。ラ・フェルテ・ゴーシェLa Ferte
 -Gaucher生。

428. プーパル・ボーブール POUPARD-BAUBOURG, 39歳。海軍検査官。ロリアンLorient生。
(ジャン・バティスト・プーパル・ド・ボーブール Jean-Baptiste Poupart de Beaubourg 1755-94
軍人・行政官・政治作家。
マドラス包囲戦で64門艦「Duc d'Orleans」を指揮し名声を博した海軍将校Alexandre Poupart
de Beaubourg 1774没 の息子。母親はMarie Genevieve Dionis 1709生。商人で工場主で、パリの
富豪にして助役となったのが祖父Isaac Poupart 1728没。{祖母はMadeleine Esther Croyer
1744没} 長男{この人の伯父}であるAndre Poupart 1687-1744が金融業として成功した。この
アンドレの末弟が父アレクサンドルなのであるが、多くの系図にその名はない。あっても名だけか
妻の名までしかなく、子であるこの人の記録まで及ばない。
商人から金融業として発展したPoupart de Neuflizeの一族。
父親の後援で海軍管理局の査察官となる。軍位は大尉。イギリスの滑車技術の優位性に着目、
1786年ロンドンに行き、その技術を盗み出すことに成功。しかしその功績に見合った報酬がなく
カストリー大臣と対立。バスティーユに投獄されそうになりSaint-Jean-de-Latranに逃亡した。
革命で帰国し、7月13日Saint-Jean-de-Latranの義勇兵の名でパリ市民の活動に参画。
バスティーユ攻囲では市民代表コルニーの使節の一員としてバスティーユに派遣、ローネー長官
に降伏勧告すべく向かうが、銃撃されて退散した。
その後、マラーのL'Ami du Peuple誌を批判し、アッシニア紙幣の偽造の罪に問われてアベイに
投獄。また亡命者支援の罪でも告訴される。そして処刑となった。アッシニア紙幣の偽造の件で
61等を告訴したとあるが詳細は不明。
恐らく息子がいたものと推定されるらしい。
尚、父アレクサンドルの姉、つまりこの人の伯母であるElisabeth Suzanne Madeleine Poupart
1692-1769はLouis Tassin 1741没 と結婚しているが、826、827はその孫である。このTassin家は
46等の同名家系とは異なり、控えめな一族。17世紀終わりまでbougraniers{上衣の裏地に使用さ
れる厚い生地bougranを製造または販売した織工}だった。この伯母の夫であるLouis Tassinがパリ
に行き、パリのプロテスタントたちと親交を結び、金融業を発展させた)

 ...............祖父・Isaac Poupart
Jean-Baptiste Poupart de Beaubourg................................................................................................祖母・Madeleine Esther Croyer

429. ピエール・ルイ・プロフィ PROFIT (Pierre-Louis), 50歳。農夫。ラ・フェルテ・ゴーシェ生。

430. ルイ・プリュネルPRUNEL (Louis), 33歳。校長。シャン・ギュイヨンChamp -Guyon生。

431. ジャン・エティエンヌ・ラビー RABY (Jean-Etienne), 56歳。国有林警備員。

432. ニコラ・アントワーヌ・ルミ REMY (Nicolas-Antoine), 51歳。司祭。サン・バルテレミー生。

1794年3月3日

433. フランソワ・エティエンヌ・ジョゼフ・シャンフリューリー CHAMFLEURY (Francois-Etienne
 - Joseph), 45歳。大尉。クレルモンフェラン生。

434. ジャック・フランソワ・フルーレ FROULE (Jacques-Francois), 60歳。本屋。パリ生。

435. トマ・ル・ヴィギュール LE VIGUEUR (Thomas), 47歳。本屋。ブージュヴィルBougeville生。

436. パコーム・サン・ランベール SAINT-LAMBERT (Pacome), 39歳。軍事務官。カーン生。

1794年3月4日

437. アンリ・フランソワ・ガダン GADIN (Henry-Francois)。

438. ムリオ・デュフルノワ MERIOT DUFRENOY, 43歳。大尉。パリ生。

1794年3月5日

439. ルイ・ロバン ROBIN (Louis), 74歳。商人。セイイSailly生。

1794年3月6日

440. ジャン・ネストル・シャンセル CHANCEL (Jean-Nestor), 40歳。准将。アングレーム生。
(Jean Nestor Chancel 1753-94)

441. ジャン・パティスト・ダヴェーヌ DAVESNE (Jean-Baptiste), 60歳。師団長。ブーリエ(ベル
 ギー)Boulier (Belgique)生。(Jean Baptiste d'Avaine, 1733-94)

442. ジャック・オモラン OMORAN (Jacques), 52歳。師団長。エファン(アイルランド)Ephin生。
(James O'Moran 1739-94)

443. ニコラ・ルヴェルド REVERDOT (Nicolas), 62歳。農業。ディジョン生。

1794年3月7日

444. フランソワ・クロード・カンパレ COMPARET (Francois-Claude), 46歳。郵便監督官。パリ
 生。

445. マリー・ルイーズ・フランソワーズ・ドカン DECAMP (Marie-Louise-Francoise), プル・コー
 トPres Cote生。

446. ジャック・マリー・デュシュマン DUCHEMIN (Jacques-Marie), 52歳。 旧ブルゴーニュ総督
 書記官。パリ生。

447. ジベール・グラッサン GRASSIN (Gibert), 40歳。元貴族。農業家。ヴァレンヌ生。

1794年3月9日

448. ルイ・デザクル・ド・レーグル DESACRES DE LAIGLE (Louis), 60歳。野戦総監。パリ生。
(レーグル伯爵ルイ・デ・ザクル・ド・レーグル Comte de l'Aigle, Jacques Louis Joseph des
Acres de L'Aigle 1734-94
1757年ベリー連隊、58年王妃親衛騎兵隊の旗手、59年王太子軽騎兵中隊少尉、同年12月
コンティ連隊指揮官、68年騎兵少佐、80年野戦総監。貴族ゆえに逮捕。後者への手紙なども
露見した。
父親は王軍中将Marquis de l'Aigle,Jacques Louis Joseph des Acres de L'Aigle 1671-1767。
母親はMarie Francoise Gabrielle de Chateau-Thierry 1700-85。
父親は再婚で前妻{Mlle de Charolais,Louise Anne de Bourbon Condeの女官Marie Choppin}
との間に四女一男の異母兄、異母姉がいた。レーグル侯位は異母兄が継承。
1763年ルイ15世の外務大臣Germain Louis Chauvelinの娘Anne Esperance de Chauvelin de
Grosbois 1725-1801と結婚。二男をもうける。長男Louis Victor Esperance 1764-1851は、従
兄{2770}がロベスピエール派として処刑され{娘らも夭折}断絶したレーグル侯位を復古期に継
承する。次男Louis Augustin Victor 1766-1862はレーグル伯爵となり、政治家となる。また1801
年1752のブロイ公の娘Constance Louise Sophie de Broglie 1782-1866と結婚している。
 また長男の妻Anne Charlotte Caroline Gabrielle de Vintimille du Luc 1785-1810はルイ15世
とComtesse de Vintimilleの私生児Marquis du Luc, Charles Felix Rene de Vintimilleの娘で
あり、その子らは国王家の血をひくことになった。長男の孫で政治家のRobert-Arthur-
Esperance des Acres 1843-1931、その息子でやはり政治家になるMarie-Joseph Charles des
Acres de L'Aigle 1875-1935もルイ15世の血筋の子孫たちとなる。
919の夫のレーグル侯の異母弟。また2770はロベスピエール派として処刑された異母兄の
息子。Acres家については2770を参照)

曾孫・Robert-Arthur-Esperance  
玄孫・Marie-Joseph Charles

449. アンヌ・アレクサンドリーヌ・ロザリー・ラ・ロシュフコー LA ROCHEFOUCAULT (Anne-
 Alexandrine-Rosalie), パリ生。


Mme Anne-Alexandrine-Rosalie Comtesse de Durtal, nee La Rochefoucauld-Surgeres (1753-1794)

1794年3月10日

450. シャルル・エティエンヌ・ヴァンドレー VANDREY (Charles-Etienne), 59歳。法律家。ゴンド
 ヴィルGondeville生。

1794年3月12日

451. マリー・ブランシェ BLANCHET (Marie), 43歳。ワイン商。カルージュCarrouge生。

452. ピエール・コーショワ CAUCHOIS (Pierre), 28歳。建築家。パリ生。

453. アデライド・ル・クレール・グラリニー LE CLERC-GLARIGNY (Adelaide), ヴァットヴィル元
 伯爵comte de Vattevilleの私生児。37歳。パリ生。

1794年3月13日

454. カンタン・ピエール・ヴェリエ VERRIER (Cantin-Pierre), 52歳。主に農業。エタンプ生。

1794年3月14日

455. アントワーヌ・ダヴァンヌ DAVANNE (Antoine), 31歳。軍食肉配給業。ブーローニュ・シュ
 ル・メールBoulogne-sur-Mer生。

1794年3月15日

456. アンセルム・ボードヴァン BEAUDEVANT (Anselme), 62歳。聖職者。ヴィルフランシュ
 生。

457. ジャック・フェリクス・ブーシュロン BOUCHERON (Jacques-Felix), 37歳。海運検閲官。 ク
 ーシュCouches生。(Jacques-Felix Boucheron 1757-1794)


458 バジル・シュヴァンヌ・モージュリー CHEVANNE-MAUGERY (Bazile), 49歳。年金受給者。
 ヴィレール・サン・ブノワVillere-Saint-Benoit生。
(Edme Basile Chevannes-Maugery 469の姉Marie-Genevieve Sangle,dit du Moutot,1749-78
 と結婚している。この二人の娘Anne Genevieve Chevannes-Maugery 1770-1846と1791年結
 婚したJean Baptiste Marie Tenaille de Lesnauxは490。

459. ジャン・アントワーヌ・ドーバン DAUBIN (Jean- Antoine), 44歳。司祭。ラ・シャリテLa
 Charite生。

460. バルテレミー・デュ・ヴェルヌ DU VERNE (Barthelemy), 67歳。准将。(元貴族)シャトーダ
 ン生。(Barthelemy Du Verne 1727-1794)

461. マリー・イヤサント・フールニエ FOURNIER (Marie-Hyacinthe), 47歳。カンシ―Quincy生。
 (Marie-Henriette Fournier de Quincy , marquise de Chabannes 1746-1794, veuve de Claude-
 Francois de Chabannes 1721-1786、 ex-marquis de Chabannes)

 Marquise de Chabannes,Marie-Henriette Fournier de Quincy

462. シャルル・フグアン FUGUEM (Charles), 46歳。森林警備。ヌフ・マルシェNeuf-Marche
 生。

463. アンリ・ラビュシエール LABUSSIERE (Henry), 48歳。元貴族の農業家。ビイーBilly生。
(Henri de La Bussiere de La Motte 1745-1794,lieutenant au Rgt du Lyonnais)

464. ジャン・パティスト・アレクシ・ラルドネル LARDENELLE (Jean-Baptiste-Alexis), 62歳。中
 佐。ヴァランシェンヌ生。(Jean-Baptiste Alexis Lardenelle , ou ≪ Lardemelle ≫, lieutenant-
 colonel du 10 e regiment de chasseurs a cheval)

465. ジャック・ポルトパン PORTEPAIN (Jacques), 73歳。司祭。オーランジュOurange生。

466. シャルル・ルニョー(通称ベルシーズ) REGNAULT (Charles), dit Bellecise, 30歳。士官。シ
 ャヌレイChanelley生。
(Charles-Bruno de Regnauld-Alleman de Bellescize 1762-1794 ラ・ロシュフコー連隊士官。父
 はルニョー・アルマン侯爵。妻は751でトルースボワ伯爵の娘。駆け落ち結婚したが、義父に亡
 命を密告され逮捕・処刑される。若妻も出頭して後を追い4月に処刑された。⇒「トルースボワ
 伯爵の冷酷」参照。)

        
          ........................................................................................................... 父・Marquis de Regnauld-Alleman 1728-96 
        弟・Marquis de Bellecize 1773-1840

467. ニコラ・ローア ROUAT (Nicolas), 45歳。教師。ブリュノワBrunoy生。
(Nicolas Ronat 1749-1794)

468. エティエンヌ・ジュリアン・ロワイヨン ROYON (Etienne- Julien), 64歳。司祭。クーロミエ
 生。(エティエンヌ・ジュリアン・トイヨン Etienne Julien Touyon 1730-1794, サン・シール・デ・ゾ
 ートラニー(ニエーヴル)Saint-Cyr-des-Autranis{Nievre}の元司祭。クーロンヌCoulonne生とあ
 る。 ミサを執り行った為に有罪)

469. ジャック・ニコラ・サングレ・デュモンタス・デュロンシャン SANGLE-DUMONTAS-
 DULONGCHAMP (Jacques-Nicolas), 43歳。マリー・アントワネットの従者。
(Jacques Nicolas Sangle-Dumontot , dit ≪ Longchamps ≫ 1751-1794, ancien valet de
 chambre de la reine Marie-Antoinette , パリのフォーブール・サン・トノレ街40番地に居住。材
 木商を営む元王妃の従者。8月10日事件の王室共犯者として処刑。458の妻はこの人の姉)

470. ルイ・エティエンヌ・トナイユ・カンポン TENAILLE-CAMPON (Louis-Etienne), 44歳。カペ
 ーの元 侍従兵garde du corps。クラムシーClamecy生。
(Louis Etienne Tenaille-Champton 1750-1794 . 8月10日事件での国民に対する陰謀罪)

1794年3月16日

471. ジャック・ゴデイユ・シューラック GODAIL-CIEURAC (Jacques), 62歳。ジャニJany生。

1794年3月17日

472. ジョルジュ・フェリクス・バルビエ BARBIER (Georges-Felix), 57歳。農業。ラ・フェルテ・シ
 ュル・ジュアールLa Ferte-sous-Jouarre生。

473. ルイ・ジョルジュ・オーギュスト・バルビエ BARBIER (Louis-Georges-Auguste), 23歳。ラ・
 フェルテ・シュル・ジュアール生。

474. ジャン・パティスト・ボワッサ BOISSAT (Jean-Baptiste), 54歳。外科医。ブールデイユ
 Bourdeilles生。

475. シャルル・ドラレン DELALAIN (Charles), 49歳。軍事委員。サン・ディジエSaint-Dizier.
 生。(Charles Delalain 1745-94)

476. マリー・ジョゼフ・フェリシテ・ラヴェシェアン LAVEICHEIN (Marie -Josephe-Felicite), 33
 歳。ラングロワLangloisの奉公人。 フェルマンティエFormentier生。

477. ピエール・ランティノー LENTINEAU (Pierre), 37歳。北方面軍中佐にしてヴァンデ軍将
 官。ピュイ・ノートル・ダム生。
(ピエール・ケティノー Pierre QUETINEAU 1756-94 Le Puy-Notre-Dame生れ。准将。1794年
 3月17日パリにて処刑。という人がいる。1779年にMarie Anne ROBERT de la TREILLE 1758-
 1794 と結婚している。一部名が違うが、ケティノー未亡人としてこの妻も5月11日に処刑されて
 いる943と合致するので、この人はLENTINEAUではなくQUETINEAUではないか?
 ピエール・ケティノーはラ・ロシェル海岸部隊の将官だったが、ヴァンデ反乱時、93年5月の
 Bressuireの戦で退却、退却先のThouarsでの戦でも敗れて捕虜に。釈放後ソーミュールに戻る
 と逮捕され収監。ソーミュールが王党軍に奪還されると再び王党軍の捕虜となり、王党軍への
 参加を要請されるが拒んで、自軍に戻るも、改めて逮捕されて裁判にて死刑。)

478. ルイ・ミシェル・ムスキネ(通称ラパーニュ)MUSQUINET (Louis-Michel), dit Lapagne, 49
 歳。 ディグーヴィルdingouville市長。 ポントワーズPontoise生。

479. ピエール・ポール・サン・ポール SAINT-PAUL (Pierre-Paul), 59歳。戦時指令監督官
 commissaire ordonnateur de la guerre フージェールFougere生。

1794年3月18日

480. ジャン・バボー・ラフォルディ BABAUT LAFORDIE (Jean), 58歳。裁判官。コンファロ
 Confalot生。

481. ニコラ・デュードンネ DIEUDONNE (Nicolas), 51歳。聖職者。テイイTailly生。

482. ジュール・デュレイシー DUREICY (Jules), 52歳。財務管理官。パリ生。

483. ジャン・パティスト・グールソー・ムルリー GOURSAULT-MERLY (Jean-Baptiste), 49歳。
 国有財産監督官。ロシュションRochechon生。

484. マルシーユ・アメー・ジャム JAMES (Marcille-Amee), 39歳。修道女。サン・ヴァンサン
 Saint-Vincent生。
(マルセル・エメー・ド・ジャム・ド・ロングヴィル Marcelle Aimee de James de Longueville 1754-94
39歳没。Saint-Vincent 生。父親はgardes du corpsの少佐で近衛ヴィルロワ中隊旗手、サン・ルイ
騎士のJean de James de Longueville。母親はMarie Elisabeth de Volvire de Saint-Vincent。
五男六女の末子。86年Lencloitreの修道院修道女となる。1746年生の兄Charles Philippeはサン・
トンジュ連隊大尉で結婚し二女二男をもうけている。45年生の姉Louiseも結婚し、一女をもうけた。
この姉Louiseのもうけた一女Louise Sylvineが、後に近衛隊員と結婚しブラモン夫人となり、叔母で
あるこの人と共に収監され、同じ94年3月18日死刑の判決を受けるも、懐妊申告で保留、この人は
予定通りその日に革命広場で処刑され、ブラモン夫人はテルミドール反動で救われ、91歳の長寿
を全うしたわけである。(「歴史に名を刻んだ人々」余談3参照) ブラモン夫人の母親、つまりこの人
の姉はEtienne Anne de Chamborant de Villevert 1746-81に嫁いだが、母方の祖母の旧姓がde
Chamborant du Villevertなので、遠縁なのだろう)

485. マリー・アンヌ・ジュールダン・ベリトー JOURDAIN-BERTHEAUX (Marie-Anne), 42歳。 市
 民モレルMorelの家政婦。 パリ生。

486. フランソワーズ・ペリゴール PERIGORD (Francoise), テキシエTixierの妻。 70歳。ロシュシ
 ュワールRochechoir生。

1794年3月19日

487. ジョゼフ・アルノー ARNOULT (Joseph), 28歳。兵士。ミルクールMirecourt生。

488. カミーユ・ジューヴ JOUVE (Camille), 49歳。騎兵隊長。ヴォルップVoleppe生。

489. クロード・ルイ・マズリエ MAZURIER (Claude-Louis), 34歳。議員。ベルヴァンBellevain
 生。
(クロード・ローラン・マズイエ Claude Laurent Masuyer 1759-94 Bellevesvre生まれ。議員。
高等法院とBellevesvreバイイ裁判所の弁護士Pierre MasuyerとLouise-Antoinette Dunoyer
の息子。革命前は郷里の弁護士で、ルーアン地区裁判所判事となる。91年8月30日立法議会
のSaone-et-Loire選出議員となる。穏健派。ブリサック公を糾弾した。92年9月国民公会議員
として再選。国王の裁判には追放に投票。93年5月のジロンド派処刑時には Petionと
Lanjuinaisの脱出を助けた。94年3月19日死刑判決を受け即日処刑。テルミドール後、父親に
年金が支給された)

490. ジャン・パティスト・マリー・トネイユ・レノー TENAILLE-LESNAUX (Jean-Baptiste-Marie),
 29歳。警備兵。元国王侍従兵。クラムシー生。 (458の娘婿。1760-94 クラムシーの有産階級
 の材木商の息子)

491. ジャン・パティスト・ヴァロワ VALOIS (Jean-Baptiste), 40歳。大尉。サン・ロSaint-Lo生。

1794年3月23日

492. ジャン・ニコラ・ムーラン・ド・ルロワ MOULIN DE LEROY (Jean-Nicolas), 57歳。シェルブ
 ール郵政監督官。,ディエルヴィルDierville生。

493. アントワーヌ・フランソワ・ポワトゥー POITOU (Antoine-Francois), 64歳。司祭。サンヌヴィ
 ルSanneville生。

1794年3月24日

494. ジャン・アントワーヌ・フロラン・アルマン ARMAND (Jean-Antoine-Florent), 26歳。外科
 医助手。シェラールChaylart生。

495. ジャン・シャルル・ブールジョワ BOURGEOIS (Jean-Charles), 26歳。店員。パリ生。

496. アナカルシス・ジャン・パティスト・クローツ CLOOTZ (Anacharsis-Jean-Baptiste), 38歳。
 議員。クレーヴェ(ブランデンブルグ)Kleve ( Brandenburg).生。

 
Jean-Baptiste du Val-de-Grace, baron de Cloots, pseudonym Anacharsis Cloots(1755-1794)

497. アントワーヌ・デコンブル DESCOMBLE (Antoine), 29歳。雑貨店店員。ブザンソン生。

498. フランソワ・デフィユー DESFIEUX (Francois), 39歳。ワイン商。ボルドー生。

499. フレデリク・ピエール・デュクロケ DUCROQUET (Frederic-Pierre), 34歳。買占め監視委
 員。アミーAmies生。

500. ジャック・ルネ・エベール HEBERT (Jacques-Rene), 30歳。アランソン生。
589の夫。

 Jacques Rene Hebert(1757-94)

504. フランソワ・ニコラ・ウーダール・デュリエ・ディニャンクール HOUDART DURIEZ
 DIGNANCOURT (Francois-Nicolas), 45歳。従業員。グルノーブル生。

502. ジャン・コンラッド・コック KOCK (Jean-Conrad), 38歳。銀行家。ウルム(オランダ)生。
(Johannes Conradus de Kock 1756-94)

503. ミシェル・ローミュル LAUMUR (Michel), 63歳。准将。パリ生。(Michel de Laumur
"Marquis" de Laumur1730-94)

504. ユベール・ル・クレール LE CLERC (Hubert), 44歳。戦時局長。カニーCany生。

505. アルベール・マズエル MAZUEL (Albert), 28歳。騎兵隊長。コミューヌ・アフランシエ
 Commune affranchie生。

506. アントワーヌ・フランソワ・モモロ MOMORO (Antoine-Francois), 38歳。パリ県長官。ブザ
 ンソン生。

 Antoine-Francois Momoro (1756-94)

507. ジャコブ・ポワレラ POYRERA (Jacob), 54歳。タバコ製造。 レイヨンRayonne生。

508. ピエール・ジャン・プロリ PROLY (Pierre-Jean), 42歳。新聞編集者。ブリュッセル生。

509. シャルル・フィリップ・ロンサン RONSIN (Charles-Philippe), 42歳。革命軍将官。ソワッソ
 ン生。

 Charles-Philippe Ronsin (1751-94)

510, ピエール・ウルリック・デュビュイッソン ULRIC DUBUISSON (Pierre), 48歳。行政委員。ラ
 ヴァル生。(Pierre-Ulric Dubuisson 1746-94)

511. フランソワ・ニコラ・ヴァンサン VINCENT (Francois-Nicolas), 27歳。戦争局長官。パリ
 生。

 Francois-Nicolas Vincent (1766 ou 1767-94)

1794年3月25日

512. ピエール・ルーガンヌ ROUGANNE (Pierre), 31歳。年金受給者。アルグArgues生。

513. ジャン・ジャック・ルーガンヌ・デイルシー ROUGANNE DEIRCHY (Jean-Jacques), 63歳。
 inspecteur des marchandises anglaises(?) シエラルCieral生。

514. ジャン・ルーガンヌ・デバルランディーヌ ROUGANNE-DESBARRADINES (Jean), 63歳。
 最後の暴君の近衛。キュシーCussy生。

番外・ Marquis d'Haucourt, Baron de Saint-Amand,Augustin-Joseph de Mailly 1707-94 フランス
元帥。86歳。Villaines-sous-Luce (Anjou)のChateau de Corbion生。
(ドークール侯爵、サン・タマン男爵オーギュスト・ジョゼフ・ド・マイイ 1744年従弟Louis de Mailly
1723-43の死後Comte de Maillyとなる。
ピカルディの古い貴族家系マイイ家に生まれる。父親はMarquis d'Haucourt,Joseph de Mailly
1677-1755。
最初は1726年近衛銃士、33-64年は親衛騎兵。43年には少将、45年野戦総監、48年中将と急速
な昇格をする。宮廷から遠ざけられてしまい中将が長かった。王妃マリー・レクザンスカとのアヴァ
ンチュール説があるが、真相はダルジャンソンとの対立だった。しかし76年聖霊騎士、83年に遂に
元帥。ヴァレンヌ逃亡の時に軍職を辞任したが、92年8月10日事件の際は85歳の高齢でチュイル
リーの守備についた。虐殺は生き延びて、自分の城館に戻ったが、こうして処刑されてしまった。
彼はギロチン台で「我が先祖同様、私は国王に忠実のまま死ぬ」
彼は長い人生で三回の結婚をした。最初は 1734年にコルベールの弟の孫娘Constance Colbert
de Torcy 1710-34で、3人の娘の一人Josephine Marie Constanceが後に政敵となるダルジャンソ
ンの息子と結婚した。死別後の再婚は1737年のMichelle de Sericourt。後にDuc de Maillyとなる
Louis-Marie 1744-92 を残した。{子なく48歳で死去するが}
78年また死別すると80年17歳のMarie Blanche Felicite de Narbonne-Pelet 1763-1840と結婚。
Adrien de Mailly 1792-1878 をもうけ、後にPrince d’Orange et de L'Isle-Montrealとなりpair de
Franceとなる継承者で、結婚後6人の子をもうけている)

 Marechal de Mailly,Augustin-Joseph de Mailly ...................................................................................... 
妻・Marie Blanche Felicite de Narbonne-Pelet

1794年3月26日

515. ジャン・パティスト・アンカル ANCARD (Jean-Baptiste), 52歳。従業員。グルノーブル生。

516. ジャン・ルイ・グート GOUTTES (Jean-Louis), 34歳。司教。テューユTulle生。

 Jean-Louis Gouttes(1739-94)

517. ドニ・ジョワセル JOISEL (Denis), 42歳。モンデトールMondetours生。

518. シャルル・オーギュスト・ラ・クール・バルロワ LA COUR BALLEROY (Charles-Auguste),
 74歳。中将。バルロワBalleroy生。
(Marquis de La Cour,Charles-Auguste de La Cour 1721-94. 531の兄)

父・Marquis de Balleroy,Jacques Claude Augustin de La Cour(1694-1773) 

519. エティエンヌ・ティルリ THIRRY (Etienne), 24歳。騎兵軍曹。スーダン生。

1794年3月27日

520. マリー・カトリーヌ・シャンボランCHAMBORAN (Marie-Catherine), 59歳。カルメル会修道
 女。コンフォランConfolens生。 (Marie-Catherine-Gabriel de Chamboran 1735-94 元貴族。サ
 ン・ドニのカルメル会修道院。⇒マリー・カトリーヌ・ガブリエル・ド・シャンボラン・ド・ペリッサ
Marie Catherine Gabriel de CHAMBORANT de PERISSAT 父親はAntoine de CHAMBORANT
 de PERISSAT 1701-66。母親はCatherine LEGOUST。この人は長女だった。兄一人、弟二人、
妹二人がいたが、すぐ下の妹は2233. マリー・ローズ・ド・シャンボラン・ド・ペリッサで7月に処刑)

521. クレール・マドレーヌ・ランベルティ LAMBERTl (Claire-Madeleine), ヴィルマンVilleminの
 妻。41歳。年金受給者。モンリュソンMontlucon生。

522. アンリ・モロー MOREAU (Henry), 67歳。 訴追官。モンペリエ生。

1794年3月28日

523. ジャック・ペルネ PERNET (Jacques), 56歳。竜騎兵大尉。バル・シュル・オーブBar-sur-
 Aube生。(元貴族。旧竜騎兵大尉。サン・ルイ騎士。農業従事。ノジャン・シュル・セーヌ近くのト
 ラノーTranault在住。)

524. ジャン・パティスト・ピエッスレ PIESSELET (Jean-Baptiste),カプチン会士。Acq(?)生。

1794年3月29日

525. ジャック・ニコラ・アダン ADAM (Jacques-Nicolas), 36歳。ベネディクト会士。パリ生。

526. ジャン・パティスト・コリニョン COLLIGNON (Jean-Baptiste), 61歳。印刷屋。メッツ生。

527. ジャン・パティスト・クールタン COURTIN (Jean-Baptiste), 79歳。ベネディクト会士。ルー
 アン生。

528. ジャン・ヴァルリー・マリー・アレーユ HARELLE (Jean- Valerie-Marie), 30歳。仲買人。レ
 ーグルLaigle生。

529. ジャン・アントワーヌ・ムフル MEFFRE (Jean- Antoine), 57歳。ベネディクト会士。オービ
 ニャックAubignac生。

530. ルイ・フランソワ・ポワレ POIRE (Louis-Francois), 36歳。国民公会執行官。オートルボワ
 Autrebois生。(Louis-Francois Poire,1758-1794. パリ在住。元タレーラン・ペリゴール家の秘
 書。またポリニャック夫人の義妹ディアーヌ・ド・ポリニャックの奉公人。国民公会の守衛職とあ
 る。イギリスとの密通罪。詳細は「150通の最後の手紙」P300)

1794年3月30日

531. フランソワ・オーギュスト・ラ・クール・バルロワ LA COUR BALLEROY (Francois-
 Auguste), 67歳。野戦総監。パリ生。
(Chevalier de Balleroy, Francois Auguste de La Cour, 1726-94. 518の弟)

 父・Marquis de Balleroy,Jacques Claude Augustin de La Cour(1694-1773) 

1794年3月31日

532. ジョゼフ・クレール・バルボタン BARBOTAN (Joseph-Claire), 75歳。元立憲議会員。ボル
 ネBorner生。 (Clair-Joseph de Barbotan Carritz ou Carris. 1719 - 1794, comte de Carritz ,
 comte d'Ousse, seigneur de Mormes, seigneur de Maupas.野戦総監。1789年貴族議員。立憲
 議会議員。1761年に近衛銃士隊員になった1747年生まれの息子comte de Barbotan,Jean
 Marie de Barbotanは、1794年逃亡中に自決。93年ともあり)

533. フィリップ・バルテレミー・シモン・ガイヤール GAILLARD ( Philippe- Barthelemy-Simon),
 20歳。 文具店店員。コルネイユCorneille生。

534. ジャン・フランソワ・オイエ HOLLET (Jean-Francois), 34歳。宝石商。リュシェンヌ
 Luciennes生。

535. ルイ・フランソワ・ラヴェルニュ・ショーロリエ LAVERGNE-CHAULORIER (Louis-
 Francois), 50歳。ロンウィLongwy市司令官。アングレーム生。
(Louis Francois de LAVERGNE-CHAMPLAURIER 1744-94 中佐。ロンウィ司令官。妻と共に
 処刑。妻は538。)

536. シャルロット・フェリシテ・リュッペ LUPPE (Charlotte-Felicite), シャリーCharryの妻。 27
 歳。ヴェルサイユ生。
(marquise des Gouttes,Charlotte Felicite de Luppe.1766-94 王太子の随従係貴族
 Gentilhomme de la mancheで歩兵大佐、プロヴァンス伯スイス衛兵隊隊長・大佐だったリッペ
 伯爵comte de Luppeの娘。弟アンリ・ピエール・マリーがリッペ伯爵となり、王室騎銃兵部隊の
 士官となるが革命で亡命。マルティニック島に渡り、帰国後すぐに死去。一人娘も未婚のまま
 死去している。夫は marquis des Gouttes,Francois Antoine Aignan de Charry des Gouttes、
 1788年結婚。侯爵は海軍軍人で名高く、また1787年にchateau du Riauにアーサー・ヤングを
 招いたmarquis des Gouttes,Jean-Antoine de Charryの一人息子。この人は亡命貴族として逮
 捕、処刑されたが、夫の侯爵の没年は不明なので、妻のこの人だけが処刑されたのか。処刑
 日は4/1,4/2と諸説あるようだ。1735のシャルル・ニコラ・オスランは亡命者処罰に対して急進
 的な議員だったが、そのくせ亡命者を放免したり匿ったりし、逮捕、94年6月26日に処刑される
 だ、このオスランと関連した夫人である)

537. ジョゼフ・ヌグル NEGRE (Joseph), 61歳。農夫。ラヴァルガLavarga生。

538. ヴィクトワール・レニエ REGNIER (Victoire) , ラヴェルニュLavergneの妻。 26歳。アング
 レーム生。
(Monique Victoire Resnier 1762-94, 1786年に535と結婚。同日に処刑。26歳と記録あるが、ア
 ングレームのサン・タンドレ教会の洗礼記録からすると32歳。1790年に生まれた一人娘ジャン
 ヌ・マリー・ヴィクトワールは1813年アントワーヌ・レイモン・ド・カユザックAntoine Raymond de
 Cahusac 1778-1846に嫁いでいる)

1794年4月1日

539. アントワーヌ・ブロシェ(通称サン・プレスト) BROCHET (Antoine), dit Saint-Prest, 25歳。
 元カペ―の近衛。パリ生。
(アントワーヌ・ブロシェ・ド・サン・プレスト Antoine BROCHET de SAINT PREST 1769-94
父親は1984。姉Anne Floreの夫は2121。処刑時2歳だった娘 Anne Francoise Zoeは1808年
この姉と2121の息子 Amedee Nicolas Francois de GONDRECOURTと従兄妹同士で結婚する)

540. ルイ・シドン・コリヴェ COLLIVET (Louis-Sdion), 25歳。ラニーLagny生。

541. シャルル・ヴィクトワール・フランソワ・サラベリー SALLABERY (Charles-Victoire-Francois), 62歳。ブロワ自治体役員。パリ生。
(シャルル・ヴィクトワール・フランソワ・ディルンベリー・ド・サラベリー Charles Victoire Francois d'Irumberry de Salaberry 1733-94 
ブロワ会計院院長。
祖父はパリ会計院院長Charles d'Irumberry de Salaberry 1659-1734。父親は1717年大審部評定官、1719年会計院院長となったCharles
Francois d'Irumberry de Salaberry 1695頃-1750。母親はMarguerite Hermine Ogier 1710-73。一男二女の長男。妹Charlotte
Francoise Hermineは1748年会計官Pierre Dominique Hariague d'Auneauに嫁いでいる。末妹Marie Julie Charlotteは1751年Comte de
Pontgibaut,Cesar de Moure de Chaillier de Pontgibautに嫁いでいる。系図によっては末妹Marie Julie Charlotteは1730頃-1769で長姉と
あり、妹Charlotte Francoise Hermineは生没年不詳だが末妹としている系図もあり。嫁ぎ先の家格としてはこの方が正確かも知れない。
 この人は1766年高等法院評定官で会計院院長の三女Anne Marie Le Gendre de Lormoy 1742生{前夫は29歳で死別} と結婚し、一男
Charles Marie 1766-1847をもうけたが、この息子は90年亡命しドイツ、イタリア、トルコを巡り97年に匿名で旅行記を出版、92年〜93年は
コンデの亡命軍で士官として戦い、イギリスに亡命後はヴァンデで戦い、復古後も議員に就任し、結婚し三女三男をもうけている。
Irumberry de Salaberry家はもとはバスクのナヴァール王国の貴族家系。地中海作戦のLevant艦隊海軍大将Vincent d'Irumberry de
Salaberry 1663-1750もこの一族で、また船長Michel de Salaberryがカナダへ渡り、カナダでの政治家、陸海軍軍人としてもCharles-Michel
d'Irumberry de Salaberry 1778-1829やCharles-Rene-Leonidas d'Irumberry de Salaberry 1820-82等輩出している家柄。
尚、この人の父親Charles Francois d'Irumberry de Salaberryは183の母親Anne Charlotte d'Irumberry de Salaberry 1702頃-70の兄で
あり、従ってこの人は183のMarquis de Vernouillet,Albert Marie de Romeの従弟になる。
この人は1763年頃に歌手Marie Madeleine de Saint-Hilaireと関係したが、1764年頃はオペラ座踊り子のAnne Marie Xavier Mathieu 1747-
1802と関係しており、この踊り子はその後70年頃には従兄である183のMarquis de Vernouilletと関係している)

祖父・Charles d'Irumberry de Salaberry  
息子・Comte de Salaberry,Charles-Marie d'Irumberry

542. ユーロ―ジュ・シュネディエ(エウロニウス・シュネイダー) SCHNEIDER (Euloge), 37歳。訴追官。ヴィゼフェルドVyzefeld生。

 Eulogius Schneider 1756-94

1794年4月2日

543. ジャン・マルケ MARQUET(Jean), 27歳。牛飼い。シレーCyrai生。

1794年4月5日

544. クロード・バジル BAZIRE (Claude), 29歳。議員。ディジョン生。

 Claude Basire (1764-1794)

545. リュシー・サンプリース・ブノワ・カミーユ・デムーラン CAMILLE-DESMOULINS (Lucie-
 Simplice-Benoit), 33歳。編集者。議員。ギーズ生。
593の夫。

 Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulins(1760-94)

546. フランソワ・シャボ CHABOT (Francois), 37歳。人民の代表。サン・ジュニエ・ドルト Saint-
 Geniez-d'Olt生。

 Francois Chabot(1756-94)

547. ジョルジュ・ジャック・ダントン DANTON (Georges-Jacques), 34歳。議員。アルシ・シュル・
 オーブArcis-sur-Aube生。

 Georges Jacques Danton(1759-94)

548. ジャン・フレデリク・ディードランシァン DIEDERINCHEN (Jean-Frederich), 51歳。デンマー
 ク王宮の弁護士。リュクサンブール生。

549. フィリップ・フランソワ・ナゼル・ファーブル・デグランティーヌ FABRE DEGLANTINE
 (Philippe-Francois-Nazaire), 39歳。議員・カルカッソンヌ生。

 Philippe-Francois-Nazaire Fabre d'Eglantine(1750-94)

550. エマニュエル・フレー FREY (Emmanuel), 27歳。ブリュイアン(モラブィア)Bruyen (Moravie)
 生。

551. シモン・コトロス・ジュニウス・フレー FREY(Simon-Kotlos Junius) , 36歳。軍御用商人。ブ
 リュイアン(モラヴィア)生。

552. アンドレ・マリー・グスマン GUSMANN (Andre-Marie), 41歳。グラナダ(スペイン)生。
(Andre-Marie Guzman 1752-1794)

553. マリー・ジャン・エロー・ド・セシェル HERAULT DE SECHELLE (Marie-Jean), 議員。パリ生。
(Marie Jean Herault de Sechelles 1759-94 立法議会議員、国民公会議長、公安委員会委員。
父親はルエルグ歩兵連隊大佐Jean-Baptiste Martin HERAULT de SECHELLES 1737-59。
母親はマゴン・ラ・ランド家のMarie Marguerite MAGON de La LANDE 1742-95。2333のErasme
 Charles Auguste MAGON de La LANDEは叔父。また父Jean-Baptisteは元帥Louis Georges
Erasme de Contades 1704-95 と警察総監エローの二番目の妻 Marie-Helene Moreau de
Sechelles 1715-98 との子だったので、この人は元帥の孫となる。{父Jean-Baptisteは元帥旗下
に従軍中のミンデンの戦で戦死}。親戚の縁故もあり18歳にしてシャトレ検事に任命された。美貌
の青年弁護士にマリー・アントワネット妃は彼を宮廷に迎えスカーフを贈ったという。{彼はそれを
処刑時も身に着けていたらしい}後、ジャコバン党員になり、ダントンと共に処刑された)

 ..............................................................................................................................
Marie-Jean Herault de Sechelles...................................................................................................................................真の祖父・Marechal de Contades
真の祖母・Marie-Helene Moreau de Sechelles

554. ジャン・フランソワ・ラクロワ LACROIX (Jean-Francois), 40歳。議員。ポン・オードメル
 Pont-Audemer 生。

 Jean-Francois Delacroix ou Lacroix(1753-1794)

555. ジョゼフ・ローネー LAUNAY (Joseph), 39歳。議員。アンジェ生。

 Joseph Delaunay (1752-94)

556. ピエール・フェリポー(フィリポー) PHELIPPEAUX (Pierre), 35歳。議員。フェリエール
 Ferrieres生。

 Pierre Philippeaux (1754 -94)

557. マリー・ルネ・ソーゲ・デスパニャック SAHUGUER-DESPAGNAC (Marie-Rene), 41歳。
 僧侶。ブリーBrie生。 ( Marc-Rene Sahuguet d'Espagnac 1752-1794)

558. フランソワ・ジョゼフ・ウェステルマクサン WESTERMAXN (Francois-Joseph), 38歳。少
 将。モザンMotzen生。

 Francois Joseph Westermann (1751-94)

1794年4月6日

559. シャモワ男爵フィリップ BARRON DE CHAMOIS (Philippe), 66歳。元貴族。シャティヨン・
 シュル・アンドルChatillon-sur-lndre生。

560. ルイ・アナピエ HANNAPPIER (Louis), 45歳。林野特別管理者。オルレアン生。

561. ピエール・レイニエ REIGNIER (Pierre), 38歳。仕立屋。ポントワーズ生。

1794年4月7日

562. フランソワ・ジョゼフ・ビゾ BIZOT (Francois-Joseph), 50歳。モンタルジMontargis市長。ブ
 ザンソン生。

563. シュザンヌ・ドルイヤール DROUILLARD (Suzanne), ラモット・スノーヌLamotte-Senonnes
 (元貴族の566)の妻。33歳。サン・ドマングSaint-Domingue生。(⇒サント・ドミンゴ)
(Suzanne Drouillard de La Marre.1779年566のスノーヌ侯爵とナントで結婚。クレオール。)

 息子で王立博物館事務局長になったアレクサンドルがスノーヌの教会に建てた父母記念碑。

564. ジャン・フランソワ・ジュリアン JULLIEN (Jean-Francois), 60歳。市役所吏員。オリHoris
生。
(Jean-Francois Jullien 父親は Nicolas Jullien 1685-1753。母親はMarie Levesque 1733没。
この人は四男一女の四男。Marie Tavenetと結婚、二男を残す。長男は独身死去。次男Jean
-Charles Jullien 1766生 はモンタルジ裁判所主席検事になる。ジュリアン家はブルゴーニュ
で14世紀にはフロロワ男爵位を有していた高貴な家柄。2007のAntoine Jean-Baptiste
Alexandre Jullienとは同じ家系だが、5世代前に分岐した同族で「遠い親戚」)

565. エリザベト・テレーズ・ラコリー LACORIE (Elisabeth-Therese), ペリカールPericardの未亡
 人。69歳。パリ生。
(Elisabeth Therese DE LACORE、1725-94。娘Marie Michelle Henriette 1759-81が571に嫁い
 でいる。「Pericard」とは、1777没のHenry Jerome Pericard。この人の父親はCharles Etienne
 DE LACOREで平貴族、1690-1744。メーヌ連隊騎兵大尉だった)

566. フランソワ・ピエール・ラモット・スノーヌ LAMOTTE-SENONNES (Francois-Pierre), 36歳。
 元貴族。スノーヌ生。
(Marquis de Senonnes,Francois-Pierre-Louis de la Motte-Barace de Senonnes 1741-94.三
 部会の貴族議員。革命の時、プロヴァンス伯の主猟頭Grand-veneurだったので容疑がかけら
 れた。召使Henri Petotの密告により逮捕。美術収集家で名高い)

 息子で王立博物館事務局長になったアレクサンドルがスノーヌの教会に建てた父母記念碑。

567. シャルル・レオナール・ラヴィレット LAVILLETTE (Charles-Leonard), 45歳。モンタルジ国
 民議会議長。クラムシーClamecy生。

568. ジャン・ジョゼフ・ムーザン MOUZIN (Jean- Joseph), 28歳。公証人。ディジョン生。

569. マリー・ジョゼフ・イポリート・プレ・ヴァレンヌ PELE-VARENNES (Marie-Joseph-
 Hippolyte), 57歳。財務特別収入役receveur particulier des finances。サンス生。

570. ベルナール・ペルーショ PERRUCHOT (Bernard), 35歳。公証人。ディジョン生。

571. アントワーヌ・ルイ・サン・ジェルマン・ダプション SAINT-GERMAIN D'APCHON (Antoine-
 Louis), 45歳。野戦総監。パリ生。
(Antoine Louis Claude d'APCHON、1749-94。 モンロン侯爵marquis de Montrondの長男。但
 し侯は95年死去なので、この人の息子Antoine Henry d'ApchonがComte de Saint-Germain d'
 Apchonとなっている。しかしこの息子も96年没。つまり94、95、96年と三代が亡くなっている)

叔父のオーシュ大司教Claude Marc Antoine d'Apchon de Corgelon 1721-83 

1794年4月8日

572. アンジェリク・ボワリー BOIRY (Angelique), ブーファンBoufantの妻。50歳。ドゥエDouai
 生。

573. ルイーズ・アデライド・ダンクシャン DANQUECHIN (Louise-Adelaide), ラルダンLardinの
 妻。 27歳。577の妻だろう。

574. ジャン・ピエール・ダンクシャン・ドルヴァル DANQUECHIN DORVAL (Jean-Pierre), 41
 歳。市役所吏員。モンルイユ(セーヌ)Montreuil (Seine)生。

575. ジョゼフ・ルイ・ゴードロン GAUDRON (Joseph-Louis), 27歳。司祭。リムレーLimeray生。

576. ギョーム・ガンペル GEMPTEL (Guillaume), 26歳。料理人。ブルシーBresie生。

577. ピエール・サテュルナン・ラルダン LARDIN (Pierre-Saturnin), 31歳。ブドウ栽培者。ノジ
 ャン・シュル・マルヌNogent-sur-Marne生。573の夫だろう。

578. ジャンヌ・アグロンド・マルシイー MARSILLY ( Jeanne- Agronde), エニカHeniqacの妻。
 47歳。ディジョン生。

579. クロード・スーション(通称シャンソン) SOUCHON (Claude), ditChanson, 66歳。准将。モン
 トリマールMontelimart生。シャンソン⇒シャンロン
( Claude Souchon de Chanron,1728-94.国王評定官Claude-Antoine Souchonの息子。旧体制
 時より軍人)

1794年4月13日

580. マリー・マルク・アントワーヌ・バラス BARAS (Marie-Marc-Antoine), 30歳。トゥールーズ
 地区行政官。トゥールーズ生。
(Marie-Marc-Antoine Baras 1763-1794)

581. ジャン・ミシェル・ベイセ BEYSSER (Jean-Michel), 40歳。准将。リボ―ヴィリエ
 Ribauvilliers生。

 Jean-Michel Beysser 1753-94

582. ルイ・ギョーム・ブロッサール BROSSARD (Louis-Guillaume), 32歳。革命委員会の書記。
 タラスコン生。

583. マリー・セバスティアン・ブリュノ―・ラクロワ BRUNEAU-LACROIX (Marie-Sebastien), 25
 歳。革命委員会委員。

584. ジャン・パティスト・エルネスト・ブシェ BUCHER (Jean-Baptiste-Ernest), 43歳。メニル国
 民衛兵司令官。アミアン生。⇒ジャン・パティスト・エルネスト・ブシエール・ド・レピノワ。父・祖父
 と代々シャロンの会計院院長をしている法官貴族)

Jean-Baptiste Ernest Buchere de l'Epinois 1751-94

585. ピエール・ガスパール・ショーメット CHAUMETTE (Pierre-Gaspard), 31歳。ヌヴェール検
 察官。 ヌヴェール生。

 Pierre Gaspard Chaumette 1763-94

586. アルテュール・ディロン DILLON (Arthur), 43歳。師団長。ベイウィック(イギリス)Baywick
 (Angleterre)生。
(Arthur DILLON 1750-94 第11代ディロン子爵ヘンリー 1705-87とシャーロット・リーの三男。
イギリス生まれのアイルランド・カトリック貴族。フランスに仕えアメリカ独立戦争から革命戦争
至るまでの軍将。マリー・アントワネットのお気に入りで美女のTherese Lucy de ROTHE 1751-
82{従妹}と結婚。死別後クレオールのLaure de Girardin de Montgeraldと再婚。それぞれ一女
をもうけた。回顧録を出版したのは、最初の妻との娘)
(下図右の娘は晩年、「50歳の女の回顧録」を著し、革命期からナポレオンまでの回想を残し、
 死後1906年に公開された)

................................................................................................
 Arthur comte de Dillon (1750-94)
...............................................................................................................................................................................最初の妻・Therese Lucy de ROTHE
娘・Marquise de La Tour du Pin,Henriette-Lucy Dillon(1770-1853)

587. アントワーヌ・デュレ DURET (Antoine), 40歳。海軍士官。ロアンヌRoanne生。

588. ジャン・パティスト・ゴベル GOBEL (Jean-Baptiste), 67歳。司教。タンThann生。

 Jean-Baptiste-Joseph Gobel 1727-94

589. マリー・マルグリット・フランソワーズ・グーピル GOUPILE (Marie-Marguerite-Francoise),
 エベールHebertの未亡人。 38歳。パリ生。
(Marie Marguerite Francoise Hebert, nee Goupil 1756-94。500の妻。)

590. ジャン・ジャック・ラコンブ LACOMBE (Jean-Jacques), 33歳。年金受給者。カジャック
 Cajac生。

591. ジャン・フランソワ・ランベール LAMBERT (Jean-Francois), 20歳。リュクサンブール監獄
 門番。ドワーヌDoisne生。

592. ジャン・マリー・ラパリュ LAPALLUS (Jean-Marie), 26歳。国民議会裁判官。マトワン
 Matoin生。

593. アンヌ・リュシー・ラリドン LARIDON (Anne-Lucie-Philippe), カミーユ・デムーランCamille
 Desmoulinsの未亡人。23歳。パリ生。
545の妻。

 Anne-Lucile-Philippe Desmoulins, nee Laridon-Duplessis 1770-94

594. ギョーム・ラッサール LASSALLE (Guillaume), 24歳。アルプス方面軍副官。ブーローニ
 ュ・シュル・メルBoulogne-sur-Mer生。

595. ジャン・モーリス・フランソワ・ルブラッス LEBRASSE (Jean-Maurice-Francois), 31歳。憲
 兵中尉。レンヌ生。

596. ヌーリー・グラモン NOURRY-GRAMMONT, 42歳。革命軍副官。ラ・ロシェル生。

597. アレクサンドル・ヌーリー・グラモン NOURRY-GRAMMONT (Alexandre), 19歳。革命軍騎
 兵将校。リモージュ生。

598. エティエンヌ・ラゴンデ RAGONDET (Etienne), 46歳。輸送部隊指揮官。パリ生。

599. エドム・ラモー RAMEAU (Edme), 41歳。聖職者。オークセールAuxerre生。

600. フィリベール・シモン SIMON (Philibert), 議員。ルミイーRumilly生。
( Philibert Simond 1755-94)

1794年4月14日

601. ピエール・ボッス BOSSUT (Pierre), 32歳。シャトー・ルノーの検察官。シャトー・ルノー生。

602. フランソワ・シャルル・ガッテ GATTEY (Francois-Charles), 38歳。書店。オータン生。
(Francois-Charles Gattey 1756-1794。後者の兄。シャルトル公夫人やオルレアン公夫人のお
 気に入り書店で自著の発行物も多々。王党派としてトラブル多く、90年5月21日には民衆に襲
 撃もされている。92年10月5日閉鎖。94年3月捜索で王政復活の書類抑えられ、逮捕。処刑と
 なる。1795年1月18日、未亡人は書店の閉鎖解除の許可を獲得する)

603. マリー・クロディーヌ・ガッテ GATTEY (Marie-Claudine), 39歳。サン・ラザールの修道女。
 オータン生。
前者の姉。

604. ジャック・オーギュスタン・ルバルベリー・デルフルヴェル LEBARBERY-DEREFLUVEL
 (Jacques-Augustin), 元フランス衛兵隊大尉。元領主。パリ生。

605. アンリ・モリセ MORISSET (Henry), 39歳。ペルーズ Pereuse生。

1794年4月15日

606. ルイ・エティエンヌ・ブルヴェ(通称ボージュール) BREVET, dit Beaujour (Louis-Etienne),
 元暴君カペ―の弁護士。アンジェ生。
(Louis Etienne Brevet de Beaujour 1763-94)

607. エメ・コンランダン CONRANDIN (Aime), 31歳。元暴君の評定官。アンジェ生。

608. シャルル・マティアス・ダランソン DALENCON ( Charles-Mathias) 67歳。元伯爵。バル
 Bar生。

 Comte d'Alencon, Charles-Mathias 1724-94

609. ルイ・デューシク・ビューシク DIEUSIC-BIEUSIC (Louis), 45歳。憲法制定議会の議員。メ
 サンジュMesange生。 ⇒ デュージー伯爵ビュージー・ルイ

 Comte de Dieuzie ou Dieusie,Bieusie-Louis 1748-1794

610. ジャン・パティスト・ラルヴェリエール LAREVELLIERE (Jean-Baptiste), 41歳。メーヌ・エ・
 ロワール刑事裁判所長。モンテーニュMontaigne生。
( Jean-Baptiste-Louis Larevelliere 1751-94. モンテーニュは小さな町。父Jean-Baptiste-
 Josephはバス・ポワトゥーとバス・アンジュ―の副裁判長で国王の評定官。弟{下図}と共に法律
 を学び、革命後は議員に。処刑後、妻のVictoire-Marie Bergerは3人の幼子を残して34歳で亡
 くなる)


弟・Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux、1753-1824
93年追放されるがテルミドール迄、隠れて過ごし、クー
デタ後に政界復帰、総裁政府総裁になる。回顧録を残している。

611. マリー・ジャンヌ・レカール LESCALE (Marie-Jeanne), 52歳。ヴィヨVillot生。

612. ガスパール・ロジェ ROGER (Gaspard), 38歳。salpetrier(硝石業?)。ヌーヴィルNeuville
 生。

613. ジョゼフ・フランソワ・アレクサンドル・テシエ・デュクロゾー TESSIER - DUCLOZEAU
 (Joseph - Francois - Alexandre), 40歳。メーヌ・エ・ロワールの国民公会委員。 ロジエール
 Rozieres生。(Joseph-Francois-Alexandre Tessie Ducloseau)

1794年4月16日

614. フランソワ・クレマン・カスグレン CASSEGRAIN (Francois-Clement). 76歳。司祭。パリ
 生。

613. ジャン・ユエ HUET (Jean), 32歳。かつら師。オルレアン生。
(釈放後テュイルリー・セクシヨンの監視委員の監視下に置かれサン・フロランタン通り675番地
 のオテルに戻った914クリュッソル・ダンボワーズ侯夫人の監視委員をしていた)

616. ピエール・ラ・ペイル LA PEYRE (Pierre), 30歳。革命委員会委員。ラルシューヌ
 Larchesne生。
(釈放後テュイルリー・セクシヨンの監視委員の監視下に置かれサン・フロランタン通り675番地
 のオテルに戻った914クリュッソル・ダンボワーズ侯夫人の監視委員をしていた)

617. ピエール・ラヴィル LAVILLE (Pierre), 31歳。革命委員会委員。モンポンMontpont生。
(釈放後テュイルリー・セクシヨンの監視委員の監視下に置かれサン・フロランタン通り675番
 地のオテルに戻った914クリュッソル・ダンボワーズ侯夫人の監視委員をしていた)

618. ユーグ・ルイ・ジャン・ペルティエ・シャンブル PELLETIER-CHAMBURRE (Hugues-Louis-
 Jean), 37歳。従業員。トンネール生。
(Pierre Hugues Louis Jean PELLETIER de CHAMBURE 1757-94 父ユーグ1727-1804は宮廷
 評定官、高等法院評定官、Semur-en-Auxoisの国王代理官等を歴任。自身も国王評定官、
 Gabellesの財務将官Receveur general 、郵政監督官、アラスの兵站副管理官などだった。5歳
 から13歳の二女一男を残す)

619. ニコラ・スレロ SULLEROT (Nicolas), 30歳。大工。サンス生。

1794年4月17日

620: アコ(通称ティボー) ACOT dit Thibault, 23歳。ワイン商人。 アンティニーAntigny生。

621. ジョゼフ・ボード BAUDOT (Joseph), 44歳。ブザンソン生。

622. ジャン・ピエール・シャヨ CHALLOT (Jean-Pierre), 28歳。聖職者。シャトールー生。

623. ジャン・ドク― DECOUS (Jean), 70歳。司祭。トレイニャックTraignac生。

624. ピエール・ルイ・アンリ HENRY (Pierre-Louis), 33歳。インド商人。メジーMezy生。

625. イアサント・メルマン MERMIN (Hyacinthe), 30歳。靴屋。アヴァンセーAvancay生。

626. ジャン・ルイ・パントーヌ PANTONE (Jean-Louis), 31歳。菓子屋。バルBar生。

627. イアサント・スミーユ SIMILLE (Hyacinthe), 29歳。靴屋。アヴァンセー生。

1794年4月18日

628. マリー・シャルロット・ドボネール DEBONNAIRE (Marie-Charlotte >, ルペルティエ
 Lepelletierの妻。21歳。パリ生。
(Marie Charlotte DEBONNAIRE de FORGES 1763-94. 31歳。夫はLouis Francois Le
 PELLETIER de LIANCOURTで、生没年不詳だが、国王連隊の将校で、国王歩兵連隊の高級
 将校であり、亡命中に死去したがその際にフランス衛兵隊の大佐となった人物。父親Andre
 Charles DEBONNAIRE de FORGESも1793年4/24ギロチン。但しこの記録には当日の処刑者
 がいない。母親 Marie Claude Eulalie HARIAGUE de GUIBERVILLEも94年4/18にギロチン、
 634。母方祖父母も同日、635。祖母が記録にない)

629. アデライド・マルグリット・ドメルル DEMERLE (Adelaide-Marguerite) ,デュシローDuchilleau
 の妻。41歳。パリ生。
(アデライド・マルグリット・デュ・メルル・ド・ボーシャン Adelaide Marguerite du MERLE de BEAUCHAMP 1752-94。
父親は野戦総監でポルトガル大使{1757}を勤めたComte de Merles, Baron d'Ambert, Charles Louis du MERLES
de BEAUCHAMP 1720頃ー92{1724-93とも}。母親は大審部評議官で訴願審査官Marquis de Morasの娘Anne
Marie Peyrenc deMoras 1723-92。親は亡命していた。一族は13世紀に遡るドーフィネ、ボジョレー、フォレの貴族家系。
181のPierre Paul GILBERT de VOISINSの妻Anne Marie du Merle de Beauchamps 1751-1801は姉である。兄の
Comte de Beauchamp, Louis Francois Xavier 1750-1817は94年准将となり、逮捕されたが釈放され、スペイン、
アウステルリッツ、ロシア等で少将として戦い、Francoise Gabrielle Barnabee d'ELBENEと結婚、四女一男をもうけて
いる。弟Agricol Marie 1753-98はマルセイユ駐屯のRoyale-Marine連隊大佐、野戦総監だったが1790年4月9日亡命
の罪で逮捕。釈放されたが1797年9月5日再逮捕。{1798年6月8日夜、パリの自宅で逮捕とも}1798年7月1日処刑。
Marie Pierrette TOLOZAN de MONTFORTと結婚し一女がいた。
夫はClaude-Marie du Chilleau 1737-96。ポワトゥー貴族で1755年ノルマンディー連隊少尉から始まり、七年戦争を
転戦、Kloester Kamppenの戦いでは撃たれて頭部負傷の重傷。同年の60年大尉となり、74年大佐となり、84年准将、
88年野戦総監。革命後も軍務に就いたが、91年Bayonne第11師団の指揮をしている時、立法議会からの非難により
亡命を決意。92年スペイン経由でコンデ軍に加わった。コンデ軍の野戦総監で96年8月13日Ober-Kammlachの戦いで
戦死。94年3月31日にパリで獄死したサント・ドミンゴ総督のComte du Chilleau,Marie-Charles du Chilleau 1734-94の
従弟。三女二男があり、次女Anne Amelie Dominique 1783生 は1802年砲兵大佐のFelix de ROMAINと結婚している。
三女Agricole Floride 1786-1864は1808年レジオン・ドヌール勲爵士のPierre Prosper de TERVESと結婚し三男二女を
もうけている。他は夭折か生年の記録しかない。
尚、夫の兄Jean-Baptiste du Chilleau 1735-1825はChalon-sur-Saone司教でマリー・レクザンスカやマリー・アントワ
ネットの聴聞僧をしていた人物で1822年Tours大司教、pair de Franceとなる)
父・Charles Louis du Merle de Beauchamp 1720頃-92
義兄・Eveque de Chalons-sur-Saone, Jean-Baptiste du Chilleau

630. アンジェリク・ミシェル・デスタル・ベルクール D'ESTAL-BELLECOUR (Angelique-Michel),
 33歳。ロシア出仕の士官。パリ生。
(アンジェリク・ミシェル・デスタ・ド・ベルクール Angelique Michel d'ESTAT de BELLECOURT
1761-94
父親は Werneter連隊騎兵中佐Joseph Dominique de BELLECOURT 1766没。母親は
Baronne d'Estat,Jeanne Louise Catherine Voidet 1780没。{母親は2504の夫の愛人}
姉Emilie Lucrece d'ESTAT de BELLECOURT 1759-1816、妹Baronne de BILLENS, Catherine
Denise d'ESTAT de BELLECOURT 1764-94{335}がいた。(他にAugustine Josephine、94年ロン
ドンでスペイン宮廷の銀行家Juan Antonio Caresseと結婚、がいる)姉Emilie Lucreceはスペイ
ン外交官でルイ16世救出の為に200万の資金を活用して暗躍していた人物Jose Ocariz1750-
1805と通じていた{98年にパリで結婚。夫の活動に報いルイ18世より6000フランの年金が与えら
れた}。反革命的な自由主義の集まりに兄弟姉妹で出入りして人脈を増やしていた。この人は
ロシアでの長い勤務から91年帰国すると、パリ・コミューンの書記官Jean Claude Hippolyte
Mehee de La Toucheと繋がった。妹CatherineDeniseはイギリスの銀行家 William Herriesの兄
弟スコットランド生まれのWilliam Kerと愛人関係で、国際金融市場とのパイプを繋いでいた。
陰謀が露見すると姉は辛くもロンドンに逃れ、この人と妻{641}と妹Catherine Deniseは逮捕され
てしまい処刑された。
91年に結婚した妻Marie Jeanne de NOGUE 1760-94{641}は未亡人だったが、姉妹らの友人
だった。妻は636ラ・ボルド侯の姪で、1003コルブロン侯の妻の妹)

 妹・Catherine Deniseと。Vigee Le Brun画(1768-69)

631. アントワーヌ・ギュスターヴ・ジュネ GENEST (Antoine-Gustave), 27歳。銀行家。パリ生。

632. マリー・アドリエンヌ・ゴネル GONNEL (Marie-Adrienne), ヴィエルヴィルViervilleの未亡
 人。49歳。パリ生。

633. ルイ・ジョルジュ・グージュノー GOUGENOT (Louis-Georges), 36歳。東インド会社役員。
 パリ生。 (Louis-Georges GOUGENOT 1758-1794. 父親は東インド会社支配人)

父・George Gougenot de Croissy 1721-96 

634. マリー・クロード・アリアーグ HARIAGUE (Marie-Claude), 45歳。元貴族。パリ生。
( Marie Claude Eulalie HARIAGUE de GUIBERVILLE.1751-94 628の母。後者の娘。夫Andre
 Charles DEBONNAIRE de FORGESも93年4/24ギロチンだが、この記録にはない)

635. ピエール・アリアーグ・ド・ギベルヴィル HARIAGUE DE GUIBERVILLE (Pierre), 72歳。元
 パリ高等法院議長。パリ生。
(Pierre HARIAGUE de GUIBERVILLE 。前者の父。妻のEmilie Madeleine Olympe MOREAU
 de NASSIGNY 1723頃-94も同日処刑だが、記録にない)

636. ジャン・ジョゼフ・ラボルド LABORDE (Jean-Joseph), 70歳。元政府の銀行家。ジュカ(ス
 ペイン)Juca (Espagne)生。
(ラ・ボルド侯爵ジャン・ジョゼフ・ド・ラ・ボルド Marquis de La Borde,Jean Joseph de LA BORDE
1724-94 バイヨンヌのウール商人でスペインからパリに移り銀行家となったJean-Pierre La borde
1673-1739とMarguerite d'Aleman de Sainte-Croix 1687生 の長男。姉が3人いた。
伯父の貿易事業を引き継ぎ、ジョゼフ・ド・ラ・ボルドという従兄{この人が恐らく2411の父親の15人
の子の一人らしい}に商売を学び、その死後は事業を継承、植民地貿易商人として成功し、次々と
資産を増やしていった。七年戦争では政府に資金供給し、外相ショワズールを大いに助け、また
ショワズールの奨めで徴税請負人にもなった。しかし革命勃発で投資家・銀行家として逮捕・処刑
となる。
1760年Comte de Nettine 1749没 とオーストリア領オランダの女銀行家Barbe Louise Stoupy
1706-75の娘Rosalie Claire Josephe de NETTINE 1737-1815と結婚、六男三女をもうけた。
{義妹になるMarie-Louise Josephe de Nettine 1742-1808はMarquise de Removille}
長男 Francoisは1761-1802は銀行家で三部会貴族議員。次男Edouard 1762-86と四男Ange
1766-86は共に海軍大尉でラ・ペルーズの航海に参加し同日7月13日にアラスカで死去。{1786年
7月13日、2隻のロングボートと積み荷、及び21名の乗員がポール・デ・フランセ湾の激しい海流に
飲まれ遭難した事故}、三男Henri Francois 1764-1833はラ・ボルド伯で少将。長女 Pauline Louise
Josephe 1767-92はDuc des Carsの夫人となり、次女は夭折、三女 Nathalie 1774-1835は1769と
1749の孫と結婚しDuchesse de Mouchyとなり、またシャトーブリアンの愛人としても有名。五男
Alexandre 1773-1842は国務顧問官となり帝国伯で、パリ8区のラボルド通りはこの人の名に因ん
でいる。六男 Amedeeは弁護士で議員となった。
641の母親Jeanne Orosie de LABORDEは姉)

 ........................................
Marquis de Laborde,Jean-Joseph Laborde.........................妻・Rosalie Claire Josephe de NETTINE 長男・Francois

五男・Alexandreと三女・Nathalie  
  
義母・Barbe Louise Stoupyと義妹Marie-Louise Josephe de Nettine

637. マリー・ラローランシー・シャラ LALAURENCIE-CHARRAS (Marie), 42歳。シャラ生。
(Marie de Lalaurencie-Charras 1752頃-94 元貴族。未婚。ラローランシー・シャラ侯爵夫人ア
 ンヌ・ジャンヌ・ロエティエ・ド・ラ・ショーヴィヌリーAnne-Jeanne Roettiers de La Chauvinerie,
 marquise de Lalaurencie-Charras 1753-94の義姉。2人共にパリ近郊アニエールAsnieres在
 住。アニエールの人々は彼女たちの無罪を要求するが、形ばかりの裁判で死刑判決が下り
 た。但し、義妹の侯爵夫人の処刑は94年1/301/31もしくは1/20だが、本記録にはない。また
 兄のMarquis de Charras,Francois de LA LAURENCIE 1741-94も1/30処刑で記録にはない。
 尚、1795年の亡命貴族軍のキブロン遠征で vive le Roi ! と叫びつつ英雄的な戦死を遂げた
 ラ・ローランシ―司令官は侯爵の従兄にあたる)(シャラ侯夫人「150人の最後の手紙」P262)

638. フランソワ・マニー MAGNY (Francois), 24歳。軽騎兵。リモージュ生。

639. デジレ・ルネ・フランソワ・メナール・ド・ションシー MESNARD DE CHONSY (Desire-Rene-
 Francois), 64歳。カペーの忠僕。
(ディディエ・ルネ・フランソワ・メナール・ド・ショージーDidier Rene Francois MESNARD de
 CHOUSY 1730-1794 ヴェルサイユの会計参事官でブロワ城の管理長官)

640. ジャン・ディディエ・ルネ・メナール・ションシー MESNARD DE CHONSY (Jean-Didier-
 Rene), 35歳。ヴェルサイユ生。
(ジャン・ディディエ・メナール・ド・ショージーJean Didier MESNARD de CHOUSY 1759-1794 ル
 イ15世の愛妾オモルフィの娘Marguerite Victoire Le NORMANT de FLAGHAC と結婚してい
 る)

641. ジャンヌ・マリー・ノグ NOGUE (Jeanne-Marie), デスタル・ベルクールd'Estal-Bellecourの
 妻。36歳。バイヨンヌ生。
(マリー・ジャンヌ・ド・ノゲ Marie Jeanne de NOGUE 1760-94
父親はバイヨンヌ商人でポー高等法院秘書官Francois de NOGUE 1727-98。母親はJeanne
Orosie de LABORDE 1717-92で636ラボルド侯の姉。
姉のAnne Marie Therese de NOGUE 1751頃-86は1003コルブロン侯の妻。
1774年パリ高等法院評定官Jean Marie ROSLIN d'IVRY 1749-85と結婚し、一男をもうける。
死別後91年 Angelique Michel d'ESTAT de BELLECOURT 1761-94{630}と再婚。子の記録は
なし。夫が関わっていた陰謀は630参照)

母方叔父・Marquis de Laborde,Jean-Joseph Laborde  
姉・Anne Marie Therese de NOGUE

642. フランソワ・ミシェル・ペイマル PAYMAL (Francois-Michel), 29歳。奉公人。ヴェルサイユ
 生。

643. ブリス・プレヴォ PREVOT (Brice), 28歳。婦人用帽子店。サン・フォンSaint-Fond生。

644. ジャン・ロバン ROBIN (Jean), 43歳。従業員。ヴァランス生。

645. ルネ・ロラ ROLLAT (Rene), 32歳。元竜騎兵大佐。パリ生。
( ロラ伯爵ルネ・セバスティアン・ド・ロラ Comte de Rollat,Rene-Sebastien de ROLLAT, 1762
-94 91年に亡命していた。後者の息子)

646. セバスティアン・ロラ ROLLAT (Sebastien), 52歳。元貴族。ブレイヤックBreyac生。
(ロラ男爵セバスティアン・ド・ロラ Baron de Rollat,Sebastien II de ROLLAT 1740-94 やはり
91年から亡命していた。前者の父。2243、2244もRollat姓の元貴族だが、関係不明)

647. ピエール・アンドレ・テーセル TEYSSERE (Pierre-Andre), 53歳。書庫係員。マルセイユ
 生。

1794年4月20日

648. ジャン・ジャック・バルザック・フィルミ BALZAC-FIRMI (Jean-Jacques), 60歳。元貴族。
 トゥールーズ高等法院評定官。スネルグSenergues生。
(Baron de Firmi,Jean-Jacques de Balsac. 1734-94 在職1758-90)

649. テオフィル・ベルリエ BERLIER (Theophile), 69歳。シャティヨン・シュル・セーヌの林野監
 督官garde marteau des eaux et orets(??) シャティヨン生。
(ダントン派の議員で公安委員会にいた同名の甥は、テルミドールの後に政界に復帰、ナポレ
 オン時代に帝国伯爵となっている)

同名の甥Theophile Berlier (1761-1844) 

650. ジャン・パティスト・ガスパール・ボシャール・サロン BOCHARD-SARRON (Jean-Baptiste-
 Gaspard), 64歳。元貴族でパリ高等法院首席議長。パリ生。
(Jean-Baptiste-Gaspard Bochart de Saron 1730-94 数学者でもある。パリ9区にある公道
 La rue Bochart-de-Saronはこの人の名に由来。)



651. ピエール・ダニエル・プールレー・コルブロン BOURREE-CORBERON (Pierre-Daniel),
 77歳。元貴族でパリ高等法院評定官。パリ生。
(Baron de Corberon, Pierre Daniel Monthiers Bourree 1717-94 パリ高等法院第一審理部部
 長。1003の父。1982の祖父。1392の大審部部長評定官サットの妻カトリーヌ・マルグリットの
 父)

 
Baron de Corberon,Pierre Daniel Bourree, 1717-94  妻・Jacqueline Ursule Thiroux de Gerseuil, 1727頃-82頃


652. ルイ・ジャン・ネポミュセム・マリー・フランソワーズ・カミュ・ラギブールジェル CAMUS-
 LAGUIBOURGERE(Louis-Jean-Nepomuceme-Marie-Francois), 46歳。元貴族。パリ高等法院
 評定官。レンヌ生。
( Louis Jean Nepomucene Francois Camus de La Guibourgere 1746-94  パリ高等法院大審
 部評定官。政治家のComte de La Guibourgere,Alexandre-Prosper Camus de Pontcarre 
 1793-1851の父親)

653. フィリップ・ジョゼフ・マリー・キュサック CUSSAC (Philippe-Joseph-Marie), 67歳。元貴族
 でトゥールーズ高等法院評定官。トゥールーズ生。
( Philippe-Joseph-Marie Cussac トゥールーズ高等法院大審部評定官。在職1748-90)

654. アルマン・ギョーム・フランソワ・ドグールニュ DEGOURGNES (Armand-Guillaume-
 Francois), 37歳。元貴族でパリの議長。(パリ高等法院部長?)パリ生。

655. フランソワ・マテュー・デュポール DUPORT (Francois-Mathieu), 76歳。元貴族でパリ高等法院評定官。 パリ生。
(ダングリュール男爵フランソワ・マテュー・デュ・ポール Baron d'Anglure,Francois Mathieu du Port 1718-1794
父親はやはりパリ高等法院評定官Louis-Mathieu Duport 1726没。母親はAnne-Madeleine Hessein 1757没。三子がいた。
この人は 1756年、国王秘書官でBaron d'Anglureの娘Marie Madeleine Cabanelと結婚し、子のAdrien-Francois Duport 1759-98は下記。
 Baron d'Anglureの爵位は妻の家系から継承か? 妻には兄か弟のJean Baptiste Cabanel 1742-83がおり、トゥーレーヌ森林治水管理官を
しており、系図にはComte d'Anglureとあり、結婚はしているが恐らく子はないまま没している。
18世紀、Duport家はいわゆる司法貴族に属している。家系にはルイ14世弟オルレアン公の衣服係侍従だったFrancois du Portがおり、その子
Hyacinthe-Jerome Duportは1690年パリ会計院首席評定官、{その息子Nicolasも1722年同職に就くが子孫なし}、もう一人の子Louis Mathieu
Duportはパリ高等法院評定官。世代は下り、この人Francois-Mathieu Duportの子の1759年生まれのAdrien-Francois Duportは78年パリ高等
法院評定官となり、89年三部会パリ貴族議員となるが、フイヤン派に入り、パリ刑事裁判所所長となるが8月10日事件後に逮捕・収監、釈放さ
れスイスに亡命、テルミドール後に帰国するも97年のフリュクティドール18日クーデタで亡命、1798年スイスのAppenzelで没しているが、196の
Marguerite-Louis-Francois Duport-Dutertreとかなり近い行動である。しかし、この資料でDuport-Dutertre家とこのDuport家が連続的に書か
れているものの、その関連・接点が未記載で、個々の系図もすべて繋がらない。
ちなみにこのAdrien-Francoisは1782年パリ高等法院評定官Baron de Tubeuf et de Blanzat,Simon Claude Amable de Tubeuf 1725生 とElisabeth
 Louise Richard 1781没 の娘Amable Elisabeth Tubeuf de Blanzatと結婚し、一女Agathe-Henriette Duport 1788-1822をもうけ、貴族家系
de Baillon家に嫁いでいる)

息子・Adrien-Jean-Francois Duport  
息子の義両親・Baron de Tubeuf et de Blanzat,Simon Claude Amable de TubeufとElisabeth Louise Richard 

656. シャルル・ジャン・ピエール・デュピュイ・ド・マレー DUPUIS DE MAREE (Charles-Jean-
 Pierre), 69歳。元貴族でパリ高等法院評定官。パリ生。
(パリ高等法院大審部評定官)

657. オーギュスト・ルイ・ザシャリー・エスピアール・ド・ダルレー ESPIARD DE DALLERAY
 (Auguste-Louis-Zacharie), 63歳。ディジョン高等法院評定官。ディジョン生。
(Louis-Auguste-Zacharie Espiard 1732-94 ブルボン騎兵連隊大尉ダルレイ男爵ピエール・エ
 スピアールBaron d'Allerey,Pierre Espiardの子。アルレイ教区に城館がある)

658. アンリ・ルイ・フレディ FREDY (Henri-Louis), 74歳。元貴族でパリ高等法院評定官。パリ
 生。
(アンリ・ルイ・フレディ・ド・クーベルタン Henri Louis FREDY DE COUBERTIN 1721-94 近代オ
 リンピックの父と言われるクーベルタン男爵Pierre de Fredy, Baron de Coubertin 1863-1937
 は同族末裔)

659. ピエール・ジャック・バルテレミー・グニシェ GUENICHET (Pierre- Jacques-Barthelemy),
 27歳。元貴族。ディション生。

660. ピエール・ギユマン GUILLEMIN (Pierre), 29歳。橋と道の委員commis aux Ponts et
 Chaussee。ディジョン生。

661. アンリ・ギー・サリエ GUY-SALLIER (Henry), 60歳。元貴族でパリの部長(パリ租税法院
 部長?)ロシャンブレイRochambray生。
( Henri Guy SALLIER 1734-94 パリ租税法院la Cour des aides部長評定官。ラ・ロッシュ・ア
 ン・ブレニユ La Roche-en-Brenil生。後者は義兄。670ノル伯爵は娘婿とあるが、この人の娘
 は確認できない。長女のアンリエットは89年ダンジュヴィル・ド・ボーモンと結婚している。次女
 にアデライド・エリザベトがいるが結婚記録も生没年も不詳。そもそもノル伯爵は68歳である)

662. アントワーヌ・ルイ・イヤサント・オッカール HOCQUART (Antoine-Louis-Hyacinthe), 53
 歳。元貴族でパリ高等法院評定官。パリ生。
(Antoine Louis Hyacinthe HOCQUART 1739-94 前者の妻Eleonore Luce HOCQUART 1740
 生の兄。1674の従弟。1789年パリ租税法院長になっている。

妻・Portrait de la presidente Hocquart 
このAlexander Roslinによる「オッカール議長夫人」は、Roslinのフランスでの活動期間とその間のpresidentの肩書
あるオッカール一族の者を照合すると、このアントワーヌ・ルイ・イヤサントの夫人Agathe Therese CLOUET 1753-
1825の肖像であると思われる。

663. シャルル・ジョゼフ・ジュリアン JULLIEN (Charles-Joseph), 49歳。司祭。ジョワンヴィル
 Joinville生。

664. アンヌ・ジョゼフ・ラフォン LAFONT (Anne-Joseph), 60歳。元貴族でトゥールーズ高等法
 院評定官。トゥールーズ生。
(Anne-Joseph de Lafont-Rouis 在職1758-90)

663. アンヌ・ルイ・フランソワ・ド・ポール・ルフェーヴル・ドルメッソン・LEFEVRE-DORMESSON
 (Anne- Louis-Francois de Paul), 42歳。元貴族でパリ(高等法院?)議長。パリ生。
(パリ高等法院長ルイ・ルフェーヴル・ドルメッソンの息子。1789年には貴族議員選出。マルゼ
 ルブの家族と共にマルゼルブ城館で逮捕された。)

 Anne Louis Francois de Paule Lefevre d’Ormesson de Noyseau 1753-94

666. ミシェル・エティエンヌ・ルノワール LENOIR (Michel-Etienne), 38歳。元貴族でパリ高等法
 院評定官。パリ生。

667. ル・ペルティエ・ロザンボ LEPELLETIER-ROZAMBO, 46歳。元貴族で法官帽部長
 president a mortier。
(Marquis de Rosanbo,Louis V Le Peletier 1747-94 「ある城館の人々」参照。マルゼルブの娘
 Marguerite Therese de Lamoignon 692と結婚。妻は2日後に処刑される。娘シャトーブリアン
 伯夫人695、娘婿でかのシャトーブリアンの実兄688も処刑)

 Marquis de Rosanbo,Louis V Le Peletier(娘が描いた肖像画)

668. エドアール・フランソワ・マテュー・モレ・シャンプラトー MOLE-CHAMPLATREUX
 (Edouard - Francois - Mathieu) , 34歳。元貴族で、パリ議長(パリ高等法院評定官)。パリ生。
(1779年法務大臣Chretien-Francois de Lamoignon de Basvilleの娘・下図右と結婚。91年には
 家族で亡命していたが、帰国し逮捕。翌年釈放されるが93年また再逮捕。これも同年釈放され
 たが、94年再々逮捕。そして処刑)

................................
Edouard-Francois Mole1760-94  妻・Marie-Louise-Elisabeth de Lamoignon1763-1825はサン・ルイ慈善姉妹の
                      会創立者として2011年列福される。

669. ジャン・フランソワ・モンテーニュ MONTAIGNE (Jean-Francois), 64歳。元貴族でトゥール
 ーズ高等法院評定官。トゥールーズ生。
(ジャン・フランソワ・ド・モンテーギュ・ド・ラブールガード Jean Francois de Montegut de
 Labourgade 1729-94 在職1751-90 1386の父。休暇部評定官。17人のパリ高等法院評定
 官らと共に3時間の審問で死刑判決となり即日執行された。娘のMarie Therese Julie de
 Montegut 1761-1817はガスコーニュ貴族バッツ男爵Baron de Batz,Gaspard Francois
 Barthelemy Maurice Alexandre de Batz 1752-1827と結婚しているが、ほぼ同時期に同じ名で
 生きたあの有名なBaron de Batz,Jean Pierre de Batz 1754-1822とは別人である)

670. ニコラ・アンジェ・フランソワ・ノル NORT (Nicolas-Agnes-Francois), 68歳。元貴族で歩兵
 大佐。レンヌ生。
(Comte Nicolas Agnes Francois de Nort . 661アンリ・ギー・サリエの娘婿となるが、アンリ・ギ
 ー・サリエの長女のアンリエットは89年ダンジュヴィル・ド・ボーモンと結婚している。次女にアデ
 ライド・エリザベトがいるが結婚記録も生没年も不詳。そもそもこの人は68歳だからおかしい)

671. ジャン・パティスト・ルイ・ウルサン・ドビュル OURSAN-DEBURE (Jean-Baptiste-Louis),
 47歳。元貴族でパリ高等法院評定官。

672. エティエンヌ・パスキエ PASQUIER (Etienne), 58歳。元貴族でパリ高等法院評定官。パリ
 生。
(エティエンヌ・ピエール・パスキエ・ド・クーランEtienne Pierre PASQUIER de COULANS
1736-94 パリ高等法院評定官
父親はパリ高等法院評定官で士爵Denis-Louis Pasquier 1783没。母親はAnne-Therese
Gaultier du Bois 1713-87。
1766年徴税請負人の娘Anne Therese Nicole GAUTHIER des PREAUX d'HAUTESERVE
1748-94と結婚し、四男をもうける。この妻は94年4月21日パリにてギロチンともあれば、7月
21日死亡ともあり、WiKiでも夫の「20 avril 1794」の処刑は明記されていても、この人の生没
年は空白だったりしていて、一覧にも入っていないし不明である、
テルミドールで釈放された長男エティエンヌ・ドニは王政復古後に大臣となり公爵になる。
このエティエンヌ・ドニは2658の妹Anne Jeanne Sophieと結婚している。弟のジュール・ポール
1774-1858も国会議員となっている)

息子・Duc de Pasquier,Etienne-Denis 1767-1862 

673. ジョゼフ・ジュリアン・オノレ・リガン RIGANT (Joseph-Julien-Honore), 45歳。元貴族でトゥ
 ールーズ高等法院評定官。カストル生。
WiKiあり
(ジョゼフ・ジュリアン・オノレ・ド・リゴー Joseph-Julien-Honore de Rigaud 1748-94 トゥールー
 ズ大学法学部教授。トゥールーズ高等法院第一審理部の評定官在職1769-90だったが、89年
 トゥールーズの貴族議員となる。90年初のトゥールーズ市長にも選出。93年 4月、テルールの
 もと逮捕されるが6月に釈放。しかし政令「革命への執着を絶えず示していないすべての者を、
 理由なしに、または証拠なしに、即座に逮捕することを許可するために、容疑者の法律の範囲
 を拡大することを決定する」によって、「容疑者」と見なされ、8月再逮捕、トゥールーズ高等法
 院5人の元同僚の逮捕も同じだった。そして処刑された。74年Jeanne Gabrielle Elisabeth de
 Tournierと結婚、二男あり。後任のトゥールーズ市長 Marc Derrey de Belbeze は1789)

 Joseph-Julien-Honore de Rigaud 1748-94

674. バルテレミー・ガブリエル・ロラン ROLLAND (Barthelemy-Gabriel), 64歳。元貴族でパリ
 高等法院評定官。パリ生。
(ショボードワン伯爵バルテレミー・ガブリエル・ロラン Comte de Chaubaudoin,Barthelemy
Gabriel ROLLAND 1730-94
父親はパリ高等法院大審部評定官Pierre Barthelemy ROLLAND 1685-1761。母親はMarie
Catherine PICHON 1712-37。
1761年Francoise Marie BLONDEAU 1737-1814と結婚。娘 Marie Denise 1763-1829はパリ高
等法院評定官Antoine Francois Claude FERRAND 1751-1825と結婚するが、この夫は後にル
イ18世治下に国務大臣となる。
訴願審査部部長。1762年までイエズス会士。作家でもあり著作物多い。この人の同年生まれ{双
子?}の姉妹Catherine Marie ROLLAND 1730-99は2501の母親)

 Barthelemy-Gabriel Rolland de Chambaudoin d'Erceville

675. ジャン・フランソワ・マリー・ルーエット ROUHETTE (Jean-Francois-Marie), 27歳。元貴族
 でパリ高等法院評定官。パリ生。
(Jean Francois Marie ROUHETTE de VILLECLOS 1767ou68-94 兄Armand Nicolas Francois
 ROUHETTE de MONFORAND 1755生と妹Julie ROUHETTE 1770-1852の家系が現在まで続い
 ている)

676. レオナール・ルイ・サニエ・ド・マルドゥイユ SAGNIER DE MARDEUIL (Leonard-Louis), 50
 歳。元貴族でパリ高等法院評定官。シャロン生。
(レオナール・ルイ・ファニエ・ド・マルドゥイユ 1734-94 Leonard-Louis Fagnier de Mardeuil シ
 ャロン・シュル・マルヌ生)

677. ニコラ・サン・パレン SAINT-BLAIN (Nicolas), 40歳。元貴族で伯爵。パリ生。

678. ユルバン・エリザベト・セグラ SEGLA (Urbain-Elisabeth), 54歳。元貴族でトゥールーズ高
 等法院評定官。トゥールーズ生。
(Urbain Elisabeth de SEGLA  1736-94 7/6ともある。年齢も少し違う。1759-90在職。士爵)

1794年4月21日

679. アレクサンドル・ボーグラン BEAUGRAND (Alexandre), 50歳。サンス生。

680. アンドレ・ギュスタ―ヴ・ベルパコーム BELLEPACAUME (Andre-Gustave), 51歳。糸小間
 物商人。パリ生。

681. フランソワ・フィリップ・ドコー DECAUX (Francois-Philippe), 54歳。司祭。ルージュ・ムーテ
 ィエRouge-Mouthiers生。

682. マリー・エリザベト・ルイーズ・ドロテー・ドラランド(通称サント・エティエンヌ) DELALANDE
 (Marie-Louise-Elisabeth-Dorothee), dite Sainte-Etienne, 30歳。糸小間物商人。ペルサック
 Persac生。

683. ジャン・フランソワ・ジョゼフ・デカン DESCAMPS (Jean-Francois-Joseph), 28歳。 印刷
 屋。エルEre生。

684. アンドレ・クタン KETIN (Andre), 37歳。 問屋。リエージュ生。

685. ピエール・ラフォルグ LAFARGUE (Pierre), 55歳。販売代理業。コニャック生。

686. マリー・マルグリット・ジュヌヴィエーヴ・ルメール LEMESLE(Marie-Marguerite-
 Genevieve)、プーランBoulandの妻。50歳。

1794年4月22日

687. ヴィクトワール・ブーシェ・ロシュシュアール BOUCHER-ROCHECHOUART (Victoire), ポ
 ンヴィルPontville未亡人。49歳。パリ生。
(ロシュシュアール・ポンヴィル子爵夫人マリー・ヴィクトロール・ブーシェVicomtesse de
 Rochechouart-Pontville,Marie Victoire BOUCHER 1745-94 1757年 Louis Francois Marie
 Honorine de ROCHECHOUART-PONTVILLE, Vicomte de Rochechouart-Pontville 1744-
 1778 と結婚)

688. ジャン・パティスト・オーギュスト・シャトーブリアン CHATEAUBRIAND (Jean-Baptiste-
 Auguste), 34歳。元貴族で騎兵隊大尉。サン・マロ生。
(Comte de Chateaubriand,Jean Baptiste Auguste 1759-94 文学者で政治家で名高いフランソ
 ワ・ルネ・ド・シャトーブリアンの兄。亡命貴族軍に加わり転戦するが、財産確保の為に帰国し
 捕えられ処刑される。弟ルネには最愛の兄だった。妻は695。)


左から、弟・Francois Rene de CHATEAUBRIAND 1768-1848
妹・Lucile Angelique Anne de CHATEAUBRIAND 1764-1804
妹・Benigne de CHATEAUBRIAND 1761-1848

689. ベアトリクス・ショワズール CHOISEUL (Beatrix), グラモンGrammontの妻。 64歳。リュネ
 ヴィルLuneville生。
(グラモン公爵夫人ベアトリクス・ド・ショワズール・スタンヴィル Duchess of Gramont,Beatrix
 de Choiseul-Stainville 1729-94 サロンと書籍愛好家で有名。外相ショワズール 1719-85の妹。
亡命者に資金提供したとの容疑で処刑される。
夫はDuc de Gramont, Antoine-Antonin de GRAMONT 1722-1801で、59年結婚したが三度目の
妻であった。夫は初婚の Marie-Louise de GRAMONT 1723-56との間に男子、二度目の妻
Madeleine-Josephe FAUCONNIER 1784没 との間に女子をもうけていた。{二度目の妻は「結婚」
ではなく「関係」ともあるが、生まれた女子はCecile de GRAMONT 1750-1828で、73年Baron de
Vauxと結婚している。この夫との間に子はなかった。
また夫の弟の長女はマリー・アントワネット妃の主席女官となるGenevieve de Gramontで2585}

.....................................................................................................................
Duchesse de Gramont,Beatrix de Choiseul-Stainville
.......................................................................................................................................................................................夫・Duc de Gramont, Antoine-Antonin
兄・Duc de Choiseul,Etienne-Francois de Choiseul-Beaupre-Stainville

690. ジャック・デュヴァル・デプレメニル DUVAL-DESPREMENIL (Jacques), 48歳。元憲法制
 定議会議員。ポンディシェリーPondichery生。
(Jean-Jacques Duval d'Epremesnil 1745-94 1508は妻。貴族で、パリ・シャトレの弁護士。1777
 年高等法院評議官。革命後も議員。父親ジャック1714-1764 はマドラス総督で、東インド会社
 の管理官でインドの習俗に精通し、多くの危険を冒してバラモンの秘法を研究、著書も遺して
 いる。この人は初め Baron d'Oinvilleの娘Marie Madeleine des VAUX d'OINVILLE 1750-1770
 と結婚し一男をもうける。1786年1508のFrancoise Augustine "Eleonore" de SENTUARY 1749-
 1794と再婚、二男一女を得る。インド最後の総督ラリー・トランダル伯を糾弾して裁判に持ち込
 んだGeorges Duval de Leyrit は彼の叔父。彼は父との区別の為、Jacques Duval de
 Marefosseとも名乗った。 彼に93年9月7日逮捕命令が出、デプレメニル城館の近くのRouelles
 の隠れ家、次いで Marefosseの村落に潜伏したが逮捕される。メスメリストでカリオストロ等とも
 知り合い。自由奔放な上に反革命的なサロン活動をして革命政府から監視されていた妻も災
 いした)

 Jean-Jacques Duval d'Epremesnil 1745-94

691. フランソワ・エル HEL (Francois), 63歳。上ライン地区の司令官。ケセンハイム
 Kesemhem生。

 Francois-Joseph-Antoine Hell (ou de Hell) 1731-94

692. アントワネット・マルグリット・テレーズ・ラモワニョン・マルゼルブ LAMOIGNON-
 MALESHERBES (Antoinette -Marguerite -Therese), ルペルティエ・ロザンボLepelletier-
 Rozaniboの未亡人。パリ生。
夫は667。


Marguerite Therese de Lamoignon de Malesherbes 1756-94
「Antoinette de Lamoignon de Malesherbes」(同一生没年)が妻で、Marguerite Therese de Lamoignon de
Malesherbesは同一生没年のMarguerite Le Peletier de Rosambo 1756-1794というロザンボ侯ルイの娘であるとす
る説もあり。しかし1769年結婚のロザンボ侯と生年が不整合。この彫像も「マルゼルブの娘マルグリット・テレーズと
推定」とあるが、マルグリット・テレーズがロザンボ侯ルイに嫁いだ旨が記されている。このギロチン記録には、「アン
トワネット・マルグリット・テレーズ」と、両方の説が混合された形になっている・・・

693. クレティアン・ギョーム・ラモワニョン・マルゼルブ LAMOIGNON-MALESHERBES
 (Chretien-Guillaume), 72歳。元貴族で暴君の大臣。パリ生。
(Guillaume-Chretien de Lamoignon de Malesherbes 1721-94 旧体制下で租税法院長、出版統
 制局長、国務大臣。特に出版統制局長時代は啓蒙思想の書物の出版に寛大で、多くの思想
 家を擁護した。それでも革命後は命を賭けてルイ16世の弁護人を名乗り出る等、正義感に厚
 い人物だった。2人の姉922や娘たち692も処刑されている)

 Guillaume-Chretien de Lamoignon de Malesherbes

694. イザック・ルネ・ギー・ルシャプリエ LECHAPPELIER (Isaac-Rene-Guy), 39歳。元貴族で
 憲法制定議会議員。レンヌ生。
(彼も亡命者の財産没収を免れるためにイギリスより帰国して捕らわれ処刑された)

 Isaac Rene Guy le Chapelier 1754-94

695. アリーヌ・テレーズ・ルペルティエ・ロザンボ LEPELLETIER-ROZAMBO (Aline-Therese),
 シャトーブリアンの妻。パリ生。
(Comtesse de Chateaubriand,Aline Therese Le PELLETIER de ROSANBO 1771-94 688は
 夫。667は父。692は母。)

 Aline Therese Le PELLETIER de ROSANBO 1771-94

696. ルイ・ピエール・ムーセ MOUSSET (Louis-Pierre), 42歳。ドネリーDonneryの自治体検察
 官。サン・マンソーSaint-Manceau生。

697. ディアーヌ・アデライド・ロシュシュアールROCHECHOIART (Diane-Adelaide), デュシャトレ
 の未亡人。62歳。パリ生。
(Duchesse du Chatelet,Diane Adelaide DE ROCHECHOUART 1732-94 夫は1751年結婚した
 Duc du Chatelet,Louis-Marie-Florent de Lomont d'Haraucourt 1727-93 で233。義母はヴォ
 ルテールの愛人で有名なデュ・シャトレ侯夫人。子はなく、妹Zephirine de Rochechourt 1734-
 1773 の死後、その娘、つまり姪ディアーヌ・アデライド・ド・ダマ・ダンティニーを養子にする。こ
 の姪も革命で収監されていたが、生き延びて、デュ・シャトレ家の居城で、ヴォルテールの愛し
 たシレー城を革命後に取り戻している)

姪で養子・Diane-Adelaide de Damas d'Antigny, Comtesse de Simiane 1761-1835

698. ジャック・ギョーム・トゥーレ THOURET (Jacques-Guillaume), 48歳。元憲法制定議会議
 員。 ポン・レヴェクPont-Leveque生。

 Jacques Guillaume Thouret 1746-94

1794年4月23日

699. アントワーヌ・バルテルミー BARTHELEMY (Antoine), 40歳。行政権執行委員。リヨン生。

700. ジャンヌ・エリザベト・ベルトー BERTAUX (Jeanne-Elisabeth), 48歳。助産婦。ピティヴィエ
 Pithiviers生。

701. フランソワ・ボナン BONIN (Francois), 47歳。印刷屋。スーシャンSouchamp生。

702. ルイ・バンジャマン・カルメル CALMER (Louis-Benjamin), 44歳。両替仲介業。ラ・エイLa
 Haye生。

703. ジャン・シュマン CHEMIN (Jean), 50歳。枢機卿奉公人。ラニーLagny生。

704. マリー・ルイーズ・クートレ COUTELET (Marie-Louise), 36歳。 ジャコバン製糸工場の責任者。レンヌ生。
(Marie Louise Coutelet 1756-1794 系図では処刑時38歳となる。
父親はランスのパン職人親方Nicolas Coutelet 1727生。母親はランス生まれのJeanne Marie Quicheron 1721-91。
1778年サン・ジャック通りのジャコバン製糸工場の経営者Marie Francois Alexandre Neuveglise 1746-94以前 と結婚。
系図には子の記録はないが、1790年には5人の子供を持つ未亡人、とある。
153のMarie-Madeleine Couteletの姉。市民ランバンが93年10月6日、ボールペール区委員会にこの人を亡命貴族との
内通容疑{ケルンとの交信}で告発した。この人は麻糸工場の経営者ヌヴェグリーズの未亡人で、サン・ジャック通りと
現在のスフロ通りの間に工場があり、その中に居住していた。告発当日の夕方、委員らはこの工場内の住居に踏み込
んだが、階を誤り、妹の153の元へ行ってしまい、そこで押収した手紙の中に反革命的な政府批判、王妃擁護の記述が
あったのでこの妹も逮捕。姉であるこの人はその時は家に戻され解放された。妹は親とこの姉へ「最後の手紙」を残して
いる)

705. フランソワ・ガレー GALLAY (Francois), 50歳。奉公人。マルティニーMartigny生。

706. マルグリット・オリオン HORIONT (Marguerite), 50歳。労働者。ボーゴンBaugon生。

707. ジャン・フランソワ・ノエル NOEL (Jean-Francois), 34歳。ヴェルヌイユVerneuil生。

708. ジャン・ポムレー POMMERAY (Jean), 砲手。

709. アレクサンドル・プロヴァンシエール PROVENCHERE (Alexandre), 58歳。軍服支給管理
 者。サン・テスコビーユSaint-Escobille生。

710. フランソワ・アブラアム・ルグレーヌ REGLESNE (Francois-Abraham), 61歳。元貴族。ヨン
 ヌ l'Yonne生。

711. ルイ・リュー ROUX (Louis), 50歳。家具職人。ブールゴワンBourgoin生。

712. マテュー・シュヴェルガー SCHWERGER (Mathieu), 40歳。靴職人。ミューゼンガー
 Meuzenger生。

1794年4月24日

713. ジャン・パティスト・バルト BARTHE (Jean-Baptiste), 60歳。治安判事。ティオンヴィル
 Thionville生。

714. フランソワ・ショタン CHOTAIN (Francois), 31歳。かつら師。ヴェルダン生。

715. ジャン・ミシェル・コローツ COLLOZ (Jean-Michel), 72歳。ヴェルダンのベルディクト会
 士。ブイヨン生。

716. マルグリット・クルート CROUTE (Marguerite), 48歳。時計職人。ヴェルダン生。

717. アンリ・フランソワ・クロワイエ CROYER (Henry-Francois), 52歳。砲兵大尉。ラオンLaon
 生。

718. ジャック・ニコラ・ドープメニル DAUBEMESNIL (Jacques-Nicolas), 75歳。 ヴェルダン要塞
 指揮官。ドンブルメニルDombremesnil生。

719. ジュヌヴィエーヴ・エリザベト・ドーファン DAUPHIN (Genevieve-Elisabeth), ブリゴー隊長
 Brigaud未亡人。56歳。ヴェルダン生。
(ブリガンとも。勝利したプロイセン陣営にお菓子を届けた容疑で処刑。彼女はそれを否認して
 いたが)

720. ジェラール・ドプレ DEPREZ (Gerard), 50歳。憲兵。ジヴェGivet生。

721. フランソワ・フォルタン FORTAIN (Francois), 43歳。商人。ヴェルダン生。

722. ジャン・ゴサン GOSSIN (Jean), 69歳。ヴェルダン教会参事会員。フレーヌFrene生。

723. アンヌ・グラン・フェーヴル GRAND-FEVRE (Anne), タブーイヨTabouillotの妻。46歳。ヴェ
 ルダン生。
(初審裁判所検事の未亡人。その娘17歳のクレールとプロイセン陣営に砂糖菓子を届けに赴
 いたとあり、「明らかに敵の勝利を祝福した」として処刑。但し娘は年齢から免除)

724. アンリ・バルテレミー・グリモアール GRIMOARD (Henry-Barthelemy), 70歳。砲兵大佐。
 ヴェルダン生。
(Henry Barthelemy de Grimoard 1742年ヴェルダンの大隊副官。45年擲弾兵中尉。48年メッ
 ツ大隊の大尉。74年中佐。ボヘミア、フランドル、ドイツで13の作戦に従軍。46年の右脚銃創で
 負傷、60年捕虜となったり歴戦を経験、61年サン・ルイ勲章、退役した。92年プロイセン軍との
 ヴェルダン戦の敗北時、足の負傷で町から引き上げできず、また亡命貴族軍に従兄弟がいた
 こと等から容疑がかかり逮捕されていた。従兄の義理の甥で同族のグリモアール伯はアメリカ
 独立戦争など諸海戦で活躍した提督だったが、94年2/10ロシュフォールでギロチン処刑)

従兄の義甥・Comte Nicolas Henri de Grimouard 1738-94 

725. ガブリエル・アンリ HENRY (Gabrielle), 25歳。ヴェルダン生。

726. マリー・フランソワーズ・アンリ HENRY (Marie-Francoise), ララーヌLalanneの妻。 69歳。
 ヴェルダン生。
(ルランスとも。砂糖菓子は手配したが、それを届けてはいないと主張していた)

727. スザンヌ・アンリ HENRY (Suzanne), 26歳。ヴェルダン生。
(アンリ氏は元ヴェルダン法廷の議長。その娘である三姉妹(26歳・25歳・17歳)がブラウンスヴ
 ィック公の元へ送られたとある。742-744のヴァトラン姉妹のようにプロイセン軍を歓待したた
 めの処刑。744参照。17歳の娘バルブは処刑免除)

728. クリストフ・エルビヨン HERBILLON (Christophe), 70歳。ヴェルダンの司祭。ブーズイユ
 Bouzeuil生。

729. フランソワ・エルビヨン HERBILLON (Francoise), マッソンMassonの未亡人。暴君の検察
 官。55歳。ボンヌBonne生。
(744参照。砂糖菓子を手配はしたが、それをプロイセン陣営に届けてはいないと主張した)

730. ミシェル・ジューラン JOULIN (Michel), 31歳。憲兵。コルネCornet生。

731. クロード・エリザベト・ラコルディエール LACORDIERE (Claude-Elisabeth), 59歳。ヴェルダ
 ン教会参事会長。ジュヴィニーJuvigny生。

732. マルグリット・アンジェリク・ラジロージエール LAGIROUZIERE (Marguerite- Angelique),
 48歳。ドンゼDonze生。 (ドーゼ Douze?)
(ヴェルダン在住。地方裁判官ラジロージエールの娘。742-744のヴァトラン三姉妹と共にプロ
 イセン陣営に行ったので、敵軍勝利を祝ったものと見なされて処刑)

733. ニコラ・ラムレ LAMESLES (Nicolas), 47歳。マルゴ・ムーランMorge-Moulins生。

734. ギラン・ルフェーヴル LEFEBVRE (Guillain), 62歳。ヴェルダン教会参事会長。カルティニ
 ーCartigny生。

735. ニコラ・ミイー MILLY (Nicolas), 31歳。憲兵。ヴェルダン生。

736. ジョゼフ・ノワイヨン NOYON (Joseph), 57歳。中佐。ソワシSoisi生。

737. ジャン・パティスト・ペルグラン PELLEGRIN (Jean-Baptiste), 52歳。憲兵隊長。ゴンドルク
 ールGondrecourt生。

738. ジャン・パティスト・フィリベール・ペルラン PERRIN (Jean-Baptiste-Philibert), 50歳。薬剤
 師。ヴェルダン生。

739. ジャック・プティ PETIT (Jacques), 50歳。ブドウ栽培者。ヴェルダン生。

740. テレーズ・ピエルソン PIERSON (Therese), べステルBestelの妻。41歳。ジェニクール
 Genicourt生。

741. ピエール・テュイユール THUILLEUR (Pierre), 61歳。憲兵。ヴェルダン生。

742. アンヌ・ヴァトラン VATRIN (Anne), 25歳。エタンEtain生。

743. エレーヌ・ヴァトラン VATRIN (Helene), 22歳。エタン生。

744. アンリエット・ヴァトラン VATRIN (Henriette), 23歳。エタン生。
(元軍人の娘である三姉妹742-744で、プロイセン軍に従っていたとあり、725、727のアンリ氏
 の三姉妹のようにプロイセン軍を歓待した為の処刑だろう。アラン・ドゥコーの書物には、ヴェ
 ルダンでは明らかにプロイセン軍の勝利・入城を歓迎した住民たちについてのカヴェニャック
 議員の報告書から、プロイセン国王や将兵に「お菓子を捧げに赴いた」女性たちがおり、厳しく
 処罰されたとある。そのお菓子を手配した者、あるいはそれを捧げに陣営に赴いた者、それら
 が処刑されたが、ヴァトラン姉妹やアンリ姉妹についても名が挙がっている。但しヴァトラン三
 姉妹と732は陣営には行ったが、お菓子は持参していないと主張していた)

1794年4月25日

745. エティエンヌ・アレクサンドル・ジャック・アニッソン・デュペルロン ANISSON-DUPERRON
 (Etienne-Alexandre-Jacques), 44歳。国立印刷所監督官。パリ生。
(Etienne-Alexandre-Jacques Anisson-Duperon 1749-1794 新しい印刷機や良質の紙の製造
 に寄与した。革命時に所有地 Ris-Orangisに引退。chateau de Risなども所有していた。機材・
 書物コレクションは没収された)

746. フランソワ・グーロン GOURON (Francois), 35歳。製紙業。トゥール生。

747. ジャン・クロード・ジャケ JACQUET (Jean-Claude), 59歳。法律家。homme de loi, ロン・
 ル・ソルニエLons-le-Saulnier生。

748. ジャン・ニコラ・ラルマン LALLEMAND (Jean-Nicolas), 41歳。ウーデルモンHeudelmontの
 司祭。ドルーDreux生。

749. ジャン・パティスト・ルボー LEBAULT (Jean-Baptiste), 30歳。 アニッソン・デュペロンの
 receveur des proprietes(?)。パリ生。

750. ルイ・シャルル・ニコラ・エマニュエル・ルトフィエ LETOFFIER (Louis-Charles-Nicolas-
 Emmanuel), 68歳。農家。バノンBanon生。

1794年4月26日

751 アルマンド・アメデー・ヴィクトワール・バイヤール・トルースボワ BAILLARD -
 TROUSSEBOIS(Armande-Amedee- Victoire), ベルシーズBelleciseの妻。 18歳。元貴族。パリ
 生。
(Armande Amedee Victoire BAILLARD de TROUSSEBOIS 1776-1794 トルースボワ伯爵367
 の娘。夫は466でCharles-Bruno de Regnauld-Alleman de Bellescize。駆け落ち結婚し、父親に
 夫の亡命を密告され、帰国したところを夫は逮捕。自らも出頭し夫の後を追った。⇒「トルース
 ボワ伯爵の冷酷」参照)

732. ジャン・パティスト・ボジューエ BOJOUET (Jean-Baptiste). 43歳。タナンジュTaninges
 生。

753. ジョゼフ・フィリベール・クルトンCURTON (Joseph-Philibert). 44歳。サモアンSamoens生。

734. ジャン・ジョゼフ・デュク DUC (Jean-Joseph), 32歳。公証人。サモアン生。

733. ルクレール・バディロン LECLERC-BADILON, 52歳。憲兵。ティオンヴィル生。

756. フランソワ・アルベール・モンガン MONGIN (Fuancois-Albert), 34歳。御者。ジェニクール
 Genicourt生。

757. クロード・フランソワ・プラロン PRALON (Claude-Francois), 58歳。タナンジュ生。

758. ガブリエル・トラング・ラク TRINGUE LAQUE (Gabriel), 大尉。ユゼス生。

1794年4月27日

759. ピエール・グニオ GUENIOT (Pierre),ブドウ栽培者。ファヴィエールFaviere生。

760. ジャン・ピエール・ランベール LAMBERT (Jeans-Pierre), 28歳。肉屋店員。ギエンヌ
 Guyenne生。

761. クロード・トゥーサン・ルクレール LECLERC (Claude-Toussaint), 60歳。ブドウ栽培者。 ボ
 ーヌクールBeaunecourt生。

762. フランソワ・ジェルマン・サヴォワ SAVOYE (Francois-Germain), 42歳。 御者。ブゼル
 Bezel生。

1794年4月28日

763. ドニ・フランソワ・アングラン ANGRAN (Denis-Francois), 78歳。パリ生。
(元国王の評定官。亡命した子供たちへ資金を送っていたので逮捕・処刑。革命裁判所で「亡
 命者への資金援助が犯罪であることを知らないのか」とフーキエ・タンヴィルに問われたので彼
 は答えた。「いいえ、私はもっと神聖なことを知っている。それは子供らを養う親の義務だ」
 と。)

 ............
comte des Maillis,Denis-Francois Angran d’Alleray (1716-94)
                         妻・Marie Angelique Darlus 1724-1802
                                       娘・Marie Adelaide Angran d'Alleray 1773-1840

764. アルマン・ルイ・フランソワ・エドム・ベテューヌシャロ BETHUNECHAROST(Armand-Louis
 -Francois-Edme),23歳。元公爵。パリ生。
( Comte de Bethune-Charost,Armand Louis Francois deBethune1770-94 彼は血気盛んな
 活動家で、ベルギーのオーストリアに対する独立運動に革命前から参加、革命後は王党派か
 らは革命家と、革命政府からは貴族と目され孤立していた。一部革命家からの指示も得たが、
 彼は当地で自らが先祖の権限で首長になる野心だけを抱いていた。側近の裏切りで万策尽き
 ると、イギリスへ逃亡しようとしたが、依頼した船頭がイギリスのカッターを敵だと言って岸に戻
 ってしまい、彼は銃で自殺しようとし、失敗すると海に身を投げたが、結局連れ戻され、処刑さ
 れる。父の死後、家は断絶、90年に結婚した彼の妻が相続し、そのまま再婚先へベテューヌ・
 シャロ家の財産は移ってしまう)

 
                .........................................................................................  父・Duc de Bethune-Charrost,Armand Joseph de Bethune 1737-1800
母・Louise-Suzanne-Edmee Martel 1745-1779


765. マリー・マルト・ルイーズ・ド・ブラジュロング DE BRAGELONGUE (Marie-Marthe-Louise),
 veuve de パリ・モンブリュンParis Monbrunの未亡人。69歳。元貴族。パリ生。
(マリー・マルグリット・ルイーズ・ド・ブラジュロンニュ Marie Marguerite Louise de
 BRAGELONGNE 1725-94, 王軍高級将校Francois-Joseph de PARIS de MONTBRUN 1712-
 1786 と1746年4月17日結婚。父親はシャトレ、後にパリ高等法院評定官)

766. マリー・ニコル・ド・ブラジュロング DE BRAGELONGUE (Marie-Nicole), 67歳。元貴族。修
 道女。パリ生。
( マリー・ニコル・ド・ブラジュロンニュ Marie Nicole de BRAGELONGNE 1727-1794 前者の
 妹。ウルスラ会アルジャントイユUrsulines d'Argenteuil女子修道院長)

767. ジャン・ルイ・ブラヴァール・デルスタ・デュプラ BRAVARD DERSTAT DUPRAT (Jean-
 Louis), 50歳。元貴族で伯爵。ボンジャックBonjac生。

768. ジャン・ショピネ CHOPINET (Jean), 23歳。第七軽騎兵軍曹。ムーラン生。

769. ニコラ・フランソワ・オリヴィエ・デパリエール DESPALLIERES (Nicolas-Francois-Olivier),
 61歳。教会参事会員。ムーラン生。

770. ポール・ルイ・ドヴェイユ DEVEYLLE (Paul-Louis), 54歳。シャティヨン・ラ・ノラChatillon-la
 -Nona生。

771. シャルル・アンリ・デスタン ESTAING (Charles-Henry), 65歳。旧海軍提督で中将。ラヴェ
 ルRavel生。
(Comte d'Estaing,Jean Baptiste Charles Henri Hector 1729-94オーストリア継承戦争、七年
 戦争、アメリカ独立戦争とインド洋、南米、アメリカの諸海戦に活躍。提督位は92年。革命派に
 同情的であったが、王室に忠実な一族の伝統を守り、王妃に有利な証言などして革命政府か
 ら容疑をかけられ、逮捕。そして処刑された)

 Comte d'Estaing,Jean Baptiste Charles Henri Hector 1729-94

772. ルイーズ・アントワネット・ファルジョン FARJEON (Louise- Antoinette), ビュシーBussyの
 未亡人。68歳。元伯爵夫人。パリ生。
(Comtesse de Bussy,Louise Antoinette FARGEON 1726-94. 1741年にビュシー伯爵ルイ・フラ
 ンソワ・マルク・アントワーヌ・ド・ビュシー Comte de Bussy,Louis Francois Marc Antoine de
 Bussyと結婚。息子のビュシー伯フランソワ・ルイもヴァンデ内乱に参加し94年4月3日にアンジ
 ェで処刑されている。モンペリエ生まれとある。父親は会計評定官でモンペリエの財務官。マリ
 ー・アントワネット王妃の有名な調香師Jean-Louis Fargeon1748-1806は従兄アントワーヌの孫
 に当たる)

773. フランソワ・ジョゼフ・フェイド― FEIDEAU (Francois-Joseph), 30歳。大尉。メッツ生。

774. ジャン・マリー・アンジェリク・ガベ GABET(Jean-Marie-Angelique), 31歳。裁判所員。
 Commune affranchie生。

775. ジョゼフ・フィデル・ジノ GINOT (Joseph-Fidel), 28歳。弁護士。ポティエPottier生。

776. トーマ・グーフ GOUFFE (Thomas). 50歳。法律家。エティオルEtiolle生。

777. グランジェ・ラフェリエ―ル GRANGIER-LAFERRIERE, 56歳。准将。ポン・シャトーPont-
 Chateau生。
(Charles Grangier-Laferriere)

778. シャルル・イアサント・アンベール HUMBERT (Charles-Hyacinthe), 28歳。少尉。コミエ
 Comiers生。

779. シャルル・マリー・アントワーヌ・ジャルダン JARDIN (Charles-Marie- Antoine), 71歳。元
 シャトレ裁判所書記。

780. ピエール・ジャン・ジャン JEAN-JEAN (Pierre), 36歳。織工。コルメーColmey生。

781. ジャック・ジョゼフ・ジョケーユ(通称・サン・ティレール) JOCAILLE (Jacques- Joseph), dit
 Saint-Hilaire, 50歳。元貴族(?)。カンプレー生。
(Jacques Joseph Jocaille 1743-94 サン・ティレール・レ・カンプレーSaint-Hilaire-lez-Cambrai
 生。衣服の寒冷紗商人)⇒元貴族??

782. カトリーヌ・ルイーズ・ラモワニョン LAMOIGNON (Catherine-Louise), デトールメル
 Destourmelesの未亡人。 78歳。元侯爵夫人。パリ生。
(Catherine-Louise de Lamoignon de Baville 1715-1794 ,1750年にMarquis du Fretoy, Comte
 de Thiennes,Louis Auguste d'Estourmelと結婚)

783. ジャン・フレデリク・ラトゥール・デュパン LATOUR-DUPIN (Jean-Frederic), 元中将で、元
 戦争大臣。
(Jean-Frederic de La Tour-du-Pin Gouvernet 1727-94  ポーラン伯爵、ラ・ロシュ・シャレ―
侯爵comte de Paulin, marquis de la Roche-Chalais,1744年ブルボン騎兵隊の大尉、49年擲弾
兵大佐、57年サン・ルイ騎士、ギエンヌ連隊大佐、准将。87年に地方中将、野戦総監。89年8
月〜90年11月に戦争大臣。後者の従弟。また586ディロン伯の娘アンリエット・リュシーが嫁いだ
Frederic Seraphin de La Tour du Pin 1759-1837の父親)⇒WiKiあり

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Jean-Frederic de La Tour-du-Pin Gouvernet 1727-94
妻・Cecile Marguerite Seraphine Guinot de Montconseil 1733-1821

784. フィリップ・アントワーヌ・ガブリエル・ヴィクトル・ラトゥール・デュパン・グーベルヌ 
 LATOUR-DUPIN GOUVERNEY (Philippe-Antoine-Gabriel- Victor), グーベルヌ⇒グーペルネ
 72歳。元侯爵で軍の中将。フーランFourent生。
(Philippe Antoine Gabriel Victor Charles de La Tour du Pin Gouvernet 、ラ・シャルス侯爵、
 ラ・トゥール・デュ・パン侯爵marquis de La Charce , marquis de La Tour du Pin 1723-94 オル
 レアン公侍従長。 前者の従兄。また2013と2443に重複して記録されているラ・トゥール・デュ・
パン・シャンブリー伯爵 ラ・シャルス侯爵ルネ・シャルル・フランソワ・ド・ラ・トゥール・デュ・パン・
シャンブリー・ド・ラ・シャルスは、この人の祖父Louis de LA TOUR DU PIN de LA CHARCE
1655-1714の弟Rene Scipion 1708没の曾孫)⇒WiKiあり
王妃の裁判の日、裁判所側の人違いでこの人が出廷した際、王妃に向かってあまりにも恭しく挨拶したことをフーキエ・タンヴィルに咎められ、
それが故に断頭台に送られたとある「グーヴェルネというブルゴーニュの司令官」とはこの人だろう。

 Philippe Antoine Gabriel Victor Charles de La Tour du Pin 1723-94

785. クロード・ルメルティエ LEMELLETIER (Claude), 37歳。外科医。Commune affranchie生。

786. ピエール・マルタン MARTIN (Pierre), 55歳。オルレアン生。

787. シャルル・ピエール・セザール・メルゴ・モンタニョン MERGOT MONTAGNON (Charles-
 Pierre-Cesar), 50歳。暴君カペーの元近衛兵。ペリニーPerrigny生。

788. ガブリエル・ルイ・ヌーヴィル NEUVILLE (Gabriel- Louis), 63歳。元公爵・重臣にして暴君
 のフランス衛兵隊隊長。パリ生。
(ヴィルロワ公爵ガブリエル・ルイ・フランソワ・ド・ヌーフヴィル Duc de Villeroy,Gabriel-Louis-
 Francois de Neufville, 1731-1794。妻はジャンヌ・ルイーズ・コンスタンス・ドーモンJeanne-
 Louise Constance d' Aumont 1731-1816。1758年に近衛侍従兵第二中隊隊長、66年リヨン総
 督、81年中将。正妻との間には子はなく、コメディ・イタリエンヌの踊り子エティエネット・マリー・
 ぺリーヌ・ル・マルキEtiennette Marie Perine LE MARQUISとの関係で娘が1人いる。この娘
 Anne-Camille de Neufville de Villeroyは1770年ヴァッサン伯爵と結婚する時にはNeufville de
 Villeroyを名乗っている。エティエネットはその後、オルレアン公Louis-Philippe d'Orleans 1725-
 1785の愛人となり、6人の子をもうけた)

愛人Etiennette Marie Perine Le Marquis 1737-1806

789. エイマール・シャルル・フランソワ・ニコレイ NICOLAI (Aymar-Charles-Francois), 57歳。
 元大審理部部長。パリ生。
(ドニ―侯爵Marquis d'Osny,Aymar Charles Francois NICOLAI 1736-94. 1761年竜騎兵大佐、
 64年王室連隊大佐、71年パリ高等法院法官帽部長、74年大評定院部長。2020は弟。

790. ジャン・ニコラ・ニコラ NICOLAS (Jean-Nicolas), 52歳。 アルシクールArchicourt生。

791. マリー・ニコル・ペルネー PERRENEY (Marie-Nicolle), 43歳。ディジョン生。
(マリー・ニコル・ペルネー・ド・グロボワ Marie Nicole Perreney de Grosbois 1751頃-1794.グロ
ボワ侯爵Marquis de Grosbois1718-1810の娘。夫は795)

792. フランソワ・ジャン・ピカール PICHARD (Francois- Jean), 44歳。法律家で検察官。フォン
 トネ・ル・プープルFontenay-le-Peuple生。

793 アレクサンドル・バンジャマン・ロピケ ROPIQUET (Alexandre-Benjamin), 42歳。タバコ商
 人。ロンジーLongy生。

794. マリー・ルイーズ・ヴィクトワール・スールシェ SOURCHES (Marie-Louise- Victoire)
 veuve ヴァリエールVallieres未亡人。パリ生。
(Marquise de Valliere,Marie Louise Victoire du Bouche de Sourches 1739-94 。スールシェ侯
 爵ルイ1711-88の娘。母親はシャルロット・アントワネット・ド・ゴントー・ビロンCharlotte
 Antonine de Gontaut-Biron 1711-1740 。夫は陸軍中将ヴァリエール侯爵ジョゼフ・フロラン・
 ド・ヴァリエールMarquis de Valliere,Joseph Florent de Valliere,1717-76。夫は22歳上)

 Marquise de Valliere,Marie Louise Victoire du Bouche de Sourches

795, アントワーヌ・ジャン・テレー TERRAY (Antoine-Jean), 44歳。元貴族で知事。パリ生。
( ロジエール子爵 Vicomte de Rozieres,Antoine Jean Terray 1750-94。租税法院評定官から
71年パリ高等法院訴願審査部長、84年リヨン知事。共和国に敵対すべく武器を亡命貴族に手
配するために子供らを亡命させたとして夫婦で逮捕された。妻は791)

 Vicomte de Rozieres,Antoine Jean Terray 1750-94

796. ルイ・ティルー・ダルコーヴィル TIROUX DARCOUVILLE (Louis), 57歳。元パリ警視総
 監。
(ダルコーヴィル⇒ダルコンヴィル d’Arconville。マリー・ルイ・ティルー・ド・クローヌ 1736-94。
パリ高等法院予審部部長だった父親のルイ・ラザール・ティルー・ダルコンヴィルLouis-Lazare
Thiroux d'Arconvilleが「ダルコンヴィル」を名乗っているが、この人は「ド・クローヌ」で知られて
いる。1785年8月にルノワールの後任としてパリ警視総監。墓地を整備しカタコンブを設置、橋
上の家屋を撤去する等、名高い改革を実施した。89年7月17日辞任。下図右の母親は文学者
で解剖学者で著名、92年共に収監されたが、母親は生き延びた)

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Marie-Louis Thiroux de Crosne (1736-1794) 母・Marie-Genevieve-Charlotte Thiroux d’Arconville(1720-1805)

797. マドレーヌ・トゥーレ TOURET (Madeleine), 31歳。ムーラン生。




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